喘息の症状が悪化したのは、一年前の冬だった。
 主な原因の一つは「環境の変化にある」と担当医に告げられて、私は納得した。

 両親が亡くなったのは二年前、私が中学三年の夏のこと。
 祖父の家業である輸入家具の販売を継いだ父親と、それをマネジメントする母親。二人きりで細々と経営していたけれど、切り詰めていく生活は限界を迎えていた。

 ——本当なんで、そんなことで……。

 後見人として私たちを引き受けることになった、母の妹の礼実ちゃんは、私だけにそう告げた。
 ……そんなこと、なのだろうか。と、死を悼むより先に沸々と別の何かが込み上げる。

 ——自殺じゃあ、保険金は大して下りないわよね。
 ——こんな若くに、勿体ない。

 親族が放つ言葉の全てが、私を海底に沈めた。ずっと溺れているような息苦しさに支配しされ、結局私は、大人たちに反論することが出来なかった。
 仕事のことも、家庭のことも、喘息持ちの、だけど誰より健気で可愛い弟のことも。この人たちは何も知らないはずなのに、どうして簡単に言えてしまうの——と、窒息寸前の脳内で巡らせていた。

 ——おかあさん……、おとうさん……。

 呼吸の仕方を思い出したのは、幼くして“死”に触れた歩睦の肩を抱くことが出来たからだ。「あんな小さい子を残して」と、周りの大人が両親を非難しても、私は歩睦を守ることで堪えていた。私も、歩睦に守られていた。

 ——ここが二人の新しいお家よ。なにか不便があったらすぐに言ってね。

 両親の死を悼む暇を与えないように、変化の波が襲ったけれど、母よりも五つ若い礼実ちゃんとその旦那さんは、私たちを快く迎えてくれた。
 後見人の礼実ちゃんに、子どもが一人も居なかったことに、私は心底安堵した。安堵と一緒に、罪悪感も混ざっていたからかもしれない。子宝に恵まれなかった礼実ちゃんと、両親のいた頃よりも良い暮らしをすることへの罪悪感だ。

 元々古いアパート住まいだった私たちは、一軒家の門をよく閉め忘れた。学校へ送り出した後、礼実ちゃんがそっと閉めてくれていたのだと気がついたのは、結構最近のことだ。
 そんな暮らしが半年続いても、礼実ちゃんと叔父さんが私たちを叱ることは一切なかった。決して我慢をしているとか、物凄く気を遣っているという訳ではなくて、二人は根から温厚な人なのだ。
 特に母と妹の礼実ちゃんは全く違う。キビキビと働き、家事は最小限の労力でこなす母と違って、礼実ちゃんは夕飯の支度を、テーブルに並べる二時間前から取り掛かるような人だった。マイペースで、温厚で、笑うとほうれい線が二重に刻まれる。その笑顔で、特製のアップルパイをよく焼いてくれた。

 そんな礼実ちゃんが声を荒げたのは、一年半ほど前のこと。深夜だったので、私は歩睦を起こさないようにリビングを覗いた。電球色の光が、ダイニングテーブルを囲んだ二人の影を落とす。
 礼実ちゃんと叔父さんが、向かい合って座っていた。長く続く沈黙に、私の心臓は不吉な音を立てた。

 ——クビってこと……?
 ——……ごめん。
 ——そんな……、これから、二人のことだってあるのに……っ。

 度重なるパワーハラスメント、業績の伸び悩み、取引先からの圧力——叔父さんは会社で精神を病み、退職を勧められたのだ、と。後日、礼実ちゃんは静かに告げた。
 それから、深夜のリビングで家計簿を付けながら苛立つ礼実ちゃんは、別人のように痩せ細っていた。

 ——足りない……足りない……、これじゃあ、何の足しにもならない。

 礼実ちゃんの口癖が、眠る前の私の脳裏にも、こびりつくようになった。経済的に追い込まれた両親が自殺を選んだと知ったとき、『そんなことで』と言っていたのに——そう考えてしまう自分が、何よりも嫌だった。
 叔父さんの通院に付き添いながら転職活動をして、パートからフルタイムの職へ転向した礼実ちゃんは、よく家を空けるようになった。アップルパイも、あれからは一度も口にしていない。

 ——お姉ちゃん!おかえり!

 家に帰って、いつも迎えてくれるのは小学生の歩睦だけだった。私が帰ると、いつも玄関へ走ってきてくれるその笑顔に、救われていた。子どもの歩睦には、何も伝わっていないはずだった。

 ——難治性喘息ですね。
 ——え?
 ——原因を大きくまとめると、環境の変化です。

 発作の回数が増え、症状も酷くなっていった歩睦が診断されたその日、自分の甘い考えに辟易した。伝わっていない——なんて、見えているものだけに囚われた、身勝手な思い込みだったのだと思い知る。歩睦は、小さな体に見えないストレスを蓄積していた。
 その日は一時入院することにもなり、数日で症状は安定したけれど、今後はこれまでよりも高用量の吸入ステロイドと、定期的な生物学的製剤の注入が必要となり、二週に一度、定期検診へ通うことになった。

 ——お家の環境も、しっかり整えてあげてくださいね。

 そんな担当医の言葉を受け止めた礼実ちゃんの表情を、私は鮮明に覚えている。


「よく頑張ったね。歩睦くん」

 看護師が、定期検診と注射を終えた歩睦に微笑みかける。

「怖くなかったよ」

 と言う歩睦は、私のブレザーの裾を皺になるまで掴んでいる。その些細な強がりが愛おしい。

「他に、変わった様子はないかな。何かあれば、すぐに相談に来てくださいね」
「はい。分かりました」

 カルテへの入力を終えた医師が、柔和な笑みを浮かべた。礼実ちゃんの家に引っ越して、この病院に移り変わったのがもう随分前に感じられるほど、その笑みには安心感が宿っている。

「じゃあ、お大事にね。またね、歩睦くん」
「うん。ばいばい」

 診察室を後にすると、歩睦は自分の肩を私に寄せる。

「お姉ちゃん、お医者さんとお話してすごいね~」

 無邪気に言う歩睦に「そお?」と笑みが漏れる。

「大したことないって」

 広々とした院内の『小児科』と書かれた受付前で、処方箋を待つ。平日とはいえ夕方は混み合っているので、五分以上はこのままだろう、と長椅子に腰を沈めた。

「高校生って、いいなぁ」

 ランドセルを前に抱えた歩睦は、足を浮かせて言う。

「ええ?なんで?」
「大人だから」
「大人?」
「うん。むずかしいお話しができて、いろいろ、自分で決められてかっこいい」

 今日、さっき、背中で聴いた少女たちの言葉を思い出す。彼女たちと同じことを、歩睦も思っているのだろうか。

「……大人じゃないよ」
「え?」
「お姉ちゃんはまだ、大人じゃない。高校生なんて、まだ何の力もないんだよ」

 そうなの?と言いたげな顔で、無垢な瞳が私を覗く。その頭を優しく撫でると、掛かる前髪を避けるように瞳はきゅっと小さくなった。

「大丈夫だよ。歩睦は高校生にもなれるし、物怖じしない大人にもなれるから」

 なんだか罰が悪くなって、視線を持ち上げる。その先に映る人の行き交いはお年寄りに溢れていたけれど、もう随分見慣れたものだ。
 ——だからこそ、()を見つけるのは簡単だった。

「あれって、」

 エスカレーターの傍で、緑色のファイルを手にした青年に目を止める。この大きな県立病院では、罹る科によってファイルの色が振り分けられているはずだけど、緑色(・・)の行き先は、確か——。

「どうして……」

 エスカレーターに乗った彼を見据えて、私は目を眇める。約三ヶ月前、事故から復帰したはずの朝倉真冬が、上のフロアへと吸い込まれていった。