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 臨未ちゃんへ

 こんにちは。体調は変わりないですか?
 いきなりだけど少しだけ、私の話に付き合ってください。

 旅行に行くと聞いて、保護者として止めるべきか、本当は迷っていました。
 ドナーになったと聞いてから、臨未ちゃんを気に掛けていたつもりだったけど、私は何も見えていなかったような気がしています。ずっと、貴方や歩睦くんを正しく導かなければと、そんなことばかりを考えて、心に触れることを避けていました。
 臨未ちゃんがこの家に来てから、長い間留守にするのは初めてだったので、実は今もすごく焦っています。こんなときになっても、貴方の両親の顔が一番に浮かんでしまうのは、まだ私が保護者として未熟な証拠だと思います。

 高校生の貴方に、沢山のものを背負わせてしまった。その分、自由にさせてあげたいと思っていたけれど、それは、罪悪感を消すための建前だったのかもしれません。家族なのに、話を聞くことも、話をすることも出来なかったことが、一番悔やまれます。
 だけどもし、この家出が臨未ちゃんの小さな反抗なのだとしたら、私は嬉しく思います。貴方と向き合う機会と、自分自身に向き合う機会をくれたから。

 帰ってきたら、話をしましょう。話しにくいのなら、手紙でも大丈夫です。ボーイフレンドの話でも、もちろん。
 アップルパイを焼いて、貴方の帰りを待っています。

 礼実


 ————……。

 目蓋を持ち上げると、磨りガラスのようにボヤけた景色が視界を占める。それもしばらく時間が経てばクリアになって、真っ白な空間に包まれていることを理解した。
 辛うじて横目に映っているのは、点滴だろう。私は、病室に寝かされている患者のようだ。だけど、隣で聴こえる音はなんだろう。シャリ、シャリ、と響く音が、捉えきれない視界の端にある。
 私は体を起こそうと、ぐっとお腹に力を入れた。

「いぃっ……つ……」

 すると、鋭い痛みが走って、声が漏れる。

「えっ……臨未ちゃん?!」

 お腹を押さえて縮まる私を、誰かが覗き込む。その声を聴いて、私はまだ(・・)民宿にいるのかと錯覚した。視界に映ったのは、女将さんの顔だったからだ。

「意識、戻ったのね。良かったわ……」

 女将さんは私の肩を支えながら、安堵の息を吐いて言う。どうやら、しばらく意識を失っていたらしい。

「あの……ここって……」
「病院よ。ちょっと待ってね、いまナースコールを押すから」

 痛みが収まってきたところで、私は再び仰向けになる。シャリ、シャリと響いていたのは、女将さんがリンゴを切ってくれていた音のようだ。
 小さなまな板に寝かされた、果物ナイフが白い照明を反射する。無意識に目を眇めると、女将さんは何かに気付かされたように、ハッと息を呑み込んだ。

「ごめんなさい……、これは仕舞っておくわね」

 そう言うと、ナイフを急いでタオルに包む。その行動の意味を理解したのは、看護師さんから寝込んだ事情を聞いた後だった。


「——石川さんを刺してしまった子は、今別室で寝てるんです。ちょっと精神状態が普通じゃなくて、会うことは出来ないけど、石川さんが生きていると知ったらきっと、安心すると思いますよ」

 看護師さんの言葉を反芻しながら、湖での出来事を思い出す。あの子は、しっかりすべて(・・・)を伝えられたのだろうか。故意ではなく、誤って刺してしまったのだ——と。

「臨未ちゃん。叔母さんにも連絡させてもらうけど、大丈夫ね?」

 リンゴを小さな皿に盛った後、女将さんは言う。 
 寝込んでから、まだ二日しか経っていないと聴いたけれど、私が身元を偽っていたことはすでにバレてしまっているのだろう。
 罰が悪いまま私は頷き、スマホを耳に病室を出ていく女将さんと、窓の外を交互に眺めた。
 昼下がりの空を、電車が一直線に通過する。その高架線を囲うように建物が並んでいるので、ここは浜名湖の周辺ではなく、街中の病院なのだと判った。

「叔母さん、今日のうちには来られるって。すごく安心してたわよ」
「……そう、ですか」

 電話を終えた女将さんが、カーテンを丁寧に閉じて隣に座る。

「ここ、浜松駅の近くでね。叔母さん、仕事を早退して来てくれるって」

 なんとなく、胸が騒ぐ。同時に、夢の中で巡っていた手紙のことを思い出して、私は上着を探した。たしか、あのポケットに入れていたはずだ。
 女将さんに訊いてみると、上着はベッド横のクロークに入れてあったらしく、ポケットには思っていた通り手紙が入っていた。

「それ、叔母さんから?」

 女将さんは、優しく目を細めて訊ねる。

「はい。……一応、中は見たんですけど、あまり内容を覚えていなくて」
「無理もないわ。大変だったもの」

 手紙を握った手で、刺されたところをゆっくり擦る。刺し処が違っていたら、刃渡りの大きいナイフだったら、救急車の到着が遅れていたら——この命はいま、無かったかもしれないのだと、看護師さんは言っていた。

「そういえば、その……」

 目を上げて切り出したものの、私はすぐに口籠る。すると、女将さんは何かを察したように優しく微笑んだ。

「真冬くんと、辻宮さんのことね」
「え……」
「大丈夫よ。真冬くんとは兄弟ではないってことも、事情があったことも、二人からちゃんと聴いているから」

 二人のことだから、きっと深いところまで話してはいないのだろう。それでも女将さんは「大丈夫よ」と何度も頷いて、私の罪悪感を和らげてくれた。

「ごめんなさい。嘘をついて」
「いいのよ。私も、臨未ちゃんと話せてすごく楽しかったもの。それとね、あの二人とも色々話したのよ」
「え?」
「臨未ちゃんが一命を取り留めたって聞くまで、二人ともずっと手術室の前から離れなかったんだけど……どうにか、って聞いて安心したのか、モリモリご飯食べてたわ」
「モリモリ……」
「さすがは食べ盛りね。そのときね、真冬くんが言っていたの。臨未ちゃんは、一度家族でうちに来てくれたことがある、って」

 そういえば、そんな話をしていたっけ。数日前のことなのに、遥か昔のことのように感じられる。

「臨未ちゃんは、あのときの(・・・・・)臨未ちゃんだったのね」

 その言葉に、胸がじんわりと熱くなる。女将さんのなかに、幼い頃の自分と今の自分が同時に映されているような、不思議な気持ちになった。

「お味噌汁、一人で作れるようになっていたのね。ずっと、覚えていてくれたのね」

 女将さんの、目尻に刻まれた皺が深くなる。こちらこそ、と言えば、彼女は笑みを溢しながら真冬と香吏の話を続けた。

「出来る限り傍に居たいって、二人とも宿に残ろうとしてたのよ。本当にもう、愛が深くて」

 楽しそうに、女将さんは言う。

「だけど、叔母さんとバトンタッチ出来ることになってね。二人とも学校があるっていうし、辻宮さんの車で一昨日、帰ったところ」
「そうだったんですね」

 礼実ちゃんは仕事を抜けて病室を訪れ、時間の許す限り、私の手を握ってくれていたらしい。

「だけど、今日はどうしても外せない仕事があるって、私に相談してくれたの。私も二人の代わりに、って言ったらなんだけど、毎日来させてもらってたから」
「えっ……でも、民宿は?」
「大丈夫よ。私にも、ちゃんと頼れる人がいるから」

 その言葉に、私は安堵の息を吐く。そして、再び手紙に視線を落とした。

「ここに来て、私も気付きました。ちゃんと、頼ることの出来る人は傍に居たんだって」

 女将さんは深く頷き、ふんわりとした小さな手を私の手に重ねる。その温度に、不安が溶けていくような気がした。