今からちょうど、三年前——二〇二五年の二月に施行された『才能叡知吸入法』は、国内医療の発展を世界に示した。
近年、急速に発展を遂げたAI技術を駆使し、人間の脳脊髄液から“才能”だけを検出、吸引。その液を他者の脳髄へ注入することによって、才能を移植することが出来るという、最先端の医療だ。
その医療体制を整える目的で制定された『才能叡知吸入法』は、『才叡法』という略称で人々の注目を集め、施行の年には流行語大賞の候補にもなっていた。
その医療法のなかで、メディアでも大きく取り上げられていた要件は主に二つ。
‘一つ、才能提供者となることが出来るのは、身体・精神面の不調や障碍により、才能の行使および持続が困難である、と認められる者に限ること’
‘一つ、未成年であっても、才能提供者と移植希望者本人同士の合意のもとで移植手術を行うこと。ただし、本人が決断する意思(意識)を持たない場合はその限りではなく、審査を経た代理人が代行で合意することが可能であること’
それに加えて、才能を求める需要と供給を合致させる方法も、話題になっていた。いわゆる、マッチングサービスだ。
ドナーは検査によって得た才能証明を以て、そのマッチングサイトにドナー登録をし、才能を求めるレシピエントは検索をかける。条件を絞ったり、キーワードで検索したり——やり方は従来のマッチングアプリとよく似ているけれど、気になる相手を見つけた後がすごくシビアだ。
「二千万ね……」
呟いた唇から、白い息が漏れる。
ダッフルコートから生える首をマフラーで覆いながらも、脚には紺色ソックスを宛がうだけのアンバランスで、私は肩を竦めている。この辺りは日照率も高いし、寒さに凍えるような気候にはほとんど出会うことはないけれど、二月はさすがに、結構寒い。
外の冷気に晒されながら、私はスマホのスクロールを止めて、とあるドナーのページに飛んだ。
「『2.0の視力』かぁ」
画面に映るのは、行政が運営している 『アビリティー・フォー』というマッチングサイトの、ドナー検索ページだ。決して見やすくはないけれど、私のように、何度もこのサイトを行き来していれば、使いこなすのは容易だった。
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提 供 者:ニワ タケル
取 引 者:ニワ キョウコ(続柄:母)※代理証明認定済
才 能:視力 2.0
提供理由:提供者が植物状態となり、視力の行使が困難となったため ※診断証明認定済
金 額:2,000万円
備 考:提供後、ドナーである息子は失明状態となります。また——……
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博打だなぁ、と思うのと同時に、二千万は妥当だ、とも思う。
金額の理由を述べるように、息子が脳死状態になった訳と、母親の我が子を想う気持ちが備考にぎっしり綴られている。視力なら、例えばパイロット志望者などにも需要があるかもしれない。私が価格に納得したのは、同情だけではなく、こういうシンプルな才能は需要が高いことを知っていたからだ。
スクロールの最下部に青く浮き上がる『提供依頼』のボタンを押してみようか。と一瞬過ったけれど、その後の展開は私にも分からない。ボタン一つで、ニワさんの元に『提供依頼者が一件』と通知がいくかもしれない。恋人候補に『いいね』を押す感覚ではいけないのだ。
「ハァ——……」
白い息を空気に溶かし、鈍色の塀に背を凭れる。躊躇いを注いだスマホは、ポケットに沈めた。
——提示金額は、ドナーの皆様ご自身に決定していただきます。
——ただし、上限額は二千万円。マッチング状況が芳しくない場合は、後から引き下げていただいても問題ありません。
県立病院の広々とした個室で、医師でも看護師でもない女性から告げられた言葉を思い出す。
下ろせばきっと、肩に少し触れるくらいの髪を結い、ぽってりとした唇を小さく動かしながら、穏やかに話す人だった。
——ここが皆様、一番悩まれるんです。金額についての助言は、私たちスタッフや担当医からも出来かねますので、余計に。
穏やかだけど、ピシャリと言う人だった。嫌悪感はなかったけれど、ただ、怖いなと思った。
自分の値段を自分で決める。売れなかったら値段を下げる——オークションと何が違うのか判らなかった。そんなことが罷り通ってしまう世の中も、肝心なところで「出来かねます」と責任を逃れる国の大人も、怖いと思った。同時にこの時も、仕方ないな、と思った。
もし、他人によって才能に貼られる値札が、ドナーの想定よりも小さかったら。値札を作ってしまったその人は、袋叩きに合うだろう。ドナーだけでなく、弱者救済の物語に酔いしれる、匿名の、多くの人々に。
「あっ——!お姉ちゃん!」
弾んだ声が横から響く。私は堅くなっていた表情を、すぐに解して視線を下げた。
「歩睦」
軽く手を挙げると、体とはまだ少しアンバランスなランドセルを上下に揺らしてやってくる。小学校の門を潜った後で、歩睦は後ろの友人たちに大きく手を振った。
あと二ヶ月後に三年生になる歩睦は、姉である私の出迎えを、まだ喜んでくれるようだ。
「どうしたの?今日は礼実ちゃんが来るって言ってたのに」
歩睦は、姉のサプライズ登場に昂っている。丸い瞳がビー玉のように輝いて、白い息は蒸気のように溢れ出した。
「礼実ちゃん、お仕事が忙しいんだって」
「そっかぁ」
手を繋いで、道路脇を歩く。しばらくすると、
「あれって歩睦くんのお姉ちゃん?」
「うん。いいよねえっ、コーコーセイだって」
と話す、闊達な少女たちの声を背中に聴いた。そういえば、私も小学生の頃に、コーコーセイを「いいなぁ」と眺めていたことを思い出す。
いいなぁ、大人で。いいなぁ、自分の力で、何だって出来ちゃいそうで——そんなことを、純粋に思っていた。
「お姉ちゃん。今日は注射あるかな」
歩睦が、繋いだ手をギュッと握りしめる。
「んー……どうだったかな。でも、注射も頑張れるでしょう?」
「……うん。がんばる」
「よし。偉いぞ」
何度も通って体に馴染んだ道を、小さな歩幅に合わせてゆっくり歩く。さすが我が弟、と身体を擦り寄せると、俯いていた目がこちらを見上げて細くなる。
怖い、とは絶対に言わないけれど、やっぱり注射は嫌なのだろう。少し湿った丸い瞳に、胸が強く締め付けられた。
弟の歩睦は、生まれつき気管支喘息を患っている。
昔から周りの子よりも小柄で、華奢な体つきだったこともあって、両親も姉の私も、常に歩睦を気に掛けた。
幼稚園に通い始めた頃、歩睦は月に一度の検診を「怖い」「嫌だ」と拒むようになったけど、年中の頃には弱音を吐かなくなっていた。その理由を、私はこっそり教えてもらったことがある。
——スミレぐみのリンゴちゃんが、“ものおじ”しない男の子が好きだって言ってたから。……おねいちゃん、ものおじって知ってる?怖がりさんっていみなんだって。
注射を待つ間、震えた声で歩睦が言ったのを聴いて、私はその頭をグリグリと撫でた。本当にリンゴちゃんって名前なの?とか、リンゴちゃんのどこが好きなの?とか、緊張している歩睦に質問を重ねて、呼ばれた診療室へ逃げ込まれてしまったのを覚えている。
リンゴちゃんの宣言は効果絶大で、歩睦はそれから一度も「怖い」という言葉を吐かなかった。検診の前に「がんばる」と、頬に笑窪を刻む表情が健気で、無事に検査が終わった後にはいつも、丸い頭をグリグリ撫でた。