「でも、楽しかったのは本当。学校でも家でも、ドナーになってからは腫れ物扱いだったから。香吏くんは共通の友だちもいないから、話している間は全然別の世界に居られるみたいで、救われてた」

 そう告げれば、今度は「そうか」と照れ臭そうに視線を逸らす。その姿をしばらく眺めていると、左手がキュッと強く握られた。真冬の義手が、何かを訴えている。

「出来れば、僕がなりたかったな。その別の世界に」
「真冬は、ダメだよ」
「……なんで?」
「真冬は、私をこの世界に連れ戻してくれる人だから」

 握られた手が、少し緩まる。すると真冬まで、香吏と同じように視線を逸らした。この二人は雰囲気こそ違うものの、似た者同士なのかもしれない。

「だからね、今ね、礼実ちゃんが香吏くんの所に来たって聴いて、すごくビックリしてる」

 真冬の手を握り返し、持ち上がった香吏の視線を真っ直ぐ捉える。この二人が居てくれるのなら——私にはきっと、別の世界は要らない。

「それは当たり前だろう」

 香吏は言う。

「君に罪悪感を抱いていたとしても、大切な家族であることに、変わりはないのだから」

 私は、深く頷いた。

「礼実ちゃんに、嫌われたんだと思ってた。……向き合うのが、ずっと、きっと、怖かった。友達とも……家族とも」

 生暖かい粒が頬を伝う。右手には、礼実ちゃんの言葉が綴った手紙がある。

「伝えようよ。一度すれ違っても、終わらせるよりずっと良い」

 優しい声色で、強い意思の籠った言葉が流れ込む。

「……ありがと」

 そう言うと、真冬の左手がそっと涙を掬い上げた。

 *

 店を出て、車に向かうまでの間、鞭のように鋭い風に溶け込む梅の香に、私は一瞬酔いしれた。

「春が来るんだね」

 すっかり暗くなった道を走る車が、ブルンッと音を立てて静かになる。たしか、アイドリングストップと言うやつだ。

「急に叙情的になってどうしたんだ」

 香吏は、運転席からこちらを一瞥する。

「いいじゃない、たまには。梅の香りがしたから、そう感じただけよ」
「梅の香り……どんな香りだ」
「え、しなかった?たぶん、フラワーパークが近かったからだと思うけど。駐車場でさ」
「それは、答えになってないな」

 そう言われて、先ほど香りの残像を呼び起こそうとするけれど、上手くはいかない。それを言語化しろというのは、もっと無謀だ。

「どんなって、ちょっと上手く表現できないわ。それにもう、どんな香りか忘れちゃった」
「そうか。不思議なものだな」
「え?」
「その香りをしっかりと“春”に紐付けているのに、一瞬で忘れてしまうなんて」

 どこか切なげに、香吏は言う。

「……忘れても、きっと思い出せるよ」
「うん?」
「だって、春は必ず来るじゃない。一年経っても、しばらくその香りに出会えなくても——きっとまた思い出すわ」

 言いながら窓の外を見れば、木々の向こうで湖が揺れている。反射する白い月があまりに鮮明で、まるで湖に穴が開いているみたいだ。

「香吏くん」
「なんだ?」
「もっと近くで、湖が見たい」

 ——我が儘、聴いてくれる?
 運転席と後ろの席を交互に見ると、二人は同じように、眉を下げて笑みを溢した。


「俺は一度、車を宿に置いてくる。二人で先に行っててくれ」

 結局、民宿から歩いて行ける距離のサンビーチが良い、ということになり、私たちは香吏の車を見送った。宿に車を置くついでに、夕飯を一人分追加できないか、と女将さんに交渉するらしい。

「香吏くんがあんなに行動力あるなんて、知らなかった。あ、あっちだって」

 スマホのマップを頼りに、サンビーチの方向を指す。頷く真冬を振り返ると、彼は

「それは、臨未ちゃんのためだからだよ」

 と微笑んだ。

「今回に限っては、でしょう。きっと、本来は普通に行動力のある人なんだよ」
「本来は?」
「うん。香吏くんに、行動する根拠を与える友人とか、恋人がいないだけ」
「根拠……。臨未ちゃんも辻宮さんも、時々言葉選びが独特だよね」

 しばらく、サンビーチに沿って歩き、石段が見えてきたところで立ち止まる。ほんのり街灯にも照らされているし、ここなら香吏も見つけやすいだろう、と私たちは石段に腰を下ろした。

「あと、臨未ちゃんは、辻宮さんの前だと少し違う雰囲気があるよね」

 座った後も、真冬は続ける。ウィンドブレーカーの襟に口元を埋めながら、私は「雰囲気?」と復唱した。

「うん。口調が少し違うというか……、もしかして、辻宮さんと居るときの臨未ちゃんが、本当の臨未ちゃんなのかな、とか思ってしまって」

 真冬から溢れる息が、真冬の向こう側に攫われる。後ろから吹く風が、強く、冷たい。

「なにそれ。じゃあ、真冬と居るときの私は本物じゃないの?」
「えっ、いや、そういうわけじゃ……いや、そういう意味になる、よね」

 慌てふためく真冬に、窄めた唇を緩める。

「ウソ。ごめん、ちょっと仕返し」
「え?」
「偽物扱いされたから、怒ったフリした」

 そう言うと、彼は安堵したように息を吐く。

「嫌われてない?」
「嫌いじゃないし、偽物でもない」
「はい、すみません」

 向かいあった視線の隙間に、冷たい風が縫うように吹き込む。互いの鼻先を撫でられて、私たちは同じように肩を竦めた。

「嫉妬、した?」

 訊くと、真冬は素早く瞬きを繰り返す。

「それは、だって……辻宮さんの前にいる臨未ちゃんは、僕の知らない臨未ちゃんだし」
「うん。嬉しい」
「……嬉しい?」
「だって、真冬はもっと私を知りたくなった、ってことでしょ」

 違う?と首を傾げれば、彼の手が石段に置いた私の手にそっと重なる。

「知りたいよ。……臨未ちゃんの全てを知って、——あわよくば、君の居場所になりたい」

 湖を見たい、と出てきたはずなのに、目に映るのは真冬の瞳だけだと気づいて、なんとなく気恥ずかしい。思わず、湖へ視線を逸らそうとすると、彼の左手が視界を塞ぐ。そのまま、そっと頬を包まれて、唇にキスをされた。

「……強引」
「そうかな」
「真冬じゃないみたい」
「……うん。たまには、いいでしょ」

 うん、いいね。
 そう頷く間もなく、再び唇を掬われる。さざ波の音が、二人の静けさを引き立てていた。

「真冬と一緒に、ここに来られて良かった」
「それは、僕も」

 香吏がまだ来ていないことに安堵して、どちらからともなく湖へ向き直る。それでもまだ左手に触れている、布越しの右手が愛おしい。

「私、たぶんもう平気だよ」
「ん?」
「自分で、見るべきものが分かったから。ちゃんと、自分の揺るがない気持ちがあれば、天秤を傾ける必要なんてないんだって」
「天秤?」

 復唱する彼に、私は頷く。

「どちらが正しいとか、どちらの味方をしたらいいとか、傾けなきゃいけないことばかりじゃないから。……誰かが創造する弱さも、苦しみも、自分の秤に乗せる必要なんてないんだって、気づいたの」
「そっか……うん。確かに、そうだね」

 真冬は、優しい眼差しで覗き込む。
 その瞳の奥にもきっと、静かな天秤があるのだろう。彼が、自死を選んだお兄さんを「誰が何と言おうと尊い」と言ったように。

「傾けるだけじゃなくていいって思ったら、未来を、少しは楽しく待てる気がする」

 そう言って真冬を見つめると、彼は大きく息を吸い込む。そうして、しばらくの沈黙が過ぎ去った後で、

「未来を——」

 と、か細い声で反芻した。

「うん。そう。未来を、ね」
「……て、ことは、その——」
「一緒に、長生きしてくれる?」

 訊けば、彼の瞳が静かに揺れる。月明かりが湖に反射するよりも緩やかに、光が及ぶ。けれど、それは一瞬で消えてしまって、私は彼の腕に抱き締められていた。

「……長生き、しよう」

 鼓膜に流れ込む返事を聴きながら、プロポーズみたいだったかな、と今さら顔が熱くなる。

「ケーキセット、もし残しちゃったら、真冬が代わりに食べてくれる?」
「ケーキ?」

 体温が剥がれて、目の前に瞳が甦る。