「叔母さんが『どこに居るの』と青ざめていたんで、俺は言ったんだ。浜名湖方面に向かったらしい、と。一人ではなく仲間と一緒に向かったらしい、と」
「仲間って……」
「仕方がないだろう。君たち二人の関係性を、どう明言して良いか分からなかったんだ。……まあ最も、俺と石川くんの関係もそうだが」
「うん。確かに」
礼実ちゃんは、香吏にそのことを尋ねたのだろうか。そうだとしたら、香吏は何て答えたんだろう。
珍しく口籠る香吏の様子を想像して、思わず小さな笑みが零れた。
「だから、俺がここに辿り着けたのは、君の叔母さんのおかげでもある」
「え……どういうこと?」
「浜名湖と聞いて、思い当たる節があると叔母さんは言っていた。君が、かつてご両親と訪れた民宿があるのだと」
その言葉に、心臓が大槌を叩く。動揺を隠すためにも、何か発した方が良いと分かっているのに、唇は固まったままだ。
しばらく固まっていた私が、目線を彼から落としたのは、とある便箋がテーブルを滑ったからだ。香吏の指が、それをゆっくり私に差し出した。
「叔母さんからだ」
「……え?」
「『もし臨未ちゃんが私より先に、あなたに会う機会があるのなら、これを彼女に渡してください』と。伝言だ」
柔らかい和紙で出来た封筒を、私は受けとる。中身は決して厚くなかったけれど、重たいものを持つように、私は両手でそれを抱えた。
「君の両親が他界していることも、君に年の離れた弟がいることも、俺は何も知らなかった。だから昨日、叔母さんの話を聞いている内に、君のことを聞き出してしまった場面があった。それを、今謝りたい。すまなかった」
香吏は真っ直ぐに注いで居た視線を、少しだけ伏せて言う。そして、次に顔を上げたときには、いつもと変わらない実直な瞳があった。
「初めて会った頃、君が才叡法の話を切り出したのは、ドナーになって間もなかったからか」
私は手紙を抱えたまま、あやふやに頷く。
「確かに、あのとき話題に出したのは、タイムリーで身近な出来事だったから。だけど、私は香吏くんの答えを聞いてみたかっただけなの」
「俺の答え?」
「うん。『信じることが正義だというのは詭弁だ』って、めちゃくちゃ性格悪いこと言ってたでしょう。その後で『何事も自分自身の天秤が必要だ』って」
「性格が悪いは、いま必要なのか」
「不要ね。ただの失言」
少しずつ言葉を吐き出すと、乾いていた口のなかが徐々に解れていく。カップを傾けて飲んだコーヒーは、もう大分冷めてはいたけれど。
「そう言う香吏くんの思考を、知ってみたいと思ったのよ。あのときの私は、自分の意思で選んだはずの答えを疑っていたから」
「それは、ドナーになったことを、か」
「……ちゃんと、覚悟を決めたはずだったのにね」
歌を、一番聴いてほしかった相手はもうこの世にはいないのに。歩睦も、叔父さんも、礼実ちゃんも、皆が不自由なく暮らしていける足しになるのなら、それで良いと思っていたのに。
「失った歌声がどれだけ大切なものだったのか、失ってから気がついたのよ。死んでしまった両親と、私を繋ぎ止めてくれていたことも。……だから、歌えないならこの世にいる意味なんてない——って気持ちも、確かにあったわ」
手紙を持ったまま、テーブルの上に置いた手が小刻みに震える。温度のない布の感触が、それを優しく包み込む。
私は左隣に目をやって、唇を震わせた。ずっと黙っていた真冬の真剣な眼差しが、そこにあったからだ。
「大丈夫だよ。僕たち、全部受け止めるから」
彼が言うと、香吏も「ああ」と静かに頷く。
「俺も同じだ」
「……え?」
「石川くんの言葉で、君を知りたいと思っている。君との関係はうまく説明できなかったが、知りたいと思う他人は君が初めてだ」
香吏の言葉が、芯へ響く。
初めて出会ったとき、香吏が私に向ける視線はほとんど軽蔑に近かったはずだった。自分の意思もなく、思考を葬った脱け殻同然の私に、理解など示すことは出来なかっただろう。そんな彼が今の私に向ける眼差しは、陽だまりのように優しい。
不完全な私を好きだと言ってくれる真冬も、私を知りたいと言ってくれる香吏も、私から離れていったりしない。私たちの間には、きっともう、揺るぎない信頼の糸が紡がれている。
「私は、家族が大切なの。死んでしまった両親も、弟も、叔父さんも叔母さんも、みんな——」
震えた唇をゆっくり開く。二人の呼吸だけが、私の言葉を囲うように優しく響いた。
「両親が亡くなってから、弟の喘息が悪化して、叔父さんは過労で鬱になってしまって、叔母さんはその穴を埋めるように働いて……。そんななかで、歌手になりたいなんて夢を追っていることが、段々負い目になってた。高校を辞めて働くことも考えたけど、叔母さんがそれはダメだって。私のお母さんとお父さんに、合わせる顔が無くなるって言ってたよ」
——中卒で働いている人がダメなんじゃない。だけど、高校卒業はあなたの選択肢を大きく広げるの。私はこんなことで、臨未ちゃんの選択肢を奪いたくないのよ。
礼実ちゃんは、泣きそうな顔でそう訴えた。
「それなら、卒業前に出来ることをやろう、って。早く歌手になるための道を作らなきゃ、って思ったの。自分の部屋に籠って、誰もいない教室に籠って、ずっと歌ってた。レコード会社に送ったことだってあるんだよ」
「それは、偉いな」
香吏は、心の底から感心したように言う。
「でも、全部不合格。最初の関門さえ突破することは出来なかった。……きっと、聴く人には伝わってたんだね。焦りも、苦痛も」
「そんな……」
真冬は眉を八の字にして、私を覗き込む。何か言いたげだったけど、すぐに口を噤んだ。
「私じゃない、他の人の歌声が審査を通過していくのを見て、心に重たい雪が圧し掛かってくるみたいだった。……ううん……どっちかというと、海底に溺れてる感じかな。そうしたら、ある日、歌えなくなってた」
声は出せるのに、歌おうとすると途端に声が出なくなる。そんなことある訳がないと、気のせいだと何度も夜を明かしたけれど、私は沈んだまま、二度と浮上することは出来なかった。
「“歌唱時機能性発声障害”っていうんだって。声帯に問題はないけど、歌ったり、大きな声を出すことが出来ないんだ」
「それは……いつか、治る病気じゃないのか」
「そうね。治療をすれば、いつかは治ったのかもしれない。……でも“いつか”なんて、あの時は見えてなかった。見えない未来に投資をするのは、怖いでしょ?」
息を吐いて目を上げると、香吏はゆっくりと瞬きをする。彼がいつか言った通り、私はいつだって「未来のことを先に決める」ことが怖かった。
「——だから、売ったの」
再び、二人の呼吸だけが私を包み込む。
「礼実ちゃん……叔母さんにそれを打ち明けたとき、さすがに怒られるかと思ったわ。だって、鬱の叔父さんを署名のために利用したんだもの。……でも、全然怒られなかった。売価を見せたら、目を逸らして『ありがとう。ごめんね』って」
あれほど罪悪感に満ちた人の顔を、私は見たことがない。きっと、お母さんとお父さんに合わせる顔がない、と、礼実ちゃんは思っただろう。それでも、売価三百万という数字が小さくないことは確かだった。
「でも、それからかな。礼実ちゃんが私に『悪いな』って顔して接するようになったの」
「……君に、罪悪感を覚えたからか」
重々しく放たれる香吏の台詞に、軽く首を上下させる。
「おかげで、お小遣いもアップしたよね。香吏くんとのお茶代を、毎月捻出できるくらいには」
「なんだか、その、すまなかった」
「何言ってるの。いつも多めに出してくれてたじゃん」
「もしや、それが狙いだったのか」
「いや……そうじゃない、とは言い切れないかも」
調子よく笑って見せると、香吏は複雑に歪んだ表情でこちらを見据える。