——高屋敷とは関係のない、高屋敷になんの影響も及ぼされていない人たちによる、弱者救済ストーリー。

 画面をスクロールしながら言うと、香吏は「ああ」と頷いた。

 ——弱者は誰なのだろう。
 ——え?
 ——投稿している人間の、救済しようとしている弱者は誰なんだろうな。実力で勤しんでいる歌手なのか、オーディションに落ちた人なのか、はたまた才能提供者なのか。
 ——どれも、彼らにとっては弱者なんでしょう。彼らは、正義を纏っているつもりなんだもの。
 ——……それもそうだな。

 香吏は静かに声を落とす。そしてしばらく沈黙を続けた後、

 ——整形が発覚した女優やアイドルのようだ。

 と言って、私の瞳を見据える。視線を逸らさないまま考えて、腑に落ちた。

 ——ああ、うん。そうかも。
 ——加工に嫌悪感を持つ心理、だろうな。
 ——でもそれって、すごく勝手。

 香吏はまた「ああ」と頷く。私は一瞬だけ天井を仰ぎ、正面に戻してから一息に続けた。

 ——高屋敷ミオだって、整形する女優だって、本当は自分の力だけで花を咲かせたかったはずでしょう? そんなの誰だって同じじゃない。そのプライドを捨ててでも、表舞台に立てるチャンスを掴もうとすることの何が悪いのよ。……葛藤も過去も知らない輩が、何を勝手に論じてんのよ。

 ああもう、本当に素敵なセカイ——。
 最後にそう付け足すと、彼は珍しく頬を緩ませる。初めて目にする、笑顔だった。

 ——君は、平等にありたいんだな。


 香吏への信頼と言われて一番に浮かぶのは、やっぱりこの台詞だ。
 弱者救済の物語に酔いしれ、知りもしない苦楽を秤に乗せて浮き沈みを繰り返す——そんな天秤をフラットにしたいのだと、彼は読んでくれた。
 いま思えば、両親が亡くなったときも、学校でドナーになったと知られたときも、私はフラットな視線を求めていたのかもしれない。他人が創造する弱さも苦しみも、秤に乗せられることのない、私の静かな天秤を——。

 二人が帰ってきたのは、午後一時を過ぎた頃だった。

「おかえり」

 と言うと、玄関で並んで立つ二人は「ただいま」と声を重ねた。何を話してきたのか、心配していた真冬にも、もう緊張は見られない。

「すまなかったな。真冬くんを借りて」

 正面で迎えると、香吏は淡々と言う。こっちもこっちで、来たときよりもスッキリした表情を浮かべていた。

「本当だよ。で、何を話してきたの。男二人で」
「それは言えない」
「なんでよ。じゃあ真冬、教えて」
「う……」

 視線を向けると、ダッフルコートに包まれた肩がピクリと跳ねる。ゆっくりと沈んでいく視線に、私は口を尖らせた。

「ひどい。仲間外れなんて」
「いや……っ、そういう訳じゃないんだけど……ね、辻宮さん」
「ああ。心外だ」
「いいよいいよ。男二人で楽しんできたんなら、もうそれで。とにかく、寒いし中入ったら?」

 半ば投げやりに、腕を擦りながら私は言う。しかし、二人は靴を脱がないどころか顔を見合わせた。

「え、なに?入らないの?」

 眉を寄せて尋ねると、香吏の瞳が先に私を見る。

「ただいまとは言ったが、実のところ、俺たちは君を迎えに来たんだ」
「は?」

 なんだそれは。

「せっかくの天気だ。俺の観光に付き合ってほしい」

 香吏の言葉に、私はさらに目を眇めた。

 *

 香吏が運転する車に乗るのは、初めてだった。

「ねえ、本当にどうして来たの?」

 助手席に座った私は、懲りなく尋ねる。けれど香吏も変わらず、

「観光だ」

 と、中々本心を晒さない。一旦諦めて、私は窓の向こうに流れる景色を見据える。そこには緩やかな波紋を作る湖が、一面に広がっていた。

「本当……海みたい」

 思わず呟くと、後ろに座っている真冬が相槌を打つ。

「だよね。海みたいで、終わりがないみたいだ」
「終わりがない?」
「うん。湖には必ず終わりがあるって分かってるのにさ、ずっと続いているんじゃないかって、錯覚しちゃうよね」

 シートの隙間から後ろを見ると、真冬も同じように流れる景色を見据えている。その瞳はどこか切なげだ。

「終わりはないぞ」

 その瞳も、私の視線も、唐突な香吏の声に目を向ける。

「終わりがない?」

 香吏はこちらを一瞥して頷くと、すぐに前へ向き直る。カフェではいつも正面に座っていたせいか、横顔を見るのは新鮮だった。

「ああ。浜名湖は海水と淡水が混ざり合っている汽水湖(きすいこ)と言うんだ。つまり、太平洋と繋がっている」

 もう一度窓の外を見ようと振り返ると、景色が静止する。赤信号だ。

「そう、なんだ」
「繋がってる……」

 私と真冬、それぞれの反応に、香吏は深く頷く。

「海水と淡水の栄養素が集まっているから、生物も豊富だそうだ」
「へぇー……本当、よく知ってるよね。香吏くん」
「ここへ来る前に調べたんだ」
「ああ、なるほどね」

 香吏が事前リサーチに勤しむ様子が目に浮かんで、笑みを溢す。それからも、私たちより後にやって来た香吏が「あそこはオルゴールミュージアムだ」とか「この辺りは湖西市といって、県内の最西端だ」などとガイドを続けた。
 とある観光スポットに着いたのは、車を走らせて十数分経った頃だ。

「香吏くん……本当にここ、来たかったの?」

 車を降り、私は訊く。ああ、と頷く香吏が歩く先には『はままつフラワーパーク』という看板が掲げられていた。

「香吏くんがフラワーパーク……」
「僕は好きだよ。花とか見るの」

 大学院生の背中を見据えながら、隣を歩く真冬の言葉に苦笑を浮かべる。

「真冬は、なんか分かるんだけど。香吏くんが花を愛でる姿は想像できなくてさ」
「そうかな。辻宮さんは格好いいし、どこでも順応できそうだけど」
「……本当、二人で何を話してきたんだか」

 探るように真冬を見つめると、彼はばつが悪そうに笑う。大方、香吏に口止めでもされているのだろう。
 諦めの度合いも濃くなったところで、香吏から入園チケットを受け取る。ここはどうやら奢りらしく、私たちは素直に甘えた。
 突然の頭痛に額を抱えたのは、ちょうどゲートを潜った後のこと。最近頻発している頭痛だったけど、今回はより鋭く響いた。

「臨未ちゃん……?」

 真冬は心配そうな顔で私を覗き込む。園内マップを眺めていた香吏も、こちらを振り返っていた。

「うん……、大丈夫。ちょっと頭痛がして」

 キンッ、キンッ、と杭を打たれているかのような痛みが、連続で訪れる。額を押さえた私の肩を、真冬がそっと支えてくれる。
 ……確か、コンビニで買った薬が鞄に入っていたはずだ。

「ごめん。水だけ、買って来てほしくて」

 鞄を探りながら言うと、あまり時間が経たない内にペットボトルを差し出される。傍にあった自販機で、香吏が買ってくれたらしい。

「頭痛と言っていたが、大丈夫か?」
「うん。いつものことだから」
「いつも?」

 薬を飲んでいる間、首を傾げた香吏に真冬が「たぶん、女性特有の——」と、少し気まずそうに耳打ちしていた。そういえば、ここに来たばかりの時にそんな話をしていたっけ。

「どうする。戻って休んだ方が……」
「いや、ダメでしょ。チケット買っちゃったし、それに薬飲んだから大丈夫」

 紳士的な振る舞いをはね除けると、香吏はクスッと笑みを漏らして、

「やっぱり君は、守銭奴だな」

 と楽しそうに言った。

 その後は静かな園内を巡っているうちに痛みも消え、花の香りを存分に吸い込んだ。といっても、季節柄咲いている花は多くなく、春に向けて準備をする蕾たちを見つめては、じゃあね、と手を振る流れを繰り返した。