確かに、そうかもしれない。実際の家族や友達とはもちろん違うけれど、接客とはまた違う種類の温かさを、女将さんから感じることができる。

「関係に名前を付けなくても、臨未ちゃんが長身さんを信頼していることは、見ていてよく伝わったわ」
「え……そうですか?」

 真冬が来る前のやりとりのことを言っているのだろうか。私は緑茶を口に含んだ。

「何て言うのかしら。この人には “踏み込んでも大丈夫” っていう信頼が、臨未ちゃんにはあるのかぁって。当然のようで、当然じゃないのよ」
「なるほど……?」
「そういう人なら、きっと大丈夫よ。真冬くんも、長身さんも」

 女将さんはそう言った後、客間からブランケットを差し出して

「体だけ、冷やさないようにね」

 と去って行く。
 私は湯気の収まった緑茶に視線を落として、彼女の言葉を反芻した。

「……信頼……」

 声とともに香吏の顔を浮かべてみると、確かに間違いではないような気がする。私が彼に抱いている気持ちは、友情でも愛情でもなく、信頼だ。


 香吏と出会ったのは、真冬と出会うよりも前で、才能提供者(ドナー)の手術を受けるよりも後のこと。
 あの頃、私は放課後まっすぐ家には帰らず、制服姿のまま夕刻の街を歩いていることが多かった。

 ——お姉さん。髪サラッサラだね、お姉さん。

 見知らぬ男に声を掛けられ、振り返ったのもその夕刻。ナンパかと思ったけれど、その男は沢山のチラシを腕に抱えていて、小綺麗なスーツを纏っていた。スーツなのにネクタイは派手だし、耳や鼻にピアスが空いていたので、夜の仕事の人だとすぐに分かった。

 ——うち、こういうのやってるんだけど興味ない? お姉さんくらい若い子も全然いるし、変な話、周りの子のアルバイトよりも全然稼げちゃうんだよね。

 興味なんてない。そう言い切れなかったのは、“稼ぎ” というフレーズに後ろ髪を引かれる思いがあったからだ。

 ——私、高校生です。

 未成年であると知れば、相手は静かに引いてくれるかもしれない。そんな望みが微かにあった。
 いま思えば、才能を失くしたばかりで空洞だった私は、自分の意思で何かを決めることに迷っていたのかもしれない。叔父に無理矢理サインをさせ、才能を売ることが果たして正しかったのか、と——自分を疑っていた。

 ——学生さんね。いや、そんなのどうとでもなるよ。あぁでも、校章とかは隠してもらった方がいいかな。

 しかし望みとは裏腹に、男はあっけらかんとして言った。

 ——そう、なんですか……。
 ——うん、全然平気だって。良ければ見学だけでもして行く? 店の雰囲気とか見てもらえたら、絶対気に入ると思うし。無理強いするようなことはないからさぁ。

 気づけば、そこまで言うのなら、と私は足を踏み出していた。男の手が私の肩に軽く触れると、空洞が少し埋まっていくような感覚さえあった。
 私は私の選択を、見ず知らずの男に委ねようとしていた。

 ——何をしている。阿呆か君は。

 そのとき、振り子のように揺れる私の手を引いたのが、香吏だった。怒っているというより、憤っている人間を、初めて間近に見た気がした。
 空洞を埋めていた男の体温が剥がれ、代わりに生温い風が肩を撫でる。自分を攫って行く男の背を、私はぼうっと見据えていた。

 ——コーヒーは飲めるか?
 ——……飲める、けど、
 ——ミルクとシロップは?
 ——シロップ、だけ。

 正面に佇むスタイルの良い男は、逃げ込むように入ったカフェの一番奥で、アイスコーヒーを二つ注文してから私を見た。

 ——君は、何を考えているんだ。あの男が怪しい勧誘をしていたことくらい判っただろう。

 響いたのは、歯切れの良い声と言葉だった。

 ——……はい、まぁ。
 ——俺が強引に連れ出さなかったらどうなっていたと思う。

 なんでこの人は、わざわざ見知らぬ少女を前に説教なんてし出すんだろう。余程暇なのか、仕事でストレスでも溜まっているのだろうか。
 眼鏡の奥にある瞳から目を逸らして、私は小さく息を吐いた。どうせ「ご両親が悲しむ」とか「犯罪に巻き込まれる」とか、そういうことを言うんでしょう。

 ——あのまま付いていったら、君の意思は消えていくことになるんだぞ。
 ——え?

 予想とは反する台詞に、私は目を上げた。

 ——君はあの場で考えることを放棄していた。自分を放り出そうとしていた。違うか?
 ——……どうして、そう思うの。

 静かに問いかけると、彼の答えより早くコーヒーがテーブルに置かれる。空調が効きすぎている店内で、氷いっぱいのアイスコーヒーは湯気を立てているように見えた。

 ——見ず知らずの男の話をすんなり受け入れていただろう。信じることが正義だというのは詭弁だ。何事も自分自身の天秤が必要だと、俺は思っている。
 ——つまり、疑うことから始めるってこと?
 ——悪く言い換えればそうだな。疑いというのは、探求し、逡巡するということにも繋がっている。もっとも、俺の研究もその類いだが。

 顔に似合わずよく話す人だな、と思った。けれど、彼の理屈には納得できる点も多かったからか、私は刻んでいた眉間のシワを徐々に伸ばした。

 ——じゃあ例えば、才叡法ってどう思う?

 アイスコーヒーを含んだ後、気づけばそう訊いていた。

 ——それは、才能叡知吸入法のことか。
 ——そう、その制度について。
 ——抽象的すぎる。話題を振るのなら、もっと具体的に訊けないのか。

 ……ああ言えばこう言う。私は内心溜め息を吐きながらも、懸命に言葉を探した。
 私がこの人に訊きたいことは、一体なんなのだろう。彼に疑って欲しいことは、なんなのだろう。

 ——才叡法ってさ、いまネットですごく批判されてるの。知ってる?
 ——ああ。才能提供者のアイデンティティー問題について、よく目にするな。
 ——そうなの。『才能提供者が持っている才能を移植することは、その人の個性損失に関わる』っていうの。

 ネットやSNSで流れてくる、反響の大きい話題だった。
 そもそも才能を行使出来なくなった人がドナーの対象になるのだが、それを『無駄にしない』と放った政治家の発言について、『少子化だからさ、才能を行使できずに社会貢献できない人間は“無駄”ってことじゃん?』『自由に動ける人間に移植して、個性を失くせって言いたいのかよ』と、批判が及んだ。
 それらの投稿はインプレッションも多く、蔓延し、さらには移植希望者(レシピエント)への中傷も目立つようになって、もう火だるま状態だった。

 ——貴方は、その問題についてどう思う? 才能提供者を擁護する人たちの声を、どう疑う?

 数秒の静けさのなかに、店内の陽気な音楽が注がれる。夏を感じさせる、ウクレレの音も微かに聴こえた。

 ——そうだな。

 と、彼は真剣な表情で唇を割る。

 ——擁護するのは勝手だが、正義を振りかざすのはお門違いだ。それに、いつまでも擁護者のままではいられないだろうな。
 ——それは、どうして?
 ——よく考えてみれば分かる。才能提供者は、才能を対価に金を受け取っているわけだろう。加えて、診療費や手術費は税金で賄われている。

 私は、自分が病院で受けた説明と一つも間違っていないことに、衝撃を受けた。少し強引な彼のことを、知見の広い大人なのだと感じた。

 ——つまり、才能提供者は社会のなかで優遇されているんだ。生活保護を受けている人や、年金で暮らしている人と立場はよく似ている。その人たちを批判する意見を、君も見たことはあるだろう。
 ——うん。そうね、あるわ。