勢いよくフォークにパスタを巻き付ける私に、香吏はきょとんと眉を上下させる。瞬間、胸が焼けるように苛ついたのは、香吏に対してではない。その表情の奥に、別の人物を見てしまったからだ。

 ——石川(いしかわ)才叡法(さいえいほう)に則り、ドナーになることが決まった。うちの学校でも初めてのことだが……皆、彼女とはこれまで通り接してやってほしい。

 数ヵ月前に、担任が私のクラスで放っていた言葉だ。早退すると教室を出てから忘れ物に気づき、扉の前でそれを聴いた私は、その後職員室に乗り込んで担任を咎めた。

 ——なんであんなこと……、皆に言う必要なんてなかったじゃないですか。

 ふっくらとした体型で、切れ長の円らな瞳が特徴的な、生徒からも人気のある教師だった。しかし私の怒りを、彼はキョトンとした表情で迎え撃った。

 ——だってなぁ、石川、自分からは言いにくいだろう。

 おまけに添えられたのは、感謝しなさい、とでも言いたげに下がる眉。ビンタの一つでもお見舞いしてやれば良かった。と、今なら思う。

「正義を振り翳したいだけなの。自分は弱者の味方です、って。守ったつもりでいるその人間を、弱者だって決めつけているデリカシーの無さに気付きもせずにね」

 確かに、カルボナーラでは足りなかったかもしれないな。
 今日の議題がちょっとばかり重いので、すでに甘さで中和したくなっている。私は残り一口分をフォークに巻き付けながら、香吏を見た。

「そうだな。君はその手の人間が嫌いだったな」

 何かを思い出すように、クスリと息を漏らしている。わざとなのか、偶然なのか、彼のビーフシチューも残り一口だった。

「嫌いよ。一面だけで弱者だって決めつける人間は嫌い。正義を振りかざすために、弱者の味方をする人間も嫌い。香吏くんの担任みたいに、弱者の味方を謳うだけの人間はもっと嫌い」

 互いに同じタイミングで、最後の一口を名残惜しく頬張る。——すると店の外からか、しっとりとした女性の歌声が響いてきて、思わずそちらに視線をやった。
 一方通行の道路を両脇に構えた、広い道の真ん中。噴水広場の前で、ニットにダメージジーンズを合わせた小柄な女性がギターを揺らし、スタンドマイクに声を乗せている。歌われているのは、何年か前に流行った男性ボーカルの失恋ソングだ。クリスマス前のチョイスにしては斬新だけど、この店の裸電球がオレンジ色に光る夕刻には、雰囲気もマッチしそうだと思った。
 けれど同時に、その優しい旋律は息苦しさを感じさせる。——そんな風に感じるのは、きっと、私だけかもしれないけれど。

「路上ライブか。人はあまり集まっていないな」

 吹く風はもう十分に冷えきっている今日この頃、ギターを抱えて寒空に声を響かせる女性に対しても、香吏はお構いなしに辛辣だ。
 でも、いつもと変わらない彼が、今の私には救いだった。

「歌えるってだけで、十分なんだよ」
「うん?」
「今は、聴いてくれる人が見えなくても、将来の自分を想像できるだけで十分なんだって。……きっと」

 未来のことを決めるのには苦手意識すら伴うのに、将来を想像するのは好きだった。不安もあったけど、努力ならいくらだって出来ると思った。
 ——でも私は、当たり前に出来ていた想像すら手放してしまった。もうあんな風に、悴んだ指で弦を弾くことも、白い息に声を乗せることも出来なくなってしまった。

「石川くん?」

 香吏の、いつもより刺の抜けた声が、いつもの可笑しな呼び方で私を呼ぶ。

「ん?」

 ガラス張りから視線を戻すと、彼は小さく首を振った。

「いや……平気ならいいんだ」
「ふふ、何それ」
「君は時々、今にも消えてしまいそうな顔をするから」

 先ほどデリカシーがないと指摘したからか、少し罰が悪そうに言う香吏に、私は声をあげて笑う。しかし彼は、表情を変えず、探るようにこちらを見据えていた。

「大丈夫だよ。執行猶予があるから」
「……執行猶予?」

 そこで初めて、彼の表情は怪訝なものに変わる。
 付き合いはそう長くはないけれど、決して短くもない。恋愛と友情、どちらにも転ばない関係性のなかで初めて、彼の表情が訴えていた。
 君が本当に(・・・)話したいことはなんなんだ——、と。

 パパァ——ッ!ドンッ——。
 唐突に、クラクションの鋭い音と、鈍い音が交互に響いた。
 私から逸らす気配のなかった香吏の視線も、再び窓の向こうへ攫われる。確実に、店内にいる全ての人間が同じ方向を向いていた。

「えっ、なに今の音」
「事故よ……事故だよ。あそこ、男の子が、倒れてる」
「ど、どうしよう、こういうのって、私たちが救急車呼んでもいいのかな」
「待って、いま店員さんが出て行ったから、たぶん大丈夫」

 聴こえてきたのは、隣のテーブルから乗り出して窓の方を眺める女性二人の声。私よりも年上に見えるけど、二人は少女のように手を取り合って、窓際へ足を進めた。それを見た他の客も、ぞろぞろと続いた。

「事故……?」

 周りの動きに遅れて、唇から溢れ落ちる。店内の奥に座っている客はもう、私と香吏しかいない。

「目の前の道路だな。人が、倒れている」

 そう言った彼の後ろに回り込む。店員と客が連なるモザイクの隙間から、道路に投げ出された影が見える。

「そこの道路はスピードを出せない作りになっているはずだが、……無事だろうか」

 香吏が冷静に、しかしとても心配そうに言う。彼を一瞥して身を乗り出した私は、視界に飛び込む現場の状況に目を痛めた。
 左右を縁石に阻まれ、一方通行標識のある細い道路は、ハザードを焚いた赤のSUVを先頭に詰まっている。エプロンを纏っているのは、確かこのカフェの店長で、彼女はスマホを片手に細かく口を動かしている。その隣には、激しい身振り手振りで彼女に何かを訴えている、中肉中背の男の姿があった。彼は顔面蒼白で、車の運転手なのだとすぐに分かった。
 一歩、二歩——ガラス張りに近づいていくと、店長の傍に投げ出された、黒のスニーカーが見えてくる。広場で歌っていたお姉さんも、心配そうに駆け寄っている。
 三歩、四歩、五歩——横たわった体の側には手提げカバンと、そこから放られた、枝のようにも見える筆が何本か転がっている。
 六歩——踏み出したのと同時に、ドクンッと脈が沈む。
 被害者の青年は、見慣れた制服のブレザーを羽織っていた。そこから生えている奥に見えた腕一本が、間接とは逆の方向に曲がっている。
 七歩——目を閉じた青年の顔を、私は知っている。

真冬(まふゆ)…………?」

 香吏の側で、遠くからそのシルエットを目にしたときから、脈はとっくに荒いでいた。けれど、パーツを一つずつ辿り、確信した。

 あれは、私に執行猶予を与えた執行人——朝倉(あさくら) 真冬(まふゆ)だ。