私はケーキが好きだけど、ケーキセットは苦手だ。
街路樹も色付き始めた冬の始まり。すっかり行きつけになったカフェでは、変わり映えのない裸電球と一緒に、小さなリースや赤い靴下が交互にぶら下がっていた。
そういえば今目を凝らしているメニューにも、シュトーレンやクグロフといった限定スイーツが追加されている。どれも美味しそうだけど、セットとして注文するには量が多そうだ。
「眉間にシワが寄っているぞ」
メニューの向こう側から、そう指摘する声が割り込む。私は視線を持ち上げない代わりに、頬杖を突いた。
「このケーキセットね、いつも思うんだけど、どうにかならないのかなと思って」
言うと、店に入って一分もせずに注文を決めた連れは「ん?」とメニュー表を覗き込む。
七対三に整えられた艶のある黒髪と、よくマッチした黒縁眼鏡、少し下を向くと露になる鋭利な睫毛は、彼のチャームポイントだ。
「どうにかならないか、とは?」
何のために眼鏡を掛けているの、と言いたくなるくらいメニューに近づいていた瞳が、私を捉える。
「ランチと一緒に付けられるケーキセット。これ、ランチと同じタイミングで頼まなきゃいけないみたい」
「食べたいのなら頼めばいいじゃないか」
「そういう問題じゃないの。後付けの場合は単品料金って、ほら、書いてあるでしょ」
「確かに君は守銭奴だが、」
「そういう問題じゃなくて」
いや、ある意味そういう問題なのかもしれないけれど。脳内で絡まっている感情を紐解くために、私はもう一度メニューを壁にした。
この男の前にいるときの、どうにかして言語化しなくては、と頭を回転させる時間は嫌いじゃない。
「あのね、香吏くん」
しばらく間を置いた後、再びメニューを平面にする。名前を呼ばれた彼は微動だにしないまま
「なんだ」
と短く繋いだ。
思考の間、スマホをいじるでも辺りを見渡すでもなく、ただ平然とこちらを見据えていた証拠だ。
「私には、未来が視えないのよ」
それはそうだろう。と、彼は目を少し丸くした。
「ランチはカルボナーラにしようと思っているんだけど、それだけでもう何も入らないくらい、お腹一杯になってしまうかもしれない。でも、食後のデザートを欲してしまうかもしれない」
「つまり、ケーキセットにしたとしても、未来の自分がケーキを食べきれるかどうか分からない」
「そう。そういうこと」
うまく伝わったことに満足した私は、木造りの椅子に背を凭れる。
「いま、ランチと一緒に頼んでしまえば、ケーキ単品の値段でコーヒーもついてくるでしょう? だけど、ここでランチだけに踏みとどまって、でも後から食べたいってなったら、ケーキ単品の値段でケーキしか来ないのよ」
「やはり、守銭奴じゃないか」
「確かに、守銭奴ね」
笑みを溢すと、昼下がりの柔らかい日差しが、彼の眼鏡にキラキラと反射する。メニューに対して多少の不満はあっても、店内の奥までこうして日を届けてくれる一面ガラス張りのこのカフェを、私たちは甚く気に入っていた。
「で、注文は決まったのか?」
「うん。カルボナーラだけにしておくよ」
「そうか。——君は、未来のことを先に決めるのが怖いんだね」
言いながら、クリスマス仕様に赤いリボンが飾られたベルを、彼は鳴らす。店員がやってくると私のカルボナーラを先に告げて、その後に自分の分を頼んだ。
いそいそと去っていく女性店員には、年頃のカップル、という風に見えているのだろう。準常連になってしまった私たちは、もしかしたら顔も覚えられているかもしれない。
年は五つほど上の、国立の大学院に通う一年生。アルバイトは、家庭教師と大学内の図書整備とのダブルワーク。ワンルームながら一人暮らしで、親からのお下がりだと言うけれど、車も所有している。
約二ヶ月前に出会った辻宮 香吏の肩書きと暮らしは、未だ高校も卒業していない私にとって、十二分に眩しいものだった。
出会ったばかりの頃は、恵まれた彼の環境に嫉妬すら抱いたけれど、不思議と嫌悪は抱かなかった。
——俺は勉学や生活に不自由をしたことがない。
そう言い切ってしまうところは潔く、むしろ好感が持てたし、
——ただし、友人はいない。出来たことがない。一人もだ。
と、コンプレックスを淡々と述べてしまうところも、潔いと思えた。
そんな彼とは、もう何度も一緒にカフェを訪れているし、一緒に居て心地の良い相手ではあるけれど、関係に宛がう名前はない。決して互いのプライベートには踏み込まず、月に数回、他愛の無い討論や会話を肴にランチやケーキを嗜む。ただそれだけの、宙ぶらりんなこの関係が、なかなか悪くない。
「ケーキセットの方が良かったんじゃないのか」
毛玉の一つも無さそうな黒地のタートルネックの上で、香吏は言った。
友人が作れないというだけで、香吏は人との会話を好むほうだし、私より余程社交性に溢れていると最近は常々思っている。それに、髪型に癖はあれど器量は悪くないし、色味は地味だけど服装にも統一感や清潔感がある。現役女子高生の目から見ても、香吏はモテない方ではないと思った。
「なんでそう思うの?」
「ものすごい食べっぷりじゃないか。セットにするのか悩む必要なんて、無かったんじゃないのか」
けれどやっぱり、人付き合いの上で、辻宮香吏には決定的に足りないものがある。
「香吏くんさ、デリカシーないよね。だから友達出来ないんだよ」
クリームのついた口元を、冷めて固くなったお絞りで拭いながら突きつける。すると「それは君もだ」と返された。それは、確かにそうだと思った。
「果たして、デリカシーの有無は友人関係に必要なのだろうか」
「必要でしょ。どう考えても」
「なぜそう思う?本音を言い合い、許し合う。それが真の友情になっていくものだと、俺は聴いた」
「誰よ、そんなこと言ったのは」
「小学生の頃の、担任の先生だ」
「道徳の授業かなにか?」
「違うな。クラスでいじめに遭ったと申し出た男子に言ったんだ」
体の内側は、豪快に頬張ったカルボナーラのおかげで温かいのに、なぜか肌の表面は粟立っていた。
「それってもしかして、皆の前で彼に言ったの?その担任」
肌を擦りながら訊く。答えを聴いて、今度は背筋までゾクリと鳴いた。
「ああ。俺はいじめには気づかなかったから、クラスメートに向けて言われなければ、その言葉に触れる機会もなかった」
「……そう。でもそれはおかしいよ。その担任にこそ、デリカシーとは何かを説いてやりたいわ」