体がブルッと震え、閉じた目蓋のなかで薄い意識が灯る。ゆっくりそれを持ち上げると、窓の向こうはまだ深い夜を纏っていた。
「ん……」
真っ白なシーツに包まれた体を起こし、重たい足で畳を擦る。窓の傍に寄ると、見えない冷気がまた体を震わせた。
「さッむ……」
ああ、障子が開いていたからか——。
框に手を掛けながら気がついて、それをそっとスライドさせる。閉め切る前に、真冬と座っていたベランダの中心に視線をやって、すぐに逸らす。
客室に備え付けられた電子時計は、午前三時すぎを示していた。
——真面目で、家族思いだったよ。すごく。
真冬の、お兄さんの話を聴いてから、もう四時間も経っていたのか。
私は障子を閉め切り、ベランダから背を向けるように布団へ潜り込む。あの場所で聴いた彼の話は、眠りに就いてからもずっと、頭のなかを巡っていた。
お兄さんと、叔父さんの境遇が似ていたからだ。
叔父さんを利用した自分を、思い出したからだ。
——礼実ちゃんには内緒で、私と一緒に来てほしいの。判子と、免許証があればいいから。
あれは八ヶ月前の、初夏の朝だった。礼実ちゃんと歩睦が家を出た後、私は学校から踵を返し、叔父さんに向かってそう言った。
適合検査を受けて才能提供者として認められても、未成年の場合は“保護者の同意”が必要になる。だから私は、叔父さんを連れて病院を訪れた。
——では、こちらに署名を。
菅井 直史。
か細い返事と共に、保護者同意の欄に薄い筆跡が綴った。もう二年も一緒に暮らしていたのに、ナオシをどう書くのかさえ知らなかった自分が無性に冷たい人間に思えて、早く病院から逃げてしまいたかった。
——ありがとうね。……これで、少しは足しになると思うから。
病院を出た後、懺悔のように丸まった背中に手を当てる。でも、少し出っ張った背骨を感じて、私はすぐに引っ込めた。
その時は、意志のない叔父さんを利用した罪悪感が、背から手を剥がしたのだと思っていた。——けれど、きっと違う。
“職場で心を病み、ローンの延びた家に閉じ籠り、全てを投げ出し、失った叔父”
どこかでそう見下していたのだと、気がついたからだ。形が分かるくらいの激しい凹凸が、これまでの苦労の証であるかのように、背骨に刻まれていたからだ。
「——……」
鼻先に積もった冷気が痛くて、布団を頭まで被る。
才能の移植が出来るのなら、次は時間を戻すメカを作って欲しい。そんな子ども染みた願いを、布団の中へ溶かす。
叔父さんは、真冬のお兄さんのように『生きなければ』と思っていた人なんじゃないの。私たち家族のために、そうして働いていた人なんじゃないの。悔やむように丸まった背中を、本当は見せたくなかったんじゃないの——。
きっと私は、私が一番嫌っていたことを、大切な家族にしてしまった。叔父さんは弱い人だと決めつけて、都合の良いように利用していいのだ、と。私の方が、叔父さんより家族のためになれるのだ、と。
「……なにが、デリカシーよ……」
カフェで、香吏に説いた自分の言葉が恥ずかしい。誰がどの口で、と震えた細い息を吐く。吸い込むと、芋づる式に乾いた台詞を思い出した。
病院から真冬を連れ出してすぐに、彼に放った言葉だ。
——たった三ヶ月の間に腕を失って、義手になって、
自分を表す術を失う苦痛を味わったはずの私が、どうしてあんな事が言えたのだろう。 死を望む自分の都合で、真冬を弱い人間だと決めつけていたのだろうか——。
芽生えた嫌悪が、鼻先にまたも冷気を積もらせる。
両親を亡くし、礼実ちゃんたちとの生活も次第に苦しくなって、早く歌手になって稼がなければ、と。焦燥が影となって覆い被さる夢を、何度も見たあの日常が蘇る。
——遅い、遅い、遅い……。
自分の首を絞めつける影は、よく見慣れた自分の手だ。
そう気づいた朝、押さえつけられるように痛んだままの喉から、歌声が思うように出せなくなっていた。
そのたった一日が、酷く苦しく、灼熱に溺れているかのように長く感じたことを、どうして忘れてしまっていたのだろう。
「あんなこと……、」
たった三ヶ月、なんて、どうして真冬に言ってしまったのだろう——。
内側から、ハンマーで額を叩くような鋭い頭痛が一瞬走る。
布団のなか、今はむしろ懺悔として心地の良い息苦しさのなかで、私は額に薄い拳を何度も打った。こんなことをしても、罰にはならないと分かっていたけれど、打たずにはいられなかった。
「おはよう」
迎えた次の日の朝。隣の部屋から同時に顔を出す真冬に、私は「あのさ」と掠れた声を漏らす。
恐る恐る持ち上げた視線の先には、繊巧な配慮に溢れた、優しい瞳が待っていた。
*
食堂に向かうため階段を下りていると、炊き立ての白いご飯の香りがふわりとやって来て、腹の虫を掻き立てる。胸をいっぱいにするように吸い込むと、後ろについてくる真冬がクスッと息を漏らした。
「……なに笑ってるの」
「いやいや、笑ってなんて、」
彼は手をひらひら振って、否定の仕草を示す。けれど、その瞬間にグゥ、とお腹が鳴いた私に目を見張って、今度こそ吹き出した。
「笑ってんじゃん。吹き出してんじゃん」
「なんか意外で」
「生理現象に意外もなにも無いと思うんですけど」
すでに整っている襟足に、ベージュのパーカーと黒のパンツを纏った彼は、再び目を丸くする。右手には手袋も装着済みで、朝食後すぐにでも出発出来そうな装備だ。
反対に浴衣姿のまま出てきた私は、いの一番に朝食を求めている食べ盛りのようで、なんだか恥ずかしい。
「臨未ちゃん、そんなに照れなくても」
と、真冬は宥める。
「はあ?照れてない」
私は眉を顰めながら、頬が熱くなっていることを自覚した。
「可愛いなあ」
「バカにしないで」
「してないって」
と言っても、彼は笑みを纏ったままだ。
昨日、病院のなかで見た表情は虚ろで無色だったのに、今日はどこか色づいている。生意気な後輩に、こんなところまで強引に拐われてきたのに、少し心配なくらい彼は呑気だ。
食堂の扉を開けると、並べられた数卓のテーブルにはすでにおかずが揃っていた。ご飯と味噌汁はキッチン前にあるワゴンから、セルフで盛っていくスタイルのようだ。
「「いただきます」」
夕飯のときと同じように、向かい合って箸をとる。
「ん、美味しい」
正面の真冬は、焼き魚を頬張りながら眉を上げて、思ったままを素直に言う。口が達者なわけではないけれど、溢れ出る朗らかな光に
、自然と心が温まる。昨晩から早朝まで続いていた頭痛も、彼と居ると少し和らぐ気がするから不思議だ。
よく考えれば、初めて会話を交わしたときも、理屈では説明できない安心感が彼にはあった。