真っ当な企業のなかで、兄の業績は振るわなかった。パワハラと呼ばれるものも、過労と呼ばれるものも、たまにしか会わない兄の様子からは想像出来なかったけど、死んだ後になって同僚や奥さんの証言が上がった。
 業績が振るわないから、上司に怒号を浴びせられる。下請けのケツを叩いてでも間に合わせろと、無理難題を突きつけられる。下請けの、自分よりも年上の人に怒号を浴びせる。間に合わず、自分がどうにかしなければと思い詰める。そんなサイクルが、兄の心を病ませていったのだ、と。

「真面目で、家族思いだったよ。すごく」

 少し縮めた三角座りのなかに、吐いた息を閉じ込める。

「転落死だった」

 だから、声は自然と籠った。兄の顔を浮かべたら、籠るだけでは済まないことを知っていた。

「だから、臨未ちゃんには——落ちないでほしかった」
「……うん。落ちないよ」

 前を向いたままの声が、少し揺れている。蝋燭の光のように揺れている。
 本当は「死なないで」と言いたかった。けれど、いまの君にはきっと届かない。
 何を聞いたわけでもないのに、彼女は誰かのために『生きなければいけない』と思っているのだ、と僕は確信していた。

「ただ、生きたいと思ってくれたら、それで良かったのに」

 生きて、大切な人に会いたい、と。そう思えないくらい、兄は思い詰めていたのだろう。でも、もし今も生きてくれていたら——母が病んで実家に入り浸るようになり、それに耐えきれなくなった父が家を出て行くことも、きっとなかった。
 両親が残した、3LDKの部屋を持て余すこれまでの日々。兄を失った悲しみよりも、次第に失ったことでの環境の変化が心を覆って、それが自分を嫌にさせた。その罪悪感を誤魔化すように、兄がよく褒めてくれた絵を続けることで兄を慈しんだ。だから、浅井市華のような純粋に絵に没頭できる人を見ていると、いつも苦しかった。僕はいつまでも罪悪感から抜けられず、筆を滑らせていくのか、と。得体の知れない焦燥感に襲われた。
 そんな自分を灯す光など、もう見ることはできないと思っていたのに——。

 顔を上げると、潮の匂いが鼻を突く。湖だということを、本当に忘れてしまいそうになる。

「臨未ちゃんが死にたいのは、何のため?」

 訊くと、彼女はそっと視線を流した。沈黙の日々に、ほんのり光を灯した瞳だ。

「必要なもののためだよ」
「え?」
「言ったでしょ。お金が必要だって。……私には、保険金がかかってるから」

 自殺だと、下りない保険金——。
 続けられた声は、聞いたことがないほどに硬く、力んでいる。見たことのない、何かに縋るような表情だ。

「だから、殺して……か」
「勝手でしょ」
「うん……すごく」

 ふふ、と彼女の息が漏れる。先ほどの声も、瞳も、嘘だったかのように柔らかい。いつもの彼女だった。

「お金が必要なのは、誰か、大切な人のため?」
「私のためだよ」
「臨未ちゃんの?」
「ただ私が、大切な人に生きてもらいたいから。ただ、それだけ」
「それって……、」

 結局は、大切な人のためだ。そう言い掛けた言葉を呑む。なぜかは分からないけど、そうまでして守りたいエゴが、揺れる彼女の小さな光なのだと思えたからだ。

「それって、弟さんのこと?」

 呑んだ代わりに続けると、彼女の瞳が少し見開く。

「弟、いるって知ってたっけ」
「ごめん。それも、バス待ってるときに少し聴こえたから。電話の相手、弟さんか妹さんかなって」

 二択だったけど、弟で合っていたみたいだ。

「そんなに漏れるんだ。気を付けなきゃ」
「会話の内容は聴こえてないから、安心して」
「……まあ、いいけど」

 不服そうに唇が窄まる。現実主義で打算的で、僕よりも十分大人びているのに、たまに見せる咲きかけの花のようなあどけなさは、時に心臓を強く締め付ける。
 美人よりも美少女という言葉がピタリと当てはまる人を、僕は彼女以外に知らない。

「臨未ちゃんは、お姉ちゃんか」
「その言い方は、ちょっとバカにしてない?」
「してないよ。納得しただけ」
「何、それ」
「僕の手を取ってくれたときも、そう感じた。道路で、動けなくなったとき」

 左の手を前に翳すと、彼女は顔ごと反対側に捻る。

「別に、そんくらい誰でも出来るでしょ」

 分かりやすい照れ隠しに、笑みが漏れる。バレてしまわないように堪えると、代わりに小さな欠伸が出た。
 思い返すと、病院で腕を引かれたのが随分前のことのように感じられる。

「臨未ちゃん」
「……なに?」
「ありがとう」

 黙って縮こまる小さな背中の向こうで、ヒーターは変わらず、暖かい光を灯していた。