*

 不思議な時間だった。
 隣同士の部屋に荷を下ろし、同じテーブルで夕飯を食べ、それぞれ温泉に浸かる。友人同士でも経験のない時間を、年下の女の子と一緒に過ごした。
 特に夕飯時は、食堂といっても一般的な食卓と似た規模で、共同生活をしているような錯覚にさえ陥った。臨未は、小島さん特製のしょうが焼きを、小さな口で大切そうに頬張った。

「そう、真冬くんがお兄さんなのね~」

 キッチンで洗い物を終えた小島さんも途中から会話に入り、心配していたほど気まずい空気にはならなかった。
 手袋を付けたままでは失礼だと思い、

「実は義手で」

 と告げたときも、小島さんは過剰な世話を焼くわけでもなく、

「困ったときは何でも言ってね」

 と目尻に皺を刻んだ。月並みな言葉が嫌味にも嘘にも聞こえないのは、本心だからというだけではなく、これまで多くの人たちと触れ合ってきた歴史があるからだろう。
 友人にも、部員にも同じ言葉を掛けられたのに、全く違うものに聴こえた。


「それは、女将さんがフラットだからでしょ」

 客室のベランダに三角座りをした臨未が、夜空に向かって息を吐く。
 温泉から上がって客室に戻ると、彼女はすでにベランダに居た。湯煙とは思えない、細く白い息が舞っているのを内側から見て気がついたのだ。

「フラット?」
「公平ってこと」

 僕は窓際に立ったまま、備え付けの浴衣の袖に隠れた断端に触れる。レイクビューの外側から風が吹くと、空っぽな右の袖はパタパタ靡いた。
 いつも通り、シャワーを浴びる前には義手を取り外していた。

「湯冷めしない?」
「うん。意外と平気」

 こちらを見上げる臨未は、浴衣の上に赤いちゃんちゃんこを羽織っている。これも、客室にあったものだ。

「隣、行って良いかな」
「いいよ」

 同じちゃんちゃんこを引っ張りだし、肩に羽織って外に出る。床に座って、客室と客室の間の柱に背を凭れた。

「ほんとだ、意外と平気だ」

 湯冷め覚悟で踏み込んだものの、思っていたより体は冷えない。よく見ると、彼女の向こうにオレンジ色の細い光が灯っている。

「ヒーター?」
「うん。使っていいって、女将さんが。せっかくのレイクビューだし、堪能してって」
「そっか。確かに、目の前だね」

 彼女の視線を辿るように、前を見る。木々のシルエットに囲まれた湖が、近くの旅館や月の明かりを揺らしていた。
 湖には、やがて終わりがあると知っているのに、夜空を満遍なく写し出すその景色は、ずっと続いているかのように錯覚させる。まるで、終わりなど無いと言うように。

「臨未ちゃん。お父さんの連絡先は、本物?」

 湖を眺めながら訊くと、彼女は淡々と首を振る。

「違う。偽物」
「じゃあ、あれは誰の?」
「香吏くん。ちゃんと、本人には口裏合わせてるから、平気」

 それは、バス停でのやり取りのことだろうか。今日斬り付けられたばかりの痕が、ズキンと疼く。

「恋人じゃない、カガリくん?」

 気を付けたつもりだけど、少しだけ言葉の端が尖ってしまった。

「恋人じゃない。友達でもない」
「じゃあ、どういう関係?」
「うーん。どういうのだろう。ランチ仲間?私もよくわからない」
「じゃあ……、僕と君は?」
「執行人と死刑囚」
「物騒だね」
「事実でしょ」

 声以外、何も音を立てない彼女の横顔は、長い髪に隠れている。代わりに、シャンプーの匂いがふわりと舞った。

「臨未ちゃんは、家の人、大丈夫?」

 黒い髪から、鼻先だけが覗いて見える。

「大丈夫。ちゃんと置き手紙してきたから」
「置き手紙?」
「うちの人に、『一人で修旅に行ってきます』って」

 その単語を聞いて思い出す。そういえば、二年生は明日から修学旅行だったはずだ。

「私、積立てしてないの。だから、皆とは一緒に行けないってことは、うちの人も知ってる」
「じゃあ、」
「うん。その同情を利用しただけ」
「同情?」
「家計が苦しいせいで、私が行けないって思ってたはずだから。本当は行きたかったんだ、だから一人で出て行ったんだ、って勘違いしてくれたら、きっと無理には探さない。メッセージも当たり障りないでしょ。ほら」

 彼女が光らせたスマホの画面には、

『本当に大丈夫?』
『もし何か困ることがあったら、すぐに連絡してね』

 と、メッセージが浮かび上がっている。彼女の返信も『大丈夫だよ』の一言のみで、それ以降のやり取りは見られない。
 気になったのは、宛先が『お母さん』などではなく『礼実ちゃん』だったことだ。

「だから平気。私に対しては、いつだってそうだから」

 学校も、どうせ自宅学習日にされてたし。と、臨未は続ける。今さら、彼女の打算的な一面に驚きはないけれど、どこか違和感を覚えた。

「修学旅行、行きたくなかった?」
「うん。行かなくて良かった」
「まだ始まってないでしょ」
「もう、今日から始まってるようなもんだったよ。うちのクラスでは」

 顎を軽く持ち上げて、彼女は息を吐く。白い蒸気はもう見えなくて、透明なまま夜空に溶けた。

「真冬は、去年行ったの?」

 不意に視線が交わって、心臓が跳ねる。

「行ったよ。北海道」
「あー、いいね。私も北海道なら行きたかったかも」
「そうなの?あれ、今年って」
「沖縄」
「いいじゃん。僕は沖縄の方がいいな」
「合わないね」
「本当だね」

 臨未を真似るように笑みを溢すと、同じ色のちゃんちゃんこが互いに擦れる。彼女は擦れた方に視線をやって、僕も同じ場所を見つめる。
 ゆっくり目を上げると、息が触れる距離で彼女と視線が交わった。ヒーターの音が、彼女の後ろから静かに響いた。

「真冬」

 皮の薄そうな唇が、至近距離で小さく動く。

「……ん?」

 手を繋いだときよりも近くで、臨未は瞬きを繰り返す。男らしいとも、背が高いとも言われたことはないけれど、手を繋いだときの彼女の背中は、自分よりも遥かに小さかった事を思い出す。
 彼女は高校二年生の、ただの年下の女の子だということを、荒いだ脈のなかで僕は悟った。

「真冬は、生きなきゃいけないって、思ったことがあるの?」

 何かをなぞるように紡がれる。それが、自分が放った言葉だと気がついたのは、彼女の視線が湖へ逸れた後だった。

「言ったよね。屋上で、あのとき」
「……うん。言った」
「なんでそう思うの、って。ずっと訊きたかった」

 左側にまだ熱を持たせたまま、僕は唇を割った。

「思ったことはないけど、そう、言っていた人は知ってる」
「言っていた人?」
「僕の——死んだ兄の事」

 言葉だけを紡いで、顔は浮かべない。もう、何年も浮かべていない。

「それは、自分で?」

 臨未の静かな問いかけが、心を穏やかにする。

「うん。そう。自分で」
「……そっか」

 互いに、同じ方向へと吐いた息が、透明なまま交わっていく。
 兄の死を、自死だったと理解したときのことも、今では色のない記憶になってしまった。小さい頃の思い出は残っているのに、そこだけ綺麗に抜け落ちている。

「兄さんは、生きなきゃいけないって、言ってたんだ。だから、気付かなかった。家族の見えないところで、ずっと苦しんでいたことに」

 八つ年上の、頼りがいのある兄だった。
 四大を卒業して、真っ当な企業に勤めて、順当に結婚をして、元気な男の子の父親にもなった。親戚の集まりでも兄は「出来の良い長男」「良い父親だ」と称えられ、両親はいつも鼻高々にしていた。

「守りたかったんだと思う。良い息子で居るために、息子と奥さんを守るために、——生きていかなきゃって」