「バス、来た」
「え?」
「行くよ」

 スマホをポケットに沈めた彼女は、停車していたバスの列に僕を促す。
 一番後ろの、広々とした席の端に彼女が座り、少し迷った後で僕も隣に腰を沈めた。数センチほど幅を空けたけど、夕刻だからか混み合っていて、結局詰めることになってしまったけれど。

「……混んでるね」

 リュックを前に抱えて声を落とす。ジャケットが彼女の上着と擦れる音に、罪悪感が過った。……カガリくんのせいだ。

「そうだね。終点まで行く人は少ないと思うけど」
「僕たちは、終点まで?」
「うん。そう」

 言われて、電光掲示板を確認する。行き先は『舘山寺(かんざんじ)』だ。

「舘山寺って、お寺?」
「そう。浜名湖の方に行くの」

 流された視線に、揺るぎない決意が染み込んでいる。なぜかと問う前にバスが発車して、遠心力のせいで彼女の方へ体が傾いた。

「ご、ごめん……」
「うん」

 こんな些細なことで心臓が喚いてしまう自分が、情けない。触れた右腕を庇うように左手で覆うと、彼女は「ごめん」と唇を割った。

「真冬に窓際、座って貰えば良かった」
「…………え?」
「右側、人に触られたくないでしょ」

 病院でも、無神経に触ってごめん——。
 そう続けた彼女の言葉に瞠目する。内容など二の次になっていることに、一番驚いていた。

「あの、いま……真冬って、」
「違ってた?」

 軽く眉を寄せて、美少女は首を傾ける。

「いや、全然。合ってる」
「なんだ。紛らわしい」

 前へ向き直る綺麗な横顔。少し顎を引いて、大きな襟に埋められる小さな顔が、美しい。

「名前、覚えててくれたんだ」

 それよりも、自然と呼ばれたことの方が。そうは言えず、同じように前を向いた。

「それくらいの脳みそはある」

 と、声だけで唇が尖っているのが分かる。可愛い解釈をする子だな、と胸が締まった。

「ごめん。そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「嬉しくて。一回会っただけなのに、名前を呼んでくれたのが」
「嬉しい?そんなことが?」
「そうだね。そんなことが嬉しいよ」

 君に限って、なのかもしれないけれど——と、また言えずに空気を呑み込む。
 気づけばバスは勾配の急な坂道を上り、知っている高校の前に停車していた。県内では名の通った、かなり偏差値の高い進学校だ。

「……そっちこそ。どうして私の名前知ってたの」

 門を潜る生徒から視線を戻すと、顔の半分が襟に埋まっている。前髪も下ろされているので、露になっているのは黒い瞳と、重力に負けじとカーブしている睫毛だけだ。

「——君の歌が、好きだったから」

 睫毛が、ゆっくりと上下する。

「初めて聴いたとき、すぐ好きになって、誰だろうって。同じクラスの人に訊いたら、すぐに分かったよ」
「なんでよ。三年でしょ」
「三年のなかでも、臨未ちゃんは有名人だったよ」

 ギター部に所属している、二年生の超絶美少女。部室にはほとんど顔を出すことはなく、いつも一人で歌っている。その歌声を聴きたいあまりに、部室に人が集ってしまうからだ。
 人気の少ない、C棟の空き教室を転々としながら歌う——、そのスタイルを定着させたのは、一年の途中かららしい。部のなかでも、色々あったんじゃないの。と、浅井市華は言っていた。かつて、美術部の後輩女子から「あまりよく思われてないみたい」と笑っていた彼女には、僕には見えない臨未の何かが、見えていたのかもしれない。

あの日も(・・・・)、君を止めたくて走ってた。もう一度、君の歌声が聴きたくて、堪らなかったから」

 屋上の縁に立つ臨未を、放課後のC棟から見つけた。部活は休みだったけど、毎日のようにC棟へ向かっていた僕は、持ち上げた視線の先に冷や汗を垂らした。

「だから、あんなに焦ってたんだ」
「……うん」
「でも、残念だったね。私はもう、歌えないし」

 抑揚のない声が、今度は歯切れよく響く。襟から覗いた唇は、ちっとも震えていない。

「どうして、——売ったの?」

 僕の方が震えていた。
 バスが停車した次の駅では、小さな降車口から多くの人が降りて行く。まるで、溜まっていた煙がもくもくと吐き出されるように見えた。きっと、あの中に彼女が居れば、そんな風には見えなかっただろうと思う。

「売っちゃったの?って、訊かないんだね」

 薄い唇が結ばれて、再び空気を含む。その一瞬に目を凝らして、続きを聴いた。

「お金のためだよ」

 彼女の背後で、足早に景色が流れる。僕たちの他に二、三人の乗客を残して走る、ガランとした車内に、彼女の声は勿体ないほど優しく響いた。

「ドナーになると、レシピエントからお金が貰える。知ってるでしょ?」
「うん。知ってるよ」
「私が使えなくなった歌声は、必要な人のもとに渡って、私に必要なお金に換えられたの。正直、しめしめと思ったわ」

 しめしめ。彼女とは不釣り合いにも思えるその表現に、僕は瞬きを繰り返した。

「ああ……うん、確かに、あの制度はすごいよね……」
「ふっ、なにそれ」

 そう漏らした臨未の笑みは、高い襟にすっぽり隠れてしまう。

「思うように歌えなくなったのは痛手だけど、ちゃんと、必要なものに消化できた」

 消化——心のなかで、その単語を反芻する。フェンスの向こうに立つ、一本の蝋燭の火が脳裏に浮かぶ。

「だから、いつでも殺していいよ。——私のこと」

 彼女の眼光は、今日も静かに揺れている。“消化”という言葉に込められた闇と光が、胸の奥を熱くする。けれど、屋上で約束を交わしたときと同じように、彼女の願いが現実のものであると、僕は未だ受け入れられていなかった。

「……殺人犯って、どのくらい刑務所に居るんだろう」

 そんな呆けた台詞を溢したのが、いい証拠だ。現実味を帯びない未来は、混沌の底に沈んでいる。

「分からない。けどさ、刑務所から出ても、真冬の人生は滅茶苦茶だろうね」
「無責任だね」
「うん。だから、沢山恨んでよ」
「じゃあ、恨ませるために連れ出したの?」
「そう言われると、そうかもしれない」

 バスの先頭を見据えて、彼女は言う。

「あんたに、ドナーになって欲しくなかった。絵を描いて、ちゃんと私を殺して欲しいから」

 そんなに、凛と涼しげに言われても困るのだけど。僕は、無意識に強ばっていた肩の力を抜いて、背を凭れる。

「そういうことか」
「——だって、約束したでしょう」

 臨未は、低い温度の瞳を流す。

「約束したのに、勝手に手放そうとするから。請け負ってくれる人なんて、きっと他にいないのに」

 だって、あのときは——初めて、命懸けで描いてみたいと思ったから。過去の栄光に縋ることなく、純粋に、君の歌う姿を描いてみたいと思ったから。それを君の目に映したときの反応を、何よりも大切にしたいと思ったから——。
 喉まで出掛かった言葉が、チクチクと管に刺さる。才を失い、歌声を消化した彼女には、言えるはずのない言葉だった。