パパァ——ッ!

 静かな初冬に訪れたのは、酷く、うるさい音だった。鉄の塊が体の右側にめり込んで、鈍い音がした。意識が飛ぶ前、当然のように彼女のことを浮かべた。
 屋上で約束を交わしてから。いや、そのずっと前から、C棟の一階が沈黙を保っていたのは何故だったのかと、巡らせる。

 ——臨未、どういうつもりなのかねー。
 ——知らないよ。とにかく、うちらには言いたくないってことでしょ。
 ——臨未は顔もいいし、勉強もできるから、挫折とか知らなかったんじゃない?それ、知られるの嫌だったんだよ。
 ——あるかもね、それ。結局、静かなふりしてプライド高いんだよ。
 ——てゆーか、失くなったのは歌唱力だけなんでしょ?普通に声は出せてるんだし、歌えばいいじゃん。
 ——だからぁ、半端な歌唱力で歌いたくないんでしょー。プライド高いから。

 教室移動の途中、たまたま前を歩いていた女子たちの会話が蘇る。
 上履きのラインが赤い、ということは、臨未と同じ二年なのだろう。詮索しなくても、彼女が何らかの理由で“歌えなくなってしまった”こと、それに付けて悪く言われていることは、彼女たちの後ろに詰まる誰もが察していた。

 ——二年こわぁ……。
 ——臨未って、石川さんでしょ?あの子可愛いから、しょうがないよ。

 前の背中を迷惑そうに見据えながら、ひそひそと吐く同級生にも虫酸が走った。
 歌唱力(プライド)を失くして、それまでと同じように歌うことが出来ると思っているのだろうか。可愛ければ、彼女に何をぶつけても許されるのだろうか。見えている要素だけを積み上げ、創造して、勝手に天秤を傾けて、相殺するようにバランスを取ることが当たり前だ、と。彼女たちは、本当にそう思っているのだろうか——。

 目を覚ますと、尋常ではない痛みが右腕に走った。視界がセピアのように曇り、垂れた血が瞳を覆っている。けれどそれより、タイヤの油や砂が入り込み、粉砕した腕が裂けるように痛く、病室で情けない嗚咽を何度も漏らした。
 死ぬよりも苦しい。死んだ方がマシだ。どこかで目にしたそんな表現を、大袈裟すぎる、と冷めた目で見つめていた自分を呪った。

 二週間、麻酔を投与して過ごし、腕の洗浄と治療を繰り返したけれど、痛みが引く兆しは無かった。

「——切断します」

 担当医に告げたとき、自分ではなく祖母が泣いている姿を、なぜか冷静に眺めていた。

「真冬。義手を着けましょう。筋電義手なら、しっかり練習をして慣れていけば、これまでと同じように生活が出来るんですって」

 両親の代わりに、献身的に病室を往き来してくれていた祖母は言った。

「あの人も、お金は工面してくれるって」

 切断の手術日が決まった後は、淡々と告げる祖母を感情もなく見据える。あの人とは、疎遠になった父親のことだった。

 初めて装着してみたとき、筋電義手と本物の手の違いは、重量や見た目の他に見当たらなかった。脳からの微弱な電流を感知して、左手とそう変わらない動きを実現出来る。
 リハビリの先生からも「君は筋がいいよ」と褒められ、訓練は順調に進んだ。祖母が言うように、この体が日常生活に溶け込むことは、そう遠くはない未来のように思えた。
 ——でも、描くことはできなかった。

「……クッ、ソ……」

 暴言を吐いたことなど、これまで一度もなかったのに。苛立ちに押し出され、自分とは思えないほどの荒いだ感情が、何度も何度も溢れ出した。
 筆を掴むことは出来る。それなのに、いくら紙を滑らせても感覚が伝って来ず、視覚情報がなければ筆を掴み続けることすら儘ならない。重たく、繊細なタッチを実現することも難しい。
 義手を装着してからは、自分の手で描くというより、自分で操作する手を動かすというイメージだけに取り憑かれていた。無意識に得ていた感覚が、絵を描く上で必要不可欠なものだったのだと初めて知った。
 利き手ではない左でも試したが、まず論外だった。

 ——失くなったのは歌唱力だけなんでしょ?普通に声は出せてるんだし、歌えばいいじゃん。

 臨未の噂を吐いていた、毒のような台詞が廻る。あのときよりも遥かに荒いだ脈が、体を裂くように響いた。
 望んでいる通りに描けないのなら、微々たる才能でもない方がマシだ。描くビジョンが浮かんでしまうから、こんな風に苦しめられる。
 小学生の頃から続けた絵を評価され、勲章のように飾っていたいくつもの賞状や盾を、剥がして集めて、ベッドの下に全て押し込んだ。息が荒いで、海底に溺れているように苦しかった。
 そんなとき、臨未が失ったワケ(・・・・・)を唐突に悟った。