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 十五時三十分。


「本日も平和に終わった~」
 すべての授業を終えた聖花は駐輪所に足を向けていた。


『油断するな。気の緩みが命取りだと思え』

 という白の冷静な声が左耳に響く。聖花はそれに対し返答はしない。


「あの子って、確か……」
 聖花の自転車の前でしゃがみ込んでいた女子生徒が一人。


「……さ、斎藤さん?」
 聖花は戸惑いながらその生徒に声をかける。


「碧海聖花さん。待っていました」

 背を向けてしゃがみ込んでいた女子生徒はゆっくりと立ち上がり、身体全体で振り返る。
 シースルーバングの前髪に胸下まで伸びたストレートの黒髪。編み込みをカチューシャのようにしたヘアアレンジとそばかすが印象的な生徒、斎藤由香里はどこかぎこちない笑みを浮かべる。
 昨日は聖花を恐れるように視線をそらしていた由香里がなぜか今、微笑を浮かべて聖花の前に立っていた。


「ま、待っていたって、どういうことですか?」
 聖花の声が不安で裏返る。


「私、見ていました。階段で黒崎先生と碧海さんがお話されている所を。なんだかとても親し気でしたね」
「いや、親しげになんて」
 聖花は首を左右に振って否定をする。


「えぇ。そうですね。親しいとは違うのかも知れません。だって、碧海さんは黒崎先生の弱みを握られているのでしょう。だって、先生が仰っていましたもん。“このこと、誰にも言わないで下さい。バレると色々と面倒なので”と。このこと。とは一体なんのことなんですか? 碧海さんは黒崎先生の弱みを握られて、一体何をなさるおつもりなのですか? 何をなさりたいのですか?」

 由香里はそう言いながら聖花との距離を縮める。


「ぇ?」
 怪訝な顔をした聖花は後ずさる。
「わ、私、弱みなんて握ってないです! それに、黒崎先生に何もするつもりもないです」
「嘘言わんといてよ!」
 由香里は両拳を押し下げながら叫ぶ。まるで駄々っ子のように。


「うちは聞いてんから! ちゃんとこの耳で。“このこと”ってなんのことなん? “昨日のこと”ってどういうことなん? あんたはうちらとランチした時が初めてとちゃうかったん? ほんまは元々黒崎先生と親しかったん?」

 完全なる誤解をしている由香里には取り付く島がない。


「いや、このこともあのこともあらへんし。昨日って言うのも、私が車に引かれそうになったんを黒崎先生が助けてくれはったってだけで、そこにやましいことは何もあらへんくって」
「車に引かれそうって……嘘言わんといてよ!」
 ヒステリックになる由香里は、スクールバッグを聖花に向って振り当てにかかる。聖花は反射的に飛びのくようによけた。


『嗚呼。面倒な女だな。全く話にならない。距離を取って逃げろ。相手に背を向けるな。ナイフを持っているかもしれん』


「な、ナイフ⁉ じゃぁ、この子が?」
 白の言葉に聖花は思わず声を上げる。
『いや、これは……』
「わっ!」
 白の言葉が聖花の耳に届く前に、由香里のバックが聖花の鎖骨にクリーンヒットする。その痛みに思わず片膝をつく聖花に対し、『前を見ろ』と、白の指示が飛ぶ。


「ッ」
 聖花はくぐもった声を上げながら顔を上げると、冷たく見下ろす由香里の瞳が視界に映る。


「ひっ!」
 聖花と視線が合った由香里は慄然したように目を見開く。


「そ、そないに綺麗な瞳でこっち見ぃひんといてよ! ……こないにハッキリ言いたくあらへんけど、あんたの瞳が怖いんよ! まるであやかしやんかッ」
「⁉」
 聖花は由香里の言葉に息を飲む。心が幾つかの槍を突き刺されたかのように痛む。


「と、兎も角、これ以上黒崎先生に近寄らんといてッ」
 由香里はそう叫ぶと自身が投げたバッグを拾い、脱兎のごとく逃げ出した。


 その場に取り残された聖花は、そんな二人の様子を傍観していた一人の男に気づく事もなく、由香里が去っていった道をただ茫然と見つめ続けることしか出来なかった――。


 *



 一体、どれほどの時間しゃがみ込んでいたのだろう? 聖花にとって永遠とも呼べる程に、時が止まっていたように感じていた。そんな聖花をカラスの鳴き声が現実に戻す。


「……ぁ、お母さんに連絡しなきゃ」

 我に返った聖花はバッグからスマホを取り出し、母との専用トークアプリを開ける。が、文字を打つ手が止まる。口角を上げようと思っていても、身体が上手く動いてくれない。


「……上を向く。笑顔、笑顔、えがお……」

 虚脱する聖花は、まるで呪文を唱えるように呟き続ける。


『呪いをかけているのか?』
「ぇ?」
 白の冷静な声で聖花の意識が現実に戻る。


『その言葉は今まで笑顔を取り戻す言葉として使ってきたのだろう? いわばおまじない。おまじないと言えば聞こえはいいが、御呪い=呪文。呪いの文。それに言霊が入ることで、より強力なモノになる』


「それが、どうしたって言うんですか?」
 話しの意図が感じ取れない聖花の声音には不機嫌な色が滲む。白はそれに構うこともなく口を開く。


『いつまで自分を呪い続けるつもりだ?』
「ッ⁉」
 白の言葉に聖花は瞠目し、言葉を失う。


『辛いなら辛いと言えばいい。怖いなら怖いと言えばいい。嫌なら嫌と言え。痛いなら痛いと言え。助けて欲しいなら助けて欲しいと言え。伝えなければ何も伝わらない。伝わらない想いは堂々巡りとなるだけで、いつまでも消化されないままだ。
 人を労わって気づかって、すぐ自分の感情に蓋をする。ネガティブな心はいつだって不要だと捨てられる。それすらも自分であり、我が子であるというのに。負の感情は避ければ避けるほど、負を抱えた赤子が構って欲しくてずっとそこにいる。もっと強い不のモノをぶつけては駄々っ子状態となり、いつかは手が付けられなくなる。
 認めてやれ。素直になれ。全ての感情は、自分の中にいる自分と言う赤子なのだ。碧海聖花。人を労わる前に自分を労わってやれ。自分を愛せば何かが変わってゆく。今の生き方では、いつか壊れてしまうぞ』

 白は淡々とそう言った。


「……そないなこと、無理に決まってるやないですか。辛いと言って何になるんですか? 誰か助けてくれるんですか? 怖い。痛い。助けて。そんなことを言ったところで何も変わらない。大切な人達を悲しませて、心配させてしまうだけです。そうなってしまえば、また新たな不がやってきては、さらに負の感情へ飲み込まれるだけですッ。恭稲さんはなんも分かってはらへん」

 聖花は嘆くように感情を溢す。


 白の言葉はいつも的を得ていて、飲み込むのに少し時間がかかり、自己愛に満ちている。だがそれ故に、今の聖花にとっては受け入れられないモノなのだ。


『昨日今日会ったばかりで何が分かるという。家族にすら本心を見せない相手の何を分かれと言う。そもそも、本当に自分のことを分かっていないのはそちらのほうだろう? 自分で自分を殺してなんになる?』


「恭稲さんの世界ではどうか知らへんけど、この世界では……私は、本音で生きていくだけでは生きていかれへんのです! 嘘も方便。愛莉の言葉通りです。嘘は自分を守る盾にも剣にもなるんですッ!」

 と髪を乱しながら感情をぶつけるように言った。
 聖花が荒げた声や心の叫びを他に見せるのは、これが初めてのことだった。


『その嘘という盾も剣も脆すぎる。そんなものはすぐに壊れてしまうぞ。碧海聖花。今一度自分の考え方や生き方、本当の自分と向き合ってみたほうがいい。碧海聖花の中に眠る本来の碧海聖花は見るも無残なほど傷だらけの姿で、膝を抱え泣いていることだろうからな』

 白はそう言い残し、ブツッという機械音の低音と共に回線を切る。


 残された聖花はどうしようもできない気持ちを下唇を噛むことで紛れさせた。


 その後、聖花はいつもの仮面を被り、何事もなかったように家族との時間を過ごすのだった――。