二〇××年 十二月 十九日。
 早朝、五時三十分。


 上り眉に睫毛が長い切れ長の瞳。少しでてきた目尻と口元の皺がより優しさを滲ませるなかで、年を重ねた色気が相俟ったバランスの整った顔立ち。
 長い手足がよりスタイルをよく見せているものの、服の下には五十代前半特有のお腹が出てきてしまっているのが、その男性の悩みの種の一つとなっていた。
 そんなお腹の前で剣先を床に刺すようにして木刀を握る碧海雅博は、聖花の部屋の窓ガラスが良く見える碧海家の下で仁王立ちをしていた。


「雅博さん、代わるわ」
 早朝にも関わらず、すでに身なりを整え終えていた響子が雅博に声をかける。

「響子か」
 根元にパーマがかかっているミディアムヘアーが振り向くことで風に揺れた。フロントをしっかり立ち上げていることで、躍動感とナチュラルさに大人の余裕を感じさせている。
 その余裕とは対照的に、目の下にハッキリとできているクマと、充血した瞳が痛々しい。

「おおきに。せやけど俺は大丈夫や。心配せんでええ」
 と、生欠伸を噛み殺す雅博は長い睫毛を上下させる。言葉とは対照的に、今にも眠ってしまいそうな身体を無理やり起こしていることがわかる。

「うちもあの子を守れます。大丈夫。スタンガンなんかも持ってますし。雅博さんも少しは休んでください。聖花が寝入ってから一晩中そうしているやないですか」
 響子は雅博を安心させるようにスタンガンやトウガラシスプレーを見せる。

「と、唐辛子?」
 雅博は苦笑いを浮かべる。けして安堵した雰囲気には思えない。むしろ、不安感を倍増させたように思える。

「今日一日中そないしているおつもりですか? そんなん身が持たへん。もしなんかあったときに戦闘不能になってしもてたら、ここまで守ってきた意味があらへんくなってしまいます。休むことも大切やと思いますよ? あの子は私達の大切な一人娘。私達夫婦で守り通しましょう」

「――せやな。あの子は俺達にとってかけがえのない娘や。俺達の元に飛び込んできてくれた天使や」
 雅博は何かを懐かしむように遠い目をして話す。その姿にはどこか哀しさが含まれていた。

「そうどす。あの子は私達の天使。地獄のような日々を過ごしていた私達に、無邪気な笑顔で小さな手を差し伸べてくれたんです。私達の元へやってきてくれた。次こそは、私達の手で守り通さなあかへんのです」
 意志を強く持つように胸の前で拳を握りしめる響子は、聖花の部屋の窓を見つめる。
 白の背景に、黒百合シルエットを縦に並べたようなデザインをした遮光カーテンはまだしっかりと閉まっていた。おそらく聖花はまだ夢の中にいるのだろう。


「響子、わかった。少し任せるわ。なんかあったら声を上げて。すぐ駆け付けるから。防犯ブザーも鳴らして」
 と、雅博は首から下げていた青色の防犯ブザーを響子の首にかける。

「はい。体力と気力をゆっくり温存しておいてください」
「あぁ。努力する」
 自信なさげに苦笑いを浮かべた雅博は外のことは響子に任せ、木刀を肩に担いで家に戻る。雅博の大きくて頼りがいのある背中はいつもよりも猫背になっており、疲労の色を感じさせていた。

 響子はそんな夫の後ろ姿を心配そうに見送った。


「……絶対に守りとおすんや」
 再度意志を固める響子は気合を入れなおすように、ふぅ! と息を吐き、怪しい人物が近寄らないかと身構えるのだった――。



  †


 午前六時三十分。


 聖花の頭上で目覚まし時計が鳴り響く。いつもであれば、ピピッ! という2.5ほどの音で目覚める聖花だが、一向に目覚める様子がない。その音で目覚めたのは、聖花の部屋の前で片膝を立て、剣先を床に挿して木刀を抱えるようにうたた寝していた雅博のほうだった。
 三十秒程鳴り響き続ける目覚まし音を不審に思う雅弘は立ち上がり、部屋の扉を軽やかに三回ノックする。


「聖花―。まだ寝てるんかぁ?」
 と心配そうに声をかける。部屋の鍵は欠けない約束だが、年頃の娘の部屋を無遠慮に入れはしないだろう。

「ん?」
 ノック音で目が覚めた聖花は目覚まし時計を止めて時間を確認する。一分の寝坊だ。聖花はその時間よりも、熟睡してしまっていた自分にギョッとした。


「聖花?」
 雅博は再度声をかける。
「ごめん。今起きたー。大丈夫。ただの寝坊」
 聖花は慌てて起き上がり、手櫛で髪を整える。
「ほうか。それならええんやけどな」
 聖花の声を聞いた雅博はホッと胸を撫で下ろす。


「ところで、お父さんいつからそこに? もしかして一晩中?」
「いや、一晩中と言う訳ではあらへん」
「そっか」
 着替えを抱えた聖花が部屋の扉を開ける。親子の視線が合う。聖花はすぐに父の顔色が優れないことに気がついた。

「嘘ばっかり。目の下に凄いクマが出来てるやん」
「ぁ、いや、これは……。そ、そう! アメリカンドラマが面白くて一気見していたら……」
「お父さんがアメリカンドラマ観てる所なんて一回も見たことないんやけど。変な嘘つんでええよ」
 聖花はほんのりと呆れが滲む口調で、分が悪いとばかりに適当に誤魔化し始める雅博を一撃する。
 こう言われてしまえば、雅博は何も言い返せない。

「お父さん。あんまり無理せんといて。うちは大丈夫やから」
 自分のことより、両親や友人のことが心配な聖花は眉尻を下げて訴える。だが、娘を思う父も同じこと。はいそうですか、とはいかないのだ。

「聖花。優しさや思いやり、相手を気遣う気持ちはとても大切なことや。せやけどな、それら全ては使い方を間違えると相手を追い詰めることにもなるし、悲しませることもあるんやで」
「ぇ?」
 聖花は小さく声を上げ、意味が分からないというように拗ねた子供のように眉根を寄せた。


「お父さんもお母さんも、聖花のことをほんまに大切に思ってる。命に代えても守りたい、守らなあかん大切な娘や。その大切な娘の命がかかっている時に、おちおちと休んでいられるわけあらへん。もし休んでいたときに聖花になんかあったら、お父さん達は一生自分を悔い続ける。あの時の自分を恨み続けてしまう。それに、娘を思う気持ちや娘を守りたい気持ちをも拒絶されているみたいで悲しくなるわ。もっと頼ってくれてもええんやで? それとも、お父さん達はそないに頼りないんか?」
 娘を真摯に見つめながら伝える雅博の言葉に聖花の瞳に涙が滲む。今まで張っていた虚勢が崩れ、少女の脆さと弱さがより外側に溢れだす。


「ご、ごめん……なさいっ」
 聖花は涙で言葉につまりながらも言葉を溢す。


「聖花……。今までお父さん達を守ってくれてありがとうやで。お母さんの症状も今は落ち着いてるから安心しぃ。今一番怖いんも不安なんも聖花や。無理に強がらんでええから。なんかあったら、お父さん達が守るから」
 雅博は聖花をそっと抱きしめる。
 今まで張っていた糸が解けた聖花は父の胸に顔を埋め、子供のように涙を流し続けるのだった。

  †


「聖花、朝食出来てるから皆で食べよう」
 お風呂から上がった聖花に雅博が声をかける。

「うん。ありがとう」
 と、顔を綻ばせた聖花は定位置に座る。聖花の正面には母の響子が座っている。
 ホットミルクが並々注がれたマグカップを聖花の前に置いた雅博は、響子の右隣の椅子に腰かける。

「ありがとう」
 白を基調とした聖花専用のマグカップ。黒色のアンティーク風筆記体で、Kのイニシャルが印刷されたシックなデザインながら、コロンと丸く開いた飲み口が可愛らしいマグカップだ。それは雅博が十二歳の聖花へ送った誕生日プレゼントだった。


「聖花、今日は学校お休みでよかったんよね?」
 少し白目が充血している響子は不安げに問う。

「うん。愛莉には風邪で休むって連絡したから。お母さんは学校にお願い。私が連絡したら怪しまれる」
 聖花はさきほどの父との話し合いの後、今日は一日中家族(かぞく)団欒(だんらん)で過ごすと決めていた。少しでも安全な道を、少しでも心が落ち着く道を選択したのだ。

「了解。ありがとう。今から連絡してくるわ。すぐ戻るから」
 安堵と喜びに口元を綻ばせた響子は席を外し、白のL字カウチソファに腰掛けて、学校に連絡する。


「――ぁ、もしもし。碧海聖花の母です。――はい。本日娘は風邪を引いてしまって……」
 響子は嘘も方便とばかりに、滑らかな口調で話す。娘は今命を狙われているんです。などと言った真実を話してしまうと大事(おおごと)になってしまうか、変な目で見られて終わってしまう。それならば、無難に事を閉じるほうが後々楽に生きられる。

「おまたせ」
 電話を終えた響子は元の席に着く。

「お腹空いたぁ」

「聖花の好きな抹茶ディニッシュのおかわりもあるからたんと食べよし」
 雅博は笑顔で話す。少し空元気な所もあるが、家族で囲む食卓に喜びと幸福を感じていた。きっとそれは、響子や聖花にも言えることだろう。
 家族と過ごす何気ない日常、平穏な時間。それらは一週間前の聖花にとって、なんとなくでしか見えていなかったことであり、感じられてこなかったものだ。それはこの事件をきっかけに、その大切さとありがたさを身に沁みて実感した。それはきっと、雅博や響子にとっても言えることかも知れない。
 脅迫状が届いてから碧海家の絆はより強くなっていた。


「「「いただきます」」」
 三人の声が揃う。三人は笑い合う。なんと穏やかで温かい幸せな時間なのだろう。


 聖花は今ある幸せを噛み締め、家族団欒の朝食を楽しむのだった。


  †



「ふぅ」
 聖花は右手に握った木刀を太ももの上にのせ、ベッドに浅く腰を下ろす。
 時刻は午後五時四十七分。
 家族団欒穏やかな時間を過ごす中でも緊迫感は抜けない。
 碧海家は皆《みな》、気が休まらない時間を過ごしていた。


(恭稲さん、あれからいっこも音沙汰あらへんけど……契約破ってしもうたから守ってくれる話は無効になってしもたんやろか? それに、あの時言っていた“駒になってもらおうか”ってどういう意味なんやろぉ?)
 唸るような顔で首を傾げる聖花は、何かを思い出したかのように口と目をあっ! と小さく開く。


「バッグ整理してへんかった」
 昨日は疲労困憊でスクールバッグの中や制服を整えないまま就寝していたことを想いだした聖花は、いそいそとスクールバッグの中身を確認する。


「ん?」
 教科書と共に白狐ストラップが飛び出してくる。傷や汚れもなく、チェーン部分は真新しい。聖花が以前持っていたストラップと違うことは明らかだった。

「これって、あの時恭稲さんに変化《へんげ》したやつよね? ……ぇ、なんであるん?」
 ストラップを手に取り、目線の近くまで持ち上げる聖花は不思議そうに見つめる。が、白狐ストラップが白の姿に変化することも、聖花の耳に白の声が届くこともない。


「聖花~」
 物思いに耽っていた聖花を響子が呼ぶ。
 安全確認のため聖花の部屋の扉は開け放たれている。だがプライベート空間やプライベート時間を大切にしている碧海家は、基本無遠慮に入ることはない。


「どないしたん?」
 聖花は何かあったのかと響子に駆け寄る。

「愛莉ちゃんがお見舞いに来てくれてるんやけどどうする? 今玄関前で待ってもらってるんやけど」


(その愛莉はどっち? 傀儡? それとも本物? もし本物の愛莉やったら、心配かけっぱなしになってしもうてて申し訳ない。それに最近は隠し事ばっかりしてるし。今も断ってしもうたら、まるで私が愛莉を避けてるみたいやわ)
 聖花はどうすべきか考える。白の声が左耳に響くことはない。聖花が選択しなければならない。


「せや!」
 何かを思いついた聖花は木刀片手にドタバタと階段をおり、モニター付きインターホンの前に立つ。相手からこちらの様子が見える機能はついていないため、聖花がどんな行動をしても不信には思われない。


(愛莉を疑うみたいで嫌やけど……恭稲さんの指示もない今、自分で選択するしかあらへん)

 聖花はパーカーの左ポケットからスマホを取り出し、愛莉とのトークアプリを開く。


[愛莉~]
 とだけ書いて送信する。

「何してるん?」
「ちょっと確認」
 怪訝な顔で問うてくる響子に一言だけ答える聖花は、モニターとスマホをよく確認する。
 モニターには、手に持っていたスマホを操作する愛莉の様子が映し出される。と同時に既読マークがつく。


“どないしたん? よっぽど具合悪いん?”
 というメッセージが送られてくる。
 傀儡の愛莉が本物の愛莉のスマホを持っているはずがないし、二人だけのトークアプリを知っているはずもない。聖花はこの二つのことから、扉の向こうにいる愛莉は本物なのだと判断する。


「愛莉っ」
 嬉しそうに声を弾ませる聖花は笑顔で玄関扉を押し開いた。

「なんや、思ったより元気そうやない。安心したわ」
 不意のことに驚きながらも、愛莉はそう言って微笑む。その瞳の優しさも、柔らかな笑みも聖花がよく知っているもので、大好きなものだった。

「あいりぃ」
 昨日の一件や隠し事のこともあり、愛莉との信頼関係が崩れ切ってしまうのではないか。それどころか、今日本当に命を落とし、愛莉ともう二度と会えないのではないか。話せないのではないか。と考えていた聖花は、込み上げる喜びを噛み締め、じわりと涙を瞳に滲ませる。

「聖花。そんな泣くほどうちに会いたかったんか?」
 愛莉は少し呆れたような笑顔を見せた。


「聖花」
 響子は聖花のパーカーの裾をぐいっと掴んで自分の方に引き寄せる。

「わっ」
 不意のことに少しよろける聖花は木刀を杖の代わりのように身体を支えた。

「少し上がってもらったら?」
 響子は愛莉に聞えぬよう、聖花の耳元でそっと話す。

「?」
 蚊帳の外になった愛莉は不思議そうに首を傾げる。

「ええの?」
 思わぬ提案に対しきょとんとしながらも、聖花の声は喜びで弾んでいた。

「うん。愛莉ちゃんやし。お家にはお母さんがおるし、お父さんは外で守ってくれてるから安心しぃ。でも一応、二人共リビングにおってな」
「うん。ありがとう」
 嬉しそうに頷いた聖花は、「愛莉、上がって」と、自室に招き入れるのだった。


  †

 十七時四十分。


「愛莉ちゃん、紅茶とチーズタルトはいかが?」
「わぁ~是非」
 四人掛けのダイニングテーブル。聖花の定着席の左へと着席した愛莉に、響子は柔らかな口調で問う。


「聖花もそれでええ?」
「うん」
「ほなちょっと待っとってな。今から美味しい紅茶入れてくるさかいね」
 響子は朗らかな笑顔を向け、キッチンでティータイムの準備をする。


「うん。ありがとう」
 着席する聖花は、何度も見てきたキッチンへ立つ母の後ろ姿をしばし穏やかな笑みで見つめた。


「で、聖花、具合はどうなん? 顔色は思ったより良さそうやけど……」
 愛莉は聖花の顔を覗き込むように問う。

「ぇ⁉ ぁ!」
 一瞬驚く聖花だが、自身が風邪で学校を休んでいた設定になっていることをすぐに思い出し、慌てて言葉を探す。

「ぁ、うん! そう。昼過ぎには熱が下がったから楽やねんよ。でも移したアカンから、ちょっと離れとくな」
 腰を少し浮かせながら椅子をずらした聖花は愛莉と距離を取る。

「それやったらええけど……あんま無理せんときな? って、家に上がり込んでから言うのもなんやけど」
 そう言って苦笑いを浮かべる愛莉の声と少し重なるように、「おまたせ~」と言う響子の声が響く。
 ナチュラルな柔らかい色をした木製のお盆を両手で持った響子が、落ち着いた足取りで二人の元へ戻ってくる。


「はい、どうぞ」
 と、ピンクゴールドのデザートフォークとチーズタルトを一つのせた白の丸皿を、愛莉と聖花の前に置く。
「響子さん、ありがとうございます」
「ありがとう、お母さん」
「どういたしまして」
 二人の笑顔と言葉を嬉しそうに受け取った響子は真摯に愛莉を見つめる。


「? ぇ、えっと……ど、どないされました? うちの顔になんかついてますか?」
 響子の視線に耐え切れなかった愛莉は困り笑顔で問う。

「ぁ! 見つめすぎてしもうたな。堪忍やで」
 我に返った響子は瞳に柔らかさを戻し、胸の前でお盆を両手で抱えるようにして持つ。

「いえ、それは別にええんですけど、どないされたんかと思って」

「愛莉ちゃん、いつも聖花のことを気にかけてくれてありがとう。聖花に貴方のようなお友達がおってくれることが、ホンマに嬉しいわ」
 口元や目元からは柔らかい微笑みが溢れているものの、その瞳にはどこか切なさが滲んでいた。

「私はキッチンで用事してるから、なんかあったら声かけてな」
 響子はそう言って、パタパタとスリッパの音を響かせていく。


「久々に響子さんと会ったけど、ちょっと痩せた?」
「そうかもしれん」
 聖花は少し心配げに問うてくる愛莉に同感するように頷く。
 響子は殺害予告じみた脅迫状のような手紙の存在を知ってから今まで、食事も睡眠もまともに取れずにいた。
 体重は日増しに減っており、約一週間で三キログラムは痩せていた。元より細身の響子だ。一キログラム痩せるだけでも、顔の輪郭はよりシャープになり、少しの頬のコケでも悪目立ちしやすくなってしまうのだ。

「もしかして、響子さんも具合悪いとか?」
「う~ん……ちょっと疲れが溜まっているみたいで」
 聖花は少し言葉を濁す。まさか自分宛ての脅迫状のせいだとは言えないのだろう。

「年末は皆忙しいから痩せやすいし、一年間の疲れがどっとでるっていうもんなぁ。これ頂いたらおいとまするな」
 顔の前で手を合わせる愛莉は、いただきます。と紅茶を一口飲む。

「いや、そんな急がんでもええんよ」
 変な気を遣わせてしまった。と、顔の前で両掌を振って慌てる。愛莉はそんな聖花を尻目に、美味しい! と声を弾ませてチーズタルトを頬張っていた。


「ぇ?」
 その愛莉の姿に怪訝な顔を浮かべた聖花は何かを考えるかのように、柔らかく握られた左拳を口元に当てた。
「ん?」
 聖花の声と視線に気がついた愛莉はフォークを口の中に入れながら、小首を傾げきょとんとする。

「ぁ、ごめん。なんでもない。気にせんといて」
 そう慌てて返事をしながら顔の前で両手を振り、自分の疑問を悟られないように笑顔で取り繕う。

「そう?」
 愛莉は深追いすることなく、二口目のチーズタルトを美味しそうに頬張った。その食べ方は聖花がよく知る愛莉の食べ方ではなかった。
 最初から一つのスイーツとして楽しむ聖花に対し、愛莉の食べ方は対照的なのだ。
 まず一口目にチーズタルトのチーズ部分だけを食べ、二口目にタルト生地だけを少し食べる。三口目にしてようやく、チーズタルトとして楽しむのだ。
 本人曰く、こうしたほうが一度で三度楽しめるし、一つ一つがスイーツでありお菓子作りの勉強なのだと。聖花がそれを知ったのは、親しい間柄になってすぐのことだった。


(愛莉、食べ方変えた? それともこの愛莉も傀儡なん? あのお線香の匂いは密着せんとわからへんし……どうしたらええんやろぉ)
 聖花は口元を隠すように紅茶を一口飲む。あたたかい温度が聖花の喉や胃を解してゆく。


(冷静に、落ち着いて)
 カップをソーサーに置いた聖花の視線に自身の左手首が映る。白狐ストラップをつけていないことに気がつき、聖花の不安感がさらに増してしまう。


「愛莉、ちょっと席外すな」
「どないしたん? やっぱ具合悪いんか?」
「ううん。体調はもう平気。えっと、ちょっとお花摘みに……」
「あぁ。了解」
 と頷く愛莉はそれ以上問うことはなかった。

 上手く誤魔化せたと内心胸を撫で下ろす聖花は、平静を装いながらリビングを後にする。その際、リビングと廊下を繋ぐ扉を閉めることは忘れない。
 聖花がその足でお花摘みと言う名のお手洗いに行くことはなく、抜き足差し足で階段を上って向かう先は、自室だ。




 一七時五十三分。


「コレがなんであるかは知らへんけど……あった方が安心するもんな。愛莉を疑うみたいでめっちゃ嫌やけど」
 聖花は独りごちり、勉強机にある白狐ストラップを左手首につける。


(今話しかけたら、恭稲さんは返事してくれはるやろか?)

 聖花は白に不安感と疑心感の和らぎを求めるかのように、左手で右耳をそっと包み込むように覆った。

 聖花が胸の内でどんなに頼りたいと思っていても、白の声が右耳に響くことはなく、メッセージアプリにメッセージが届くことさえない。
 契約を破ってしまったからには、自分自身で身を守らなければいけないのだ。と、思わざるを得なかった。
 聖花の唇から重い溜息が零れ落ちる。それを吹き消すかのように、ガタガタッ! と、
 一階から大きな物音が響く。その直後、食器が割れる甲高い音が家中に響き渡る。


「⁉」
 驚きで目を見開く聖花は、まさか! と、慌ててリビングに戻った。
 リビングへ続く長方形の扉を勢いよく開け放った聖花は、目の前の光景に言葉を失う。


「……ぇ?」

 少しの間を置き、小さな疑問の音が聖花の唇から零れ落ちる。
 響子を組み敷いた愛莉が小型ナイフを響子の喉元に向けている光景が聖花の視界に飛び込んできたのだ。