†

 コツ、コツ、コツ……。

 聖花が待つこと一時間。


 ゆったりした足取りで近づいてくる静かな靴の音がRIHに響く。
 無音の中にほり込また音が過去に想いを巡らせていた聖花の意識を一気に現実へ引き戻す。


「聖花。遅くなってごめん」

 聖花の後ろの席へと静かに着席した愛莉は、落ち着いた口調で謝る。その言動に聖花は異変を感じた。
 いつもの愛莉であれば、聖花~遅なってごめーんッ! と、子供ぽく謝りながら抱き着き攻撃をしてくるはずだからだ。


「クラブお疲れ様。後輩の指導、ギリギリまでするんよね?」

 聖花は平然を装い、いつものように話す。
 来年卒業を控えている愛莉は既にクラブ活動を夏に終えていた。
 今は十二月二十八日の終業式まで後輩の面倒を見ているだけのため、通常の帰宅時間よりも一時間ほど早い。


「聖花」

 愛莉はいつもよりも低い声で聖花を呼ぶ。まるで、余計な話はいらないとばかりに。


「なに?」
「私の言伝、聞いてくれた?」
 その言葉に聖花の心臓がドクリと跳ねる。乱れる鼓動と共に、冷や汗が一気に聖花の背中へと流れてゆく。

「こ、言伝って、斎藤さんの?」
「そう。私が伝えた」
「ぁ、あれってさ、本音なん?」
 愛莉に背を向けたまま問うた聖花の声や、太ももに乗せたスクールバッグの手提げ部分を強く握りしめる指先が怯えるように震えていた。

「そう。あれが本当の気持ち」
 愛莉は驚くほど冷静な声音かつ、しっかり伝わるようにゆっくりと答える。まるで感情が見えない。

「ッ⁉」
 愛莉の答えに聖花は息を飲む。心臓に剣を刺された気分だ。
 言葉と言う剣が深く心に刺さってしまえば、一生消えることはない。人生を歩んでゆくことでの致命傷となり得ることだってある。
 聖花は今まで色々なことを言われ、色々なことをされてきた。両親に隠れて泣き腫らした日も数えきれないほどある。そんな日々の中でも、今が一番強烈だった。後ろを振り向くことも出来ない。


「な、なんで……いきなり」

「いきなりやないよ。ずっと思っとった。なんでそんな瞳を持ってるんやろぉ? なんで、両親と違う瞳をしとるんやろお? なんでココにいるんやろお……って」

 抑揚のない声音で淡々と話す愛莉の言葉に、聖花の瞳から涙が止めどなく溢れだす。なぜそこまで言われなくてはいけないのか。なぜ愛莉が今になってこんなことを言い出したのか、聖花にはなに一つ理解できなかった。


「ッ!」

 もうこの場から消えてしまいたいとばかりに、聖花はスクールバッグを両手に抱え、震える足を無理やり立ち上がらせる。


「どこ行くん?」

 愛莉は聖花を背後から左腕を下にして抱きしめる。それにより聖花は逃げ場を失う。
 二人の間に一脚の椅子が挟まれながらも、二人は密着する。


「ぁ、愛莉……?」
 意味不明な愛莉の行動に困惑する聖花。そんな聖花の左耳に、『切れ』という白の指示が飛んでくる。


『封』
「ぇ?」
 白の意図を汲み取る前に思いっきり背中を突き飛ばされる聖花は、その勢いのまま前へと倒れた。
 抱えていたバッグが聖花の下敷きとなり、車のエアバッグのような役割をはたしたため、外傷や激痛に陥ることはなかった。


「⁉」
 聖花は何が起こったのか分からない。背後では愛莉が次の行動に移そうとしていた。


『背を向けるな!』
 白の指示が飛ぶ。

「ッ!」
 両掌をついていた聖花は走り込むように足の筋力を使い、身体を浮かせるように回転させた。先程身を守ってくれたバッグが背中に挟まる体制となり、息苦しさにみまわれる。
 先程まで聖花が座っていた椅子を持ち上げていた愛莉と視線が合う。その瞳からはいつもの温かさや優しさが消えていた。


「ぁ……いり? なん……でなん?」
 苦痛に顔を歪めた聖花は、目の前の現実を拒絶するかのように頭を左右に振った。

『何をボーッとしている! 転がるでもして距離を取れ!』

 愛莉はなんの躊躇もなく聖花へ椅子を振り落とそうとする。


「⁉」
 聖花は挟まれたバッグを踏切板のように使って身体を左側にゴロゴロと回転させる。
 どうにかこうにか身体を前進させた聖花は、ギリギリの所で愛莉との距離を取ることに成功した。

 その際、逃げ場の邪魔をしていた前の椅子二つが飛び散るが、聖花に外傷はない。
 回転の勢いのまま身体を起こすように左膝をついた聖花は唖然とした。


「ど、どこも痛くない?」
 聖花は自分の腕や足を回転させ、外傷がないと確認しながら首を傾げた。


『智白が渡した長刀のネックレスだ。先程の呪文により、それは碧海聖花の身を守る盾となる。椅子どころか、刀で切ろうとも弾丸で打たれようとも、かすり傷一つ負わない』


「す、凄い……。ぁ! さっきの“封”って言葉はもしかして……」

 聖花は推測の答え合わせをするようにそう言って、白の言葉を待つ。


『嗚呼。私が“封”と唱えれば、碧海聖花は封印されたように安全な場所に居られる』


「ぁ! もしかして、あの猫ちゃんの時にも? 確か言ってくれてはりましたよね?」


『嗚呼。黒崎玄音まで飛び込んできたがな』

「黒崎先生が守ってくれたんやと思っていましたが、恭稲さんも守ってくれてはったんですね」
 聖花はどこか嬉しそうに言った。


『契約を交わしたからな』

 白は、当たり前だとでも言いたげに小さく息を溢す。


『碧海聖花、油断も安心もしている場合ではないぞ。それは碧海聖花を永遠に保護する物ではない。次の一手を打たなければ、殺られるからな』


「つ、次の一手……ですか?」
 白の言葉に怯える聖花はどもりながら問う。


『碧海聖花が契約した内容の三つ目。“こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらう”という内容。もちろん、覚えているだろう?』


「……は、はい」
 何が指示されるのかと身構える聖花の返答には、少しの間が出来てしまう。


『ネックレスを外し刀先を床に向け、峰を掴んだまま“解”と唱えろ』


「わ、分かりました」
 聖花は意味が分からぬまま白の指示に従う。その間(かん)にも、いくつかの椅子が投げつけられていたが、安全地帯で守られている聖花には傷一つついていない。
 ネックレスを外し、親指と人差し指と中指で塩を一つまみ、のような形で峰を握り、解。と唱える。その瞬間、金属だったネックレスが本物の日本刀のように変化した。


「なっ⁉」
 木刀よりもはるかにあるふいの重みに耐えきれず、聖花の腕が床に持っていかれる。刀先がカッ! という音を立てて床に傷をつける。聖花はギョッと目をむく。
 デザインはネックレスの時の何一つ変わらないが、峰以外の部分が一般的な日本刀よりも幅が広い。小顔の聖花が横を向けば、刀の部分に隠れることができる。


『レプリカと思うな。それはもう人をも切ることが出来る。木刀を持つくらいだ、刀くらい振り回せるだろ?』


「え? 本物⁉ なんで? いや、私は木刀しか持ったことあらへんし。しかも大きすぎるっ! 一体どうなってはるんですか?」
 聖花はいきなりのリアル長刀に冷静さを失う。
 何がどうなっているのかさっぱり分からない。とばかりに眉根を下げ、オロオロ視線をさ迷わす。密やかに地団太まで踏むパニックぷりだ。
 落ち着きのない聖花の視線がある一点集中する。
 聖花の視線の先には、左手で椅子を引きずりながら聖花に歩み寄る愛莉の姿があった。


「愛莉……何してるん?」
 力ない声で問う聖花の口元が引くつく。もう何から何まで理解できない事ばかりで、聖花の脳も心も要領が追い付かない。


「それはこっちの台詞やで。そないに物騒なもんを出してきて。それに、さっきから誰と話してるん?」
 愛莉は柔らかな口調でそう言いながら怪しげな微笑を浮かべる。まるで、獲物をいたぶり殺めるかのように、じわりじわりと椅子を引きずる音と共に愛莉が歩み寄ってくる。


『何をしている。さっさと碧海聖花の目の前にいる守里愛莉を切れ』

「こ、殺せとゆうことですかッ?」
 愛莉の言動に続き、白からも耳を疑う指示が飛ぶ。聖花の全身に怖気が襲い、峰を握る手に力がこもる。


『まぁ、ある種そうなるな』

「ある種って……意味が分かりませんッ。何を言ってはるんですか? そないなことできるわけないやないですかッ!」
 叫んで否定する聖花に椅子が投げられる。
 聖花はとっさに横を向き、刀で顔を隠すようにしゃがみ込んだ。
 聖花の頭上を通り越した椅子は、シスターが立つ教壇に当たって破損する。破片した椅子の破片が聖花の背後へと飛び散る。安全県内にいる聖花には、かすり傷一つとして外傷はないが、繰り返される心の内傷が酷いだろう。
 天界のものへと繋がる場所でのこのような行為。すぐにでも神の制裁が落とされそうだ。


『五つ目の契約を忘れたのか?』

 白は威圧感のある声音で問う。余裕のある笑みを浮かべて、例のチェアに腰掛ける白の目尻が微かに動いたことが想像される。


「わ、忘れてなんかいません」

 焦る聖花はぶんぶんと首を振って否定した。
 白が提示してきた契約書。


〈これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす〉
 という内容が五つ目の条件として記載されていた。
 こんな物騒な条件を飲んだのだから、忘れたくとも忘れられないだろう。

『ほぉ。それでもなお契約を破ると?』

 どこか感心したような声を上げた白は、興味深げに問うてくる。


「ぁ、愛莉を殺すくらいなら私が死んだ方がええ。契約を破って命を落とすも、命を狙っている相手に命を奪われるも同じことです。逃げ場のない命なら、逃げ場のある命を守ります! 大切な人の命を守るッ!」

 聖花は悲痛に叫ぶ。
 聖花は白の想いをなんとなく感じ汲み取ることも、どちらが自分を守る選択になるのかも理解していた。だがこれだけは、相手の想いに応えることが出来なかった。たとえ自分を犠牲にしてでも。


『ほぉ。酷い言われようをしたのにも関わらず、まだ大切な人と言えるのか? 守ろうとしている対象に命を奪われそうになっている、のにも関わらずか?』


「ッ……」
 白の試すような言葉に臆してしまう聖花は、思わず言葉を呑み込んでしまう。
 そんな聖花に目もくれない愛莉は投げる椅子を失い、スクールバッグの中をごそごそと探っていた。


「誰となにを話してるんかはしらへんけど、聖花は優しいなぁ。いつだって優しい。こんな仕打ちを受けてるのに、まだ私を守ってくれるやぁ。自分の命より相手の命を守るねんな。でもな、自己犠牲主義でい過ぎたらあかへんよ。すぐに殺《や》られてしまうから」

 落ち着きある声音で話す愛莉は、バッグから折り畳みの小型ナイフ聖花に見せつけるかのようにして取り出した。


「なっ⁉」
 愕然と愛莉を見つめる聖花の指先が震える。


「聖花。優しさは時として仇となるんよ」
 愛莉は聖母のような温顔とは対照的に、冷徹な心で刃先を聖花に向ける。


『もう一度聞く。私の指示に従うか?』

 白はゆっくりとした口調に威圧感を含めて問う。
 今の白がどういう表情で何をしているのかは見て取れないが、決して逆らってはいけない雰囲気が声音からでも伝わってくる。


「ぜ、絶対に嫌やッ‼」

 瞳に涙を溜める聖花は思いっきり否定の言葉を叫んだ。
 絶対的意思表示として、自分の身を守っていた刀を投げ捨てる。それは初めて、聖花が汲み取った相手の想いや現状を拒絶した瞬間であり、自分の意志を尊重した瞬間だった。

 捨てられた刀は、カッランカラカラカラ……と音を立て、聖花の傍から離れていく。それにより、聖花は身を守る盾を失い、丸腰状態となってしまう。


『そうか。それが碧海聖花の答えか』

 白は鼻で笑う。


「聖花、さようなら」

 愛莉は聖花にナイフを向けたまま突進してくる。物を手に持って走ることに慣れている元テニス部の足は速い。足に力が入らない聖花は、ギュッと目をつぶるしか出来ない。


『なら……』

 白の声音と共に、白狐マスコットがもの凄い光を放つ。かと思えば、ストラップのチェーンが弾けて飛び散る。
 聖花の手首から離れた白狐マスコットが空中へと飛んでいく。思いも寄らぬ光に怯む愛莉は足を止め、左腕で自分の顔を覆うように隠して守った。

 その間にマスコットは姿を変えてゆく。時間にして数秒のこと。

 カツッ。という靴の音と共に、一人の青年が姿を現す。脇下まで伸ばされた白髪《はくはつ》がふわりと空中を踊り、主《あるじ》の背中に舞い戻ってゆく。


 異変を感じて瞼を開けた聖花は驚愕する。


 粉雪のようにキメ細い色白の肌。スッと鼻筋が通った綺麗な鼻。形の良い薄い唇は、どこか怪しげに弧を描いていた。

 右目の下にある黒子が印象的な切れ長のアーモンドアイ。その額縁には、濃い紫色の胡蝶蘭を閉じ込めたかのような色合いかつ、宝石のような透明感のある瞳が収められている。

 質のいいスタイリッシュなスリムスーツに身を包む身体は、百八十センチ以上あるであろう長身の八頭身。そこには余分な脂肪など微塵もついていない。


 RIHには沈み切った夕日に変わり、闇色と月光が差し込む。


 人工の光をスポットライトのようにして立つ二十代後半ほど青年には、高貴さと威厳さに満ち溢れているだけではなく、独特の色香がまとわりついていた。
 そんな青年を映し出すかのような、バイオレット・サファイアを彷彿とさせる瞳が、聖花を真っ直ぐに捉える。


 画面を通してしか見たことのない青年が今、聖花の目の前に立っていた。画面越しとは比べ物にならないほど美しく、人間には感じられぬ独特のオーラを放つ青年に、聖花の心が大きく強く、ドクリッ! と跳ねた。


「碧海聖花。今から私の駒になってもらおうか」

「……く、くとう……さん?」
 独り言のように問うた聖花の声は驚愕で震えていた。


「見れば分かるだろう? それにしても……相変わらずなあほ面をしているな」

 白は茶化すように鼻で笑い、靴音を響かせながら聖花に歩み寄る。


「なん、なん?」
 いきなり現れた見知らぬ青年に愛莉は怪訝な顔をする。


「なっ! ぁ、あほ面なんてしてません! 大体、駒ってなんなんで……ぁ、危ないッ!」

 反論しようとする聖花は悲鳴じみた声で白の危険を知らせる。
 白の背後を狙うように、ナイフを両手で握りしめた愛莉が突っ込んできていた。


「誰が、誰の、心配をしている?」

 鼻で笑う白はサッと膝を曲げ、ふわりと宙を一回転舞う。軽やかに愛莉の頭上でバク転をした白は、愛莉の背後で着地した。


「⁉」

 驚きで怯み足を止めていた愛莉の首の根を掴んだ白は、自分の方へといとも簡単に引き寄せた。その勢いにより、愛莉の手からナイフが零れ落ちる。
「愛莉ッ」

 愛莉が白の腕の中へ納まったことにより、聖花の心配の対象が愛莉へと切り替わる。


「碧海聖花。ここにいる守里愛莉を守るのか? 自分の命に代えて」

 白は獲物を捕らえるかのように聖花へ視線を送りながら問う。


「ぇ?」

 すでに脳も心も要領オーバーしている聖花はすぐに返答できない。


「もう忘れたのか? 私の指示に従わず、契約を破っただろう?」


「契約……」
 聖花はあの契約書の内容を思い出し、下唇を噛み締める。


「五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。
 碧海聖花はあの日、この条件を飲んだうえで恭稲探偵事務所と――私と、契約を交わした。そしてそれでもなお、碧海聖花は先程の選択を選んだ。自ら選んだその選んだ選択に、後悔はないと言えるか?」


「……はい!」
 少しの間が出来てしまうも、ハッキリと意思表明をした聖花は白を真っ直ぐ睨み据える。


「そうか」
 白は納得したかのように小さく息を吐く。


「なら、こちらはそれなりの対処をさせてもらおうか」

 白は凛とした重みある声音でそう言うと、左手を愛莉の懐に向ける。綺麗に整えられた爪は一瞬にして鋭利な刃先のように伸び、愛莉の腹部を貫いた。


「ぐっぅ」
 愛莉は苦しげな呻き声をあげる。


「ぇ……」
 聖花は瞠目する。何が起きているのか理解できない。
 そんな聖花を気にする様子もない白は顔色も表情も変えず、一気に爪を引き抜き、元の爪に戻した。

「愛莉―ッ!」
 聖花は悲鳴を上げるように愛莉の名を呼ぶ。
「騒ぐな。五月蠅い」

 さも鬱陶し気な白の前に三つに割かれた紙切れが舞い散る。白はそれら全ての紙を手中に収めた。


「ぇ? ぁ、あいり……? 愛莉は?」

 戦慄する聖花はパニックに陥り、愛莉、愛莉と繰り返し口にする。


「落ち着け。飼いならされたインコにでもなったつもりか」


「こ、こんな状況で落ち着いていられる人間なんているわけないやないですかッ‼」

 混乱している聖花の口調が自然と強くなる。そんな聖花に対し、白は気だるそうに小さな溜息をつく。


「碧海聖花が自らの命に代えて守ろうとした者は、傀儡(くぐつ)だ。残念だったな」

 不憫だ。とでも言いたげに、手中に収めた紙切れ三枚を突きつけるかのようにして聖花に見せた。


「く、傀儡? なにそれ? 愛莉やないの?」
 と、瞳に涙をめーいっぱい溜めてへなへなとしゃがみ込む聖花は、クエスチョンマークをいくつも頭上に浮かばせる。


傀儡(かいらい)とも言われるがな。こちらの世界ではクグツと伝えたほうが通じるかと思ったが……碧海聖花の知識不足か。傀儡とは平安時代以降によく使われるようになった操り人形だ。碧海聖花、見事に滑稽なほど騙されたな」

「操り人形? 騙された? いつから?」
 腰が抜けて立ち上がれない聖花は、憫笑を浮かべている白に答えを求めるように見上げた。


「やはり低品質な脳みそだな。自らの命に代えて守るという割には、偽物との区別もつかないのか。私の見解では、守里愛莉は教室に戻ってきた時点で傀儡となっていた」
 白は呆れ口調で言いながら、手中にある紙切れを白い炎で燃やす。妙なモノを残すわけにはいかないのだろう。

「どうして傀儡だと気がついたんですか?」
 愛莉のことで頭が一杯一杯の聖花は、白い炎のことに一切触れずに話を進める。


「癖だ」
「癖?」
 白の言う癖がどんなものかわからない聖花は、首を傾げながらオウム返しをする。


「嗚呼。守里愛莉は人に抱き着く癖でもあるのか? 碧海聖花に対し、ことあるごとに抱き着いていた」
「おっしゃる通り愛莉はスキンシップが多いですけど、抱き着き癖となんの関係があるんですか?」


「守里愛莉が人に抱き着くとき、右腕が必ず下になっていた。だがこの場で碧海聖花を抱きしめたとき、左腕が下になっていた。二十四時間立たずして癖が直るなど可笑しいとは思わないか?」


「そ、それだけで?」
 聖花は、そんな馬鹿な。とでも言いたげに首を左右に振る。


「癖は馬鹿にできない。それに、擦るように歩く足音も本来の音ではない。小柄で身軽な守里愛莉の足音は軽やかなものだった。その者が細やかな観察を怠って傀儡を作ったのだろうな」

「か、仮にそうだったとしても、間違っていたらどないしはるんですか? あれがほんまの愛莉やったら、愛莉は亡くなっていました」
 聖花は傀儡の愛莉を貫いた白の爪を恨めし気に睨む。


「私が間違うとでも?」

「ッ⁉」
 白の冷淡な流し目に恐怖を覚えたか、聖花は縮こまる。


「この私の決定打が癖だけのはずがないだろう?」

 白は、ん? とでも言いたげに首を傾ける。


「ぇ?」
 聖花は怪訝な顔で白の言葉を待つ。分かりやすい説明をしてくれなければ納得がいかないとばかりに。


「体温だ」
 左脳が優位に働くタイプなのだろうか。右腕を上の状態にし、低い位置で腕を組む白が一言で答える。
「体温?」
「碧海聖花に与えたピアスの左側。その機能については知っているな?」
 聖花は無言で頷く。


「右側のピアスはただの飾りじゃない。監視カメラ+人の体温が目視できるサーモグラフィ機能がついている。それらのデータは私が所持するデバイス達に転送され、常に確認とデーター所持ができるようになっている。現世界でのデジタルでは私の嗅覚は使えない。その為、それが嗅覚と同類のような役割となるわけだ。まぁ、私の嗅覚には及ばないがな」


「も、もしかして……昼食会の時に顔の位置を指示してきた理由はコレですか?」

 白の説明で合点がいったとばかりに問うた聖花は、フラフラと立ち上がる。


「嗚呼。碧海聖花の周りにいる人物の情報は必須だからな。守里愛莉の平均体温が36.5度に対し、傀儡は30℃。そんな体温で正常に動ける人間はいない」
 聖花は呆気にとられたように言葉を失ってしまう。


「残念だったな。傀儡ごときで契約を破るとは。斉藤由香里の言葉に惑わされたか? それとも、コンプレックスや自分を卑下する気持ちが、友を信じる気持ちすらをも飲んでしまったか?」

「……」
 聖花は自分が情けないのか悔しいのか、下唇を噛み締めて俯くことしかできなかった。


「碧海聖花。この結果は何故だ?」

「……他者に翻弄され、自分の持つ闇に負け、自分を見失ったから……ですか?」


「私に聞くな。私の答えは碧海聖花の答えでも真実でもない。ソレを答えだと感じたのであれば、碧海聖花にとってはソレが真実となる」

 いつものように何かを諭させるように言った白は、卵を掴むような形でふわりと手を上げて開く。


「汝、意図された姿、あるべき場所へと」

 呪文を唱える。白の掌から溢れだした霧のような煙がRIHに充満してゆく。
 壊されて飛び散っていた椅子や木片達が空中へ浮かぶと、全て人が意図して作った元の姿へと戻っていった。


「ぇ?」
 これにはさすがの聖花もスルーは出来ず、驚愕する。そんな聖花を尻目に、白はなすべきことをなしてゆく。
 綺麗な姿に戻った椅子達はあるべき場所へと戻り、何事もなかったかのように、平穏で美しいRIHの空間へと戻った。
 低音でありながらどこか軽やかな靴の音を響かせる白は、かすり傷一つない綺麗な手で、窓際に投げられた長刀を拾い上げる。


「封」
 白の呪文により、人をも容易に切れてしまう長刀が、元のネックレスの姿へと戻ってゆく。


「まぁ、気が済むまで自分の真実を考えるがいい」
 と、呆然と俯いていた聖花の首に手慣れた手つきでネックレスをかける。

 甘さの中に苦みのある果実を彷彿とさせる優雅なネロリの香りと、知性の色香を漂わせるムスクの香り達が、聖花の鼻腔を擽った。


「私がこの場から去ったら三十秒数えろ。数え終わり次第保健室へと向え」

 白は聖花の左耳に微かな声で伝える。


「ッ」
 聖花の耳や頬が一瞬で赤く色づく。そんな聖花を赤子だとでも言いたげに、口元に弧を描いた白は、靴の音を響かせてRIHを後にした。

 一人残された聖花はへなへなとその場にしゃがみ込み、魂が抜けたかのように呆ける。色々なことを含め、聖花には刺激が強すぎたのだろう。



「ぁ!」
 白が去った数秒後に我に返った聖花は慌てて三十秒数え始めた。


(せやけど、なんで三十秒数えなあかんねんやろぉ? ってか恭稲さんどこ行ったんよ。そもそも本物の愛莉はどこに行ってしもたんや……こんな呑気に数えてる場合やないんとちゃうやろか)
 そんな焦る思いが、自然と数えるスピードを速くさせる。


「よっし!」

 三十秒数え終えた聖花は訳も分からぬまま、転がった自身のスクールバッグを背負い、指示された保健室へと走るのだった。


  †

「失礼します」
 聖花はそう一言挨拶をいれて保健室へと入る。


「来ましたね」
 質のよさそうなビジネススーツに身を包むモデル体型の男性が聖花の前に立つ。

(だ、誰?)
 聖花は見知らぬ男性をきょとんとした締まりのない顔で見上げる。白よりも少し低いようだがら、167センチの聖花が見上げるくらいだ。相手の身長は180センチはあるだろう。

 長身だと威圧感を与えることもあるが、ふわふわと柔らかなパーマをかけている甘栗色の髪型によって、ほんの少しの安心感を与える優しい印象になっていた。
 シャープなフェイスライン。目尻などに皺があるものの、白に負けず劣らずな美顔をしている。ヘーゼルの瞳はどこか人間らしさに欠けているものの、穏やかな笑みを浮かべていることで、聖花が身構えすぎることもない。


「えっと……」
「貴方に名乗る気はありません。今はまだその時ではありませんからね」
「ぇ?」
 誰かと問う前に、答えの扉を閉じられてしまった聖花は戸惑う。

「貴方がお探しの守里愛莉さんでしたら、あちらで眠っていますよ」
 穏やかな口調で話す謎の男性は、保健室にある三台のベッドの左側を指差す。

「どうして?」
「私を疑うのはお門違いですよ。安心なさい。死にはしていません」
 と、怪訝な顔をする聖花に微笑を浮かべる。

「それでは、私はこれで……」
 謎の男性は聖花が何かを言う前に、聖花の耳元でそう告げると、白よりも少し重い靴の根を響かせ、保健室を後にした。その際、聖花に気づかれぬようスクールバッグに細工を施すことを忘れずに。

「ッ⁉」
 聖花は反射的に右耳を右掌で包み込み、男性と距離を取る。
 男性は既に遠くの方へと歩いており、その歩く後ろ姿はモデルのように凛とした美しさがあった。
 聖花は不思議そうな顔で何かを考えこむ。


(あの人の声……どこかで……いや、でもあんな人初めて見たし。気のせい? 芸能人とかの声と勘違いしてる?)
 う~ん。と唸るように大きく首を傾げていた聖花であったが、カラスの鳴き声で我に返る。


「愛莉!」
 愛莉が眠っているベッドまで瞬間移動でもしたのかと思うほど俊敏に移動した聖花は、恐る恐る桜色のカーテンを開ける。

「ぁ、愛莉……?」
 おずおずと声をかける。先程の今では通常通りに接することは難しいだろう。
 規則正しい呼吸で掛け布団を微かに上下させながらベッドで横になる愛莉が本物なのか傀儡なのかを、頭の片隅で考えているに違いない。


「愛莉……寝てるん?」
 無言の愛莉を覗き込むように顔を見る。瞼は閉じられ、静かな寝息を立てている。

「ちょっと堪忍ね」
 聖花は眠っている愛莉を起こさぬよう、首までかかっていた布団をはがす。顔、首、手、足と言う風に、外傷はしていないかと確認してゆく。

「どこも怪我してへん」
 胸を撫で下ろした聖花は愛莉の首元までそっと布団をかけなおす。
 愛莉はよく眠っており、一向に起きる気配を見せない。
 聖花は愛莉を起こす勇気が持てず、ベッドサイドに置かれている白色の背もたれ付きチェアーにそっと腰を下ろし、愛莉が目覚めるのを静かに待つのだった――。



  †



 完全下校の時間を十五分過ぎた十八時十五分。

 百合泉乃中高等学園。


 冬季でクラブ活動にさえ使用されない水のはっていない六コースあるプール。通常であれば人一人いないはずだ。だが今は、美しき青年が一番コースに腕組をしながら立っていた。

 青年の白髪《はくはつ》が風に揺れる。恭稲白だ。



「白様」
 美しき顔を持つ五十代前半程の男性が白の名を呼び、軽やかに一番コースへと舞い落ちると、白の前で片膝をつく。

「智白か。……また妙なものを」
 肩越しに振り向いた白は微苦笑を浮かべ、また何事もなかったかのように正面を向く。

「申し訳ありません。本来の姿では目立ちすぎると思いましたので」
 と、ゆるふわパーマの甘栗色髪を鷲掴んで引き剝がした。少しハリやツヤが失われた本来の白髪を慣れた手つきで整え、センター分けのセミロングという元のセットに手櫛で戻す。

 渋栗色のヘーゼル色のコンタクトも外され、少し煌めきが薄れたバイオレットの瞳が姿を現す。
 白の瞳がバイオレット・サファイアとするならば、智白の瞳はパープルスピネルを彷彿とさせていた。
 目尻などに皺があるものの、大人の魅力と知性を感じさせる美しき顔立ちが目を引く姿こそ、智白の本来の姿だった。


「例の男と少女は?」

 智白は跪いたまま唱える。


「すでに消えている。覆っていたブルーシートに癒着した匂いからして今から五分前といったところか」

 白はソレを想定していたかのように、興味なさげに答える。


「そうですか」

 智白はそれ以上深入りすることもなく、理解しましたとばかりに相槌を打った。


「そちらは?」
「小生は白様のご指示通りに」
「香りは?」
「白様のご想定通りでございます」

「そうか。では明日《あす》だな」

 ほくそ笑む白の白髪を風が大きく躍らせる。それと共に、白い光に包まれる白。光が消えさった時にはもう、白の姿が元の白狐ストラップに戻っていた。


「明日で全てが終末へと向かうか、新たな始まりとなるのか……」

 智白は誰に届けるでもない呟きを溢しながら、拾い上げた白狐ストラップをそっとスーツの左ポケットにしまいこみ、その場を後にするのだった。

  †

「んっ~」
 愛莉は小さな声を上げながら目を覚ます。
 まだ心の準備が出来ていなかった聖花はビクリと肩を震わす。

「ぁ、愛莉? 大丈夫?」
 立ち上がる聖花は少しどもりながら愛莉に声をかける。

「う~ん……聖花?」
 ベッドに両肘をついて上半身を起き上がらせる愛莉は、聖花をボーっと眺める。視界が定まらないのか、瞳が乾燥しているのか、何度もまばたきを繰り返す。


「そう。聖花。えっと、身体とか何ともない?」
「何ともって?」
「気分が悪い~とか? どっか痛い~とか?」
 聖花は愛莉の足元を見ながら話す。


「それはないんやけど……なんでうち保健室で寝てたん? 全く記憶がないんやけど」
「記憶がないっていつからの?」
「呼び出された校長先生と話した後、教室に戻ろうとした時から?」
「なんで疑問形?」
 質問を疑問で返された聖花は苦笑いを浮かべた。


「なんかな、最後に誰かに名前呼ばれたから振り返ったんやけど、そこには誰もおらんくって。気味ぃ悪ぅなって急いで教室に返ろうとしたんよ。振り向いた瞬間、首に痛みが走って――からの記憶があらへんのよ」
 愛莉は探偵のごとく、人差し指と親指で顎先を摘まみながら話す。


「愛莉を呼び止めたんって黒崎先生?」
「ちゃう。若い女性の声――ぇ、ホラー⁉ うち、神社でお祓いしてもらったほうがええやろか?」
 顔を真っ青にした愛莉は両手で頭を抱える。


「多分、ホラーとちゃう。うちのせいや……」
「は? なんで聖花のせいになるん?」
 愛莉は不思議そうに小首を傾げ、聖花の答えを待つ。


「――……」
 すでに契約を破ってしまっている聖花だが、そう簡単に命を狙われています。とは言えないのだろう。それに、契約を一つ破ったからといって、契約をほいほいと破り続けるわけにもいかないのだから。

「……言われへんの?」
「ごめん」
 聖花は両拳を握りしめ、硬く目をつぶって苦しそうに謝る。

「ならええけど……ほんまはよくあらへんけど」
 不服気に伝えてくる愛莉と視線を合わせられずにいる聖花は、自身の上履きを見つめながら、ごめん。と口にする。


「なぁ、なんでさっきから視線合せてくれへんの? なんかあったん?」
「そ、それは……」
 聖花は次の言葉を失い、お腹の前で指先をごにょごにょと遊ばせる。何か言うべきだと考えてはいるが、傀儡に言われた愛莉の言葉が脳裏にこびりついて離れないのだろう。


「聖花」
「うん」
 と、落ち着いた口調で自身の名を呼ぶ愛莉に頷く。


「聖花」
 視線を合わせることのない聖花を再度呼ぶ。その愛莉の声はとても優しく、温顔だった。

「なに?」
 呼びかけには応じるが、聖花が愛莉と視線を交わすことはない。
 愛莉は仕方ないなぁ。とでも言うように小さく息を溢し、肩を竦める。

「き~よか」
 ベッドの上で両膝立ちをした愛莉は、聖花の首に腕を回して抱きしめる。

「⁉」
 聖花は不意のことに目を見開く。


「大丈夫。何があったんかは知らへんけど、大丈夫やから。うちはいつだってあんたの味方や。例えなにがあろうとも、あんたがどんな姿をしていても、何であろうとも、うちはあんたのことが大好きやから」
 傷ついた幼子を慰めるかのように柔らかな口調で話す愛莉は、半ば強引に聖花と視線を合わせる。

「ッ」
 愛莉の言葉に聖花は言葉をつまらせる。言葉の代わりに、聖花の瞳から涙が滲んでゆく。

「やっぱり、あんたは泣き虫やなぁ。……誰がなんと言おうと、あんたの宝石のような瞳は、世界で一番綺麗やから。もっと堂々としててーな。あんたにはうちも家族もついてるんやから。独りやないんやからね」
 と、愛莉は聖花を抱きしめる腕に愛を込める。先程より密着されたことにより、愛莉から香る微かなお線香の匂いが聖花の鼻腔を擽った。傀儡の愛莉には感じられなかった香りだ。そしてその香りは、聖花にとって馴染み深いものだった。

 もう腕の位置や体温を確かめる必要もない。その香りは、毎朝祖父母にお線香をたいて家をでる愛莉特有の香りなのだから。


 聖花はお線香特有の香りに交じる季節外れの桜の香りと、愛莉の愛に触れたことにより、目の前にいる愛莉が傀儡でないことを確信する。それは、いつも一緒の時間を過ごしていた聖花だけが分かる、答えの導き方だった――。