†
翌日。
十二月十八日。水曜日。
午前六時三十分――。
「はぁ……」
目覚ましを止めた聖花の口からは重い溜息が零れ落ちる。昨夜は眠れなかったのか、目の下にクマが出来ていた。涙を流したことで白目が充血しており、より赤色の瞳が目立ってしまっている。
「学校……休んでしまおうかなぁ」
心身ともに重いのか、聖花は木刀を握りしめたままベッドから起き上がろうとしない。
「聖花~。大丈夫? もう起きてるん? 学校、今日も行くんやろお?」
いつもの時間にリビングにやってこない娘を心配した響子は扉をノックし、心配そうにそう言った。
(行くんやろお? あの語尾の音。“やろぉ”と“か?”って語尾はそれに対して否定的なことが多い。今の場合は、学校に行かんといて欲しいんやろうなぁ。ほんまやったらお母さんはあの脅迫状が届いていた時点で、私を心底学校へ行かせたくあらへんかったはずやし)
母の心情を悟る聖花の口から重い溜息が零れ落ちる。
『学びの場へ行くも行かないも好きにしろ』
左耳から不意に流れる白の音声に、聖花の両肩がビクリと動く。昨日の今日では答えが出ることもなく、考え方が変わることもない。何と返答すればいいか言葉を探る聖花の眉間に皺が寄る。
『どちらを選んだとしても、私は依頼者を守る。それに変りはない。自分の意志で選び生きてゆけ』
白はそう言葉を残すだけ残し、回線を切った。聖花の口からは重苦しい息だけが零れ落ちる。
(別に気にせんでええやん。昨日のことだって今更って感じやし。久々言われたから驚いただけやし。それに、今は愛莉がいてくれる。もう一人やないもん)
聖花は両頬を両掌で叩き、自身に気合を注入する。
「よっし! 学校行こう」
登校を選んだ聖花はその旨を白に伝え、いつものルーティーンをこなし、母親と共に家を後にした。
八時二五分――。
「ぁ、聖花!」
教室に入ってくる聖花に気づいた愛莉は嬉しそうに駆け寄る。その愛莉の笑顔に聖花の口元が自然と緩む。ざわついていた心が穏やかになったのかも知れない。
「愛莉、おはよう」
聖花は昨日のことなど何もなかったかのように、いつもの口調と笑顔で挨拶を交わしながら自分の席に着く。愛莉は聖花の傍に引っ付いてゆく。
「おはよう。ちょっと寝坊した?」
「ほんの少し」
他愛のない挨拶が今の聖花にとって、安堵と喜びを感じさせた。
愛莉が普通に声をかけてきてくれること、自分の顔を見ながら話してくれることが嬉しいのだ。
「眠れんかったん? クマもできてるし。なんかあったんちゃう?」
愛莉は聖花の正面で両膝を折ってしゃがみ込む。
「なんもあらへんよ。大丈夫。おおきに」
聖花は愛莉を心配させまいと気丈に振舞う。それに対し愛莉は不服そうに溜息を吐いた。
「でたな。聖花の“おおきに”の台詞」
「?」
何のことを言っているのか分からない聖花はきょとんとする。
「聖花がおおきにって言う時は気持ちだけ受け取るけど……って感じやもん。一種の壁が出来たみたいや。別に何でも言ってきてくれたらええのに。うちはそないに頼りないんか?」
捨てられた子犬のごとくしょんぼりする。若干故意に思えてしまうあざとさがある表情ではあるが、気持ちは本音なのだろう。
「そないなことあらへんけど……」
聖花はバツが悪そうに愛莉の視線から逃れる。それでなくとも、命を狙われていることや恭稲探偵事務所についても秘密にしているのだ。嘘が苦手な聖花にとっては、良心が痛むのかもしれない。
「まぁ、言いたないなら別にええけど」
愛莉はしょうがないなぁと言う風に小さな息を溢す。
「なんかごめん」
聖花は思わず謝る。
「ええよ別に。せやけど、あんまり一人で抱え込み過ぎたらあかへんよ? 独りやないんやからね」
幼子に言い聞かせるような優しい口調でそう言った愛莉は、「じゃぁ、また昼休みに」と、机にのっている聖花の手の甲を励ますようにポンポンと叩き、自分の席へと戻っていった。
「……ありがとう。愛莉」
席へ戻っていく愛莉の背中を見送っていた聖花の口から、感謝の気持ちが零れ落ちたのだった。
†
二限目を終えた小休憩。
なぜか愛莉は校長室へ来るようにと、校長先生直々に呼び出しがあった。
愛莉が素行を起こすわけもない。聖花の知る限り、学園内でトラブルに見舞われている様子もないし、自らもめ事を起こすタイプでもない。それにもし何らかのトラブルがあったのなら、担任からの呼び出しがあるはずだ。
怪訝に思う聖花に対し愛莉は、もしかして教員免許取ったらこの学園の先生できるって話やないやろか? と、至ってポジティブな解釈の元、意気揚々と校長室へ向かった。
話しはすぐにすむだろうと思っていたが、待てど暮らせど愛莉は教室へ戻ってこなかった。
それだけでも不思議に思う要因であるのにも関わらず、校内中に三限目の始まりを告げるメロディーが響き出してもなお、愛莉は教室に戻ってこない。流石に不審のピークを達した聖花は、女子トイレの個室へと駆け込んだ。
「開」
聖花はこの事を白に相談するべく、初めて自ら白への回線を繋ぐ。
ぶつ切りの機械音が響いた後、『どうした?』という白の声が聖花の左耳へ届く。
「ぁ、今話しても大丈夫ですか?」
急を要するにもかかわらず相手への配慮を忘れない。それはもう癖に等しいのかもしれない。
『かまわない。無駄話ではないのだろう?』
「……た、多分?」
改めて問われると不安になる聖花だ。自分が不審に思うだけで、白にとってはなんら問題ないことなのかも知れないと考えると、一気に口が重くなってしまう。
『言ってみろ』
白は聖花の話を動かす。
「はい!」
それに安堵した聖花は力強く頷き、話し始める。
「二限目を終えた小休憩中に、愛莉が校長先生に呼び出されたっきり、一向に教室へ戻ってこないんです」
『どこに?』
「校長室です」
『それで?』
「そ、それでって……」
聖花は白の思わぬ返答に思わず怯んでしまう。
『気になったならその場をついてゆけば良かっただろう? 今も気持ちばかりで行動が伴わない。気になるなら校長室に出向くなり探すなりすればいい。碧海聖花は私の指示がなければ行動できなくなってしまったのか? 私は自身でも命を守る言動を求め、私の指示に従ってもらうとは言ったが、私が指示する以外の言動について縛った覚えはない。もし仮に私が、碧海聖花の友人の命の危機を無視をしろ。と指示を出せば、それに従うのか?』
「⁉」
白に言われハッとする聖花は何も言葉を返せない。
『自由にしろ。何かあればこちらが対処する。但し、白狐ストラップは肌身離さず持っていろ』
白はそう言うだけ言うと回線を切った。
「ぇ? ちょっ」
聖花の引き止める声は白に届くことはなかった。もし仮に届いていたとしても、聞き入れてもらえないだろう。
「……行こう」
意志を決めた聖花は急いで教室に戻り、スクールバッグを肩にかけ、校長室へと向かった。
「ぇ? 三限目が始まる前に戻っていたんですか?」
「えぇ。話を終えてすぐにね。授業が始まるのが分かっていて長居はさせないわよ」
驚く聖花に優しい口調で答えるのは六十代前半程の女性。常にシスターの服に身を包み、ベールを前にして素顔を隠している人こそ、百合泉乃学園の校長先生だった。
校長先生の素顔を知る生徒は、卒業を迎えた生徒達だけと決められていた。その為、生徒達からは影で色々な噂が立っていた。勿論それは校長先生も感づいてはいたが、あえて咎めようとはしない。
校長先生が素顔を隠していることや、卒業を迎えた生徒にしか素顔を現さないのにはちゃんとした意図があった。聖花がそれを知るにはもう少し後のことになる。
「そうですか。分かりました。お忙しいところ、貴重なお時間を割いてしまいすみません。ありがとうございました」
聖花はそう言って会釈をすると、失礼いたしました。と、足早に校長室を後にした。
「なんで三限目に戻ってこんかったんやろか? なんかショックなことでも言われてしもうて、そんでへこたれて授業をボイコットした? いや、愛莉に限って……。もう教室に戻ってるんやろか?」
無駄足を運ぶことになってしまった聖花はブツブツと独り言を言いながら、駆け足で自分の教室へと戻る。
「おらへ~ん」
聖花は教室の後ろのドアの上部にあるガラス窓から教室を盗み見る。
教室には愛莉の席と聖花の席に空席が出来ていた。
「愛莉~」
情けない声で愛莉の名を呼ぶ聖花に気づいた一人の生徒と目が合う。
聖花は慌ててしゃがみ込む。が、時すでに遅し。生徒の視線に気がついた担任の谷本純子は聖花に近づいてくる。
逃亡しようかと思った矢先、控えめな音を立てて教室の引き扉が開け放たれた。
「碧海聖花さん。そこで何をしているのですか?」
落ち着きある凛とした声音と呆れが滲む小さな溜息が、しゃがみ込む聖花の頭上に落とされる。
「すぐに立ちなさい。今は避難訓練の時間ではありませんよ」
「は、はい!」
担任の静かなお叱りを受けた聖花は慌てて立ち上がり、乱れていた制服を掌でサッと整えた。
「お戻りになられていたのなら、早く教室に入りなさい」
純子はさしてズレていない丸メガネの右レンズの下縁を、右人差し指の第二関節で上げる。
「はい……。あの、守里愛莉さんは?」
聖花はおずおずと問うてみる。
「守里愛莉さんはまだお戻りになられておりません。人のことはよろしいですから、貴方はすぐに自分の席へついて下さい。授業を再開させますから」
純子はしなやかに誘うよう掌を聖花の席へと動かす。
こうなってしまえば、二つ返事で自身の席へと着くしかない聖花であった。
その後、四限目が終わりを告げてもなお、愛莉が教室に戻ることはなかった。
†
「ここにもおらへんかった」
四限目の授業が終わってすぐに保健室へと直行した聖花であったが、そこに探し人の愛莉の姿はなく、がくりと肩を落とす。その肩にはスクールバッグを背負ってはいない。その代わり、白狐ストラップが左手首に付いていた。
ゆとりが持てる長さかつ太めに作られたチェーンは、ちょっとやそっとのことでは切れなさそうだ。
腕時計のように手首につけられることを授業中に閃いた聖花は、さっそく実践している。つけてみれば聖花の手首には少し大きすぎるサイズであったが、大ぶりなマスコットなら落とすまでに気がつくはずだと、妙な安心感と共にそのまま着用している。
バッグやスマホにつけているよりも持ち運びが身軽になるうえ、肌身離さず持っていられるとご機嫌だ。それに対して愛莉のことには、どんどんとネガティブに落ちて行っていた。
(愛莉になんかあったんやろか……)
どんどんネガティブ陥ってゆく思考を振り払うかのように、お風呂上がりの大型犬のごとくがぶりを振った。
「……ECに行ってみよう!」
昨日の今日でECに向かう足取りも心も重いが、聖花はそれ以上に愛莉の事が気がかりだった。
その後の授業を心ここにあらずで受けた聖花は昼休みが始まった直後、お弁当も持たずにECへと駆けていった。
「あれ? 今日は黒崎先生のグーループがおらへん」
EC出入り口の近くにある太い柱に身を隠しながら、EC内の様子を目を凝らし見ていた聖花は不思議そうに呟く。
カップルや友人同士。帰国子女と思しき人達と生徒。外国人の先生と金髪美少女が英語で会話をする声が響く。日本語や英語やフランス語。多用の言語が飛び交う中で愛莉の可愛らしくも元気な声は響いてこなかった。
「愛莉……ほんまに何処に行ってしもたんやろぉ?」
情けない声を出す聖花の肩を背後からトントンと、誰かが叩く。
「ッ⁉」
ビクリと身体を震わして驚く聖花は、身体全体を使って飛びのくように振り向く。
「ぁ、春香ちゃん」
馴染みある顔に胸を撫で下ろす聖花の瞳には、心配そうな顔をした春香の姿が映る。
「聖花先輩、そんな所でこそこそされてどうされたんです? 今日は一人ですか?」
巾着型のランチバックを抱えた春香は不思議そうに小首を傾げる。
「ぁ、えっと。今日は一人。ランチしに来たわけやないんよ」
聖花は悪事を見破られた子供みたいに視線をキョロキョロさせながら答えた。
「今日は愛莉先輩ご一緒じゃないんですか?」
「うん。そう。春香ちゃん、愛莉が何処におるか知らへん?」
頷く聖花は春香に救いを求める。
「えっと、すみません。分からないです。愛莉先輩が校長先生にお呼び出しされていたことは知っているんですけど」
お役に立てずに申し訳ない。とばかりに眉根を下げた春香は控えめに首を振る。
「そっか。ちょっと変なこと聞くんやけど……」
ええかな? と言うように眉をㇵの字にする聖花に対し春香は、「はい。何でしょうか? 私でよければ何でも聞いてみて下さい」と、笑顔で答えた。
「ありがとう。あんな、春香ちゃんの周りで今日可笑しなこととか起きへんかった? なんかいつもと違うことがあったとか」
「ん~……。しいて上げるなら、二限目が自習になってラッキーと思ったり? ぁ! 後は昼休みに他の生徒達が一緒にお昼を、と黒崎先生をお誘いしていたんですけど、今日は断られて教員室にお戻りになられていました。赴任してからずっと、生徒達とお食事されていたんですけどね。やっぱり年末年始はお仕事がお忙しくなるんでしょうかね?」
左頬に左手を当てる春香は不思議そうに言いながら、コテンと首を傾げて見せる。けして嘘をついているようには見えない。
「やっぱり愛莉先輩に何かあったんですか?」
「ううん。なんもあらへんよ。大丈夫。話してくれてありがとう」
聖花はこれ以上春香を困らせたり、心配させてはいけないと、笑顔で話を切り上げた。
「愛莉先輩を見つけましたら聖花先輩にお知らせしますね」
春香はそれ以上は深入りはせず、援護するような言葉を投げかけて微笑む。今の聖花にはその配慮がありがたかった。
「ありがとう。じゃぁまた」
聖花は足早にECを後にした。
†
「!」
ECを出てすぐ、再び斉藤由香里が聖花の目の前に現れる。
「さ、斎藤さん……ッ」
委縮して逃げ腰になる聖花に対し、由香里は温柔の顔で聖花に近づく。
「碧海聖花さん。守里愛莉さんを探してはるんですよね?」
「‼」
聖花は由香里の言葉に目を見開く。
「ぁ、愛莉に何かしたんですかッ⁉」
強めの口調で問うた声は震えを帯びていた。
「別に、私は何も。ただ、言伝を頼まれただけです」
余裕の笑みを浮かべる由香里に対し、聖花は焦る。
「あ、愛莉が貴方へ言伝を頼むとは思われへんのですが」
不穏な空気を漂わせる由香里に聖花は距離を取る。
由香里から昨日のヒステリックさを微塵も感じられない。
人間らしさ全開だった昨日に対し、今の由香里はまるで感情を失っているかのように落ち着きをはらっていた。
怖いと言って逃げ出した自身の瞳を平然と見つめてくる由香里に恐怖を感じた聖花は、左手首につけていた白狐ストラップの胴体を、無意識で包み込むように左手で握っていた。
「碧海聖花さんがそう思われるのは自由です。ですが、私はちゃんと言伝を頼まれているんです。『もうあんたのことは知らへん。うちに構わんといて。ずっと言えんかったけど、あんたの瞳に見つめられると、息がつまるんよ』と」
由香里は聞いてもいない言伝を穏やかな口調で告げる。
「……う、嘘や! 愛莉がそないなこと言うはずあらへんッ」
聖花は由香里の言葉を信じまいと、左右に激しく首を振る。
「そう思いたい気持ちは分かりますけど、これが事実なんです。可哀そうな先輩」
聖花はどこか勝ち誇ったような微笑を浮かべる由香里に言葉を失ってしまう。
「斎藤由香里さん!」
二人の話に割って入る若い男性の声。
聖花が声の先に視線を移せば、黒崎玄音の姿があった。
走ってきたのだろうか? 髪が少し乱れ、肩がゆっくり大きく上下していた。
「黒崎先生!」
愛しの人が現れたことにより、由香里の声音が上がる。と同時に、顔色に焦りの色が滲む。
「斎藤由香里さん。そこで、なにをしているんですか?」
焦りの色を滲ませた顔色の黒崎がいつもよりも低い声音で、由香里を咎めるかのように問いながら、聖花をかばうように由香里の前に立つ。雑音が微かに混じった黒崎の靴音に聖花は気がつかない。
「べ、別に私は何も……していません。わ、私は事実をお伝えしたまでですっ」
叱られる子供のように俯きながら言った。
「事実って……」
由香里の言葉をすぐに理解する黒崎は聖花に視線を合わせた。まるで、愛莉の言伝を黒崎も知っていたようだ。黒崎の反応により、嫌でも由香里の話に真実味が増してしまう。
「黒崎先生ッ。今まで何処にいはったんですか? 私、愛莉……探して、それで……ッ」
混乱する頭で言葉を紡ごうとする聖花の瞳に涙が滲みだす。
「碧海聖花さん……」
黒崎は不憫に思うような瞳で聖花を見つめ、投げかける言葉を探す。
「愛莉は?」
聖花は黒崎の言葉を聞くまでもないとばかりに黒崎の両腕を掴む。
「愛莉は今は何処にいるんですか?」
叫びたい気持ちを押し殺して問うてはいるが、黒崎の両腕を掴む力は強い。
気が動転している聖花は、黒崎のスーツが少しひんやりと冷えていることに気がつかない。
「守里愛莉さんは今、Room leading to heavenにいます。ですが、今日は会われない方がい……ッ!」
聖花は黒崎の言葉を最後まで聞かず、Room leading to heavenに走る。
Room leading to heaven.直訳すると、天国にあります。天へ通じる部屋=天界部屋と認識されており、生徒達からは、RlH(リフ)という名で親しまれていた。
悩みごとや願い事。感謝や懺悔などといった色々な想いを天界へと届けるため、生徒達や職員が訪れるのだ。
それだけではなく、クリスマスなどのイベント時は賛美を合唱することもある。
聖花も愛莉と親しくなるまでは毎日のように訪れていた。聖花と愛莉が出会い、距離が縮まっていった思い出の場所でもある。
聖花は教員達の目を気にしながらRlHへ向かうため、西館から南館へ駆けてゆき、北館の三階を目指す。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
教員達に見つからないように駆けてきた聖花であったが、北館についたところで足が止まる。
(……このままRlH(リフ)に行って愛莉がいたとして、もし、もしも斎藤さんの言伝がほんまやとしたら……いや、そんなことあらへん)
と、襲ってくる不安や恐怖といった負の感情を押し出すように、がぶりを振る。だがいくら感情や思考を変化させようとしても、悪い想像ばかりが聖花を埋め尽くす。
(あかん……今日は止めよう)
聖花はRIH(リフ)を目の前にして引き返す道を選ぶ。それに対し白が口出しすることはない。
その後。
聖花は具合が悪いと保健室に籠り、五限目をズル休みするのだった。
「はぁ~」
聖花は重い溜息と共に、後ろの扉から教室に入る。視線を動かし愛莉を探す。愛莉は自分の席につき、他のクラスメイト達と談笑を交わしていた。
「愛莉~」
胸を撫で下ろした聖花は安堵したような声音で、愛莉の名を呼ぶ。声が小さかったのか、愛莉に届くことはない。
それでも聖花の視線に気がついたのか、愛莉が聖花の方へと振り向く。
聖花は胸の前で控えめに掌を振ってみる。駆け寄ってゆけないのは、不安と恐怖が打ち勝ってしまっているからだろう。それでも普段であれば、愛莉の方から笑顔で駆け寄ってきてくれるはずなのだが、今回は違った。
愛莉は何事もなかったかのように視線をクラスメイトに移し、談笑の続きを始めたのだ。
(今、無視……された?)
聖花の心臓がドクリと重く打つ。今の聖花では、愛莉の行動が故意だったのか判断が出来ない。喧嘩した覚えも、無視されることをした覚えもない聖花は恐怖と焦りで視線が定まらない。ふと、視線が中央で談笑をしていた女子生徒と合う。聖花と目が合った生徒は瞠目し息を飲んだかと思うと、慌てて視線を外す。
「ッ」
聖花はバツが悪そうに下唇を噛み、視線を上履きに落とす。
白の上履きには、左足の外踵部分に百合の刺繍が赤い刺繍糸で施されていた。白色に赤色がよく映えていて、聖花の気分をより落とした。
聖花はこの教室でも幾人か馴染めていない生徒達がいた。馴染めないと言うより、生徒達が聖花の瞳を受け止めきれていないだけだ。親しい愛莉がいなければ、聖花の学園生活は勉学を勤しむだけのモノクロ世界なのかも知れない。
聖花は自分の席へ着き、授業を受ける気持ちに切り替える。何か違うモノに集中していれば、この嫌な胸の鼓動も感情も落ち着くだろう。と考えているのだろう。
そんな聖花の願いとは裏腹に、聖花の持つ負の感情は時がたつにつれて、大きくなるばかりだった。
*
放課後――。
すべての授業が終わりを告げた。
あの後からも、聖花と愛莉が言葉を交わすこよも、視線を交わし合うこともなかった。
『碧海聖花。いつまでうじうじしている。うじうじ虫にでもなったのか?』
痺れを切らしたかのように白が言葉を発す。
「うじうじ虫って何なんですか? 恭稲さんには関係ないじゃないですか。だってコレは命に係わることやないですし。なんかわけわからんケンカみたいになってしもうてるだけで、事件とは関係あらへんはずやもん」
聖花はどこか不貞腐れたように小声で話す。
教室には幾人かの生徒達が残っているが、その声を聞きとれる者はいないだろう。それほどまでに聖花の声は小さい。
『うじうじ虫の次は当たり屋か』
呆れたように言った白は小さな息を溢す。
「当たり屋? 運転した覚えも、当たり屋をした記憶もないですけど」
『八つ当たり屋』
白は一言で答える。
「八つ当たりをした記憶もないですけど」
そういう聖花の声音には苛立ちの色が含まれていた。白と話す聖花は感情が露わになりやすい。
『そうか。まぁ幼子では、自分の感情に鈍感なのも仕方のないことか』
「私は幼稚園児や小学生じゃありません」
『なら何故、心に眠る自分を見てやらない。そのような態度ばかりでいると、育児放棄も同等だと思うが』
「昨日から何なんですか? 心に眠る自分とか、育児放棄だとか意味の分からないことばかり」
聖花はかりかりしながら問う。その鼻息は少し荒い。
『意味が分からなければそれでいい。他者から答えをもらっても無意味だ。自分で気づいて初めて意味があることだからな』
「またそれですか。どうしていつも決定打を与えてはくれないんですか? 気づきが大切と仰るのなら、先に教えてくれてもええやないですか? その答えから改めて気づき、学ぶことだって多くあると思うんですけど」
『……他者に与えられた答えは、己の答えであると?』
「はい?」
聖花は全く意味がわからない。とばかりに、怪訝な顔で問い返す。
『他者が答えを与えたとしても、その答えはその者のモノだ。他者の答えが碧海聖花が必要とする本当の答えとは思えない。
考えてもみろ。これは方程式ではなく、人生や自分のことについての問題なのだ。そこから探る答えは十人十色。一人一人生きている境遇・今までしてきた選択・経験・希望・感情。何一つとして、同じモノはない。自分じゃない誰かが気づき、必死に導き出した答えは、その者にあった答えであり、必要なモノであり、心救われるモノだ。それを得たところで救いにはならない。
碧海聖花にとってソレは、偽りの答えでしかないのだから。偽りは偽りしか生まず、真実は真実しか生まない。そして、自分にとっての真実は一つしかない。ソレを探し当てられるのは、本当の自分だけにしか出来ないことだ。
未熟な脳の上に心まで鈍感になってしまっている碧海聖花に、一つだけ鍵を与えてやろう。自分がソレを認め、受け入れてしまえば、ソレは現実となる。不も幸も関係なくだ。全ては受け入れ方次第。碧海聖花、他者に翻弄されるな。自分軸を見失うことなく、ただ生きてゆけばいい。
今の碧海聖花は何を望み、何を選ぶ? 真実は全て、自分だけが知っている。私はいつだってその真実の扉の鍵を与え続けよう。その鍵をどう使うかは、好きにしろ』
そう話すだけ話した白は回線を切る。これ以上話すつもりはないのだろう。
(ソレとか自分軸とか、一体なんなんよ。しかも真実は一つしかないって、どこぞの高校生探偵よ⁉ ここの探偵はいけずやわ)
内心悪態をつく聖花の口からは盛大に溜息が零れ落ちる。
「聖花」
冷静な声が聖花を呼ぶ。聖花のよく知っている声だ。
「!」
落としていた視線を勢いよく上げた聖花の視界に、笑顔のない愛莉の姿が映る。
――あんたの瞳に見つめられると息がつまるんよ。
真実か嘘かも分からない由香里に言われた言伝が聖花の脳裏に過る。聖花はバツが悪そうに愛莉から視線を外した。
「聖花、話があるんやけど……」
「ぅ、うん。なに?」
愛莉の平坦な声に対し、聖花の声はどもる。
「うちクラブあるから、クラブ終わるまで待っててくれる?」
「分かった」
今までにない愛莉の落ち着き過ぎた声音がより、聖花の不安を煽る。
愛莉がどういう顔をしているのか、今の聖花には分からない。色々な恐怖で視線を合わせられないのだ。
「クラブが終わり次第、RlHに行くから。聖花もそこにおってくれへん?」
「ええよ。そこで待ってるわ」
「ありがとう。じゃぁ、また後で」
愛莉はそう言って教室を出ていった。
教室に一人残された聖花は、愛莉の足音が聞こえなくなったのを感じ取り、そっと視線を上げる。教室には聖花一人しか残っておらず、夕日が教室の窓ガラスから差し込み、物悲しげな雰囲気を漂わせていた。
緊張の糸が解けたかのように、聖花は小さく息を吐く。
「愛莉……どないしたんやろぉ」
項垂れた聖花の口から重い溜息が零れ落ちる。思考では絶交宣言や悪態をつかれることなど、ネガティブなことばかりがぐるぐる廻って落ち着きがない。
幾分かの気持ちを落ち着けた聖花はスクールバッグを背負い、重い足取りでRIHへと向かうのだった――。
†
北館の三階。
元より静かな場所に設置されたRIHだが、放課後という事もあり、人っ子一人の足音すら聞こえてこない。
いつどんな時も生徒達を迎え入れられるように、常時部屋の扉は開かれている。
「懐かしい」
部屋の扉の前でそっと瞼を閉じ、静かに会釈した聖花が足を踏み入れる。十字を切るのは、天界へ思いを届けるときだけと決めている。
アンティーク調の背もたれ付き木製チェアが五×五脚。左右に二十五脚ずつ置かれており、合計五十人が着席できるようになっている。一クラス三十五人前後という現代では、中々にゆとりがある。
聖花は出入り口から三つ目の席へ、そっと着席した。
一列前後ずつに設置された八つの球体型照明と左右三つの窓から差し込む夕日がRIHに物静かな光をもたらす。
「大天使様……」
膝の上で祈るように両掌を重ね、視線を上げた。
シスターが立つ教壇の背後にあるステンドガラスを、自然光と人工の光が輝かせていた。その神々しさが聖花の心をあっためる。
天上を意図する空をベースに、上部に昇る太陽に星が重なる。過去を意味する左側の上部に大天使様。天上と地上の真ん中には、実りを意味する稲穂が重なるように描かれている。
未来を意味する左側の下部には、祈り人達を意図する人間。
胸に手を当てた人の表情は、苦しみや穏やかさなど、光の差し込みによって感じ方が変わってくる。きっと、祈り人の感情や境遇によっても、見え方がまた一つ変わってくるのだろう。今の聖花にとっては、どう映っているのだろうか?
大天使様と人間を囲うように、豊かさの象徴を表す葡萄と葡萄のツタが描かれたステンドグラスは、訪れた者を魅了する。
自分の心情を天へと届けることにより、大天使様から人生のヒントや癒しなどといった“笑顔の恵み”となる稲穂が与えられることを。
葡萄では神の恵みと命の祝福を。人は皆ワンネスであり、誰一人として、祝福されない命はない。というメッセージが、このステンドグラスのデザインには込められていた。例え今はそう思えなくとも――。
聖花は愛莉を静かに待つ。
二人の思い出の場所で過去の宝物を思い起こしながら。
†
今から六年前のこと。
聖花は中等へ上がってからもクラスメイトと上手く馴染めずにいた。
また一人ぼっちになりそうだと、楽しい学園生活を諦めていた聖花に、転入生が光を与えることなど、その時の聖花は思いもしていなかった――。
「皆さん、本日は転入生をご紹介いたしますね」
1-Bの担任、田中桜子はその場の空気を上げるように明るい声で言った。
ハーフアップにセットされ、胸下まで伸ばされたストレートの黒髪。ビー玉のような瞳や長いまつ毛。綺麗な肌に控えめな唇。童顔に小柄な体型を白のセーラーワンピース制服に身を包む、可愛らしい少女。現在よりもあどけなさが残る守里愛莉だった。
「守里愛莉さん、お願いします」
桜子は自己紹介を促す。
「はい」
愛莉は教壇の上に置いてあるタブレットに自分の名を書きこみ、送信をボタンをタップした。それにより、愛莉の名前がクラスメイト全員のタブレットに受信される。
百合泉乃中高等学園の授業では行事連絡等も含め、生徒全員タブレットを使用している。そうすることで、授業を休んでいる者にも情報が渡り、後ろの席で黒板の字が良く見えませんという状況や、教科書によるいじめ問題を回避できる。
タブレットではタブレットのデメリットも存在するが、出来うる限り生徒が皆平和かつ、平等に授業を受けられるように、学園生活をおくれるようにと日々模索している。
「初めまして、守里愛莉です。二月まで大阪に住んでいました。甘い物が大好きです。大阪の有名所は制覇したので、次は京都のスイーツを制覇してみたいです。もしおすすめのスイーツまたは甘味処がありましたら、是非とも教えてもらえると嬉しいです」
愛莉は明るい声で自己紹介をする。最後に笑顔を浮かべてはいるものの、現在よりも柔らかさがない。初めての土地と初めての学園ということもあり、緊張が隠せないのだろう。大阪弁も今は鳴りを潜めている。
教室からは歓迎の拍手が送られる。生徒全員が笑顔だ。愛莉はホッと胸を撫で下ろす。
「ふふふ。スイーツ好きがよく伝わるスイーツ尽くしの自己紹介でしたね。では、守里愛莉さんは窓際の一番前の席にお願いします」
「はい!」
愛莉は元気よく返事をし、自分の席へと歩む。その足取りはどこか硬い。
「ちょいちょい」
愛莉は着席して早々、自分の右隣で机に突っ伏して顔を隠す聖花の肩を、人差し指でつんつんと突いた。
「ッ‼」
聖花はビクリと肩を震わす。
「あんた、具合でも悪いんか?」
愛莉は心配そうに聖花の顔を覗き込む。自分の両眼を隠すように身を潜めていた聖花の目元が愛莉の視界に映る。
「⁉」
愛莉は聖花の瞳の色に目を見開く。
「守里さん。大丈夫? 驚きはったんとちゃう?」
愛莉の後ろの席にいる生徒が声をかける。愛莉は肩越しに振り向く。そこには、綺麗なロングストレートの髪が印象的な温顔な生徒、関口美幸がいた。
「碧海さんの瞳よ。純日本人やのに息を飲むほど美しい瞳を持ってはるやろぉ? うち、碧海さんの瞳に見つめられるとドキドキしてしまうんよ」
「美しい瞳って……裸眼やったんやぁ」
「……気持ち悪くて堪忍ね」
聖花は愛莉の胸元を見ながらぼそりと謝る。
「誰もそんな言うへんけど。あんた、名前なんて言うんや?」
「碧海聖花」
中等に上がって早々心を閉ざしていた聖花は、表情も声音も暗い。
「碧海聖花さんやね。OK.覚えた。あとちょっとごめんやで」
愛莉は一言謝りを入れ、俯く聖花の顔を両掌で包み込むようにして持ち上げる。
「ッ⁉」
聖花は愛莉の突拍子もない行動に目を見開いて驚き、息を飲む。
「ふーん。よく見たらオレンジ色と黒ぽい赤が混じったような感じなんやね」
聖花は慌てて愛莉の手から逃れ、顔を背ける。
「ぁ、がん見して堪忍やで。あんたの顔見るたびに驚いてたら失礼やと思ぉーてな。でもまじまじと見たら、めっちゃ綺麗な瞳してるやん」
聖花は愛莉の言葉に何も言わない。その代わり、左手を上げた。
「碧海聖花さん、どうされましたか?」
担任の桜子は心配そうに問う。
「少し具合悪いので保健室で休んでいてもいいですか?」
「あらあら。一人で大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です。すみません」
「うち、ついて行こか?」
「お気遣いおおきに」
聖花は微笑を浮かべながら小さな会釈をして、静かに椅子から立ち上がる。
「そんなんええよええよ。保健室に向ってる途中で気ぃ失ってしもーたら怖いし、心配やもん」
と、聖花に付き添う気満々の愛莉は急いで立ち上がる。
「「ぇ?」」
これといって仲良くもない聖花と美雪の声が重なる。それに対し愛莉も、ぇ? とオウム返しをしながらきょとんとする。
「守里愛莉さんは教室にいて下さい、優しいお心遣いも思い遣りも素敵ですけど、まだ学園案内が終わっていませんよね? 保健室の場所はご存知なんですか?」
「そう言えば……」
桜子の言葉に愛莉はハッとする。
「関口美幸さん。代わりに保健室まで送り届けてあげて下さい」
「はい。碧海さん、行きましょう?」
「ぇ?」
戸惑う聖花の手を引いた美幸は教室を後にする。
「じゃぁ、私はココで。一人で大丈夫なんよね?」
美幸は聖花を階段の前まで届けると、握っていた手首を離す。
「うん。ありがとう」
聖花はそう言ってとぼとぼとした足取りで保健室へと向かった。その頼りない背中を見送っていた美幸は、「友人一人もおらへんって……寂しい人。その瞳じゃなければもっといい学園生活を送れたやろうに」と、どこか同情するように呟き、頃合いを見計らって教室へ戻っていった。
その後、聖花が教室へと戻ることはなかった――。
†
愛莉が転入してから一週間が過ぎた頃、愛莉は初めてRIHに訪れていた。
「ぁ、聖花さん。ココにおったんやね」
先客の聖花を見つけた愛莉は、聖花にどこか嬉しそうに声をかける。窓際に一番近い教壇の前の席に腰を下ろしていた聖花は、歩み寄る愛莉を見守る。
「守里さん……」
「……今、守里さんにも悩みがあるんや。って思ったやろ?」
愛莉は聖花の声音と表情で感じたことを問う。
「ぇ? そんなこと思ってへんよ」
聖花は少し慌てたように言った。
「別に嘘つかんでいいんよ」
愛莉はよっこらしょ。と言って聖花の右隣に腰を下ろす。
「うち、傍《はた》から見たら悩み一つなさそうに見えそうやしな」
「嘘なんてついてへんよ。それに、悩みが一つもない人なんてこの世におらへんと思うし」
「……」
愛莉は聖花の心を覗き込むかのように聖花の瞳を見つめる。
「!」
自分の瞳をじっと見られることに慣れていない聖花は、逃げるように視線を落とす。
「また」
「ぇ?」
聖花は愛莉の呟きの先がわからず、答えを求めるように声を出す。
「また、うちから目をそらすんやね。……まぁ、聖花さんの場合はうちだけとちゃうな」
「それは……」
「その瞳やから?」
聖花は愛莉の言葉に口つぐむ。それは肯定を意味していた。
「もっと堂々としてたらええのに。関口さんも綺麗な瞳や。みたいなことゆーてはったやん」
「それはちゃう」
聖花は愛莉の言葉を強く否定した。
「関口さんが言っていた言葉の本質を出すなら、“純日本人やのにけったいな瞳の色をしてはるやろ。息が止まるほど恐ろしい瞳やから、私は恐ろしくてドキドキする”みたいなことやから。あとな、“おおきに”って言葉は、やんわりお断りしてるってことやから。ここは大阪とちゃうんよ」
「なに……それ」
愛莉は聖花の言葉に信じられない。とばかりに、ポカンとする。
「あともう一つ言うなら、関口さんが一昨日守里さんに言うてはった“守里さんは元気キャラでよろしいなぁ”って言葉も建前や。ほんまは、元気キャラ過ぎて五月蠅いから、ちょっとはおしとやかにしてほしいわ。っていう想いが込められてるんよ」
「わけ、わからん」
愛莉は嫌気がさしたように頭を左右に振った。
「京都の人は皆《みな》そうや。うちのお母さんも言うてたわ。マンションの上の階に住んでる子供達の足音。五月蠅く感じてるの丸わかりやのに、『はい、始まりました運動会。元気いっぱいやね』ってニコニコしてた。
大阪に住んでた頃に行った甘味処でもそうやったわ。四人グループの親子連れが隣になってん。そんでそこの子供達が騒いでたんよ。その子供達のお母さんは、すみません。って私達に謝ってきたんよ。そしたらうちのお母さんは、『いえいえ。お元気なお子さんでよろしいなぁ。子供は元気が一番やと思いますぅ』って言うてたわ。もちろんそれは建前。
店を出たらお母さんはぷりぷりしてたわ。『甘味処は落ち着いて楽しむもんやのに、騒がしかったな。あの親御さんも私達に謝るのもええけど、先に子供を大人しくさせなあかんわ。店内で走って怪我したら子供も可哀そうやし、店員さんとぶつかりでもしたら危険やし、お客さんにも迷惑がかかってると思わんのやろか?』ってめっちゃ愚痴とったわ。そないに愚痴るんやったら、静かにして欲しいことをオブラートに伝えたらええのに。
他県の人に京都のオブラートは伝わりにくいんよ。だって謝ってきたお母さんな、ありがとうございます。ほんま、うちの子は元気だけが取り柄なんですよ~。なんて嬉しそうに言って、ノーダメージやったもん」
「守里さんのお母さんは京都の人やったんやね」
少しの驚きを滲ませてそう言う聖花は、守里さんも今めっちゃ愚痴ってはるけど……。という言葉を飲み込んだ。
「結婚するまでは京都に住んでてんて。生粋の大阪人であるお父さんと一緒になってからは、大阪に引っ越したって言うてた」
聖花は不思議そうに愛莉を見る。
「いやいや、ならなんで京ことばが理解でけへんの? みたいな顔せんといてくれる? 気ぃ悪いわ」
「そ、そんなん思ってへんよ」
聖花は顔の前で掌を左右に振って否定する。
「どもってんのによう言えたな」
愛莉は微苦笑を浮かべる。
「ご、ごめん」
「素直にもなれるんや」
捨てられた子犬のようにしゅんとして謝る聖花に、愛莉は目を丸くする。
「そ、それはちょっと失礼しちゃうやろか? もしかして、京都の人は皆素直やないと思ってはる?」
聖花は少し不服気に呟く。
「ごめんごめん。でもほんまに分からへんのよ。京都の人がなんで素直な想いを言葉にせーへんのかが」
「それは、思いやりとか? 相手を傷つけんようにオブラートにつつ……」
「きっとちゃうな」
愛莉は聖花の言葉を遮るように断言する。
「京都の人は京ことばのことをそう言いはるな。相手を想ってとか。日本人の心とか。でも、うちが思うに、プライド問題やと思うねん。あと一番は、心が弱い? ……知らんけど」
「はい?」
聖花はお得意のおとぼけ顔で首を傾げる。
「お母さん見てて思うんよ。家《うち》や家族の前では本音や毒舌を溢すことが多いけど、外では仮面を被る。思ったことはグッと我慢する。その言葉を言ったときに、相手が傷つくのが怖いから。自分が傷つくんが怖いから。自分が拒絶した相手への言動が、古の言霊によって自分に返ってくることを知ってるから。言霊を恐れている。あんたもそうや。相手を恐れてる。恐れてるから、恐れられてる。カルマの法則のように……知らんけど」
何かを悟るかのようにそう言った愛莉は微苦笑を浮かべる。
「なにそれ? っていうか、さっきから“知らんけど”ってなんなんよ」
「知らんけど。は大阪人の決め台詞や」
愛莉は左手の親指を立ててドヤ顔で言った。
「き、決め台詞って……それはちょっと、責任がないんとちゃうやろか?」
「責任って、どうやって持てばええん?」
「はい?」
愛莉の思わぬ返答に驚く聖花は、どこか呆れたように素っ頓狂な声を上げる。
「だってな、考えてもみぃや。責任持ったとしても、相手がうちの言葉をどう受け取るかまでは、わからへんやんか。今まで育ってきた環境や境遇。性格とかによって言葉や事柄の解釈もちごうてくるもん。
例えば、うちが東京の人にイカ焼き買ぉてきてって頼んだとするやん。そしたら、その人が買ってきたイカ焼きは本気のイカ焼きやねん。イカの姿のままのイカ焼きや。せやけど、うちが頼んだイカ焼きはそれとちゃうねん。
聖花さんも関西の人やから通じると思うけどな、小麦粉の生地敷いてイカの切り身を置いたら、熱い鉄板を上下からプレスして、卵も落として焼いてから甘辛ソースを塗ったオムレツみたいな形に折り畳んだようなもんやん。簡潔的にまとめるなら、お好み焼き粉なに、具材がイカの切り身で卵で包むみたいなもん? ……うちの言ってるイカ焼き分るやろ?」
マシンガントークで話しているうちに不安になってきたのか、愛莉は眉尻を下げながら聖花に問う。
「ま、まぁ。伝わってる。うちも関西圏で馴染みあるから」
「ほなよかった」
聖花の言葉に安堵した愛莉は心置きなく話を続けた。
「でな、こんなうちの下手くそな説明通じんのは聖花さんやからやと思うねん。これが東京の人やったら、この人は何を言うてはんねんやろ? ってなるもん。だって、東京には馴染みなさすぎる食べ物やから。こんな感じでな、うちの言葉を相手がどう受け取るかまで責任取るんは難しいんよ。だって、うちにもその知識がなかったら勘違いするなんて思わへんもん。
そりゃ、仕事や家事とかの一般的な責任ならうちにもあるし、わかるよ。……まだ社会人にはなってへんけど、ちゃんとあるよ! せやけど、相手がうちの言葉をどう受け取るかまでの責任は知らへん。エスパーじゃあるまいし。
そもそも、相手がうちの言葉をどう受け取ろうと、相手の自由や。言葉をこう受け取って! って決めてしまうんは、強制になってまう。そんなんはある種のサイコパスであり、相手の考え方とか意志とかを尊重してへんやん。うちの言葉はあくまでうちの想いやもん。せやから、今からうちがする話も一種の考え方であり、一個人の言葉やから」
「……」
聖花は返す言葉が見つからず、次に続くであろう愛莉の言葉を待った。
「別にな、他人なら京都色のオブラートで包んでくれたらええよ。せやけど、これから人間関係を築こうかしてる人には、京都色のオブラートで包んで欲しないわ。
だって、どれが建前でどれが本音か分からへんかったら、全ての言葉を疑いから入ってしまうもん。疑いから入った人間関係なんかすぐに壊れてしまいそうや。それに、うちははやくも人間不信になってしまいそうになってもうてるもん。
人間関係はトライ&エラーの繰り返しで、ちょっとずつ絆が強くなってくと思うねん。人間には言語がある。相手を傷つけてしまったら“ごめんなさい”って謝る術を持ってる。傷ついたんなら、白旗を上げる術がある。相手の領域にどこまで踏み込んでいいかは、直感が教えてくれる。
それでもしもエラーになってしもたら、全力でリカバリーする。うちは、ボケて突っ込んで転びながら、最後に笑える人間関係の築き方しか知らへん。だから、うちの言葉はいつだって本音や」
愛莉は胸の前に掌を当てて固く誓うように言った。そしてこう続ける。
「聖花さんの瞳は、うちが今まで見てきたどんな人よりも美しく輝いてるで! こないだ宝石特集の通販雑誌で見た、スぺサルタイトガーネットよりちょっと濃いような色してて、めっちゃキレイや。目の中に宝石持ってるなんて、めっちゃ素晴らしいやん。もっと堂々としててーな。って、うちは本気で思ってんねんよ」
愛莉は聖花の瞳を見つめながら、そう至極真面目に言うと、綺麗な歯並びをした白い歯を見せて笑った。
それとは対照的に、聖花の瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。
聖花の瞳をこんな風に言ってくれるの人は、愛莉が初めてだったのだ。“本音”という言葉が、聖花の心に癒しの剣として刺さる。
「そ、そないに泣きなやぁ」
聖花の涙に慌てた愛莉は紺色のネクタイで涙を拭ってやる。
「いやいや、そこはハンカチやと思うねんけど」
聖花は愛莉の行動に思わずツッコミを入れる。
「涙拭ってもらっておいて文句言いなや。聖花さんの本性はツッコミの性質があると見た。やからうちはボケを担当するわ」
「ボケ担当ってなんなんよ」
笑顔で答える愛莉に聖花は笑う。ちゃっかりとおしとやかなツッコミ担当になっている。
「二人共ボケやったら収集掴んときあるやん? 安心しぃ。うちはオールラウンダーやからね。聖花さんがツッコみやすいように難易度低めからいくから」
「聖花」
「へ?」
思わぬ返答に愛莉は素っ頓狂な声を上げた。
「聖花でいい」
「とうとううちに心開いてくれたんやね」
愛莉は面白いほどぱぁっと笑顔の花を咲かせたかと思いきや、お~いお~いおいと泣き真似を始める。
「……リアクション大きい人やなあ」
「分かりやすいやろ? やから、うちの言葉はストレートに受け取ってくれてええからね」
早々に泣き真似を終えケロリとした愛莉は笑顔で話す。
「あと、うちのことは愛莉。って呼んでくれたら嬉しいんやけど……」
「わ、わかった」
聖花は愛莉のおねだり光線や勢いに圧倒されながら頷いた。
「これもうちの考えやから、受け入れたくなかったら受け入れんでえぇねんけどな――本音やない言葉って、結局は自分の解釈になるやろ? 心の状態が落ちているほど、相手が意図した以上にネガティブに変換してしまう。素直な人や心優しい人はもちろん。相手を思いやったり、相手の心を読み取ろうとしたりする人やったらなおさらや。
聖花が今まで受けてきた言葉も、相手の言葉+自分を卑下する気持ちがより言葉を黒くしてしもうて、なおさら自分の心を傷つけていたかもしれへんね。上手く言われへんねんけど、うちの言葉だけでも、自分を卑下するような解釈はやめーな。あと、うちに建前とかいらへんから」
愛莉は愛莉なりの言葉で、過去の聖花すらも癒そうとする。その気持ちを汲み取った聖花の瞳にはまた涙が滲んでゆく。
「愛莉。ありがとう……っ」
聖花の言葉は嗚咽に変わる。
「あんたは泣き虫やなぁ。でも、素直になるんが一番やで」
と、愛莉は聖花をそっと抱きしめ、幼子をあやすように背中を優しく叩いた。
RIHの窓から差し込む夕日が、ステンドグラスと二人を照らす。
ステンドグラスの中に佇む大天使様が二人を慈しみ見守るかのように、優しく輝いていた――。
翌日。
十二月十八日。水曜日。
午前六時三十分――。
「はぁ……」
目覚ましを止めた聖花の口からは重い溜息が零れ落ちる。昨夜は眠れなかったのか、目の下にクマが出来ていた。涙を流したことで白目が充血しており、より赤色の瞳が目立ってしまっている。
「学校……休んでしまおうかなぁ」
心身ともに重いのか、聖花は木刀を握りしめたままベッドから起き上がろうとしない。
「聖花~。大丈夫? もう起きてるん? 学校、今日も行くんやろお?」
いつもの時間にリビングにやってこない娘を心配した響子は扉をノックし、心配そうにそう言った。
(行くんやろお? あの語尾の音。“やろぉ”と“か?”って語尾はそれに対して否定的なことが多い。今の場合は、学校に行かんといて欲しいんやろうなぁ。ほんまやったらお母さんはあの脅迫状が届いていた時点で、私を心底学校へ行かせたくあらへんかったはずやし)
母の心情を悟る聖花の口から重い溜息が零れ落ちる。
『学びの場へ行くも行かないも好きにしろ』
左耳から不意に流れる白の音声に、聖花の両肩がビクリと動く。昨日の今日では答えが出ることもなく、考え方が変わることもない。何と返答すればいいか言葉を探る聖花の眉間に皺が寄る。
『どちらを選んだとしても、私は依頼者を守る。それに変りはない。自分の意志で選び生きてゆけ』
白はそう言葉を残すだけ残し、回線を切った。聖花の口からは重苦しい息だけが零れ落ちる。
(別に気にせんでええやん。昨日のことだって今更って感じやし。久々言われたから驚いただけやし。それに、今は愛莉がいてくれる。もう一人やないもん)
聖花は両頬を両掌で叩き、自身に気合を注入する。
「よっし! 学校行こう」
登校を選んだ聖花はその旨を白に伝え、いつものルーティーンをこなし、母親と共に家を後にした。
八時二五分――。
「ぁ、聖花!」
教室に入ってくる聖花に気づいた愛莉は嬉しそうに駆け寄る。その愛莉の笑顔に聖花の口元が自然と緩む。ざわついていた心が穏やかになったのかも知れない。
「愛莉、おはよう」
聖花は昨日のことなど何もなかったかのように、いつもの口調と笑顔で挨拶を交わしながら自分の席に着く。愛莉は聖花の傍に引っ付いてゆく。
「おはよう。ちょっと寝坊した?」
「ほんの少し」
他愛のない挨拶が今の聖花にとって、安堵と喜びを感じさせた。
愛莉が普通に声をかけてきてくれること、自分の顔を見ながら話してくれることが嬉しいのだ。
「眠れんかったん? クマもできてるし。なんかあったんちゃう?」
愛莉は聖花の正面で両膝を折ってしゃがみ込む。
「なんもあらへんよ。大丈夫。おおきに」
聖花は愛莉を心配させまいと気丈に振舞う。それに対し愛莉は不服そうに溜息を吐いた。
「でたな。聖花の“おおきに”の台詞」
「?」
何のことを言っているのか分からない聖花はきょとんとする。
「聖花がおおきにって言う時は気持ちだけ受け取るけど……って感じやもん。一種の壁が出来たみたいや。別に何でも言ってきてくれたらええのに。うちはそないに頼りないんか?」
捨てられた子犬のごとくしょんぼりする。若干故意に思えてしまうあざとさがある表情ではあるが、気持ちは本音なのだろう。
「そないなことあらへんけど……」
聖花はバツが悪そうに愛莉の視線から逃れる。それでなくとも、命を狙われていることや恭稲探偵事務所についても秘密にしているのだ。嘘が苦手な聖花にとっては、良心が痛むのかもしれない。
「まぁ、言いたないなら別にええけど」
愛莉はしょうがないなぁと言う風に小さな息を溢す。
「なんかごめん」
聖花は思わず謝る。
「ええよ別に。せやけど、あんまり一人で抱え込み過ぎたらあかへんよ? 独りやないんやからね」
幼子に言い聞かせるような優しい口調でそう言った愛莉は、「じゃぁ、また昼休みに」と、机にのっている聖花の手の甲を励ますようにポンポンと叩き、自分の席へと戻っていった。
「……ありがとう。愛莉」
席へ戻っていく愛莉の背中を見送っていた聖花の口から、感謝の気持ちが零れ落ちたのだった。
†
二限目を終えた小休憩。
なぜか愛莉は校長室へ来るようにと、校長先生直々に呼び出しがあった。
愛莉が素行を起こすわけもない。聖花の知る限り、学園内でトラブルに見舞われている様子もないし、自らもめ事を起こすタイプでもない。それにもし何らかのトラブルがあったのなら、担任からの呼び出しがあるはずだ。
怪訝に思う聖花に対し愛莉は、もしかして教員免許取ったらこの学園の先生できるって話やないやろか? と、至ってポジティブな解釈の元、意気揚々と校長室へ向かった。
話しはすぐにすむだろうと思っていたが、待てど暮らせど愛莉は教室へ戻ってこなかった。
それだけでも不思議に思う要因であるのにも関わらず、校内中に三限目の始まりを告げるメロディーが響き出してもなお、愛莉は教室に戻ってこない。流石に不審のピークを達した聖花は、女子トイレの個室へと駆け込んだ。
「開」
聖花はこの事を白に相談するべく、初めて自ら白への回線を繋ぐ。
ぶつ切りの機械音が響いた後、『どうした?』という白の声が聖花の左耳へ届く。
「ぁ、今話しても大丈夫ですか?」
急を要するにもかかわらず相手への配慮を忘れない。それはもう癖に等しいのかもしれない。
『かまわない。無駄話ではないのだろう?』
「……た、多分?」
改めて問われると不安になる聖花だ。自分が不審に思うだけで、白にとってはなんら問題ないことなのかも知れないと考えると、一気に口が重くなってしまう。
『言ってみろ』
白は聖花の話を動かす。
「はい!」
それに安堵した聖花は力強く頷き、話し始める。
「二限目を終えた小休憩中に、愛莉が校長先生に呼び出されたっきり、一向に教室へ戻ってこないんです」
『どこに?』
「校長室です」
『それで?』
「そ、それでって……」
聖花は白の思わぬ返答に思わず怯んでしまう。
『気になったならその場をついてゆけば良かっただろう? 今も気持ちばかりで行動が伴わない。気になるなら校長室に出向くなり探すなりすればいい。碧海聖花は私の指示がなければ行動できなくなってしまったのか? 私は自身でも命を守る言動を求め、私の指示に従ってもらうとは言ったが、私が指示する以外の言動について縛った覚えはない。もし仮に私が、碧海聖花の友人の命の危機を無視をしろ。と指示を出せば、それに従うのか?』
「⁉」
白に言われハッとする聖花は何も言葉を返せない。
『自由にしろ。何かあればこちらが対処する。但し、白狐ストラップは肌身離さず持っていろ』
白はそう言うだけ言うと回線を切った。
「ぇ? ちょっ」
聖花の引き止める声は白に届くことはなかった。もし仮に届いていたとしても、聞き入れてもらえないだろう。
「……行こう」
意志を決めた聖花は急いで教室に戻り、スクールバッグを肩にかけ、校長室へと向かった。
「ぇ? 三限目が始まる前に戻っていたんですか?」
「えぇ。話を終えてすぐにね。授業が始まるのが分かっていて長居はさせないわよ」
驚く聖花に優しい口調で答えるのは六十代前半程の女性。常にシスターの服に身を包み、ベールを前にして素顔を隠している人こそ、百合泉乃学園の校長先生だった。
校長先生の素顔を知る生徒は、卒業を迎えた生徒達だけと決められていた。その為、生徒達からは影で色々な噂が立っていた。勿論それは校長先生も感づいてはいたが、あえて咎めようとはしない。
校長先生が素顔を隠していることや、卒業を迎えた生徒にしか素顔を現さないのにはちゃんとした意図があった。聖花がそれを知るにはもう少し後のことになる。
「そうですか。分かりました。お忙しいところ、貴重なお時間を割いてしまいすみません。ありがとうございました」
聖花はそう言って会釈をすると、失礼いたしました。と、足早に校長室を後にした。
「なんで三限目に戻ってこんかったんやろか? なんかショックなことでも言われてしもうて、そんでへこたれて授業をボイコットした? いや、愛莉に限って……。もう教室に戻ってるんやろか?」
無駄足を運ぶことになってしまった聖花はブツブツと独り言を言いながら、駆け足で自分の教室へと戻る。
「おらへ~ん」
聖花は教室の後ろのドアの上部にあるガラス窓から教室を盗み見る。
教室には愛莉の席と聖花の席に空席が出来ていた。
「愛莉~」
情けない声で愛莉の名を呼ぶ聖花に気づいた一人の生徒と目が合う。
聖花は慌ててしゃがみ込む。が、時すでに遅し。生徒の視線に気がついた担任の谷本純子は聖花に近づいてくる。
逃亡しようかと思った矢先、控えめな音を立てて教室の引き扉が開け放たれた。
「碧海聖花さん。そこで何をしているのですか?」
落ち着きある凛とした声音と呆れが滲む小さな溜息が、しゃがみ込む聖花の頭上に落とされる。
「すぐに立ちなさい。今は避難訓練の時間ではありませんよ」
「は、はい!」
担任の静かなお叱りを受けた聖花は慌てて立ち上がり、乱れていた制服を掌でサッと整えた。
「お戻りになられていたのなら、早く教室に入りなさい」
純子はさしてズレていない丸メガネの右レンズの下縁を、右人差し指の第二関節で上げる。
「はい……。あの、守里愛莉さんは?」
聖花はおずおずと問うてみる。
「守里愛莉さんはまだお戻りになられておりません。人のことはよろしいですから、貴方はすぐに自分の席へついて下さい。授業を再開させますから」
純子はしなやかに誘うよう掌を聖花の席へと動かす。
こうなってしまえば、二つ返事で自身の席へと着くしかない聖花であった。
その後、四限目が終わりを告げてもなお、愛莉が教室に戻ることはなかった。
†
「ここにもおらへんかった」
四限目の授業が終わってすぐに保健室へと直行した聖花であったが、そこに探し人の愛莉の姿はなく、がくりと肩を落とす。その肩にはスクールバッグを背負ってはいない。その代わり、白狐ストラップが左手首に付いていた。
ゆとりが持てる長さかつ太めに作られたチェーンは、ちょっとやそっとのことでは切れなさそうだ。
腕時計のように手首につけられることを授業中に閃いた聖花は、さっそく実践している。つけてみれば聖花の手首には少し大きすぎるサイズであったが、大ぶりなマスコットなら落とすまでに気がつくはずだと、妙な安心感と共にそのまま着用している。
バッグやスマホにつけているよりも持ち運びが身軽になるうえ、肌身離さず持っていられるとご機嫌だ。それに対して愛莉のことには、どんどんとネガティブに落ちて行っていた。
(愛莉になんかあったんやろか……)
どんどんネガティブ陥ってゆく思考を振り払うかのように、お風呂上がりの大型犬のごとくがぶりを振った。
「……ECに行ってみよう!」
昨日の今日でECに向かう足取りも心も重いが、聖花はそれ以上に愛莉の事が気がかりだった。
その後の授業を心ここにあらずで受けた聖花は昼休みが始まった直後、お弁当も持たずにECへと駆けていった。
「あれ? 今日は黒崎先生のグーループがおらへん」
EC出入り口の近くにある太い柱に身を隠しながら、EC内の様子を目を凝らし見ていた聖花は不思議そうに呟く。
カップルや友人同士。帰国子女と思しき人達と生徒。外国人の先生と金髪美少女が英語で会話をする声が響く。日本語や英語やフランス語。多用の言語が飛び交う中で愛莉の可愛らしくも元気な声は響いてこなかった。
「愛莉……ほんまに何処に行ってしもたんやろぉ?」
情けない声を出す聖花の肩を背後からトントンと、誰かが叩く。
「ッ⁉」
ビクリと身体を震わして驚く聖花は、身体全体を使って飛びのくように振り向く。
「ぁ、春香ちゃん」
馴染みある顔に胸を撫で下ろす聖花の瞳には、心配そうな顔をした春香の姿が映る。
「聖花先輩、そんな所でこそこそされてどうされたんです? 今日は一人ですか?」
巾着型のランチバックを抱えた春香は不思議そうに小首を傾げる。
「ぁ、えっと。今日は一人。ランチしに来たわけやないんよ」
聖花は悪事を見破られた子供みたいに視線をキョロキョロさせながら答えた。
「今日は愛莉先輩ご一緒じゃないんですか?」
「うん。そう。春香ちゃん、愛莉が何処におるか知らへん?」
頷く聖花は春香に救いを求める。
「えっと、すみません。分からないです。愛莉先輩が校長先生にお呼び出しされていたことは知っているんですけど」
お役に立てずに申し訳ない。とばかりに眉根を下げた春香は控えめに首を振る。
「そっか。ちょっと変なこと聞くんやけど……」
ええかな? と言うように眉をㇵの字にする聖花に対し春香は、「はい。何でしょうか? 私でよければ何でも聞いてみて下さい」と、笑顔で答えた。
「ありがとう。あんな、春香ちゃんの周りで今日可笑しなこととか起きへんかった? なんかいつもと違うことがあったとか」
「ん~……。しいて上げるなら、二限目が自習になってラッキーと思ったり? ぁ! 後は昼休みに他の生徒達が一緒にお昼を、と黒崎先生をお誘いしていたんですけど、今日は断られて教員室にお戻りになられていました。赴任してからずっと、生徒達とお食事されていたんですけどね。やっぱり年末年始はお仕事がお忙しくなるんでしょうかね?」
左頬に左手を当てる春香は不思議そうに言いながら、コテンと首を傾げて見せる。けして嘘をついているようには見えない。
「やっぱり愛莉先輩に何かあったんですか?」
「ううん。なんもあらへんよ。大丈夫。話してくれてありがとう」
聖花はこれ以上春香を困らせたり、心配させてはいけないと、笑顔で話を切り上げた。
「愛莉先輩を見つけましたら聖花先輩にお知らせしますね」
春香はそれ以上は深入りはせず、援護するような言葉を投げかけて微笑む。今の聖花にはその配慮がありがたかった。
「ありがとう。じゃぁまた」
聖花は足早にECを後にした。
†
「!」
ECを出てすぐ、再び斉藤由香里が聖花の目の前に現れる。
「さ、斎藤さん……ッ」
委縮して逃げ腰になる聖花に対し、由香里は温柔の顔で聖花に近づく。
「碧海聖花さん。守里愛莉さんを探してはるんですよね?」
「‼」
聖花は由香里の言葉に目を見開く。
「ぁ、愛莉に何かしたんですかッ⁉」
強めの口調で問うた声は震えを帯びていた。
「別に、私は何も。ただ、言伝を頼まれただけです」
余裕の笑みを浮かべる由香里に対し、聖花は焦る。
「あ、愛莉が貴方へ言伝を頼むとは思われへんのですが」
不穏な空気を漂わせる由香里に聖花は距離を取る。
由香里から昨日のヒステリックさを微塵も感じられない。
人間らしさ全開だった昨日に対し、今の由香里はまるで感情を失っているかのように落ち着きをはらっていた。
怖いと言って逃げ出した自身の瞳を平然と見つめてくる由香里に恐怖を感じた聖花は、左手首につけていた白狐ストラップの胴体を、無意識で包み込むように左手で握っていた。
「碧海聖花さんがそう思われるのは自由です。ですが、私はちゃんと言伝を頼まれているんです。『もうあんたのことは知らへん。うちに構わんといて。ずっと言えんかったけど、あんたの瞳に見つめられると、息がつまるんよ』と」
由香里は聞いてもいない言伝を穏やかな口調で告げる。
「……う、嘘や! 愛莉がそないなこと言うはずあらへんッ」
聖花は由香里の言葉を信じまいと、左右に激しく首を振る。
「そう思いたい気持ちは分かりますけど、これが事実なんです。可哀そうな先輩」
聖花はどこか勝ち誇ったような微笑を浮かべる由香里に言葉を失ってしまう。
「斎藤由香里さん!」
二人の話に割って入る若い男性の声。
聖花が声の先に視線を移せば、黒崎玄音の姿があった。
走ってきたのだろうか? 髪が少し乱れ、肩がゆっくり大きく上下していた。
「黒崎先生!」
愛しの人が現れたことにより、由香里の声音が上がる。と同時に、顔色に焦りの色が滲む。
「斎藤由香里さん。そこで、なにをしているんですか?」
焦りの色を滲ませた顔色の黒崎がいつもよりも低い声音で、由香里を咎めるかのように問いながら、聖花をかばうように由香里の前に立つ。雑音が微かに混じった黒崎の靴音に聖花は気がつかない。
「べ、別に私は何も……していません。わ、私は事実をお伝えしたまでですっ」
叱られる子供のように俯きながら言った。
「事実って……」
由香里の言葉をすぐに理解する黒崎は聖花に視線を合わせた。まるで、愛莉の言伝を黒崎も知っていたようだ。黒崎の反応により、嫌でも由香里の話に真実味が増してしまう。
「黒崎先生ッ。今まで何処にいはったんですか? 私、愛莉……探して、それで……ッ」
混乱する頭で言葉を紡ごうとする聖花の瞳に涙が滲みだす。
「碧海聖花さん……」
黒崎は不憫に思うような瞳で聖花を見つめ、投げかける言葉を探す。
「愛莉は?」
聖花は黒崎の言葉を聞くまでもないとばかりに黒崎の両腕を掴む。
「愛莉は今は何処にいるんですか?」
叫びたい気持ちを押し殺して問うてはいるが、黒崎の両腕を掴む力は強い。
気が動転している聖花は、黒崎のスーツが少しひんやりと冷えていることに気がつかない。
「守里愛莉さんは今、Room leading to heavenにいます。ですが、今日は会われない方がい……ッ!」
聖花は黒崎の言葉を最後まで聞かず、Room leading to heavenに走る。
Room leading to heaven.直訳すると、天国にあります。天へ通じる部屋=天界部屋と認識されており、生徒達からは、RlH(リフ)という名で親しまれていた。
悩みごとや願い事。感謝や懺悔などといった色々な想いを天界へと届けるため、生徒達や職員が訪れるのだ。
それだけではなく、クリスマスなどのイベント時は賛美を合唱することもある。
聖花も愛莉と親しくなるまでは毎日のように訪れていた。聖花と愛莉が出会い、距離が縮まっていった思い出の場所でもある。
聖花は教員達の目を気にしながらRlHへ向かうため、西館から南館へ駆けてゆき、北館の三階を目指す。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
教員達に見つからないように駆けてきた聖花であったが、北館についたところで足が止まる。
(……このままRlH(リフ)に行って愛莉がいたとして、もし、もしも斎藤さんの言伝がほんまやとしたら……いや、そんなことあらへん)
と、襲ってくる不安や恐怖といった負の感情を押し出すように、がぶりを振る。だがいくら感情や思考を変化させようとしても、悪い想像ばかりが聖花を埋め尽くす。
(あかん……今日は止めよう)
聖花はRIH(リフ)を目の前にして引き返す道を選ぶ。それに対し白が口出しすることはない。
その後。
聖花は具合が悪いと保健室に籠り、五限目をズル休みするのだった。
「はぁ~」
聖花は重い溜息と共に、後ろの扉から教室に入る。視線を動かし愛莉を探す。愛莉は自分の席につき、他のクラスメイト達と談笑を交わしていた。
「愛莉~」
胸を撫で下ろした聖花は安堵したような声音で、愛莉の名を呼ぶ。声が小さかったのか、愛莉に届くことはない。
それでも聖花の視線に気がついたのか、愛莉が聖花の方へと振り向く。
聖花は胸の前で控えめに掌を振ってみる。駆け寄ってゆけないのは、不安と恐怖が打ち勝ってしまっているからだろう。それでも普段であれば、愛莉の方から笑顔で駆け寄ってきてくれるはずなのだが、今回は違った。
愛莉は何事もなかったかのように視線をクラスメイトに移し、談笑の続きを始めたのだ。
(今、無視……された?)
聖花の心臓がドクリと重く打つ。今の聖花では、愛莉の行動が故意だったのか判断が出来ない。喧嘩した覚えも、無視されることをした覚えもない聖花は恐怖と焦りで視線が定まらない。ふと、視線が中央で談笑をしていた女子生徒と合う。聖花と目が合った生徒は瞠目し息を飲んだかと思うと、慌てて視線を外す。
「ッ」
聖花はバツが悪そうに下唇を噛み、視線を上履きに落とす。
白の上履きには、左足の外踵部分に百合の刺繍が赤い刺繍糸で施されていた。白色に赤色がよく映えていて、聖花の気分をより落とした。
聖花はこの教室でも幾人か馴染めていない生徒達がいた。馴染めないと言うより、生徒達が聖花の瞳を受け止めきれていないだけだ。親しい愛莉がいなければ、聖花の学園生活は勉学を勤しむだけのモノクロ世界なのかも知れない。
聖花は自分の席へ着き、授業を受ける気持ちに切り替える。何か違うモノに集中していれば、この嫌な胸の鼓動も感情も落ち着くだろう。と考えているのだろう。
そんな聖花の願いとは裏腹に、聖花の持つ負の感情は時がたつにつれて、大きくなるばかりだった。
*
放課後――。
すべての授業が終わりを告げた。
あの後からも、聖花と愛莉が言葉を交わすこよも、視線を交わし合うこともなかった。
『碧海聖花。いつまでうじうじしている。うじうじ虫にでもなったのか?』
痺れを切らしたかのように白が言葉を発す。
「うじうじ虫って何なんですか? 恭稲さんには関係ないじゃないですか。だってコレは命に係わることやないですし。なんかわけわからんケンカみたいになってしもうてるだけで、事件とは関係あらへんはずやもん」
聖花はどこか不貞腐れたように小声で話す。
教室には幾人かの生徒達が残っているが、その声を聞きとれる者はいないだろう。それほどまでに聖花の声は小さい。
『うじうじ虫の次は当たり屋か』
呆れたように言った白は小さな息を溢す。
「当たり屋? 運転した覚えも、当たり屋をした記憶もないですけど」
『八つ当たり屋』
白は一言で答える。
「八つ当たりをした記憶もないですけど」
そういう聖花の声音には苛立ちの色が含まれていた。白と話す聖花は感情が露わになりやすい。
『そうか。まぁ幼子では、自分の感情に鈍感なのも仕方のないことか』
「私は幼稚園児や小学生じゃありません」
『なら何故、心に眠る自分を見てやらない。そのような態度ばかりでいると、育児放棄も同等だと思うが』
「昨日から何なんですか? 心に眠る自分とか、育児放棄だとか意味の分からないことばかり」
聖花はかりかりしながら問う。その鼻息は少し荒い。
『意味が分からなければそれでいい。他者から答えをもらっても無意味だ。自分で気づいて初めて意味があることだからな』
「またそれですか。どうしていつも決定打を与えてはくれないんですか? 気づきが大切と仰るのなら、先に教えてくれてもええやないですか? その答えから改めて気づき、学ぶことだって多くあると思うんですけど」
『……他者に与えられた答えは、己の答えであると?』
「はい?」
聖花は全く意味がわからない。とばかりに、怪訝な顔で問い返す。
『他者が答えを与えたとしても、その答えはその者のモノだ。他者の答えが碧海聖花が必要とする本当の答えとは思えない。
考えてもみろ。これは方程式ではなく、人生や自分のことについての問題なのだ。そこから探る答えは十人十色。一人一人生きている境遇・今までしてきた選択・経験・希望・感情。何一つとして、同じモノはない。自分じゃない誰かが気づき、必死に導き出した答えは、その者にあった答えであり、必要なモノであり、心救われるモノだ。それを得たところで救いにはならない。
碧海聖花にとってソレは、偽りの答えでしかないのだから。偽りは偽りしか生まず、真実は真実しか生まない。そして、自分にとっての真実は一つしかない。ソレを探し当てられるのは、本当の自分だけにしか出来ないことだ。
未熟な脳の上に心まで鈍感になってしまっている碧海聖花に、一つだけ鍵を与えてやろう。自分がソレを認め、受け入れてしまえば、ソレは現実となる。不も幸も関係なくだ。全ては受け入れ方次第。碧海聖花、他者に翻弄されるな。自分軸を見失うことなく、ただ生きてゆけばいい。
今の碧海聖花は何を望み、何を選ぶ? 真実は全て、自分だけが知っている。私はいつだってその真実の扉の鍵を与え続けよう。その鍵をどう使うかは、好きにしろ』
そう話すだけ話した白は回線を切る。これ以上話すつもりはないのだろう。
(ソレとか自分軸とか、一体なんなんよ。しかも真実は一つしかないって、どこぞの高校生探偵よ⁉ ここの探偵はいけずやわ)
内心悪態をつく聖花の口からは盛大に溜息が零れ落ちる。
「聖花」
冷静な声が聖花を呼ぶ。聖花のよく知っている声だ。
「!」
落としていた視線を勢いよく上げた聖花の視界に、笑顔のない愛莉の姿が映る。
――あんたの瞳に見つめられると息がつまるんよ。
真実か嘘かも分からない由香里に言われた言伝が聖花の脳裏に過る。聖花はバツが悪そうに愛莉から視線を外した。
「聖花、話があるんやけど……」
「ぅ、うん。なに?」
愛莉の平坦な声に対し、聖花の声はどもる。
「うちクラブあるから、クラブ終わるまで待っててくれる?」
「分かった」
今までにない愛莉の落ち着き過ぎた声音がより、聖花の不安を煽る。
愛莉がどういう顔をしているのか、今の聖花には分からない。色々な恐怖で視線を合わせられないのだ。
「クラブが終わり次第、RlHに行くから。聖花もそこにおってくれへん?」
「ええよ。そこで待ってるわ」
「ありがとう。じゃぁ、また後で」
愛莉はそう言って教室を出ていった。
教室に一人残された聖花は、愛莉の足音が聞こえなくなったのを感じ取り、そっと視線を上げる。教室には聖花一人しか残っておらず、夕日が教室の窓ガラスから差し込み、物悲しげな雰囲気を漂わせていた。
緊張の糸が解けたかのように、聖花は小さく息を吐く。
「愛莉……どないしたんやろぉ」
項垂れた聖花の口から重い溜息が零れ落ちる。思考では絶交宣言や悪態をつかれることなど、ネガティブなことばかりがぐるぐる廻って落ち着きがない。
幾分かの気持ちを落ち着けた聖花はスクールバッグを背負い、重い足取りでRIHへと向かうのだった――。
†
北館の三階。
元より静かな場所に設置されたRIHだが、放課後という事もあり、人っ子一人の足音すら聞こえてこない。
いつどんな時も生徒達を迎え入れられるように、常時部屋の扉は開かれている。
「懐かしい」
部屋の扉の前でそっと瞼を閉じ、静かに会釈した聖花が足を踏み入れる。十字を切るのは、天界へ思いを届けるときだけと決めている。
アンティーク調の背もたれ付き木製チェアが五×五脚。左右に二十五脚ずつ置かれており、合計五十人が着席できるようになっている。一クラス三十五人前後という現代では、中々にゆとりがある。
聖花は出入り口から三つ目の席へ、そっと着席した。
一列前後ずつに設置された八つの球体型照明と左右三つの窓から差し込む夕日がRIHに物静かな光をもたらす。
「大天使様……」
膝の上で祈るように両掌を重ね、視線を上げた。
シスターが立つ教壇の背後にあるステンドガラスを、自然光と人工の光が輝かせていた。その神々しさが聖花の心をあっためる。
天上を意図する空をベースに、上部に昇る太陽に星が重なる。過去を意味する左側の上部に大天使様。天上と地上の真ん中には、実りを意味する稲穂が重なるように描かれている。
未来を意味する左側の下部には、祈り人達を意図する人間。
胸に手を当てた人の表情は、苦しみや穏やかさなど、光の差し込みによって感じ方が変わってくる。きっと、祈り人の感情や境遇によっても、見え方がまた一つ変わってくるのだろう。今の聖花にとっては、どう映っているのだろうか?
大天使様と人間を囲うように、豊かさの象徴を表す葡萄と葡萄のツタが描かれたステンドグラスは、訪れた者を魅了する。
自分の心情を天へと届けることにより、大天使様から人生のヒントや癒しなどといった“笑顔の恵み”となる稲穂が与えられることを。
葡萄では神の恵みと命の祝福を。人は皆ワンネスであり、誰一人として、祝福されない命はない。というメッセージが、このステンドグラスのデザインには込められていた。例え今はそう思えなくとも――。
聖花は愛莉を静かに待つ。
二人の思い出の場所で過去の宝物を思い起こしながら。
†
今から六年前のこと。
聖花は中等へ上がってからもクラスメイトと上手く馴染めずにいた。
また一人ぼっちになりそうだと、楽しい学園生活を諦めていた聖花に、転入生が光を与えることなど、その時の聖花は思いもしていなかった――。
「皆さん、本日は転入生をご紹介いたしますね」
1-Bの担任、田中桜子はその場の空気を上げるように明るい声で言った。
ハーフアップにセットされ、胸下まで伸ばされたストレートの黒髪。ビー玉のような瞳や長いまつ毛。綺麗な肌に控えめな唇。童顔に小柄な体型を白のセーラーワンピース制服に身を包む、可愛らしい少女。現在よりもあどけなさが残る守里愛莉だった。
「守里愛莉さん、お願いします」
桜子は自己紹介を促す。
「はい」
愛莉は教壇の上に置いてあるタブレットに自分の名を書きこみ、送信をボタンをタップした。それにより、愛莉の名前がクラスメイト全員のタブレットに受信される。
百合泉乃中高等学園の授業では行事連絡等も含め、生徒全員タブレットを使用している。そうすることで、授業を休んでいる者にも情報が渡り、後ろの席で黒板の字が良く見えませんという状況や、教科書によるいじめ問題を回避できる。
タブレットではタブレットのデメリットも存在するが、出来うる限り生徒が皆平和かつ、平等に授業を受けられるように、学園生活をおくれるようにと日々模索している。
「初めまして、守里愛莉です。二月まで大阪に住んでいました。甘い物が大好きです。大阪の有名所は制覇したので、次は京都のスイーツを制覇してみたいです。もしおすすめのスイーツまたは甘味処がありましたら、是非とも教えてもらえると嬉しいです」
愛莉は明るい声で自己紹介をする。最後に笑顔を浮かべてはいるものの、現在よりも柔らかさがない。初めての土地と初めての学園ということもあり、緊張が隠せないのだろう。大阪弁も今は鳴りを潜めている。
教室からは歓迎の拍手が送られる。生徒全員が笑顔だ。愛莉はホッと胸を撫で下ろす。
「ふふふ。スイーツ好きがよく伝わるスイーツ尽くしの自己紹介でしたね。では、守里愛莉さんは窓際の一番前の席にお願いします」
「はい!」
愛莉は元気よく返事をし、自分の席へと歩む。その足取りはどこか硬い。
「ちょいちょい」
愛莉は着席して早々、自分の右隣で机に突っ伏して顔を隠す聖花の肩を、人差し指でつんつんと突いた。
「ッ‼」
聖花はビクリと肩を震わす。
「あんた、具合でも悪いんか?」
愛莉は心配そうに聖花の顔を覗き込む。自分の両眼を隠すように身を潜めていた聖花の目元が愛莉の視界に映る。
「⁉」
愛莉は聖花の瞳の色に目を見開く。
「守里さん。大丈夫? 驚きはったんとちゃう?」
愛莉の後ろの席にいる生徒が声をかける。愛莉は肩越しに振り向く。そこには、綺麗なロングストレートの髪が印象的な温顔な生徒、関口美幸がいた。
「碧海さんの瞳よ。純日本人やのに息を飲むほど美しい瞳を持ってはるやろぉ? うち、碧海さんの瞳に見つめられるとドキドキしてしまうんよ」
「美しい瞳って……裸眼やったんやぁ」
「……気持ち悪くて堪忍ね」
聖花は愛莉の胸元を見ながらぼそりと謝る。
「誰もそんな言うへんけど。あんた、名前なんて言うんや?」
「碧海聖花」
中等に上がって早々心を閉ざしていた聖花は、表情も声音も暗い。
「碧海聖花さんやね。OK.覚えた。あとちょっとごめんやで」
愛莉は一言謝りを入れ、俯く聖花の顔を両掌で包み込むようにして持ち上げる。
「ッ⁉」
聖花は愛莉の突拍子もない行動に目を見開いて驚き、息を飲む。
「ふーん。よく見たらオレンジ色と黒ぽい赤が混じったような感じなんやね」
聖花は慌てて愛莉の手から逃れ、顔を背ける。
「ぁ、がん見して堪忍やで。あんたの顔見るたびに驚いてたら失礼やと思ぉーてな。でもまじまじと見たら、めっちゃ綺麗な瞳してるやん」
聖花は愛莉の言葉に何も言わない。その代わり、左手を上げた。
「碧海聖花さん、どうされましたか?」
担任の桜子は心配そうに問う。
「少し具合悪いので保健室で休んでいてもいいですか?」
「あらあら。一人で大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です。すみません」
「うち、ついて行こか?」
「お気遣いおおきに」
聖花は微笑を浮かべながら小さな会釈をして、静かに椅子から立ち上がる。
「そんなんええよええよ。保健室に向ってる途中で気ぃ失ってしもーたら怖いし、心配やもん」
と、聖花に付き添う気満々の愛莉は急いで立ち上がる。
「「ぇ?」」
これといって仲良くもない聖花と美雪の声が重なる。それに対し愛莉も、ぇ? とオウム返しをしながらきょとんとする。
「守里愛莉さんは教室にいて下さい、優しいお心遣いも思い遣りも素敵ですけど、まだ学園案内が終わっていませんよね? 保健室の場所はご存知なんですか?」
「そう言えば……」
桜子の言葉に愛莉はハッとする。
「関口美幸さん。代わりに保健室まで送り届けてあげて下さい」
「はい。碧海さん、行きましょう?」
「ぇ?」
戸惑う聖花の手を引いた美幸は教室を後にする。
「じゃぁ、私はココで。一人で大丈夫なんよね?」
美幸は聖花を階段の前まで届けると、握っていた手首を離す。
「うん。ありがとう」
聖花はそう言ってとぼとぼとした足取りで保健室へと向かった。その頼りない背中を見送っていた美幸は、「友人一人もおらへんって……寂しい人。その瞳じゃなければもっといい学園生活を送れたやろうに」と、どこか同情するように呟き、頃合いを見計らって教室へ戻っていった。
その後、聖花が教室へと戻ることはなかった――。
†
愛莉が転入してから一週間が過ぎた頃、愛莉は初めてRIHに訪れていた。
「ぁ、聖花さん。ココにおったんやね」
先客の聖花を見つけた愛莉は、聖花にどこか嬉しそうに声をかける。窓際に一番近い教壇の前の席に腰を下ろしていた聖花は、歩み寄る愛莉を見守る。
「守里さん……」
「……今、守里さんにも悩みがあるんや。って思ったやろ?」
愛莉は聖花の声音と表情で感じたことを問う。
「ぇ? そんなこと思ってへんよ」
聖花は少し慌てたように言った。
「別に嘘つかんでいいんよ」
愛莉はよっこらしょ。と言って聖花の右隣に腰を下ろす。
「うち、傍《はた》から見たら悩み一つなさそうに見えそうやしな」
「嘘なんてついてへんよ。それに、悩みが一つもない人なんてこの世におらへんと思うし」
「……」
愛莉は聖花の心を覗き込むかのように聖花の瞳を見つめる。
「!」
自分の瞳をじっと見られることに慣れていない聖花は、逃げるように視線を落とす。
「また」
「ぇ?」
聖花は愛莉の呟きの先がわからず、答えを求めるように声を出す。
「また、うちから目をそらすんやね。……まぁ、聖花さんの場合はうちだけとちゃうな」
「それは……」
「その瞳やから?」
聖花は愛莉の言葉に口つぐむ。それは肯定を意味していた。
「もっと堂々としてたらええのに。関口さんも綺麗な瞳や。みたいなことゆーてはったやん」
「それはちゃう」
聖花は愛莉の言葉を強く否定した。
「関口さんが言っていた言葉の本質を出すなら、“純日本人やのにけったいな瞳の色をしてはるやろ。息が止まるほど恐ろしい瞳やから、私は恐ろしくてドキドキする”みたいなことやから。あとな、“おおきに”って言葉は、やんわりお断りしてるってことやから。ここは大阪とちゃうんよ」
「なに……それ」
愛莉は聖花の言葉に信じられない。とばかりに、ポカンとする。
「あともう一つ言うなら、関口さんが一昨日守里さんに言うてはった“守里さんは元気キャラでよろしいなぁ”って言葉も建前や。ほんまは、元気キャラ過ぎて五月蠅いから、ちょっとはおしとやかにしてほしいわ。っていう想いが込められてるんよ」
「わけ、わからん」
愛莉は嫌気がさしたように頭を左右に振った。
「京都の人は皆《みな》そうや。うちのお母さんも言うてたわ。マンションの上の階に住んでる子供達の足音。五月蠅く感じてるの丸わかりやのに、『はい、始まりました運動会。元気いっぱいやね』ってニコニコしてた。
大阪に住んでた頃に行った甘味処でもそうやったわ。四人グループの親子連れが隣になってん。そんでそこの子供達が騒いでたんよ。その子供達のお母さんは、すみません。って私達に謝ってきたんよ。そしたらうちのお母さんは、『いえいえ。お元気なお子さんでよろしいなぁ。子供は元気が一番やと思いますぅ』って言うてたわ。もちろんそれは建前。
店を出たらお母さんはぷりぷりしてたわ。『甘味処は落ち着いて楽しむもんやのに、騒がしかったな。あの親御さんも私達に謝るのもええけど、先に子供を大人しくさせなあかんわ。店内で走って怪我したら子供も可哀そうやし、店員さんとぶつかりでもしたら危険やし、お客さんにも迷惑がかかってると思わんのやろか?』ってめっちゃ愚痴とったわ。そないに愚痴るんやったら、静かにして欲しいことをオブラートに伝えたらええのに。
他県の人に京都のオブラートは伝わりにくいんよ。だって謝ってきたお母さんな、ありがとうございます。ほんま、うちの子は元気だけが取り柄なんですよ~。なんて嬉しそうに言って、ノーダメージやったもん」
「守里さんのお母さんは京都の人やったんやね」
少しの驚きを滲ませてそう言う聖花は、守里さんも今めっちゃ愚痴ってはるけど……。という言葉を飲み込んだ。
「結婚するまでは京都に住んでてんて。生粋の大阪人であるお父さんと一緒になってからは、大阪に引っ越したって言うてた」
聖花は不思議そうに愛莉を見る。
「いやいや、ならなんで京ことばが理解でけへんの? みたいな顔せんといてくれる? 気ぃ悪いわ」
「そ、そんなん思ってへんよ」
聖花は顔の前で掌を左右に振って否定する。
「どもってんのによう言えたな」
愛莉は微苦笑を浮かべる。
「ご、ごめん」
「素直にもなれるんや」
捨てられた子犬のようにしゅんとして謝る聖花に、愛莉は目を丸くする。
「そ、それはちょっと失礼しちゃうやろか? もしかして、京都の人は皆素直やないと思ってはる?」
聖花は少し不服気に呟く。
「ごめんごめん。でもほんまに分からへんのよ。京都の人がなんで素直な想いを言葉にせーへんのかが」
「それは、思いやりとか? 相手を傷つけんようにオブラートにつつ……」
「きっとちゃうな」
愛莉は聖花の言葉を遮るように断言する。
「京都の人は京ことばのことをそう言いはるな。相手を想ってとか。日本人の心とか。でも、うちが思うに、プライド問題やと思うねん。あと一番は、心が弱い? ……知らんけど」
「はい?」
聖花はお得意のおとぼけ顔で首を傾げる。
「お母さん見てて思うんよ。家《うち》や家族の前では本音や毒舌を溢すことが多いけど、外では仮面を被る。思ったことはグッと我慢する。その言葉を言ったときに、相手が傷つくのが怖いから。自分が傷つくんが怖いから。自分が拒絶した相手への言動が、古の言霊によって自分に返ってくることを知ってるから。言霊を恐れている。あんたもそうや。相手を恐れてる。恐れてるから、恐れられてる。カルマの法則のように……知らんけど」
何かを悟るかのようにそう言った愛莉は微苦笑を浮かべる。
「なにそれ? っていうか、さっきから“知らんけど”ってなんなんよ」
「知らんけど。は大阪人の決め台詞や」
愛莉は左手の親指を立ててドヤ顔で言った。
「き、決め台詞って……それはちょっと、責任がないんとちゃうやろか?」
「責任って、どうやって持てばええん?」
「はい?」
愛莉の思わぬ返答に驚く聖花は、どこか呆れたように素っ頓狂な声を上げる。
「だってな、考えてもみぃや。責任持ったとしても、相手がうちの言葉をどう受け取るかまでは、わからへんやんか。今まで育ってきた環境や境遇。性格とかによって言葉や事柄の解釈もちごうてくるもん。
例えば、うちが東京の人にイカ焼き買ぉてきてって頼んだとするやん。そしたら、その人が買ってきたイカ焼きは本気のイカ焼きやねん。イカの姿のままのイカ焼きや。せやけど、うちが頼んだイカ焼きはそれとちゃうねん。
聖花さんも関西の人やから通じると思うけどな、小麦粉の生地敷いてイカの切り身を置いたら、熱い鉄板を上下からプレスして、卵も落として焼いてから甘辛ソースを塗ったオムレツみたいな形に折り畳んだようなもんやん。簡潔的にまとめるなら、お好み焼き粉なに、具材がイカの切り身で卵で包むみたいなもん? ……うちの言ってるイカ焼き分るやろ?」
マシンガントークで話しているうちに不安になってきたのか、愛莉は眉尻を下げながら聖花に問う。
「ま、まぁ。伝わってる。うちも関西圏で馴染みあるから」
「ほなよかった」
聖花の言葉に安堵した愛莉は心置きなく話を続けた。
「でな、こんなうちの下手くそな説明通じんのは聖花さんやからやと思うねん。これが東京の人やったら、この人は何を言うてはんねんやろ? ってなるもん。だって、東京には馴染みなさすぎる食べ物やから。こんな感じでな、うちの言葉を相手がどう受け取るかまで責任取るんは難しいんよ。だって、うちにもその知識がなかったら勘違いするなんて思わへんもん。
そりゃ、仕事や家事とかの一般的な責任ならうちにもあるし、わかるよ。……まだ社会人にはなってへんけど、ちゃんとあるよ! せやけど、相手がうちの言葉をどう受け取るかまでの責任は知らへん。エスパーじゃあるまいし。
そもそも、相手がうちの言葉をどう受け取ろうと、相手の自由や。言葉をこう受け取って! って決めてしまうんは、強制になってまう。そんなんはある種のサイコパスであり、相手の考え方とか意志とかを尊重してへんやん。うちの言葉はあくまでうちの想いやもん。せやから、今からうちがする話も一種の考え方であり、一個人の言葉やから」
「……」
聖花は返す言葉が見つからず、次に続くであろう愛莉の言葉を待った。
「別にな、他人なら京都色のオブラートで包んでくれたらええよ。せやけど、これから人間関係を築こうかしてる人には、京都色のオブラートで包んで欲しないわ。
だって、どれが建前でどれが本音か分からへんかったら、全ての言葉を疑いから入ってしまうもん。疑いから入った人間関係なんかすぐに壊れてしまいそうや。それに、うちははやくも人間不信になってしまいそうになってもうてるもん。
人間関係はトライ&エラーの繰り返しで、ちょっとずつ絆が強くなってくと思うねん。人間には言語がある。相手を傷つけてしまったら“ごめんなさい”って謝る術を持ってる。傷ついたんなら、白旗を上げる術がある。相手の領域にどこまで踏み込んでいいかは、直感が教えてくれる。
それでもしもエラーになってしもたら、全力でリカバリーする。うちは、ボケて突っ込んで転びながら、最後に笑える人間関係の築き方しか知らへん。だから、うちの言葉はいつだって本音や」
愛莉は胸の前に掌を当てて固く誓うように言った。そしてこう続ける。
「聖花さんの瞳は、うちが今まで見てきたどんな人よりも美しく輝いてるで! こないだ宝石特集の通販雑誌で見た、スぺサルタイトガーネットよりちょっと濃いような色してて、めっちゃキレイや。目の中に宝石持ってるなんて、めっちゃ素晴らしいやん。もっと堂々としててーな。って、うちは本気で思ってんねんよ」
愛莉は聖花の瞳を見つめながら、そう至極真面目に言うと、綺麗な歯並びをした白い歯を見せて笑った。
それとは対照的に、聖花の瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。
聖花の瞳をこんな風に言ってくれるの人は、愛莉が初めてだったのだ。“本音”という言葉が、聖花の心に癒しの剣として刺さる。
「そ、そないに泣きなやぁ」
聖花の涙に慌てた愛莉は紺色のネクタイで涙を拭ってやる。
「いやいや、そこはハンカチやと思うねんけど」
聖花は愛莉の行動に思わずツッコミを入れる。
「涙拭ってもらっておいて文句言いなや。聖花さんの本性はツッコミの性質があると見た。やからうちはボケを担当するわ」
「ボケ担当ってなんなんよ」
笑顔で答える愛莉に聖花は笑う。ちゃっかりとおしとやかなツッコミ担当になっている。
「二人共ボケやったら収集掴んときあるやん? 安心しぃ。うちはオールラウンダーやからね。聖花さんがツッコみやすいように難易度低めからいくから」
「聖花」
「へ?」
思わぬ返答に愛莉は素っ頓狂な声を上げた。
「聖花でいい」
「とうとううちに心開いてくれたんやね」
愛莉は面白いほどぱぁっと笑顔の花を咲かせたかと思いきや、お~いお~いおいと泣き真似を始める。
「……リアクション大きい人やなあ」
「分かりやすいやろ? やから、うちの言葉はストレートに受け取ってくれてええからね」
早々に泣き真似を終えケロリとした愛莉は笑顔で話す。
「あと、うちのことは愛莉。って呼んでくれたら嬉しいんやけど……」
「わ、わかった」
聖花は愛莉のおねだり光線や勢いに圧倒されながら頷いた。
「これもうちの考えやから、受け入れたくなかったら受け入れんでえぇねんけどな――本音やない言葉って、結局は自分の解釈になるやろ? 心の状態が落ちているほど、相手が意図した以上にネガティブに変換してしまう。素直な人や心優しい人はもちろん。相手を思いやったり、相手の心を読み取ろうとしたりする人やったらなおさらや。
聖花が今まで受けてきた言葉も、相手の言葉+自分を卑下する気持ちがより言葉を黒くしてしもうて、なおさら自分の心を傷つけていたかもしれへんね。上手く言われへんねんけど、うちの言葉だけでも、自分を卑下するような解釈はやめーな。あと、うちに建前とかいらへんから」
愛莉は愛莉なりの言葉で、過去の聖花すらも癒そうとする。その気持ちを汲み取った聖花の瞳にはまた涙が滲んでゆく。
「愛莉。ありがとう……っ」
聖花の言葉は嗚咽に変わる。
「あんたは泣き虫やなぁ。でも、素直になるんが一番やで」
と、愛莉は聖花をそっと抱きしめ、幼子をあやすように背中を優しく叩いた。
RIHの窓から差し込む夕日が、ステンドグラスと二人を照らす。
ステンドグラスの中に佇む大天使様が二人を慈しみ見守るかのように、優しく輝いていた――。