リモートデートから三日間、僕達のやり取りはストップしていた。
美月さんに無理をさせてしまったのではないかと、中条さんに連絡を取ってみたものの、どこか誤魔化されているような返答しか与えてくれなかった。
「はぁ」
物思いにふけてしまう僕の口から、重い溜息が零れ落ちる。
兄さんの家で鯛の煮つけを作っていた僕の手付きは、いつもよりぎこちない。
「美月さん、無事なんだろうか?」
その呟きに答えるかのように、僕のスマホからメッセージアプリの通知音が届く。
「中条さん?」
期待を抱きながらスマホを確認すると、中条さんから一通のメッセージが届いていた。
【こんにちは】
そのメッセージに既読をつかせると、すぐに二通目のメッセージが届く。
【いま、電話しても大丈夫かしら?】
それに対し僕はすぐに二つ返事を送った。
メッセージの代わりに、スマホから着信音が鳴り響く。もちろん着信相手は中条さんだ。
「はい。もしもし」
『はい、こんにちは。急な電話で悪いわね。美月のことで少し話しがあったのよ。今は貴方一人?』
「はい。今は兄さんの家にいますが、兄さんは不在です。三時間は帰ってこないかと」
『そう。ちょうどいいわ』
「あの~、美月さんの体調はどうですか? あれから、悪化とかしていませんよね?」
中条さんが話しを切り出す前に、僕が今一番気になっていることを問うてみる。
『……貴方の今日と明日の予定は?』
中条さんは僕の問いに答えを与えることなく、新たな質問を投げかけてくる。
「今日は兄さんの家で家事をしたりしています。明日は大学です」
『そう。じゃぁ、今日はお兄様のマンションには泊まらないのね』
「どうしたんですか?」
質問内容もそうなのだが、先程からいつもより落ちた声のトーンが気にかかる。
『美月が貴方に会いたがっているのよ』
「じゃぁ、リモートを……」
『画面越しじゃない貴方に会いたがっているのよ。だからリモートでは意味がないの』
「ぇ、じゃぁ……会わせてもらえるんですか?」
『……』
「中条さん?」
無言になってしまった中条さんを呼びかける。
『……会わせてあげたいけれど、会わせてあげていいものなのか、分かりかねているわ』
少し間を置いて返ってきた返答は煮え切らない。
「どういうことですか? 何が気がかりなんですか? 僕、美月さんのことは誰にも言っていませんし、今後も言うつもりはありません。美月さんが嫌がることはしません」
『そこを疑っているわけじゃないわ。貴方を傷つけることになるのが分かっているからよ』
「傷つける? ……もしかして!」
『?』
「中条さん、美月さんの秘密を知っていたんですか?」
『ぇ?』
中条さんは素っ頓狂な声を上げる。寝耳に水だったのかもしれない。
「いつから知っていたんですか?」
『いや、待ってちょうだい。それはこちらの台詞よ。貴方、いつから知っていたの?』
「僕は美月さんが倒れた日に」
『……そう。もし美月の秘密を知っているのなら、西なぎさまで来てちょうだい』
「今からですか?」
『いいえ。今日の深夜二時に一人できてちょうだい。誰にも言わないでね』
「分かりました」
『じゃぁ、また――』
と言って中条さんは電話を切った。耳元で流れる機械音がやけに耳奥に響く。
また画面というガラス越しじゃない美月さんと会える喜びと、なにが起きるか分からない不安が同時に襲ってくる。美月さんは体調が日に日に良くなっていると言っていたが、中条さんの声音は暗かったし、いつものように力強いオーラは感じなかった。かなり傷心しているように感じた。美月さんは本当に大丈夫なのだろうか?
僕は喜びと共に不安を抱えながら、その時が来るのを待った――。
†
深夜二時。
車どころか、車の免許すら持たない僕は、終電を使い、西なぎさに足を運んだ。
冬季の平日真夜中。人っ子一人いない。
「誰もいない。……中条さん達はまだ来ていないのかな?」
♪プルルー、プルルー♪
僕の不安を掻き消すかのように、着信音が辺りに響く。着信相手は中条さんだった。
「はい」
『今、どこにいるの?』
「もう西なぎさにいますよ。中条さん達はどこにいますか?」
『美月は一人、大木に座らせているの。その背後には、赤い車が一台停まっているから、すぐにわかると思うわ。テールランプをつけておいてあげたいけれど、極力目立たないようにしたいのよ。誰の目があるか分からない』
「分かりました。探してみます」
『ありがとう。じゃぁ――』
と、中条さんは電話を切った。
僕も元の画面に戻したスマホを尻ポケットにしまい、しばしのあいだ美月さんの姿を探す。僕が今まで歩いてきた道には、車が一台も停まっていなかった。ということは、このまま前に足を踏み出して行けば、美月さんと会えるはずだ。
「ぁ!」
一分程走った僕は、無事に美月さんの姿を見つけることが出来た。
美月さんの背後に視線を移せば、確かに一台の車が止まっていた。きっと車内で中条さんが見守っているのだろう。
「美月さん」
と呼びかけながら歩み寄る。きっと美月さんの耳に僕の声は届ききっていないのだろう。美月さんは俯き、膝の上に置いた両掌で遊んでいた。
「美月さん」
と美月さんの正面に回り、しゃがみ込む。
《⁉》
視界に僕の足元が映ったのか、ビクリと肩を震わせた美月さんは勢いよく顔を上げた。
月明かりに照らされた美月さんは、相変わらず美しかった。だが、三日前に画面越しで会った美月さんとは違った。ウィッグやカラーコンタクトをつけていないだけの話ではない。驚くほど痩せていて、顔の血色も悪く、目の下にはクマが出来ていたのだ。
[優太さん]
指文字で僕の名前を呼ぶ美月さんはふらふらと立ち上がる。
思わず支えようとする自分を慌てて律した。美月さんが左掌を突き出して制止してきたからだ。触らないで。とでも言うように。
[会いに来てくれて、ありがとうございます]
[いえ。また会えて嬉しいです]
[私も、最後に会うことが出来て嬉しいです]
美月さんは独り言のようにそう伝え、目を細める。
[最後? それって、どういうことですか?]
[ぇ?]
怪訝な顔をする僕とは対照的に、美月さんはきょとんと目を丸くさせる。
[いや、今、最後と言いましたよね? 引っ越しとかですか?]
[もしかして、知らないんですか? 中条さんは、優太さんはもう分かっているから、と仰っていましたけど……]
美月さんは戸惑いの色を見せる。もう訳が分からない。
[確かに、美月さんの肌のことについては知っていますが]
[そのことではありません]
美月さんは首を左右に振る。
[じゃぁ、どのことを言っているんですか?]
美月さんは何を伝えることもなく、フラフラと海へと足を向ける。
裸足の美月さんの足に砂がサラサラとかかる。美月さんはそれを気に留める様子もない。
僕は慌てて美月さんの後を歩いた。
[裸足で大丈夫ですか?]
[靴を履いているほうが熱で溶けてしまうので]
「熱で溶ける?」
美月さんの意味不明な言葉に首を傾げる。僕の声は美月さんに届いていたいため、その答えが返ってくることはない。
美月さんは海に濡れることを気に留める様子もなく、ちゃぷちゃぷと海水に入っていってしまう。僕もそれに続くが、スニーカーと靴下が海水につかり不快感が否めない。
[美月さん? どうされたんですか?]
あまりの海水の冷たさに、身震いを起こす。それでも、なんとか手話で問いかける。
「帰るんです」
「えっ⁉」
初めて声を発した美月さんに驚愕する。驚きで次の言葉が出てこない。
「もう、手話は、大丈夫ですよ」
「ぇ? え! えぇー⁉」
僕は拳を口元に当て、オロオロと視線を右往左往させる。ついには、両手で頭を抱えてパニックを起こす。ありえない。何がどうなっているのか訳が分からなかった。
「驚かせてごめんなさい」
美月さんは申し訳なさそうに頭を下げる。身体中がかじかむ海水の中でも、美月さんはスムーズに言葉を発してゆく。
「ど、どどっ、どーうして、いきなり声が?」
僕は驚きと海水の冷たさで、身体と声を震わせながら問う。
「ココが私の居場所であり、魔法が解ける時間だから」
「すみません。本当に、意味が、分からないです……」
「全て、お話しします。どうか、怖がらないで」
美月さんは懇願するように僕を見つめる。親に捨てられることを怯える子供のような瞳をしていた。
「大丈夫です。さっきは、驚いただけです。大丈夫。僕は美月さんを怖がらないし、拒絶しない。約束します。だから、聞かせて欲しいです。貴方のことを」
僕の言葉に安堵したのか、美月さんはホッと小さな息を吐く。
「何からお話ししたらいいのか分かりませんが――まず、私は……」
美月さんはそこで一度言い止まってしまう。僕は何も言わずに微笑み頷いて見せる。大丈夫だよ、とでも言うように。
「単刀直入に言いますと、私は、人間ではありません」
「……はい?」
どんな言葉も受け入れようとしていた僕であったが、思わぬ発言に驚きを隠せない。無意識で怪訝な顔をしてしまった。
人間ではない。とは一体どういうことなのだろう?
「驚きますし、疑いますよね。だけど、これが真実なんです」
微苦笑を浮かべた美月さんは眉根を下げる。
「人間じゃないとしたら、なんだと言うんですか?」
「優太さん、私の肌に触れた個所、炎症起こしましたよね? そして、その炎症は長らく続いたはずです」
「……」
「その痛み。炎症。身に覚えがありませんか? 半年前の夏。この場所で」
「……半年前?」
僕は記憶を呼び起こす。
半年前の夏。僕は二度、この場所に訪れたことがある。
一度目は、兄さんとバーベキューをしたとき。
二度目は買い物をするお店が開くまでの時間を潰すため、一人で訪れたことがある。
「えっと、昼間ですか? 朝のことですか?」
「朝です。朝、私は本来の姿で優太さんと出会いました。そして、命を助けてもらいました」
「助けたって……どういうことですか?」
僕は戸惑い、視線をさ迷わせる。あの時この浜辺には誰もいなかったはずだ。ましてや美月さんみたいな人がいたなら、絶対に覚えているはずだし、忘れるわけがない。
――私は、人間ではありません。
――その痛み。炎症。身に覚えがありませんか?
先程言っていた美月さんの言葉が、僕の鼓膜でフラッシュバックする。
あの炎症の仕方、強い痛み、時間の経過と共にます痒み。それら全てを、僕は一度経験したことがあった。
僕は、今ではほぼ赤みと痛痒さが完治した掌をじっと見つめる。
「でも、これって――」
僕は言い淀む。僕の予想が当たっていたとしたなら……。
「美月さんは、本当に、人間じゃない?」
僕は独り言のように問う。
いけないとは分かっていても、声が無意識に振るえてしまう。この声の震えは、寒さから来るものだと言わせて欲しい。
美月さんは眉根を下げて微笑み、そっと頷いて見せる。
「ま、まさか、あの時の……?」
震える声で問いかける僕に、美月さんは静かに深く頷く。
「⁉」
僕は衝撃で言葉を失った。
僕は半年前、波打ち際で亡くなりかけていた海月と出会ったことがあった。
僕がその海月を海に返すと、海月は緩やかに元気を取り戻し、自分の世界へと帰って行ったのだ。僕に残ったのは、海月に刺された時に起きる炎症と痛み。その炎症と痛みは、今回のモノと全く同じだった。
「あの時は、命を助けて下さったのに、優太さんを傷つけてしまってごめんなさい。外敵から身を守るための機能を自分ではどうすることも出来ませんでした」
美月さんは深々と頭を下げた。サラサラの髪が海水に浸かる。
「ほ、本当に……海月、なの?」
「はい。私達は熱に弱いです。体温の高い人間の熱に触れれば溶けてしまう」
「! だから、人と触れ合うことを避けていたと?」
「はい。私達海月は、熱に触れるとこうなってしまうから」
美月さんは白のワンピースの上に羽織っていた、フード付きコートを脱ぐ。ワンピースから出ている二の腕には、ガラスのような透明感のある個所がある。それは僕が触れた場所だった。そこは今だに、僕の指の後がくっきり残っていた。
「! 美月さん、やっぱり跡が……。ごめんなさい」
苦し気に伝える僕は、勢いよく頭を下げる。
「謝らないで下さい。むしろ私は、この跡が残って、嬉しいと思っています」
「?」
僕は美月さんの真意が分からず、小首を傾げる。女性は肌に跡がつくこと、シミやしわが出来ることを嫌がるモノではないのか? 跡が残って嬉しいという女性に出会ったことがない。
不思議そうな顔をしている僕に微笑む美月さんは、すぐに答えを伝えてくれる。
「二人が触れ合った場所についている痕跡。そう思うと、少しこの跡が愛おしくなります。思い出になります。もちろん、その痕跡を残されて嬉しいだなんて思うのは、優太さんだけになんですけど」
そう言ってはにかむ美月さんは話を続ける。
「私はこうして、触れた人を傷つけてしまう。それを避けるため、今まで人との接触を避け続けて生きていました」
「海月だとしたら、どうして今、人の姿になっているんですか? それに中条さんは、美月さんには過去の記憶がないと仰っていました。浜辺で産まれたままの姿で倒れていたとも仰っていました」
分らないことが多すぎて、つい質問攻めにしてしまう。
「人の姿になれているのは、本来生きられるはずだった残りの寿命と引き換えに、人の姿へと変えてもらったからです。海月から人の姿になったので、”洋服”というものを持ち合わせていませんでした」
「誰に人間に変身させてもらったんですか?」
「詳しくは言えません。海の中の世界のことを、人の世界へと持ち出すことは禁忌とされています」
「……」
僕はいまいち納得ができず、不貞腐れたように口つぐむ。
「すみません。それと、私に過去の記憶がないと言うのは、真っ赤な嘘です。現に、私は優太さんに助けてもらった記憶があります。ここから大観覧車を見て憧れていた記憶も残っています」
美月さんは不貞腐れる僕を流すかのように微笑みを浮かべながら、そう話す。きっと、これ以上深く聞いたとしても、答えてはくれないだろう。
僕は美月さんが向けた視線と同じ方角に視線を向けた。
三日前。美月さんとリモートデートをしたときに乗った大観覧車が見えていた。今は真夜中ということもあり、満月と星明りに照らされた姿でしか見えないが、イルミネーションで光る時間はとても目立つだろうし、美しいだろう。
「この場所から、ずっとあの観覧車を見ていました。いつか乗ってみたいと思っていたんです。優太さんに助けてもらった日からは、優太さんに思いを馳せながら見ていました」
「……そう、だったんですね」
僕はホッと胸を撫で下ろす。三日前に感じた焼きもちやモヤモヤした気持ちが、すっと浄化されていくようだった。
「ところで、どうして嘘を?」
「ココにいる必要があったんです」
――あの子の探している人が見つかるかもしれない。
中条さんが話していた言葉が、ふと脳裏に思い起こされる。
「探している人を見つけるために?」
「そうです。……私は、ずっと貴方を探していました」
美月さんは真摯に僕を見つめながら、ハッキリとした口調で言った。
「!」
「モデルというものになり、より多くの人の目に触れたら、貴方が見つけてくれると思っていました。だけどまさか、あんな唐突に出会えるだなんて」
唐突の出会い。それは、僕が兄さんのマンションで、気まぐれにプールへと足を運んでみたときのことだろう。
「運命だと思いました。奇跡だと思いました。だけど、私の気持ちを伝えることは出来なかった」
最初は声を弾ませて話していた美月さんだったが、最後は笑顔の花をしぼませる。
「声が出せなかった……から?」
「はい。私達海の生物は、一度契約を交わせば、人の姿としてこの世界で生きることが可能です。ですが、海ではない場所では私達は声を失う。正確に言えば、人の姿になっているのなら、人の言語をお話しすることは可能なんです。だけどそれは海上だけの話であって、人間として地上へ下りてしまえば、声を失い、人と分かり合うことが難しくなるんですよ」
「だから今まで声が聞き取れなかったと? そして、今は海水の中にいるから、僕達はこうして話が出来ているということですか?」
僕の問いにコクリと頷く美月さんは、再び口を開く。
「だから私は、手話と言語を身につけることにしました。いつか貴方とお話し出来ることを夢見て」
「……」
「その夢は、貴方のおかげで叶えることが出来ました。ありがとうございます」
「そんなっ」
僕は慌ててがぶりを振る。
「僕も、美月さんとお話ししたかったんです。仲良くなりたかったんです。だから、美月さんと分かり合える言語を覚えることが出来たんですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
美月さんは嬉しそうにはにかむ。
「さっき、寿命と引き換えに人の姿に変えてもらったから。と仰っていましたよね?」
「はい」
「……もしかして、命の終わりが近いんですか?」
そう問いかける僕の声は驚くほどか細く、震えていた。
美月さんは肯定の言葉も、否定の言葉も話さず、ただゆっくりと瞼を閉じる。それは、肯定を意味しているということだ。
「ッ」
僕の瞳に涙が滲む。それを溢さぬように、握り拳に力をいれた。
「貴方に二度と会えずに旅立つより、もう一度貴方に会いたかったんです。会ってお礼がしたかった。あの時は、助けて下さり、本当にありがとうございました」
「こんなの助けたとは言えません。僕が命を削ったも同然じゃないですか」
僕はぶんぶんと首を左右に振る。
「いいえ。本来なら私はあの時、天国へと旅立っていました。貴方が私の命を伸ばしてくれたんですよ」
「伸ばされた命なら、どうして?」
少しの苛立ちが声音に交じる。
「貴方に会いたかったから。シンプルに、もう一度貴方に会いたかった。お礼を伝えたかった。貴方のことが好き、だったんです」
「⁉」
頬を赤く染めながらも、僕を見つめて真摯にそう伝えてくれる美月さんの言葉に目を見開く僕の瞳から、雨雫のように涙がつたう。
僕だって美月さんともう一度会いたかった。会ってお話がしたかった。もっと親しくなりたかった。同じ時間を共有したかった。気がつかぬふりをし続けていたが、やっぱり好きなんだ。美月さんのことが。あの時から。
天海美月という少女と出会ったあの瞬間からずっと。一目惚れだったんだ。
その美貌に囚われているだけなのではないか? とも思っていたが、文通やリモートでやり取りを重ねるほどに、思いは募るばかりだった。
「いっぱい傷つけてごめんなさい。手話と言う言語で、たくさんお話しができて嬉しかったです。とても素敵な時間でした。大好きな時間でした。私を見つけてくれて、出会ってくれてありがとうございました」
「ッ⁉」
涙を溢しながらそう伝えてくる美月さんの背丈が、徐々に縮んでゆくことに気がつく僕は言葉を失う。
「あぁ。始まりましたね」
美月さんは自嘲気味な笑みを溢す。
「⁉ な、何が始まったと、言うんですか?」
「私が海へと帰る時間が始まったんですy」
焦って問う僕に対し、美月さんは落ち着いた口調で答えてくれる。
「……それは、海月の姿へと戻る時間ですか?」
その問いに対し、美月さんはフルフルと首を左右に振る。
「じゃぁ……」
「私の全てが溶けてしまう時間ですよ」
「それって……ッ」
深く聞く前に理解する。だが、そうではないとあって欲しいと願う僕がいた。
「えぇ。そうです。私の全てが溶ける時間。つまり、私が天国へと旅立つ時間」
美月さんはすでに全てを受け入れているのだろう。驚くほど冷静な口調と温顔だった。
「美月さんの身長が縮んでいるのは、足から溶けてしまっているということですか?」
僕の問いに対し、美月さんは無言のままコクリと頷く。
「全て溶けてしまったら、いったいどう、なってしまうんですか?」
「どうにもなりません。私達水海月は約九〇%水でなりたっています。だから、命を失うとほとんどが溶けて海水と一体化になります。何も残らない」
可愛らしくもか細い声でそう言った美月さんは、視線を海水へと落とした。
「何も、残らない?」
僕は言われた言葉を理解できず、オウム返しをしてしまう。否、意味は理解できる。だが、それを受けとめることが出来ないのだ。
「はい。何も」
美月さんは微苦笑を浮かべ、コクリと頷いて見せる。僕は一瞬言葉を失い、自然と瞳が潤み始める。
「……。だったら……だったら! 抱きしめてもいいですか?」
「ぇ⁉」
美月さんは僕の申し出に驚きの色を見せる。
「私に触れるということは、また貴方を傷つけるということですよ。駄目です」
「だからです。何も残らないのなら、”残して下さい”僕に、貴方がココにいたという証を。僕の腕の中にいたのだという証を、僕の身体に残して下さい」
「そ、そんなこと出来ませ――ッ」
がぶりを振る美月さんの言葉を最後まで聞かず、僕は美月さんを抱きしめた。
「ゔっ」
美月さんの肌に触れた個所が一気に熱を帯び、ブツブツが浮かび上がる。激しい痛みが僕を襲う。海水で冷え切っていた身体の体温が、一気に上昇していくように感じた。
「ダメ! 毒がッ」
美月さんは慌てて僕の腕の中から離れようともがく。もがいて僕から離れる美月さんの肌は、すでに透明となっていた。僕のこの行為は、美月さんの寿命を縮めているということだ。
「死なないですよ。ココは海水。海月に刺されたら毒を抜き海水で洗えばいいと聞きました。それより、ごめんなさい」
「どう……して? どうして貴方が謝るんですかっ?」
「僕が抱きしめることで、美月さんの命が削られてしまう。だけど、ただただ目の前で溶けてゆく美月さんを見守ることは出来ないんです」
僕は苦痛に顔を歪めながら、ポロポロと涙を溢す。
「優太さん……」
美月さんはそんな僕に呆れたのか、観念したのか、僕の背中にそっと手を回してくれた。微かに触れる肌が痛む。全身がいたくて熱い。
美月さんの身体はどんどん透明になってゆく。いっそのこと、このまま二人で溶けあえればいいのに。そうすれば、二人で海水として生きられるだろうに。
もちろん、そんな僕の願いは叶う訳もない。
海の住民と地の住民。こうしていることがまずありえない奇跡なのだ。一緒になることなど不可能。
「僕、美月さんのことをずっと忘れません」
「私も、忘れません。ずっと、見守っています」
「はい。ずっと見守っていて下さい。また会いに来ますから。ココへ」
僕は約束だとばかりに、小指を美月さんに見せる。
僕の糸を汲み取ってくれた美月さんは、右手の小指を出す。それはもう人間という物質ではなく、濁りのない水が人の手の形を維持しているようなものだった。
「待っています」
と泣き笑いをする美月さんは僕の小指に自身の指を絡ませる。そこに体温はなく、水に浸かっているという感覚だった。
「約束ですよ」
そう言って微笑んだ美月さんお身体は、水しぶきを上げるように、勢いよく弾け飛び落ちてしまう。いくつかのゼリー状の個体物も、程なくして海水に溶けきってしまった。
そこが僕の最後の記憶。
次に僕が目を覚ました時は、病院のベッドの上だった――。
美月さんに無理をさせてしまったのではないかと、中条さんに連絡を取ってみたものの、どこか誤魔化されているような返答しか与えてくれなかった。
「はぁ」
物思いにふけてしまう僕の口から、重い溜息が零れ落ちる。
兄さんの家で鯛の煮つけを作っていた僕の手付きは、いつもよりぎこちない。
「美月さん、無事なんだろうか?」
その呟きに答えるかのように、僕のスマホからメッセージアプリの通知音が届く。
「中条さん?」
期待を抱きながらスマホを確認すると、中条さんから一通のメッセージが届いていた。
【こんにちは】
そのメッセージに既読をつかせると、すぐに二通目のメッセージが届く。
【いま、電話しても大丈夫かしら?】
それに対し僕はすぐに二つ返事を送った。
メッセージの代わりに、スマホから着信音が鳴り響く。もちろん着信相手は中条さんだ。
「はい。もしもし」
『はい、こんにちは。急な電話で悪いわね。美月のことで少し話しがあったのよ。今は貴方一人?』
「はい。今は兄さんの家にいますが、兄さんは不在です。三時間は帰ってこないかと」
『そう。ちょうどいいわ』
「あの~、美月さんの体調はどうですか? あれから、悪化とかしていませんよね?」
中条さんが話しを切り出す前に、僕が今一番気になっていることを問うてみる。
『……貴方の今日と明日の予定は?』
中条さんは僕の問いに答えを与えることなく、新たな質問を投げかけてくる。
「今日は兄さんの家で家事をしたりしています。明日は大学です」
『そう。じゃぁ、今日はお兄様のマンションには泊まらないのね』
「どうしたんですか?」
質問内容もそうなのだが、先程からいつもより落ちた声のトーンが気にかかる。
『美月が貴方に会いたがっているのよ』
「じゃぁ、リモートを……」
『画面越しじゃない貴方に会いたがっているのよ。だからリモートでは意味がないの』
「ぇ、じゃぁ……会わせてもらえるんですか?」
『……』
「中条さん?」
無言になってしまった中条さんを呼びかける。
『……会わせてあげたいけれど、会わせてあげていいものなのか、分かりかねているわ』
少し間を置いて返ってきた返答は煮え切らない。
「どういうことですか? 何が気がかりなんですか? 僕、美月さんのことは誰にも言っていませんし、今後も言うつもりはありません。美月さんが嫌がることはしません」
『そこを疑っているわけじゃないわ。貴方を傷つけることになるのが分かっているからよ』
「傷つける? ……もしかして!」
『?』
「中条さん、美月さんの秘密を知っていたんですか?」
『ぇ?』
中条さんは素っ頓狂な声を上げる。寝耳に水だったのかもしれない。
「いつから知っていたんですか?」
『いや、待ってちょうだい。それはこちらの台詞よ。貴方、いつから知っていたの?』
「僕は美月さんが倒れた日に」
『……そう。もし美月の秘密を知っているのなら、西なぎさまで来てちょうだい』
「今からですか?」
『いいえ。今日の深夜二時に一人できてちょうだい。誰にも言わないでね』
「分かりました」
『じゃぁ、また――』
と言って中条さんは電話を切った。耳元で流れる機械音がやけに耳奥に響く。
また画面というガラス越しじゃない美月さんと会える喜びと、なにが起きるか分からない不安が同時に襲ってくる。美月さんは体調が日に日に良くなっていると言っていたが、中条さんの声音は暗かったし、いつものように力強いオーラは感じなかった。かなり傷心しているように感じた。美月さんは本当に大丈夫なのだろうか?
僕は喜びと共に不安を抱えながら、その時が来るのを待った――。
†
深夜二時。
車どころか、車の免許すら持たない僕は、終電を使い、西なぎさに足を運んだ。
冬季の平日真夜中。人っ子一人いない。
「誰もいない。……中条さん達はまだ来ていないのかな?」
♪プルルー、プルルー♪
僕の不安を掻き消すかのように、着信音が辺りに響く。着信相手は中条さんだった。
「はい」
『今、どこにいるの?』
「もう西なぎさにいますよ。中条さん達はどこにいますか?」
『美月は一人、大木に座らせているの。その背後には、赤い車が一台停まっているから、すぐにわかると思うわ。テールランプをつけておいてあげたいけれど、極力目立たないようにしたいのよ。誰の目があるか分からない』
「分かりました。探してみます」
『ありがとう。じゃぁ――』
と、中条さんは電話を切った。
僕も元の画面に戻したスマホを尻ポケットにしまい、しばしのあいだ美月さんの姿を探す。僕が今まで歩いてきた道には、車が一台も停まっていなかった。ということは、このまま前に足を踏み出して行けば、美月さんと会えるはずだ。
「ぁ!」
一分程走った僕は、無事に美月さんの姿を見つけることが出来た。
美月さんの背後に視線を移せば、確かに一台の車が止まっていた。きっと車内で中条さんが見守っているのだろう。
「美月さん」
と呼びかけながら歩み寄る。きっと美月さんの耳に僕の声は届ききっていないのだろう。美月さんは俯き、膝の上に置いた両掌で遊んでいた。
「美月さん」
と美月さんの正面に回り、しゃがみ込む。
《⁉》
視界に僕の足元が映ったのか、ビクリと肩を震わせた美月さんは勢いよく顔を上げた。
月明かりに照らされた美月さんは、相変わらず美しかった。だが、三日前に画面越しで会った美月さんとは違った。ウィッグやカラーコンタクトをつけていないだけの話ではない。驚くほど痩せていて、顔の血色も悪く、目の下にはクマが出来ていたのだ。
[優太さん]
指文字で僕の名前を呼ぶ美月さんはふらふらと立ち上がる。
思わず支えようとする自分を慌てて律した。美月さんが左掌を突き出して制止してきたからだ。触らないで。とでも言うように。
[会いに来てくれて、ありがとうございます]
[いえ。また会えて嬉しいです]
[私も、最後に会うことが出来て嬉しいです]
美月さんは独り言のようにそう伝え、目を細める。
[最後? それって、どういうことですか?]
[ぇ?]
怪訝な顔をする僕とは対照的に、美月さんはきょとんと目を丸くさせる。
[いや、今、最後と言いましたよね? 引っ越しとかですか?]
[もしかして、知らないんですか? 中条さんは、優太さんはもう分かっているから、と仰っていましたけど……]
美月さんは戸惑いの色を見せる。もう訳が分からない。
[確かに、美月さんの肌のことについては知っていますが]
[そのことではありません]
美月さんは首を左右に振る。
[じゃぁ、どのことを言っているんですか?]
美月さんは何を伝えることもなく、フラフラと海へと足を向ける。
裸足の美月さんの足に砂がサラサラとかかる。美月さんはそれを気に留める様子もない。
僕は慌てて美月さんの後を歩いた。
[裸足で大丈夫ですか?]
[靴を履いているほうが熱で溶けてしまうので]
「熱で溶ける?」
美月さんの意味不明な言葉に首を傾げる。僕の声は美月さんに届いていたいため、その答えが返ってくることはない。
美月さんは海に濡れることを気に留める様子もなく、ちゃぷちゃぷと海水に入っていってしまう。僕もそれに続くが、スニーカーと靴下が海水につかり不快感が否めない。
[美月さん? どうされたんですか?]
あまりの海水の冷たさに、身震いを起こす。それでも、なんとか手話で問いかける。
「帰るんです」
「えっ⁉」
初めて声を発した美月さんに驚愕する。驚きで次の言葉が出てこない。
「もう、手話は、大丈夫ですよ」
「ぇ? え! えぇー⁉」
僕は拳を口元に当て、オロオロと視線を右往左往させる。ついには、両手で頭を抱えてパニックを起こす。ありえない。何がどうなっているのか訳が分からなかった。
「驚かせてごめんなさい」
美月さんは申し訳なさそうに頭を下げる。身体中がかじかむ海水の中でも、美月さんはスムーズに言葉を発してゆく。
「ど、どどっ、どーうして、いきなり声が?」
僕は驚きと海水の冷たさで、身体と声を震わせながら問う。
「ココが私の居場所であり、魔法が解ける時間だから」
「すみません。本当に、意味が、分からないです……」
「全て、お話しします。どうか、怖がらないで」
美月さんは懇願するように僕を見つめる。親に捨てられることを怯える子供のような瞳をしていた。
「大丈夫です。さっきは、驚いただけです。大丈夫。僕は美月さんを怖がらないし、拒絶しない。約束します。だから、聞かせて欲しいです。貴方のことを」
僕の言葉に安堵したのか、美月さんはホッと小さな息を吐く。
「何からお話ししたらいいのか分かりませんが――まず、私は……」
美月さんはそこで一度言い止まってしまう。僕は何も言わずに微笑み頷いて見せる。大丈夫だよ、とでも言うように。
「単刀直入に言いますと、私は、人間ではありません」
「……はい?」
どんな言葉も受け入れようとしていた僕であったが、思わぬ発言に驚きを隠せない。無意識で怪訝な顔をしてしまった。
人間ではない。とは一体どういうことなのだろう?
「驚きますし、疑いますよね。だけど、これが真実なんです」
微苦笑を浮かべた美月さんは眉根を下げる。
「人間じゃないとしたら、なんだと言うんですか?」
「優太さん、私の肌に触れた個所、炎症起こしましたよね? そして、その炎症は長らく続いたはずです」
「……」
「その痛み。炎症。身に覚えがありませんか? 半年前の夏。この場所で」
「……半年前?」
僕は記憶を呼び起こす。
半年前の夏。僕は二度、この場所に訪れたことがある。
一度目は、兄さんとバーベキューをしたとき。
二度目は買い物をするお店が開くまでの時間を潰すため、一人で訪れたことがある。
「えっと、昼間ですか? 朝のことですか?」
「朝です。朝、私は本来の姿で優太さんと出会いました。そして、命を助けてもらいました」
「助けたって……どういうことですか?」
僕は戸惑い、視線をさ迷わせる。あの時この浜辺には誰もいなかったはずだ。ましてや美月さんみたいな人がいたなら、絶対に覚えているはずだし、忘れるわけがない。
――私は、人間ではありません。
――その痛み。炎症。身に覚えがありませんか?
先程言っていた美月さんの言葉が、僕の鼓膜でフラッシュバックする。
あの炎症の仕方、強い痛み、時間の経過と共にます痒み。それら全てを、僕は一度経験したことがあった。
僕は、今ではほぼ赤みと痛痒さが完治した掌をじっと見つめる。
「でも、これって――」
僕は言い淀む。僕の予想が当たっていたとしたなら……。
「美月さんは、本当に、人間じゃない?」
僕は独り言のように問う。
いけないとは分かっていても、声が無意識に振るえてしまう。この声の震えは、寒さから来るものだと言わせて欲しい。
美月さんは眉根を下げて微笑み、そっと頷いて見せる。
「ま、まさか、あの時の……?」
震える声で問いかける僕に、美月さんは静かに深く頷く。
「⁉」
僕は衝撃で言葉を失った。
僕は半年前、波打ち際で亡くなりかけていた海月と出会ったことがあった。
僕がその海月を海に返すと、海月は緩やかに元気を取り戻し、自分の世界へと帰って行ったのだ。僕に残ったのは、海月に刺された時に起きる炎症と痛み。その炎症と痛みは、今回のモノと全く同じだった。
「あの時は、命を助けて下さったのに、優太さんを傷つけてしまってごめんなさい。外敵から身を守るための機能を自分ではどうすることも出来ませんでした」
美月さんは深々と頭を下げた。サラサラの髪が海水に浸かる。
「ほ、本当に……海月、なの?」
「はい。私達は熱に弱いです。体温の高い人間の熱に触れれば溶けてしまう」
「! だから、人と触れ合うことを避けていたと?」
「はい。私達海月は、熱に触れるとこうなってしまうから」
美月さんは白のワンピースの上に羽織っていた、フード付きコートを脱ぐ。ワンピースから出ている二の腕には、ガラスのような透明感のある個所がある。それは僕が触れた場所だった。そこは今だに、僕の指の後がくっきり残っていた。
「! 美月さん、やっぱり跡が……。ごめんなさい」
苦し気に伝える僕は、勢いよく頭を下げる。
「謝らないで下さい。むしろ私は、この跡が残って、嬉しいと思っています」
「?」
僕は美月さんの真意が分からず、小首を傾げる。女性は肌に跡がつくこと、シミやしわが出来ることを嫌がるモノではないのか? 跡が残って嬉しいという女性に出会ったことがない。
不思議そうな顔をしている僕に微笑む美月さんは、すぐに答えを伝えてくれる。
「二人が触れ合った場所についている痕跡。そう思うと、少しこの跡が愛おしくなります。思い出になります。もちろん、その痕跡を残されて嬉しいだなんて思うのは、優太さんだけになんですけど」
そう言ってはにかむ美月さんは話を続ける。
「私はこうして、触れた人を傷つけてしまう。それを避けるため、今まで人との接触を避け続けて生きていました」
「海月だとしたら、どうして今、人の姿になっているんですか? それに中条さんは、美月さんには過去の記憶がないと仰っていました。浜辺で産まれたままの姿で倒れていたとも仰っていました」
分らないことが多すぎて、つい質問攻めにしてしまう。
「人の姿になれているのは、本来生きられるはずだった残りの寿命と引き換えに、人の姿へと変えてもらったからです。海月から人の姿になったので、”洋服”というものを持ち合わせていませんでした」
「誰に人間に変身させてもらったんですか?」
「詳しくは言えません。海の中の世界のことを、人の世界へと持ち出すことは禁忌とされています」
「……」
僕はいまいち納得ができず、不貞腐れたように口つぐむ。
「すみません。それと、私に過去の記憶がないと言うのは、真っ赤な嘘です。現に、私は優太さんに助けてもらった記憶があります。ここから大観覧車を見て憧れていた記憶も残っています」
美月さんは不貞腐れる僕を流すかのように微笑みを浮かべながら、そう話す。きっと、これ以上深く聞いたとしても、答えてはくれないだろう。
僕は美月さんが向けた視線と同じ方角に視線を向けた。
三日前。美月さんとリモートデートをしたときに乗った大観覧車が見えていた。今は真夜中ということもあり、満月と星明りに照らされた姿でしか見えないが、イルミネーションで光る時間はとても目立つだろうし、美しいだろう。
「この場所から、ずっとあの観覧車を見ていました。いつか乗ってみたいと思っていたんです。優太さんに助けてもらった日からは、優太さんに思いを馳せながら見ていました」
「……そう、だったんですね」
僕はホッと胸を撫で下ろす。三日前に感じた焼きもちやモヤモヤした気持ちが、すっと浄化されていくようだった。
「ところで、どうして嘘を?」
「ココにいる必要があったんです」
――あの子の探している人が見つかるかもしれない。
中条さんが話していた言葉が、ふと脳裏に思い起こされる。
「探している人を見つけるために?」
「そうです。……私は、ずっと貴方を探していました」
美月さんは真摯に僕を見つめながら、ハッキリとした口調で言った。
「!」
「モデルというものになり、より多くの人の目に触れたら、貴方が見つけてくれると思っていました。だけどまさか、あんな唐突に出会えるだなんて」
唐突の出会い。それは、僕が兄さんのマンションで、気まぐれにプールへと足を運んでみたときのことだろう。
「運命だと思いました。奇跡だと思いました。だけど、私の気持ちを伝えることは出来なかった」
最初は声を弾ませて話していた美月さんだったが、最後は笑顔の花をしぼませる。
「声が出せなかった……から?」
「はい。私達海の生物は、一度契約を交わせば、人の姿としてこの世界で生きることが可能です。ですが、海ではない場所では私達は声を失う。正確に言えば、人の姿になっているのなら、人の言語をお話しすることは可能なんです。だけどそれは海上だけの話であって、人間として地上へ下りてしまえば、声を失い、人と分かり合うことが難しくなるんですよ」
「だから今まで声が聞き取れなかったと? そして、今は海水の中にいるから、僕達はこうして話が出来ているということですか?」
僕の問いにコクリと頷く美月さんは、再び口を開く。
「だから私は、手話と言語を身につけることにしました。いつか貴方とお話し出来ることを夢見て」
「……」
「その夢は、貴方のおかげで叶えることが出来ました。ありがとうございます」
「そんなっ」
僕は慌ててがぶりを振る。
「僕も、美月さんとお話ししたかったんです。仲良くなりたかったんです。だから、美月さんと分かり合える言語を覚えることが出来たんですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
美月さんは嬉しそうにはにかむ。
「さっき、寿命と引き換えに人の姿に変えてもらったから。と仰っていましたよね?」
「はい」
「……もしかして、命の終わりが近いんですか?」
そう問いかける僕の声は驚くほどか細く、震えていた。
美月さんは肯定の言葉も、否定の言葉も話さず、ただゆっくりと瞼を閉じる。それは、肯定を意味しているということだ。
「ッ」
僕の瞳に涙が滲む。それを溢さぬように、握り拳に力をいれた。
「貴方に二度と会えずに旅立つより、もう一度貴方に会いたかったんです。会ってお礼がしたかった。あの時は、助けて下さり、本当にありがとうございました」
「こんなの助けたとは言えません。僕が命を削ったも同然じゃないですか」
僕はぶんぶんと首を左右に振る。
「いいえ。本来なら私はあの時、天国へと旅立っていました。貴方が私の命を伸ばしてくれたんですよ」
「伸ばされた命なら、どうして?」
少しの苛立ちが声音に交じる。
「貴方に会いたかったから。シンプルに、もう一度貴方に会いたかった。お礼を伝えたかった。貴方のことが好き、だったんです」
「⁉」
頬を赤く染めながらも、僕を見つめて真摯にそう伝えてくれる美月さんの言葉に目を見開く僕の瞳から、雨雫のように涙がつたう。
僕だって美月さんともう一度会いたかった。会ってお話がしたかった。もっと親しくなりたかった。同じ時間を共有したかった。気がつかぬふりをし続けていたが、やっぱり好きなんだ。美月さんのことが。あの時から。
天海美月という少女と出会ったあの瞬間からずっと。一目惚れだったんだ。
その美貌に囚われているだけなのではないか? とも思っていたが、文通やリモートでやり取りを重ねるほどに、思いは募るばかりだった。
「いっぱい傷つけてごめんなさい。手話と言う言語で、たくさんお話しができて嬉しかったです。とても素敵な時間でした。大好きな時間でした。私を見つけてくれて、出会ってくれてありがとうございました」
「ッ⁉」
涙を溢しながらそう伝えてくる美月さんの背丈が、徐々に縮んでゆくことに気がつく僕は言葉を失う。
「あぁ。始まりましたね」
美月さんは自嘲気味な笑みを溢す。
「⁉ な、何が始まったと、言うんですか?」
「私が海へと帰る時間が始まったんですy」
焦って問う僕に対し、美月さんは落ち着いた口調で答えてくれる。
「……それは、海月の姿へと戻る時間ですか?」
その問いに対し、美月さんはフルフルと首を左右に振る。
「じゃぁ……」
「私の全てが溶けてしまう時間ですよ」
「それって……ッ」
深く聞く前に理解する。だが、そうではないとあって欲しいと願う僕がいた。
「えぇ。そうです。私の全てが溶ける時間。つまり、私が天国へと旅立つ時間」
美月さんはすでに全てを受け入れているのだろう。驚くほど冷静な口調と温顔だった。
「美月さんの身長が縮んでいるのは、足から溶けてしまっているということですか?」
僕の問いに対し、美月さんは無言のままコクリと頷く。
「全て溶けてしまったら、いったいどう、なってしまうんですか?」
「どうにもなりません。私達水海月は約九〇%水でなりたっています。だから、命を失うとほとんどが溶けて海水と一体化になります。何も残らない」
可愛らしくもか細い声でそう言った美月さんは、視線を海水へと落とした。
「何も、残らない?」
僕は言われた言葉を理解できず、オウム返しをしてしまう。否、意味は理解できる。だが、それを受けとめることが出来ないのだ。
「はい。何も」
美月さんは微苦笑を浮かべ、コクリと頷いて見せる。僕は一瞬言葉を失い、自然と瞳が潤み始める。
「……。だったら……だったら! 抱きしめてもいいですか?」
「ぇ⁉」
美月さんは僕の申し出に驚きの色を見せる。
「私に触れるということは、また貴方を傷つけるということですよ。駄目です」
「だからです。何も残らないのなら、”残して下さい”僕に、貴方がココにいたという証を。僕の腕の中にいたのだという証を、僕の身体に残して下さい」
「そ、そんなこと出来ませ――ッ」
がぶりを振る美月さんの言葉を最後まで聞かず、僕は美月さんを抱きしめた。
「ゔっ」
美月さんの肌に触れた個所が一気に熱を帯び、ブツブツが浮かび上がる。激しい痛みが僕を襲う。海水で冷え切っていた身体の体温が、一気に上昇していくように感じた。
「ダメ! 毒がッ」
美月さんは慌てて僕の腕の中から離れようともがく。もがいて僕から離れる美月さんの肌は、すでに透明となっていた。僕のこの行為は、美月さんの寿命を縮めているということだ。
「死なないですよ。ココは海水。海月に刺されたら毒を抜き海水で洗えばいいと聞きました。それより、ごめんなさい」
「どう……して? どうして貴方が謝るんですかっ?」
「僕が抱きしめることで、美月さんの命が削られてしまう。だけど、ただただ目の前で溶けてゆく美月さんを見守ることは出来ないんです」
僕は苦痛に顔を歪めながら、ポロポロと涙を溢す。
「優太さん……」
美月さんはそんな僕に呆れたのか、観念したのか、僕の背中にそっと手を回してくれた。微かに触れる肌が痛む。全身がいたくて熱い。
美月さんの身体はどんどん透明になってゆく。いっそのこと、このまま二人で溶けあえればいいのに。そうすれば、二人で海水として生きられるだろうに。
もちろん、そんな僕の願いは叶う訳もない。
海の住民と地の住民。こうしていることがまずありえない奇跡なのだ。一緒になることなど不可能。
「僕、美月さんのことをずっと忘れません」
「私も、忘れません。ずっと、見守っています」
「はい。ずっと見守っていて下さい。また会いに来ますから。ココへ」
僕は約束だとばかりに、小指を美月さんに見せる。
僕の糸を汲み取ってくれた美月さんは、右手の小指を出す。それはもう人間という物質ではなく、濁りのない水が人の手の形を維持しているようなものだった。
「待っています」
と泣き笑いをする美月さんは僕の小指に自身の指を絡ませる。そこに体温はなく、水に浸かっているという感覚だった。
「約束ですよ」
そう言って微笑んだ美月さんお身体は、水しぶきを上げるように、勢いよく弾け飛び落ちてしまう。いくつかのゼリー状の個体物も、程なくして海水に溶けきってしまった。
そこが僕の最後の記憶。
次に僕が目を覚ました時は、病院のベッドの上だった――。