二ヵ月後――。


 午前十時。
 僕達はガラス越しに会って話しをしていた。
[美月さん]
 兄さんのマンション。ダイニングテーブルで自分のノートパソコンを開き、画面越しの美月さんに手話で呼びかける。
[?]
 僕の手話での呼びかけに、美月さんはどうしたの? とでも言うように小首を傾げる。
[美月さん、無理していませんか? 今日は顔色が良くないように感じます。体調は大丈夫ですか?]
[大丈夫です]
 と答える美月さんは微笑んでくれるが、顔の血色が悪い。いつもうるツヤで桜色の唇は、ほんのりかさつきを感じるし、頬と共に血色が悪い。
[今日はもうリモートをお終いにしましょう? 無理は良くないです]
 美月さんはがぶりを振る。
[また明日おは――]
 イヤよ! 美月さんはそう叫ぶように口を動かす。美月さんが僕に対して感情的になるのは、これが初めてのことだった。
[私には時間がないんです]
[?]
 手話で読み解いた美月さんの言葉の意味が分からず、僕は小首を傾げる。
[だって私、もうす――ッ]
 美月さんは手話の途中で物音を立てながら、左横に倒れ込む。
「美月さんッ⁉」
 それに慌てた僕は、机に前のめりになりながら画面を見る。
 先程まで美月さんが座っていた背もたれの高い白のチェアは、斜めに動かされる形で止まっている。背景は赤い薔薇を基調にデザインされた遮光カーテン。そこに美月さんの姿はなく、物音一つ聴こえてこない。
「美月さん? 美月さん! 美月さんッ‼」
 何度呼び掛けても無音と同じ画面。まるで写真を写しているようだ。そもそもどこまで僕の声が聞こえているかが分からない。
「どうしようッ」
 立ち上がる僕は両手で頭を抱える。焦りから、即座にいい案が出てこない。
 救急隊員を呼ぶにも何号室か分からない。マンションのコンシェルジュに頼むも同じこと。兄さんを頼ることは出来ない。
 僕は唸りながら、意味もなくダイニングテーブルの周辺を、グルグルと歩き回ってしまう。
――リモート中、美月に何かあれば、私に電話をかけてきてちょうだい。
 中条さんにもらったメモ内容の文字が脳裏に浮かぶ。
「そうだ、中条さんッ」
 通常ならショートメールで通話の良き悪きを聞くところだが、今回ばかりはそうも言っていられない。
 僕はアドレス登録している中条さんの番号をコールする。
♪プルルー、プルルー♪
 呼びかけコール音の二回がやけに長く感じた。
「お願いしますッ。中条さん。出て下さい……ッ」
 切実な祈りが届いたのか、三回目のコールで、どうしたの? という、中条さんの冷静な声が耳に届く。
 僕はその声につい安堵の溜息を溢してしまうが、全然落ち着ける状態ではない。一秒でも早く状況を伝えなければ。
「中条さん、あの、今――ッ」
「美月がどうしたの? 何かあったのよね?」
 僕が皆まで言う前に中条さんが問うてくる。
「た、倒れて、呼びかけても、も、物音一つ聞こえなくてっ」
 震える声で答えながらオロオロする僕に対し、中条さんは驚くほど冷静だった。
「貴方、今どこにいるの?」
「兄さんの部屋です」
「一〇二号室」
「はい?」
「コンシェルジュに連絡を入れておくから、貴方は早急に一〇二号室の鍵をコンシェルジュから受け取り、美月の様子を見てきてちょうだい」
「ぇ? な、中条さんは?」
 僕は思いもしていなかった指示に戸惑う。
「会社からマンションまで一時間以上かかるのよ。魔法でも使わない限り、早急に駆け付けるだなんて無理だわ。それなら、貴方のほうが早いでしょ?」
「へ、部屋に入ってもいいんですか?」
「美月の危機なのよ。背に腹は代えられないわ。貴方が何かしたら独房にぶち込むだけの話し。一度電話切るわね」
「ぇ、ちょっ」
 しれっと怖いことを言った中条さんは、僕の言葉を最後まで聞かず、電話を切る。きっとコンシェルジュさんに連絡をつけるのだろう。
 僕はノートパソコンを閉じ、走ってエントランスに下りる。
 もし美月さんが画面に映っても大丈夫なように、人の目に触れなさそうな柱に隠れた僕は、立ちながらノートパソコンを確認する。映像は変わりがなく、物音も聞こえてこない。
 イヤホンを装着して音量を上げてみる。
「ヒュー、ヒュー」
「⁉」
 微かにだが、苦しそうな息が耳に届く。息というより、喘鳴に近い。
 ノートパソコンを閉じてトートバッグに終った僕は、再び中条さんと連絡を取るため、尻ポケットからスマホを手にする。
♪プルルー♪
 タイミングよく中条さんからの電話がかかってくる。僕はその電話に秒速で対応した。
「中条さん、美月さんが!」
「早く確認してきて。話は通してあるから。美月はリビングに居ると思うわ。タクシーが来たから、また後で」
 いつもよりもやや早口で電話切る中条さんの声音に、少し焦りの色を感じた。
 今からタクシーに乗るということは、一時間は帰ってこられないということだろう。やはり、中条さんの帰宅をおちおち待ってはいられない。
 僕はドキドキしながらコンシェルジュさんに合鍵をもらい、一〇二号室に足を踏み入れる。

  †

「美月さん!」
 半ば靴を投げ捨ててしまった僕は通路を走り、リビングの部屋の扉を開ける。
 ホワイトゼブラ柄のような大理石のリビング机に、白のノートパソコンが一つ。背もたれが高い白のチェアーが四脚。そこには誰も座っていない。
「美月さん⁉」
 来客用のスリッパがどこにあるのか知る由もない僕は、無遠慮にリビングの中に入る。
 斜めになっているチェアーから崩れ落ちたように、美月さんが横向きで倒れていた。
「み、美月さんッ! 大丈夫ですかッ⁉」
 邪魔な椅子をどかし、美月さんを抱きかかえようとした僕の両掌を拒絶するかのように、両掌に強い痛みが走る。
「⁉」
 まるで何かに刺されたかのような強い痛みに、バッと両手を引く。
 両掌を見て見れば、赤みがさしていた。それだけじゃなく、永続的にズキズキした痛みを感じる。
「な、んで……」
 可笑しい所はそれだけじゃない。
 僕の手が微かに触れた美月さんの腕の色素が薄くなっていた。僕の指跡がくっきりと分かるほどだ。
「……」
 美月さんはパクパクと口を動かすが、その音が届くことはない。口の動きで読み解くことは、今の僕には出来ない。
 美月さんは苦しそうに肩を上下させる。頬は赤く染まり、汗で前髪が額に張り付いている。熱があるように思うが、確認しようにも先程のことが気がかりで、安易に触れることが出来ない。触れた個所はまだ痛む。もう訳が分からない。
――……私だって、手を貸せるものならそうしてあげたいわよ。
 美月さんと初めて出会った日、倒れた美月さんに手を貸そうとしないのは何故なのか問うた僕に対し、中条さんはどこかやるせなさを抱えるようにそう答えたシーンが脳裏に甦る。
「だから……なの?」
 どんどん赤みが増してくる両手を見ながら呟く。その問いに答えが与えられることはない。
 ♪コンコン♪
「!」
 肩を震わして驚く僕は、美月さんを見る。
 先程まで苦しそうに硬く瞼を瞑っていたはずの美月さんの瞳は、薄っすらと開かれていた。
 ♪コンコン♪
 美月さんは指先でフローリングを控えめに叩く。
[大丈夫ですか?]
 僕は手話で問う。
 美月さんは手話で話すことはなく、フローリングに人差し指で文字を書く仕草をした。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 ノートパソコンを入れていたトートバックから、B5のノートとボールペンを取り出した僕は、白紙のノートページを見開き、美月さんの顔の近くに置く。次に、蓋を開けたボールペンを美月さんの手元の近くにそっと置いた。
【ゆうたさん】
 震える手でボールペンを力なく持った美月さんは、そう文字を綴る。力が入らないのか、文字はミミズ文字のようにひょろひょろだ。書けるはずの漢字も、ひらがなになっていた。
[どうしました? 体調。熱?]
【だいじょうぶ。ただのねつです】
【やっと、おあいできた】
 美月さんは嬉しそうに、へにょりと力なく笑う。
「⁉」
 美月さんの笑顔が驚きに変わる。
[? どうしましたか?]
【そのて】
「ぁ」
 僕は慌てて両手を背中に隠す。
【ふれたんですね。わたしに】
「えっと……」
 僕はバツが悪そうに視線をさ迷わせるが、背中に手を隠したままでは、手話会話は出来ない。
[すみません。抱き起そうとしたんです]
【すぐ、おゆで、てをあらってください。せんざい、つけないでください】
「ぇ?」
【はやく!】
「は、はい! キッチンかります」
 潤んだ瞳で僕を睨んでくるような美月さんに慌てた僕は、ドタバタとキッチンに向かう。兄さんと同じマンションのため、使い勝手が同じで助かった。
 どうしてお湯で手を洗わなければならないのか、僕には分からなかったが、今は美月さんの指示通りに動くことにした。
「キッチンペーパもらいます」
 現在ハンカチを所持していないため、目についたキッチンペーパーを二枚ほど拝借する。どこかにキッチンタオルがあるのだと思うが探すわけにもいかないし、使う訳にもいかない。
 出したごみは尻ポケットに突っ込む。家の主がいないところで、好き勝手には動きたくない。
「美月さん」
 手を洗い終えた僕は慌てて元の場所に戻る。
【中条さんは?】
[今、タクシーで、帰宅中です]
 新たに書かれていた文字に対し、僕は手話で答える。
[病院、電話、しますか?]
【だめ!】
 美月さんは慌てたように書く。その表情には焦りが見えた。
[じゃぁ、せめて、ソファかベッドに横になりましょう]
【ほこうき】
「?」
【中条さんのへやに、ほこうきがあります。それを、とってきてくれませんか?】
[少し、待っていて下さい]
 僕は慌てて中条さんに電話をかける。勝手に入ることも可能だが、女性の部屋に無遠慮で入ることは気が引ける。しかも、そこまで親しくない目上の相手だ。
『もしもし、美月は大丈夫?』
「大丈夫かは分かりません」
『分からないってどういうこと? 意識はあるのよね?』
 僕の正直な答えに対し、中条さんは少し焦る。
「意識はありますが、高熱がありそうな雰囲気で。後、中条さんの部屋にある歩行器を取って来て欲しいと……部屋に入ってもいいですか?」
『そう。えぇ、かまわないわ。寝室はリビングと隣接している部屋よ。美月を私のベッドに寝かせてちょうだい。冷蔵庫に冷却シートがあるから、それを美月に渡して。自分で貼ると思うから。その後は、美月に聞いて。美月の要望は全て聞いてあげて。自由に家を動いてもらって構わないし、家にあるものを使っても構わないから』
「はい」
『じゃぁ、私がつくまでお願いね。もう数十分かかるから。急変したらまた連絡してきてちょうだい』
「分かりました。ありがとうございます。失礼します」
 僕はそう返事をして電話を切る。
[今から持ってきます]
 美月さんにそう手話で伝え、ドタバタとリビングに隣接する部屋に足を向ける。
 開け放たれたカーテンから、心地の良い陽の光がたくさん入る部屋。兄さんとは違い、落ち着いた大人の女性の部屋と言う感じに、介護用の歩行器補助だけが、ぽかりと浮かび上がっていた。
「お邪魔します」
 一言断りを入れてから部屋に入り、歩行器補助をガラガラと押して、早足で美月さんの元へと戻る。
[美月さん、大丈夫ですか?]
 美月さんは頷くように、ゆっくりと瞬きを一回する。
【ありがとうございます】
 と書いた美月さんはペンを手から離す。そして、両手で上半身を起こす。危なっかしくて思わず手を伸ばすが、ダメ。というように、美月さんの唇が動く。
 どんな状態であっても触れてはいけないし、触れられたくないのだろう。
 美月さんに触れて赤く爛れた個所が、今もズキズキと痛む。
 美月さんは傍にあったチェアーを補助にして、フラフラと立ち上がる。僕はUの字になった歩行器補助の空洞部分を、美月さんに向けて手渡した。
<あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す>
 とでも言うように、美月さんの唇が動く。
 僕は気にすることないよ、とでも言うように、微笑みながら首を左右に振った。
 美月さんは歩行器補助に捕まりながら、覚束ない足取りで寝室のベッドに向かう。
 こんな近くにいるのにもかかわらず、肩を貸すことも、支えることも出来ない。そのことを悔しく思うが、仕方がない。どうしようもないのだ。と、先程から消えぬ痛みが言ってくるようだった。
[大丈夫そうですか?]
 ベッドで横になってホッと一息ついた美月さんに手話で問うと、美月さんはコクリと頷き、そっと微笑んでくれる。
[他に何かして欲しいことありますか? 飲み物とか]
[お水を。グラスはキッチンに]
 美月さんの手話に頷き、画像検索したスマホ画面を映す。スマホ画面には、ウォーターサーバーが映っている。先程キッチンに足を踏み入れた時に見かけたものと同じ商品だ。けして盗撮したわけではない。
[はい。いつも、ここから出したお水、飲んでいます]
[分かりました。少し待っていて下さい]
 美月さんの返答を理解した僕は、急ぎ足でお水を取りに行った。



「お待たせしました」
 高級グラスが多くてどれを使っていいか分からず、マグカップにお水を注いできた僕は、美月さんの傍で膝を折る。
 ベッドボードに背を預けていた美月さんは、ペコリと会釈をする。
 右手でマグカップを顔の前に合わせ、左手でベッドサイドテーブルを指差す。ここに置いてもいいですか? とでも言うように。
 僕のジェスチャーが通じたのか、美月さんはコクリと頷いてくれた。
[何か、お薬とか飲まなくても大丈夫ですか?]
[大丈夫です。お水、ありがとうございます]
 と伝える美月さんはそっと微笑み、マグカップを手に取る。半分ちょっと注いだ水が入ったマグカップを持つことさえ辛いのか、両手がフルフルと震えていた。
 溢さないか不安を覚え、つい手を出しそうになるが、慌てて引っ込める。きっと、過度なサポートをしてはいけない。それに、また肌に触れてしまっては大変だ。
 幼子のようにマグカップを両手で持ち、喉を潤した美月さんは、ホッと小さな息を吐く。
[具合はどうですか?]
 僕の手話での問いに対し、美月さんはマグカップを元の位置に戻し、[大丈夫です]と伝えてくれる。
[先程より、ずいぶんと良くなりました]
 と微笑む美月さんの瞳は虚ろで、両頬はりんご飴のようだった。
 本当に大丈夫なのかと心配になるが、美月さんの言葉を信じるしか出来ない。何故、歩行器補助を必要としているのかも気になる。だが安易に聞くことは出来ないだろう。
[中条さんは、もう少しかかると思います]
[そうですか]
[中条さんが帰宅されるまで、ココにいてもいいですか?]
 いつかの日、中条さんが話していた美月さんの過去。
――誰もいないはずの浜辺を歩いていたら、あの子が倒れていたのよ。それも、産まれたままの姿でね。
 中条さんの言葉を思い出し、確認を取る。
 それを深読みすれば、男性恐怖症、もしくは多人恐怖症となっていても可笑しくはない。
[はい]
[美月さんは、スマホとか持っていますか?]
 美月さんは僕の問いに小さく頷く。
[私のスマホは、リビングテーブルの上にあります]
[持ってきてもいいですか?]
[はい。お願いします]
 美月さんの返答に笑顔で頷いた僕は、美月さんのスマホを取りに行った。


「美月さん」
 と声をかけながら、歩み寄る。僕の声が聞こえているのか定かではないが、美月さんが微笑みを絶やすことはない。
「ここに置いてもいいですか?」
 と美月さんの膝の上を指差して確認する。
 手渡せたら良いのだが、極力肌に触れあう可能性を無くしたほうが良いはずだ。
 コクリと頷く美月さんに微笑む僕は、そっとスマホを置いた。
[私のせいで、ごめんなさい。きっと、凄く痛いですよね?]
「ぇ?」
 僕は唐突な謝罪に驚く。
 美月さんは僕の炎症を起こしている両掌を指差す。
[私のせい? 触れたのは僕です。だから、僕の方がごめんなさい]
 僕はこの謎に踏み込んでいいのか分からず、妥当な言葉を伝える。実際、無遠慮に触れてしまったのは僕なのだ。
[私、人と触れ合えない体質なんです]
「?」
 もう少し理解しやすい話しを求めるように小首を傾げる僕に対し、美月さんは手話を続けてくれる。
[私に触れた人は、皆様、こうなってしまいます。だから、私は、誰とも触れ合うことが出来ない。それが、どんなに大切な人でも]
「……」
 美月さんの話にどう答えればいいか分からず、僕は刹那の沈黙をしてしまった。美月さんの話に、そんなことがあるのだろうか? と不思議に思うが、僕の掌の赤みや痛みが事実だと物語っていた。
[僕は、大丈夫。見かけに寄らず痛みには強いほうですので]
 兎にも角にも、罪悪感を抱えてしまっている美月さんに安心してもらえるように、歯を見せながら笑って見せる。
 そんな僕に対し、美月さんは申し訳なさそうに眉根を下げる。
[僕より、美月さんは大丈夫ですか?]
[?]
[痛くないですか?]
 そう手話で伝える僕は、美月さんに触れた個所を指差す。美月さんの左腕には、今でも僕の指の跡がくっきりと残っているのが分かる。
[大丈夫です。私は痛くないです]
[それ、跡が残ってしまいますか?]
 僕は不安げに問う。故意ではないとはいえ、女性の身体になんらかの傷跡を残してしまいたくない。
[大丈夫です]
 と微笑む美月さんの返答に、僕はホッと安堵の息を溢す。
 その後、しばし沈黙が流れる。
[……えっと、じゃぁ、僕はリビングにいますので]
 美月さんのスマホと共に、リビングから回収してきたノートを一ページ破り、ボールペンで僕の携帯番号を書いたものを、サイドテーブルの上にそっと置いた。
[何かあれば、ココに電話を下さい。飛んできます]
 同じ部屋にはいないほうが良いだろう。きっと僕がずっといては、気が休まらないはずだ。心配なので傍にはいたいが、僕が目につかない方がいいかもしれない。
[ありがとうございます]
 と伝えてくれる美月さんだが、その表情は少し寂しそうで、ココに居てもいいのかと勘違いしてしまいそうになる。だがきっと、僕が居たら居たらで気を遣わせてしまうはずだ。
[何かあれば、何なりと]
 そう手話で伝えた僕は、寝室を後にした。


 四十分後――。

 カチャ。
 ドアノブの動く音が沈黙だった部屋に響く。
「中条さんッ」
 僕はドタバタと玄関へと駆け寄った。
「美月は?」
 足首に布が巻き付いたような脱ぎにくそうなヒールを、片足立ちになりながら、慣れた手つきで脱ぎながら問うてくる中条さんの肩は、軽く上下していた。走ってきたのだろうか?
「寝室のベッドです。僕はリビングに居たので、今も起きているかは分かりません」
「どうしてリビングに?」
 左足のヒールを脱ぐ手を止めた中条さんは、不思議そうに問うてくる。
「僕が同じ部屋にいたら、美月さんの心が休まらないかも知れないと思ったので」
「……そう。ありがとう」
 少し意外そうな顔をした中条さんだったが、直ぐ真顔に戻る。ヒールを脱ぎ終えた中条さんは、足早に寝室に向った。僕はついて行くことはせず、玄関で大人しくしていた。
 しばらくして、二人は話が終わったのか、中条さんが玄関へと戻ってきた。
「貴方、どうしてまだそこにいるの?」
「いや……聞かれたくないお話も、あるかと思いましたので」
 僕は視線をさ迷わせながら答える。
「そう。色々と気を遣わせたわね」
「それで、美月さんの容体は」
「……風邪、のようなものだと思うけれど」
 中条さんは拳を口元に当てて、煮え切らない答えを返してくる。
「ようなもの? 病院で診てもらわなくても大丈夫なんですか?」
「あの子を安易には外に出せないわ。それに、病院で診てもらうということは、人の体温に触れるとい
――⁉」
 中条さんは話の途中で瞠目する。
「どうしたんですか?」
「それはこっちの台詞よ。貴方、その掌どうしたのよ。赤く腫れあがっているみたい」
「ぁ、これは……」
 中条さんの言葉にハッとする僕は、正直に言うべきか分からず、思わず両手を後ろに回す。
「た、ただの、虫刺され、的なものです」
 と、少しの迷いをさ迷い、しどろもどろになりながらも、妥当な嘘を付く。
――生きているようだったから、取り合えず警察に通報しようと、バックからスマホを取り出したらあの子が目を覚ましたのよ。話が聞けると安堵したのも束の間、あの子は何かを叫びながら転がるように逃げ回って、本当に大変だったわ。だって服を着ていないんだもの。事情を聞こうにも声が出せないし、砂に文字を書いてもらおうとしたけれど、あの子は文字が書けなかった
 中条さんが美月さんを見つけて助けようとしたときの話を思い出す。
 中条さんがその後、美月さんの肌に一度も触れていないとしたら、美月さんが体質のことを話していないとしたら、このことは知らないはずだ。知らないのなら、言わない方がいい。美月さんの隠しことならば、美月さんの口から伝えるほうがいい。
「……そう」
 しばし怪訝な顔で僕を見ていた中条さんであったが、小さく頷く。納得いってはいないようだが、それ以上は中条さんが深入りしてくることはなかった。
「後のことは私に任せて。貴方はもう帰ってくれても構わないから」
「ぇ?」
「貴方がいてくれてよかったわ。ありがとう。助かったわ」
 中条さんはそう言って微笑む。その笑みはいつもの余裕たっぷりのものではなく、安堵したような穏やかなものだった。
「……いえ。僕は何も」
 控えめに首を左右に振る。
「何も? 貴方は色々してくれたわ。私に電話をかけ、私の指示通りに動き、美月の安否を確認。美月の話を聞き、それ通り動いていいのかを確認するため、わざわざ私に電話をかけてきた。緊急にも関わらずにね。
 その後、歩行器補助を美月に渡し、ベッドにつくまで見守った。初めての家で勝手も分からぬままマグカップに水を注ぎ、美月に渡してくれた。美月への配慮から、電話番号を渡し、リビングで私の帰宅を待っていた――これのどこが”何もしていない”になるのかしら?」
「ッ」
「過度な謙遜は、自分のした行いを否定するも同然よ。それを続けていれば、貴方の心は、自分に否定されているのだと思い、どんどん自信を無くしてゆくわ。もっと堂々としていなさい」
「自信……」
「自信は誰でも身につけられるダイヤモンド。自分を輝かせるモノよ。貴方にはそれがない。もし今後も美月の傍にいることを望むのならば、自信というダイヤモンドを身につけなさい。また私の方から連絡するわ。それまでは、リモートはお休みよ」
「……はい。お邪魔しました」
「忘れ物は?」
「ありません。失礼します」
 僕はペコリと会釈をして、静かにその場を後にした――。


  †


 三日後――。
 兄さんの家できんぴらごぼうを作っていた僕の手付きは、いつもよりぎこちない。
 あれから赤く爛れた手は赤みが引いてきたものの、まだ痛痒さが残っていた。
「美月さん、無事なんだろうか?」
 その呟きに答えるかのように、僕のスマホからショートメール通知音が届く。
「中条さん?」
 期待を抱きながらスマホを確認すると、中条さんからショートメールが届いていた。
【こんにちは】
 の件名から始まり、今電話しても大丈夫かの確認内容だった。それに対し僕はすぐに二つ返事を送った。
 ショートメールの代わりに、すぐにスマホの着信音が鳴り響く。もちろん着信相手は中条さんだ。
「はい。もしもし」
『こんにちは。美月のことで少し話があるの。今は貴方一人?』
「はい。今兄さんの家にいますが、兄さんは不在です」
『そう。色々とちょうどいいわね』
「美月さんの体調はどうですか?」
 何に対してちょうどいいのか分かりかねるが、取り合えず、僕が今一番気になっていることを聞くことにする。
『えぇ。一応熱は下がっているから、そこは安心してちょうだい』
「一応?」
『美月はしばらくリモートをしたくないと言っているわ』
「ぇ⁉」
 中条さんは僕のモヤモヤを解消させることなく、更なる不安を投下してくる。
『一応言っておくけど、美月が貴方のことを拒絶しているわけじゃないわ。その証拠に、あの子から手紙を預かっているのよ』
 中条さんは僕の心の揺れを感じ取ったのか、すかさずフォローをしてくれた。
「それは……良かったです。手紙ですか?」
 僕は張り詰めた糸を少し緩め、問いかける。
『えぇ。今日はそれを貴方に渡したくて電話したの。今から、マンションのエントランスに下りてこられる?』
「はい。もちろんです」
『じゃぁ、前回と同じ場所で待っていてちょうだい。後十分程でマンションにつくから』
「分かりました」
『はい。じゃぁ、また後でね』
 と言った中条さんは電話を切った。
 僕もスマホ画面を元に戻し、マンションのエントランスへと降りた。



  †

 マンション、プラージュ・零。エントランス。
 ブドウを主とした、四台のステンドグラスランプが各端に置かれている。ランプが置かれた中央には、ワイン色のベアロ生地の背もたれ付き椅子が十六脚。その中央には、丸いガラステーブルが四脚。カウンター席が合計四席出来るように、それぞれ設置されている。
 時刻は午後二時。
 僕の他に右上端の席には、来客が二人いた。スーツ姿をした三十代前後の男性と、シンプルな黒のAラインワンピースを着用した二十代前半の女性が、ガラステーブルを挟み、向かい合いながら座っている。
 二人の表情は真剣で、男性はノートパソコンを女性に見せながら何かを確認している。仕事の話だろうか?
 僕はその二人から出来るだけ離れるように、左下端の席の椅子へ腰を下ろした。
 相も変わらず、座り心地が驚くほどふかふかしている。精神が穏やかであれば、このまま眠りについてしまいそうなほどに心地よい。が、僕の精神は青ざめていた。
 リモートをしたくないと言うのは、一体どういうことなのだろう? 
 中条さんは、美月さんが僕のことを拒絶しているわけじゃないと言った。なら、美月さんの体調が優れないことが理由なのだろうか? 熱は下がったと言ったが、“一応”という中条さんの言葉が気がかりだ。美月さんの体調は、本当によくなっているのだろうか?
 僕が独り悶々と不安を抱えたまま待ち人を待っていると、ほどなくして黒のパンツスーツスタイルをした中条さんが現れた。
「待たせたわね」
 ヒール音を鳴らし、僕の元に歩み寄る中条さんの顔色は少し疲れが見える。
「いえ、そんなに待っていません。大丈夫です。……中条さん、ちゃんと休めていますか?」
 僕は立ち上がってそう話す。実際、五分も待っていない。タワーマンションとなると、エレベーターの状況によって、エントランスに下りるまで五分以上かかることもあるのだ。忘れ物をしたらアウトだと、兄さんがよくごちていた。
「ぇ?」
 中条さんは僕の問い掛けに、少し間の抜けた顔をする。
「ぁ! すみません。顔色がいつもより優れないようでしたのでつい。余計なお世話をすみません」
「貴方、人のことをよく見ているのね。……ストーカー気質?」
「なっ」
「冗談よ」
 中条さんは僕の気を緩めようとしてくれたのか、冗談を繰り出してくれるが、なかなかにブラックで心臓が跳ねる。
「私の方は気にしないで大丈夫よ。ありがとう」
「いえ。……美月さんの具合は如何ですか?」
「何とも言えないわね」
 中条さんは溜息交じりに言った。その表情はどこか暗い。
「座っていられないほど調子が悪いってわけではないんですよね?」
「まぁ、そうね。貴方に手紙を綴るくらいには元気があるみたいだけど」
 いつもよりも気迫のない声音でそう返答する中条さんは、黒のクラッチバックから一通の手紙を取り出し、僕に差し出してくれる。
「そうですか。ぁ! ありがとうございます」
 僕は中条さんから差し出された手紙を、両手でスッと受け取った。その受け取った手紙の封筒は、今まで見たことのないデザインだった。夜空に星屑のような星々を隠すような曇り空と、右斜め上に満月がプリントされたデザインだ。
「ふふふ」
「ぇ」
 唐突な中条さんの空気のような笑い声に僕は戸惑い、きょとんとした顔で中条さんを見る。
「笑って悪かったわね。ただ、貴方が私の差し出したものを、こんなにも素直に受け取ったのは初めてだったものだから」
「ぁ! ……すみません」
「どうしてそこで謝るのよ。私は貴方を感心したのに、これでは台無しだわ」
 中条さんは微苦笑を浮かべて言う。
「ぁ、つい。すみません」
 僕はさらにテンパってしまい、またしても頭を下げてしまう。
「ふふふ。まだまだ貴方のダイヤモンドを磨かないといけないみたいね」
「自信……ですか?」
「そう。自信。自分を信じる力。貴方だけのとびっきりのダイヤモンドを磨きなさい。自信が充分にあれば、他者を受け止めることも、信じることも出来るわ。それと同時に、他者から傷つかされることを恐れなくなる。人生に対しての恐れが軽減する。その分、自分の心に素直に生きられるのよ」
 中条さんが真摯に話してくれる言葉達は、僕の心に深く染み込んでいくようだった。
「……心に留めておきます」
「じゃぁ、私はこれで。美月への返事が書けたら、私にショートメッセージを送ってちょうだい」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
「じゃぁね」
 中条さんはそっと微笑み。マンションを後にする。仕事から帰宅したわけではなかったようだ。
 残された僕は手紙を大切に握り、一度兄さんの部屋に戻ることにした。


  †


「ふぅ」
 僕は背もたれの高い灰色のレザーチェアに腰掛け、黒の太いNに似たうねりで支えている黒のガラス天板テーブルに、両腕を伸ばして突っ伏した。両手には中条さんから受け取った、美月さんからの手紙を握っている。一秒でも早く読みたいと思う反面、読むのが少し怖いとも思う。一体何が書かれているのか不安だ。
「……よっし」
 小さな気合いを入れ、余裕たっぷりのレザーチェアの上で体育座りをした僕は、手紙の封を開けた。ありがたいことに、美月さんの手紙は毎回シール一つだけで封がされているため、綺麗に開けやすい。
【白崎 優太 さま】
「さ、様付け再来⁉」
 宛名に様がついていることで急に距離感が遠のいたように感じ、僕はガクリと肩を落としつつ、手紙を読み進める。
【こんにちは。
 ひさしぶりの、おてがみ。すこし、きんちょう、しています。
 先日は、あぶないところを、たすけてくださり、ありがとうございました。おかげさまで、わたしのほうは、たいちょうが元にもどりつつあります。ですが、まだおかおを見せられるほどのものではありませんので、こんかいは、おてがみをかかせてもらいました】
 と綴られている文面を読み、僕は余計に不安になってしまう。
 体調が元に戻りつつあると書かれているが、顔を見せられるほどの元気はないということだ。それに、文字の筆圧が本当に細くてひょろひょろとしており、この手紙を書くことでさえも精一杯だったのではないか。相当無理をしたんじゃないだろうか? と答えのない予測が僕の不安を煽る。
【そのご、はだのぐあいは、いかがですか? たいちょうとか、くずされていませんか? しんぱいです。
 私のたいしつのこと、もっとはやくいっておけばよかったと、こうかいしています。もしたいしつのことをいって、きょぜつされたら、とてもかなしいとかんじ、いえずにいました】
 美月さんは罪悪感を拭いきれていないのかも知れない。もしかすると、自身の体質のことで誰とも分かり合えずに、独りで生きていたのかも知れない。今は中条さんが傍にいてくれているが、心の中ではいつも不安と格闘していたのではないだろうか? 美月さんが一番苦しいはずなのに、僕のことを心配してくれる優しさが切ない。僕はなんて無力なのだろう。笑顔になってもらうどころか、美月さんの笑顔を失わさせてしまっているではないか。
【もし、わたしのことを、おそろしいとおもったのなら、このてがみで、おわりにしてくれてかまいません。わたしは、優太さんをこわがらせたくありません。きずつけたくもないです。かなしませたくもないです。わたしはただ、優太さんにわらっていてほしいです。
                                                         天海 美月 】
「……美月さん」
 手紙を読み終えた僕は、下唇を噛み締める。
 きっと、美月さんは自分の気持ちよりも、相手のことを思って生きてきたことがこの手紙で分かる。
 美月さんは自分の体質で誰かを傷つかせないため、悲しませないために、自分を鳥籠に閉じ込めてしまったのかも知れない。
 誰かと大切な時間を過ごしていても、相手が自分の肌に触れないように細心の注意を払っていただろう。それこそ、おちおち眠っていることさえも出来ないはずだ。
 僕は美月さんと出会い、美月さんの体質を知ってから初めて、大切な人と同じ時間を共有できても、大切な人と触れ合えないことは、こんなにも歯がゆいことを知った。
 大切な人を抱き起すことも、手を貸すことも、肩を貸すことも出来ない。満足に看病も出来ない。本当に、ただ見守ることしか出来ないのだ。なんて無力なのだろう。
 それでも僕は、美月さんの傍に居たいと思うし、これからも同じ時間を共有し続けたいと思う。もっと親しくなりたいと思うし、一番の味方で在りたいと思うし、一番に頼られたいと思う。美月さんの心の支えで在れたらいいのになぁと思うんだ。
「よっし」
 落ちた気持に気合を入れなおし、僕は一度アパートに帰宅した。
 兄さんの家にレターセットは置いていない。置いていたとしても、気持ちが落ち着かず、ゆっくり手紙を綴ることは出来ない。一度自分のフィールドで気持ちを落ち着け、真摯に手紙を綴りたいと思ったのだ。



  †

 マンション、プラージュ・零。エントランス。
 二十時二十五分。

「中条さん、お疲れ様です」
「何度も呼び出して悪いわね」
「とんでもないです。今回お呼び出ししたのは僕の方ですし」
 あの後、手紙を書き終えた僕は、すぐに中条さんにショートメールを送った。中条さんからすぐに返信が届き、この時間にここで会うこととなったのだ。
「早速、返事を書いてくれて助かるわ」
「助かる? ぁ、これ。お願いします」
 小首を傾げつつ、中条さんに手紙を渡す。アクアマリン色の封筒に白い羽のシルエットが右下にデザインされたものだ。
「こちらの話よ。私から深く話すつもりはないわ。気になるなら、あの子に聞いてみてちょうだい。手紙、ありがとう。あの子に渡しておくわね」
 中条さんはそう言って手紙を受け取り、黒のクラッチバックにしっかりとしまった。
「ぇ⁉」
 僕はその中条さんの行動にきょとんとする。中条さんの意味深な言葉よりも、その行動の方が気になることへと移ってしまう。
「どうしたの?」
「手紙の中身を確認しないんですか?」
 今回も中条さんに手紙の内容を確認されると思い、レターセットについていた羽根のシールでしか手紙の封を閉じていない。
「えぇ。確認しないわ」
「どうしてですか?」
 鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をして、中条さんに問う。
「それだけ貴方を信用しているということよ」
「……」
 僕は思わぬ中条さんの言葉に、驚きと喜びで言葉を失う。
「……お間抜けな顔ね」
 中条さんは微苦笑を浮かべる。
「ぁ、いや。そんな顔していませんよ。ちょ、ちょっと驚いただけですから」
 ハッと我に返った僕は、どもりながら間抜け顔を誤魔化した。
「そう? ならいいけど。また何かあったら連絡するわね」
「はい。待っています」
 と頷く僕に微笑む中条さんは、「じゃぁ、また――」と言って、自分の部屋号に戻って行った。
 一人残された僕は、大学のこともあるため、兄さんのところへ泊ることなく、自身のアパートに帰宅した。



  †


【拝啓 天海 美月 様
 こんにちは。
 お手紙、ありがとうございます。
 美月さんのたいちょうが、かいふくしてきたようで、安心しました。ですが、むりだけは、しないでくださいね。リモートも、また美月さんが元気いっぱいになったとき、お顔をみせてもらえるとうれしいですし、おてがみも、たいちょうがいいときや、気がむいたときにでかまいません。
 僕はかわらず元気にしています。はだのぐあいも、しんぱいしなくとも大丈夫ですよ。なので、どうか自分のことを、せめないでください。美月さんは、なにもわるくありません。
 それに、僕は美月さんのことを、こわいとはおもっていません。これからも、こわいとはおもいません。
 僕は美月さんが僕を思ってくれるように、僕も美月さんのことを思っています。
 美月さんをこわがらせたくないです。きずつけたくもないです。かなしませたくもないですし、かなしんでほしくない。僕はただ、美月さんにわらっていてほしい。なので、どうかガマンしないでほしいです。あいてのことをおもって……僕のことをおもって(えんりょして)、美月さんの心をかくしてほしくないです。
 僕はこんごも、美月さんのそばにいたいとおもっていますし、これからも同じ時間を、きょうゆう、しつづけたいとおもっています。もっとたくさん、美月さんとお話ししたいです。親しくなりたいとおもっています。美月さんの一番のみかたでありたいと思うし、一番に頼られたいと思っています。もちろん、一番は中条さんなのでしょうけど……それでも僕は、美月さんの心の支えであれたらいいなぁと思うんです。
 美月さん、いま、やりたいことはありますか?
 行きたいところはありますか?
 夢はありますか?
 もしあるのなら、僕もいっしょに、叶えたいです。僕では力不足かもしれませんが、美月さんの笑顔の力になりたいです。
 もし僕で力になれるのなら、力になるのが僕でいいのなら、また手紙なりリモートなりで、おはなしさせてもらえたらうれしいです。

                                                        白崎 優太 】

 そう綴った手紙に返答が届いたのは、翌日の夜九時だった。
 中条さんから、マンション内にあるレストランへと呼び出された僕は、スマートスーツ着用の元、戦々恐々で訪れた。中条さんからは、武装しすぎだと笑われたのは言うまでもない。だが、中条さんのその笑顔は、すぐに消え、どこか重苦しい空気だけが残る──。



 時刻は夜九時を過ぎ。ディナータイムを終えた幾人かの大人達が、お酒を楽しむレストラン。店内にはBGMとして、ショパン曲のピアノ演奏が流れていた。しかも、店内にあるグランドピアノでピアニストが生演奏している。耳にしたことのある曲だとは感じるものの、僕には、さっぱり曲名が分からなかった。
 僕と中条さんは、グランドピアノに一番近い二人掛けテーブル席に通されていた。中条さんがそこを指定したのだ。なんでもこのレストランでは、金曜日の夜だけピアノの生演奏と共に、ディナーやお酒を楽しめるようだ。
 美月さんと出会う前までの中条さんは、ほぼ毎週金曜日に、ここへ訪れていたようだ。マンション内には、お酒を楽しむバーも設立されているようだが、そこではジャズが流れているため、中条さんの好みには合わなかったらしい。
「貴方も飲む? 二十歳だったら飲めるでしょ? お金のことは気にしないでいいのよ」
 赤ワインの入ったワイングラスを流し見しながら問うてくる中条さんの瞳には、いつものように強い光はない。一体なにがあったのだろうか?
「いえ、お酒は遠慮しておきます」
 と言った僕の前には、ガトーショコラとジンジャエールが置かれている。夕飯はすでに食べてしまっていたため、ガッツリしたメニューは注文できなかった。もちろん、金銭面的にも。一般大学生のお財布事情は中々に厳しいのだ。
「即答で女性の誘いを断るのもどうかと思うけど」
 乾いた微笑みを浮かべた中条さんは、真っ白のプレートに乗せられたワンカットケーキのような形をしたブルーチーズを、フォークとナイフで一口サイズにカットし、口に運ぶ。
「……美月さんのことで、何かあったんですか?」
 少し戸惑いながらも、単刀直入に問うてみる。もし仕事で何かあったのなら、わざわざ僕を呼び出して愚痴るわけはないだろう。
「貴方、スマートさの欠片もないわね。直球に聞き過ぎじゃないかしら?」
「す、すみません。僕は兄さんじゃないので」
「そりゃそうよね」
 中条さんはほんの少し鼻で笑い、納得したように頷く。納得されればされたで、なんだかショックに思えてしまう。
「兄さんのこと、知っているんですか?」
「さぁ、どうかしら?」
 中条さんは僕をからかうように笑い、小首を傾げて見せる。
「……僕で遊んでますよね? 酔ってますか?」
「貴方がそう思うならそうなのでしょうね。ちなみに、ワイン一本開けたところで酔わないわよ」
「強っ!」
 僕は中条さんの酒豪さに、思わず友人とのノリのような形で本音を溢してしまう。
「ふふふ。褒め言葉として取っておくわ」
「ポジティブですね」
「ポジティブであれたらどんなに楽か……」
 中条さんは自嘲気味な笑みを見せながら、独り言のようにそう呟く。
「なにが、あったんですか?」
「……ねぇ」
 中条さんは僕の質問には答えず、僕を呼びかける。
「なんでしょう?」
「貴方、美月とどうなりたいの?」
 ワイングラスを右手に取った中条さんは、赤ワインが入ったグラスを見つめながら問うてくる。
「どう……とは?」
 僕はもう少し深い話しを求めるように、眉根を下げて小首を傾げて見せる。
「友達になりたい。恋人になりたい。結婚したい。もう関わりたくない――とか、色々とあるでしょう?」
 グラス内で器用にワインを遊ばせながら問うてくる中条さんの声音はどこか淡々としていて、その心内が読みづらい。
「もう関わりたくないとかは、絶対に思いませんよ。恋人とか結婚とか……おこがましいと言いますか――。僕はただ、美月さんの力になりたいんです。笑っていて欲しい」
「それは、どうして? 美月のことが好きだから? それとも、美月への同情?」
 グラスの飲み口からワインを見つめていた中条さんの瞳が僕を捉える。まるで僕の内情を見透かすかのように。
「……すみません。恋愛感情の好きというものが、まだどういうものなのか、深くは理解していないんです。でも、同情なんかじゃないです。絶対に」
「……恋くらい、したことあるでしょ?」
 中条さんは、意外な答えが返ってきたとばかりに、控えめな驚きを見せた。
「する暇もない。ということもありますよ。中学の時は、女子が落とした消しゴムを拾ったくらいで、クラスメイトから冷やかされましたし。基本的に、女子からは距離を置かれていました。それが嫌で男子校に行きましたし」
「……そう。じゃぁ、どちらの感情かは、よくよく理解していないのね。好きと同情はよく似て非なるモノ。可哀想だから力になりたい。ひ弱で無力な子だから守ってあげなきゃ。僕が傍になきゃ――という想いを恋だと勘違いしてしまったりしてね」
 そう言って口端に弧を描く中条さんは、僕に確認するかのように小首を傾げる。
「――確かに、美月さんの力になりたいし、僕が守れるものなら守りたいと思いますよ。でもそれは、大切な人になら、誰にだって思うことですよね? それがいけないことなんですか? それに、美月さんはひ弱で無力なんですか? 中条さんは美月さんのことをそんな風に思っていたんですか? だから警察にも届けず、自分の傍に置いて守っているんですか? それこそ、同情じゃないんですか?」
「ははっ」
 僕の言葉を聞いた中条さんは乾いた笑い声を吐き出す。
「ずいぶんと言うのね」
「先に仕掛けてきたのは、中条さんですよね?」
「仕掛けただなんて失礼ね」
 中条さんは手に持っていたワイングラスを、そっと元の位置に戻した。
「……何を推し量っているんですか? 僕は大人な会話を楽しむほどの能力も余裕もないので、単刀直入に言ってもらえると助かります」
 本題から遠回りを繰り返すような先程からの会話に対し、ついしびれを切らしてしまった僕は、少し戸惑いながらもそう言った。
「……美月は、貴方を傷つける存在よ。それも、一生忘れられないほどの心の傷を残すわ」
「⁉ どういうことですか?」
 僕は中条さんの言葉に目を見開き、深い話しを求める。一体なにを言い出すのだ。美月さんが僕に、一生忘れられないほどの心の傷を残すだなんて、どうしてそんなことが言えるんだ。
「そのままの意味よ」
 中条さんは冷静な口調で淡々と答えた。訳がわからない。
「どうして美月さんが僕を傷つけるってわかるんですか? どうして僕が傷つくって勝手に決めつけるんですか?」
「全てがわかっているからよ」
「僕にはわかりません。それに、美月さんが僕を傷つけるだなんて非情なこと、美月さんは絶対にしないと思います」
 先程と変わらない口調で返ってくる中条さんの答えは、僕が納得しかねる答えだったもので、思わず反論してしまう。
「そうよ。あの子は誰かを傷つける子じゃない。だけどね、どんなにいい子でも、優しくて温かくても、大切な人を傷つけることがあるのよ」
「……僕は、もう用なしですか? まるで僕を守るかのように仰っていますが、要はこれ以上美月さんとの関りを持つな、と仰っているんですよね?」
「用なしだとは言っていないわ。少なくともの美月にとってはね。手紙も受け取っているし」
 中条さんはそう言って、黒色のクラッチバックから一通の手紙を取り出し、自身の顔の前で僕に見せる。
「もらっていいんですか?」
「それは貴方次第」
「どういうことですか?」
 怪訝な顔で問うてみる。今日の中条さんは、本当に回りくどい。
「美月への気持ちが同情だと感じるなら、このまま身を引いて。そうすれば、お互いが深く傷つき合うこともないわ。特に貴方がね。だけど、どんなに傷ついてもいいという覚悟があるのなら、痛みさえ受け取る覚悟があるのなら、この手紙を受け取ってくれても構わない。但し、貴方が再起不能になるまで傷ついたとしても、私にはどうすることもできない。外側がどんなに優しい言葉をかけようとも、励まそうとも、最後に立ち上がるのは自分の力だもの。その覚悟がある?」
「……どうして中条さんがそこまで未来に対して不安を覚えるのか、僕を守ろうとするのか、僕にはわかりません。僕はそんなに心配してもらうほど、守ってもらうほど、弱くはないですよ。現に僕は、両親が天国へ旅立とうとも、兄さんと離れ離れになろうとも、どうにかこうにかして、前に進んできたんです。そんなにやわじゃない。人はどんなに強い悲しみを抱えたとしても、また笑うことが出来るのを知っています。だって、生きている者は悲しんで泣いてばかりいることはできない。僕は生きているから。僕に覚悟を求めるのなら、中条さんも覚悟をして下さい」
「……一体、なにを覚悟しろというの?」
「この先、なにが起こったとしても、僕を信じる覚悟を。僕の弱さや美月さんへの想いを、僕の感情を勝手に決めつけないで下さい」
 僕は中条さんと真剣に向き合い、真摯にそう伝えた。少しでも僕を信じてもらえるように。
「……そうね。どうやら私は、貴方を甘く見ていたのかもしれないわ。勝手に色々と決めつけて悪かったわね」
「いえ。全ては中条さんが持つ思いやりだと思っています。と同時に、相手にそう思わせてしまうのは、僕の頼りなさが原因だと思いますので。……いつになるかわかりませんが、もっと頼りになる男になりますので、どうか信じてもらえると嬉しいです。今は口先だけにしかなっていませんが」
 最後はつい自嘲気味な笑みと共に、そう言ってしまう。本当に今は口先だけにしかなっていないため、説得力の欠片もない。
「いいえ、貴方は私が思っていたよりも、ずっと頼りになるわ。そして、顔に似合わず随分と頑固だったみたい」
「が、頑固……」
 まるで頑固おやじのようだと言われているようで、僕は軽くショックを受ける。
「よく言えば、意志が強いという意味よ」
「ほ、褒め言葉として受け取っておきたいと思います」
 中条さんからの微妙なフォローで傷を慰める。どうせだったら、最初っからよく言って欲しかった。なぜ最初にネガティブな角度から言われたのだろう?
「えぇ。じゃぁ、これ──」
 と言って、僕は手紙を差し出してくれる。暗い真夜中の中で満月だけが輝くようなデザインをした封筒だった。
「ありがとうございます」
 僕はお礼を言って、素直に手紙を受け取った。
「あの子、まだ少しリモートは出来そうにないの。また返事が書けたら、私に連絡してきてちょうだい」
「そんなに具合が悪いんですか? はい。中条さんがご迷惑じゃなければ」
 いつも仕事で忙しい中条さんに対して、まるで郵便局員にでもなってもらうようなことばかりしてしまっていることに、少々気が引けてきた今日この頃だ。
「元気いっぱい、ではないかもしれないわね。私のことは気にしないで。本当はスマホのメッセージアプリでやり取りできれば、各々が楽なのでしょうけど」
「……そうですか。美月さん、スマホは持っていましたよね? 使えないんですか?」
「使えることは使えるけれど、そんなに長時間は無理よ」
 中条さんは静かに首を左右に振りながら言った。
「どうしてですか?」
「熱よ」
「熱?」
 意味が分からず、僕はついオウム返しをしながら小首を傾げてしまう。
「あの子は人の体温を嫌う。その理由の一つが、人の体温が持つ熱。それと同様に、スマホには熱が溜まる。メッセージの打ち込みには時間がかかる。とくにあの子はスマホの扱いに慣れていないから、余計に時間がかかってしまうわ。その分、スマホの温度が上がってしまう」
「人の体温だけじゃなく、家電から発生される熱も駄目なんですか?」
「えぇ」
「じゃぁ、温かい食べ物とかは?」
 小さく頷く中条さんに、僕はさらに質問を重ねた。
「そこはどうか分からないけれど、あの子が熱い食べ物を食べているところを見たことがないわ。温かいスープをだしても、猫舌だからと飲んではくれないのよ」
「温かいものを食べることは、美月さんにとって危険ことだったりするのでしょうか?」
「さぁ、どうなのかしら? あの子は自分のことを深くは話してくれないから。単に忘れているのか、忘れている振りをしているのか──」
「……そうですか」
 僕は中条さんのハッキリしない答えに、つい項垂れてしまう。
「もう逃げたくなった?」
「いいえ。僕がこの先も含め、美月さんから逃げることはないです。逃げたいとも思いません。ただ、美月さんが心配なだけです」
「そう。じゃぁ、あの子をよろしくお願いね――あの子は、貴方に助けてもらいたいようだから」
「ぇ?」
「後、これを」
 と言って、中条さんは角形8号の封筒をテーブルの上に置き、僕の前にスッと差し出してくる。
「なんですか?」
「確認すればわかるわよ」
 中条さんは一段落を終えたかのように肩の力を抜き、ワイングラスを手に取る。
「?」
 僕は不思議そうに首を傾げ、恐る恐る封筒を手に取って中を確認した。
「⁉」
「あの子に必要な資金にしてちょうだい」
 何事もないかのようにそう言った中条さんは、ワインを一口飲み、ワインを楽しむ。
「し、資金って──っ」
 金銭面にゆとりの欠片もない僕は、どもりながら動揺する。封筒の中には、軽く五十万は入っていた。もう意味が分からない。
「これから美月の願い事を叶えることがあるのなら、それなりの資金が必要になるでしょう?」
「ど、どういうことですか?」
 中条さんの言動は、前回僕が美月さんに綴った手紙の内容を知っているかのようだ。
「勘違いしないでね。私は貴方の手紙は見ていないわよ。ただ、美月から相談されたのよ」
 中条さんは冷静に答えながら、持っていたワイングラスを元の位置に戻す。
「美月さんに? 一体どんな相談を?」
「変な相談じゃないわよ。貴方に我儘を言ってもいいのか、本当に迷惑にならないのかを聞かれたのよ。きっと貴方に聞いたところで、意味がないと思ったのでしょうね。貴方は優しすぎるから」
「……僕、信用ないんですね。それに、心配されるほど頼りない」
 僕は中条さんの話にガクリと両肩を落とす。
「貴方が信用ないとか、頼りないとかじゃないと思うけど。あの子は、大切な人達のお荷物になるのを恐れているのよ。自分のことで迷惑をかけたり、負荷をかけさせたくないだけよ」
「だから、自分を押し殺すような生き方をしているのでしょうか?」
「どうかしらね? あの子は自己価値や自己評価が低いのよ。いつも何かにビクビクと恐れているわ。どんなに励ましても、ファンレターを届けたとしても、あの子が自己価値を上げることはなかった。[私は何をしたとしても、出来損ないには変わりない]と言うのよ。私達が思うよりも、あの子が抱えているものは深いのかもしれないわ」
 お酒の力なのか、僕への信頼が増したからかどうなのか分からないが、今日の中条さんは色々なことを話してくれる。
「出来損ない、とはどういう意味なのでしょう?」
「さぁ。あの子に聞いてみなさい」
「中条さんはその意味をご存知なんですか」
「いいえ。残念ながら」
 と言いながら、控えめに首を左右に振った。
「そうですか」
「貴方になら、教えるかもしれないわよ?」
「どうしてそう思うんですか?」
「女の感。どっちにしろ、私は二番目にあの子を助けた人だから」
――中条さんは、わたしを、2ばんめに、たすけてくれたひとです。
 中条さんの自嘲気味な笑みと共に溢された言葉で、美月さんの一通目の手紙に書かれていた文章が思い起こされる。
「美月さんを一番目に助けた人って、誰なんでしょう? 知っていたりしますか?」
「さぁ、誰なのかしらね。だけど、もし知っていたとしても、言わないわよ。あの子のことを知りたいなら、あの子に聞きなさい。私はあの子のことを知るための検索機じゃないのよ」
「す、すみません」
 検索機とは一度も思ったことなどないが、中条さんのどこか苛立ちが隠れた声音に気づき、反射的に頭を下げる。
「今後、私に探りを入れるようなことは止めなさいね。聞きたいことがあれば、本人に聞きなさい。周りから聞いた話を持って本人と話しても、後でボロが出て痛い目をみるだけよ」
「以後、気をつけます」
「よろしい」
 中条さんは先生のようにそう言って深く頷き、最後の一口のブルーチーズを食し、ワインを飲む。
「ということで、今日のお話はこれでお終いよ。遅い時間に呼び出して、付き合わせて悪かったわね」
「ぇ? いや、僕は終わっていませんけど?」
「?」
「これですよっ。コレ! 僕、こんなお金もらえませんからっ」
 話しを終えてすぐにでも去りかねない中条さんを慌てて引き止めた僕は、中条さんの前に封筒を差し戻す。
「勘違いしないで。何も貴方にあげているわけじゃないわよ。美月への資金よ」
「い、いりません」
 僕は首をフルフルと左右に振って断る。兄さんから、金の貸し借りだけはするなと、きつく教えられてきた僕にとって、これは恐怖でしかない。
「失礼だけど、貴方に金銭面のゆとりは?」
「ぁ、ありません」
 僕はそう言って俯く。ここで、ありますと。断言できない自分が情けない。
「なら、受け取っても構わないでしょ? ただ受け取るのに引け目を感じるのなら、そのお金は貸しておくから。それとも、お兄様を頼るつもり?」
「それは、ないです。多分」
「多分? 貴方、美月の正体を――っ」
「言ってませんッ! 誰にもっ」
 思わぬ勘違いを産みかねないと慌てた僕は、中条さんの言葉を遮るように強く否定した。
「な、ならいいけど。声、抑えなさい。迷惑になるわ」
「す、すみません。つい……」
 お叱りを受けた僕は、捨て犬みたいに小さくなる。
「多分ってどういう意味なの?」
 中条さんは怪訝な顔で問うてくる。
「大学生に入学して以来、兄さんに金銭的な援助を頼んだことはありません。僕の高校と大学で使ったお金は、ぽちらぽちらと返しています。と言っても、素直に受け取ってはもらえていませんけど」
「どういうこと?」
「兄さんは現在、金銭的なゆとりがあります。だから別に僕がお金を返そうとも、兄さん自ら使ったりしません。ただ、僕の気持ちを汲み取ってくれているだけです。受け取ったお金は僕が結婚とか、もしかの時様に貯金にしておこう――って……」
 僕はそうぽつりぽつりと話しながら、はっと気がつく。もし今後、金銭面的な助けが欲しかったら、兄さんに言って、その貯金を下ろしてもらえばいいのではなかろうか。使ってしまった貯金は、また返していけばいい。結婚とかではないが、僕の一大事には変わりないのだから。そうすれば、中条さんから借りることもないし、心配させることもない。
「しっかりしたお兄様だこと。貴方も律儀ね」
「はい! 自慢の兄さんです。兄さんは僕に色々なことを教えてくれました。他人からお金の貸し借りを絶対にするな。というのも、兄さんに教えてもらった学びの一つです」
「だから、受け取らないと?」
「はい!」
「……仕方がないわね。貴方は頑固だから、一度言ったら聞かないでしょうし」
 中条さんは溜息交じりにそう言って、首を竦めてみせる。
「が、頑固ではなく、意志が強いの間違いでは?」
 僕は控えめに訂正をしてみる。この年で頑固おやじ認定は嫌だ。
「ふふっ。そうね」
 中条さんは短く吹き出し、頷いてくれる。
「じゃぁ、その意志の強さに免じ、私からは金銭的な援助はしないでおくわね。その代わり、他に私のサポートが必要なら、遠慮なく連絡してちょうだい。仕事中はすぐに対応出来ないとは思うけれど」
「はい。その時はまた連絡させていただきます」
「了解。じゃぁ、また」
 と言って立ち上がった中条さんは伝票を手に、その場を去ろうとする。僕は慌てて追いかけ、自分の注文したものは自分で支払うことに成功した。出来うることならフェアでいたい。子ども扱いもごめんだ。例え今は難しくても、僕は僕なりの、大人の男性として接して欲しいと思うのだ――。

  †


「ふぅ」
 僕は一息吐きながら、リビングにある黒色の特大L字ソファに浅く腰掛け、黒の本革スクエアショルダーベルトバッグを肩から外して、そっと左隣に置いた。
 中条さんとレストランで別れたあと、電車に揺られてアパートに帰る気にはなれなくて、兄さんの家に寄託した。ここ最近、もらった合鍵に頼りっきりだ。
「はぁ~」
 緊張の糸が外れたのか、どっと疲労感を感じる。このまま横になれば、すぐにでも夢の中へ落ちてしまいそうだ。このまま眠ってしまっても構わないが、手紙の内容が気になる。
 閉口のダブルファスナーを左右に開き、もらった手紙を取り出す。中には、ヴィンテージレザーのバーミリオンオレンジ色をした二つ折り財布。財布と同じブランドと色のキーケースが入っている。スマホは鞄の外側のポケットに入れてある。
 メイクをしない僕は、乾燥リップクリームと目薬くらいしか使用しないため、必要最低限の物が入れば充分なのだ。バックは大容量より、軽量と使い勝手の良さに限る。後(あと)長持ちしてコスパが良しだと、なおありがたい。


【白崎優太さま。

 白崎優太さま、こんばんは。
 おてがみ、ありがとうございました。
 優太さんがお元気なようで、あんしんいたしました。はだのぐあい、だいじょうぶなようで、あんしんいたしました。ですが、どうかむりだけはしないでください。

 おてがみにかかれていた、ことばたちが、とてもうれしかったです。
 私のたいしつのことで、優太さんをこわがらせてしまったと、おもっていました。もしかしたら、きらわれてしまったのではないのかとおもい、ふあんでした。なので、優太さんにおてがみをいただけたこと、かかれていたことばたちが、ほんとうにうれしかったですし、ほっとしました。

 私のことをおそれず、うけいれてくださり、ほんとうにありがとうございます。
 私のたいちょうも、きにかけて下さり、ありがとうございます。いまではずいぶんと、回復しており、もうすこししたら、リモートもさいかいできるのではないかとおもいます。そのときはまた、私とリモートでおはなししてくれますか?

(美月さん、いま、やりたいことはありますか?
 行きたいところはありますか?
 夢はありますか?)

 そう、きいてくれましたね。
 もし、わがままがゆるされるなら、また優太さんとリモートがしたいです。
 私の行きたいところと、夢はにているかもしれません。
 私は、優太さんとデートがしてみたいです。そして、優太さんいっしょに、かんらんしゃにのってみたいです――なんて、むりだとはわかっています。わかっているとわかっていても、いってみたかったんです。私のきもちがつたわると、うれしいなとおもったんです。

                                                         天海 美月】

「デート……か」
 僕は美月さんの願いを知り、独り言をぽつりと溢す。
 美月さんが僕とデートがしてみたいと思っていてくれていたことが、素直に嬉しかった。と同時に、どうすればその願いを叶えてあげられるのだろうと頭を悩ませる。
 美月さんの体調や体質のことはもちろん、meeとしての顔を持つ美月さんが外出するとなると、色々な危険が付きまとう。中条さんがそんなリスクを冒してまで、デートを許してくれるわけがない。僕だって、美月さんを危険に晒すのは嫌だ。
「外出しないでデートをする方法……」
 手紙を丁寧に元に戻した僕は、そのままソファに横たわり、どうすれば美月さんとデートが出来るかを思案し続けた。
「観覧車も、どこがいいだろう?」
 このマンションから一番近い、お台場の大観覧車は時代の流れにより、なくなってしまった。もし本当に行くとなれば、新たな観覧車スポットを探してみないと。
 残念ながら僕は、こういったリア充的情報を持ち合わせていない。兄さんに聞けば水を得た魚のごとく、溢れんばかりの情報を与えてくれそうなものだけど、こんなところまで兄さんに頼ってはいられない。
「と言っても、スマホ検索に頼るんですけどね」
 と苦笑いしつつ上半身を起こし、バックの外ポケットからスマホを取り出して検索にかける。
「――へぇ~」
 その後、僕はスマホ相手に相槌を打ちながら、しばしネットサーフィンに時間を費やすのだった。


  †


 翌日、十八時十五分。
 マンション、プラージュ・零のエントランス・ホール。
 僕は二台のエスカレーターの近くにある太い四角形の柱の背に預け、中条さんの帰りを待っていた。
 今朝兄さんと遅めの朝食を取った僕は、一度アパートに戻り、大学に提出するレポートを終わらせ、美月さんに手紙を綴った。
 その後、兄さんのリクエストに答えるべく、買い物をすまし、マンションに帰宅した。それが夕方の五時頃だった。僕は少し躊躇しながらも、中条さんに手紙を書けたことをショートメールを送った。十分足らずで変身が届き、十八時二十分頃、マンション、プラージュ・零のエントランス・ホールのエレベータ前で待ち合わせすることになった。
「中条さ~ん。お帰りなさい」
 マンションの自動ドアを潜った中条さんが視野に入り、思わず駆け寄った僕は、まるで飼い主の帰りを待っていた犬のようだと思う。
「!」
 僕の勢いに少しの驚きを見せた中条さんだったが、すぐに元に戻る。本当に喜怒哀楽が凪のような人だ。大人の女性というものはこういうものなのだろうか?
「ただいま。もう来ていたのね。こっちへ」
 と言いながら、中条さんは僕が先程背を預けていた柱の近くに誘導する。確かに、こんなマンションの出入り口で話していては、利用者の邪魔になってしまう。
「エレベーターですんなり下りられたんです」
 タワーマンションの上層部となると、エレベーターを使って一階へ下りるまで十分以上かかってしまうことがある。僕も初めて兄さんの部屋に訪れた時は、兄さんの部屋までが随分と遠く感じたものだ。
「なるほど。運が良かったのね。もちろん、手紙は持ってきているわよね?」
「はい」
 僕は肩から下げていた鞄から手紙を取り出し、中条さんに手紙を差し出す。
「ありがとう。またあの子に渡しておくわね」
 と微笑む中条さんは、雪景色が印象的なデザインをした封筒を手に取った。
「中条さん、ほんの少し、お時間ありますか?」
 仕事が立て込んでいそうな中条さんの邪魔をしたくない。
「えぇ。少しなら。どうしたの?」
「中条さんメッセージアプリとか利用していますか」
「えぇ。何? 連絡先が交換がしたいと?」
「はい。やっぱりショートメールじゃ文字数も限られてきますし……」
「そうね。スマホを出してちょうだい」
「ありがとうございます! 画像とか送ってもいいですか? いくつか確認してもらいたいものとか、色々と確認したいことが今後出てくると思うんですけど」
 やや声を弾ませながらそう問いつつ、鞄の外ポケットからスマホを取り出し、ロックを解除させる。
「QRコードでいい? 電話以外なら貴方の好きなように。美月と関係なさそうなら放置するけど」
「はい。僕が読み込みますか? ほ、放置は酷いです。僕犬じゃないですよ?」
「えぇ。あら、そうなの?」
 中条さんはからかうようにそう言いつつ、自身のQRコード画像を表示させたまま、スマホを僕に見せてくれる。
「そうですよ~。僕は待て! をするだけの犬じゃありませんから」
 僕はそう言いつつ、メッセージアプリのQRコードリーダーを使って、中条さんのQRコードを読み込んで友達追加させてもらった。
「確かに、貴方は過去も今も、待てをするだけの犬にはならなかったわよね。ただ、さっきの貴方は少し中型犬に見えたけど」
「はい。……せめて、大型犬にしてくれません?」
「そこまで迫力がないじゃない。かと言って、小型犬程は可愛くないもの」
「うわ~。せめてどっちかになりたい」
「中立は、どっちにも転べるから最高だと思うけど」
「どっちに転べばいいですか?」
「私に聞いてどうするのよ」
 どこか能天気に興味のまま問うてみると、中条さんは右手の指先を米神に当てて、呆れたように首を左右に振って見せた。
「すみません」
「謝っているわりには、全く気持ちがこもってないわよ?」
「ぁ、バレました?」
 テヘッとばかりに首を竦めて見せた僕に、中条さんは再び頭を抱えた。
「じゃぁ、これで。もう用は済んだでしょ? 悪いけど、私は貴方とじゃれ合っている暇はないのよ」
「用は済んだのですが……。美月さんの具合って、今はどんな感じですか?」
 美月さんのことが気がかりで、控えめに問うてしまう。
「さぁ。あの子、私が体調を聞いても気丈に振舞って見せるから。私から見たら空元気に見えるけど」
「そうですか……。やっぱり、外出は難しそうですよね?」
「なに? 美月が外出したいって?」
「が、外出したいとは言っていません」
 今まで穏やかだった中条さんの声音や表情がピリッと変わり、僕は慌てて顔の前で両手をバタバタと左右に振った。
「貴方達には悪いけど、例えあの子がそれを望んだとしても、それだけは許可してあげられないわ。危険すぎる」
「で、ですよね。分かっています。少し、聞いてみただけです。他の案も随時考えているので大丈夫です」
「……そう。兎に角、美月には無理させないで。危険に晒すのも駄目よ」
「分かっています」
 中条さんにピシッと人差し指を突き出して釘を刺されてしまえば、僕に反論する術はないし、する気もない。
「じゃぁ、私は帰るわね。美月が一人で待っているから。また何かあったら連絡してちょうだい。私もまた用があれば連絡するわね」
「はい。分かりました。お手数をおかけしました」
 僕はそう言いながら、ペコリと頭を下げた。
「気にしないで。連絡も好きなだけ送ってきて。単独で考えて行動されては、少し不安だわ」
「……信用ないですか?」
 おずおずと頭を上げて問いかけてみる。これでも、随分と信頼感を得られていると思っていたのだが――ただの思い過ごしだったのだろうか?
「信用がなかったら、ここまで個人情報を与えないし、美月とも関わらさせないけれど? 心配や不安は相手が与えてくる信頼感とは別物なのよ。相手を信用するもしないも、自分の心次第。相手がどんな言動で自分が信頼できる者だと示してきても、最終的な判断は他者ではなく、私がするものよ。そうじゃないと、何かあったときに犠牲者意識が生まれてしまうもの」
「……す、すみません。ちょっと、難しいです」
 中条さんの言っている言葉の意味が分からず、苦笑い交じりに言った。
「ふふふ。分からないならいいわ。取り合えず、今は貴方のことを大方信頼をしているから、安心なさい。ただ、無茶をしないか心配なだけよ。じゃぁね」
 中条さんはそう言って話を切り上げ、その場を後にした。その場に残された僕は、このまま兄さんの部屋へ戻るか、アパートに帰宅するのか、しばし悩むのだった――。



【拝啓 天海 美月 様

 こんにちは。
 手紙のお返事、ありがとうございます。
 またこうして、美月さんとお手紙でおはなしできることがうれしいです。とどうじに、美月さんと初めて出会った日をおもいおこすと、どこかなつかしく思います。
 美月さんとはじめて出会った日の僕は、美月さんとこうしておはなしできるようになるとは、夢にも思っていませんでした。だから、今こうしておはなしできることが、とてもうれしいんです。
 美月さんのたいちょうがかいふくしたら、ぜひまた、リモートでもおはなししてください。美月さんのたいちょうがかいふくするまで、僕はのんびりまっていますので、どうかあせらずに。

 美月さんの夢や行きたい場所がきけて、うれしかったです。
 おしえてくださり、ありがとうございます。
 美月さんが僕とデートをしてみたいと思ってくれていたこと。思わぬおどろきでしたが、すなおにうれしかったです。
 僕でよければ、美月さんのたいちょうがかいふくしたら、デートしましょう。そして、にほんさいだいきゅうの、かんらんしゃを、いっしょにたのしみましょう。
 だいじょうぶです。美月さんをキケンにさらしたりしません。みのあんぜんは、かくほしますので、あんしんしてください。
 まだいえないですけど、いろいろとかんがえているので、たのしみにしていてください。

                                                        白崎 優太 】


 僕の綴った手紙に、美月さんの手紙が返ってくることはなかった。
 その代わり、中条さんに手紙を預けた二日後に、中条さんからメッセージアプリにメッセージが届いた。
 一八時四十分。
 僕はアパートで長方形の折り畳み机の上で、ノートパソコンを開き、待ち人を待っていた。
 プッツ。
 相手との回線が繋がったのか、短い機械音が部屋に響く。
 ノートパソコンの画面が通話リクエスト画面から、一人の少女の映像に切り替わった。
 胸下辺りまで伸ばされた痛みのない水晶に近い、アクアマリン色をした髪。その色より透明感を増した瞳はどこか不安気に揺らぎながら、こちらを見ていた。
 傷一つないきめ細やかな肌は、雪のように白い。抱きしめたら壊れてしまいそうなほど華奢な身体は、ウサギのようにふわふわしたニット生地のオフタートルワンピースで隠されていた。可愛らしい白色のワンピースが美月さんの髪や瞳をより目立たせ、輝かせている。本当に妖精のように可愛らしい。
 だがその表情はどこか緊張感を感じ、頬は少しコケていて、左耳には補聴器がついていた。どんなに美しくとも、芸術的でも、美月さんは僕と同じ現実世界の住民なのだ。
 僕は両掌を見せながら、暗転するように顔の前で交差させる。これで夜を表すことが出来る。
 次に、向い合せた両人差し指達をお辞儀をするように曲げる。これが挨拶。
 前者が夜で後者が挨拶=こんばんは。という意味になる。挨拶は僕が一番最初に覚えた手話だった。
[こんばんは]
 美月さんも僕と同じ動きをしながら、桜色の唇をパクパクと動かせる。もちろん、その音が僕の耳に届くことはない。機械トラブルなどではない。美月さんが本来出せるはずの音が失われたままなのだ。突然変異で声が出せるようになったのなら奇跡だ。美月さんの声はどんな音をしているのか気になったりもするが、僕らは僕らのコミュニケーションで通じ合えるから、これでも構わない。
[体調はどうですか?]
[こうして、リモートが出来るほど、回復しました]
 美月さんは僕の質問に対し、手で表現する言葉を操り、答えを与えてくれた。
[それは、よかったです]
 美月さんの顔色や痩せ具合からして、元気いっぱいというわけではないことは僕でも分かる。それでも、またこうしてリモートが出来るまで回復出来ているのなら、喜ばしいことには変わりはない。
 手紙ではなく、中条さんから連絡が届いた時は何事かと思い、少々怯えながら通知を開いた今朝のこと。まさか、リモート再開のお知らせだったとは――嬉しいのに変わりないが、美月さんが無事でホッとした。
[お手紙、ありがとうございました。お返事、返せなくてごめんなさい]
 と伝える美月さんは、ペコリと頭を下げ、[リモートでお返事できれば、と思ったんです]と、付け足した。
[謝らないで下さい。お手紙でのお返事も嬉しいですが、こうしてリモート出来るのも嬉しいです]
 そう伝える今の僕は、温柔の顔になっているだろう。会えなくとも、こうして美月さんの表情を見れるとホッとする。画面越しで会えることが嬉しい。
[私も、またこうして、優太さんとリモートが出来て、とても嬉しいです]
 そう伝えながら微笑む美月さんは、やはり美しくて可愛らしい。
[お手紙に、僕で良ければ、私の体調が回復したらデートしましょうと書かれていましたが、私は、優太さんだからデートしてみたいと思うのです]
[……ありがとう]
 美月さんの伝えてくれる手からの言葉達に、思わず照れてしまい、反応が遅れてしまった。“僕だから”なんて、特別な感じがして調子に乗ってしまいそうだ。乗らないけど。痛い目見るのはごめんだし、美月さんに嫌われるのもごめんだ。
[観覧車、一緒に行きましょう]
[えっと、私は外出出来ないんです]
[分かっています。中条さんにもそれとなく聞いてみたら、許可出来ないと言われました]
[ですよね]
 美月さんはガクリと両肩を落とす。
[でも、大丈夫です]
[?]
[僕達には、僕達なりのデートがあります]
 僕はそう伝え、自信ありげに胸を張った。
[私達なりの?]
[はい。中条さんと相談しながら話を進めますから、安心して下さい。美月さんは、体調第一で]
[分かりました。もし本当に優太さんとデートが出来るのなら、とても嬉しいです]
 僕が美月さんの可愛らしい笑顔に癒されていると、「ただいま~」と言う、中条さんの声が響く。
[中条さんだ]
[早くご帰宅されて良かったですね。一人は寂しいですもんね]
[はい]
 美月さんはコクリと頷く。
[中条さんもご帰宅されたことですし、僕はこれで失礼しますね]
[ぇ⁉ もう?]
 僕の手話を読み解いた美月さんは、目を丸くさせる。
[はい。無理しては危険です。マイペースに行きましょう?]
[……はい]
 美月さんは、しょんぼり両肩と落とし、困り眉になる。まるで、僕との時間が名残惜しいと思ってもらえているようで、少し嬉しくなってしまう。
[今日は、美月さんの顔が見られて良かったです]
[私も、優太さんの顔が見られて嬉しかったです。また、リモートしてくれますか?]
 最初は微笑んでいた美月さんだったが、最後は不安気に問うてくる。僕が美月さんの誘いを断るわけがないのに……。
[美月さんの体調が良ければ、是非]
 僕の返答に対し、美月さんはホッと安堵したように胸を撫で下ろし、柔らかな笑みを見せる。そこへ、「美月、ただいま」という中条さんの声が響く。
「あら、リモート中だったのね。邪魔をして悪かったわね」
「中条さん、こんばんは」
「こんばんは」
 画面に移り込んだ中条さんは少し口角を上げると、「早速リモートしていたのね」と言った。
「今日からリモートOKだと、今朝連絡頂いたので」
「気が早いこと」
「善は急げと言いますし……。でも、もうリモートを終えようとしていました」
「そうね。無理させては心配だわ」
「はい。分かっています」
 と僕達が声で会話をしていると、美月さんの機嫌がどんどん不貞腐れていくように感じた。
「大変。美月が焼いているわ」
 中条さんはそんな美月さんをからかうように、クスクスと笑う。
「美月さんをイジメないで下さい」
「どの口が言うのよ」
 美月さんは中条さんの黒のコートの裾を握り、パクパクと口を動かせる。今度は、僕が美月さんの言葉を見失う。
[大丈夫よ。変な会話はしていないから。彼がリモートを繋ぐのが想像より早くて、少しからかっていただけよ。私は寝室にいるから、何かあったら電話してちょうだい]
 中条さんはそう手話で伝えると、「じゃぁね」と僕に言って、リビングを後にした。
 残された僕達に、しばし沈黙が流れる。
[僕は、美月さん一筋ですよ]
 なんと伝えればいいか分からず、もはや告白とも取れる言葉を手で伝えてしまう。
 美月さんの白い頬は一気に桃色に、耳はリンゴのように染め上がる。それに感化され、僕もさらに照れてしまう。
[じゃ、今日はこれで失礼しますね]
 僕は逃げるように、リモートを切り終えようとする。
 美月さんも同じ気持ちなのか、両掌を両頬に当てながら、首をコクコクと上下させた。
[じゃぁ、また。失礼します]
 と伝え、僕はリモートを切り上げた。美月さんを映していたノートパソコンの画面は一瞬真っ暗になり、その後はサイトのマイページを映す。
「ふわぁ~」
 僕は喜びと恥ずかしさから、言葉にならない声を上げながら、お手上げポーズで後ろに倒れる。上昇した体温が、底冷えする畳の冷たさが一気に冷やしていった。
 その後、僕はしばし夢心地でニマニマするのだった。



  †


 一週間後――。

 午後二時。
 僕は兄さんのマンションのリビングにある黒色の特大L字ソファーに、浅く腰掛けていた。目の前には、最大で六十八cmも伸びる自撮り棒が、三脚の力を借りて一人で立っていた。すでにスマホは設置済みだ。
 本日はテストリモートを兼ねて、画面越しに美月さんと会うことになっている。
「よっし! こんな感じかな」
 自身が座った位置で、スマホ画面に僕の上半身と顔が移る位置で三脚を固定し、リモートアプリを開く。アパートでテストリモートを試みようと思ったが、流石に三脚まではテストできなかった。ので、兄さんの家をお借りしている。背景が画面に入り込まないように、既存の背景ディスクトップを設定すれば、僕だけしか画面に映らない。便利な世の中である。
 コールを掛けると、すぐに相手との回線が繋がったことを示す短い機械音が部屋に響く。
 誰も映っていなかったスマホ画面に、いつものように美しくて可憐な美月さんが映し出される。
[こんにちは。僕、ちゃんと映っていますか?]
[こんにちは。はい。背景は星空ですが、優太さんは問題なく映っていますよ]
 僕が心配そうに手話で問いかければ、美月さんは柔らかい表情で伝えてくれた。
[時差、とか、ありますか?]
[ん~……特に問題ないように感じます]
[よかったです。ここは兄さんのマンションで、Wi-Fi環境が整っているからかもしれません。外でも、上手くいってくれると良いのですが]
[外でのリモートは難しいのですか?]
[電波環境によるかもしれません。ところで、体調は変わりないですか?]
[はい。日に日に、体力がついてきたように思います]
 と手話で伝えてくれる美月さんは、デコルテらへんで両拳を作り、自身の元気さをアピールする。疑っているわけではないが、空元気でないことを祈るばかりである。
[それは良かったです。例の物は届きましたか?]
[はい。今、練習中です]
[楽しみにしています]
[私も、色々なことが楽しみです]
 美月さんがワクワクしたような笑顔を見せてくれるため、僕までワクワク度が増してくる。
[いつ行きますか?]
[美月さんの体調が良くて、準備バッチリと思えた日の朝、僕の携帯にコールして下さい]
[メッセージを送らなくていいんですか?]
[はい。中条さんから聞きました。家電の熱も、美月さんにとっては危険なものだと。なので、着信履歴で確認できればと思って]
[……そうでしたか。色々、ご不便をおかけしてしまって、すみません]
 美月さんから笑顔が一気に失われ、身体が縮こまってしまう。
[確かに、僕達のやり取りは一般的なものではないかもしれません。ですが――っ]
[……ごめんなさい]
 僕の手話を遮るように、美月さんは手話で謝り、頭を下げた。
[どうして謝るんですか?]
[優太さんにご迷惑をかけてしまっているので]
 美月さんは眉根を下げ、下唇を噛み締める。
[迷惑かどうかを決めるのも、思うのも、僕ですよね? 僕は一度だって、美月さんとのやり取りを迷惑だとは思ったことはありません。確かに、最初は声でお話が出来ないことって、なんて歯がゆくて難しいのだろうと思いました。だけど今は、僕達だけの手の声でお話し出来ることが嬉しいんです。そもそも、一般的とか普通って何なのでしょう?]
[……]
 美月さんは考え込んでいるように、拳を顎に当てた。これは手話ではなく、美月さんが何かを考えているときにする癖だと、リモートのやり取りを介して知ったことだ。
[僕達が思う常識や普通も、国を超えれば非常識や普通ではなくなる。そもそも、普通と言う定義なんてものは、時代や世界や個人により、違ってくると思います。
 例えば、大昔はお金というものが存在しなくて、物々交換が普通でした。でも今は、お金を介して物を手にすることが、普通になりました。そのお金だって、貝や布、家畜や石などが、その役割を果たし、物品貨幣が出来ていました。言葉もそうです。
 言葉が存在しない時代では、自分の気持ちに似た石を探して相手に贈り、贈られた相手は、その石を握りしめた時の感触で相手の心情を読み取っていたそうです。だから、上手く言えないんですけど――美月さんの普通と、外の世界の普通を一緒にして、傷つくことはないと言いますか……。少なくとも、今の僕にとっては、手話は日常に馴染んで、手話でコミュニケーションをすることが普通になりました]
[……優太さんは、凄く、物知りですね。博士みたい]
[博士なんて……。学校で習っただけです]
 思わぬ言葉に、僕は控えめに首を左右に振って自嘲気味な笑みを浮かべる。
[覚えているのが、凄いです]
[ありがとうございます]
[私も。一生懸命、励ましてくれてありがとうございます]
[とんでもないです。上手くフォロー出来ずにごめんなさい]
 僕は自分の不甲斐なさに両肩を落とす。こういう時、兄さんならもっと素敵に、女性を笑顔にさせることが出来るのだろうなぁ。僕はまだまだだ。
[いえ。私は、優太さんにご迷惑をかけていないこと、私とのコミュニケーションが普通になっていたことが知れて、嬉しかったです]
[僕は美月さんが声を出せても、出せなくとも、絶対親しくなりたいと思っていましたよ。美月さんだから、お話ししたいって思うんです。もっと知りたいと思うんです。美月さんだからいいんです。その理由は、上手く言葉に出来ないですけど――]
[……優太さんって、時々、凄くストレートに伝えてくれますよね。照れてしまいます]
[ぇっと、すみません。つい……]
[私もいつか、優太さんみたいに素直になりたいです。素直に、色々なことをお話して、打ち明けて、私の気持ちを伝えたいです]
[やっぱり、今の僕では力不足ですか?]
 僕は眉根を下げ、小首を傾げてみる。
[とんでもない]
 と伝えてくれる美月さんは、顔の前で両手をパタパタと左右に振って否定した。
[……ただ、私の気持ちの整理がついていないだけです。もう少しだけ、優太さんと笑い合える時間を過ごしたいって思ってしまうんです]
 そう付け足して伝えてくれる美月さんは、どこか力なく笑う。
[そう、ですか。なんだかよく分かりませんが、美月さんの整理がつくまで僕はずっと待ちます。それまでは、美月さんの傍にいさせて下さい。僕もまだ、美月さんと笑い合える時間を過ごしていたいです]
[私で良ければ]
 美月さんはどこか力なく微笑む。僕は美月さんが無邪気に楽しんでくれると良いなぁと思い、デートの予定を一緒に立てるのだった。



  †


 三日後――。

 JR京葉線葛西臨海公園駅より、徒歩三分。東京都江戸川区で有名とされている日本最大級の観覧車がある公園に、僕は一人で訪れていた。といっても、本当に一人と言う訳ではない。
 僕の左手には、スマホがセットされた自撮り棒が握られている。平日で来客者が控えめとはいえ、人様のご迷惑にならないように、細心の注意を払う。
 スマホ画面には、アイドルみたいな前髪と横の髪があるストレートのセミロングの黒髪に、トゥルーヘーゼルマーブル色の瞳が印象的な美少女が映し出されていた。浮気ではない。……正式に付き合ってもないので、浮気も何もないのだが。
 今は僕が選んだウィッグとカラーコンタクトによって、本来の姿を隠してもらってはいるが、スマホ画面に映し出されている美少女は、正真正銘の美月さんだ。外出中のリモートでは、誰かに美月さんの存在が見える可能性が高い。美月さんがmeeだと気がつかれないようにと考えた、僕の防御対策だった。
『美月さん、見えますか?』
 僕はスマホのメモ帳アプリに打ち込んだ文字を、自撮り棒にセットされているスマホ画面に見せる。
 ちなみに今右手に持っているこのスマホは、僕が昔使っていたものだ。本日最大級に活躍してもらうべく、押し入れから引っ張り出してきた。
[はい。問題なく見えています。文字も]
 僕は旧スマホを上下に振って、スマホ画面にキャンセルor取り消すかの選択画面を表示させた。迷わず取り消すをタップさせ、先程入力した文字を全部削除させる。本当に今の僕にとっては、楽ちんな便利な機能である。
 真っ新になったメモ帳アプリに、『よかったです』と入力させ、再び旧スマホをスマホ画面に映した。
 いつも使っているスマホは現在、美月さんとのリモートに使用しているため、使うことが出来ない。自撮り棒片手で屋外リモートをしていると、手話をすることが出来ない。かといって、右手だけでメモ帳に文字を書けるほど器用ではない。しかも、手書きは時間がかかってしまう。
 そこで僕は考えた。片手でパパっと文字を入力できる旧スマホを活用させることで、美月さんとコミュニケーションをはかれるのではないかと。そしてもう一つ僕が考えたアイディアは、リモートデート。それが一番安心安全のデート方法だと思ったのだ。うん。我ながら良いアイディアである。
『時間が迫っているので、少し早歩きになります。スタビライザー付きの自撮り棒なので、大きな画面揺れはしないと思いますが、画面酔いで気持ち悪くなったら合図を下さい』
[はい]
 頷く美月さんに笑顔で頷き返した僕は、公園内の5つのエリアを約25分かけ一周するパークトレインの乗車場に向かう。
 パークトレインの出発時刻が、十五時二十五分。現在の時刻が十五時二十分程。リモートセットに時間をかけすぎてしまった。次を逃しても、十六時にもパークトレインは出発する。だがしかし、僕等には僕らの予定があるのだ。
 乗車場に行くと、すでに五人程が次の出発時刻を待っていた。

『今からこれに乗って、公園内をお散歩します』
 メモアプリにそう打ち込んだスマホを美月さんに見せると、美月さんは嬉しそうに頷いてくれる。
 それを確認した僕は、自撮り棒をゆっくりと動かし、パークトレインを美月さんに見てもらう。
 屋根付き貨物車が三つ繋がり、一番前に運転席がついているパークトレイン。ボディーはピンク色で、所々にお花がポイントデザインされていた。運転席にはトレインの可愛らしい顔がついており、昔遊んでいた機関車の玩具を彷彿とさせる。
 一通りパークトレインを映し終えた僕は、『こんな感じのパークトレインでした。見えましたかね? 撮影慣れしてなくてすみません。見たい場所があったら教えて下さい』と文字を打ったスマホを、美月さんに見せる。
 人生初のリモートデートを成功させるべく、色々と動画撮影の練習をしてはいたが、リモートとなるとまた少し違ってくる。内カメラで撮りたい景色を撮影していくのは、中々に至難の業だった。
[しっかり見えていますよ。可愛らしいパークトレインですね。ピンクや可愛いものが好きな子達には、たまらないのでは?]
『そうですね。三歳くらいの女の子が、かわいい~♡ って大はしゃぎしていましたよ。本当は青色が良かったのですが……。時間帯と運が……。面目ない』
 青色が好きな美月さんには、青色のパークトレインを! と思っていたのだが、乗車場にはピンクのトレインしかいなかった。一体どこに隠れているのだろう?
[その女の子も可愛い。そんなそんな。むしろ、青色が好きなことを覚えてもらえていたことが嬉しいです]
『美月さんとお話した内容は、いっぱい覚えていますよ。大切な美月さん情報ですから』
[な、なるほど。ストーカーさんというやつですね]
『え⁉ ち、違いますよっ』
 何故か思わぬ誤解を与えてしまった僕は、俊足で文字を打ち込んで美月さんに見せる。中条さんにストーカー呼ばわりされてもなんてことないが、美月さんにそう思われては終わりだ。
[じょ、冗談ですよ。からかってしまいました。ごめんなさい]
 地団太を踏み出しかねないほどに焦る僕に、美月さんもまた焦ったように返答してくれる。
『ぁ、からかわれていただけなんですね。びっくりしたぁ』
 僕は心底安堵する。普段冗談を言わない美月さんから繰り出される冗談は、本物か偽りか見分けがつけにくい。本気で焦った。
[すみません。少しおふざけが過ぎましたね]
『いえ。ある種貴重でした』
[……?]
 美月さんは僕の言葉の真意を汲み取ろうとしてくれたものの、困惑したような笑みを浮かべる。
『えっと、すみません。変な発言をしたら、ヲタクかしら? 変なモノでも食べたのかしら? とでも思って、スルーして下さい』
[ど、努力します]
『努力が必要なんですね』
 僕はクスクスと笑う。美月さんもつられたように微笑む。
 穏やかな空気を感じていると、♪チリリリーンッ♪という発車時刻を知らせるチャイムが辺りに響き渡る。
『ぁ! 出発の時間なので、トレインに乗り込みますね。画像が景色に変わったら、例の作戦? でお願いします』
[は~い]
 と間延びしたような声が聞こえてきそうな口元の動きを見せる美月さんは、ご機嫌に右手を上げた。美月さんが笑顔だと僕まで嬉しくなる。
 僕は他の乗客が少ない、第三車両の一番後ろに乗り込み、スマホ画面を自撮り棒の先端を半回転させ、外側に向けた。こうなると、美月さんを見ることが出来ないため、手話が読み解けずコミュニケーションが図れない。
 そこで僕が考えたのは、美月さんに楽器で合図をだしてもらうことだった。
 カスタネットを一回=北。カスタネットを二回=東。カスタネットを三回=南。カスタネットを四回=西。カスタネットを左右に振って鳴らすのが緊急音。薬指→中指→人差し指を順番に、手招きのように素早く鳴らす音が、《ねぇねぇ》や《聞いて、聞いて》など、カメラ位置を戻して関心を向けて欲しいときの合図にしている。
 楽器経験のない美月さんでも使える楽器で、音感がよろしくない僕でも理解出来る楽器音を通じ合わせるのはどうするか、ということを二人で考えた案が、カスタネットだった。
 そしてもう一つの合図は拍手。
 拍手一回が《はい》や《うん》などの返答。拍手二回が《いいえ》や《嫌》などの返答に決めている。僕達だけにしか分からない合図が、なんだか僕には嬉しかった。
 その合図を聞き逃さないために、スマホにさしているイヤフォンを左耳に装着させ、音量を上げる。
♪ポッポー♪
 乗客を全て乗り込んだことを確認した運転手は発車ベルを鳴らし、パークトレインを動かし始めた。


『走り出しました。一度西側から反時計回りに動かしてみますね』
 人気のなかった第三車両の内番後ろの東側に腰を下ろした僕は、美月さんにそう伝えると、美月さんは早くも拍手一回で合図を送ってくれる。
 公園サービスセンターから出発したトレインの景色は、陽の光に照らされた冬の芝生と、幾人かの来場者と従業員。まだ目を引くものはない。ただ、自転車ほどのスピードで揺られるトレインは心地よく、撮影向きでありがたかった。
 半周してスマホを半回転させて元に戻すと、ニコニコ笑顔が可愛らしい美少女と目が合う。いつもと違う美月さんへの耐久性がまだついてなく、ドキッとしてしまった。
[天気がいいですね]
『はい。美月さん、太陽の女神様ですか?』
[ん~どうでしょう?]
 と小首を傾げる美月さんは今日も可愛らしい。
『ぁ! お花畑エリアに入るみたいですよ。外に向けますね』
 先程と同じように、自撮り棒の先端部分を半回転させ、スマホ画面を外側に向け、南西程に向け、エリア全体を見渡せるように心がける。椅子が左右にしか設置されていないため、先端部分で自撮りが出来ないのが少々不便である。
 自転車並みのスピードでの走行のため、どんな体制でも自撮りは出来そうだが、「うわぁ~。おはなばたきぇ、きれぇい」とはしゃぐ女の子を差し置き、いいポジションを占領するわけにはいかないだろう。
 薬指→中指→人差し指を順番に、手招きのように素早く鳴らす音が左耳に響く。
『どうしましたか? ちゃんと映せていませんでしたか?』
 美月さんの合図に、僕は慌てて自撮りに戻す。
[ちゃんと映っていましたよ。さっき、右側の遠方で黄色のパークトレインがはしっていました]
『え?』
 美月さんから見て右側と言うと、僕から見ると、南西くらいの方角だろう。花畑と来場者。花の周りを飛び回る蝶々は見えるが、黄色のパークトレインは見受けられなかった。
『み、見逃したもようです』
[残念。まだどこかにいるかもです]
 ガクリと両肩を落とす僕を励ましてくれる美月さんの優しさが癒しだ。
『そうですね。走行スピードもゆっくりですし』
[パークトレインってたくさんいるんですね]
『赤色や黒色もあるらしいですよ。レアキャラ? として、虹色のパークトレインもいるみたいです』
[わぁ~。色々な子達がいますね]
『ですね。やっぱり赤色やピンク色だけだと、せんにゅうかんで、男の子のトレイン・女の子のトレインと言う風に、くべつしてほしくなかったのかもしれませんね』
 と入力した文字を美月さんに見せる。先入観と区別という漢字をひらがなにした。正直、美月さんがどこまで文字を読み書き出来るのかが分かっていない。それを聞くのも気が引けるし、一つ一つ確認していては、毎回のリモートやお手紙がお勉強会になってしまう。そのため、難しい漢字は極力使わないように心掛けている。
[優しくて広い世界ですね]
『そうですね~。ぁ! 次のエリアに入るみたいです。どこ見ましょう?]
[優太さんが映っているエリアならどこでも]
『ふふっ。僕エリア』
 美月さんの返答に思わず短く吹き出してしまう。
[優太さんが見せてくれる景色も素敵ですが、一人で生放送のテレビを見ているようで、少し寂しいです]
『分かりました。では、僕と共に色々とお届けしていきますね』
[はい]
 美月さんは満面の笑顔で頷く。
 その後、僕達は蓮の池エリアやアクアラインエリアなど、合計五つのエリアの景色達を、リゾート気分で楽しむのだった。


  †


  †


 地上一一七ⅿの上空から周囲を見渡すと、レインボーブリッジやアクアラインの海ほたる。都庁や東京タワー、東京スカイツリーや東京ゲートブリッジ。房総半島から富士山に至るまで、関東の有名観光名所を一望できる葛西臨海公園にそびえ立つ、日本最大級の観覧車。六人まで乗車できる大観覧車が六十八台あり、約十七分の空中散歩を楽しむことができる。
 土日祝日ならば二十時まで運航しているため、夜の有名観光所が一望できる。夜の夜景が見られるのも素敵なのだが、本日は平日。十九時で運行が終了される。遅くからリモートを開始するのも、リモートに付き合ってもらうのは、美月さんの体調が心配になる。
 そこで僕は、美月さんと綺麗な夕日が見られればいいなぁと思い、二時からのリモートデートを選んだのだ。
 パークトレインや、大観覧車までの道を歩きながらお話しをしたり、大観覧車の乗車までの待ち時間や、リモートの説明などに時間が過ぎ去り、現時刻は十六時十五分。ネット調べによると、東京の十二月の日入りが十六時二十九分。大観覧車が一周十七分。半周する天辺に行くまでは十四分かかる。中々にいい頃合いなのではないだろうか?
「では、素敵な空中散歩をお楽しみ下さい」
 従業員は笑顔でそう言いながら、大観覧車に僕を乗車させると、静かに大観覧車の扉と鍵を閉めた。
 大観覧車はすでに緩やかに動いている。
 僕は急ピッチで美月さんにリモートを繋げながら、自撮り棒を三脚型に変形させて自立させる。ただ、大観覧車の揺れで三脚が倒れかねないので、足を延ばして座り、自分の足で三脚を固定させた。
 そうこうしているうちに、美月さんとリモートが繋がる。
[み・つ・き・さ~ん]
 僕は大きく口を開けて空言葉を出しながら、スマホ画面に映し出される美月さんに手を振る。
[はーい。優太さ~ん]
 美月さんは笑顔で手を振り返してくれる。
[見えていますか?]
[はい。問題なく見えていますよ]
 美月さんはそう笑顔で伝えると、両腕で大きな丸を頭上で作る。
[大観覧車の中が広かったので、三脚を自立させました。なので、少しだけ、手話でお話しさせて下さい]
[はい。やっぱり、向き合ってお話し出来ると嬉しいです]
[多分、観覧車が頂点に行くと日入りなので、一緒に見ましょう]
[はい]
 美月さんはニコニコ笑顔で頷いてくれる。今日は美月さんの笑顔がたくさん見られて幸せだ。
[本当は、ゲームセンターがあったり、観覧車の下にもう一つアトラクションがあったりしたんですが、二人で楽しむのは厳しそうで……。もう少し遊べたら良かったのですが]
 自撮りをしながらモグラたたきゲームをしたり、バスケゲームをしたところで、美月さんと一緒に楽しめるとは思えなかった。せめて可愛い景品が入ったクレーンゲームでもあったらよかったのだが、一人でリモートデートの下見に来た時にピンとくるものがなく、今日はゲームセンターを素通りした。
 大観覧車の下にコンパクトな水上系アトラクションがあるのだが、もしかの場合があるため、乗車しながらの撮影は禁止された。そうなればもう、パークトレインと大観覧車しかなくなってしまう。
[そうだったんですね。私、今日凄く楽しかったですよ。 優太さんと同じ時間を過ごし、お話し出来るだけで本当に嬉しいんです。しかも今日は一緒にお出かけ? でしたし。今は念願の大観覧車ですし]
[美月さんが楽しかったのなら、僕はとても嬉しいです。そういえば、どうして観覧車が乗りたかったんですか?]
[……憧れ、だったんです]
[その憧れの乗り物を一緒に乗ったのが、僕で良かったんですか?]
[もちろんです!]
 美月さんは大きく頷いて見せる。
[美月さん、ありがとう。本当に、色々と。……次は、画面の中の美月さんとではなく、美月さんと一緒にココにこられたらいいなぁ]
 僕はどこか独り言のように気持ちを吐露する。
[もしそんなことが出来たら素敵ですけど……今の私には厳しそうです]
 美月さんは頼りなげに微笑み、首を竦めて見せた。
[やっぱり、まだ体調が優れませんか?]
[それもですけど、やっぱり体質がネックになっています。一歩外に出ると、誰かと触れ合ってしまう可能性があります。故意に触れなくとも、誰かとぶつかってしまったりする可能性もあります。それに、人の体温だけではなく、そこかしこに熱があるかもしれません……]
[僕が守りますよ――なんて、勝手なことは言えませんよね。僕じゃ頼りなさすぎる。僕と一緒に外出なんて危険です]
[そうですね]
[ぇ⁉]
 想像していなかった即答振りに、さすがの僕も堪えてしまう。
[だって、優太さんと本当にお出かけをしたら、私は優太さんと並んで歩きたくなってしまう。触れ合ってみたくなってしまう。手を繋いで歩いてみたくなってしまう――それは、危険です]
 美月さんは眉根を下げて微笑む。
「……それは、反則だと思います」
 美月さんの思わぬ言葉にノックダウンした僕は、両手で顔を覆って項垂れ、白旗を上げる。
「えぇ? なにが反則なんですか?」
 美月さんは先程の発言に対しての破壊力に気がついていない様子で、頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
[僕と並んで歩きたくなるとか、触れ合ってみたくなるとか、手を繋いで歩いてみたくなるとか、もはや、告白……?]
[!]
 美月さんはハッとしたように目を見開いた後、顔をリンゴのように赤らめる。
[すみません。少し意地悪でしたね]
[……いえ。その、優太さんが嫌じゃなければ……。ご迷惑じゃなければ、告白と受け取ってくれるのなら、嬉しいです]
[!]
 思いもしていなかった美月さんからの告白に対し、次は僕が硬直してしまう。身体が熱い。
[ぁ、えっと……やっぱり、今のは忘れて下さい]
[ぇ?]
 嬉しい言葉をすぐに撤回してしまう美月さんに戸惑う。
[……ごめんなさい。無理です。忘れられません。だって、凄く嬉しかったから。僕だって美月さんと同じ気持ちだから。今日、幾人かのカップルを見ました。その度に、美月さんと並んで歩きたくなったし、美月さんと触れ合ってみたくなってしまいました。ぁ! 変な意味ではなく、美月さんと手を繋いで歩いてみたくなったんです。外の世界には、もっと色々なものがあります。楽しいものもたくさんあります。リモートデートだけでは伝えきれない、楽しい世界やもの達に溢れています。だから僕は、いつか美月さんと外の世界でデートをしてみたいです。それが、僕の夢です]
[その言葉だけで、私は嬉しいです。優太さんの夢は私と同じですね。いつか二人で叶えることが出来たらいいのに……]
 美月さんは諦めの境地に居るのか、力のない笑みを口元に浮かべる。僕達の間に、どこかしんみりとした空気に溢れてしまう。僕は[ちょっと、画面揺れます]と断りを入れてから、三脚にしていた自撮り棒を左手で持てるように、コンパクトにさせた。

 僕は空気感を一度替えようと自撮り棒を持ち、観覧車の中を一周する。
『美月さん、見えますか?』
 僕はコミュニケーション方法を手話から、メモアプリに切り替える。
 美月さんと話しているうちに、観覧車がちょうど天辺近くまで来ていた。おかげで日入りしていて、色々とありがたい。
[はい。夕日も綺麗ですね]
『どこ見ましょう? 今日はいい感じに晴れていたので、東京タワーや富士山も綺麗に見えていますね』
[西なぎさが見たいです]
『西なぎさ?』
 思わぬリクエストにきょとんとしながらも、僕は美月さんのリクエストに答える。
『美月さんも、思入れがあったりするんですか?』
[はい。とても思い入れ深いことがありました]
 どこかうっとりと懐かしそうにそう答える美月さんは、そっとはにかむ。その姿は、家族に向けるようなものには感じられなくて、少し焼いてしまいそうだ。
『そう、なんですね。僕も、懐かしい思入れがありますよ』
[それは、聞いてもいいですか?]
『聞いてもつまらないと思いますよ? 小さい頃にバーベキューをした思い出なんて』
 僕はどこか自嘲気味に答えてしまう。これではいけないと、自分を律する。危うく、大切な時間を訳の分からない焼きもちなどに食べられてしまうところだった。
[大きくなってからは、バーベキューしていないんですか?]
『ん~、今年かな? 兄さんとバーベキューしたことあります。同じ、西なぎさで。そう言えば、西なぎさから、この観覧車が見えるんですよ』
 僕は今僕と過ごしてくれる美月さんと、この時間を大切にしようと、笑顔を取り戻して答える。
[本当に兄弟仲がいいんですね。知っています。西なぎさからこの観覧車を見て、ずっと憧れていました]
『ん~、兄弟仲はいい方だと思いますけど……ひょっとしたら、ブラコンかも。美月さんも憧れていたんですね。僕も、この観覧車憧れでしたよ。いつか、大切な人と乗ってみたいなぁ~と思っていました。……夢を叶えて下さり、ありがとうございます』
[ブラコン? そんな。お礼を言わなきゃいけないのは私の方です]
『ブラコンについては、スルーして下さい』
[わかりました。じゃぁ、ブラコンについては、また隠れて調べてみます]
『調べないで~』
 僕はクスクス笑いながら、文字打ちした旧スマホを画面越しの美月さんに見せる。
[残念]
 美月さんは首を竦め、クスクスと笑う。
 その後、僕達は他愛のない会話を交わし合いながら、しばしの空中散歩とリモートデートを楽しむのだった。