「はぁー」
三〇五号室の部屋に戻ってきた僕は倒れるようにキングサイズのベッドに沈み込む。もちろん、このマンションに住んでいるのは僕ではないし、この部屋も僕の部屋ではない。全て兄さんのものだ。当の家の主は、仕事の真っ最中だろう。兄さんは夜の帳が下り切る前に、歌舞伎町へと舞い降りるのだ。
僕が十四歳の時に両親が天国へと旅立ったあと、六つ年上の兄さんは夜の仕事を始めた。
約半年間は夜の仕事一本で過ごすことが出来ず、自転車で飲食配達のアルバイトを日中にこなしながら生活をしていた。
日を追うごとに痩せていく兄さんが心配で、申し訳なくて、何度学校を辞めて働こうかと思ったことだろう。だが中学生を雇ってくれるお店は見つからず。今流行りの配信者として食べていけるわけもなかった。
世間の厳しさに敗北した僕は高校卒業するまでのあいだ、大人しく兄さんに守られ続けた。だが今の僕は守られるだけしか出来ない子供ではない。
「いつまで続けるつもりなんだろう?」
不健康な兄さんの生活を思うと、そんな言葉が自然と口につく。
防音設備が整っているためか、物音一つ聴こえない。独り言がやけに大きく響く。僕が住んでいる安アパートとは大違いだ。
アルバイトをこなしながら大学で勉強に勤しむ僕と、ハイグレードマンションに住む謎の美少女。兄さんならともかく、この先僕と接点を持つことなどありえるのだろうか?
叶うのなら、もう一度会って話がしてみたい。だけどもし会えたとしても、今の僕ではあの子と挨拶を交わし合うことさえも出来ない。
「やっぱり、忘れた方がいいのかなぁ」
僕の口からポロリと諦めの言葉が零れ、睡魔に負けた神経は夢の中へと旅立った。
†
翌朝。
バタン。カチャ。ゴトン――。
「ん~……ッ」
僕は騒がしい物音で夢から目覚める。
「兄さん?」
眠さの残る目元を指先で擦る僕は、重怠い身体を起こして玄関へと足を向けた。
「なっ!」
思わず声を上げて目を見開いてしまう。
上質なスーツに身を包んだ青年がうつ伏せ状態になって、玄関扉の前で倒れ込んでいたのだから仕方ない。
「兄さん! ちょ、大丈夫なの⁉」
僕は慌てて兄である白崎(しろさき)龍(りゅう)優(ゆう)に駆け寄り、自分よりも体格の大きい青年を仰向けに転がす。
「おぉ! 優太来てたんだ!」
鎖骨まで伸ばされた髪をウルフカットに整わせてゆるくパーマをかけたアンニュイスタイルと、整った顔立ちが破綻するような笑顔を見せる。
「来てたんだ! って、兄さんが掃除しに来てって呼んだんでしょ? 作り置き料理もなくなって死にそう。とかなんとか言って連絡してきたこと忘れたの?」
兄さんから甘えたようなメッセージが来ることは滅多にない。
こういう時は大抵仕事で嫌なことがあったときか、普通の生活が恋しくなった時だ。
「したした~。味噌汁飲みてぇ。シジミとかいいな。ザ・和食! みたいな……さ」
兄さんはそんなことを言いながら、眠りに落ちてしまう。
「せめてベッドまで起きていて欲しかった」
僕は右手で顔を覆って溜息をつく。
一七〇センチで細身の僕に対し、兄さんは一八二センチの長身。
女性のような細身の体型の僕に対し、兄さんは頼りたくなる体格と鍛えた身体を持っていた。そのおかげで、毎回運ぶのには一苦労している。
「よっし!」
僕より二センチ程大きな兄さんの靴を脱がして頭上に立った僕は、幅の広い肩を羨ましく思いながらも、両脇に両腕を差し込む。
「おっも……い」
スーツに皺が出来てしまうことなどお構いなしに、兄さんを寝室までズルズルと引きずっていった。
†
「ふぅ~。はぁ、はぁ、はぁ」
どうにかこうにかキングサイズベッドに爆睡中の兄さんを転がした僕は、犬のように荒い息を繰り返す。
息を整え終えた所で僕は一度、床にしゃがみ込んだ。
「兄さん。僕はもう二十歳になったんだよ」
瞼にかかった兄さんの前髪を払いながら呟く。
一向に起きる気配のない兄さんに僕の言葉は届かない。
兄さんのおかげで中学、高校と無事に卒業できた僕は今、大学費用や自身の生活費を自分で払えるようになった。僕はもうあの頃みたいに、守ってもらうしか出来ない子供じゃない。
僕を立派に育て上げる、という兄さんの目的を果たしたはずだ。
それなのに何故、兄さんは今もこの仕事を続けているのだろう? 夜の世界に染まり切ってしまったのだろうか?
「お水と痛み止め置いとくよ」
穏やかな口調でそう言いながら、冷蔵庫から取ってきたペッドボトルの水と頭痛薬をサイドテーブルに置く。
「ん~……」
兄さんはむにゃむにゃと口を動かすが、何を言っているかさっぱり分からない。まるで睡眠中の赤ん坊のようだ。まぁ、兄さんに天使の可愛さなどはないのだが。
「しじみ、買ってくるね」
と一応書き置きを残し、三〇五号室を後にした。
†
「やっぱり、ここにはないかぁ」
マンション一階のコミュニティーエリア。
二十四時間営業のコンビニに足を運んでみたものの、やはりここには真空パックのしじみは置いてなかった。
「まだ八時過ぎかぁ」
スマホで時間を確認して目線を上げた僕の視界に、今しがた会計を終え、キャップ付きブラック缶コーヒーを手にした中条さんが映る。
「ぁ!」
思わず声を上げた僕の声に反応した中条さんが肩越しに振り向く。
瞬時に会釈をした僕に対し、微笑むことすらない中条さんは無言でコンビニを後にした。まるで、数時間前の出来事はなかったかのように。
「なに、あれ」
少しムッとする僕だが、中条さんを追いかけるような子供じみた真似はせず、近くにあるスーパーへ買い出しに行くことを選んだ。
「ただいまぁ」
僕は小声で帰宅の挨拶を溢す。
お帰り、のかわりに唸り声が響く。
「に、兄さん?」
兄さんに何かあったのかと、僕は靴を脱ぎ散らかして家に上がる。
背もたれの高い灰色のレザーチェアに腰掛けた兄さんは、黒の太いNに似たうねりで支えている黒のガラス天板テーブルに突っ伏していた。
「ちょ、大丈夫?」
「どうしてにぃちゃんを置いていくんだよぉ」
メイクを落としたのか、目の下にクマを見せた兄さんは僕の腰にしがみつく。まるで母親に置いて行かれた子供のように。お客さんが見たらなんて思うだろうか。
「人聞きが悪い。ちゃんと置手紙置いて行ったでしょ? それに、兄さん寝てたじゃん」
「寝てたけど……起きた時に一人って寂しいじゃねーかよ」
顔を上げた兄さんは上目遣いで睨んでくる。その瞳からは灰色のカラーコンタクトは姿を消し、黒に近い焦げ茶色の瞳に僕が映っていた。
鎖骨まで伸ばされた髪は一束にまとめられ、スーツからセットアップのスウェットに着替えている。
完全に源氏名の龍から、白崎(しらさき)龍(りゅう)優(ゆう)に戻っていた。
「いや、一人暮らしだよね? いつも一人で起きているよね?」
僕は呆れ口調でそう言って微苦笑を浮かべる。
「いつもはな。今は優太が来てるのが分かってんだろ。それなのに、起きた時姿がねーのは孤独だぞ」
噓泣きを辞めた兄さんは僕から離れ、煙草を銜える。
すでにコロンとした黒の球体型灰皿には、四本の煙草が刺さっていた。昨晩片付けたばかりだ。僕が家を出て約二時間のうちに、四本も吸ったようだ。
「そうですか。じゃぁ、僕は味噌汁作るから。しじみの味噌汁飲むんでしょ?」
「そうそう」
僕の言葉に対し、拗ねた幼子のようだった兄さんの顔が一気に華やいだ。
「軽く朝食も食べる?」
「ありがとう。でも今は味噌汁だけでいい」
「了解」
僕はライター音を聞きながら、味噌汁を作るためにキッチンへと足を向けた。
このマンションのキッチンは本当にハイテクで使い勝手がいい。
人工大理石トップはオシャレだし掃除がしやすい。蛇口はシングルレバーのハンドシャワー型。僕のアパートは蛇口をひねるタイプで、両手が汚れていたら蛇口も汚れてしまう。三又コンロは調理時間短縮になるし、厨房を彷彿とさせる換気扇は大活躍。
何より羨ましいのは、全自動ディスポーザーがついていることだ。これによって三角コーナーは不要となり、生ごみの匂いに悩まされることもなくなるのだから。
キッチンの他にも、ハイテクなものが色々ある。なおかつトイレやお風呂のバリアフリーなところに優しさを感じる。
まぁ、凄いのは部屋の中だけではないのだが。
マンションには、昨晩訪れたプール以外の施設も充実していた。
ジムはもちろん、エステなどが受けられるセラピールーム。スパ施設にテラス。住民専用のレストラン。まるで、高級ホテル暮らしをしているような暮らしができる夢のような住まいだった。
著名人も多く住んでいるマンションのようで、セキュリティも万全だ。コンシェルジュに兄の弟と主張しても、本人からの伝言を言付かっていなければ、僕は赤の他人とみなされて門前払いされる。
兄さんがここへ引っ越してきたばかりの頃に訪れたことがあるが、兄に話さず来てしまったばっかりに面倒な目にあったことがある。それからというもの、僕は毎週火曜日の夕方に来ることにして、兄さんが火曜日の朝にコンシェルジュに話をつけてくれる手筈となった。
それ以外では、兄さんが呼び出さない限り訪れることはない。
僕には縁遠い世界観のマンション。一般大学生が住めるわけがない。だが美月さんはココに住んでいる。多分契約者であろう中条さんと一緒に住んでいるのだろう。二人はどういった関係性で、どういった世界で生きているのだろうか?
「まぁ、僕には縁遠い世界には変わりないのだろうけどさ」
どこか拗ねるようにごちた僕の耳に、「なんか言ったか?」と兄さんの声が届く。
「なんでもないよ。もうできるから」
兄さんの声で我に返った僕は、頭を二回程左右に振って思考を切り替える。
「お待たせ」
「Thank you always, yuta! Ⅰ love you♡」
兄さんの前に味噌汁をそっと置いた僕に対し、妙に発音が良い英語でお礼を伝えてくる。しかもウィンク付きだ。
「ぇ、酔ってんの?」
「酔ってねーよ。昨日は英語圏のお客様を相手にしてたから、英語で想いを伝えただけだろ」
身の毛をよだたせ一歩後ろに下がる僕を、冗談が通じない奴だなと、落胆したように見る。
「あぁ。お客様って日本人だけじゃないんだ」
僕は納得したように頷きながら兄さんの正面のチェアに浅く座った。
「当たり前だろ。基本はお店の出入りは自由。英語圏のお客も相手にできれば客層も増えるし、俺の強みにもになる」
と言った兄さんは、いただきますと両手を合わせ、味噌汁を一口。
「あぁ~五体六腑に染み渡るわ~」
「ぇ、おじさん?」
「誰がおじさんだッ。まだ二十八だっつーの!」
「ごめんごめん」
僕は勢いよくツッコミを入れてくる兄さんに顔の前で両掌を重ねて謝る。
「軽っぅ。全然心こもってねーしな。……ま、まぁまぁ、俺は優しいから、きんぴらごぼうで許してやるよ」
兄さんはどこか勝気に口元の弧を上げた。
本当に優しい人は自分で優しいと言わないと思うし、謝礼のようなものは求めないと思うが……という言葉は飲み込み、ありがとう。という言葉をだけ溢す。
こうしてじゃれ合えるのも、甘えてもらえるのも、信頼されている証拠だろう。普段仮面を被っている兄さんには僕の前だけでも、素顔でいて欲しいと思う弟心だ。
「ごっそーさん。美味かった」
兄さんは空になったお椀を僕に見せ、シンクに持っていった。その後ろ姿は腹正しいほど絵になる。可笑しい。僕も同じメーカーのセットアップのスウェットを持っているのだが、兄さんのようには着こなせない。
僕も僕なりに努力をしているつもりなのだが……。
大学に入って髪を焦げ茶色に染め上げ、眼鏡からコンタクトに変更させた。
髪型は美容師さんにおすすめされた、軽すぎず重すぎないナチュラルマッシュヘアーした。素髪風な質感をしているが軽くパーマをかけている。スタイリングが苦手だと言ったらこうなった。
切れ長の目元をした兄さんに対し、母親似の僕はビー玉のように丸い目元をしている。二重と涙袋まであるものだから、女子顔負けである。大学でついたあだ名がハムスターだ。
身長は一七三センチの細身で体格が中性的というべきか……なんと言うべきか、一言で言うなら兄さんと正反対なヴィジュアルなのだ。
同じ血を分け合った兄弟のはずなのに、この差は一体なんなんだ⁉
「さっきから視線が痛いんですけど、優太さん?」
戻ってきた兄さんは微苦笑を浮かべ、首を傾げて見せた。
「ぁ、つい」
「ついって何だよ、ついって」
兄さんは僕の返事に呆れ笑いながら先程座っていた席にどかりと座る。長い足を持て余しているようで羨ましい限りである。
「今日泊まっていい?」
「今日と言わず永遠に」
思わぬ返答に対し、僕の頭上で葛根長が鳴き声を上げる。
「んっだよ、その反応は」
「いや、職業病って怖いなぁ……と思いまして」
「職業病じゃなくて、これが本来の俺だ」
「へ、へぇー」
兄さんは呆れ気味の相槌を打つ僕に、「ほんっとノリ悪ぃな」とクスクスと笑う。
「まぁ、いいけど」
席を外した兄さんは寝室に足を向けた。
「?」
寝室でガタゴト音を立てて戻ってきた兄さんは、「好きなだけ泊って行けよ」と言いながら、机の上に部屋のカードキーを置いた。
「これ、予備のカードキー。いつでも出入りしていいから」
「もらっていいの?」
「もちろん。上手い家庭料理も食えるし、可愛い弟に癒されて面白がれて万々歳」
兄さんは明るい声でそう言いながら、綺麗な白い歯を見せて笑う。
「ちょっと気になることを言われた気もするけど、ありがたく受け取らせて頂きます」
手放しで喜べない感もあるが、僕は紺碧色のルームカードキーを受け取った。部屋の鍵までが高級ホテル使用だ。……行ったことないけど。
「じゃぁ、俺はもう少し寝る」
「了解」
僕はまた寝室に戻っていった兄さんを起こさないように、後片付けを済ますのだった。
†
深夜二時――。
「こんばんは、僕」
「ッ⁉」
プールの出入り口扉を開けてすぐ、中条さんの声が響く。
視線を左に向けると、壁に背を預けた中条さんの姿があった。
「僕。じゃありません。ちゃんと名前があります」
「失礼。白崎優太君」
僕は中条さんが名前を覚えていたことに一驚する。
「顔と名前を覚えることが得意なのよ。それに、君は要注意人物だもの」
「忘れていないからですか?」
「そう。忘れていないから。だから、また同じ時間にここへ来たのでしょう?」
カツカツとヒール音を鳴らして僕の正面に立った中条さんは、微笑を浮かべながら小首を傾げる。聞かずとも分かっているだろうに。
「残念だけど、美月はいないわ。忘れなさいと言ったでしょう?」
「存在はない。と仰るわりには“美月さん”という名前が存在するんですね」
中条さんは僕の答えを面白がるように、そっとほくそ笑む。
「もし、美月の存在がいたとして、貴方は美月とどうなりたいの? ただの興味本位でしょ? 美月の容姿に魅了される者は少なくないわ。そもそも、どうコミュニケーションを取るつもり? 昨日の貴方を見る限り、美月の言語を読み取れていないようだったけど」
「それは……ぶ、文通?」
「フフッ。文通って、いつの時代よ」
一瞬目を点にした中条さんは、拳を口元に当ててくすくすと笑う。
「中条さんは毎朝コンビニに訪れているんですか?」
「今日はたまたまよ。それがどうかした?」
「明日また会えませんか?」
「明日は忙しいから無理よ。そもそもあの子と会わせる気はないの」
中条さんは僕の話に興味がない、とでも言うように卵を掴むような形で拳を作り、赤を基調としたネイルを自身の目で楽しむように一八〇度手首を回転させた。
「直近で美月さんと会えなくてもかまいません」
冷めた口調で返された返答に対しい、僕はめげずに次の提案を提示した。
「私をポストか郵便局員にでもするつもり?」
ネイルから僕に視線を移す中条さんの視線は冷たい。
「それは……」
言葉に詰まる僕に余裕のある笑みを浮かべた中条さんは、「気が向いたら、またこの時間この場所に来てあげる」とだけ言い残し、この場を去って行ってしまった。
†
翌朝、十一時。
僕は目覚めから覚醒した兄さんと共に、朝食兼昼食を取っていた。
「優太。昨日は眠れなかったのか?」
「ぇ?」
豆腐とわかめの味噌汁が入ったお椀を口につけていた僕は、思わず手を止める。
「目の下にクマが出来てる。後、少し元気がない。悩みごとでもあるのか?」
「クマはクマとして、どうして元気がないと思うの?」
持っていた食器達を元居た位置に戻し、兄さんに問う。
「時折目が虚ろになる。後、伏し目がちになる回数がいつもよりも多い」
「こ、こわっ!」
恐ろしいほど人のことを良く見ている。探偵の才能でもあるんじゃないか。
「怖いとはなんだ、怖いとは」
「ぁ、つい本音がポロリと」
僕は指先を口元に当てて空笑いを溢しつつ、先程までの席に腰を下ろして兄さんと向き合う。
「本音ポロリしすぎると、いつか痛い目に合うぞ」
「以後、気をつけます」
と指先を机にちょこんと置き、ぺこりと頭を下げる。
「はいよ。で、なんかあったのか?」
「う~ん……。あのさ、英語圏のお客さんも来るって言ってたよね?」
「? あぁ、言ったけど、それがどうした?」
兄さんは話しの意図が見えないとばかりに首を傾げる。
「声が出せないとか、車椅子利用者とかのお客さんもいるの?」
「いるにはいるけど、滅多に来ないな」
「じゃぁさ、声が出せない人にはどう接客するの?」
「俺は筆談か……」
そこで言葉を止めた兄さんは指を動かしだす。
僕に手の甲を見せながら、親指と小指以外の指を、やや丸みを持たせて立てる。
次に掌を見せ、人差し指だけを突き立てたまま、左にスライドさせる。
その次に僕に手の甲を向けると、親指と人差し指だけ上向きに立て、指通しを引っ付けて離す。
その次に、親指と人差し指と中指を横向き立て、左にスライドさせた。
「?」
それらが何を示しているのか分からない僕は小首を傾げる。ただ分かるのは、美月さんが使っていた動作と似たようなものということだけだった。
「一番目が、ゆ。二番目が、び。三番目が、も。四番目が、じ」
「ゆびもじ?」
確認すると兄さんは頷く。
「音を失った人とのコミュニケーション方法は、手話、筆談、指文字、メッセージアプリのデジタル会話、相手の手の平に指で文字を書く。他にもあるのかもしれないが、俺の知る限りこの四つ」
「へぇ~」
僕が感心したように頷いていると、兄さんは数口残っていた味噌汁を飲み切った。
「いつから手話とか覚えたの?」
「三年前」
「ぼ、僕でも出来る? 出来ればすぐにでも習得したいんだけど」
僕は前のめりになって問うてみる。
「出来るかどうかは優太次第。後、すぐに習得できるものなんて余程の才能か、愛がねーと無理。後は切羽詰まったときの火事場の馬鹿力」
「ご、ごもっとも」
淡々とした口調で正論が返ってきて、僕は思わず項垂れる。
「いきなり何? 大学で好きになった人でも出来たか?」
左手で頬杖をつく兄さんの瞳がキラリと光る。まるで、いい獲物を見つけたかのようだ。
「ち、違うよっ。なんか、もし使えたらこの先の未来に役に立つかも知れないじゃん」
即とした返事はどもりが酷く、嘘っぽく聞こえてしまう。
「この先の未来ね……。なら、すぐに習得出来なくてもよくねぇ?」
「た、確かにそうなんだけど……」
ニヤニヤ意地の悪い笑みを向けてくる兄さんに対し、僕は瞬時に良い反論が思いつかず口ごもる。
「まぁいいけどさ。昔使っていた本見繕ってやるから、それ見て勉強でもしてみろよ。今の時代は動画でも見れるし。インプットしやすい世の中になったもんだ」
兄さんは白い歯を見せてニカッと笑うと、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。いつまで経っても子ども扱いだ。
その後、食事と後片付けを終えた兄さんは外出をし、僕はレターセットで文章を綴った。
いきなり連絡先を書くことはせず、自己紹介だけを綴る。だが、その手紙は誰にも開封されることなく、二日間の時が過ぎた。
†
深夜二時。
三十五階建て高層マンション、プラージュ・零。
僕は本日も三十三階にあるプール施設に訪れていた。
最後に中条さんと会ってから二日間連日、同じ時間ここへ訪れ、四時まで待ってみてはいるものの、中条さんがここへ現れることはなかった。
「今日も来ないのかなぁ。……今日というか、ずっと来ない?」
「君もしつこい子ね」
驚きと呆れが入り混じる声音がプールに響く。
「中条さん!」
「声が大きい。ここの施設、利用時間は二十二時までなのを知らないのかしら?」
大きく響く僕の声を不快そうな顔をした中条さんは、声音に呆れを滲ませる。
「すみません」
しゅんと肩を落として謝る僕に小さく首を竦めて見せる中条さんは、ヒール音を鳴らして近づいてくる。その距離、畳一畳分くらいだろうか?
「連日ここへ来て何がしたかったのかしら?」
「それは……」
左端にイルカのシルエットがあしらわれた封筒を、そっと中条さんに差し出す。
「これを、美月に渡せと?」
「許されるのであれば。なんでしたら、中身をチェックしてもらっても構いません。封を開けやすいように、シールを一つだけしかつけていません」
中条さんが先に読むことも考慮し、レターセットについていた銀のイルカシルエットシールしかつけていない。
「貴方が良いのなら、遠慮なく」
破らないようにシールの下半分を慎重に捲って中身を取り出した中条さんは口を真一文字にして、文面に目を通してゆく。まるでテスト答案か何かの合否を待っているような緊張感だ。
【こんばんは。突然のお便りを失礼いたします。
数日前、真夜中のプールで出会った青年を覚えていますでしょうか?
その後、体調はいかがですか?
あの時はお名前も聞くことが出来ず、自己紹介すら出来ずにいた、白崎優太です。
貴方のお名前をお聞きしてもいいですか?
もし不快に感じたのなら、変な人だとひと蹴りして、これを捨てて下さい。
最後まで目を通して下さり、ありがとうございました。
白崎優太】
「連絡先は書いていないのね」
中条さんは意外そうに呟く。
「少しでもお話しができるなら、個人的なやり取りじゃなくても構わないんです。いきなり連絡先渡されても困るでしょうし、紳士じゃない」
「まぁ、連絡先を書かれているよりは紳士ではあるけれど」
微苦笑を浮かべた中条さんは手紙を丁寧に元に戻す。
「中条さん」
視線を僕に向けて欲しくて、中条さんの名を呼ぶ。
「まだ何か?」
顔を上げた中条さんが僕と視線を合わせてくれる。
僕は言葉の代わりに指を動かし始めた。
中条さんに手の甲を向けて親指と人差し指だけ上向きに立て、指通しを引っ付けて離す。これが[も]
親指と人差し指と中指を横向き立てる。これは[し]
「⁉」
中条さんは唐突に始まった僕の行動に驚いた顔をするが、僕は何も言わずに続けた。
親指を曲げ、四本の指を横向きに伸ばしたまま、中条さんに手の甲を向ける。これが、[よ]
手の平を中条さんに見せながら、人差し指と中指を伸ばし、親指を中指につける。アルファベットのKを表す形が[か]
小指と薬指を伸ばし、他3本指で輪を作る。指先で一つまみするような感じでカタカナのツを表すが、今回はその形のまま手首を後ろに引く。これで促音(そくおん)の[っ]になるらしい。
中条さんに手の甲を向け、親指だけ伸ばすグッドボタンの形で[た]
手の平を中条さんに向け、伸ばした中指の腹に人差し指の爪の先をのせる。なんらかのアニメキャラが、アディオス、とウィンクを飛ばしそうな形が[ら]となる。
こうして僕はゆっくりと、覚えたての指文字で思いを伝えていった。
[もしよかったら美月さんに渡して下さい]
声にすれば五秒足らずで終わるが、拙い指文字となると一分近くかかってしまう。
普段どれだけ声で楽をしているのかがよく分かる。自分が発した言葉が刹那で相手に届く声と、考えて自分で文字を作ってゆく指文字とでは、どこか言葉の重みの違いを感じた。
声にする言葉の重みとありがたさをもう少し知るべきなのだと、僕はここ数日で学んだ。
「わざわざ覚えたの?」
「いえ」
僕は中条さんの問いかけに対し、静かに首を横に振った。
「まだ全てを覚えられたわけじゃありません。記憶している文字でさえ、瞬時に形にすることが出来ません。だから、今は筆談でしかコミュニケーションを図る方法がないです」
眉根を下げて答える僕の声は頼りない。
「そう。今回は君の頑張りに免じて美月に渡しておくわね」
「本当ですか⁉ ありがとうございます」
靄が晴れて光が差し込んできたような気分となり、子供のように笑顔が零れる。
「……君は美月の正体を知らないのかしら?」
「ぇ? ……正体というのはどういう意味ですか? 人間ですよね?」
中条さんの言っている意味が分からず、怪訝な顔で問い返す。
「それはジョーク? それとも本当に聞いているのかしら? だとしたら、君の頭は少し抜けているわ」
中条さんは鼻の先で少し笑う。完全に馬鹿にされているとしか思えない。
「まぁいいわ。美月の生きている世界、美月の正体を知らないならそれでいいわ。今知らなくとも、どの道どこかで知ることになるでしょうし」
「どういうことですか?」
「また三日後、同じ時間に会いましょう。おやすみ。子供が連日真夜中の住民になるものじゃないわ」
中条さんは僕の問いに答えることなく、余裕のある笑みを故意に溢して去っていった。
一人残された僕は、一歩前進出来たことへの喜びと、また一つ増えた美月さんの謎に首を傾げながら、兄さんの部屋に戻るのだった。
†
午後十一時四十分――。
「兄さん」
朝食兼昼食を終え、特大L字ソファで横になって寛いでいた兄さんに近づきながら呼びかける。
「どうした?」
兄さんは読んでいた雑誌から、僕へと視線を移す。
「僕、今日は帰るね」
「なんで?」
勢いよく上半身を起こす兄さんの膝の上に雑誌が転がる。
「ぇ⁉」
丁度開いている雑誌のページに映る女性に、僕は目を見開いた。
「どうした?」
「ちょっ、ちょっとそれ見せてっ!」
不思議そうに僕を見る兄さんをスルーして、兄さんの膝上にあった雑誌を勢いよく手に取った。
一瞬で目を引く水晶に近いアクアマリン色の長い髪。その色より透明感を増した瞳の色。
白色のマーメイドドレスに身を包む身体は細く、傷一つないきめ細やかな肌は雪のように白い。
正面、横顔、斜め、どのショットも目を見張るほど美しい。一貫して感じたのは、神秘的かつ、幻想的な儚い印象を与える人物だということ。
雑誌に映る妖精のような美少女が美月さんだと、僕の感覚が思う。こんな絵本から飛び出してきたような美少女が多くいるとは思えない。
「この子……」
僕は詳しい情報を求めるように、今開いている雑誌ページを両手で開き、突き出すようにして兄さんに見せる。
「あぁ、meeか」
「みぃ? 有名なの?」
「嗚呼」
と頷く兄さんは、どこか気だるそうに立ち上がった。
「僕、見たことないんだけど」
「まぁ、ファッションやコスメに興味のない男子なら、そうだろうな。だが、その界隈では有名だよ。知っている人は知っている。だが基本、日本での活動はしていないモデルだ。その雑誌も、海外のファッション雑誌だしな。コンビニや書店では売っていない。CMなどで見かけることもない。そもそも、精力的に活動はしていない」
兄さんはそう話すと、よっこらせ、と言いながら立ち上がる。
「精力的に活動していないのに、どうして人気なの?」
「高級ブランドの新着ドレス発表のモデルに起用され、鮮烈なデビューを果たした。しかも、元々決まっていたモデルがトラブルを起こし、その子が起用された説がある。その後、大手デザイナーとのコラボをよくしている。コラボした洋服や雑誌は即完売。
本名、年齢、出身国、何もかもが謎に包まれた美少女。明かされているのはその美貌と、『mee』という活動名のみ。だが、圧倒的美貌とオーラとミステリアスさにより、海外で人気が出始めた。今は日本でも人気になりつつある。
老舗ブランドの広告モデルではあるが、デビュー時以来、その姿を見られるのは、月一で発売されるその雑誌。そして、老舗ブランド店の会員のみに渡される広告パンフレットや、webプロモーションCMのみ。もちろん、その映像を切り取ってネットに晒したり、動画を引っ張ってきたりするのは許されていない」
兄さんはそう話しながら、キッチンの換気スイッチをONにさせる。
煙草の匂いを家に充満させたくない兄さんが、煙草を吸う前にするルーティンのようなものだ。
「知る人ぞ知る……感じ?」
「まぁな。で、その子がどうした? まさか、その子の正体でも知ってるとか?」
兄さんは冷静な口調でそう言いながらリビングチェアーに腰を下ろし、慣れた手つきで煙草を嗜む。
「ま、まさか」
僕は瞬時に嘘をつき、逃げるように雑誌を閉じた。別に兄さんに言っても害はない。だが、そこまで正体を隠して活動をしているのならば、内密にしていた方がいいと思ったからだ。それに、何かの拍子で兄さんが二人に接触したとき、僕が口の軽い人間だと思われかねない。
「ふ~ん。まぁ、いいけど。つーか、なんで帰んだよ?」
兄さんは腑に落ちていない様子だが、あえて追求せずに、話しを切り替えた。
「同棲するのはちょっと」
「はぁ? 俺を相手に贅沢な奴だな」
失礼な奴だ、とばかりに、兄さんはどこか呆れたように首を左右に振った。
「また近いうちに来るね」
眉間に皺を寄せる兄さんにそう言って背を向け、マンションを後にしようとする僕だが、「優太」と、兄さんに呼び止められてしまう。
「なぁに?」
僕は肩越しに振り向く。
「ないと思うけどさ、もしmeeと知り合いで、お前がmeeに恋していたとしたら――」
「……したら?」
兄さんの何かを見透かすような瞳と言葉にドキマギしながら、僕は続く言葉を待った。
「中途半端にするなよ」
「ぇ?」
断固拒否でもされるのかと思っていた僕は、思わぬ兄さんの言葉におとぼけ顔を晒す。
「色恋沙汰なんてもんは、人の人生を光にも闇にも落とすことがある。お前だけが傷ついて終わることもあれば、相手だけが大きく傷つくこともある。ましてや相手は、芸能界で生きている世界線が違う奴だ。失うものも多いだろう。興味本位で近づくもんじゃねーよ」
「――」
僕は兄さんの言葉に現実を突きつけられたような気がして、思わず無言になってしまう。
「どんな代償も覚悟の上なら、死ぬ気で進め。但し、自分が相手の一番の理解者であること、自分が一番相手を愛すること。自分が一番に相手を守ること。そして、自分が一番、相手を笑顔にするんだって決めろ。中途半端にするなよ」
「……将来、大切な人が出来た時に、その言葉を噛み締めて進むよ」
僕は美月さんのことを悟られないように、そう返事をして、力のない笑みを浮かべた。
「次、肉じゃが喰いてーから、よろしくな」
兄さんは、話しは終わりだとばかりに全てを切り替え、屈託のない笑顔を見せながら、手の平をお腹前で左右に振った。
「分かったよ」
僕は笑顔で頷き、背を向ける。
玄関のドアノブに手をかけた僕は、「兄さん」と力なく呼びかけた。
「どうした?」
「ありがとう」
「……お前の人生だよ」
兄さんはそう言って、換気扇を止め、寝室へと戻っていく。
僕は兄さんの大人な言動にどこか子供じみた悔しさと、守られている安心感と、信頼されている嬉しさがない交ぜとなった感情を昇華しきれぬまま、マンションを後にした。
†
八王子にある築五十年以上の二階建てアパート、スミレ荘に帰宅した僕は、慣れ親しんだ畳に腰を下ろす。
高級ホテルのような兄さんの家との違いは歴然。
家賃は二万円弱。押し入れ付きの和室六帖。キッチン三帖。お手洗いはついてはいるが、シャワーすらない。毎日大学の帰りに銭湯によって、清潔さを維持しているため、けして悪臭を漂わせてはいない。
季節は秋口。
隙間風の多い部屋はあのマンションよりも肌寒いが、コタツがあるのでなんてことはない。いざとなれば、エアコンをつければいい。エアコンが付属されていたのはありがたかった。
近所にはコンビニや薬局、少し出向けば、色々な商店もある。
僕の現在の目的は、無事に大学を卒業することのため、さして大きな問題はないが、今は少し事情が変わってきたかもしれない。
「こんな家に住んでいる凡人大学生と、世界的モデルの美少女。兄さんならまだしも……僕じゃ釣り合わないよね」
投げやりに倒れる僕の口から盛大な溜息が零れ落ちる。
嘆いても仕方がない。出会ってしまったのだから。
すでに縁が出来ている。それだけでも凄いことなのではないだろうか? 美月さんとどんなに出会いたいと願っていても、出会うことすら出来ていない人は、星の数ほどいるはずだ。
今すぐどうこうなりたいわけじゃない。ただ、知りたいのだ。彼女のことを。
彼女がどんな人で、何が好きで、どんなふうに笑うのかを。
「……めげない。言い訳しない。前を向く。チャンスは見るものではなく、掴むもの」
僕は幼少期から兄さんに言われてきた言葉を並び立てる。そうすることで、気分が上向きになれる気がした。
何をすればいいのか分からない。今すぐに美月さんに見合う男になれるわけでもないし、中条さんに認められるわけでもない。それでも僕は前に進むしかない。その為には、今の僕にできることを、ただ淡々とこなしてゆくしかない。
「頑張れ」
僕は両頬を両手でパチパチと叩いて気合いを入れ、指文字と手話の勉強を始めるのだった。
三日後――。
「ぇ?」
深夜二時。プラージュ・零の三十三階にあるプール施設に訪れた僕を待っていたのは、中条さんではなく、美月さんだった。
リクライニングのプールサイドチェアにちょこんと腰を下ろしていた美月さんは僕に気がつき、美しく口角を上げて微笑む。
「えっと、あの」
僕は予想もしていなかった美月さんの登場に、顔の周りで両手をわちゃわちゃさせてテンパってしまう。
そんな僕が可笑しいのか、美月さんは音のない笑顔を少し溢す。その笑顔は想像していたよりも幼く見え、より僕の心を弾ませた。
美月さんに両掌を見せながら、暗転するように顔の前で交差させる。これが、手話で夜を表している。
次に、向い合せた両人差し指達をお辞儀をするように曲げる。これが挨拶。
前者が夜で後者が挨拶。夜と挨拶で[こんばんは]となる。
指文字と違って二種類の動作だけしか要らないため、指文字よりもはるかにテンポよく会話が出来る。もちろん、手話を習得していればの話だが。
[こんばんは]
美月さんは僕の挨拶を見て嬉しそうに微笑み、同じ仕草で挨拶を返してくれる。
右手を横向きピースサイン。左人差し指を中指につける。〒マークに見える形だ。その形のまま手前に腕を引く。
その次に、胸の前で左手の甲に右手を置き、そのまま跳ね上げるように垂直に上げる。すぐに両掌をお腹の辺りで組むと、会釈をする。濡れていないアクアマリンの髪がサラサラと肩から流れ落ちてゆく。まるで穏やかな波のようだった。
手紙+ありがとう。ということは、手紙を受け取ってくれたということだろう。
読み解くことは出来たが、今の僕には返す言葉を持ち合わせていない。
「えっと、あの」
口元の周りでどうしようもない両手を弄ばせながら、視線をさ迷わせる。筆談するにも、ボールペン一本すら持ち合わせていない。かといって、自分の髪の毛を引っこ抜いて床に文字を描いていくのは狂気すぎる。
美月さんは不安そうな顔で小首を傾げる。
「ぁ!」
右手を横向きピースサイン。その後に、右の中指に左人差し指をつける。〒マークに見える形で手紙を表す。たぶん、自分の方に腕を引くと手紙をもらう、腕を前に出すと手紙を送る。という意味になるはずだ。だから僕は真ん中で維持をする。[手紙]
親指を曲げ、四本の指を横向きに伸ばしたまま、美月さん手の甲を向ける。[よ]
人差し指で十一時の方角から斜めに下げ、そのまま十時の方角にカーブさせるように人差し指を上げる。相手側から、カタカナの「ン」に見えるようになるはずだ。
[で]は分からないから空書。
美月さんに手の甲を見せ、二時の方角に上向きに親指を伸ばし、残り四本指を揃えて横向きに倒す。[く]
手の平を見せ、親指と一指し指を上向きに伸ばし、他指は握る。[れ]
美月さんに親指以外を揃えて手の平を向ける。[て]
胸の前で左手の甲に右手を置き、そのまま跳ね上げるように垂直に上げる。すぐに両掌をお腹の辺りで組むと、会釈をして満面の笑顔を見せる。これが、[ありがとう]と言う意味となる。
[手紙読んでくれてありがとう]
手話、指文字、空書。あらゆる方法を使い、僕はなんとか美月さんに想いを伝えた。
僕の言葉が伝わったのか、美月さんは笑顔で何かを伝えてきてくれる。だが申し訳ないことに、今の僕に手話を読み解くことが出来ない。
「そこまでね」
第三者の声がプールに響く。冷静さと色香が含まれる凛とした声音だ。
後ろを振り向くと、胸下辺りで腕を組んだスーツ姿の中条さんが立っていた。
「優太君、ゲームオーバーよ」
中条さんはそう言って僕の隣を通り過ぎ、美月さんの前に立つ。
何やら二人は指や表情を動かし、会話を交わし合っているようだが、僕にはてんで理解が出来ない。
「後で話があるから、優太君はココにいなさい」
美月さんとのお話が終わったのか、中条さんが振り向いて僕と向き合う。
「ぇ?」
僕は中条さんの登場と言葉に素っ頓狂な声を出し、間抜け面を晒す。
「聞こえなかったのなら、そのまま帰ってくれてもいいのよ?」
「い、います! ずっと」
「ずっといたらストーカーよ」
中条さんは焦って前のめりで答える僕の言葉を冷静に突っ込み、茶化すような微笑を浮かべた。
「いや、それは……」
次の言葉を困る僕になどかまっている暇はないとばかりに、中条さんは再び美月さんと向き合った。
「み・つ・き」
中条さんは、ゆっくり美月さんの名前を呼ぶと、芸能人が結婚指輪でも見せるように左手の平を美月さんに見せ、自分の方へ腕を引く。それが手話として、何らかの意味を差しているのか、ただのジェスチャーなのかさえ、今の僕には分からなかった。
下唇を少し噛む美月さんは小さく頷く。その表情は、どこか悲しくて寂し気だった。
中条さんはそんな美月さんに眉根を下げ、小さく頷き、先へ歩く。その後ろを美月さんがついていく。僕を通り過ぎる二人からは、シャネルの香水とフローラルシャボンが混じり合った香りが漂う。
香りだけ残していく二人の背中が見えなくなるのはすぐなのに、待っている時間は嫌に長く感じた。
†
「優太君」
同じ場所で突っ立って待っていた僕の背中に声がかけられる。
振り向くと中条さんがいた。美月さんを部屋まで送っていったのだろう。
「ちゃんといたのね」
「はい」
「美月と話してどうだったかしら?」
「それは……」
ほんの少しでも話せて嬉しかったのは事実だが、今の自分ではどうしようもないと実感したのも、また事実である。
「まだ美月と話したい?」
中条さんの問いに深く頷く。
「でも、君には話す方法がないんじゃないかしら」
「……」
中条さんの言葉に、ぐぅの音も出ない。それでも、僕は言葉を絞り出す。
「今すぐには無理でも、これから方法を取得していきます。それまでは筆談で……」
「美月は文字が得意じゃないのよ」
中条さんは僕の言葉を掻き消すように言った。
「ぇ?」
僕は中条さんの言葉の意味が理解できず、深い答えを求めるように聞き返してしまう。
「これは、美月から君へ」
中条さんは僕の疑問には答えることなく、一通の手紙を差し出した。
夜空に星屑のような星々を隠すような曇り空と、右斜め上に三日月がプリントされた封筒だった。
「もらってもいいんですか?」
僕は思わぬものを差し出され、きょとん顔で首を傾げる。
「君がいらないのなら、美月に返すけど」
中条さんは僕をからかうように、封筒を持っていた腕を自分の胸に引き寄せようとする。
「い、いただきますッ!」
僕は慌てて、半ば中条さんの手から手紙を受け取った。
「⁉」
受け取った際、裏側に書いてあった宛名の字が目に入り、思わずハッとする。
「ふふふ。想像通りの反応ね。中を見たらもっと驚くでしょうね」
「ぇ?」
美月さんが書いた文章の中身さえも確認済みだと言うことに、多少の驚きが零れる。
「確認するのは当たり前でしょ? 出来うることなら、今の美月を他者へ混じり合わせたくないのだから」
「それは、美月さんがモデルだからですか?」
「あら、もう知ったのね」
中条さんは、意外と早かったわね。とでも言いたげな顔で、ほんのり目を見開く。
「兄さんが持っていた雑誌で見ました」
僕は起きた出来事そのままに答える。
「失礼だけど、お兄さんはなにをされている方?」
「……言いたくありません」
正直に答えても良かったのだが、悪いイメージを持って欲しくないと思い、つい口つぐんでしまう。高校生のとき、教員に兄さんの業種を知られて白い目で見られたことがある。若い子であるほど抵抗はないだろうが、酸いも甘いも知り尽くした大人が僕達に向ける目は冷たい。
「あぁ、夜の住民なのね」
「⁉ ぼ、僕何も言っていません」
俯いていた僕は勢いよく顔を上げ、やや早口で言う。それはもう肯定しているも同然だった。
「ここに住んでいる住民は著名人や社長。医学や弁護の道で生きている人が多いのよ。業種すら言えないのは、君が何処かで他人の目を気にしているから。人によって、夜の住民として生きてゆく人を毛嫌いする人もいるものね。君のお兄さんがどれほどの立場にいるか分からないけれど、ココに住むくらいだもの。それなりの地位を築き上げたのでしょう? その事に関して、私は尊敬の意を示すわ。例え、どんな働き方をしていようともね。どんな仕事でもそれなりの地位を築くことは、生半可な気持ちでは出来ない。競争率が激しい世界で在ればあるほどね。もし君がお兄さんを隠すべき対象としているのなら、私は君を軽蔑するわ。お兄さんがいてこそ、今の君がいるはずではないのかしら? 美月と距離を縮めるより、お兄さんとの心の距離を縮めた方がいいんじゃない? また一週間後、同じ時間、ココで」
中条さんは話したいことだけ話し終えると、颯爽とこの場を後にした。
残された僕は、しばし呆然と突っ立っていることしかできなかった。
†
兄さんの寝室。
僕が大の字になっても、寝返りを豪快に打っても、充分すぎるほどゆとりのある外国製キングサイズベッド。僕はそこにうつ伏せで倒れ込むように、ダイブした。
美月さんが書いてくれたという手紙は、僕のバッグにしまってある。現在、手放しで喜んで小躍り出来る程の心境には至れない。
――業種すら言えないのは、君が何処かで他の目を気にしているから。
――もし君がお兄さんを隠すべき対象としているのなら、軽蔑するわ。お兄さんがいてこそ、今の君のはずではないのかしら?
中条さんに言われた言葉が僕の頭でループする。
確かに、僕は兄さんの仕事を周りに隠してきた。
僕は本来、父の姉の家にお世話になっていくはずだった。
実際、両親が無くなってすぐ、三ヶ月間お世話になっていた。だが父の姉である美保さんには、小学校三年生の子供、海人君がいて、すでに温かい家庭が出来上がっていた。そこにいる僕は、異物のような存在。
ありがたいことに、美保さん達は僕を温かく迎え入れてくれていたし、温かく接してくれていた。だがそれは表側でしかなかった。
裏側では、美保さん夫妻が資金面に困っていることを知っていたし、海人君は自分の母親が取られてしまうのではないかと、僕に警戒心むき出しだった。
正直、肩身が狭くて息苦しかった。ありがたいことだと充分に理解していながらも、これ以上迷惑をかけてはいけないと、常にいい子の仮面を被り続けないといけない。
僕の家ではないから、簡単に友人を呼べない。僕の両親ではないから、授業参観日のお知らせは秘密にした。お小遣いをもらうことも申し訳なく、受け取ったお小遣いは使わずに貯金していたし、小さくなってしまった上履きを無理やり履いていた。
何より、心許せて話せる人がいない。という毎日が辛かったのだ。
そんな日々を半年間続けていた僕を救ってくれたのは兄さんだった。
ホストの仕事が軌道に乗ったから一緒に住もう。と迎えに来てくれた兄さんは、僕にとってヒーローだった。
その時の兄さんは、黒縁眼鏡と黒髪のウィッグをかぶり、夜の仕事を伏せて美保さん夫妻との話をつけた。何故そこまでして業種を隠し通したのか、僕は半月後に理解することになった。
――兄が夜の仕事をしていると、弟もロクなのに育たない。
熱を出した兄さんの看病をして遅刻してしまった僕に、担任が放った言葉だ。
――あの子よ、お兄ちゃんがホストしてるって子。
――教育上悪いわね。うちの子に悪影響を及ぼさないといいのだけれど。
授業参観時にコソコソと陰口を叩くクラスメイトの母親達。
――さっすが、ホスト様の弟君。女の子に声をかけるのがお上手。それ、本当に笹木のか?
女子クラスメイトが落とした消しゴムを拾って手渡しただけで、男子クラスメイトが口笛を吹き茶化す。もちろん、僕が事前に用意した消しゴムなどではない。
そう言った件があり、高校は地元より遠い場所を選び、そこでは兄さんの存在を隠していた。
授業参観や三者面談日を隠してしまうこともあったし、友人を泊まらせることもなかった。
感謝はしていたが、兄の存在を堂々と明かすことが出来なかったのだ。
「兄さん、ごめん……」
申し訳なさと、自分の弱さで涙が零れ落ちる。
自然と零れ落ちた言葉が兄さんに届くことはない。
「……手紙」
一人でしばし泣いた後、僕は美月さんからの手紙を受け取っていたことを思い出す。
ずぴっと鼻水を啜り上げ、服の袖で涙を拭った僕は、フローリングに腰を下ろす。
「なんて書いてあるんだろう?」
ベッドサイドテーブルの脚に寄りかけるようにして置いてあった、ショルダーバックにしまっていた手紙を、おずおずと取り出す。
封筒の裏に貼られていた満月のシールをそっと剥がし、中身を取り出す。
「ふぅ」
僕は緊張の糸を解すように、小さな息を吐く。
四つ折りにされていた便箋を広げた瞬間、僕は目を見開くことになった。
「ぇ?」
思わず戸惑いの声を溢してしまう。
そこに綴られていた文字は、ほとんどがひらがなだったのだ。
【白崎優太さま。
白崎優太さま、ごきげんよう。
おてがみ、ありがとうございました。
とても、うれしかったです。
わたしのなまえは、天海 美月とかいて、あまがい みつき。といいます。
白崎優太さまのこと、ずっとおぼえています。
わたしのことを、おぼえてもらえていたこと、すごくうれしいです。
白崎優太さまは、このマンションにすんでいるんですか?
わたしは、中条さんのところで、くらしています。中条さんは、わたしを、2ばんめに、たすけてくれたひとです。おしごとをしている中条さんは、とても、カッコいいです。
わたしはいま、中条さんに、いろいろなことを、おしえてもらっています。
中条さんは、いつもおしごとが、いそがしいです。
わたしは、中条さんがおしごとのときは、このマンションで、ずっとひとりですごしています。
中条さんがおしごとのときは、中条さんのおへやで、すごしています。
白崎優太さまは、ふだん、なにをされていますか?
わたしは、ひとりでおうちのなかにいると、さみしいときがあります。
もしよかったら、またこうして、おはなしをしてもらえると、とってもうれしいです。
天海 美月】
手紙に綴られていた文字達は達筆どころか、文字を覚えたばかりの小学生のようだった。文字が得意じゃない。と中条さんが言って通り、漢字は人名しかない。
何故、僕だけが“さま”付けなのかが分からない。中条さんならまだしも。
中条さんが二番目に美月さんを助けた、とは一体どういうことなのだろう? 二度ということは、一度目もあるのだろう。だが美月さんの分面通りならば、一番目に助けてくれた人は、中条さんではなかったということになる。
モデルとして活動しているのにも関わらず、なぜ引き籠っているのだろう?
まさか、誰かに命でも狙われているのではないだろうか?
僕は美月さんに対し、分らぬことが増えてしまったと同時に、美月さん身に対する心配や不安事が増え、眉間に皺を寄せる。
便箋を戻した封筒をバッグにそっとしまった僕は、のそのそとベッドによじ登るようにあがり、枕に突っ伏した。枕から兄さんがつけている香水の匂いがする。
ウッド系の甘さと色気のある大人の男性の香り。それは、白崎龍優ではなく、『龍』の香りだ。
その香りに酔いながら、美月さんになんて返事を書こうかと頭を悩ませる。が、いつのまにか浅い眠りについてしまった。
†
一週間後――。
深夜二時――。
僕は美月さんに宛てた手紙を手に、マンションのプールへと訪れていた。
「きたのね」
リクライニングのプールサイドチェアで、組んだ足を斜めにずらして浅く腰掛けていた中条さんは、僕に視線を向ける。
「はい。勿論です。ぁ、こんばんは」
中条さんに歩み寄りながら答える僕は、思い出したかのように、挨拶の言葉を付け足した後、視線をさ迷わせた。
「こんばんは。……どこを探しても、ここに美月はいないわよ。今日は連れてきていないもの」
「!」
中条さんから全てを見透かされているようで、ドキリと胸を跳ねさせて目を見開く。と同時に、中条さんに失礼なことをしてしまったと、胸の内で自分の行動に反省する。僕は慌てて軽く頭を左右に振って邪念を落とし、中条さんとの会話に意識を集中させた。
「美月からの手紙は読んだのかしら?」
「はい」
僕は小さく頷き、中条さんの目の前で両膝をつく。目上の方を見下ろす形で話すのは、失礼に値すると思ったからだ。多少膝が痛むものの、使用可能時間を終えたプール施設床には一滴の水滴も残っておらず、ズボンが濡れることはなかった。
「……真面目だこと」
中条さんは僕の意図を汲み取ったのか、刹那目を丸くさせ、微苦笑を浮かべた。
「ありがとうございます。褒め言葉として受け取っておきます」
「どうぞご自由に。それで? 美月の手紙を読んで、どう感じたのかしら?」
「どう……とは?」
僕は怪訝な顔で首を傾げる。
「そのままの意味よ。字が下手すぎる、なぜ人名しか漢字ではないのだろう? とか。……少しは、美月に幻滅したかしら?」
中条さんはどこか僕を試すかのようにそう問うと、そっと口端を上げる。
「いえ。驚きはしましたが、幻滅なんてしません」
僕は中条さんの瞳を見つめ、はっきりした口調で断言した。
「何故?」
微笑を浮かべる中条さんは、落ち着いた声音で問うてくる。
「今の僕は、美月さんのごく一部すら知らないからです。美月さんは帰国子女などで日本語が苦手なだけかも知れませんし。お手紙には、中条さんの事を二番目に助けてくれた人、と言う風に書いていましたから、事故かなんらかで言語記憶を失ってしまったのかもしれない。何かしらの病で、文字を書くことが難しいのかもしれない」
「……君、凄い想像力ね。感心するわ」
僕の答えが意外なものだったのか、中条さんは珍しく目を丸くさせて驚きの色を見せた。
「今僕の目の前に映り、僕の知りえる人は、その人の全てじゃない。知り合ってばかりであればあるほど、僕はその人の表しか知らないし、分からない。人は裏にこそ、その人の本質があり、その人が本来持つ魅力なんだ。だから、お前も人の本質を見抜き、魅力に気が付ける人であれ。本質を見抜き、その人に寄り添える優しい人であれ――というのが、ホストをしている兄の言葉であり、教えです」
僕の想像力が凄いわけじゃない。
あらゆる方向性を持って人を見ることで、人の本質に近づくことが出来ること。人の本質を見抜くことの大切さ。それに伴った想像力を養うこと。そういった方向性に僕を導き、示してくれた兄さんがいてこそ、今の僕がいるのだ。
「そう。お兄さんの存在を認めるのね」
中条さんは柔らかな笑みを口端に浮かべる。その口調は、いつもよりもほんの少し、柔らかい気がした。
「はい。僕は一度だって、兄を恥ずかしいと思ったことはないと思っていました。ただ、兄の存在を知った皆の反応が変化することが嫌だった。恐ろしかった。それを跳ね返すだけの強さが、僕にはなかったんです。きっと、それはどこかで兄の仕事を恥ずかしいものだとか、公にはしてはいけないんだとか、バレたらハブられる……とか、なんか、色々な思い込みがあったからだと思います」
僕は自分を情けなく思い、苦笑いまじりに話す。
「世の中は偏見の目ばかりよ。お客様の求めているモノを瞬時に見抜き、ソレを提供していくということは、口で表現するほど簡単なものじゃない。人の本質を見抜く目を養い、ソレを提供していけるスキルを磨き、臨機応変に対応出来る場数も踏んでこなければ、お客様一人をも満足させることなど出来ない。どの仕事も、上位に立つことは並大抵なことじゃないわ。美月のことをそんなに想像できるのなら、お兄さんのことも少し想像してみれば理解できるでしょ? これから先、お兄さんがどんなに偏見の目を向けられたとしても、君だけはお兄さんの見方でいてあげることね」
「はい!」
僕は中条さんの言葉に、力強く頷いた。
「それで、美月への手紙は? 持ってきたのでしょう?」
「ぁ、はい」
中条さんの言葉でハッとする僕は、グレーのフード付きパーカーのお腹ポケットに忍ばせていた手紙を取り出し、中条さんにそっと差し出すように手紙を見せる。
「確認しても?」
「どうぞ」
「そう。じゃぁ、遠慮なく」
手紙を受け取った中条さんは例のごとく、封筒に貼ったシール下半分を綺麗に剥がし、便箋に目を通してゆく。
【天海 美月 様
天海さん、こんにちは。
中条さんから、お手紙をうけとりました。おへんじ、ありがとうございます。とてもうれしかったです。
天海さんのお名前をしれたことも、おぼえていただけていたことも、うれしいです。
僕に“さま”をつけなくて大丈夫です。むしろ、つけないでいただけるとありがたいです。
僕はここのマンションにはすんでいません。僕は八王子にある、レトロなアパートにすんでいます。このマンションにすんでいるのは、8つ年上の兄です。僕はアルバイトをしながら、大学生をしています。せんもん大学ではありません。
兄はホストクラブでホストをしています。兄は夜から、あけがたまで、はたらいています。
僕は、兄のはたらいている姿をみたことはありませんが、たぶん、カッコいいのだと思います。
兄はおきゃくさまの笑顔ため、しんしてきマナーや英会話などをマスターしています。それだけではなく、毎日ニュースペーパーやテレビニュースなどで、せかいじょうせい、のことなどを、インプットしています。
かくいう僕は、マナーも英会話もにがてです。これからは僕ももっと、学びたいとおもいます。
兄は男性としてカッコよくなるため、美容や身体作りにも、よねんがありません。おなじ兄弟なのに、スタイルが全く違うので、ズルいです。兄さんを動物でたとえるなら、クロヒョウですが、僕はハムスターです。
お店ではカッコイイ、セクシーだとか言われているようですが、僕にとってのカッコいい、というかんじょうとは、少し、ちがうのかもしれません。
父と母は、僕が中学生のときに、天国へ旅立ちました。僕はしんせきの家にあずけられましたが、すでに大人になっていた兄は一人暮らしを。ひつぜんてきに、はなればなれとなりました。
はなれるとき、兄は「ぜったい、むかえにくるから。それまで待っていてくれ」と言いました。
その半年後、兄は僕をむかえにきてくれました。
そこから兄は僕が20才になるまで、僕をそだて、守ってくれました。いつだって僕を守ってくれた、カッコイイ兄です。
僕でよければ、またこうしてお話してもらえると、うれしいです。
白崎 優太】
「えらく赤裸々に書いたのね。書いてあることは、全てが本当のことなのかしら? あと、美月に合わせて平仮名を多くしたの?」
「えぇ。まぁ」
漢字が書けないのなら、漢字も読めない可能性があると思い、出来る限り平仮名にすることを心掛けてみた。それと、兄の存在を隠すこともしなかった。中条さんの言葉で、僕の心が入れ替わったからだ。
「相手のことを知りたいなら、まずは自分から心を開こう、ってこと?」
中条さんに図星を突かれた僕は、苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
「君がどんなに心を開いたところで、美月の過去は知れないわ。君も、私も……」
「ぇ?」
中条さんの言葉の意味が分からず、怪訝な顔で中条さんを見る。
僕だけならまだしも、なぜ中条さんまでもが、美月さんの過去を知れないのだろう?
「あの子にはね、過去の記憶がないのよ」
「え? どういうことですか?」
中条さんの返答に、ますます僕の眉間の皺が深くなるばかりだ。
「私と美月はなんの血の繋がりもない。あの子は私が拾った子だから」
「えっと、すみません。もう少し分かりやすく教えてもらえませんか? 拾ったって……捨て子、ということですか?」
中条さんかの唐突に明かされる話に、僕は戸惑う。
「えぇ。三ヵ月前のことよ。仕事に行き詰った私は、真夜中の海に行ったの。誰もいないはずの浜辺を歩いていたら、あの子が倒れていたのよ。それも、産まれたままの姿でね」
「⁉」
僕は中条さんの言葉に瞠目する。言葉が出てこない。
「誰かから乱暴に扱われたのかと考えたけれど、あの子の身体には、かすり傷一つ、跡一つついていなかったわ。自殺するにしても、一糸まとわぬ姿というのも可笑しすぎる。生きているようだったから、取り合ず警察に通報しようと、バックからスマホを取り出したらあの子が目を覚ましたのよ。話が聞けると安堵したのも束の間、あの子は何かを叫びながら転がるように逃げ回って、本当に大変だったわ。だって服を着ていないんだもの。事情を聞こうにも声が出せないし、砂に文字を書いてもらおうとしたけれど、あの子は文字が書けなかった」
中条さんは履いていた黒のパンプスに視線を落とし、落ち着いた口調でそう話す。
「天海美月。って書いていましたよね? ちゃんと自分の名前を憶えているようですし、今では文字も書けています。時期に記憶も戻るんじゃ……」
中条さんは僕の言葉を否定するように、重い息を小さく溢し、控えめに首を左右に振った。
「その名前は、私がつけたものよ。よくよく話を聞いたら、名前も年齢も覚えていないのよ。自分に家族がいるかどうかも分からないし、何故浜辺にいたのかも分からない。自身で分かっていることは、ある人を探していることと、人の体温に触れ合うことを嫌う。ただ、それだけ」
「ただそれだけって……」
僕は中条さんの話が信じがたくて、言葉が見つからない。質問しようにも、何を質問すべきか分からない。目の前にいる中条さんでさえ、美月さんの存在に戸惑っているようだった。
「……その後、警察へは?」
少しの間が開いてしまったが、僕はありきたりな質問を絞り出す。
「行っていないわ」
「何故ですか?」
「それは言えない」
「モデル業をしているのは、その影響ですか?」
深追いしても無駄だろうと、僕は質問を変えた。
「今はね。あの子の探している人が見つかるかもしれないし、あの子の保護者が見つかるかもしれない」
「今は?」
僕は中条さんの真意が分からず、首を傾げて問うしか出来ない。
「私は美月を表舞台に出すつもりはなかった。だけど、モデルが急に降板をして代理を探さなければいけなくなったことで、風向きが変わってしまった。洋服と広告のコンセプトにあった外国人モデルを一日で見つけ、来日させる必要があったのだけど、無理に等しい。国外と国内にいるモデルを探しに探していたら、美月が名乗りを上げたのよ。私も切羽詰まっていたし、クライアントのお眼鏡にもかなった。その後、想像以上の反響があってね」
「それだったら、もっと多くのメディアに多く」
「それはできないわ」
ぴしゃりと一刀両断する中条さんに、「なぜですか?」と問うてみる。
「大々的に人気になってしまうと、後に面倒なことになってしまう。家にマスコミをはられたり、罠に駆けられたりなんて面倒はごめんだわ。それに、あの子を多くの人に携わらせる分だけ、あの子に危険が及ぶわ。命のね」
中条さんは、“命のね”という言葉を強調させるように言って、僕に視線を向ける。その瞳は生きているものの、顔色にはどこか疲れを感じさせた。
「どういうことですか?」
「さぁ、知りたければあの子から聞きなさい。簡単には教えないでしょうけど」
中条さんは乾いた笑みを浮かべる。その瞳には、脆さが含まれているように感じた。
「……中条さんは知っているんですか?」
「深く知っているわけじゃないわ」
「そうですか」
自然と僕の口から重い溜息交じりの頷きが零れ落ちる。中条さんでさえ知らないのに、僕がソレを知れる日などくるのだろうかと、少し弱気になってしまう。
「この話を聞いてもなお、美月と親しくなりたい? 君はまだ若い一般大学生。秘密を抱えた謎の美少女と親しくなってボロボロになるより、もっと楽な道があるんじゃない?」
「どうしてボロボロになると決めつけるんですか?」
少しの苛立ちが声音に含まれてしまう。
「目に見えているからよ」
「今だけで決めつけられた未来なんてものは、ないと思います。人生、何が起きるか分からない」
僕は一般的と言われる穏やかな幸せの道を歩むはずだった。だけど、ある日突然両親を失い、兄と離れ離れで暮らすこととなった。
僕は一年に二~三回程会う間柄の美保さんの家で暮らすこととなり、兄さんはホストとなった――想像もしていなかったことばかりが起きる。美月さんとの出会いだってそうだ。今の延長戦にある未来など、この世には存在しない。
「顔に似合わず頑固ね。手話の方は?」
中条さんはこれ以上話しても意味がないわね、とばかりに小さく息をつく。
「か、会話出来るほどにはまだ」
いきなり逸れた話に対応出来ず、僕はどもりながら答えた。
「そう。取り合えず、これは美月に届けておくわね。また一週間後。朝五時、マンションのエントランスへ来なさい。じゃぁ、おやすみ」
話しは終わりだとばかりに、中条さんはヒール音を鳴らして去っていった。
プールに一人残された僕は、緊張の糸から解放されたように、その場へ大の字になって寝転ぶ。
全身に床の冷たさが沁みこんでゆく。ガラス張りの窓から見える満月は、半月雲隠れしていた。
†
一週間後。
マンション、プラージュ・零。エントランス。
ブドウを主としたステンドグラスランプが四台あり、一台ずつ端に置かれている。ランプが置かれた中央には、ワイン色のベアロ生地の背もたれ付き椅子が十六脚あり、その中央には丸いガラステーブルが四脚。カウンター席が合計四席出来るように、それぞれ設置されていた。
僕は左上端の席の椅子に腰を下ろす。座り心地が驚くほどふかふかしていて、もはやベッドのようだった。
落ち着かないまま待ち人を待っていると、ほどなくして黒のパンツスーツスタイルをした中条さんが現れた。
「おはようございます」
勢いよく立ち上がる僕は、お行儀よく会釈をする。
「おはよう。何も飲んでいないのね」
テーブルを流し見しながらそう言う中条さんに、着席する気配はない。そのため僕も、立ったまま話を続けた。
「はい。僕はここの住民でも来客でもないので」
ここのエントランスでは、コンシェルジュにお願いをすれば、コーヒーなどのドリンクがもらえるサービスがあるらしい。堂々とお願いできる器は、今の僕にはない。
「そう」
と相槌を打った中条さんは、持っていた黒色のクラッチバックから、一通の封筒を取り出した。
「これ、美月からの返事」
「もらっていいんですか?」
あっさり美月さんの手紙が差し出されることに戸惑う僕は、ついつい弱気に確認してしまう。
「いらないなら持って帰るけど?」
「ぇ、いります! 下さいッ」
一度差し出した手紙を、再びバッグに終おうとする中条さんに慌てた僕は、前のめりで両手を差し出し、頭を下げる。
「いるなら最初っからそう示しなさい」
中条さんは、しょうがない子ね、とばかりに肩を竦めて見せる。
「は、はい。すみません」
「弱気でいるばかりでは、掴めるモノも掴めなくなるわよ」
中条さんはそう言いながら、余裕ある大人な笑みを浮かべ、僕の広げられた僕の両手に、そっと手紙を置いた。
「ありがとうございます」
ほっと安堵する僕はそっと手紙を握り、自分の胸に当てた。
前回は、夜空と月が印象的な封筒だったが、今回は太陽が昇った穏やかな朝の海が印象的な封筒だった。美月さんは海が好きなのだろうか?
「次は二ヵ月後」
「二ヵ月後⁉」
穏やかな喜びを噛み締める間もない驚きの言葉に対し、思わずオウム返しをしてしまう。
「何か問題でも? むしろ、好都合じゃない?」
「好都合?」
「この与えられた二ヶ月間で、出来ることがあるでしょ? ただ何もせずに、待て、をするだけでは、ただの犬よ」
「犬……」
「じゃぁ、これで失礼するわね」
よほど忙しいのか、中条さんは颯爽とこの場を後にした。
残された僕は手紙を手に、この二ヵ月で何をできるのかをしばし考える。ただの犬で終わるのだけは、勘弁したい。
小さな息を吐きつつ、手紙をバッグにしまった僕は、静かにマンションを後にした。
†
大学からアパートに帰宅した僕は畳の上に横たわる。美月さんからの手紙は、まだ未開封のままだ。
「疲れたなぁ」
苦手な学科に頭を悩ませた本日、脳みそはパンク寸前だ。出前でも注文したいが、そこは節約。冷凍ご飯と冷凍カレーをレンジで温める。
その間に、美月さんからの手紙を戦々恐々で開封した。
【白崎 優太 さま】
宛名に様がついていたことに、僕は早速ガクリと肩を落としつつ、先を読み進める。
【おてがみ、うけとりました。おへんじ、ありがとうございます。とても、うれしかったです】
それはなによりです。と内心で頷き、視線を泳がせる。
【さま。づけしないほうがよい、ということですので、優太さん。と、およびいたしますね。私のことは、美月。と、よんでもらえると うれしいです。天海。とよんでくださるかたはすくなく、あまりなれていないのです】
「ふ、不意打ちっ」
いきなり名前で呼ばれる嬉しい驚きにトキメキを覚える。フルネームの様づけを思うと、驚きの距離感を感じる。呼ばれなれていないということは、中条さん以外には『mee』と呼ばれているのだろうか?
【おなじマンションでは、なかったのですね。また出会えるきかいがあるのではないか、ときたいしてしまいました。出会えた日は、ぐうぜん、だったのですね。またいつか、出会えると うれしいなぁ、とおもいます】
そこまで読み進めた僕は、「ぁ」と声を上げる。美月さんが名前以外の漢字を書けていることへの驚きだ。
【カッコイイお兄さんなのですね。
ところで、ホスト、というおしごとは、どういうおしごとなのですか?】
「どういう……」
美月さんの質問に首を捻る。
僕は一度も兄さんが仕事をしている姿を見たことがない。何をしているのか、どういう仕事なのか、よくよくは理解していない。
兄さんの職場にお客さんとして出向くには、中々に勇気があることだ。そもそも、僕はそこまで裕福ではない。スーパーの見切り品やセール調べに余念がないし、自炊自炊の毎日。
客として行って、お金が足りなくなってしまっては大変だ。兄さんに迷惑はかけたくない。
かと言って、ホストとして潜入するわけにもいかないし、過去の職業体験学校行事であるわけもない。
ホストクラブというのは、本当に未知の世界だし、僕にとってホストの兄さんは未知なのだ。
僕が知っているのは、疲れ果てて帰宅した兄さんが玄関やソファで眠っている姿。出勤前の姿。スマホの画面に険しい顔をしている姿。後は、兄としての素顔しか知らない。
仕事をする兄さんを見て見たい気持ちもあるが、兄さんの世界に足を踏み入れる気にはなれなかった。兄さんも、僕が訪れることを望んでいる気もしない。
【ごりょうしんのこと、とてもかなしいです。私のおとうさん、おかあさんは、てんごくへ たびだっています。すこし、おきもち、わかります。ただ、優太さんが一人ぼっちにならなくて、よかったです。おにいさまが、優太さんのおそばにいてくれて、よかったなとおもいます。
2人でいられれば、つらいことはわけあい、たすけあい、ささえあいができます。2人いれば、笑顔も2ばい。うれしいことも、たのしいことも2ばい、になりますものね。
私も、中条さんがそばにいてくれたから、色々なことをのりこえられています。出会ったよるから、たすけられて、いまでもずっと、たすけられています。
私は今、ときおり中条さんがデザインしている、おようふくのモデルをしています。私はモデルみならい、のようなものですが、少しでも、中条さんのおてつだいができたらいいなぁと、思っています。
いつか私がいなくなるまえに、中条さんにおんがえしができたらいいなぁと思っていますが、いまはまだまだ、むずかしいです。
今はまだ、優太さんと会うことはいけないと、中条さんにいわれています。会ったところで、どうしようもないでしょ。というのです。私は優太さんとお会いできるだけで、とてもうれしいのですが。
おてがみは、中条さんに1どよんでもらわないとダメなのが、それが、すこしはずかしいです。だけどこうして、おはなしできることは、すなおにうれしいです】
勉強したのだろうか? 前回よりも漢字が増えていること、文字のバランスが整ってきていることに驚く。
――ただ何もせず、待て、をするだけでは犬よ。
今朝中条さんに言われた言葉が脳裏に過る。
美月さんは僕の返事が届くまでのあいだ、漢字や文字の勉強をしていたのだ。僕はと言えば、手話どころか、指文字でさえもマスター出来ていない。
僕は自身を呆れるように小さな息を吐き、丁寧に便箋を封筒に戻し、バッグにしまった。
手話をマスターしたい気持ちはあれど、中々学べていない。それは、大学の勉強やアルバイト、レポート提出や日常など何かにつけて理由をつけていた気がする。
手話を練習しても、役に立たなかったら無意味だと。美月さんと親しくなりたいと思いながらも、親しくなった先の未来があやふやで進めない。きっと、美月さんへの気持ちが不透明で、僕の覚悟が足りないのだろう。
自分の不甲斐なさに項垂れる僕に対し、まるで声援をおくるかのようにして、電子レンジが高らかな音をだす。僕は重い腰をあげ、夕食の準備をする。
特売で一番安くなっていた辛口カレーのスパイスの香りが、落ちた気分を刺激した。
これを食べたら勉強しよう。まずは指文字をマスターするんだ。大丈夫。二ヵ月の猶予がある。日常会話を学べるくらいの時間はあるはずだ。あるはず、ではなく、確実に時間は存在する。それを生かすか殺すかは僕次第なんだ。
二ヵ月。それは、僕が持つ美月さんへの想いの覚悟を試すために与えられた期間なのだと思う。
僕は腹ごしらえと気合い注入とばかりに、カレーライスを一口、口に運ぶ。
特売品激辛カレー。さほど辛味に強くない僕には刺激が強すぎて、自然と涙がでた。その涙に、悔しさと後悔の色が混じっていることに気がつかぬふりをして、僕はカレーライスを口に運び続けた。
†
翌日。
「兄さん、少し聞いてもいい?」
僕はソファーで寛いでいた兄さんと向き合うように、カーペットに正座する。
「な、なに? 改まって。怖ぇんだけど」
「怖くないよ。……多分」
「多分ってなんだよ、多分って」
「僕、もう二十歳になったんだ。大学生になった」
「は? 知ってるよ。バカにしてんのかよ?」
僕のスタートダッシュが悪く、兄さんは意味不明だとばかりに、眉間に皺を寄せた。
「馬鹿になんてしてないよ。これからが真剣な話なの!」
「真剣な話? 結婚でもすんのか? ご祝儀のおひねりとか?」
「違うよっ。まだ結婚しないし、ご祝儀のおひねりもしない。ちょっとは真面目に大人しく聞いてよっ」
全然話が前に進まないことに不服を覚える僕は、前のめりになって言った。
「へいへい」
寝転がっていた兄さんは起き上がり、足を開いて座る。真面目に話を聞いてくれるのだろうが、見た目も相まって皇帝オーラが凄い。ただのスゥエットのはずなのに。
「僕、このマンションみたいに凄い家ではないけど、一人暮らしをしてる」
「それも知ってるつーの。同棲もお金の援助も断られたしな」
兄さんはどこか不貞腐れているように言った。高校卒業後、めっきり兄さんに頼らなかったのを根に持っているのだろうか?
「兄さんは、僕を守るためにホストになったんだよね?」
「嗚呼~、未だホストをやってる理由を聞き出そうとしてるのか?」
話しの芯をつかれ、頷くことしかできない。
「……お前、取引業は向いてなさそうだな。本題に入るのが下手すぎる」
「そ、そこは今関係ないでしょ」
僕は気恥ずかしさでどもる。
「償いだよ」
「ぇ?」
思いもしない兄さんの言葉に戸惑う。償いとはどういうことなのだろう? お客様と何かあったのだろうか? それとも他の人と? 僕は頭の中でぐるぐると思考を張り巡らせてみるが、分かるわけもなかった。
「優太は知らないだろ?」
「何を?」
小首を傾げ、深い話を求める。
「親父が無職だったことを」
「ぇ?」
思わぬ事実に驚きを隠せない僕に、兄さんは話を続ける。
「親父は優太が五歳の時に会社をクビになった」
「どういうこと? お父さん、日中は家にいなかったじゃん。スーツ着て毎朝家をでていたし」
「俺達に隠すため、日中は家を開けていたんだ」
「家を空けてどこに? 次の仕事を探さなかったの? そもそも、なんでクビにさせられたわけ? お父さん、会社の次長だったんだから、早々に辞めさせられないはずだよね?」
「リークされたから」
「リーク?」
兄さんは僕のオウム返しに対し、苦虫を踏み潰したような顔で後ろ髪を掻く。
「親父は会社の若い女性と浮気をしていたんだよ」
「は?」
思いもしない言葉に、僕は鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔で兄さんを見る。
「だから、浮気していたんだよ。二十歳も若い女性社員に手を出した。それを知った女性社員が情報を集め、部長にリークした。決定的な証拠を突きつけられちゃ、クビにせざるを得ないだろう。それをネットに流されたらたまったもんじゃない」
「そ、それでどうしたの?」
兄さんは戸惑いを隠しきれない僕に答えを与え続けてくれる。
「どうもしねーよ。親父は仕事をクビにさせられ、俺達を騙すように過ごしていた。しかも、裏で浮気女性と仲良くしていた……というのは、葬式の日に知ったことだ。親父が会社を辞めて半年後には、親父とおふくろは離婚していた。親父が海外赴任するって話を聞かされたこと覚えてないか? 親父がずっと家を空けていたときがあっただろ?」
「うん。お父さんが帰ってこないことにぐずったら、お父さんは海外でお仕事しているからしばらく会えないのよ、ってお母さんが言ってた。それで、お母さんのお葬式の日に現れなかった父さんの事を兄さんに聞いたら、もう亡くなっていたって」
僕は過去の記憶を引っ張って話すそれが、僕の過去の事実だった。それ以外の話は、僕は知らない。
「嗚呼、そうだ。だが事実は少し異なっている」
「どういうこと?」
僕は怪訝な顔で首を捻る。
「……おふくろ達は、親父が会社をクビになった一ヵ月後には離婚をしていたんだ。家庭を失った親父は、浮気相手の家に転がり込んでいたらしい。その半年後、親父は事故死。浮気相手にゾッコンで再婚していた親父の遺産は遺言書によって、全て再婚相手の元に行ってしまった。おふくろは幼い俺達に事実を話せるわけもなく、お前には出張だと話し、俺には親父が事故死したという事だけを話した。俺もそれが事実であると信じていた。だが真実と思っていたものは、虚像だったってことだよ。母さんはその事実と俺達についた嘘を抱えて、あの日までずっと、俺達を育ててくれていたんだ。一年間は貯金でやりくりしていたけど、働かざるを得なくなった。その時の俺は十四歳で中学二年。中退して働くことは許されず、母さんが一人で頑張っていた」
「……知らなかった。全く」
僕は両肩を落とす。
「当たり前だ。その時の優太はまだ六歳だったからな。俺だって、親父の真実を知ったのは母さんの葬式の日だった」
「母さんは過労死だったって聞かされていたけど?」
「――まぁ、ある種な」
兄さんは僕から視線を逸らす。
「まだ何か隠しているの?」
僕は兄さんの言葉の間と自嘲気味な笑みを変に思い、詰め寄るように問いかけた。
「……おふくろは俺達を守るために、自殺したんだ」
「⁉」
瞠目して言葉を失う僕に、兄さんは話を続けた。
「おふくろは、多額の死亡保険をかけていた。追い込まれた母さんはその保険金を下ろすため、自ら命を落とした。その保険金の受取人は俺になっていたけれど、その時の俺は未成年。未成年が受取人である場合、親権者・または未成年後見人が手続きすることになっている。
本来、その保険金があれば俺が成人するまでやっていけたはずなんだ。だが後見人であるおふくろの姉さんは、保険金の半額を猫糞して、行方をくらました。俺は受け取った半額の保険金を使い、おふくろの葬式をあげた。
その後、俺は未来のことを見据え、しばらくの間は美保さんの力をかりた。美保さんに親父の事実を話したら償い精神が出たんだろうな。二つ返事で承諾してくれたよ。親父である弟の尻拭い、としか思ってなかったであろう美保さんの力を、そう長く借りるつもりはなかった。本当は、美保さんの力を借りずにいれたら最高だったんだけどな。あの時の俺では力不足だったから、すぐに現在の店で雇ってもらった。そこからは、お前の知るとおりだよ」
兄さんの話を聞いた僕は呆然とするしか出来ない。本題に入るまでの衝撃が大きすぎて、瞬時に次の話にいけない。
そんな僕の様子を複雑そうな顔で見つめていた兄さんは、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「優太、おっきくなったな。ありがとう」
「……なに、言ってんの? お礼言わなきゃいけないのはこっちじゃん!」
笑顔を見せてくる兄さんに少し苛立ち感じながら、僕はがぶりをふる。どうしてお礼を言われるのか意味が分からない。僕がいたから余計な負担がかかったはずなのに。今までの自分の能天気さと、無力さを悔いずにはいられない。
「いや、お前がいてくれたから、守り切りたい人がいたから、俺はここまでやってこられたんだ。お前の存在がいなかったら、きっと俺はロクな人生を歩まなかったはずだ」
「……兄さん、もういいんだよ」
僕の心を読み解くような言葉をかけてくる兄さん対し、僕は小さく首を横に振る。
「何が?」
「兄さん。もう、僕を守ってくれなくてもいいんだよ。自由に生きていいんだよ? 僕、覚えてるよ。小学校の頃、兄さんが獣医になりたがっていたこと。動物の本とか色々難しそうな本を学校で借りまくってたじゃん。その夢、叶えようとか思わないの? 今からでも遅くないんじゃないの?」
小首を傾げる兄さんへ届くように、僕は涙声になりながらも、真摯に言葉を投げかける。
「……そう、だな」
困ったように眉根を下げて笑みを浮かべる兄さんは、キッチンに足を向けた。煙草を吸うため、換気扇の電源を入れるのだろう。
「今更、獣医になろうなんて思わねーよ」
冷静な答えを返す兄さんはダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、煙草に火をつける。
「どうして? もう遅いの?」
「遅くはねーんじゃねぇ? やる気があれば、の話だけどな」
冷めて口調でそう言う兄さんは、テーブルに置いていたアンティーク調の横開きシガレットケースから、煙草を一本取り出して口に銜える。
「やる気を失ったってこと? そう言えば、償いってどういうこと?」
僕は兄さんと向き合うように、兄さんの正面の椅子に腰かける。
「母さんへの」
「?」
頭上でクエスチョンマークを浮かべる僕に、煙草に火をつけた兄さんは、すぐに答えを与えてくれる。
「俺は母さんを守れなかった。まだ義務教育すら終えてない子供に何が出来たか分からねーけど、もっと出来たことがあったかもしれねー。目の前にいたはずの大切な女性を、俺は幸せに出来なかったんだ。笑顔に出来なかった。だから、俺の元に来てくれるお客様達を、俺の傍にいる女性達だけでも、俺は笑顔になって欲しい。一人でも多くの女性を笑顔にしたいんだよ。もう泣かせたくない。女性に涙なんて似合わない。
実際、店にやってくる女性は何かしらの闇を抱えている人が大多数なんだ。俺がその人達に対して、根本的な解決や手助けは出来ないかもしれない。だけどさ、俺と言う存在が生きる活力になると言ってくれる人達がいるのならば、俺は、この仕事を続けていたいと思うんだよ」
兄さんは淡々と話す。その瞳は儚げでありながら、瞳の奥には信念があるように感じられた。
「それが、兄さんにとっての償い?」
「ただの自己満足だよ。お前が気にすることじゃない。俺は俺の人生を生き、お前はお前の人生を生きる。ただ、それだけのこと。つーことで、俺は今からアフターだから、夕飯は一緒に食えねーわ」
「……そう」
「寂しい?」
「……嘘で寂しいって言って欲しいの?」
「それはそれで虚しいな」
兄さんは苦笑いして煙草の火を消す。まるで、この話はもう終わりだ、とでも言われているようだ。
その後、兄さんは仕事の顔と洋服に切り替え、マンションを後にした。
残された僕は、一度気持ちをリセットしようと、自分のアパートに帰宅した。
†
「はぁ~」
僕は畳に寝そべり、盛大な溜息をつく。
思わぬ新事実に衝撃が隠し切れない。兄さんは今までどれだけ一人で苦しんできたのだろう?
――2人でいられれば、つらいことはわけあい、たすけあい、ささえあいができます。2人いれば、笑顔も2ばい。うれしいことも、たのしいことも2ばい になりますもんね。
ふと、美月さんの手紙に書かれていた言葉が脳裏に過る。
素直に美月さんの言葉に同感した僕だったが、本当は何も知らなかった。
守られてきた自覚は持っていたつもりだ。だけど実際は、自覚していたものよりも遙かに大きく守られていた。大人になってもなを、守られていたのだ。
今では、辛いことを分け合えていた気がしない。助け合い、支え合いなんてどうして思えていたのか。兄さんは、笑顔の裏で重い真実を抱え生きていたのに。
「兄さん、今は幸せなの?」
母さんのことはとてもショックだし、悲しい。何より、僕達がいなければ、母さんは死の道を歩まなくてよかったのではなかったのか? そう思わずにはいられない。
命をかけてまでの自己犠牲をすることがあったのだろうか? 本当にダメなら、孤児院という手もあったはずだ。第三者や第三の世界を頼ればよかったのではないのか。と思うが、何を思っても後の祭りだ。せめて、今を生きている兄さんには、自己犠牲精神で生きていて欲しくない。
兄さんは償いだと言った。これがもし純粋に天職だと感じているならば、こんなにモヤモヤすることもなかっただろう。だが兄さんは、確かに償いだと言っていたのだ。
「償うだけの人生は空しすぎる。……母さんは、きっとそんなことを望んでいないよ」
僕の呟きが兄さんに届くことはない。
その後、兄さんと僕の関係性や、兄さんの心に大きな変化が起きることもなく、二ヵ月の月日が立った。
変わったことと言えば、僕が手話をマスターしたことだ。
人は真摯に真剣に取り組めば、大半のことは可能なのかもしれない。
†
僕は中条さんと最後にあった日から二ヵ月が経った夜からは、毎晩深夜二時のプールに訪れたり、早朝六時からエントランスで中条さんが現れないかと待機したりしていた。
「二ヶ月立ったものの――これじゃまるでストーカーだよ」
「あら、今更気がついたのね」
「⁉」
唐突に響く声に、ビクリと肩を震わせる。
声がした方へと視線を向ければ、生成り色の膝下タイトスカートスーツを着た中条さんの姿があった。
「……中条さん」
「なにその顔。幽霊でも見たようね」
「ぁ、いや、そう言う訳ではなくて。まさか本当に会えるとは思ってなくて」
中条さんの言葉に僕は中条さんと向き合い、慌てて弁解をする。
「二ヵ月後とは言ったけれど、詳しい日付までは約束していなかったものね」
「どうして、僕がココにいるって分かったんですか?」
「貴方の行動なんて予定調和のようだもの。それに、待ち伏せは得意のようだから」
「そ、そうですか」
僕は中条さんの返答に苦笑いを返すしかない。
「それで? 貴方は二ヶ月間何をしていたのかしら?」
中条さんの言葉に待っていました! とばかりに、僕は目を輝かせる。
僕は両手を使い、学びの成果を見せつけるように動かした。
まずは、自分の鼻を右手の人差し指でちょんっと差す。
[僕]
自分のことを差す手話は、コレの他に、右手の人差し指で胸を差す二パターンあるようだが、僕は鼻を差す方で統一することにした。
そしてもう一つ覚えたことは、手話には強弱や表情がとても大切になってくるということ。
目上の方や年上の方と話す場合は、肩をすぼめて柔らかく指さしをする。
両手人差し指通しを胸の前で重ね、前に回転させる。
[手話]
空中に上げた右手の平を米神の横に下ろしながら握る。
[覚える]
少し曲げた右手の親指以外の指先を左胸に当て、軽くジャンプするように右胸に当てる。
[出来る]
ようになりました。は指文字で伝えた。
手話単語を多く覚え、敬語や言葉との繋ぎは指文字で表せるようになった僕は、どこか自信がついたように思う。
「そう。覚えたのね。日常会話ぐらいには出来るようになったのかしら?」
中条さんの問いかけに頭の上で丸を作り、大きく頷く。
「犬にはならなかったのね」
口元に弧を描いた中条さんは、どこか納得したように小さく頷いた。僕は中条さんの次の言動を待つ。
「じゃぁ、もう文通を止めてもらえるかしら。私、貴方達のポストになるほど暇じゃないのよ」
「ぇ⁉」
お褒めの言葉の一つでも頂けるのかと期待していた僕に、バチが当たったのだろうか?
僕は中条さんから出た言葉を瞬時に受け止めることが出来ず、瞠目することしか出来ない。
「お間抜けな顔ね。そんなに美月と文通出来なくなるのが悲しいのかしら?」
中条さんの言葉に、僕は素直にコクコクと頷く。まるで赤べこだ。
「時は令和。文通とはまた違う連絡方法が存在することを忘れていないかしら?」
僕をからかうように微笑を浮かべる中条さんは、左手に持っていた赤色のクラッチバックからスマホの二分の一程のサイズをした一枚の封筒を取り出し、僕に差し出してくる。
「?」
「あら、いらないの? 美月と繋がることが出来るリモートアプリのIDを書いたメモが入っているのだけど」
「もらっていいんですか?」
「いらないならいいのよ」
「いります!」
再びバックに終おうとする中条さんに対し、僕は慌てて両掌を突き出しながら食い気味に答える。
「なら最初っから受け取りなさい。受け取りを拒んでばかりいては、本当に欲しいモノや、大切な人は離れていくばかりよ」
中条さんはそう言って僕の両掌に封筒をそっと置いた。
「日本人において、謙虚は美徳だなんて言われているけれど、それは世界に出れば通用しないのよ。そして、ソレは貴方を幸せから遠ざける。美月ともっと親しくなりたいと思うのなら、自分の言動をよくよく考えなさい。それと、もうここには来なくて大丈夫よ」
中条さんは冷静な口調でそう言って、その場を後にした。
†
兄さんの部屋に戻った僕は、リビングテーブルの椅子に腰かけ、手紙の封を開ける。
中には、名刺サイズのメッセージカードが一枚入っていた。
【白崎優太 様
リモートアプリ OCEAN. ユーザーID mituki941
七時~二十時までなら、いつでも繋いでくれて構わないわ。けれど、くれぐれも、美月に無理はさせないようにね。リモート中、美月に何かあれば、私に電話をかけてきてちょうだい。このメモを確認次第、一度私に電話をかけてきて。話さなくていいから。
090――】
美月さんとリモートを出来るのも驚きだが、中条さんの携帯番号まで教えてくれたことに驚きを覚える。急展開すぎて喜びがついてゆけない。一体どういう風の吹き回しなのだろう? 注意喚起が時間しか書いていない。ということは、明日にでも繋いで良いのだろうか? いきなりで迷惑にならないのだろうか? それに、今の僕の手話技量だけで、本当にちゃんと美月さんとお話しすることが出来るのだろうか?
――日本人において、謙虚は美徳だなんて言われているけれど、それは世界に出れば通用しないのよ。そして、ソレは貴方を幸せから遠ざける。美月ともっと親しくなりたいと思うのなら、自分の言動をよくよく考えなさい。
中条さんの言葉が再び鼓膜に響く。
常に謙虚でいようと思ってきたし、心掛けてきた。それが正しいと思っていたし、それでいいと思っていた。
本来、謙虚さは縁の下の力持ちのような人のことを指すのだと思う。だけど僕は、自信の無さを謙虚の裏に隠して生きてきたのだと思う。
もちろんその謙虚さで得てきたものはあるかも知れない。だがその裏では、謙虚さのおかげで失ってきたモノもあるし、人から贈られる言葉のギフトを目の前で投げ捨ててきたことも、多々あったと思う。
今だって、行動的になれていない。相手のことを思うように装いながら、本当は自分が傷つくことが怖いだけなのだ。
普段からずっと自己主張の強い人はどうかと思うが、社会に出れば、自己主張をしていかなければいけない場面があるのだろう。何らかの取引に置いて、相手の要件ばかりを受け入れてばかりいては、こちら側が潰れかねない。たぶん、それは友情や恋愛関係でも言えるはずだ。
中条さんは多分、そのことを僕に伝えようとしてくれていたのだろう。美月さんと繋がる切符を手にしたのに、謙虚さの裏に隠した自信の無さで、その切符をただの紙切れにするのはありえないと。
「明日、繋いでみよう」
決心を静かに口にした僕は、小さく息を呟く。
「ぁ、電話しておかないと」
メモ内容を思い出した僕は、慌てて中条さんの携帯番号を登録してワンコールさせるのだった。
†
翌日――。
「ふぅ」
午前九時。
僕はアパートの一室で小さく息を吐く。
目の前には、甘栗色の円形型テーブル。その上には、白色のノートパソコンが開かれている。画面は既に、リモートアプリ OCEAN.内のユーザー検索欄になっている。
もちろんスマホからでも問題なくリモートは可能なのだが、手話で会話するとなると、画面が大きいに越したことはない。それに、パソコンからの方が回線が安定している。
「後はユーザーIDを検索して、通話リクエストをするだけ――なんだけど、緊張する~」
一人叫び声のように悶え、後ろに身体を倒す。雨漏りの跡が残る天井。電気から吊るされた紐。天井を這う蜘蛛が一匹。手で畳を撫でれば、少しざらつきを感じた。
「……全然、違う」
ボロアパートに住む一般庶民の僕。何か才能に長けているわけでもなく、ルックスが特別いいわけじゃない。就職に有利になるだろうと入学した大学が有名所と言う訳でもない。そこでの成績すら平均点。全てが平々凡々。
そんな僕が何故、兄さんと同じマンションに住む少女と、妖精のような美貌を持って世界で活躍するモデルの顔を持つ少女と、生きる世界が全く更なる少女との進展を、こんなにも望んでしまうのだろう。もし先へ進んでも、傷つくだけではないのだろうか?
「引き返せなくなる……」
もし美月さんとリモートが繋がってしまったら、当初から抱いていた淡い想いが、更に膨大してゆくことが分かり切っていた。それと同時に、この想いの先に光などないと、心が怯えている。
美月さんは僕のIDを知らない。ここで進むか停止するかは、全て僕次第。止まるなら、今しかない。
僕は今までのことは幻想だったのだと、長い夢を見ていたのだと、そっとノートパソコンを閉じた。
その後、僕は一週間何をするでもなく、大学生活を過ごしていた。
一週間に一回兄さんの家に行って家事をする今まで通りの生活。ずっとそうして生きてきたし、兄さんが結婚するまで、そうして生きてゆくつもりだった。
その生活が戻っただけ。ただそれだけのこと――。
†
中条さんに連絡先をもらってから、九日目の朝。
兄さんからコンビニアイスの買い出しを頼まれた僕は、マンション内にあるコンビニに訪れていた。
「あったあった」
兄さんから頼まれた、かき氷キャンディーを手にする僕の背中に、「弱虫君」という声が届く。
その聞きなれた声に思わず反応してしまう僕は、勢いよく首だけで振り返る。
「あら、弱虫君だと認めるのね」
微苦笑を浮かべた中条さんと目が合う。
「……中条さん」
「美月と繋がるチャンスを棒に振る気?」
「それは……」
「貴方は身を引けばそれで終わりでしょう。だけど、このままでは美月が持つ物語は終われない。貴方、美月の気持ちを考えたことはある? 待たされる側の立場、貴方なら分かっていると思っていたけれど……違ったみたいね」
と首を竦めて見せる中条さんの言葉に、僕は言葉をつまらせる。
「今日一日、貴方からなんの行動もしないのなら、貴方に教えたIDを変更するわね。そうすれば、貴方と美月は一生会うことも、話すこともないでしょう。よくよく考えなさい」
中条さんはそう話し、颯爽とその場を後にした。
残された僕は、しばし呆然とするしか出来なかった。
†
「う~ん……」
兄さんの介抱をし、家事や作り置きご飯を作り終えてアパートに帰宅した僕は、ノートパソコンの前で唸っていた。
時刻は午後二時前。充分に連絡可能な時間帯だ。
――貴方は身を引けばそれで終わりでしょう。だけど、このままでは美月が持つ物語は終われない。貴方、美月の気持ちを考えたことはある? 待たされる側の立場、貴方なら分かっていると思っていたけれど……違ったみたいね。
中条さんの言葉が耳奥で響く。
言われて初めて気がついた。
確かに自己完結した僕の物語は終わりを迎えるが、何も知らない美月さんの物語はずっとモヤモヤしたままで、終わりを告げることはない。
物語のページを開いても開いても、この先は無地のページばかり。それでも次を期待してページを開き続ける。それは僕の存在がどうでもよくなるまで、もしくは、対象を忘れられるまで続けられるのだろう。
昔、兄さんと音信不通になったことがある。
その時は兄さんの生存を心配したり、本当は嫌われて見捨てられてしまったのだと思い込んだり、今は忙しいだけなんだと言い聞かせてみたりと、眠れぬ夜を過ごしていたものだ。
このまま僕がなにも行動も起こさなければ、この物語は強制終了される。それでもいいのではなかろうかと思ってしまう僕は、なんて弱虫なのだろう。
――優太。未来のことを考えるな。過去を思い返すな。俺達は、“今・ココ”でしか生きられないんだ。一秒後にはどうなっているか分からない世界。病死しているかも知れない。交通事故に合うかもしれない。自然災害に見舞われるかも知れない。俺達は一秒後には、どうなっているか分からないんだ。分からないからこそ、“今・ココ”を生きていかなきゃいけねーんだよ。優太。恐れるな。前に進むことを。恐れるな。希望の道に進むことを。恐れるな。自分の気持ちに正直になることを……。
いつかの日、兄さんが僕に言ってくれた言葉と、その時の真剣な兄さんの顔が、脳裏にフラッシュバックする。
「過去でもなく、未来でもなく、今を見て、今を感じて、今・ココを生きる……」
僕の今の感情だけを見ると、美月さんともっと親しくなりたいし、もっとお話し出来たらいいなぁと思っている。思ってはいるが、その先の未来に幸せがあるとは思えない。
もっともっと親しくなれたとしたら、きっと僕の想いはもっと膨大してしまう。その膨大した想いのまま縁を強制終了させられてしまったら……。もし美月さんに嫌われてしまったら――そんな想いが邪魔をして、僕を前に進ませてくれないのだ。
――うじうじ考えるな。今笑えていたら、きっと未来でも笑える。今笑えないなら、未来も今が続くだけだ。前に進まないと何も分からない。何も分からないままだと、ずっとモヤモヤしたまま生きて行かなきゃいけねーんだ。そんな重いモノを背負って生きていくのは辛いぞ。当たって砕けてもいい覚悟で行け。
友人と喧嘩をして、うじうじしていた僕に対し、兄さんはそう言って背中を押してくれたことがあった。
兄さんの言葉はいつだって、正しいのだと思う。子供の時は分からなかったが、兄さんの言葉には、兄さんの人生が乗り移っている。きっと兄さんは母さんのことで、ずっとモヤモヤした思いを抱えて生きていたのかもしれない。
美月さんはこの九日間、考えても答えが分からないモヤモヤを、ずっと抱えていたのだろうか? もしかして、僕の連絡を待っていてくれていたり……していたのだろうか?
「……不確定な未来に怯えて降参するよりも、自分の五感で世界を見ていった方が絶対にいいよね」
これから先も美月さんと向き合っていく覚悟を決めた僕は一度一呼吸置き、リモートアプリ OCEAN. を立ち上げた。そして、ユーザーID mituki941 に検索をかける。
夜の海に満月が輝く神秘的なアイコンを持つ、mituki941のユーザーが一名上がってくる。
OCEAN.に同じユーザーネームを持つ者はいない。よって、このユーザーが美月さんであることが確定した。中条さんに騙されていなければ、の話だが。
「これで、本当に繋がるだろうか?」
僕は一抹の不安を抱えながら、通話リクエストをクリックした。
♪プルルル、プルルル――♪
二回程の通話コール音が響き、しばしの無音時間が続く。
ブッ! という機械音が響き、通話リクエスト画面から一人の少女の映像に切り替わる。
胸下辺りまで伸ばされた痛みのない水晶に近い、アクアマリン色をした髪。その色より透明感を増した瞳はキラキラと輝き、こちらを見ていた。
傷一つないきめ細やかな肌は、雪のように白い。抱きしめたら壊れてしまいそうなほど華奢な身体を包むのは、前後アシンメトリーとフリルが印象的で可愛いらしい白色のフィッシュテールフリルワンピース。
本当に絵本から飛び出してきた妖精のようだった。
だが左耳には補聴器がつけられており、僕と同じ現実世界の住民であるのだと実感させられた。
美月さんの桜色の唇がパクパクと動く。その音が僕の耳に届くことはない。機械トラブルなどではない。美月さんが本来出せるはずの音が失われているのだ。
クロスさせた両掌で顔を隠すところから、両掌を外側に動かし、向かい合わせた両人差し指を第二関節から下げる。
[こんにちは]
僕は自分の声でも伝えながら、手話をする。
美月さんはホッとしたように身体の力を抜き、微笑みを浮かべながら僕と同じ動きをする。
[コール対応]
親指と小指だけを突き出した左手を、左耳に当てるように持ってゆき、小首を傾げる。
その後、指文字で、対応を表し、ありがとうは手話単語を使う。
美月さんは人差し指で自分を差し、僕と同じ動きをする。
[私も、通話ありがとう]
というニュアンスだろう。手話単語では繊細な表現や方言が出来るわけではない。だから、ニュアンスで読み取ってゆく翻訳に近いものがあった。
[連絡]
僕は左手で親指と人差し指でリングを作り、右手でそのリングを指の鎖で繋げるようにして、同じ指リングで∞マークを作る。
“先を教えてもらっていたのに、今になって”は指文字を使う。
次に、右手の親指と人差し指で眉間のシワを摘まむような仕草をして、その手を顔の前で頭と共に下げ、[ごめんなさい]と伝える。
美月さんはそんな僕に対し、少し慌てたように首を左右に振った。そして、少し曲げた右手を左胸に当ててジャンプするように右胸に動かし、指先を右胸に当てた。
[大丈夫]
美月さんの返答に、これは気を遣わせてしまっているなと感じた僕は、すぐ前に進めなかった自分を悔いる。
[通話]
“もらえて”を指文字。
両掌を胸の前で、交互に上下させる。
この動きは、嬉しいとき、楽しいとき、喜ぶときに使う表現法だ。
そして、ありがとう。と手話。
美月さんの整い過ぎた顔は、どこか現実味がないように感じることもあるが、手話でお話しをする美月さんの表情は、とても豊かで人間味が溢れていた。
[元気ですか?]
と伝えるため、胸の前で両拳を肘と共に上げた状態で、握り拳を二回上下させながら首を傾げる。
美月さんは笑顔で僕と同じように手を動かす。疑問ではないため、首は傾げずに、表情で表現していた。
今までは手話は、手だけで成り立つものだと思っていた。だが実際は、感情を表情で表現することがとても大切だったのだ。
まるで、手では踊りを、表情では感情を表現するミュージカル俳優のようだ。手話を操ることが出来る人は、愛ある<表現者>なのかも知れない。
[美月さんは]
と伝えながら、人差し指で美月さんを指差す。掌で表現した場合、また違う手話単語になる可能性が無きにしも非ずのため、多少の罪悪感を抱えながら、マニュアル通りに動く。
[朝、何時に起きるの?]
握り拳を米神に当て、鎖骨辺りまで下げる。次に手首を人差し指で指し、左人差し指を左右に振る。
拳で太陽を表し、手首で時計を、指振りでクエスチョンマークを表している感じだろうか。
美月さんは僕の質問に対し、手首を人指し指で指した後、親指と人差し指と中指を立てた手の甲を僕に見せ、掌を横に向けて左右に動かす。
[七時頃]
[そっか]
と、僕は笑顔で大きく頷く。
そうして僕達は、一時間程他愛のない会話を交わし合うのだった。
一ヵ月後――。
あれから毎日一時間程リモート会話を重ねた僕達の距離は、穏やかに縮んでいた。
美月さんの日常、好きな食べ物、好きな音楽、色々なことを知った。呼び方も進化し、敬語もほぼなくなっていた。それでも、美月さんの内情を知ることはなかった。
もっと深く知ってみたい、というエゴが出る時もあるが、深追いをしないようにコントロールする。美月さんと他愛もないお話をする時間がとても幸せで、壊したくなかったから。
[おはよう]
瞼を瞑り、左拳を枕のようにして眠る仕草をした後、瞼を開けながら頭を起こす。それと同時に、左拳は下げる。
その後に、向い合せた人差し指同士をこんにちは。という風に、第二関節から曲げた。
[おはよう]
美月さんも、僕と同じ仕草をする。
時刻は九時。
[体調はどう?]
右手を開いて、掌を胸の前で一回転。これで身体を差す。
胸の前で開いた左掌の上で、右拳を三回転で《調子》。
身体+調子=体調。となるらしい。合わせ技で一つの単語となるのは面白い。
その後。右手を開いて指先を相手に向けて軽く左右に振りながら、小首を傾げる。
これが、《どう? どうですか? いかがですか?》という表現になるようだ。
手話は知れば知るほど興味深くて、奥深いと感じる。
美月さんは、[いいですよ]と、左小指を下唇の下に当てる。
その後、元気にしています。とでも言うように、笑顔で《元気》を手話で表現する美月さんは、今日も可愛い。
[今日はお出かけの日ですよね?]
手話で問うてくる美月さんに大きく頷く。
[兄さんのところに行くんだ]
今日は兄さんのマンションに行って、作り置きを作る曜日だった。
[本日のメニューはなんですか?]
美月さんの質問に対し、僕はスマホを操作をする。
「肉じゃがだよ」
と言いながら、スマホ画面に映る肉じゃがの写真を美月さんに見せる。
僕が手話で表現しきれないモノは、写真や映像を美月さんに見てもらっている。
[美味しそうですね]
[和食、好きですか?]
僕の問いに美月さんは笑顔で頷く。
[僕も、和食が好き。心が温かくなります]
[今日は、お兄さんの所にお泊りしますか?]
[三日、泊まります]
[いいなぁ]
[?]
僕は何に対してのいいなぁ、なのかが分からず、小首を傾げる。
[三日も優太さんと一緒に過ごせていいなぁと。私もまた、優太さんに会いたくなります]
指文字も加えながら、そう伝えてくる美月さんは少し寂しそうに微笑む。
[僕も、またいつか美月さんに会えたらいいなぁと思っています]
僕はそう伝え、力のない笑みを浮かべる。
一ヵ月間、美月さんとリモートをできど、一度も会えることはなかった。中条さんからは何の連絡もない。これ以上の進展は許されていないのだろう。きっと僕達はこれからも、このガラス越しでしか会えないのだと、なんとなく思う。
何故、人間は与えられたものでは満足出来ないのだろう?
最初は文通だけでも嬉しくて、奇跡のようだった。だけど、美月さんの顔を見てお話ししたいと願っていた。それはリモート通話という形で叶ったのだが、次は対面で話したいと願ってしまう。
その僕の願いが叶うとは、この時の僕はまだ知らなかった。
美月さんが何故、人と接触しないのかも――。
三〇五号室の部屋に戻ってきた僕は倒れるようにキングサイズのベッドに沈み込む。もちろん、このマンションに住んでいるのは僕ではないし、この部屋も僕の部屋ではない。全て兄さんのものだ。当の家の主は、仕事の真っ最中だろう。兄さんは夜の帳が下り切る前に、歌舞伎町へと舞い降りるのだ。
僕が十四歳の時に両親が天国へと旅立ったあと、六つ年上の兄さんは夜の仕事を始めた。
約半年間は夜の仕事一本で過ごすことが出来ず、自転車で飲食配達のアルバイトを日中にこなしながら生活をしていた。
日を追うごとに痩せていく兄さんが心配で、申し訳なくて、何度学校を辞めて働こうかと思ったことだろう。だが中学生を雇ってくれるお店は見つからず。今流行りの配信者として食べていけるわけもなかった。
世間の厳しさに敗北した僕は高校卒業するまでのあいだ、大人しく兄さんに守られ続けた。だが今の僕は守られるだけしか出来ない子供ではない。
「いつまで続けるつもりなんだろう?」
不健康な兄さんの生活を思うと、そんな言葉が自然と口につく。
防音設備が整っているためか、物音一つ聴こえない。独り言がやけに大きく響く。僕が住んでいる安アパートとは大違いだ。
アルバイトをこなしながら大学で勉強に勤しむ僕と、ハイグレードマンションに住む謎の美少女。兄さんならともかく、この先僕と接点を持つことなどありえるのだろうか?
叶うのなら、もう一度会って話がしてみたい。だけどもし会えたとしても、今の僕ではあの子と挨拶を交わし合うことさえも出来ない。
「やっぱり、忘れた方がいいのかなぁ」
僕の口からポロリと諦めの言葉が零れ、睡魔に負けた神経は夢の中へと旅立った。
†
翌朝。
バタン。カチャ。ゴトン――。
「ん~……ッ」
僕は騒がしい物音で夢から目覚める。
「兄さん?」
眠さの残る目元を指先で擦る僕は、重怠い身体を起こして玄関へと足を向けた。
「なっ!」
思わず声を上げて目を見開いてしまう。
上質なスーツに身を包んだ青年がうつ伏せ状態になって、玄関扉の前で倒れ込んでいたのだから仕方ない。
「兄さん! ちょ、大丈夫なの⁉」
僕は慌てて兄である白崎(しろさき)龍(りゅう)優(ゆう)に駆け寄り、自分よりも体格の大きい青年を仰向けに転がす。
「おぉ! 優太来てたんだ!」
鎖骨まで伸ばされた髪をウルフカットに整わせてゆるくパーマをかけたアンニュイスタイルと、整った顔立ちが破綻するような笑顔を見せる。
「来てたんだ! って、兄さんが掃除しに来てって呼んだんでしょ? 作り置き料理もなくなって死にそう。とかなんとか言って連絡してきたこと忘れたの?」
兄さんから甘えたようなメッセージが来ることは滅多にない。
こういう時は大抵仕事で嫌なことがあったときか、普通の生活が恋しくなった時だ。
「したした~。味噌汁飲みてぇ。シジミとかいいな。ザ・和食! みたいな……さ」
兄さんはそんなことを言いながら、眠りに落ちてしまう。
「せめてベッドまで起きていて欲しかった」
僕は右手で顔を覆って溜息をつく。
一七〇センチで細身の僕に対し、兄さんは一八二センチの長身。
女性のような細身の体型の僕に対し、兄さんは頼りたくなる体格と鍛えた身体を持っていた。そのおかげで、毎回運ぶのには一苦労している。
「よっし!」
僕より二センチ程大きな兄さんの靴を脱がして頭上に立った僕は、幅の広い肩を羨ましく思いながらも、両脇に両腕を差し込む。
「おっも……い」
スーツに皺が出来てしまうことなどお構いなしに、兄さんを寝室までズルズルと引きずっていった。
†
「ふぅ~。はぁ、はぁ、はぁ」
どうにかこうにかキングサイズベッドに爆睡中の兄さんを転がした僕は、犬のように荒い息を繰り返す。
息を整え終えた所で僕は一度、床にしゃがみ込んだ。
「兄さん。僕はもう二十歳になったんだよ」
瞼にかかった兄さんの前髪を払いながら呟く。
一向に起きる気配のない兄さんに僕の言葉は届かない。
兄さんのおかげで中学、高校と無事に卒業できた僕は今、大学費用や自身の生活費を自分で払えるようになった。僕はもうあの頃みたいに、守ってもらうしか出来ない子供じゃない。
僕を立派に育て上げる、という兄さんの目的を果たしたはずだ。
それなのに何故、兄さんは今もこの仕事を続けているのだろう? 夜の世界に染まり切ってしまったのだろうか?
「お水と痛み止め置いとくよ」
穏やかな口調でそう言いながら、冷蔵庫から取ってきたペッドボトルの水と頭痛薬をサイドテーブルに置く。
「ん~……」
兄さんはむにゃむにゃと口を動かすが、何を言っているかさっぱり分からない。まるで睡眠中の赤ん坊のようだ。まぁ、兄さんに天使の可愛さなどはないのだが。
「しじみ、買ってくるね」
と一応書き置きを残し、三〇五号室を後にした。
†
「やっぱり、ここにはないかぁ」
マンション一階のコミュニティーエリア。
二十四時間営業のコンビニに足を運んでみたものの、やはりここには真空パックのしじみは置いてなかった。
「まだ八時過ぎかぁ」
スマホで時間を確認して目線を上げた僕の視界に、今しがた会計を終え、キャップ付きブラック缶コーヒーを手にした中条さんが映る。
「ぁ!」
思わず声を上げた僕の声に反応した中条さんが肩越しに振り向く。
瞬時に会釈をした僕に対し、微笑むことすらない中条さんは無言でコンビニを後にした。まるで、数時間前の出来事はなかったかのように。
「なに、あれ」
少しムッとする僕だが、中条さんを追いかけるような子供じみた真似はせず、近くにあるスーパーへ買い出しに行くことを選んだ。
「ただいまぁ」
僕は小声で帰宅の挨拶を溢す。
お帰り、のかわりに唸り声が響く。
「に、兄さん?」
兄さんに何かあったのかと、僕は靴を脱ぎ散らかして家に上がる。
背もたれの高い灰色のレザーチェアに腰掛けた兄さんは、黒の太いNに似たうねりで支えている黒のガラス天板テーブルに突っ伏していた。
「ちょ、大丈夫?」
「どうしてにぃちゃんを置いていくんだよぉ」
メイクを落としたのか、目の下にクマを見せた兄さんは僕の腰にしがみつく。まるで母親に置いて行かれた子供のように。お客さんが見たらなんて思うだろうか。
「人聞きが悪い。ちゃんと置手紙置いて行ったでしょ? それに、兄さん寝てたじゃん」
「寝てたけど……起きた時に一人って寂しいじゃねーかよ」
顔を上げた兄さんは上目遣いで睨んでくる。その瞳からは灰色のカラーコンタクトは姿を消し、黒に近い焦げ茶色の瞳に僕が映っていた。
鎖骨まで伸ばされた髪は一束にまとめられ、スーツからセットアップのスウェットに着替えている。
完全に源氏名の龍から、白崎(しらさき)龍(りゅう)優(ゆう)に戻っていた。
「いや、一人暮らしだよね? いつも一人で起きているよね?」
僕は呆れ口調でそう言って微苦笑を浮かべる。
「いつもはな。今は優太が来てるのが分かってんだろ。それなのに、起きた時姿がねーのは孤独だぞ」
噓泣きを辞めた兄さんは僕から離れ、煙草を銜える。
すでにコロンとした黒の球体型灰皿には、四本の煙草が刺さっていた。昨晩片付けたばかりだ。僕が家を出て約二時間のうちに、四本も吸ったようだ。
「そうですか。じゃぁ、僕は味噌汁作るから。しじみの味噌汁飲むんでしょ?」
「そうそう」
僕の言葉に対し、拗ねた幼子のようだった兄さんの顔が一気に華やいだ。
「軽く朝食も食べる?」
「ありがとう。でも今は味噌汁だけでいい」
「了解」
僕はライター音を聞きながら、味噌汁を作るためにキッチンへと足を向けた。
このマンションのキッチンは本当にハイテクで使い勝手がいい。
人工大理石トップはオシャレだし掃除がしやすい。蛇口はシングルレバーのハンドシャワー型。僕のアパートは蛇口をひねるタイプで、両手が汚れていたら蛇口も汚れてしまう。三又コンロは調理時間短縮になるし、厨房を彷彿とさせる換気扇は大活躍。
何より羨ましいのは、全自動ディスポーザーがついていることだ。これによって三角コーナーは不要となり、生ごみの匂いに悩まされることもなくなるのだから。
キッチンの他にも、ハイテクなものが色々ある。なおかつトイレやお風呂のバリアフリーなところに優しさを感じる。
まぁ、凄いのは部屋の中だけではないのだが。
マンションには、昨晩訪れたプール以外の施設も充実していた。
ジムはもちろん、エステなどが受けられるセラピールーム。スパ施設にテラス。住民専用のレストラン。まるで、高級ホテル暮らしをしているような暮らしができる夢のような住まいだった。
著名人も多く住んでいるマンションのようで、セキュリティも万全だ。コンシェルジュに兄の弟と主張しても、本人からの伝言を言付かっていなければ、僕は赤の他人とみなされて門前払いされる。
兄さんがここへ引っ越してきたばかりの頃に訪れたことがあるが、兄に話さず来てしまったばっかりに面倒な目にあったことがある。それからというもの、僕は毎週火曜日の夕方に来ることにして、兄さんが火曜日の朝にコンシェルジュに話をつけてくれる手筈となった。
それ以外では、兄さんが呼び出さない限り訪れることはない。
僕には縁遠い世界観のマンション。一般大学生が住めるわけがない。だが美月さんはココに住んでいる。多分契約者であろう中条さんと一緒に住んでいるのだろう。二人はどういった関係性で、どういった世界で生きているのだろうか?
「まぁ、僕には縁遠い世界には変わりないのだろうけどさ」
どこか拗ねるようにごちた僕の耳に、「なんか言ったか?」と兄さんの声が届く。
「なんでもないよ。もうできるから」
兄さんの声で我に返った僕は、頭を二回程左右に振って思考を切り替える。
「お待たせ」
「Thank you always, yuta! Ⅰ love you♡」
兄さんの前に味噌汁をそっと置いた僕に対し、妙に発音が良い英語でお礼を伝えてくる。しかもウィンク付きだ。
「ぇ、酔ってんの?」
「酔ってねーよ。昨日は英語圏のお客様を相手にしてたから、英語で想いを伝えただけだろ」
身の毛をよだたせ一歩後ろに下がる僕を、冗談が通じない奴だなと、落胆したように見る。
「あぁ。お客様って日本人だけじゃないんだ」
僕は納得したように頷きながら兄さんの正面のチェアに浅く座った。
「当たり前だろ。基本はお店の出入りは自由。英語圏のお客も相手にできれば客層も増えるし、俺の強みにもになる」
と言った兄さんは、いただきますと両手を合わせ、味噌汁を一口。
「あぁ~五体六腑に染み渡るわ~」
「ぇ、おじさん?」
「誰がおじさんだッ。まだ二十八だっつーの!」
「ごめんごめん」
僕は勢いよくツッコミを入れてくる兄さんに顔の前で両掌を重ねて謝る。
「軽っぅ。全然心こもってねーしな。……ま、まぁまぁ、俺は優しいから、きんぴらごぼうで許してやるよ」
兄さんはどこか勝気に口元の弧を上げた。
本当に優しい人は自分で優しいと言わないと思うし、謝礼のようなものは求めないと思うが……という言葉は飲み込み、ありがとう。という言葉をだけ溢す。
こうしてじゃれ合えるのも、甘えてもらえるのも、信頼されている証拠だろう。普段仮面を被っている兄さんには僕の前だけでも、素顔でいて欲しいと思う弟心だ。
「ごっそーさん。美味かった」
兄さんは空になったお椀を僕に見せ、シンクに持っていった。その後ろ姿は腹正しいほど絵になる。可笑しい。僕も同じメーカーのセットアップのスウェットを持っているのだが、兄さんのようには着こなせない。
僕も僕なりに努力をしているつもりなのだが……。
大学に入って髪を焦げ茶色に染め上げ、眼鏡からコンタクトに変更させた。
髪型は美容師さんにおすすめされた、軽すぎず重すぎないナチュラルマッシュヘアーした。素髪風な質感をしているが軽くパーマをかけている。スタイリングが苦手だと言ったらこうなった。
切れ長の目元をした兄さんに対し、母親似の僕はビー玉のように丸い目元をしている。二重と涙袋まであるものだから、女子顔負けである。大学でついたあだ名がハムスターだ。
身長は一七三センチの細身で体格が中性的というべきか……なんと言うべきか、一言で言うなら兄さんと正反対なヴィジュアルなのだ。
同じ血を分け合った兄弟のはずなのに、この差は一体なんなんだ⁉
「さっきから視線が痛いんですけど、優太さん?」
戻ってきた兄さんは微苦笑を浮かべ、首を傾げて見せた。
「ぁ、つい」
「ついって何だよ、ついって」
兄さんは僕の返事に呆れ笑いながら先程座っていた席にどかりと座る。長い足を持て余しているようで羨ましい限りである。
「今日泊まっていい?」
「今日と言わず永遠に」
思わぬ返答に対し、僕の頭上で葛根長が鳴き声を上げる。
「んっだよ、その反応は」
「いや、職業病って怖いなぁ……と思いまして」
「職業病じゃなくて、これが本来の俺だ」
「へ、へぇー」
兄さんは呆れ気味の相槌を打つ僕に、「ほんっとノリ悪ぃな」とクスクスと笑う。
「まぁ、いいけど」
席を外した兄さんは寝室に足を向けた。
「?」
寝室でガタゴト音を立てて戻ってきた兄さんは、「好きなだけ泊って行けよ」と言いながら、机の上に部屋のカードキーを置いた。
「これ、予備のカードキー。いつでも出入りしていいから」
「もらっていいの?」
「もちろん。上手い家庭料理も食えるし、可愛い弟に癒されて面白がれて万々歳」
兄さんは明るい声でそう言いながら、綺麗な白い歯を見せて笑う。
「ちょっと気になることを言われた気もするけど、ありがたく受け取らせて頂きます」
手放しで喜べない感もあるが、僕は紺碧色のルームカードキーを受け取った。部屋の鍵までが高級ホテル使用だ。……行ったことないけど。
「じゃぁ、俺はもう少し寝る」
「了解」
僕はまた寝室に戻っていった兄さんを起こさないように、後片付けを済ますのだった。
†
深夜二時――。
「こんばんは、僕」
「ッ⁉」
プールの出入り口扉を開けてすぐ、中条さんの声が響く。
視線を左に向けると、壁に背を預けた中条さんの姿があった。
「僕。じゃありません。ちゃんと名前があります」
「失礼。白崎優太君」
僕は中条さんが名前を覚えていたことに一驚する。
「顔と名前を覚えることが得意なのよ。それに、君は要注意人物だもの」
「忘れていないからですか?」
「そう。忘れていないから。だから、また同じ時間にここへ来たのでしょう?」
カツカツとヒール音を鳴らして僕の正面に立った中条さんは、微笑を浮かべながら小首を傾げる。聞かずとも分かっているだろうに。
「残念だけど、美月はいないわ。忘れなさいと言ったでしょう?」
「存在はない。と仰るわりには“美月さん”という名前が存在するんですね」
中条さんは僕の答えを面白がるように、そっとほくそ笑む。
「もし、美月の存在がいたとして、貴方は美月とどうなりたいの? ただの興味本位でしょ? 美月の容姿に魅了される者は少なくないわ。そもそも、どうコミュニケーションを取るつもり? 昨日の貴方を見る限り、美月の言語を読み取れていないようだったけど」
「それは……ぶ、文通?」
「フフッ。文通って、いつの時代よ」
一瞬目を点にした中条さんは、拳を口元に当ててくすくすと笑う。
「中条さんは毎朝コンビニに訪れているんですか?」
「今日はたまたまよ。それがどうかした?」
「明日また会えませんか?」
「明日は忙しいから無理よ。そもそもあの子と会わせる気はないの」
中条さんは僕の話に興味がない、とでも言うように卵を掴むような形で拳を作り、赤を基調としたネイルを自身の目で楽しむように一八〇度手首を回転させた。
「直近で美月さんと会えなくてもかまいません」
冷めた口調で返された返答に対しい、僕はめげずに次の提案を提示した。
「私をポストか郵便局員にでもするつもり?」
ネイルから僕に視線を移す中条さんの視線は冷たい。
「それは……」
言葉に詰まる僕に余裕のある笑みを浮かべた中条さんは、「気が向いたら、またこの時間この場所に来てあげる」とだけ言い残し、この場を去って行ってしまった。
†
翌朝、十一時。
僕は目覚めから覚醒した兄さんと共に、朝食兼昼食を取っていた。
「優太。昨日は眠れなかったのか?」
「ぇ?」
豆腐とわかめの味噌汁が入ったお椀を口につけていた僕は、思わず手を止める。
「目の下にクマが出来てる。後、少し元気がない。悩みごとでもあるのか?」
「クマはクマとして、どうして元気がないと思うの?」
持っていた食器達を元居た位置に戻し、兄さんに問う。
「時折目が虚ろになる。後、伏し目がちになる回数がいつもよりも多い」
「こ、こわっ!」
恐ろしいほど人のことを良く見ている。探偵の才能でもあるんじゃないか。
「怖いとはなんだ、怖いとは」
「ぁ、つい本音がポロリと」
僕は指先を口元に当てて空笑いを溢しつつ、先程までの席に腰を下ろして兄さんと向き合う。
「本音ポロリしすぎると、いつか痛い目に合うぞ」
「以後、気をつけます」
と指先を机にちょこんと置き、ぺこりと頭を下げる。
「はいよ。で、なんかあったのか?」
「う~ん……。あのさ、英語圏のお客さんも来るって言ってたよね?」
「? あぁ、言ったけど、それがどうした?」
兄さんは話しの意図が見えないとばかりに首を傾げる。
「声が出せないとか、車椅子利用者とかのお客さんもいるの?」
「いるにはいるけど、滅多に来ないな」
「じゃぁさ、声が出せない人にはどう接客するの?」
「俺は筆談か……」
そこで言葉を止めた兄さんは指を動かしだす。
僕に手の甲を見せながら、親指と小指以外の指を、やや丸みを持たせて立てる。
次に掌を見せ、人差し指だけを突き立てたまま、左にスライドさせる。
その次に僕に手の甲を向けると、親指と人差し指だけ上向きに立て、指通しを引っ付けて離す。
その次に、親指と人差し指と中指を横向き立て、左にスライドさせた。
「?」
それらが何を示しているのか分からない僕は小首を傾げる。ただ分かるのは、美月さんが使っていた動作と似たようなものということだけだった。
「一番目が、ゆ。二番目が、び。三番目が、も。四番目が、じ」
「ゆびもじ?」
確認すると兄さんは頷く。
「音を失った人とのコミュニケーション方法は、手話、筆談、指文字、メッセージアプリのデジタル会話、相手の手の平に指で文字を書く。他にもあるのかもしれないが、俺の知る限りこの四つ」
「へぇ~」
僕が感心したように頷いていると、兄さんは数口残っていた味噌汁を飲み切った。
「いつから手話とか覚えたの?」
「三年前」
「ぼ、僕でも出来る? 出来ればすぐにでも習得したいんだけど」
僕は前のめりになって問うてみる。
「出来るかどうかは優太次第。後、すぐに習得できるものなんて余程の才能か、愛がねーと無理。後は切羽詰まったときの火事場の馬鹿力」
「ご、ごもっとも」
淡々とした口調で正論が返ってきて、僕は思わず項垂れる。
「いきなり何? 大学で好きになった人でも出来たか?」
左手で頬杖をつく兄さんの瞳がキラリと光る。まるで、いい獲物を見つけたかのようだ。
「ち、違うよっ。なんか、もし使えたらこの先の未来に役に立つかも知れないじゃん」
即とした返事はどもりが酷く、嘘っぽく聞こえてしまう。
「この先の未来ね……。なら、すぐに習得出来なくてもよくねぇ?」
「た、確かにそうなんだけど……」
ニヤニヤ意地の悪い笑みを向けてくる兄さんに対し、僕は瞬時に良い反論が思いつかず口ごもる。
「まぁいいけどさ。昔使っていた本見繕ってやるから、それ見て勉強でもしてみろよ。今の時代は動画でも見れるし。インプットしやすい世の中になったもんだ」
兄さんは白い歯を見せてニカッと笑うと、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。いつまで経っても子ども扱いだ。
その後、食事と後片付けを終えた兄さんは外出をし、僕はレターセットで文章を綴った。
いきなり連絡先を書くことはせず、自己紹介だけを綴る。だが、その手紙は誰にも開封されることなく、二日間の時が過ぎた。
†
深夜二時。
三十五階建て高層マンション、プラージュ・零。
僕は本日も三十三階にあるプール施設に訪れていた。
最後に中条さんと会ってから二日間連日、同じ時間ここへ訪れ、四時まで待ってみてはいるものの、中条さんがここへ現れることはなかった。
「今日も来ないのかなぁ。……今日というか、ずっと来ない?」
「君もしつこい子ね」
驚きと呆れが入り混じる声音がプールに響く。
「中条さん!」
「声が大きい。ここの施設、利用時間は二十二時までなのを知らないのかしら?」
大きく響く僕の声を不快そうな顔をした中条さんは、声音に呆れを滲ませる。
「すみません」
しゅんと肩を落として謝る僕に小さく首を竦めて見せる中条さんは、ヒール音を鳴らして近づいてくる。その距離、畳一畳分くらいだろうか?
「連日ここへ来て何がしたかったのかしら?」
「それは……」
左端にイルカのシルエットがあしらわれた封筒を、そっと中条さんに差し出す。
「これを、美月に渡せと?」
「許されるのであれば。なんでしたら、中身をチェックしてもらっても構いません。封を開けやすいように、シールを一つだけしかつけていません」
中条さんが先に読むことも考慮し、レターセットについていた銀のイルカシルエットシールしかつけていない。
「貴方が良いのなら、遠慮なく」
破らないようにシールの下半分を慎重に捲って中身を取り出した中条さんは口を真一文字にして、文面に目を通してゆく。まるでテスト答案か何かの合否を待っているような緊張感だ。
【こんばんは。突然のお便りを失礼いたします。
数日前、真夜中のプールで出会った青年を覚えていますでしょうか?
その後、体調はいかがですか?
あの時はお名前も聞くことが出来ず、自己紹介すら出来ずにいた、白崎優太です。
貴方のお名前をお聞きしてもいいですか?
もし不快に感じたのなら、変な人だとひと蹴りして、これを捨てて下さい。
最後まで目を通して下さり、ありがとうございました。
白崎優太】
「連絡先は書いていないのね」
中条さんは意外そうに呟く。
「少しでもお話しができるなら、個人的なやり取りじゃなくても構わないんです。いきなり連絡先渡されても困るでしょうし、紳士じゃない」
「まぁ、連絡先を書かれているよりは紳士ではあるけれど」
微苦笑を浮かべた中条さんは手紙を丁寧に元に戻す。
「中条さん」
視線を僕に向けて欲しくて、中条さんの名を呼ぶ。
「まだ何か?」
顔を上げた中条さんが僕と視線を合わせてくれる。
僕は言葉の代わりに指を動かし始めた。
中条さんに手の甲を向けて親指と人差し指だけ上向きに立て、指通しを引っ付けて離す。これが[も]
親指と人差し指と中指を横向き立てる。これは[し]
「⁉」
中条さんは唐突に始まった僕の行動に驚いた顔をするが、僕は何も言わずに続けた。
親指を曲げ、四本の指を横向きに伸ばしたまま、中条さんに手の甲を向ける。これが、[よ]
手の平を中条さんに見せながら、人差し指と中指を伸ばし、親指を中指につける。アルファベットのKを表す形が[か]
小指と薬指を伸ばし、他3本指で輪を作る。指先で一つまみするような感じでカタカナのツを表すが、今回はその形のまま手首を後ろに引く。これで促音(そくおん)の[っ]になるらしい。
中条さんに手の甲を向け、親指だけ伸ばすグッドボタンの形で[た]
手の平を中条さんに向け、伸ばした中指の腹に人差し指の爪の先をのせる。なんらかのアニメキャラが、アディオス、とウィンクを飛ばしそうな形が[ら]となる。
こうして僕はゆっくりと、覚えたての指文字で思いを伝えていった。
[もしよかったら美月さんに渡して下さい]
声にすれば五秒足らずで終わるが、拙い指文字となると一分近くかかってしまう。
普段どれだけ声で楽をしているのかがよく分かる。自分が発した言葉が刹那で相手に届く声と、考えて自分で文字を作ってゆく指文字とでは、どこか言葉の重みの違いを感じた。
声にする言葉の重みとありがたさをもう少し知るべきなのだと、僕はここ数日で学んだ。
「わざわざ覚えたの?」
「いえ」
僕は中条さんの問いかけに対し、静かに首を横に振った。
「まだ全てを覚えられたわけじゃありません。記憶している文字でさえ、瞬時に形にすることが出来ません。だから、今は筆談でしかコミュニケーションを図る方法がないです」
眉根を下げて答える僕の声は頼りない。
「そう。今回は君の頑張りに免じて美月に渡しておくわね」
「本当ですか⁉ ありがとうございます」
靄が晴れて光が差し込んできたような気分となり、子供のように笑顔が零れる。
「……君は美月の正体を知らないのかしら?」
「ぇ? ……正体というのはどういう意味ですか? 人間ですよね?」
中条さんの言っている意味が分からず、怪訝な顔で問い返す。
「それはジョーク? それとも本当に聞いているのかしら? だとしたら、君の頭は少し抜けているわ」
中条さんは鼻の先で少し笑う。完全に馬鹿にされているとしか思えない。
「まぁいいわ。美月の生きている世界、美月の正体を知らないならそれでいいわ。今知らなくとも、どの道どこかで知ることになるでしょうし」
「どういうことですか?」
「また三日後、同じ時間に会いましょう。おやすみ。子供が連日真夜中の住民になるものじゃないわ」
中条さんは僕の問いに答えることなく、余裕のある笑みを故意に溢して去っていった。
一人残された僕は、一歩前進出来たことへの喜びと、また一つ増えた美月さんの謎に首を傾げながら、兄さんの部屋に戻るのだった。
†
午後十一時四十分――。
「兄さん」
朝食兼昼食を終え、特大L字ソファで横になって寛いでいた兄さんに近づきながら呼びかける。
「どうした?」
兄さんは読んでいた雑誌から、僕へと視線を移す。
「僕、今日は帰るね」
「なんで?」
勢いよく上半身を起こす兄さんの膝の上に雑誌が転がる。
「ぇ⁉」
丁度開いている雑誌のページに映る女性に、僕は目を見開いた。
「どうした?」
「ちょっ、ちょっとそれ見せてっ!」
不思議そうに僕を見る兄さんをスルーして、兄さんの膝上にあった雑誌を勢いよく手に取った。
一瞬で目を引く水晶に近いアクアマリン色の長い髪。その色より透明感を増した瞳の色。
白色のマーメイドドレスに身を包む身体は細く、傷一つないきめ細やかな肌は雪のように白い。
正面、横顔、斜め、どのショットも目を見張るほど美しい。一貫して感じたのは、神秘的かつ、幻想的な儚い印象を与える人物だということ。
雑誌に映る妖精のような美少女が美月さんだと、僕の感覚が思う。こんな絵本から飛び出してきたような美少女が多くいるとは思えない。
「この子……」
僕は詳しい情報を求めるように、今開いている雑誌ページを両手で開き、突き出すようにして兄さんに見せる。
「あぁ、meeか」
「みぃ? 有名なの?」
「嗚呼」
と頷く兄さんは、どこか気だるそうに立ち上がった。
「僕、見たことないんだけど」
「まぁ、ファッションやコスメに興味のない男子なら、そうだろうな。だが、その界隈では有名だよ。知っている人は知っている。だが基本、日本での活動はしていないモデルだ。その雑誌も、海外のファッション雑誌だしな。コンビニや書店では売っていない。CMなどで見かけることもない。そもそも、精力的に活動はしていない」
兄さんはそう話すと、よっこらせ、と言いながら立ち上がる。
「精力的に活動していないのに、どうして人気なの?」
「高級ブランドの新着ドレス発表のモデルに起用され、鮮烈なデビューを果たした。しかも、元々決まっていたモデルがトラブルを起こし、その子が起用された説がある。その後、大手デザイナーとのコラボをよくしている。コラボした洋服や雑誌は即完売。
本名、年齢、出身国、何もかもが謎に包まれた美少女。明かされているのはその美貌と、『mee』という活動名のみ。だが、圧倒的美貌とオーラとミステリアスさにより、海外で人気が出始めた。今は日本でも人気になりつつある。
老舗ブランドの広告モデルではあるが、デビュー時以来、その姿を見られるのは、月一で発売されるその雑誌。そして、老舗ブランド店の会員のみに渡される広告パンフレットや、webプロモーションCMのみ。もちろん、その映像を切り取ってネットに晒したり、動画を引っ張ってきたりするのは許されていない」
兄さんはそう話しながら、キッチンの換気スイッチをONにさせる。
煙草の匂いを家に充満させたくない兄さんが、煙草を吸う前にするルーティンのようなものだ。
「知る人ぞ知る……感じ?」
「まぁな。で、その子がどうした? まさか、その子の正体でも知ってるとか?」
兄さんは冷静な口調でそう言いながらリビングチェアーに腰を下ろし、慣れた手つきで煙草を嗜む。
「ま、まさか」
僕は瞬時に嘘をつき、逃げるように雑誌を閉じた。別に兄さんに言っても害はない。だが、そこまで正体を隠して活動をしているのならば、内密にしていた方がいいと思ったからだ。それに、何かの拍子で兄さんが二人に接触したとき、僕が口の軽い人間だと思われかねない。
「ふ~ん。まぁ、いいけど。つーか、なんで帰んだよ?」
兄さんは腑に落ちていない様子だが、あえて追求せずに、話しを切り替えた。
「同棲するのはちょっと」
「はぁ? 俺を相手に贅沢な奴だな」
失礼な奴だ、とばかりに、兄さんはどこか呆れたように首を左右に振った。
「また近いうちに来るね」
眉間に皺を寄せる兄さんにそう言って背を向け、マンションを後にしようとする僕だが、「優太」と、兄さんに呼び止められてしまう。
「なぁに?」
僕は肩越しに振り向く。
「ないと思うけどさ、もしmeeと知り合いで、お前がmeeに恋していたとしたら――」
「……したら?」
兄さんの何かを見透かすような瞳と言葉にドキマギしながら、僕は続く言葉を待った。
「中途半端にするなよ」
「ぇ?」
断固拒否でもされるのかと思っていた僕は、思わぬ兄さんの言葉におとぼけ顔を晒す。
「色恋沙汰なんてもんは、人の人生を光にも闇にも落とすことがある。お前だけが傷ついて終わることもあれば、相手だけが大きく傷つくこともある。ましてや相手は、芸能界で生きている世界線が違う奴だ。失うものも多いだろう。興味本位で近づくもんじゃねーよ」
「――」
僕は兄さんの言葉に現実を突きつけられたような気がして、思わず無言になってしまう。
「どんな代償も覚悟の上なら、死ぬ気で進め。但し、自分が相手の一番の理解者であること、自分が一番相手を愛すること。自分が一番に相手を守ること。そして、自分が一番、相手を笑顔にするんだって決めろ。中途半端にするなよ」
「……将来、大切な人が出来た時に、その言葉を噛み締めて進むよ」
僕は美月さんのことを悟られないように、そう返事をして、力のない笑みを浮かべた。
「次、肉じゃが喰いてーから、よろしくな」
兄さんは、話しは終わりだとばかりに全てを切り替え、屈託のない笑顔を見せながら、手の平をお腹前で左右に振った。
「分かったよ」
僕は笑顔で頷き、背を向ける。
玄関のドアノブに手をかけた僕は、「兄さん」と力なく呼びかけた。
「どうした?」
「ありがとう」
「……お前の人生だよ」
兄さんはそう言って、換気扇を止め、寝室へと戻っていく。
僕は兄さんの大人な言動にどこか子供じみた悔しさと、守られている安心感と、信頼されている嬉しさがない交ぜとなった感情を昇華しきれぬまま、マンションを後にした。
†
八王子にある築五十年以上の二階建てアパート、スミレ荘に帰宅した僕は、慣れ親しんだ畳に腰を下ろす。
高級ホテルのような兄さんの家との違いは歴然。
家賃は二万円弱。押し入れ付きの和室六帖。キッチン三帖。お手洗いはついてはいるが、シャワーすらない。毎日大学の帰りに銭湯によって、清潔さを維持しているため、けして悪臭を漂わせてはいない。
季節は秋口。
隙間風の多い部屋はあのマンションよりも肌寒いが、コタツがあるのでなんてことはない。いざとなれば、エアコンをつければいい。エアコンが付属されていたのはありがたかった。
近所にはコンビニや薬局、少し出向けば、色々な商店もある。
僕の現在の目的は、無事に大学を卒業することのため、さして大きな問題はないが、今は少し事情が変わってきたかもしれない。
「こんな家に住んでいる凡人大学生と、世界的モデルの美少女。兄さんならまだしも……僕じゃ釣り合わないよね」
投げやりに倒れる僕の口から盛大な溜息が零れ落ちる。
嘆いても仕方がない。出会ってしまったのだから。
すでに縁が出来ている。それだけでも凄いことなのではないだろうか? 美月さんとどんなに出会いたいと願っていても、出会うことすら出来ていない人は、星の数ほどいるはずだ。
今すぐどうこうなりたいわけじゃない。ただ、知りたいのだ。彼女のことを。
彼女がどんな人で、何が好きで、どんなふうに笑うのかを。
「……めげない。言い訳しない。前を向く。チャンスは見るものではなく、掴むもの」
僕は幼少期から兄さんに言われてきた言葉を並び立てる。そうすることで、気分が上向きになれる気がした。
何をすればいいのか分からない。今すぐに美月さんに見合う男になれるわけでもないし、中条さんに認められるわけでもない。それでも僕は前に進むしかない。その為には、今の僕にできることを、ただ淡々とこなしてゆくしかない。
「頑張れ」
僕は両頬を両手でパチパチと叩いて気合いを入れ、指文字と手話の勉強を始めるのだった。
三日後――。
「ぇ?」
深夜二時。プラージュ・零の三十三階にあるプール施設に訪れた僕を待っていたのは、中条さんではなく、美月さんだった。
リクライニングのプールサイドチェアにちょこんと腰を下ろしていた美月さんは僕に気がつき、美しく口角を上げて微笑む。
「えっと、あの」
僕は予想もしていなかった美月さんの登場に、顔の周りで両手をわちゃわちゃさせてテンパってしまう。
そんな僕が可笑しいのか、美月さんは音のない笑顔を少し溢す。その笑顔は想像していたよりも幼く見え、より僕の心を弾ませた。
美月さんに両掌を見せながら、暗転するように顔の前で交差させる。これが、手話で夜を表している。
次に、向い合せた両人差し指達をお辞儀をするように曲げる。これが挨拶。
前者が夜で後者が挨拶。夜と挨拶で[こんばんは]となる。
指文字と違って二種類の動作だけしか要らないため、指文字よりもはるかにテンポよく会話が出来る。もちろん、手話を習得していればの話だが。
[こんばんは]
美月さんは僕の挨拶を見て嬉しそうに微笑み、同じ仕草で挨拶を返してくれる。
右手を横向きピースサイン。左人差し指を中指につける。〒マークに見える形だ。その形のまま手前に腕を引く。
その次に、胸の前で左手の甲に右手を置き、そのまま跳ね上げるように垂直に上げる。すぐに両掌をお腹の辺りで組むと、会釈をする。濡れていないアクアマリンの髪がサラサラと肩から流れ落ちてゆく。まるで穏やかな波のようだった。
手紙+ありがとう。ということは、手紙を受け取ってくれたということだろう。
読み解くことは出来たが、今の僕には返す言葉を持ち合わせていない。
「えっと、あの」
口元の周りでどうしようもない両手を弄ばせながら、視線をさ迷わせる。筆談するにも、ボールペン一本すら持ち合わせていない。かといって、自分の髪の毛を引っこ抜いて床に文字を描いていくのは狂気すぎる。
美月さんは不安そうな顔で小首を傾げる。
「ぁ!」
右手を横向きピースサイン。その後に、右の中指に左人差し指をつける。〒マークに見える形で手紙を表す。たぶん、自分の方に腕を引くと手紙をもらう、腕を前に出すと手紙を送る。という意味になるはずだ。だから僕は真ん中で維持をする。[手紙]
親指を曲げ、四本の指を横向きに伸ばしたまま、美月さん手の甲を向ける。[よ]
人差し指で十一時の方角から斜めに下げ、そのまま十時の方角にカーブさせるように人差し指を上げる。相手側から、カタカナの「ン」に見えるようになるはずだ。
[で]は分からないから空書。
美月さんに手の甲を見せ、二時の方角に上向きに親指を伸ばし、残り四本指を揃えて横向きに倒す。[く]
手の平を見せ、親指と一指し指を上向きに伸ばし、他指は握る。[れ]
美月さんに親指以外を揃えて手の平を向ける。[て]
胸の前で左手の甲に右手を置き、そのまま跳ね上げるように垂直に上げる。すぐに両掌をお腹の辺りで組むと、会釈をして満面の笑顔を見せる。これが、[ありがとう]と言う意味となる。
[手紙読んでくれてありがとう]
手話、指文字、空書。あらゆる方法を使い、僕はなんとか美月さんに想いを伝えた。
僕の言葉が伝わったのか、美月さんは笑顔で何かを伝えてきてくれる。だが申し訳ないことに、今の僕に手話を読み解くことが出来ない。
「そこまでね」
第三者の声がプールに響く。冷静さと色香が含まれる凛とした声音だ。
後ろを振り向くと、胸下辺りで腕を組んだスーツ姿の中条さんが立っていた。
「優太君、ゲームオーバーよ」
中条さんはそう言って僕の隣を通り過ぎ、美月さんの前に立つ。
何やら二人は指や表情を動かし、会話を交わし合っているようだが、僕にはてんで理解が出来ない。
「後で話があるから、優太君はココにいなさい」
美月さんとのお話が終わったのか、中条さんが振り向いて僕と向き合う。
「ぇ?」
僕は中条さんの登場と言葉に素っ頓狂な声を出し、間抜け面を晒す。
「聞こえなかったのなら、そのまま帰ってくれてもいいのよ?」
「い、います! ずっと」
「ずっといたらストーカーよ」
中条さんは焦って前のめりで答える僕の言葉を冷静に突っ込み、茶化すような微笑を浮かべた。
「いや、それは……」
次の言葉を困る僕になどかまっている暇はないとばかりに、中条さんは再び美月さんと向き合った。
「み・つ・き」
中条さんは、ゆっくり美月さんの名前を呼ぶと、芸能人が結婚指輪でも見せるように左手の平を美月さんに見せ、自分の方へ腕を引く。それが手話として、何らかの意味を差しているのか、ただのジェスチャーなのかさえ、今の僕には分からなかった。
下唇を少し噛む美月さんは小さく頷く。その表情は、どこか悲しくて寂し気だった。
中条さんはそんな美月さんに眉根を下げ、小さく頷き、先へ歩く。その後ろを美月さんがついていく。僕を通り過ぎる二人からは、シャネルの香水とフローラルシャボンが混じり合った香りが漂う。
香りだけ残していく二人の背中が見えなくなるのはすぐなのに、待っている時間は嫌に長く感じた。
†
「優太君」
同じ場所で突っ立って待っていた僕の背中に声がかけられる。
振り向くと中条さんがいた。美月さんを部屋まで送っていったのだろう。
「ちゃんといたのね」
「はい」
「美月と話してどうだったかしら?」
「それは……」
ほんの少しでも話せて嬉しかったのは事実だが、今の自分ではどうしようもないと実感したのも、また事実である。
「まだ美月と話したい?」
中条さんの問いに深く頷く。
「でも、君には話す方法がないんじゃないかしら」
「……」
中条さんの言葉に、ぐぅの音も出ない。それでも、僕は言葉を絞り出す。
「今すぐには無理でも、これから方法を取得していきます。それまでは筆談で……」
「美月は文字が得意じゃないのよ」
中条さんは僕の言葉を掻き消すように言った。
「ぇ?」
僕は中条さんの言葉の意味が理解できず、深い答えを求めるように聞き返してしまう。
「これは、美月から君へ」
中条さんは僕の疑問には答えることなく、一通の手紙を差し出した。
夜空に星屑のような星々を隠すような曇り空と、右斜め上に三日月がプリントされた封筒だった。
「もらってもいいんですか?」
僕は思わぬものを差し出され、きょとん顔で首を傾げる。
「君がいらないのなら、美月に返すけど」
中条さんは僕をからかうように、封筒を持っていた腕を自分の胸に引き寄せようとする。
「い、いただきますッ!」
僕は慌てて、半ば中条さんの手から手紙を受け取った。
「⁉」
受け取った際、裏側に書いてあった宛名の字が目に入り、思わずハッとする。
「ふふふ。想像通りの反応ね。中を見たらもっと驚くでしょうね」
「ぇ?」
美月さんが書いた文章の中身さえも確認済みだと言うことに、多少の驚きが零れる。
「確認するのは当たり前でしょ? 出来うることなら、今の美月を他者へ混じり合わせたくないのだから」
「それは、美月さんがモデルだからですか?」
「あら、もう知ったのね」
中条さんは、意外と早かったわね。とでも言いたげな顔で、ほんのり目を見開く。
「兄さんが持っていた雑誌で見ました」
僕は起きた出来事そのままに答える。
「失礼だけど、お兄さんはなにをされている方?」
「……言いたくありません」
正直に答えても良かったのだが、悪いイメージを持って欲しくないと思い、つい口つぐんでしまう。高校生のとき、教員に兄さんの業種を知られて白い目で見られたことがある。若い子であるほど抵抗はないだろうが、酸いも甘いも知り尽くした大人が僕達に向ける目は冷たい。
「あぁ、夜の住民なのね」
「⁉ ぼ、僕何も言っていません」
俯いていた僕は勢いよく顔を上げ、やや早口で言う。それはもう肯定しているも同然だった。
「ここに住んでいる住民は著名人や社長。医学や弁護の道で生きている人が多いのよ。業種すら言えないのは、君が何処かで他人の目を気にしているから。人によって、夜の住民として生きてゆく人を毛嫌いする人もいるものね。君のお兄さんがどれほどの立場にいるか分からないけれど、ココに住むくらいだもの。それなりの地位を築き上げたのでしょう? その事に関して、私は尊敬の意を示すわ。例え、どんな働き方をしていようともね。どんな仕事でもそれなりの地位を築くことは、生半可な気持ちでは出来ない。競争率が激しい世界で在ればあるほどね。もし君がお兄さんを隠すべき対象としているのなら、私は君を軽蔑するわ。お兄さんがいてこそ、今の君がいるはずではないのかしら? 美月と距離を縮めるより、お兄さんとの心の距離を縮めた方がいいんじゃない? また一週間後、同じ時間、ココで」
中条さんは話したいことだけ話し終えると、颯爽とこの場を後にした。
残された僕は、しばし呆然と突っ立っていることしかできなかった。
†
兄さんの寝室。
僕が大の字になっても、寝返りを豪快に打っても、充分すぎるほどゆとりのある外国製キングサイズベッド。僕はそこにうつ伏せで倒れ込むように、ダイブした。
美月さんが書いてくれたという手紙は、僕のバッグにしまってある。現在、手放しで喜んで小躍り出来る程の心境には至れない。
――業種すら言えないのは、君が何処かで他の目を気にしているから。
――もし君がお兄さんを隠すべき対象としているのなら、軽蔑するわ。お兄さんがいてこそ、今の君のはずではないのかしら?
中条さんに言われた言葉が僕の頭でループする。
確かに、僕は兄さんの仕事を周りに隠してきた。
僕は本来、父の姉の家にお世話になっていくはずだった。
実際、両親が無くなってすぐ、三ヶ月間お世話になっていた。だが父の姉である美保さんには、小学校三年生の子供、海人君がいて、すでに温かい家庭が出来上がっていた。そこにいる僕は、異物のような存在。
ありがたいことに、美保さん達は僕を温かく迎え入れてくれていたし、温かく接してくれていた。だがそれは表側でしかなかった。
裏側では、美保さん夫妻が資金面に困っていることを知っていたし、海人君は自分の母親が取られてしまうのではないかと、僕に警戒心むき出しだった。
正直、肩身が狭くて息苦しかった。ありがたいことだと充分に理解していながらも、これ以上迷惑をかけてはいけないと、常にいい子の仮面を被り続けないといけない。
僕の家ではないから、簡単に友人を呼べない。僕の両親ではないから、授業参観日のお知らせは秘密にした。お小遣いをもらうことも申し訳なく、受け取ったお小遣いは使わずに貯金していたし、小さくなってしまった上履きを無理やり履いていた。
何より、心許せて話せる人がいない。という毎日が辛かったのだ。
そんな日々を半年間続けていた僕を救ってくれたのは兄さんだった。
ホストの仕事が軌道に乗ったから一緒に住もう。と迎えに来てくれた兄さんは、僕にとってヒーローだった。
その時の兄さんは、黒縁眼鏡と黒髪のウィッグをかぶり、夜の仕事を伏せて美保さん夫妻との話をつけた。何故そこまでして業種を隠し通したのか、僕は半月後に理解することになった。
――兄が夜の仕事をしていると、弟もロクなのに育たない。
熱を出した兄さんの看病をして遅刻してしまった僕に、担任が放った言葉だ。
――あの子よ、お兄ちゃんがホストしてるって子。
――教育上悪いわね。うちの子に悪影響を及ぼさないといいのだけれど。
授業参観時にコソコソと陰口を叩くクラスメイトの母親達。
――さっすが、ホスト様の弟君。女の子に声をかけるのがお上手。それ、本当に笹木のか?
女子クラスメイトが落とした消しゴムを拾って手渡しただけで、男子クラスメイトが口笛を吹き茶化す。もちろん、僕が事前に用意した消しゴムなどではない。
そう言った件があり、高校は地元より遠い場所を選び、そこでは兄さんの存在を隠していた。
授業参観や三者面談日を隠してしまうこともあったし、友人を泊まらせることもなかった。
感謝はしていたが、兄の存在を堂々と明かすことが出来なかったのだ。
「兄さん、ごめん……」
申し訳なさと、自分の弱さで涙が零れ落ちる。
自然と零れ落ちた言葉が兄さんに届くことはない。
「……手紙」
一人でしばし泣いた後、僕は美月さんからの手紙を受け取っていたことを思い出す。
ずぴっと鼻水を啜り上げ、服の袖で涙を拭った僕は、フローリングに腰を下ろす。
「なんて書いてあるんだろう?」
ベッドサイドテーブルの脚に寄りかけるようにして置いてあった、ショルダーバックにしまっていた手紙を、おずおずと取り出す。
封筒の裏に貼られていた満月のシールをそっと剥がし、中身を取り出す。
「ふぅ」
僕は緊張の糸を解すように、小さな息を吐く。
四つ折りにされていた便箋を広げた瞬間、僕は目を見開くことになった。
「ぇ?」
思わず戸惑いの声を溢してしまう。
そこに綴られていた文字は、ほとんどがひらがなだったのだ。
【白崎優太さま。
白崎優太さま、ごきげんよう。
おてがみ、ありがとうございました。
とても、うれしかったです。
わたしのなまえは、天海 美月とかいて、あまがい みつき。といいます。
白崎優太さまのこと、ずっとおぼえています。
わたしのことを、おぼえてもらえていたこと、すごくうれしいです。
白崎優太さまは、このマンションにすんでいるんですか?
わたしは、中条さんのところで、くらしています。中条さんは、わたしを、2ばんめに、たすけてくれたひとです。おしごとをしている中条さんは、とても、カッコいいです。
わたしはいま、中条さんに、いろいろなことを、おしえてもらっています。
中条さんは、いつもおしごとが、いそがしいです。
わたしは、中条さんがおしごとのときは、このマンションで、ずっとひとりですごしています。
中条さんがおしごとのときは、中条さんのおへやで、すごしています。
白崎優太さまは、ふだん、なにをされていますか?
わたしは、ひとりでおうちのなかにいると、さみしいときがあります。
もしよかったら、またこうして、おはなしをしてもらえると、とってもうれしいです。
天海 美月】
手紙に綴られていた文字達は達筆どころか、文字を覚えたばかりの小学生のようだった。文字が得意じゃない。と中条さんが言って通り、漢字は人名しかない。
何故、僕だけが“さま”付けなのかが分からない。中条さんならまだしも。
中条さんが二番目に美月さんを助けた、とは一体どういうことなのだろう? 二度ということは、一度目もあるのだろう。だが美月さんの分面通りならば、一番目に助けてくれた人は、中条さんではなかったということになる。
モデルとして活動しているのにも関わらず、なぜ引き籠っているのだろう?
まさか、誰かに命でも狙われているのではないだろうか?
僕は美月さんに対し、分らぬことが増えてしまったと同時に、美月さん身に対する心配や不安事が増え、眉間に皺を寄せる。
便箋を戻した封筒をバッグにそっとしまった僕は、のそのそとベッドによじ登るようにあがり、枕に突っ伏した。枕から兄さんがつけている香水の匂いがする。
ウッド系の甘さと色気のある大人の男性の香り。それは、白崎龍優ではなく、『龍』の香りだ。
その香りに酔いながら、美月さんになんて返事を書こうかと頭を悩ませる。が、いつのまにか浅い眠りについてしまった。
†
一週間後――。
深夜二時――。
僕は美月さんに宛てた手紙を手に、マンションのプールへと訪れていた。
「きたのね」
リクライニングのプールサイドチェアで、組んだ足を斜めにずらして浅く腰掛けていた中条さんは、僕に視線を向ける。
「はい。勿論です。ぁ、こんばんは」
中条さんに歩み寄りながら答える僕は、思い出したかのように、挨拶の言葉を付け足した後、視線をさ迷わせた。
「こんばんは。……どこを探しても、ここに美月はいないわよ。今日は連れてきていないもの」
「!」
中条さんから全てを見透かされているようで、ドキリと胸を跳ねさせて目を見開く。と同時に、中条さんに失礼なことをしてしまったと、胸の内で自分の行動に反省する。僕は慌てて軽く頭を左右に振って邪念を落とし、中条さんとの会話に意識を集中させた。
「美月からの手紙は読んだのかしら?」
「はい」
僕は小さく頷き、中条さんの目の前で両膝をつく。目上の方を見下ろす形で話すのは、失礼に値すると思ったからだ。多少膝が痛むものの、使用可能時間を終えたプール施設床には一滴の水滴も残っておらず、ズボンが濡れることはなかった。
「……真面目だこと」
中条さんは僕の意図を汲み取ったのか、刹那目を丸くさせ、微苦笑を浮かべた。
「ありがとうございます。褒め言葉として受け取っておきます」
「どうぞご自由に。それで? 美月の手紙を読んで、どう感じたのかしら?」
「どう……とは?」
僕は怪訝な顔で首を傾げる。
「そのままの意味よ。字が下手すぎる、なぜ人名しか漢字ではないのだろう? とか。……少しは、美月に幻滅したかしら?」
中条さんはどこか僕を試すかのようにそう問うと、そっと口端を上げる。
「いえ。驚きはしましたが、幻滅なんてしません」
僕は中条さんの瞳を見つめ、はっきりした口調で断言した。
「何故?」
微笑を浮かべる中条さんは、落ち着いた声音で問うてくる。
「今の僕は、美月さんのごく一部すら知らないからです。美月さんは帰国子女などで日本語が苦手なだけかも知れませんし。お手紙には、中条さんの事を二番目に助けてくれた人、と言う風に書いていましたから、事故かなんらかで言語記憶を失ってしまったのかもしれない。何かしらの病で、文字を書くことが難しいのかもしれない」
「……君、凄い想像力ね。感心するわ」
僕の答えが意外なものだったのか、中条さんは珍しく目を丸くさせて驚きの色を見せた。
「今僕の目の前に映り、僕の知りえる人は、その人の全てじゃない。知り合ってばかりであればあるほど、僕はその人の表しか知らないし、分からない。人は裏にこそ、その人の本質があり、その人が本来持つ魅力なんだ。だから、お前も人の本質を見抜き、魅力に気が付ける人であれ。本質を見抜き、その人に寄り添える優しい人であれ――というのが、ホストをしている兄の言葉であり、教えです」
僕の想像力が凄いわけじゃない。
あらゆる方向性を持って人を見ることで、人の本質に近づくことが出来ること。人の本質を見抜くことの大切さ。それに伴った想像力を養うこと。そういった方向性に僕を導き、示してくれた兄さんがいてこそ、今の僕がいるのだ。
「そう。お兄さんの存在を認めるのね」
中条さんは柔らかな笑みを口端に浮かべる。その口調は、いつもよりもほんの少し、柔らかい気がした。
「はい。僕は一度だって、兄を恥ずかしいと思ったことはないと思っていました。ただ、兄の存在を知った皆の反応が変化することが嫌だった。恐ろしかった。それを跳ね返すだけの強さが、僕にはなかったんです。きっと、それはどこかで兄の仕事を恥ずかしいものだとか、公にはしてはいけないんだとか、バレたらハブられる……とか、なんか、色々な思い込みがあったからだと思います」
僕は自分を情けなく思い、苦笑いまじりに話す。
「世の中は偏見の目ばかりよ。お客様の求めているモノを瞬時に見抜き、ソレを提供していくということは、口で表現するほど簡単なものじゃない。人の本質を見抜く目を養い、ソレを提供していけるスキルを磨き、臨機応変に対応出来る場数も踏んでこなければ、お客様一人をも満足させることなど出来ない。どの仕事も、上位に立つことは並大抵なことじゃないわ。美月のことをそんなに想像できるのなら、お兄さんのことも少し想像してみれば理解できるでしょ? これから先、お兄さんがどんなに偏見の目を向けられたとしても、君だけはお兄さんの見方でいてあげることね」
「はい!」
僕は中条さんの言葉に、力強く頷いた。
「それで、美月への手紙は? 持ってきたのでしょう?」
「ぁ、はい」
中条さんの言葉でハッとする僕は、グレーのフード付きパーカーのお腹ポケットに忍ばせていた手紙を取り出し、中条さんにそっと差し出すように手紙を見せる。
「確認しても?」
「どうぞ」
「そう。じゃぁ、遠慮なく」
手紙を受け取った中条さんは例のごとく、封筒に貼ったシール下半分を綺麗に剥がし、便箋に目を通してゆく。
【天海 美月 様
天海さん、こんにちは。
中条さんから、お手紙をうけとりました。おへんじ、ありがとうございます。とてもうれしかったです。
天海さんのお名前をしれたことも、おぼえていただけていたことも、うれしいです。
僕に“さま”をつけなくて大丈夫です。むしろ、つけないでいただけるとありがたいです。
僕はここのマンションにはすんでいません。僕は八王子にある、レトロなアパートにすんでいます。このマンションにすんでいるのは、8つ年上の兄です。僕はアルバイトをしながら、大学生をしています。せんもん大学ではありません。
兄はホストクラブでホストをしています。兄は夜から、あけがたまで、はたらいています。
僕は、兄のはたらいている姿をみたことはありませんが、たぶん、カッコいいのだと思います。
兄はおきゃくさまの笑顔ため、しんしてきマナーや英会話などをマスターしています。それだけではなく、毎日ニュースペーパーやテレビニュースなどで、せかいじょうせい、のことなどを、インプットしています。
かくいう僕は、マナーも英会話もにがてです。これからは僕ももっと、学びたいとおもいます。
兄は男性としてカッコよくなるため、美容や身体作りにも、よねんがありません。おなじ兄弟なのに、スタイルが全く違うので、ズルいです。兄さんを動物でたとえるなら、クロヒョウですが、僕はハムスターです。
お店ではカッコイイ、セクシーだとか言われているようですが、僕にとってのカッコいい、というかんじょうとは、少し、ちがうのかもしれません。
父と母は、僕が中学生のときに、天国へ旅立ちました。僕はしんせきの家にあずけられましたが、すでに大人になっていた兄は一人暮らしを。ひつぜんてきに、はなればなれとなりました。
はなれるとき、兄は「ぜったい、むかえにくるから。それまで待っていてくれ」と言いました。
その半年後、兄は僕をむかえにきてくれました。
そこから兄は僕が20才になるまで、僕をそだて、守ってくれました。いつだって僕を守ってくれた、カッコイイ兄です。
僕でよければ、またこうしてお話してもらえると、うれしいです。
白崎 優太】
「えらく赤裸々に書いたのね。書いてあることは、全てが本当のことなのかしら? あと、美月に合わせて平仮名を多くしたの?」
「えぇ。まぁ」
漢字が書けないのなら、漢字も読めない可能性があると思い、出来る限り平仮名にすることを心掛けてみた。それと、兄の存在を隠すこともしなかった。中条さんの言葉で、僕の心が入れ替わったからだ。
「相手のことを知りたいなら、まずは自分から心を開こう、ってこと?」
中条さんに図星を突かれた僕は、苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
「君がどんなに心を開いたところで、美月の過去は知れないわ。君も、私も……」
「ぇ?」
中条さんの言葉の意味が分からず、怪訝な顔で中条さんを見る。
僕だけならまだしも、なぜ中条さんまでもが、美月さんの過去を知れないのだろう?
「あの子にはね、過去の記憶がないのよ」
「え? どういうことですか?」
中条さんの返答に、ますます僕の眉間の皺が深くなるばかりだ。
「私と美月はなんの血の繋がりもない。あの子は私が拾った子だから」
「えっと、すみません。もう少し分かりやすく教えてもらえませんか? 拾ったって……捨て子、ということですか?」
中条さんかの唐突に明かされる話に、僕は戸惑う。
「えぇ。三ヵ月前のことよ。仕事に行き詰った私は、真夜中の海に行ったの。誰もいないはずの浜辺を歩いていたら、あの子が倒れていたのよ。それも、産まれたままの姿でね」
「⁉」
僕は中条さんの言葉に瞠目する。言葉が出てこない。
「誰かから乱暴に扱われたのかと考えたけれど、あの子の身体には、かすり傷一つ、跡一つついていなかったわ。自殺するにしても、一糸まとわぬ姿というのも可笑しすぎる。生きているようだったから、取り合ず警察に通報しようと、バックからスマホを取り出したらあの子が目を覚ましたのよ。話が聞けると安堵したのも束の間、あの子は何かを叫びながら転がるように逃げ回って、本当に大変だったわ。だって服を着ていないんだもの。事情を聞こうにも声が出せないし、砂に文字を書いてもらおうとしたけれど、あの子は文字が書けなかった」
中条さんは履いていた黒のパンプスに視線を落とし、落ち着いた口調でそう話す。
「天海美月。って書いていましたよね? ちゃんと自分の名前を憶えているようですし、今では文字も書けています。時期に記憶も戻るんじゃ……」
中条さんは僕の言葉を否定するように、重い息を小さく溢し、控えめに首を左右に振った。
「その名前は、私がつけたものよ。よくよく話を聞いたら、名前も年齢も覚えていないのよ。自分に家族がいるかどうかも分からないし、何故浜辺にいたのかも分からない。自身で分かっていることは、ある人を探していることと、人の体温に触れ合うことを嫌う。ただ、それだけ」
「ただそれだけって……」
僕は中条さんの話が信じがたくて、言葉が見つからない。質問しようにも、何を質問すべきか分からない。目の前にいる中条さんでさえ、美月さんの存在に戸惑っているようだった。
「……その後、警察へは?」
少しの間が開いてしまったが、僕はありきたりな質問を絞り出す。
「行っていないわ」
「何故ですか?」
「それは言えない」
「モデル業をしているのは、その影響ですか?」
深追いしても無駄だろうと、僕は質問を変えた。
「今はね。あの子の探している人が見つかるかもしれないし、あの子の保護者が見つかるかもしれない」
「今は?」
僕は中条さんの真意が分からず、首を傾げて問うしか出来ない。
「私は美月を表舞台に出すつもりはなかった。だけど、モデルが急に降板をして代理を探さなければいけなくなったことで、風向きが変わってしまった。洋服と広告のコンセプトにあった外国人モデルを一日で見つけ、来日させる必要があったのだけど、無理に等しい。国外と国内にいるモデルを探しに探していたら、美月が名乗りを上げたのよ。私も切羽詰まっていたし、クライアントのお眼鏡にもかなった。その後、想像以上の反響があってね」
「それだったら、もっと多くのメディアに多く」
「それはできないわ」
ぴしゃりと一刀両断する中条さんに、「なぜですか?」と問うてみる。
「大々的に人気になってしまうと、後に面倒なことになってしまう。家にマスコミをはられたり、罠に駆けられたりなんて面倒はごめんだわ。それに、あの子を多くの人に携わらせる分だけ、あの子に危険が及ぶわ。命のね」
中条さんは、“命のね”という言葉を強調させるように言って、僕に視線を向ける。その瞳は生きているものの、顔色にはどこか疲れを感じさせた。
「どういうことですか?」
「さぁ、知りたければあの子から聞きなさい。簡単には教えないでしょうけど」
中条さんは乾いた笑みを浮かべる。その瞳には、脆さが含まれているように感じた。
「……中条さんは知っているんですか?」
「深く知っているわけじゃないわ」
「そうですか」
自然と僕の口から重い溜息交じりの頷きが零れ落ちる。中条さんでさえ知らないのに、僕がソレを知れる日などくるのだろうかと、少し弱気になってしまう。
「この話を聞いてもなお、美月と親しくなりたい? 君はまだ若い一般大学生。秘密を抱えた謎の美少女と親しくなってボロボロになるより、もっと楽な道があるんじゃない?」
「どうしてボロボロになると決めつけるんですか?」
少しの苛立ちが声音に含まれてしまう。
「目に見えているからよ」
「今だけで決めつけられた未来なんてものは、ないと思います。人生、何が起きるか分からない」
僕は一般的と言われる穏やかな幸せの道を歩むはずだった。だけど、ある日突然両親を失い、兄と離れ離れで暮らすこととなった。
僕は一年に二~三回程会う間柄の美保さんの家で暮らすこととなり、兄さんはホストとなった――想像もしていなかったことばかりが起きる。美月さんとの出会いだってそうだ。今の延長戦にある未来など、この世には存在しない。
「顔に似合わず頑固ね。手話の方は?」
中条さんはこれ以上話しても意味がないわね、とばかりに小さく息をつく。
「か、会話出来るほどにはまだ」
いきなり逸れた話に対応出来ず、僕はどもりながら答えた。
「そう。取り合えず、これは美月に届けておくわね。また一週間後。朝五時、マンションのエントランスへ来なさい。じゃぁ、おやすみ」
話しは終わりだとばかりに、中条さんはヒール音を鳴らして去っていった。
プールに一人残された僕は、緊張の糸から解放されたように、その場へ大の字になって寝転ぶ。
全身に床の冷たさが沁みこんでゆく。ガラス張りの窓から見える満月は、半月雲隠れしていた。
†
一週間後。
マンション、プラージュ・零。エントランス。
ブドウを主としたステンドグラスランプが四台あり、一台ずつ端に置かれている。ランプが置かれた中央には、ワイン色のベアロ生地の背もたれ付き椅子が十六脚あり、その中央には丸いガラステーブルが四脚。カウンター席が合計四席出来るように、それぞれ設置されていた。
僕は左上端の席の椅子に腰を下ろす。座り心地が驚くほどふかふかしていて、もはやベッドのようだった。
落ち着かないまま待ち人を待っていると、ほどなくして黒のパンツスーツスタイルをした中条さんが現れた。
「おはようございます」
勢いよく立ち上がる僕は、お行儀よく会釈をする。
「おはよう。何も飲んでいないのね」
テーブルを流し見しながらそう言う中条さんに、着席する気配はない。そのため僕も、立ったまま話を続けた。
「はい。僕はここの住民でも来客でもないので」
ここのエントランスでは、コンシェルジュにお願いをすれば、コーヒーなどのドリンクがもらえるサービスがあるらしい。堂々とお願いできる器は、今の僕にはない。
「そう」
と相槌を打った中条さんは、持っていた黒色のクラッチバックから、一通の封筒を取り出した。
「これ、美月からの返事」
「もらっていいんですか?」
あっさり美月さんの手紙が差し出されることに戸惑う僕は、ついつい弱気に確認してしまう。
「いらないなら持って帰るけど?」
「ぇ、いります! 下さいッ」
一度差し出した手紙を、再びバッグに終おうとする中条さんに慌てた僕は、前のめりで両手を差し出し、頭を下げる。
「いるなら最初っからそう示しなさい」
中条さんは、しょうがない子ね、とばかりに肩を竦めて見せる。
「は、はい。すみません」
「弱気でいるばかりでは、掴めるモノも掴めなくなるわよ」
中条さんはそう言いながら、余裕ある大人な笑みを浮かべ、僕の広げられた僕の両手に、そっと手紙を置いた。
「ありがとうございます」
ほっと安堵する僕はそっと手紙を握り、自分の胸に当てた。
前回は、夜空と月が印象的な封筒だったが、今回は太陽が昇った穏やかな朝の海が印象的な封筒だった。美月さんは海が好きなのだろうか?
「次は二ヵ月後」
「二ヵ月後⁉」
穏やかな喜びを噛み締める間もない驚きの言葉に対し、思わずオウム返しをしてしまう。
「何か問題でも? むしろ、好都合じゃない?」
「好都合?」
「この与えられた二ヶ月間で、出来ることがあるでしょ? ただ何もせずに、待て、をするだけでは、ただの犬よ」
「犬……」
「じゃぁ、これで失礼するわね」
よほど忙しいのか、中条さんは颯爽とこの場を後にした。
残された僕は手紙を手に、この二ヵ月で何をできるのかをしばし考える。ただの犬で終わるのだけは、勘弁したい。
小さな息を吐きつつ、手紙をバッグにしまった僕は、静かにマンションを後にした。
†
大学からアパートに帰宅した僕は畳の上に横たわる。美月さんからの手紙は、まだ未開封のままだ。
「疲れたなぁ」
苦手な学科に頭を悩ませた本日、脳みそはパンク寸前だ。出前でも注文したいが、そこは節約。冷凍ご飯と冷凍カレーをレンジで温める。
その間に、美月さんからの手紙を戦々恐々で開封した。
【白崎 優太 さま】
宛名に様がついていたことに、僕は早速ガクリと肩を落としつつ、先を読み進める。
【おてがみ、うけとりました。おへんじ、ありがとうございます。とても、うれしかったです】
それはなによりです。と内心で頷き、視線を泳がせる。
【さま。づけしないほうがよい、ということですので、優太さん。と、およびいたしますね。私のことは、美月。と、よんでもらえると うれしいです。天海。とよんでくださるかたはすくなく、あまりなれていないのです】
「ふ、不意打ちっ」
いきなり名前で呼ばれる嬉しい驚きにトキメキを覚える。フルネームの様づけを思うと、驚きの距離感を感じる。呼ばれなれていないということは、中条さん以外には『mee』と呼ばれているのだろうか?
【おなじマンションでは、なかったのですね。また出会えるきかいがあるのではないか、ときたいしてしまいました。出会えた日は、ぐうぜん、だったのですね。またいつか、出会えると うれしいなぁ、とおもいます】
そこまで読み進めた僕は、「ぁ」と声を上げる。美月さんが名前以外の漢字を書けていることへの驚きだ。
【カッコイイお兄さんなのですね。
ところで、ホスト、というおしごとは、どういうおしごとなのですか?】
「どういう……」
美月さんの質問に首を捻る。
僕は一度も兄さんが仕事をしている姿を見たことがない。何をしているのか、どういう仕事なのか、よくよくは理解していない。
兄さんの職場にお客さんとして出向くには、中々に勇気があることだ。そもそも、僕はそこまで裕福ではない。スーパーの見切り品やセール調べに余念がないし、自炊自炊の毎日。
客として行って、お金が足りなくなってしまっては大変だ。兄さんに迷惑はかけたくない。
かと言って、ホストとして潜入するわけにもいかないし、過去の職業体験学校行事であるわけもない。
ホストクラブというのは、本当に未知の世界だし、僕にとってホストの兄さんは未知なのだ。
僕が知っているのは、疲れ果てて帰宅した兄さんが玄関やソファで眠っている姿。出勤前の姿。スマホの画面に険しい顔をしている姿。後は、兄としての素顔しか知らない。
仕事をする兄さんを見て見たい気持ちもあるが、兄さんの世界に足を踏み入れる気にはなれなかった。兄さんも、僕が訪れることを望んでいる気もしない。
【ごりょうしんのこと、とてもかなしいです。私のおとうさん、おかあさんは、てんごくへ たびだっています。すこし、おきもち、わかります。ただ、優太さんが一人ぼっちにならなくて、よかったです。おにいさまが、優太さんのおそばにいてくれて、よかったなとおもいます。
2人でいられれば、つらいことはわけあい、たすけあい、ささえあいができます。2人いれば、笑顔も2ばい。うれしいことも、たのしいことも2ばい、になりますものね。
私も、中条さんがそばにいてくれたから、色々なことをのりこえられています。出会ったよるから、たすけられて、いまでもずっと、たすけられています。
私は今、ときおり中条さんがデザインしている、おようふくのモデルをしています。私はモデルみならい、のようなものですが、少しでも、中条さんのおてつだいができたらいいなぁと、思っています。
いつか私がいなくなるまえに、中条さんにおんがえしができたらいいなぁと思っていますが、いまはまだまだ、むずかしいです。
今はまだ、優太さんと会うことはいけないと、中条さんにいわれています。会ったところで、どうしようもないでしょ。というのです。私は優太さんとお会いできるだけで、とてもうれしいのですが。
おてがみは、中条さんに1どよんでもらわないとダメなのが、それが、すこしはずかしいです。だけどこうして、おはなしできることは、すなおにうれしいです】
勉強したのだろうか? 前回よりも漢字が増えていること、文字のバランスが整ってきていることに驚く。
――ただ何もせず、待て、をするだけでは犬よ。
今朝中条さんに言われた言葉が脳裏に過る。
美月さんは僕の返事が届くまでのあいだ、漢字や文字の勉強をしていたのだ。僕はと言えば、手話どころか、指文字でさえもマスター出来ていない。
僕は自身を呆れるように小さな息を吐き、丁寧に便箋を封筒に戻し、バッグにしまった。
手話をマスターしたい気持ちはあれど、中々学べていない。それは、大学の勉強やアルバイト、レポート提出や日常など何かにつけて理由をつけていた気がする。
手話を練習しても、役に立たなかったら無意味だと。美月さんと親しくなりたいと思いながらも、親しくなった先の未来があやふやで進めない。きっと、美月さんへの気持ちが不透明で、僕の覚悟が足りないのだろう。
自分の不甲斐なさに項垂れる僕に対し、まるで声援をおくるかのようにして、電子レンジが高らかな音をだす。僕は重い腰をあげ、夕食の準備をする。
特売で一番安くなっていた辛口カレーのスパイスの香りが、落ちた気分を刺激した。
これを食べたら勉強しよう。まずは指文字をマスターするんだ。大丈夫。二ヵ月の猶予がある。日常会話を学べるくらいの時間はあるはずだ。あるはず、ではなく、確実に時間は存在する。それを生かすか殺すかは僕次第なんだ。
二ヵ月。それは、僕が持つ美月さんへの想いの覚悟を試すために与えられた期間なのだと思う。
僕は腹ごしらえと気合い注入とばかりに、カレーライスを一口、口に運ぶ。
特売品激辛カレー。さほど辛味に強くない僕には刺激が強すぎて、自然と涙がでた。その涙に、悔しさと後悔の色が混じっていることに気がつかぬふりをして、僕はカレーライスを口に運び続けた。
†
翌日。
「兄さん、少し聞いてもいい?」
僕はソファーで寛いでいた兄さんと向き合うように、カーペットに正座する。
「な、なに? 改まって。怖ぇんだけど」
「怖くないよ。……多分」
「多分ってなんだよ、多分って」
「僕、もう二十歳になったんだ。大学生になった」
「は? 知ってるよ。バカにしてんのかよ?」
僕のスタートダッシュが悪く、兄さんは意味不明だとばかりに、眉間に皺を寄せた。
「馬鹿になんてしてないよ。これからが真剣な話なの!」
「真剣な話? 結婚でもすんのか? ご祝儀のおひねりとか?」
「違うよっ。まだ結婚しないし、ご祝儀のおひねりもしない。ちょっとは真面目に大人しく聞いてよっ」
全然話が前に進まないことに不服を覚える僕は、前のめりになって言った。
「へいへい」
寝転がっていた兄さんは起き上がり、足を開いて座る。真面目に話を聞いてくれるのだろうが、見た目も相まって皇帝オーラが凄い。ただのスゥエットのはずなのに。
「僕、このマンションみたいに凄い家ではないけど、一人暮らしをしてる」
「それも知ってるつーの。同棲もお金の援助も断られたしな」
兄さんはどこか不貞腐れているように言った。高校卒業後、めっきり兄さんに頼らなかったのを根に持っているのだろうか?
「兄さんは、僕を守るためにホストになったんだよね?」
「嗚呼~、未だホストをやってる理由を聞き出そうとしてるのか?」
話しの芯をつかれ、頷くことしかできない。
「……お前、取引業は向いてなさそうだな。本題に入るのが下手すぎる」
「そ、そこは今関係ないでしょ」
僕は気恥ずかしさでどもる。
「償いだよ」
「ぇ?」
思いもしない兄さんの言葉に戸惑う。償いとはどういうことなのだろう? お客様と何かあったのだろうか? それとも他の人と? 僕は頭の中でぐるぐると思考を張り巡らせてみるが、分かるわけもなかった。
「優太は知らないだろ?」
「何を?」
小首を傾げ、深い話を求める。
「親父が無職だったことを」
「ぇ?」
思わぬ事実に驚きを隠せない僕に、兄さんは話を続ける。
「親父は優太が五歳の時に会社をクビになった」
「どういうこと? お父さん、日中は家にいなかったじゃん。スーツ着て毎朝家をでていたし」
「俺達に隠すため、日中は家を開けていたんだ」
「家を空けてどこに? 次の仕事を探さなかったの? そもそも、なんでクビにさせられたわけ? お父さん、会社の次長だったんだから、早々に辞めさせられないはずだよね?」
「リークされたから」
「リーク?」
兄さんは僕のオウム返しに対し、苦虫を踏み潰したような顔で後ろ髪を掻く。
「親父は会社の若い女性と浮気をしていたんだよ」
「は?」
思いもしない言葉に、僕は鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔で兄さんを見る。
「だから、浮気していたんだよ。二十歳も若い女性社員に手を出した。それを知った女性社員が情報を集め、部長にリークした。決定的な証拠を突きつけられちゃ、クビにせざるを得ないだろう。それをネットに流されたらたまったもんじゃない」
「そ、それでどうしたの?」
兄さんは戸惑いを隠しきれない僕に答えを与え続けてくれる。
「どうもしねーよ。親父は仕事をクビにさせられ、俺達を騙すように過ごしていた。しかも、裏で浮気女性と仲良くしていた……というのは、葬式の日に知ったことだ。親父が会社を辞めて半年後には、親父とおふくろは離婚していた。親父が海外赴任するって話を聞かされたこと覚えてないか? 親父がずっと家を空けていたときがあっただろ?」
「うん。お父さんが帰ってこないことにぐずったら、お父さんは海外でお仕事しているからしばらく会えないのよ、ってお母さんが言ってた。それで、お母さんのお葬式の日に現れなかった父さんの事を兄さんに聞いたら、もう亡くなっていたって」
僕は過去の記憶を引っ張って話すそれが、僕の過去の事実だった。それ以外の話は、僕は知らない。
「嗚呼、そうだ。だが事実は少し異なっている」
「どういうこと?」
僕は怪訝な顔で首を捻る。
「……おふくろ達は、親父が会社をクビになった一ヵ月後には離婚をしていたんだ。家庭を失った親父は、浮気相手の家に転がり込んでいたらしい。その半年後、親父は事故死。浮気相手にゾッコンで再婚していた親父の遺産は遺言書によって、全て再婚相手の元に行ってしまった。おふくろは幼い俺達に事実を話せるわけもなく、お前には出張だと話し、俺には親父が事故死したという事だけを話した。俺もそれが事実であると信じていた。だが真実と思っていたものは、虚像だったってことだよ。母さんはその事実と俺達についた嘘を抱えて、あの日までずっと、俺達を育ててくれていたんだ。一年間は貯金でやりくりしていたけど、働かざるを得なくなった。その時の俺は十四歳で中学二年。中退して働くことは許されず、母さんが一人で頑張っていた」
「……知らなかった。全く」
僕は両肩を落とす。
「当たり前だ。その時の優太はまだ六歳だったからな。俺だって、親父の真実を知ったのは母さんの葬式の日だった」
「母さんは過労死だったって聞かされていたけど?」
「――まぁ、ある種な」
兄さんは僕から視線を逸らす。
「まだ何か隠しているの?」
僕は兄さんの言葉の間と自嘲気味な笑みを変に思い、詰め寄るように問いかけた。
「……おふくろは俺達を守るために、自殺したんだ」
「⁉」
瞠目して言葉を失う僕に、兄さんは話を続けた。
「おふくろは、多額の死亡保険をかけていた。追い込まれた母さんはその保険金を下ろすため、自ら命を落とした。その保険金の受取人は俺になっていたけれど、その時の俺は未成年。未成年が受取人である場合、親権者・または未成年後見人が手続きすることになっている。
本来、その保険金があれば俺が成人するまでやっていけたはずなんだ。だが後見人であるおふくろの姉さんは、保険金の半額を猫糞して、行方をくらました。俺は受け取った半額の保険金を使い、おふくろの葬式をあげた。
その後、俺は未来のことを見据え、しばらくの間は美保さんの力をかりた。美保さんに親父の事実を話したら償い精神が出たんだろうな。二つ返事で承諾してくれたよ。親父である弟の尻拭い、としか思ってなかったであろう美保さんの力を、そう長く借りるつもりはなかった。本当は、美保さんの力を借りずにいれたら最高だったんだけどな。あの時の俺では力不足だったから、すぐに現在の店で雇ってもらった。そこからは、お前の知るとおりだよ」
兄さんの話を聞いた僕は呆然とするしか出来ない。本題に入るまでの衝撃が大きすぎて、瞬時に次の話にいけない。
そんな僕の様子を複雑そうな顔で見つめていた兄さんは、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「優太、おっきくなったな。ありがとう」
「……なに、言ってんの? お礼言わなきゃいけないのはこっちじゃん!」
笑顔を見せてくる兄さんに少し苛立ち感じながら、僕はがぶりをふる。どうしてお礼を言われるのか意味が分からない。僕がいたから余計な負担がかかったはずなのに。今までの自分の能天気さと、無力さを悔いずにはいられない。
「いや、お前がいてくれたから、守り切りたい人がいたから、俺はここまでやってこられたんだ。お前の存在がいなかったら、きっと俺はロクな人生を歩まなかったはずだ」
「……兄さん、もういいんだよ」
僕の心を読み解くような言葉をかけてくる兄さん対し、僕は小さく首を横に振る。
「何が?」
「兄さん。もう、僕を守ってくれなくてもいいんだよ。自由に生きていいんだよ? 僕、覚えてるよ。小学校の頃、兄さんが獣医になりたがっていたこと。動物の本とか色々難しそうな本を学校で借りまくってたじゃん。その夢、叶えようとか思わないの? 今からでも遅くないんじゃないの?」
小首を傾げる兄さんへ届くように、僕は涙声になりながらも、真摯に言葉を投げかける。
「……そう、だな」
困ったように眉根を下げて笑みを浮かべる兄さんは、キッチンに足を向けた。煙草を吸うため、換気扇の電源を入れるのだろう。
「今更、獣医になろうなんて思わねーよ」
冷静な答えを返す兄さんはダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、煙草に火をつける。
「どうして? もう遅いの?」
「遅くはねーんじゃねぇ? やる気があれば、の話だけどな」
冷めて口調でそう言う兄さんは、テーブルに置いていたアンティーク調の横開きシガレットケースから、煙草を一本取り出して口に銜える。
「やる気を失ったってこと? そう言えば、償いってどういうこと?」
僕は兄さんと向き合うように、兄さんの正面の椅子に腰かける。
「母さんへの」
「?」
頭上でクエスチョンマークを浮かべる僕に、煙草に火をつけた兄さんは、すぐに答えを与えてくれる。
「俺は母さんを守れなかった。まだ義務教育すら終えてない子供に何が出来たか分からねーけど、もっと出来たことがあったかもしれねー。目の前にいたはずの大切な女性を、俺は幸せに出来なかったんだ。笑顔に出来なかった。だから、俺の元に来てくれるお客様達を、俺の傍にいる女性達だけでも、俺は笑顔になって欲しい。一人でも多くの女性を笑顔にしたいんだよ。もう泣かせたくない。女性に涙なんて似合わない。
実際、店にやってくる女性は何かしらの闇を抱えている人が大多数なんだ。俺がその人達に対して、根本的な解決や手助けは出来ないかもしれない。だけどさ、俺と言う存在が生きる活力になると言ってくれる人達がいるのならば、俺は、この仕事を続けていたいと思うんだよ」
兄さんは淡々と話す。その瞳は儚げでありながら、瞳の奥には信念があるように感じられた。
「それが、兄さんにとっての償い?」
「ただの自己満足だよ。お前が気にすることじゃない。俺は俺の人生を生き、お前はお前の人生を生きる。ただ、それだけのこと。つーことで、俺は今からアフターだから、夕飯は一緒に食えねーわ」
「……そう」
「寂しい?」
「……嘘で寂しいって言って欲しいの?」
「それはそれで虚しいな」
兄さんは苦笑いして煙草の火を消す。まるで、この話はもう終わりだ、とでも言われているようだ。
その後、兄さんは仕事の顔と洋服に切り替え、マンションを後にした。
残された僕は、一度気持ちをリセットしようと、自分のアパートに帰宅した。
†
「はぁ~」
僕は畳に寝そべり、盛大な溜息をつく。
思わぬ新事実に衝撃が隠し切れない。兄さんは今までどれだけ一人で苦しんできたのだろう?
――2人でいられれば、つらいことはわけあい、たすけあい、ささえあいができます。2人いれば、笑顔も2ばい。うれしいことも、たのしいことも2ばい になりますもんね。
ふと、美月さんの手紙に書かれていた言葉が脳裏に過る。
素直に美月さんの言葉に同感した僕だったが、本当は何も知らなかった。
守られてきた自覚は持っていたつもりだ。だけど実際は、自覚していたものよりも遙かに大きく守られていた。大人になってもなを、守られていたのだ。
今では、辛いことを分け合えていた気がしない。助け合い、支え合いなんてどうして思えていたのか。兄さんは、笑顔の裏で重い真実を抱え生きていたのに。
「兄さん、今は幸せなの?」
母さんのことはとてもショックだし、悲しい。何より、僕達がいなければ、母さんは死の道を歩まなくてよかったのではなかったのか? そう思わずにはいられない。
命をかけてまでの自己犠牲をすることがあったのだろうか? 本当にダメなら、孤児院という手もあったはずだ。第三者や第三の世界を頼ればよかったのではないのか。と思うが、何を思っても後の祭りだ。せめて、今を生きている兄さんには、自己犠牲精神で生きていて欲しくない。
兄さんは償いだと言った。これがもし純粋に天職だと感じているならば、こんなにモヤモヤすることもなかっただろう。だが兄さんは、確かに償いだと言っていたのだ。
「償うだけの人生は空しすぎる。……母さんは、きっとそんなことを望んでいないよ」
僕の呟きが兄さんに届くことはない。
その後、兄さんと僕の関係性や、兄さんの心に大きな変化が起きることもなく、二ヵ月の月日が立った。
変わったことと言えば、僕が手話をマスターしたことだ。
人は真摯に真剣に取り組めば、大半のことは可能なのかもしれない。
†
僕は中条さんと最後にあった日から二ヵ月が経った夜からは、毎晩深夜二時のプールに訪れたり、早朝六時からエントランスで中条さんが現れないかと待機したりしていた。
「二ヶ月立ったものの――これじゃまるでストーカーだよ」
「あら、今更気がついたのね」
「⁉」
唐突に響く声に、ビクリと肩を震わせる。
声がした方へと視線を向ければ、生成り色の膝下タイトスカートスーツを着た中条さんの姿があった。
「……中条さん」
「なにその顔。幽霊でも見たようね」
「ぁ、いや、そう言う訳ではなくて。まさか本当に会えるとは思ってなくて」
中条さんの言葉に僕は中条さんと向き合い、慌てて弁解をする。
「二ヵ月後とは言ったけれど、詳しい日付までは約束していなかったものね」
「どうして、僕がココにいるって分かったんですか?」
「貴方の行動なんて予定調和のようだもの。それに、待ち伏せは得意のようだから」
「そ、そうですか」
僕は中条さんの返答に苦笑いを返すしかない。
「それで? 貴方は二ヶ月間何をしていたのかしら?」
中条さんの言葉に待っていました! とばかりに、僕は目を輝かせる。
僕は両手を使い、学びの成果を見せつけるように動かした。
まずは、自分の鼻を右手の人差し指でちょんっと差す。
[僕]
自分のことを差す手話は、コレの他に、右手の人差し指で胸を差す二パターンあるようだが、僕は鼻を差す方で統一することにした。
そしてもう一つ覚えたことは、手話には強弱や表情がとても大切になってくるということ。
目上の方や年上の方と話す場合は、肩をすぼめて柔らかく指さしをする。
両手人差し指通しを胸の前で重ね、前に回転させる。
[手話]
空中に上げた右手の平を米神の横に下ろしながら握る。
[覚える]
少し曲げた右手の親指以外の指先を左胸に当て、軽くジャンプするように右胸に当てる。
[出来る]
ようになりました。は指文字で伝えた。
手話単語を多く覚え、敬語や言葉との繋ぎは指文字で表せるようになった僕は、どこか自信がついたように思う。
「そう。覚えたのね。日常会話ぐらいには出来るようになったのかしら?」
中条さんの問いかけに頭の上で丸を作り、大きく頷く。
「犬にはならなかったのね」
口元に弧を描いた中条さんは、どこか納得したように小さく頷いた。僕は中条さんの次の言動を待つ。
「じゃぁ、もう文通を止めてもらえるかしら。私、貴方達のポストになるほど暇じゃないのよ」
「ぇ⁉」
お褒めの言葉の一つでも頂けるのかと期待していた僕に、バチが当たったのだろうか?
僕は中条さんから出た言葉を瞬時に受け止めることが出来ず、瞠目することしか出来ない。
「お間抜けな顔ね。そんなに美月と文通出来なくなるのが悲しいのかしら?」
中条さんの言葉に、僕は素直にコクコクと頷く。まるで赤べこだ。
「時は令和。文通とはまた違う連絡方法が存在することを忘れていないかしら?」
僕をからかうように微笑を浮かべる中条さんは、左手に持っていた赤色のクラッチバックからスマホの二分の一程のサイズをした一枚の封筒を取り出し、僕に差し出してくる。
「?」
「あら、いらないの? 美月と繋がることが出来るリモートアプリのIDを書いたメモが入っているのだけど」
「もらっていいんですか?」
「いらないならいいのよ」
「いります!」
再びバックに終おうとする中条さんに対し、僕は慌てて両掌を突き出しながら食い気味に答える。
「なら最初っから受け取りなさい。受け取りを拒んでばかりいては、本当に欲しいモノや、大切な人は離れていくばかりよ」
中条さんはそう言って僕の両掌に封筒をそっと置いた。
「日本人において、謙虚は美徳だなんて言われているけれど、それは世界に出れば通用しないのよ。そして、ソレは貴方を幸せから遠ざける。美月ともっと親しくなりたいと思うのなら、自分の言動をよくよく考えなさい。それと、もうここには来なくて大丈夫よ」
中条さんは冷静な口調でそう言って、その場を後にした。
†
兄さんの部屋に戻った僕は、リビングテーブルの椅子に腰かけ、手紙の封を開ける。
中には、名刺サイズのメッセージカードが一枚入っていた。
【白崎優太 様
リモートアプリ OCEAN. ユーザーID mituki941
七時~二十時までなら、いつでも繋いでくれて構わないわ。けれど、くれぐれも、美月に無理はさせないようにね。リモート中、美月に何かあれば、私に電話をかけてきてちょうだい。このメモを確認次第、一度私に電話をかけてきて。話さなくていいから。
090――】
美月さんとリモートを出来るのも驚きだが、中条さんの携帯番号まで教えてくれたことに驚きを覚える。急展開すぎて喜びがついてゆけない。一体どういう風の吹き回しなのだろう? 注意喚起が時間しか書いていない。ということは、明日にでも繋いで良いのだろうか? いきなりで迷惑にならないのだろうか? それに、今の僕の手話技量だけで、本当にちゃんと美月さんとお話しすることが出来るのだろうか?
――日本人において、謙虚は美徳だなんて言われているけれど、それは世界に出れば通用しないのよ。そして、ソレは貴方を幸せから遠ざける。美月ともっと親しくなりたいと思うのなら、自分の言動をよくよく考えなさい。
中条さんの言葉が再び鼓膜に響く。
常に謙虚でいようと思ってきたし、心掛けてきた。それが正しいと思っていたし、それでいいと思っていた。
本来、謙虚さは縁の下の力持ちのような人のことを指すのだと思う。だけど僕は、自信の無さを謙虚の裏に隠して生きてきたのだと思う。
もちろんその謙虚さで得てきたものはあるかも知れない。だがその裏では、謙虚さのおかげで失ってきたモノもあるし、人から贈られる言葉のギフトを目の前で投げ捨ててきたことも、多々あったと思う。
今だって、行動的になれていない。相手のことを思うように装いながら、本当は自分が傷つくことが怖いだけなのだ。
普段からずっと自己主張の強い人はどうかと思うが、社会に出れば、自己主張をしていかなければいけない場面があるのだろう。何らかの取引に置いて、相手の要件ばかりを受け入れてばかりいては、こちら側が潰れかねない。たぶん、それは友情や恋愛関係でも言えるはずだ。
中条さんは多分、そのことを僕に伝えようとしてくれていたのだろう。美月さんと繋がる切符を手にしたのに、謙虚さの裏に隠した自信の無さで、その切符をただの紙切れにするのはありえないと。
「明日、繋いでみよう」
決心を静かに口にした僕は、小さく息を呟く。
「ぁ、電話しておかないと」
メモ内容を思い出した僕は、慌てて中条さんの携帯番号を登録してワンコールさせるのだった。
†
翌日――。
「ふぅ」
午前九時。
僕はアパートの一室で小さく息を吐く。
目の前には、甘栗色の円形型テーブル。その上には、白色のノートパソコンが開かれている。画面は既に、リモートアプリ OCEAN.内のユーザー検索欄になっている。
もちろんスマホからでも問題なくリモートは可能なのだが、手話で会話するとなると、画面が大きいに越したことはない。それに、パソコンからの方が回線が安定している。
「後はユーザーIDを検索して、通話リクエストをするだけ――なんだけど、緊張する~」
一人叫び声のように悶え、後ろに身体を倒す。雨漏りの跡が残る天井。電気から吊るされた紐。天井を這う蜘蛛が一匹。手で畳を撫でれば、少しざらつきを感じた。
「……全然、違う」
ボロアパートに住む一般庶民の僕。何か才能に長けているわけでもなく、ルックスが特別いいわけじゃない。就職に有利になるだろうと入学した大学が有名所と言う訳でもない。そこでの成績すら平均点。全てが平々凡々。
そんな僕が何故、兄さんと同じマンションに住む少女と、妖精のような美貌を持って世界で活躍するモデルの顔を持つ少女と、生きる世界が全く更なる少女との進展を、こんなにも望んでしまうのだろう。もし先へ進んでも、傷つくだけではないのだろうか?
「引き返せなくなる……」
もし美月さんとリモートが繋がってしまったら、当初から抱いていた淡い想いが、更に膨大してゆくことが分かり切っていた。それと同時に、この想いの先に光などないと、心が怯えている。
美月さんは僕のIDを知らない。ここで進むか停止するかは、全て僕次第。止まるなら、今しかない。
僕は今までのことは幻想だったのだと、長い夢を見ていたのだと、そっとノートパソコンを閉じた。
その後、僕は一週間何をするでもなく、大学生活を過ごしていた。
一週間に一回兄さんの家に行って家事をする今まで通りの生活。ずっとそうして生きてきたし、兄さんが結婚するまで、そうして生きてゆくつもりだった。
その生活が戻っただけ。ただそれだけのこと――。
†
中条さんに連絡先をもらってから、九日目の朝。
兄さんからコンビニアイスの買い出しを頼まれた僕は、マンション内にあるコンビニに訪れていた。
「あったあった」
兄さんから頼まれた、かき氷キャンディーを手にする僕の背中に、「弱虫君」という声が届く。
その聞きなれた声に思わず反応してしまう僕は、勢いよく首だけで振り返る。
「あら、弱虫君だと認めるのね」
微苦笑を浮かべた中条さんと目が合う。
「……中条さん」
「美月と繋がるチャンスを棒に振る気?」
「それは……」
「貴方は身を引けばそれで終わりでしょう。だけど、このままでは美月が持つ物語は終われない。貴方、美月の気持ちを考えたことはある? 待たされる側の立場、貴方なら分かっていると思っていたけれど……違ったみたいね」
と首を竦めて見せる中条さんの言葉に、僕は言葉をつまらせる。
「今日一日、貴方からなんの行動もしないのなら、貴方に教えたIDを変更するわね。そうすれば、貴方と美月は一生会うことも、話すこともないでしょう。よくよく考えなさい」
中条さんはそう話し、颯爽とその場を後にした。
残された僕は、しばし呆然とするしか出来なかった。
†
「う~ん……」
兄さんの介抱をし、家事や作り置きご飯を作り終えてアパートに帰宅した僕は、ノートパソコンの前で唸っていた。
時刻は午後二時前。充分に連絡可能な時間帯だ。
――貴方は身を引けばそれで終わりでしょう。だけど、このままでは美月が持つ物語は終われない。貴方、美月の気持ちを考えたことはある? 待たされる側の立場、貴方なら分かっていると思っていたけれど……違ったみたいね。
中条さんの言葉が耳奥で響く。
言われて初めて気がついた。
確かに自己完結した僕の物語は終わりを迎えるが、何も知らない美月さんの物語はずっとモヤモヤしたままで、終わりを告げることはない。
物語のページを開いても開いても、この先は無地のページばかり。それでも次を期待してページを開き続ける。それは僕の存在がどうでもよくなるまで、もしくは、対象を忘れられるまで続けられるのだろう。
昔、兄さんと音信不通になったことがある。
その時は兄さんの生存を心配したり、本当は嫌われて見捨てられてしまったのだと思い込んだり、今は忙しいだけなんだと言い聞かせてみたりと、眠れぬ夜を過ごしていたものだ。
このまま僕がなにも行動も起こさなければ、この物語は強制終了される。それでもいいのではなかろうかと思ってしまう僕は、なんて弱虫なのだろう。
――優太。未来のことを考えるな。過去を思い返すな。俺達は、“今・ココ”でしか生きられないんだ。一秒後にはどうなっているか分からない世界。病死しているかも知れない。交通事故に合うかもしれない。自然災害に見舞われるかも知れない。俺達は一秒後には、どうなっているか分からないんだ。分からないからこそ、“今・ココ”を生きていかなきゃいけねーんだよ。優太。恐れるな。前に進むことを。恐れるな。希望の道に進むことを。恐れるな。自分の気持ちに正直になることを……。
いつかの日、兄さんが僕に言ってくれた言葉と、その時の真剣な兄さんの顔が、脳裏にフラッシュバックする。
「過去でもなく、未来でもなく、今を見て、今を感じて、今・ココを生きる……」
僕の今の感情だけを見ると、美月さんともっと親しくなりたいし、もっとお話し出来たらいいなぁと思っている。思ってはいるが、その先の未来に幸せがあるとは思えない。
もっともっと親しくなれたとしたら、きっと僕の想いはもっと膨大してしまう。その膨大した想いのまま縁を強制終了させられてしまったら……。もし美月さんに嫌われてしまったら――そんな想いが邪魔をして、僕を前に進ませてくれないのだ。
――うじうじ考えるな。今笑えていたら、きっと未来でも笑える。今笑えないなら、未来も今が続くだけだ。前に進まないと何も分からない。何も分からないままだと、ずっとモヤモヤしたまま生きて行かなきゃいけねーんだ。そんな重いモノを背負って生きていくのは辛いぞ。当たって砕けてもいい覚悟で行け。
友人と喧嘩をして、うじうじしていた僕に対し、兄さんはそう言って背中を押してくれたことがあった。
兄さんの言葉はいつだって、正しいのだと思う。子供の時は分からなかったが、兄さんの言葉には、兄さんの人生が乗り移っている。きっと兄さんは母さんのことで、ずっとモヤモヤした思いを抱えて生きていたのかもしれない。
美月さんはこの九日間、考えても答えが分からないモヤモヤを、ずっと抱えていたのだろうか? もしかして、僕の連絡を待っていてくれていたり……していたのだろうか?
「……不確定な未来に怯えて降参するよりも、自分の五感で世界を見ていった方が絶対にいいよね」
これから先も美月さんと向き合っていく覚悟を決めた僕は一度一呼吸置き、リモートアプリ OCEAN. を立ち上げた。そして、ユーザーID mituki941 に検索をかける。
夜の海に満月が輝く神秘的なアイコンを持つ、mituki941のユーザーが一名上がってくる。
OCEAN.に同じユーザーネームを持つ者はいない。よって、このユーザーが美月さんであることが確定した。中条さんに騙されていなければ、の話だが。
「これで、本当に繋がるだろうか?」
僕は一抹の不安を抱えながら、通話リクエストをクリックした。
♪プルルル、プルルル――♪
二回程の通話コール音が響き、しばしの無音時間が続く。
ブッ! という機械音が響き、通話リクエスト画面から一人の少女の映像に切り替わる。
胸下辺りまで伸ばされた痛みのない水晶に近い、アクアマリン色をした髪。その色より透明感を増した瞳はキラキラと輝き、こちらを見ていた。
傷一つないきめ細やかな肌は、雪のように白い。抱きしめたら壊れてしまいそうなほど華奢な身体を包むのは、前後アシンメトリーとフリルが印象的で可愛いらしい白色のフィッシュテールフリルワンピース。
本当に絵本から飛び出してきた妖精のようだった。
だが左耳には補聴器がつけられており、僕と同じ現実世界の住民であるのだと実感させられた。
美月さんの桜色の唇がパクパクと動く。その音が僕の耳に届くことはない。機械トラブルなどではない。美月さんが本来出せるはずの音が失われているのだ。
クロスさせた両掌で顔を隠すところから、両掌を外側に動かし、向かい合わせた両人差し指を第二関節から下げる。
[こんにちは]
僕は自分の声でも伝えながら、手話をする。
美月さんはホッとしたように身体の力を抜き、微笑みを浮かべながら僕と同じ動きをする。
[コール対応]
親指と小指だけを突き出した左手を、左耳に当てるように持ってゆき、小首を傾げる。
その後、指文字で、対応を表し、ありがとうは手話単語を使う。
美月さんは人差し指で自分を差し、僕と同じ動きをする。
[私も、通話ありがとう]
というニュアンスだろう。手話単語では繊細な表現や方言が出来るわけではない。だから、ニュアンスで読み取ってゆく翻訳に近いものがあった。
[連絡]
僕は左手で親指と人差し指でリングを作り、右手でそのリングを指の鎖で繋げるようにして、同じ指リングで∞マークを作る。
“先を教えてもらっていたのに、今になって”は指文字を使う。
次に、右手の親指と人差し指で眉間のシワを摘まむような仕草をして、その手を顔の前で頭と共に下げ、[ごめんなさい]と伝える。
美月さんはそんな僕に対し、少し慌てたように首を左右に振った。そして、少し曲げた右手を左胸に当ててジャンプするように右胸に動かし、指先を右胸に当てた。
[大丈夫]
美月さんの返答に、これは気を遣わせてしまっているなと感じた僕は、すぐ前に進めなかった自分を悔いる。
[通話]
“もらえて”を指文字。
両掌を胸の前で、交互に上下させる。
この動きは、嬉しいとき、楽しいとき、喜ぶときに使う表現法だ。
そして、ありがとう。と手話。
美月さんの整い過ぎた顔は、どこか現実味がないように感じることもあるが、手話でお話しをする美月さんの表情は、とても豊かで人間味が溢れていた。
[元気ですか?]
と伝えるため、胸の前で両拳を肘と共に上げた状態で、握り拳を二回上下させながら首を傾げる。
美月さんは笑顔で僕と同じように手を動かす。疑問ではないため、首は傾げずに、表情で表現していた。
今までは手話は、手だけで成り立つものだと思っていた。だが実際は、感情を表情で表現することがとても大切だったのだ。
まるで、手では踊りを、表情では感情を表現するミュージカル俳優のようだ。手話を操ることが出来る人は、愛ある<表現者>なのかも知れない。
[美月さんは]
と伝えながら、人差し指で美月さんを指差す。掌で表現した場合、また違う手話単語になる可能性が無きにしも非ずのため、多少の罪悪感を抱えながら、マニュアル通りに動く。
[朝、何時に起きるの?]
握り拳を米神に当て、鎖骨辺りまで下げる。次に手首を人差し指で指し、左人差し指を左右に振る。
拳で太陽を表し、手首で時計を、指振りでクエスチョンマークを表している感じだろうか。
美月さんは僕の質問に対し、手首を人指し指で指した後、親指と人差し指と中指を立てた手の甲を僕に見せ、掌を横に向けて左右に動かす。
[七時頃]
[そっか]
と、僕は笑顔で大きく頷く。
そうして僕達は、一時間程他愛のない会話を交わし合うのだった。
一ヵ月後――。
あれから毎日一時間程リモート会話を重ねた僕達の距離は、穏やかに縮んでいた。
美月さんの日常、好きな食べ物、好きな音楽、色々なことを知った。呼び方も進化し、敬語もほぼなくなっていた。それでも、美月さんの内情を知ることはなかった。
もっと深く知ってみたい、というエゴが出る時もあるが、深追いをしないようにコントロールする。美月さんと他愛もないお話をする時間がとても幸せで、壊したくなかったから。
[おはよう]
瞼を瞑り、左拳を枕のようにして眠る仕草をした後、瞼を開けながら頭を起こす。それと同時に、左拳は下げる。
その後に、向い合せた人差し指同士をこんにちは。という風に、第二関節から曲げた。
[おはよう]
美月さんも、僕と同じ仕草をする。
時刻は九時。
[体調はどう?]
右手を開いて、掌を胸の前で一回転。これで身体を差す。
胸の前で開いた左掌の上で、右拳を三回転で《調子》。
身体+調子=体調。となるらしい。合わせ技で一つの単語となるのは面白い。
その後。右手を開いて指先を相手に向けて軽く左右に振りながら、小首を傾げる。
これが、《どう? どうですか? いかがですか?》という表現になるようだ。
手話は知れば知るほど興味深くて、奥深いと感じる。
美月さんは、[いいですよ]と、左小指を下唇の下に当てる。
その後、元気にしています。とでも言うように、笑顔で《元気》を手話で表現する美月さんは、今日も可愛い。
[今日はお出かけの日ですよね?]
手話で問うてくる美月さんに大きく頷く。
[兄さんのところに行くんだ]
今日は兄さんのマンションに行って、作り置きを作る曜日だった。
[本日のメニューはなんですか?]
美月さんの質問に対し、僕はスマホを操作をする。
「肉じゃがだよ」
と言いながら、スマホ画面に映る肉じゃがの写真を美月さんに見せる。
僕が手話で表現しきれないモノは、写真や映像を美月さんに見てもらっている。
[美味しそうですね]
[和食、好きですか?]
僕の問いに美月さんは笑顔で頷く。
[僕も、和食が好き。心が温かくなります]
[今日は、お兄さんの所にお泊りしますか?]
[三日、泊まります]
[いいなぁ]
[?]
僕は何に対してのいいなぁ、なのかが分からず、小首を傾げる。
[三日も優太さんと一緒に過ごせていいなぁと。私もまた、優太さんに会いたくなります]
指文字も加えながら、そう伝えてくる美月さんは少し寂しそうに微笑む。
[僕も、またいつか美月さんに会えたらいいなぁと思っています]
僕はそう伝え、力のない笑みを浮かべる。
一ヵ月間、美月さんとリモートをできど、一度も会えることはなかった。中条さんからは何の連絡もない。これ以上の進展は許されていないのだろう。きっと僕達はこれからも、このガラス越しでしか会えないのだと、なんとなく思う。
何故、人間は与えられたものでは満足出来ないのだろう?
最初は文通だけでも嬉しくて、奇跡のようだった。だけど、美月さんの顔を見てお話ししたいと願っていた。それはリモート通話という形で叶ったのだが、次は対面で話したいと願ってしまう。
その僕の願いが叶うとは、この時の僕はまだ知らなかった。
美月さんが何故、人と接触しないのかも――。