深くて青い空が広がっていた。
 さんさんと降り注ぐ陽光に目を細め、蝉時雨の中を歩いていく。
「あっつ」
 坂道ということもあって、これでもかと汗が噴き出してくる。登り切ったところにある病院の涼しいエントランスが待ち遠しかった。
 舞が消えてから、二年が経った。
 あれから、僕は当たり前のように高校三年生の日々を過ごし、当たり前のように大学受験を受け、当たり前のように高校を卒業した。
 ちなみに、現役での大学受験は失敗した。
 勉強にはそれなりの自信があったのに、あっさりと第一志望の大学には落ちた。
 実力が足りなかった。だから親に頼み込んで浪人させてもらい、クローバーを押し花にした栞から元気をもらって必死に勉強し、二度目の大学受験を経て今の大学に通うことになった。
 学部は、医学部。
 我ながら、なんと安直なことかと思う。
 でも、どうしても行きたかった。
 だから、高三の夏休み後の進路希望調査票に、初めて自分が心から志望する進学先を書いた。また先生には驚かれ、再度面談もされたが最後には応援してくれた。「変わったな」と背中を軽く叩かれた時は、なんだか嬉しかった。
 陽奈の容体は、幸いにも持ち直した。体調を崩すことは何度かあったが、前のように命の危機に見舞われることはなかった。
 けれど、彼女は未だに目を覚ましていない。
 高校生の時も、浪人生になってからも、僕は暇を見つけては陽奈のお見舞いに行った。早苗さんともさらに話すようになり、高校生の時の陽奈の話や、もっと昔のエピソードをいろいろと聞かせてもらった。そうしていれば、恥ずかしさに我慢できずに目を覚ますだろうと思った。でも、陽奈は眠り続けていた。
 きっと彼女は今も闘っているのだろう。
 あるいは、迷子になっているのかもしれない。
 もどかしかった。
 時々焦りを感じることもある。
 もし僕が医者になっても眠っているなら、なんとしても僕が昏睡の原因を取り除いて、僕が彼女を見つけ出したい。
 どうやら僕も、ただ落ち着いて待つことができないタイプのようだから。


 病院のエントランスに入ると、涼風が身体を通り抜けた。
「は~涼しい~」
 思わず声が漏れる。すぐ近くにいた老夫婦に微笑まれたので、僕は軽く会釈してからさっさと奥のエレベーターホールを目指した。
 どうにもあの花火大会の日以来、感情のバルブが緩い気がする。ふと思ったことが口をついて出るようになったし、口数自体も多くなった。透馬や美春に指摘された時はさすがにちょっと気をつけようと思ったほどだ。
 ちなみに、透馬はちさと姉と同じ大学、美春は隣県にある大学に通っている。二人とも現役合格を果たしたので僕より学年は一つ上だ。相変わらず喧嘩するほど仲がいいようで、今もメッセージアプリや会った時に愚痴や惚気を聞かされている。直近の透馬からの電話でも、「この前美春が夜ご飯作りに家に来てくれたんだけど、これがはちゃめちゃに美味くてさ〜」から始まって止まることなく三十分経過した時は途中で切ったくらいだ。
「明日久しぶりに会うし、その時くらいは最後まで話を聞いてやるか」
 いつか、陽奈が目覚めた時は一緒に遊んでみたい。きっと仲良くなれるはずだ。そして、全ての始まりとなった肝試しの真実を話したらどんな反応をするだろうか。楽しみだ。
 そこまで考えて、ふと自分が誰かのように意地悪な考えに至っていることに気づいて苦笑する。彼女との日々が至るところに根付いている気がして、嬉しくなった。
 舞は、あれから一度も僕の前に現れていない。
 時々散歩がてら桃坂公園に行ってみるが、銀杏の葉擦れの音ばかりで元気な掛け声は聞こえてこない。銀杏並木の幽霊通りに、もう幽霊はいない。
 でも、それでいい。
 去年の秋に見た、新緑が黄色に変わったあの並木道の景色は、隣に並んで一緒に見たい。
 温もりや気配を感じながら、思い出を増やしていきたい。
 階数表示されている電子モニターを眺めながら、僕はその時をぼんやりと想像した。


 エレベーターに乗り込み、いつものように八階で降りた。
 最近、ちさと姉は就職内定先のインターンやら卒業論文やらで忙しいらしく、あまり一緒に来れていない。最後に一緒にお見舞いに来たのは、二ヶ月くらい前だっただろうか。
 ちさと姉は、一年間の留学ののち、どこかの商社に内定したとその時に聞いた。わりと大きなところで、毎週インターンで仕事の基礎を学んでいるらしい。
「陽奈が興味のあるデザインとかアパレルとかいろいろ調べてたら、そうしたメーカーを支える商社がいいなって思ってね。繊維方面に強い今のところに入ることにしたの」
 そう話してくれたちさとの顔には、柔らかい笑顔が浮かんでいた。まだ思うところはたくさんあるみたいだが、陽奈が目覚めた時に無用な心配をされないようしっかり自分の人生を生き抜くと決めたらしい。本当にさすがで、見習おうと思った。
 エレベーターホールのつきあたりにある角を曲がり、少し狭い廊下を進んでいく。この廊下の一番奥にあるのが陽奈の病室だ。
 陽奈の病室は、彼女が眠りについてから約五年間、変わっていないらしい。
 あの好奇心旺盛で飽きっぽい彼女のことだから、何か面白い話をしないとさぞかし退屈だろう。ちさと姉とのことは先週話したし、今日は何の話をしようかと考えながら病室の扉に手をかける。

「――おはよう。いや、もうこんにちはの時間かな?」

 ふいに、声が聞こえた。
 透き通るような、懐かしい声だった。
 驚いて周囲を見回す。
 でも、誰もいない。看護師や清掃員の人たちが、せわしなく行き来しているばかり。
 空耳かと、一瞬自分の耳を疑う。いや、でも確かに聞こえた。
 あの声は、聞き間違えようがない。
 もしかして、目に見えないだけで舞が近くに――。
「もう、どこ見てるの? ここよ、ここ」
「え?」
 また声が聞こえた。
 その方向は、右でも左でも、ましてや上でもなく、下。
 すぐ近くで、車椅子に座った女性が僕を見上げていた。
「やっと気づいた。ねっ、私、実は今迷子になってて、私の行きたい場所まで連れてってくれない?」
「え、と……」
 黒い髪に、人懐っこそうな大きな瞳。
「私の行きたい場所は、きっと君ならすぐわかるよね?」
 親し気で耳心地のよい声に、無邪気な笑顔。
「ほら凌~! 早く行こっ!」
 二年経っても忘れることのできない大好きな人が、すぐそばにいた。
「――舞っ!」
「わあっ」
 僕はすぐさま彼女に抱きついた。
 消毒液の匂いに混じって、ふわりと甘い匂いが鼻先をつつく。
 温もりが腕に、手に、心に、伝わっていく。
 視界が滲んだ。我慢しきれないほどに、涙が溢れてきた。
「舞……舞っ……!」
「あはは、その名前、なんだか懐かしいな。今は陽奈だけど、凌がくれた大切な名前だから、夢が叶ったときのビジネスネームにでもしようかな」
「ああっ……グスッ、もうなんでもいいから、ほんと、良かった……っ!」
「もう、凌。泣きすぎだよ」
 彼女も僕の背中に手を回してくれた。
 確かな感触があり、ゆっくりと撫でてくれた。
 それだけでさらに涙が押し寄せてきて、僕はみっともなく泣いた。
「もう、ほんとひどいなあ……泣きたいのは、私も、なのに……」
 彼女の泣き声も重なって、病院の廊下には大人二人の泣き声が響いた。
 彼女は何度も僕の名前を呼んでくれた。
 だから僕も、何度も彼女の名前を呼んだ。
 一度として感じることのできなかった、かけがえのない温もりを肌で感じながら。

「――……って待て! なんで⁉ ってかいつ目を覚ましたんだよっ⁉」
「あははっ! やーい、ドッキリ大成功~!」
 このあと病室で、僕は改めて知ることとなる。
 陽奈が三日前に目を覚ましていたこと。
 僕を驚かせようと、親に頼んで秘密にしていたこと。
 やっぱり僕は、これからも彼女に振り回される運命にあること。
「今度は千里にドッキリしかけようと思うんだけど、凌も協力してね!」
「はいはい、仰せのままに」
 でもそれはこの上なく嬉しくて、幸せで、
「あ、それと一番大事なことなんだけどね」
「ん? なに――」
 ベッドから身を乗り出すようにしてしなだれかかってきた彼女の重みが、
 僕を包み込む彼女の匂いと温もりが、
 唇に触れる確かな感触が、
「私も、凌のことが大好きです」
 どうしようもなく、愛おしいんだということを――。