梅雨という季節に違わない雨が数日続いた後の翌週。
 夏にしては涼しい曇り空の下、僕と舞は桃坂公園から少し離れたところにあるべつの公園に来ていた。
「へぇ~、こんなところがあったんだ」
 興味深げに舞はきょろきょろと辺りを見渡す。雨上がりということもあってか、人はほとんどいない。人目を気にせず歩けるので、舞と散歩するにはちょうどいいと思った。
「ここ、桃坂公園よりは小さいけど、丘陵公園だから結構眺めはいいだろ」
「確かに! 私高いところ好きなんだ~」
「だろうな」
 ナントカと煙は高いところが……と言おうとして、すんでのところで言葉を飲み込む。危ない危ない。また物騒な言葉が飛んでくるところだった。
「何か言いかけた?」
「……なんでもないです」
「ふーん? ねねっ、今度バンジージャンプしよっか」
「絶対に嫌だ」
 ジャンルの違う恐ろしいことを言い出す幽霊から逃げるように、僕は遊歩道の方へと足を向けた。
 公園内の外周を縁取るように位置する遊歩道には、連日の雨のせいもあって水溜まりがいくつもできていた。
 大きな水溜まりは避け、小さな水溜まりは構わずに踏み抜いていく。足元で溜まった雨水が微かに音を立てた。もっとも、相変わらず隣に並んでいる少女の足元ではまったく音がしていない。
「それで、なんでここに私を連れてきたの?」
 湖みたいな大きな水溜まりの上で、彼女は楽しそうに踊りながら訊いてきた。僕はその巨大な水溜まりを回り込むように避けてから答える。
「ああ、ちょっと確認したいことがあって」
「確認?」
「そう。気が付いたら桃坂公園の付近に立ってたって言ってたけど、それだけだと単に『公園』に由来する未練があったからなのか、それとも『桃坂公園』に関する未練があったからなのかわからないだろ。だから、とりあえずこの町にあるべつの公園に来てみたんだ。もし何か感じるようなら、きっと舞の未練は『桃坂公園』じゃなくて『公園』に由来するもののはずだ」
「ほえ~なるほど~」
 舞は感心した声をあげた。わりと本気で納得してくれたらしく、大げさに拍手までしている。なんだか恥ずかしい。
「ま、まあ、舞の今日やりたいことが『散歩』だったし、ちょうどいいかなって思ったんだ。それで、どうだ? なにか感じることとか、思い出したこととかないか?」
「ない!」
「ないのかよ!」
 大仰な反応をされた矢先に返された即答に、僕は思わずツッコミを入れた。あの感心した頷きはなんだったんだ。
 でも、これでひとつわかった。
 舞が未練を感じているのは「公園」に由来するものではなく、「桃坂公園」に由来するものの可能性が高いということだ。
「でもここ本当にいいところだね~。桃坂公園じゃなくて、ずっとこっちにいようかな~」
 ……舞の直感を信じることが前提ではあるが。
 それから僕は、舞の『散歩がしたい』という要望に応えるべく、彼女と気ままに公園内をぶらついた。
 この丘陵公園は、景色を楽しめるようほとんど木が植えられていない。遊歩道の両脇には植え込みが連なり、所々にはまだツツジが咲いていた。舞はその残ったツツジを見つけては、何が楽しいのか笑顔を浮かべてじっくり眺めていた。
「あっ! ねねねっ、見て見て! クローバーがたくさん咲いてる!」
 かと思えば、小さな広場の真ん中に植えられているクローバーのところへ駆けていく。その様子はまるで幼い子どものようで、見ていてなんだか微笑ましい。
「クローバーか。懐かしいな。小学生の頃によく友達と四つ葉のクローバーを探したっけな」
「ああ、凌にもやっぱりそういう思い出あるんだ。私もね、全然思い出せないんだけど、なんだか懐かしいんだ~」
「そっか。久しぶりに、探してみるか?」
「おお、いいね~。どっちが先に見つけられるか競争だね!」
 彼女の無邪気さが移ったのか、僕はらしくない言葉を吐いていた。そして彼女も乗ってくる。
 僕らは、人気の少ない公園で無心に四つ葉のクローバーを探した。
 案の定というべきか、舞が先に四つ葉のクローバーを見つけた。しかし彼女は触れないので、言われるがまま僕が代わりにその四つ葉を摘んだ。
「これさ、持って帰って押し花にしてよ! 勉強ばっかりって言ってたし栞は必要でしょ」
「四つ葉の押し花を参考書の栞にしてるやつなんて見たことないけどな」
「じゃあ凌が記念すべき第一号だ。やったじゃん」
「まったく嬉しくない記念だな」
 結局、彼女の押しに負けて僕はその四つ葉をティッシュにくるんだ。幸いにも母親の趣味が手芸なので、ラミネートなど必要な道具はある。
 そういえば、昔母さんと押し花作ったっけ。
 幼い頃の思い出がまたひとつ蘇り、僕は思わず苦笑した。
 そうこうしているうちに、また雨がパラパラとちらついてきた。一応傘は持ってきているが、時間的にも帰る頃合いだ。
「よし、そろそろ帰るか」
「え~もう?」
 舞は物足りないとばかりに不満そうな声をあげる。
「雨も降ってきたし、時間ももう六時だしな」
「雨なんて私には関係ないんだけどな」
「僕は関係あるんだよ」
 雨足が強まってきたので傘をさす。途端、ビニールの表面に雨が打ち付ける音が響いた。
「ふっふっふ~。どうどう?」
 片や、近くにいる舞の身体は全く濡れていない。雨音が鳴るのは横ではなく下からで、彼女の足元では雨水が空からの勢いそのままに跳ねていた。
「はいはい、わかったから帰るぞ」
「ちぇーわかりましたよ~。その代わり、次にやりたいことはバンジージャンプだからね!」
「絶対に嫌だ」
「い~く~の~!」
 雨がしとしとと降る傘の外で、少女の幽霊は元気に吠えていた。

     *

 夢から覚めた先には現実が待っている。
 幽霊と丘陵公園で散歩をするという、文字通り夢としか思えないような経験をした翌日の昼休みに、僕は現実に向き合うことを余儀なくされていた。
「それで、どうなんだ。結構悩んでいるのか」
「まあ、人並みには」
 昼休みの喧騒は一日の中でも特に大きい。朝の眠気がとれ、昼ごろになってようやく覚醒してくるからだろう。来る途中の教室も、廊下も、トイレの中からすら大声が聞こえた。七夕だの夏休みだのと気の早い話題が方々から湧き、校内のあちこちが騒がしさに満ちていた。
 もっとも、ここ職員室だけはべつだ。騒がしさとは程遠く、聞こえてくるのは大人らしいニュースの話や授業の話、あるいはペンが擦れる音に、キャスター付きの椅子を引く音。冷房の効いた室内は同じく夏の気配が漂っているが、教室のそれとはどうも性質が違っている。
「天坂。お前は試験の成績はいいし、出席点も悪くない。三者面談でもご両親はお前自身が進みたいと思う道を歩ませたいとおっしゃっておられた。何も遠慮することはないんだぞ」
「いや、べつに遠慮はしてません」
「なら、先週書いてもらった進路希望調査。どうして大学の方向性が二年の時とまるで違うんだ。大学名はおろか、学部もレベルもバラバラだぞ。何か迷ってるのか」
「いえ、特には」
 担任の田中先生は椅子に深く腰掛けたまま困った表情を浮かべた。
 場所は職員室の隅にある仕切られた会議スペース。ちょっとした相談事や面談などはこの場所で行われることが多い。透馬に聞いた話だと、たまに部活の顧問とリーダーで小ミーティングをする際にも使うことがあるらしい。
 そして今は、僕の臨時進路面談の会場となっていた。
「いいか、天坂。べつに今すぐ進路を明確に決めろと言ってるわけじゃない。大学でもいろんな出会いや経験をするだろうし、よく考えて迷って、悩みながら少しずつ進路を決めていけばいいんだ。だけどな、しっかり考えるのは高校生の時からしておくべきだ。天坂に限ってないとは思うが、適当に決めたりなんかしたら後悔することになるからな。何を隠そう昔の先生がそうだったんだ」
 何がおかしいのか、ハッハッハと豪快に田中先生が笑う。
「まあ適当に決めてもそれはそれでひとつの人生だが、一応先生はお前の担任だからな。言うことだけは言っておく。夏休み前に一度気持ちを引き締める意味でもよく考えてみてくれ」
「はい、わかりました」
「それと、これ渡しておくからな。来週まででいい。一度しっかり考えて書いてこい」
 先生は説教じみたアドバイスとともに、一枚の紙切れを渡してきた。正直受け取りたくなかったが、そういうわけにもいかない。僕は形式的に頷き、その紙切れをもらって職員室をあとにした。
 廊下を歩いて行くと聞き慣れた喧騒が周囲に戻っていく。けれど、僕の心はいまいち日常に戻り切れていなかった。
「ふう」
 肺に溜まった息を吐く。想像以上に時間がかかってしまった。まあほとんど返答らしい返答をしなかったのだから無理もない。
 手元の紙切れに目を落とす。やっぱり、期待通りに書かないといけないんだろう。
「進路希望調査票、ね」
 二年の冬を過ぎたあたりだったか。
 受験生となる高校三年生を間近に控えた僕は、それまでなんとなく曖昧に考えていた進路というものに向き合うこととなった。
「天坂。君の成績は素晴らしい。最難関大学を志望しているということだから、この調子でぜひ頑張ってくれ。期待しているぞ」
「凌。お前の将来だ。お前がやりたいことを全力でやりなさい」
「凌、あなたの選んだ道なら、母さんは一生懸命応援するからね」
 それまで僕は、周囲が期待してくれているように自分の学力を磨いてきた。努力は確実に実を結び、誰もが知るような最難関と呼ばれるレベルの大学に挑戦できるくらいにはなっていた。
 みんなが期待してくれた。
 僕もその期待を知っていたから、期待通りの大学を希望していることにしていた。
 自分のやりたいことはわからなかったけど、仮にやりたいことができた時に思う存分学べる環境に身を置いておけばいいと思っていた。今のご時世、大学に行くのが普通だからそれでいいと思っていた。
 でも。ふとある日、思ってしまった。
 このまま大学に行って、やりたいことが見つからなかったら?
 今と同じようになんとなく就職活動をすることになったらどうするんだろうか。
 成り行きで大企業に就職とか公務員とかになるんだろうか。
 友達や同僚といった周囲の環境や年齢、年収なんかにも左右されて、何かに追われるように結婚して、親になって、昇進して。そうして進んでいった先に、何があるんだろうか。
 人間、最終的に行きつく先は死だ。死んだら何も残らない。死を目掛けて、僕はなんとなく生きていくことになるんだろうか。それが人生だとしたらなんて面白くない人生だろう。
 じゃあ、面白くするにはどうすればいいのか。
 やりたいことをなるべく早く見つけて、そのための努力を積み重ねればいいのだろうか。
 僕のやりたいことって、なんだろうか。
 僕のなりたいものって、なんだろうか。
 そもそも最終的にみんな死ぬのに、やりたいことやなりたいものを全力で追及することに意味はあるのだろうか。
 あるいは、そもそも人生を面白くするという考え方自体間違っているんじゃないだろうか。
 堂々巡りだった。
 そんな思考に陥るきっかけとなった特別な出来事は何もない。
 ただ単に、高校三年生が目前に迫ったということだけだ。
 映画や小説の登場人物みたいに、僕自身が特別な環境に身を置かれているわけでもない。
 ごくごくありふれた共働きの両親と僕の三人家族。父は大手コンサルティング会社に勤めており、母は中学校の教師だ。どちらかといえば恵まれた環境で、何不自由なく育てられてきた。
 反抗期らしい反抗期もなく、いつだって僕の考えを尊重してくれる優しい両親の教えを聞いて、真っ直ぐ育ってきたつもりだった。
 その結果、今の僕がいる。
 芯があるようでなく、どうにもはっきりしない僕がいる。
 きっと、大なり小なり多くの人が抱える問題ではあるはずだ。だから深刻になりすぎる必要はないのだと思う。
 そんなふうに自分を無理矢理納得させて、今もこうして廊下を歩いている。
「……まったく、どうかしてる」
 昨日のバカみたいな舞とのやり取りが懐かしく感じられた。
 考えすぎだ。こういう時は、一度思考をリセットする必要がある。
 ――次にやりたいことはバンジージャンプだからね!
 そこでふと、昨日の舞の言葉が思い出された。
 進路という真面目な話をしてきた矢先に浮かんだ、対照的で短絡な「やりたいこと」に、僕は苦笑せざるを得なかった。
 たまには、いいかもな。
 僕は思考の渦に飲み込まれそうになっていた意識を掬い上げ、足先を教室へと向けた。

     *

 進路について呼び出しを受けたこと以外は平凡な平日が過ぎ、土曜日になった。
 いつもなら、少し遅めに起きてもそもそと朝食を食べた後はすぐに自室に引っ込んで勉強をするのだが、今日は違っていた。
「母さん、ちょっと出てくる」
「あら珍しい。友達と遊ぶの?」
「まあそんなところ。お昼ご飯は外で食べてくるから大丈夫」
「わかったわ。いってらっしゃい」
 笑顔で送り出してくれた母親を尻目に、僕は足早に玄関を出た。うそをついたことに軽い罪悪感を覚えつつ、僕は桃坂公園へと向かう。
 休日に舞に会いに行くのは今日が初めてだ。桃坂公園は学校からだと近いが、家からはそれなりに遠い。まとまった勉強時間がとれる休日にわざわざ行こうとは当初思っていなかった。
 しかし、さすがにバンジージャンプとなると平日の放課後には行けない。幸か不幸か、バンジージャンプができるところは比較的近くにあるのだが、学校の後は営業時間的にも難しいだろうし、制服姿で行くわけにはいかないし、そもそも放課後にそんな体力はない。
 やるなら休日の午前。昼は体力回復にあて、夕方前には帰って勉強をするのが理想だ。
「夕方、勉強できるよな……」
 若干の不安はある。僕は運動部ではないし、そこまで体力があるわけでもない。
 けれど、今週はどうにもモヤモヤしているので、何かしらで発散はしたい。彼女の提案に乗るのは癪だが、まあたまにはいいだろう。
 自分の中で言い訳を並べ立て、強引に結論付ける。そうでもしないと、早々に帰りたくなりそうだった。
 住宅街を抜け、田んぼ道を歩き、橋を渡ってまた住宅街の中を歩いていく。
 平日に比べて、土曜日の朝は人通りが少ない。すれ違う人もスーツ姿や制服ではなく、カジュアルな格好の人ばかりだ。普段あまり見ない街並みに新鮮さを感じながら、僕は銀杏並木が続く通りへと出た。
「やっほー!」
 桃坂公園まではまだ十分近くあるというところで、唐突にその声は響いてきた。方向はもちろん上からだ。
「あのさ、絶対わざとだろ?」
 僕は視線を移すことも歩みを止めることもなく答える。
「ちぇーつまんないのー」
 僕の声が聞こえているかあやしかったが、どうやら聞こえていたらしい。舞はぶつぶつと独り言を垂れつつ降りてきた。白いニットに暗い緑のスカートの装いは変わらない。やはり、僕が不用意に見上げたところをからかうつもりだったんだろう。
「考えがまだまだ甘いな」
「あ、舞だけに?」
「寒いぞ」
「幽霊だからね!」
「だから寒いって」
「あははははっ!」
 心底くだらないやり取りの応酬。まるで中学生みたいだ。
 隣で無邪気に笑う舞に苦笑を返してから、僕らは桃坂公園前にあるバス停まで歩いた。
「それで、一応聞くけど今日はバンジージャンプでいいんだよな?」
「お、乗り気だね~」
 僕の質問に、舞は嬉しそうに答えてくる。僕はやや間を置いてから、ゆっくりと首を振ってみせた。
「いや、諦めてるんだよ」
「そっかそっか、ってなんで」
「もし僕が今日バンジージャンプしたくないって言ったら?」
「呪ってでも連れてく」
「想像以上に怖い回答が来たな。まあでも、そんな感じでどうせきかないだろ」
「うん、確かに、なるほど!」
 納得してほしくはなかったが、舞は大きく頷いた。まったく、どこまでも自分勝手な幽霊だ。
 僕らはほどなくして来たバスに乗り、緑が生い茂る峠を越えていく。この辺りは秋になると紅葉が綺麗な場所として有名だが、夏場はただ暑いだけの山だ。車内にも人は少なく、静かに揺られながら僕は窓の外を眺めていた。
「ねねねっ、あそこの山に見えるのって神社かな? なんて神社だろ!」
「んーさすがにちょっと知らな……」
「あーっ! あそこの山の真ん中辺り見て! なんか滝みたいになってる! すごい綺麗!」
「……」
 静か、ではなかった。少なくとも僕にとっては。
 舞のはしゃぐ声とともに移動すること四十分余り。僕らは山中にある橋の付近で降りた。
「ここか……」
 辺りを見渡せば、あるのは新緑の山々。暑い日差しに穿ったような青空も合わせれば、実に夏を感じられる場所だ。それでも、僕としては海の方が涼しいし断然いいのだが。
「わくわくしてきた?」
「いやまったく」
「え~楽しいと思うけどな~。あ、ほら。みて!」
 満面の笑みを浮かべた舞が指差したのは、橋のたもとにある木製の小屋だった。その前には数人が列をついており、何やら書類みたいなものを書いている。
「あそこが受付か……」
 僕がため息をつこうとしたまさにその時。
 それは、唐突に山々にこだました。
「きゃあぁぁぁあああ!」
 女性の、悲鳴が。
 びっくりして声のほうへ視線を向けると、太いロープのようなものを身体に巻き付けた人が橋の上からぶら下がっていた。そのロープは大きくたゆみ、振り子のように揺れに揺れてから、ようやく止まる。
 それなりに暑い日だが、僕の背中にはべつの汗が流れていた。
「……やっぱり今日は違うことしないか?」
「呪われたいってこと?」
「はいはい、行けばいいんだろ行けば」
 一応は僕自身も納得し、自分なりの理由を持って来たわけだが、思いつき程度の意思は既に粉みじんに消し飛んでいた。
 なにが悲しくてお金払って誓約書にサインして命を危険にさらしたダイブを決めないといけないんだろう。
 冷静になればなるほど、後悔がふつふつと心に湧いてくる。
 このままじゃいけない、と僕は両頬を叩いて自分に喝を入れた。
「うしっ」
「いい気合だね! それじゃ、いこっか!」
「……楽しそうだな」
「もちろん!」
 軽快に空中を飛ぶ幽霊の後を追って、僕はどうにか重い足を前へ進めた。


 バス停から橋のたもとまで移動し、僕は早々に受付の列に並んだ。
 こんな時は、うだうだと考えずにすぐ行動に移したほうがいい。案ずるより産むが易しだ。
 再三にわたる自分への言い訳を生み出しているうちに僕の番になり、注意事項やら同意書がまとまった紙とペンを渡された。案内されるまま軽く内容に目を通すが、一行目を読んだ時点で嫌になる。
「死傷する危険への、認識……」
 字面だけ見ても怖すぎる。まるで受付の段階からこちらの恐怖心をあおっているような文言だ。しかし、ここにサインをしなければ跳ぶことはできないので、僕は保険内容や身体上の条件などを流し読みし、一番下にある自署欄にサインをした。
 そして予想通り、隣に舞がいるが認識されず、一人分の料金を支払ってジャンプ用の整理チケットを受け取った。ちなみに料金は一万五千円もした。理不尽な金額だ。
「なあ。やっぱ飛ばなきゃダメ?」
「だーめっ」
 楽しそうに笑う舞と、絶叫をあげて落ちていく人を眺めて、僕はますます嫌になった。今更ながら、こんなんで進路の悩みが晴れるとは思えなかった。
 そうこうしているうちに、いよいよ僕の番になった。
 スマホやらリュックやらの荷物は既に預けており、身軽になった僕の身体に名前も知らない金具やら器具が取り付けられていく。意外にもその数は少なく、あっという間に終わった。本当にこの命綱一本で大丈夫なんだろうかと不安になる。
 そして簡単な説明やアドバイスを受けると、「いってらっしゃい!」と係りの人から元気な掛け声をもらい、跳び込むためのやぐらへと誘導された。
「おー、いよいよだねっ」
「帰りたい……」
 震える足を叱咤し、柵が意図的に取り除かれた場所に立つ。
 目の前に広がるは、緑に満ちた雄大な山々と、どこまでも続く深く青い夏空。
 遥か下には、透明感あふれる山水がゆったりと清らかに流れている。
 空気はこの上なく澄んでおり、暑いはずの気温もあまり感じられなかった。
「ねっ、知ってる? バンジージャンプのロープが切れる確率だけど……」
「やめろやめろやめろ」
 直前でとんでもないことを言う幽霊を本気で睨みつけた。しかし、当の幽霊は隣で意地悪くケタケタと笑うばかり。
「あははっ、やっぱり面白いな~」
「絶対遊んでるだけだろ」
「まあね~。でもこれまで体験したことない感覚でしょ」
「まあ……」
 それはその通り、というか当たり前だ。僕は今まで高いところから跳び下りたいなんて思ったこともないし、現実に跳び下りる機会なんて当然のごとく初めてだ。
「ささっ、もういつでもいいみたいだよ。長くいると余計に怖くなっちゃうよ」
「うるさいな。覚悟を決めたら飛ぶよ」
「もう~仕方ないな~」
 呆れた舞の声が聞こえる。
 気にしない気にしない。
 今は跳ぶことだけに集中しろ。
 深呼吸をしようと目を瞑る。吸う、吐く。そして目を開ける……と、
「一緒に行こっか」
 すぐ目の前に、舞がいた。
「え」
「いっせーのーでで、一緒に跳ぼう?」
「え?」
「ほら行くよ! いっせーのーーでっ!」
 目の前に浮いていた舞がゆっくりと倒れていく。
 僕は離れていくその顔を追うようにして態勢を傾け、跳んだ。
「うわあぁぁぁあああああ!」
 視界が反転した。
 空と山と河がごっちゃになった。
 舞のことを気にする余裕は一瞬で消し飛び、僕は情けない叫び声をあげることしかできなくなった。
 下に向けて落ちていくにつれ、とんでもないスピードで水面が迫ってくる。生物としての本能が警鐘を鳴らしていた。
 死ぬ、と思ったところで、僕の身体は勢いよく上昇した。
「おわあぁぁぁあ!」
 視界が水面から山並みへと切り替わる。その端で、見覚えのあるスカートが翻った。
「あはははははっ!」
 舞が楽しそうに笑いながら、空を飛んでいた。
 僕の動きに合わせて上に飛び、下に落ちていく。
「うわああぁっ!」
「きゃはははっ!」
「ぬあああぁっ!」
「あははははっ!」
 叫び声と笑い声が、何度も山々にこだました。
 僕はまったく楽しむ余裕がなかったが、舞は今までにないくらいはしゃいでいた。
 やがて勢いを失った僕の身体は、命綱にぶら下がる形で静止した。
「…………」
「どうどう? バンジージャンプの感想は」
「そうだな……死ぬのは怖い」
「あはははっ、ありきたりすぎでしょ!」
 舞はまだ楽しそうに笑っていた。


 間の抜けた宙吊り状態から係員によって引き上げられた後、僕らは受付近くにあるカフェで休憩することにした。まばらに人がいる店内を通り抜け、目立ちにくい端のテラス席に腰をかける。
「あ、ねぇ見て! バンジージャンパフェだって」
 向かい側の舞が、楽し気に僕の後方を指差す。
 見ると、これでもかとアイスやらフルーツやらが乗った巨大なタワーみたいなパフェの写真看板があった。吹き出しには「バンジージャンプのあとはバンジージャンパフェに挑戦しよう!」と銘打たれており、写真の下にはポップな文字で二千円と書かれている。
「高すぎだろ」
「んふふふっ、頼んでみる?」
「冗談だろ。誰が食べると思ってんだ」
 身体的にも気持ち的にも、そして何よりお財布的にも勘弁だった。なんで総計二万円近くも払って身も心もいじめないといけないのか。
「何事も挑戦だよ!」
「意味のある挑戦を僕はしたい」
 バンジージャンプは跳んだが、バンジージャンパフェはどうにか辞退し、普通のサンドイッチとジュースで僕はお腹を満たした。舞は最初こそつまらなさそうに口を尖らせていたが、いつの間にか口元をほころばせて僕の食べる様子を眺めていた。
 何はともあれ、今日の目標は達成だ。
 普段しないことをしたからか、身体や気持ちは疲れているが、すっきりもしている。気分転換という最低限の目的は果たせたと言っていいだろう。
「さて、そろそろ帰るか」
 時計を見ると、昼時を少し過ぎたくらいだった。今から帰れば夕方前には家に着くはずだし、課題や復習にも取り組める。舞にはいろいろと言いたいことはあるが、総合的には満足したなと思ったところで、目の前の幽霊は嬉しそうに僕を見つめて言った。
「じゃあ私もついてくよ。どーせ暇だし!」
「え?」
 何度か山々に響いていた絶叫が、急に遠くなった気がした。

     *

 予想通り、家には夕方の少し前に着いた。
 玄関の扉には鍵がかかっていて、どうやら母は外出しているようだった。父は土曜も仕事で家にはいない。幽霊を入れるなら好都合だ。
「おぉ、ここが凌の家か~!」
 入る前からソワソワと僕の周囲を飛び回っている舞は無視して鍵を開ける。
「ただいまー」
「おじゃましまーす!」
 静まり返った玄関に二つの声が響く。なんだか、妙に新鮮に感じられた。
「ちなみに、凌の家族は今いるの?」
「いや、父さんは仕事、母さんは買い物じゃないかな」
「兄弟は?」
「僕は一人っ子だ」
「おっ、つまり今この家の中には私と凌しかいないと」
「だからなんだ」
 僕は舞のことを視認できるがべつに触れられるわけではない。そもそも人間と幽霊なので何も起こりうるはずがないだろうに。
「凌が幽霊になったら私に触れるだろうし、ドキドキハプニングも起こせるかなって」
「やめろやめろ。ここを事故物件にするな」
 恐ろしいことを言い出す舞に、僕は急いでツッコミを入れた。舞はけらけらと笑っているだけだった。
 それから洗面所で手洗いうがいをして、僕はそのまま自室へと向かう。正直、なんの特徴も面白味もない部屋だし、来るだけ無駄だとここまでの道中で舞に説明したが、頑として聞き入れてくれなかった。曰く、「たとえ壁天井全てが真っ白で家具がひとつもない部屋でも私は行く」とのことだった。いったいどんな部屋を想像しているんだろうか。
「部屋にいてもいいけど、僕は勉強するからな」
「うん、わかってるって!」
 ここまで来たからにはもう仕方がない。勉強に集中できない未来しか見えず、僕は雑に自室のドアを開けた。
「これが凌の部屋……って、参考書ばっか!」
 部屋に入るなり、舞は開口一番文句を垂れた。想像通りの反応に、つい苦笑してしまう。
 自分でも思うが、僕の部屋は勉強方面に傾倒していた。壁際にある大きな本棚の三分の二は参考書やら問題集やらで埋まっているし、窓の近くにある勉強用の机にも大学入試の過去問集が積んである。テレビもなければゲーム機もないし、およそ普通の男子高校生らしくない部屋だ。
「ねねねっ、エッチな本はどこに隠してあるの?」
「僕の部屋に入って二言目がそれか。そしてそんなものはないし、仮にあっても言うはずないだろ」
「なんで!」
「逆になんで教えてくれると思ったんだ」
「けち。いいもん、勝手に探すから凌も勝手に勉強してれば」
 舞は不貞腐れたように口を尖らせ、本棚を物色し始めた。本当に訳の分からない幽霊だ。いや、幽霊じゃなかったとしても理解はしかねるが。
 僕は肩をすくめつつ、机に向かう。舞の機嫌は直るのが早いので、こういう時は何もしないほうが無難だ。触らぬ神、いや触らぬ幽霊に祟りなしだ。
 それに、いくら探しても見つからないものを探していてくれたほうが勉強に集中したい身としてはありがたい。今のうちにと、僕は手早く学校の指定鞄から筆記用具やプリント類が入ったクリアファイル、そしてノートを取り出した。
「あ」
 そこで、嫌なものが視界に入った。
 来月の期末試験範囲が書かれたプリントや受験関係の資料が入ったクリアファイル。その一番上に、職員室に呼び出された時に押し付けられた進路希望調査票があった。大学名や学部は愚か、まだ名前すら書いていない。適当に入れたからか端は折れ曲がっているし、すっかり失念していた。
 確か、来週までって言ってたっけな。
 つまりは月曜日に出せということだろう。こんな紙切れに行きたいのか行きたくないのかもわからない大学名を書いてどうしようというのか。目を背けていた現実に、一気に気が重くなる。
「ねっ、それなに?」
 ひとまず学力に見合った大学を書いておこうと思ったところで、すぐ横から声が聞こえた。
「え、もう探すの終わったのか」
「うん、飽きた」
「まだ十分も経ってないぞ」
「いいの。それで、今度は私の質問に答えてよ」
 舞が手元をのぞきこんでくる。仕方なく、僕はクリアファイルからその紙切れを取り出して見せた。
「これは進路希望調査票だ。高校を卒業したら、どんな進路を歩みたいのかを書くんだ。就職したいのか進学したいのか、進むならどこなのか、みたいな感じで」
 朝のホームルームでされた説明をなぞる。高校二年生の時から配られる度に言われるのでさすがに覚えたし、大事なこととは言えそろそろうんざりしている。
 自分のことなのにわからない。何がやりたいのか、何になりたいのかと聞かれても答えられない。いろいろな資料を見せてもらい、説明を受けてもどうにもピンとこない。
 先行きの見えない不安に向き合わざるを得なくなるから、わがままにも僕は耳を塞ぎたくなるんだろう。
 内心でそんなことを思いながら説明していると、ふと舞がいつになく静かなことに気がついた。
「進路希望、調査……」
 見ると、何かを思い出すように考え込んでいる。
 今までにない舞の様子。それが示す可能性に思い当たり、僕の中に渦巻いていた自分の進路への不安が霧散した。
「舞、もしかして」
「うん。どうやら私の未練、進路に関係あることみたい」
 小さく微笑む彼女の瞳は潤んでいて、いやに大人っぽく見えた。

     *

 翌日の日曜日。僕は学校にいた。
 もちろん今日は休日で授業はなく、僕は部活に入っていないので部活動でもない。本来なら学校に来る用事などないのだが、今日は違っていた。
「ここが凌の通う学校か~」
 校門の前で、舞は興味深げに校舎を見上げる。数年前に外壁の補修をしたため比較的きれいであること以外、特段変わったところはない普通の四階建て校舎だ。
「どうだ、見覚えないか?」
「うーん。あるような、ないような」
「まあそんなもんだよな」
 元々そこまで期待はしていない。何か手がかりがつかめれば御の字程度で来ているので、このくらいは想定の範囲内だ。
「とりあえず中に入ってみようよ! 楽しみだな~」
「やっぱり未練よりも興味本位で来てないか」
 僕は軽く頭を抱える。でも、学校に来るなら今日が一番のチャンスだった。
 昨日、舞は僕の進路希望調査票を見て、自身の未練が進路に関係あることを思い出した。
 またどうやら、進路希望調査票そのものにも見覚えがあるらしかった。
 進路希望調査票が配られるのは、僕の高校では二年生の夏以降だ。僕と同い年くらいの見た目であることも考慮して単純に考えるならば、舞は高校二年生か三年生の時に事故か何かで亡くなってしまい、進路に関する未練を抱えて幽霊になったということになる。
 そして、冬見町はそれなりの田舎町であり、この辺りの高校といえば僕が通う高校くらいしかない。進路希望調査は県内のどの高校でもやっているだろうが、舞の未練が桃坂公園にゆかりがある可能性も踏まえると、おそらく僕と同じ高校に通っている、あるいは通っていたのだろう。
 以上の推測を舞に説明したところ、彼女は目を爛々と輝かせて言ったのだ。
「私、凌の通う高校に行ってみたい! できれば凌が授業受けているところ見たい!」
 などという、めまいのしそうな要望を。
 当然、即却下した。
 平日の高校には、舞の姿を視認することができる透馬や美春がいる。しかも透馬はクラスメイトで、席もそれなりに近い。さらに他のクラスメイトも舞が見える可能性も考えると、授業中の僕を舞が見に来るのは危険極まりない。
 一方で、実際に高校に行ってみるというのは一理あるし、未練について思い出しかけているなら早いほうがいい。
 思案の結果、翌日である今日、つまり日曜日に高校に行くということになったのだ。
「んふふふ~、とりあえずどこ見よっか。凌の学年の階は一通り見たいし、凌の教室は外せないよね。あ、あと座席もどこか教えてね」
「一応聞くが、未練のためだよな?」
「もちのろん!」
 大仰に頷いてみせる彼女に、思わずため息がもれた。不安だ。
 早速とばかりに生徒玄関へ入っていく舞を追って、僕は休日の校舎へと足を踏み入れた。


 休日の校内は、多彩な音に溢れていた。
 吹奏楽部の管楽器の音色に、合唱部の歌声。体育館のほうからはボールが床を叩く音や運動部の掛け声も聞こえる。休日でも思った以上に生徒はいるらしい。
「なるべく見つからないようにしないとな」
 透馬の所属しているサッカー部はグラウンドで練習しており、中に入ってくることはおそらくない。むしろ、吹奏楽部に入っている美春のほうが鉢合わせる可能性は高いと思えた。
 以前聞いた時は、四階の教室で活動していると言っていたし、そこには近づかないほうがいいだろう。幸いにも三年生の教室は二階にあるし、二階を適当に回って時間があれば二年生の教室がある三階を回る、というルートが最適のはずだ。
「よーし。とりあえず見晴らしが良さそうな一番上の階に行ってみよう~」
「待て待て待て」
 いきなり危険エリアへと向かい出す舞を呼び止める。
「お前な、二年と三年の教室を見に来たんだろ。まずは二階からだ」
「ちぇ~」
 油断も隙もありゃしない。本当は首根っこを掴んで引っ張っていきたいところだが、僕は生きているため彼女に触れられないので、仕方なく先導して歩くことにした。
 ゆっくりと階段を昇っていく。踊り場上方の窓から降り注ぐ日光が眩しい。まだ梅雨は明けていないが、清々しいほどに外は晴れていた。
「いい天気だね」
 目を細めている僕を見てか、隣に浮かんでいる舞が笑いかけてきた。
「そうだな」
 一方の彼女はまったく眩しそうではない。いつも通りに太陽を眺めては、楽しそうにくるくると舞っている。
 ふいに思う。
 隣にいる少女は、僕と同じくらいの年齢で亡くなり、こうして幽霊になっている。
 しかも未練は、進路に関係することらしい。
 幽霊になるほどの未練なのだから、きっと相当な心残りだったんだろう。
 自分が何になりたいかも、いったい何がしたいのかもわからない僕とは違い、しっかりと未来を見据えて、心の底からやりたい、なりたいと思えるような絵姿を描いていたんだろう。
 それはいったい、どんな未来だったんだろうか。
 再度舞へ視線を向ける。相変わらず、ふわふわのんびり空中を漂っている。その口元は朗らかに緩み、実に気持ちよさそうだ。
 不思議だった。
 それほどの未練を抱え、自分が何者なのかわからなくなっても、そんなふうに笑っていられるのはなぜだろうか。
 あまつさえ幽霊である今を楽しみ、生きている僕をからかい、恨むことも妬む様子も見せずに一緒にいるのはなぜだろうか。
 そして。
 どうして君は、死んでしまったんだろうか。
「お、ここが三年生の教室がある二階だね。凌のクラスはどこかな~?」
 階段を昇り切り、誰もいない廊下へと出る。
「僕の教室は一組だから一番端。こっちだ」
「はーい」
 モヤモヤとした心の内を誤魔化すように、僕は足早に教室を目指す。
 今考えても仕方がない。答えの出る見込みのない問いには、見切りをつけることも大切だ。
 教室まで続く数十メートルの廊下。その間に勉強で培った些末なスキルを駆使して頭を切り替えてから、僕は慣れた手つきで教室のドアを開けた。
 教室には、誰もいなかった。
 外から淡い陽の光が差し込んでおり、幾分か蒸し暑い。空気中を舞う微細な埃が窓際でちらちらと光り、どこかいつもと違う雰囲気が漂っていた。
「わーっ、教室だ!」
 そんな非日常の教室でも、彼女の朗らかな声を端緒に色がついていく。
「凌の教室、結構人数いるんだね。四十人くらいか~」
 朝のホームルーム前、会話を楽しむ女子のグループが思い出された。
「黒板も意外と大きいね。って、あははっ! 見てここ、なんか変なラクガキしてある!」
 あけすけな笑い声が響く。きっと僕は端にある自分の席で授業の準備か自習をしていて、ひときわ大きなその声に横目を向けるだけなんだろう。
「私ね、教室だと窓際の席が好きなんだ~。授業中ってずっとは集中力続かないし、時々ぼーっと外の景色を見られる窓際の、特に後方の席が最高!」
 遠目に見えた、クラスの中心にいる彼女の笑顔に、類に漏れず僕も少しだけドキッとして、そしてまた自分の世界に戻っていく。
 日常に置き換えるなら、きっと、そんな――。
「ねっ、凌の席ってどこ?」
 ハッと我にかえる。
 舞は、僕のことを真っ直ぐ見つめていた。
 窓の縁に腰かけるようにして浮いている。白いニットや暗めのグリーンのスカートは、その配色のせいか、まるで制服のように見えた。
「あ、ああ。僕の席は、舞の目の前にある席の、ひとつ後ろ……」
「ここか! ねっ、ちょっとだけ椅子引いてくれない?」
 彼女の求めに応じて自分の席の椅子を引くと、ためらいなく舞はそこに座った。
「ありがと! ねねっ、凌もどこかに座ってみてよ」
「どこかって、どこに……」
「んー、じゃあ、隣の席!」
 喜色満面の表情で、舞はすぐ横の席を指差す。
 仕方なく、僕はその席に座った。いつもの席よりもひとつ隣にずれただけなのに、景色がいやに違って見えた。窓が少し遠いのも、黒板の見える角度も、両側に机の列があるのも……
「ふふふっ、ドキドキするね」
 ふわりとした声が聞こえた。
 すぐそばだ。
 当たり前だ。彼女が座っているのは隣の席。僕の席だ。
 だからそれは至極当然のことで――。
「っ……」
 視線を向けて、僕は固まった。
 陽だまりの中で、舞が笑っていた。
 窓の外には青い夏空が広がり、千切れた雲が流れていて。
 緩やかな風は葉を揺らし、六月の陽射しが薄い線を描いて照らしている席に。
 もはや見慣れたはずの、舞の柔らかな笑顔があった。
「私ね、今日ここに来て良かった」
 心臓がうるさかった。そんなはずないと思った。
「やっぱり私、この学校に通ってたよ」
 もしかしたら僕は、既に後戻りできないところまで来てしまったのかもしれない。

     *

 舞と学校に来た日から、一週間が過ぎた。
 先週の日曜日は予想以上に収穫の多い日だった。
 まず、舞はやはり同じ高校の生徒だった。しかも、どうやら僕と同じ高校三年生だったらしい。補修された外観にはあまり馴染みがなかったが、校内に入ったあたりからあちこちに見覚えがあり、僕の教室に入ったところで思い出したとのことだった。
「いやーまさか幽霊になってからも高校に来るなんてねー。私ってばなんて勉強熱心」
「どこが」
「あははっ、ナイスツッコミだね!」
 教室にある僕の座席でプラプラと足を振りながら、舞は楽しそうに笑っていた。
 ただ、その前日にわかったことである進路に関する未練については、特に進展はなかった。この大学に進学したい、あるいはこういった未来に進みたいなど、進路に関するどのような未練なのかはまったくわかっていない。
「まあ、今まで通りいろんなところに行ってみたらいつかわかるでしょ。その時までよろしくね、私のゴーストパートナーさん」
「僕に変な名前を付けるな」
「あははっ」
 訳の分からないテンションではしゃぐ舞に、終始振り回された休日だった。翌日の月曜日は、休日明けだというのにどっと疲れていた。
 もっとも、疲れていたのは寝不足だったのもあるが。
 そうなぜか、あの日の夜はなかなか寝付けなかった。
 眠ろうとして目を閉じると、舞の笑った顔が浮かんできた。
 水溜まりの上でくるくると踊る舞がちらついた。
 隣でふよふよ漂っている舞の面影が邪魔をしてきて、僕は振り払うように寝返りを打たざるを得なかった。
 呪いにかけられた気分だった。
 会う時だけでなく、会っていない時にも舞にからかわれ、いじられる呪い。悪質極まりないし、寝ようとしている時はせめて大人しくしていてほしい。
 でも、そんなことを考えれば考えるほど彼女が笑いかけてきて、気づけば布団に入ってから二時間以上経過し、僕は翌日に睡魔との格闘を余儀なくされた。
 もちろん、理由はなんとなく察している。
 彼女が変な呪いを僕にかけているわけがないことも承知している。
 あの日。学校の教室で感じた気持ちは、今も心の奥底に残っている。
 ただ、認めるわけにはいかなかった。
 だからというわけではないけれど、確認のためにここ一週間はなるべく舞のところへ行った。
「あれ、今日も来てくれたの!」
「ああ。あんまり課題なかったからな」
 課題は、退屈な授業での内職や休み時間も利用して終わらせた。どうせこのまま家に帰ってもモヤモヤして集中できないことは目に見えているし、それなら学校にいる間に終わらせて一刻も早く気持ちの整理をつけたほうがいい。
 幸いにも、舞は無邪気に喜んでいるばかりで不審には思っていないようだった。
 何がしたいのかと問えば、いったん未練から離れてボウリングやカラオケに行きたいと言われた。ボウリングの玉にもマイクにも触れられないのに、彼女はどうしても行きたがった。仕方なく僕は彼女を連れて、隣街の少し大きなアミューズメント施設へと足を運んだ。
「おーここが、ボウリング場!」
「頼むから変なことはしないでくれよ」
「しないよ~。むしろ私がレーンの上から投げるとこアドバイスしてあげる!」
「それを変なことって言うんだよ」
 あまり行ったことのないボウリング場で、僕は一人分の料金を払って二ゲームほど投げた。一ゲーム目は大人しく見ていたが、案の定二ゲーム目で舞はレーンの上を飛び回り、気が散った僕はガーターを量産することとなった。結果、スコアは二ゲーム合わせて百も行かず、舞はお腹を抱えて盛大に笑っていた。
 その後に同じく一人分の料金を払って行ったカラオケでは、名は体を表すがごとく舞は踊りまくっていた。
「ねねねっ、もっとテンション高い曲を歌ってよ!」
「いやそうしたらまた部屋中飛び回るだろ」
「それがしたいからに決まってるじゃん!」
 強い意志を持っていない僕は結局彼女に流され、知っている限りテンションの高い曲を連続で十曲以上歌った。もちろん僕の喉が耐えきれるはずもなく、カラオケが終わる頃にはしわがれた老婆のような声になっていた。舞は終始空中で笑い転げていた。
 べつの日には、「ウインドウショッピングをしたい」と言う舞に、思い切ってショッピングモールにも行ってみた。平日の夕方だったが人はそこそこに多く、僕は冷や汗をかきながら服やら雑貨やら本やらを見て回った。
「相変わらず心配性だな~凌は。今まで凌と凌の友達以外、誰一人として気づいてないんだから大丈夫だって」
 一方の舞は、まったく気にすることなく店内を楽しそうに見て回っていた。
 アパレルショップでは、僕に似合うと言って云万円もするジャケットを指差し、その値段に驚く僕を見て笑っていた。
 べつのお店では、異国の民芸品みたいな置物を見つけてきては笑い、ちょっとエッチな本が並ぶコーナーに僕を連れてきて慌てさせては笑っていた。
 本当に、彼女はずっと笑っていた。
 小さな公園でのんびりした木曜日も、近くの河川敷でちょっとしたピクニックをした土曜日も、舞は無邪気にはしゃいでいた。
 記憶も少しずつ戻ってきているはずなのに、舞は会った時とぜんぜん変わらなかった。それが心配でもあり、同時に少し安心もしていた。
 そして、そんなふうに一緒に過ごす時間は、僕にとっても楽しいものだった。
 気分転換ができればくらいに思っていたのに、それだけに収まっていなかった。
 まったくの想定外だった。
 昨日一日中考えて、僕は認めざるを得なくなった。
 僕は、幽霊の少女に恋をしていた。

     *

「おーい、凌」
 月曜日の朝。梅雨らしく降り頻る雨の中、先週に引き続きやや寝不足気味の頭で学校に行くと、いつものように透馬が声をかけてきた。教室の自分の机で突っ伏していた僕は、仕方なく首をもたげる。
「なに?」
「お前、ここ最近ずっと眠そうだよな」
「ちょっとね」
「もうすぐ期末だもんな。夜遅くまで勉強か?」
「まあそんなところ」
 僕は適当に答えて、また頭を埋める。すると、何かがポスンと後頭部に置かれた。
「うそつけ。計画的なお前が、そんな勉強の仕方するわけねーだろ」
 乱暴に頭が揺らされる。どうやら、僕の頭の上に乗っているのはこいつの手らしい。
「どかしてくれ、その手」
「お前が何に悩んでるのか教えてくれたらどけてやるよ」
「べつに。何にも悩んでないよ」
「んじゃ、代わりに俺の悩み聞いてくれよ」
「はあ?」
 僕は思わず顔をあげた。普通こういう時はもう少し食い下がるものだろうに、透馬はなぜか笑顔で僕のほうを見ている。
「いや実は、また美春と喧嘩しちまって。あいつ、急に県内の難関校受けるとか言い出したんだよ。この前まで散々俺に大学を適当に決めるなだの、もっと真剣に進路を考えろだの言ってたのに、何自分が簡単に変えてんだよって腹立ってさ」
「はあ」
「凌はどう思う? やりたいことあるなら遠慮せずに貫き通せばいいのにって思わね? 美春らしくもない。恋愛に気をとられて大切なことを見失うなってんだ」
「……」
 透馬の言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。
 べつに僕には同意を求めただけで、僕に対して言った言葉ではない。
 けれど、彼の言葉は妙に今の状況に当てはまっていた。
 僕の、自分の抱く感情に気をとられて睡眠やら勉強やらが疎かになっている今の状況に。
「なるほどね。やっぱりその辺りか」
 その時、唐突に透馬は僕の顔をのぞきこんできた。美春の愚痴をこぼしていた時とは打って変わり、いやに落ち着いた口調になっている。その変化と顔の近さに、僕は驚いて身を引いた。
「な、なんだよ」
「いーや、なんでもない。予想通りでちょっと拍子抜けしただけ」
「は?」
「まっ、お前もしっかり悩めよ。俺もまたちょっと頭に血昇ってた。今の言葉は忘れてくれ」
「え? あ、ちょっと待てよ、おい」
 そこで、僕の声を遮るように朝のホームルームを告げる予鈴が鳴った。僕の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、透馬は特に反応を示すことなく自分の席へと戻っていった。
「ったく。なんなんだよ、もう」
 小さく舌打ちをしてから、僕は視線を窓の外へと逸らす。
 昨夜からの雨足は弱まることなく、頻りに窓ガラスを打ち付けていた。


 身の入らない授業を受けた放課後、僕は図書館にいた。
 梅雨時期の雨は飽きることを知らないらしく、昨日の夜から今の今まで全く止む気配がない。外はどんよりと暗く、舞と学校に来た時に見た青い夏空がうそのように思えた。
 そういえば、あいつ雨だけど大丈夫なのかな。
 ふと頭に見当違いな考えが浮かんで、僕は慌てて首を振る。
 舞は幽霊で、雨に当たることもなければ風邪を引くこともない。それに雨の日は舞もテンションが下がるらしく、基本的に会わない取り決めにしている。だからこんな日に会いに行けば間違いなく不機嫌な彼女のお守りになるか、彼女の笑いの餌食にされるかのどちらかで……。
「って、なんで僕はまた」
 自分の考えに苦笑して、僕は席から立ち上がった。机の上に広げていた真っ白なノートを閉じ、教科書と問題集を鞄に突っ込んで図書館を後にする。雨が弱まるまで課題でもして待っていようと思ったが、どうも気分が乗らなかった。
 雨音ばかりが響く廊下を通り抜けて生徒玄関へと出る。傘立てから自分のビニール傘を持ち出し、僕は降り頻る雨の中へと踏み出した。
 ほんと、何やってんだろうな。
 朝に透馬から言われた言葉が蘇る。
 まさか自分がこんな気持ちになるとは想像もしていなかった。我ながらバカだと思う。どう気持ちの整理をつけたらいいのだろうか。
 ビニール傘に当たって弾ける雨音が辺りに満ちていた。
 誰もいない住宅街の中を、僕は独りで歩いていく。さすがにこの雨の中散歩やら井戸端会議やらをしている人はおらず、いつもより随分と人気がない。
 なんとなく、このまま帰りたくないと思った。どうせ平日のこの時間家には誰もいないし、自室にこもっていてもまた図書館と同じように雑念が浮かぶだけだろう。僕は少し考えて、駅前通りにあるカフェに寄ることにした。
「いらっしゃいませー」
 来店を知らせるベルが取り付けられた扉を開けると、店員さんが笑顔で出迎えてくれた。駅前に並ぶカフェの中でもかなり人気のお店で、いつもはほとんどの席が埋まっている。しかし今日はあいにくの天気ということもあって、店内は閑散としていた。
「お一人様ですか?」
「あ、えっと……はい」
 一瞬返事をためらってしまった自分に苦笑いを浮かべる。本当に今日はどうかしている。彼女が傍にいても、どうせ答えは変わらないのに。
 小さくため息をついてから、僕は店員さんが案内してくれた窓際の席に向かった。
「あれ、凌?」
 ふいに名前を呼ばれて、僕は振り返った。
 声の先には見慣れた顔……美春がテーブル席に座っていた。
「なんだ、美春か」
「なんだって何よ。あたしじゃ悪い?」
「いや、ごめん。そんな意味じゃないんだけど……って、あれ?」
 近くまで歩いていくと、柱の死角になっていた向かい側の席に、もう一人いることに気づいた。その顔を見るのは、かなり久しぶりだった。
「こんにちは、凌くん。私のこと、覚えてる?」
 肩ほどまで伸びた茶髪に、どこか眠そうな印象を思わせる垂れ目。のんびりとした口調も相まって、美春とは対照的なマイペースさが際立っている。薄い化粧に、大人っぽい水色のブラウスと白のロングスカートという出で立ちは、いかにも大学生といった感じだ。
「もちろん覚えてるよ。三年ぶりくらいか、ちさと姉」
「ええ。ほんと、久しぶりね」
 三つ年上の美春の従姉、ちさと姉こと神崎千里がふわりと微笑んでいた。


 店員さんに事情を話し、僕は美春とちさと姉のテーブルに座ることとなった。本当は軽く立ち話だけするつもりだったのだが、ちさと姉に押し切られた。見かけに寄らず意外と強引で頑固なところは相変わらずだ。
 そしてどうやら、現在進行形で美春の相談に乗っているところらしく、参考までに男の子の意見も聞かせてほしいと頼まれた。正直、面倒な予感しかしない。
「それで美春、相談って?」
「もちろん、透馬のことよ」
「やっぱりか」
 注文したアイスコーヒーをひと口すする。ちなみに、ちさと姉の奢りだ。
「美春ちゃんの、愛しの透馬くん、ね。写真見せてもらったけど、すごくカッコよくなってたね~。あ、もちろん、凌くんもカッコよくなってるよ」
「そんなフォローはいらないって。僕は透馬と違って運動部に入ってるわけでもないし」
「えー、もったいない。凌くん、運動はべつに苦手じゃないでしょ? どうして」
「もうっ、二人とも! 話がぜんぜん進まないから少し黙ってて!」
 美春に一喝され、僕とちさと姉は同時に口をつぐむ。僕は流されやすく、ちさと姉はマイペースさ全開なので昔からこういうことがよくあった。なんだか懐かしい。
「で、どうせ透馬から聞いてると思うけど、あたしたち喧嘩してるのよ。結構前から」
「らしいな。なんでも進路の話から始まって、遠距離のルール決めでもめて、今もその延長だったか」
「……あいつ、どこまで喋ったの?」
「いや、たいしたことは聞いてないから安心しろ」
 美春はそれでも怪訝そうに、真っ赤な顔で睨みつけてくる。その反応を見る限り、やはり透馬のことを嫌いになったわけではないらしい。二人の幼馴染として、ちょっとだけ安心できた。
「……まあ凌の言う通り、進路と今後の関係性のことで透馬ともめてるの。最初は遠距離でもいいかなって思ってたんだけど、喧嘩してるうちに無理そうだなって。で、やっぱり透馬とは一緒にいたいから一瞬諦めかけて県内大学にしようと思ったんだけど、また喧嘩になって頭にきちゃって。そこで考えた結果、家から通えそうな範囲でなるべく自分のしたいことができそうな大学に行こうと思ってるの。そうしたら、透馬と遠距離しなくても済むし」
「そんな大学あるのか?」
「あるよ。探せばある。高望みをしなければいくらでも見つかるわ。現に、いくつか候補は見繕ってる」
 美春はスマホを操作し、メモ帳を見せてきた。そこには、県内や隣県にあるそれなりの大学名がずらりと並んでいた。さらにその下には学部や入試科目などの情報のほか、美春のやりたいことに関連するのだろうサイトのリンクがいくつも貼ってある。
「めっちゃ調べてるな」
「もちろんよ。自分のやりたいことだし」
 チクリと胸が痛んだ気がした。
「ここにある大学のどこかなら、やりたいこともしつつ透馬とも一緒にいられる。今よりも時間は短くなるけど、遠距離よりはマシだし、これがきっと最善の――」
「美春ちゃんは、本当にそれでいいの?」
 そこへ、唐突にちさと姉の声が聞こえた。僕は驚いて、彼女のほうを見る。
「本当に、その進路を選んで後悔しない? 美春ちゃんのやりたいことが、十二分にできるの?」
 ちさと姉は、真っ直ぐ美春を見つめていた。美春の言葉に被せるように発せられた声には、先ほどまでの明るさはない。代わりに、年上のお姉さんとしての真剣さが見てとれた。
「もしできないなら、私は反対。きっと、後悔すると思うから」
 そこでちさと姉は、アイスコーヒーを口に含んだ。
 僕は呆気にとられていた。
 三年前、最後に会った時とは別人みたいだった。高校生から大学生になって、いろんな経験を積んだ結果なんだろうか。
「……できる。やってみせる」
 美春も同じように驚いていたが、どうにかといった様子で言葉を絞り出した。でも、ちさと姉は容赦なく続ける。
「私には、自分を無理やり納得させつつ、迷っているように見えるけど」
「迷うよ。当たり前じゃない。自分の進路なんだし、自分の人生なんだし、そんな簡単に決められるわけないじゃない。だからあたしは……」
「そうね。たいして歳は違わないし、私も同じように迷っている側だから、偉そうなことは言えない。本当なら、美春ちゃんの気持ちを汲んで、背中を押してあげるべきなんだと思う。けれど、今の美春ちゃんの様子を見て、数年先を行く人生の先輩として敢えて言うなら、私は反対かな」
「……っ、帰る!」
 美春は勢いよく席を立つと、そのまま鞄を引っ掴んで店の外へ出て行った。
 僕は呆然と、雨の中へ消えていく美春を見送るだけだった。


「ごめんね。久しぶりに会って、いきなりこんなことになっちゃって。美春ちゃんには、後で私からフォローしておくから」
 街を包む雨音の中、僕とちさと姉は駅に向かって歩いていた。
「まあ、きっと大丈夫だよ。透馬も、なんだかんだで美春とのこと考えてるみたいだし」
「そっか。喧嘩してるとはいえ、透馬くんもしっかり美春ちゃんのこと想ってくれてるんだね」
 ちさと姉は短く微笑をこぼす。その表情は実に大人っぽくて、とても僕と三歳程度しか離れていない人とは思えない。
「あいつらは素直じゃないだけだからな。お互いに好きなのは見ていてわかる」
「ふふっ、確かに。ほんと、不器用な二人よね」
「まったくだ」
 それからは互いに近況を話し合った。
 ちさと姉は隣街にある大学に進学し、一人暮らしをしているらしい。大学近くのアパートで、家賃が安い割には広くて清潔で、かなり気に入っているのだとか。今日は、唯一入れていた大学の講義が休講になり、バイトもないので久しぶりに実家へ帰ってきたとのことだった。
 彼女の口から出るすべての言葉が、僕にとっては新鮮だった。これまでぼんやりとしかわからなかった大学生の輪郭が濃くなっていくのがわかった。
 でも同時に、不安や焦りも大きくなる。
 透馬はやりたいことが見つからないと言いつつも、一応の進路を決めている。美春もかなり悩んではいるみたいだが、きっと彼女なりに結論を出し、前に進んでいくのだろう。今は喧嘩だなんだと騒いでいる二人だが、今日会ってみておそらく二人の関係も大丈夫だと思えた。
 じゃあ僕は、どうなんだろうか。
 具体的な進路も決まっていなければ、叶うはずもない恋心に悩み、勉強や睡眠が疎かになっている。迷ってばかりで整理もできなければ決められてもいない。来年、隣にいる大人っぽい大学生になっているとは到底思えない。情けない限りだ。
「それで、ちなみに凌くんは、進路決まっているの?」
 まるで考えていることを見透かされたようなタイミングで、ちさと姉は訊いてきた。思わずぎょっとしてしまい、慌てて顔を背ける。
「……そっか。凌くんも悩んでるわけか」
 もちろんそれで誤魔化せるはずもない。僕は観念した。
「まあ……」
「そんな暗い顔しないの。高校三年生だもん、悩むのも迷うのも、当たり前じゃない」
「そうなんだけど、その、僕の場合はもっと、それ以前の悩みというか」
「それ以前?」
「まあ、その……」
「……無理にとは言わないけど、滅多に会わない昔馴染みのお姉さんでよければ、話を聞くわよ?」
 その言葉に背中を押されるように、僕は悩んでいることの一部をちさと姉に話した。舞とのことはさすがに話すわけにもいかないので、気になっている人がいるということにしておいた。
 ちさと姉は昔から僕や透馬、美春の面倒を見てくれており、僕にとっても姉のような存在だ。ここ最近は会っていないということもあってか、近すぎない距離にいる分、話はしやすかった。そんな頼れる大学生のお姉さんは、僕が話している間は特に口を挟むことなく、静かに聞いてくれた。
「そっか。私にも覚えがあるわ。凌くんも、大変ね」
 一通り説明すると、ちさと姉は共感するように息を吐いた。
「ちさと姉も、悩んでたのか?」
「そりゃもう、ね。美春ちゃんには偉そうにあんなこと言ったけど、今だって悩んでる。それに私も、凌くんと同じで特にやりたいことはなかった組だから」
「え?」
 意外だった。こんなにキラキラしていて大人っぽいちさと姉が、高校生の時は僕と同じだったなんて。
「まあ、人生なんてきっとそんなものなのよ。進路も恋愛も、何が正解かなんて誰にもわからない。だから、今の自分が少しでも後悔しないと思う選択肢を選んで、進んでいくしかない。そこにためらいや迷いがあるのは当たり前で、後からそのギャップを修正していくしかないの」
「ギャップ、か」
「ふふっ、少し難しかったかな。あ、もうすぐ駅だね」
 言われて前を見ると、いつの間にか駅前通りに出ていた。雨で視界が悪いが、遠目に駅が見える。
「送ってくれてありがとう。ここまでで大丈夫だよ」
「わかった。気をつけてな。あと、話聞いてくれてありがとう」
「ううん、あんまりたいしたこと言えなくてごめんね。凌くんは、後悔のないようにね」
 それだけ言うと、ちさと姉は手を振って駅のほうへ歩いていった。
「後悔のないように、か」
 雨は未だ止むことなく、静かに夕暮れ時の街へ降り注いでいた。

     *

 梅雨らしい雨模様が続き、ようやく晴れ間が広がった日曜日。
 約一週間ぶりに舞のところへ行くと、頬を膨らませた彼女から動物園に行きたいとせがまれた。
「一週間はさすがに気が向かなすぎじゃないですかね!」
「いや、雨だったし」
「あーあ、寂しかったなー!」
「人の話を聞け」
 雨の日は会わないという取り決めは、どうやら時と場合によるらしい。数日連続して会いに来てくれたかと思えば、いきなり一週間空けられてどうのこうのと、動物園までの道すがら僕は彼女の愚痴に付き合わされることとなった。
 この近くの動物園までは、ちょうど桃坂公園前のバス停から直接行くことができる。思い出したくもないバンジージャンプの時に降りた停留所を通り過ぎ、さらに二十分ほど揺られていれば到着だ。例のごとく寝不足だったので少し寝ようかと思っていたが、静かな車内で愚痴やら近況やらを話す舞がそれを許してくれなかった。
「それでね、公園で雨の中言い合いをしていたそのカップルが、そこでお互いに気持ちを伝えて抱き合ったの! なんかジーンときちゃって!」
「恋愛ドラマか何かの見過ぎだろ」
「ざーんねん。幽霊になってからドラマとか見てないですう。あーあ、雨でも凌の家でテレビとか見てたかったなあー」
「なんか、どんどん図々しくなってないか」
「えー、気のせい気のせい!」
 舞は大声で、僕は小声で交わす会話は途切れることなく、みっちり一時間続いた。幸いにも他の乗客はイヤホンをしていたり眠っていたりしており、咎められることはなかった。ただ言うまでもなく、動物園に入る前からどっと疲れた。
 そんな精神を擦り減らすお喋りが終わり、僕らは動物園前のバス停で降りた。バスの車内は比較的空いていたが、休日の動物園はそうもいかないようだった。
「わ~すごい人だね」
「日曜日だからな」
 動物園の前にある入園受付には、長蛇の列ができていた。どうやらほとんどの人が車で来ているらしく、駐車場のほうに向かって伸びている。その多くが家族連れやらカップルで、僕みたいに独り、いや幽霊と来ていそうな人は一人も見当たらない。
「ねっ、先に飛んで中入ってもいい?」
「いいわけあるか。僕は飛べないんだから、この人混みではぐれたらまず見つけられないぞ」
「その時は空中に浮かんでるよ。あ、でもスカートだから見ちゃダメだよ」
「理不尽すぎるだろ。とにかく並ぶぞ」
 やや不満そうにしている舞をどうにかなだめて、僕らはやたらと長い列の最後尾に並んだ。舞は最初こそ口を尖らせていたが、持ち前の変わり身の早さですぐにはしゃぎ始めた。
「ねねねっ、見て! 今日から新しい動物が入るんだって! ラッキー!」
「へえ、なんの動物? パンダとか?」
「アムールヒョウだって!」
「アムールヒョウ……」
 感想の難しい動物に僕は苦笑を浮かべる。その辺りの知識は全くないが、最近はヒョウが人気なんだろうか。
「あ、見て見て! アニマルショーやってるんだって! あとで見に行ってみようよ!」
「……ほんと舞はいろんなものに興味持つよな」
「え、そうかな?」
「そうだよ。丘陵公園でも僕の部屋でも学校でも。好奇心が旺盛っていうか」
 咲いている花やクローバーに飛びつき、僕の部屋ではありもしない本を探し、学校では危うく一人で突っ走っていこうとしていた。ほんと、舞と一緒にいたら退屈しない。
 僕の言葉に舞は少し考えるようにしていたが、やがて納得したように頷いた。
「えへへ。まあ、凌といたら楽しいことばかりだからね」
 ふわりとした無邪気な笑顔に、思わずドキリとする。
 その些細な鼓動の変化で、改めて自分の気持ちを自覚してしまう。
 舞と会った当初は、まさか自分がこんな気持ちになってしまうなんて想像もしていなかった。……いや。似たようなことだったら、彼女の名前を付ける時に思ったんだったか。
 まさに切ない恋愛映画みたいな展開に巻き込まれている自分に苦笑する。
 いつか僕は、彼女が未練を果たして消える日に今日のことを思い出すんだろうか。
「お~っ、このポスターも可愛い~!」
 パンダのイラストが描かれたポスターを見つけ、目を輝かせている舞の横顔を見つめる。
 僕からすれば、生きている人間と大差ない少女。彼女の朗らかな笑顔に、僕はまた自身の胸が高鳴るのを感じた。
 僕はやっぱり舞のことが好きなんだ、と。
「あ、そろそろだね!」
 舞の言葉にハッとして前を見ると、いつの間にか列はかなり進んでいた。あと五組ほどで僕らの番になる。
「おっ、見て。入場券、今日から新しいイラストだって! いろんな動物がポップに描かれていて可愛い~!」
「入場券まで凝ってるなんてすごいな。家に帰ったらだいたい捨てられるだろうに」
「え! こんな可愛い入場券を捨てるなんてもったいない!」
「いや、もったいないって言っても使いどころないだろ」
「そうだけど、今日のは幽霊と来た思い出に大事にしまっておいてね!」
「ええぇ……」
 思わぬ彼女の言葉に辟易としていると順番が回ってきた。
 ストライプパーカーにアニマル柄の帽子をかぶった女性スタッフが手を振っており、案内に沿って三番と書かれた窓口まで僕らは歩いていく。
「いらっしゃいませ! 本日はお一人様ですか?」
「あ、えっと……」
 いつも通り頷きかけて、僕は動きを止めた。
 少しだけ考えてから、僕は使い古した財布から千円札を三枚取り出してトレーに置く。
「二人分、お願いします」
「え?」
「すぐそこに、連れがいるので」
 女性スタッフは一瞬訝しげに首を傾げたが、僕の言葉に得心したようにすぐ満面の笑みを浮かべた。慣れた手つきでチケット枚数を数えると、僕が置いた紙幣と引き換えに二枚のチケットと園内マップ、そしてお釣りを手渡してきた。簡単な説明だけ受けて、僕はさっさと受付から離れ、やや遠くにある端の入退園ゲートから園内へと入った。
「ちょ、ちょっと凌? 待って、待ってってば」
 その間、舞は驚きと戸惑いの表情で追いすがってきていた。問題なくゲートをくぐってから、僕は彼女に向き直る。
「なに? どうかした?」
「どうかした、じゃない! 白々しすぎる! え、なんで一枚多く買ってるの? 私幽霊だからべつにチケットなくても入れるよ?」
「もちろん知ってる」
「だったらなんで」
 珍しく困惑した表情を浮かべる舞に、僕はどこまで言おうか迷う。
 さすがに僕の気持ちまで伝えるわけにはいかないが、「なんとなく」で納得してくれるとは思えない。ゲートから笑顔で歩いてくる家族連れやカップルの波の端で、僕はためらいがちに口を開いた。
「まあ、なんだ、その……そんなにイラストが気に入ったなら、舞の分もあったほうがいいかなって思って。それに、他の人に見えないとはいえ、僕にとってはべつに独りで来たわけじゃないから、チケットをとっておくなら二人で来たってわかるようにしたほうがいいだろうし。まあ、なんか、そんな感じの理由だ」
 しどろもどろになって、我ながら酷い言い訳だと思った。ほとんどからかわれる覚悟で舞に目を向けると、予想外にも彼女はポカンと口が空いたなんとも間抜けな顔をしていた。
「……なんだよ」
 暫しの沈黙に、たまらなくなって僕は尋ねる。すると、それに呼応するように彼女はハッとして僕の手元にあるチケットに視線を落とした。
「い、いや~まさか凌の口からそんな言葉が出てくるとは思わなくて。今日は雨かな」
「今日は晴れてるだろ。快晴だ」
「あははっ、そうだね」
 どことなく気まずい。このままじゃいけないと、僕は軽く頭を掻いてから人の流れに乗って歩き始める。
「ほら、行くぞ」
「あ、待って」
 舞に言った理由はうそではない。半分くらい、本当だ。
 でもそれ以上に、僕は嫌だと思ってしまった。彼女の存在を無視して、一人分の料金を払って動物園に入ることが。これまでは、そんなふうに思ったことなかったのに。
「ねっ、最初はどの動物見に行く?」
「そうだな。ここから近いのは……」
 すぐ隣にある唯一の気配を感じながら、僕は二枚のチケットと一冊の園内マップをそっと鞄にしまった。
 きっとこれでいいのだと、僕は思った。


 それから僕と舞は、園内マップを頼りに動物を見て回ることにした。
 久しぶりの晴れということもあって、ゲートの外以上に園内は混み合っている。お祭りの時のような人混みと、多種多様な動物、そして各所に植えられた草木の相乗効果によりかなり蒸し暑く、まるでジャングルみたいだ。まだ入って三十分も経っていないが、僕の体力は既に半分以上削られていた。
「あ、見てー! パンダだよ、パンダ! 可愛いー!」
 一方、暑さを一ミリも感じてなさそうな舞は、人混みの中で縦横無尽にはしゃいでいた。人や物に気を遣うことなく動けるのは羨ましいが、見ている側としては冷や汗ものだ。
 そして付け加えるなら、この蒸し暑さは幽霊が傍にいても変わることはない。つまり、僕は今二重の意味で汗をかいており、着ているTシャツはやや大変なことになっている。帰ったら即洗濯だ。
「お、こっちにはライオンとかトラとか肉食動物がいるみたいだね。あっ、さっきのアムールヒョウもいるのかな」
「んーいや、マップによるとアムールヒョウはべつのところみたいだな」
 滴る汗を拭いつつ、僕は園内マップに視線を落とした。僕らが今いるのは入って右手側にあるエリアで、アムールヒョウはもう少し奥まったところにいるらしい。
「へえ、どこどこ?」
 どんな経路で行こうかぼんやり考えていると、舞がすっと横からのぞきこんできた。
 鼓動が早くなるも、それは一瞬。
 小さく深呼吸をして落ち着けてから、僕はマップを指差す。
「なんか、この辺りにいるみたいだ」
「結構奥だね。今いるところはこの肉食動物のエリアだから、あっちの道だね!」
「走ると……って、舞には杞憂か」
「えへへっ。ほうら、転ばないようについてきて!」
 空から照り付けてくる太陽に負けないくらい眩しい笑顔を振り撒いて、彼女はパッと飛び出した。油断すると人混みに紛れてしまいそうで、僕はすぐにその後を追う。
 園内はジャングルのような熱気でも、当たり前だが道は舗装されている。森を模した様々な木々が両脇に立ち並んでおり、少しだけあの銀杏並木の通りに似ていた。もっとも、舞は特に気にしているふうもなく、道中にあるいろんな動物の檻の間を行ったり来たりしていた。
 なお、動物たちの中には彼女の動きに合わせて首をきょろきょろしているやつもいた。野生ではないが、さすがは動物というべきか。園内にこれだけの人がいるにもかかわらず誰にも不審がられていないところを見ると、やはり人間よりも動物のほうが敏感なんだろう。
 あれ。なら僕は、人間の中でも動物寄りということに……?
「凌~。ほら、あそこ!」
 ややショックを受けそうになっているところへ、舞の明るい声が響いた。彼女が指差す方向を見ると、パンダの檻と同じくらいの人だかりができている。
「さっき前まで行ってチラッと見てきたんだけど、すっごくかっこ可愛かったよ!」
「かっこ可愛い? というか、舞いつの間に……」
「ほーら、行こっ!」
「あ、ちょっ」
 くしゃりとひとつ笑顔をこぼして、彼女は人垣の中へ溶けていく。文字通り、すうっと見えなくなった。あそこでアムールヒョウを見ている人たちは、まさか今まさに幽霊が自分の身体を通過したなんて思ってもいないんだろう。
「って、やばい。早く行かないと」
 放っておくとさらに気ままにうろついて、動物園を彷徨う幽霊になってしまいかねない。迷子の幽霊が行き先で迷子になるなんて意味不明だ。
 僕は人垣の隙間を縫って、どうにか前のほうへと出る。檻の前に設置されたプレートの近くまで来ると、ようやく噂のアムールヒョウが見えた。
「あれが、アムールヒョウか」
 ヒョウ柄というがまさにそのままで、黄色っぽい体毛に黒色の斑点がある。素人の僕が見ても、一般的に呼称されているヒョウと何が違うのかわからない。というか、ジャガーやチーターと並べられて見分けがつくかあやしいくらいだ。
「って、あれ。舞は?」
 ついアムールヒョウに目が行ってしまったが、一番前まで来ても舞の姿が見当たらなかった。右に左にと彼女を探すが、子どもを肩車した父親や腕を組んでいるカップル、ぼんやりとアムールヒョウを眺めている老夫婦など人が多過ぎてわからない。
 まさか、はぐれた?
 嫌な予感が頭をよぎる。学校の友達と違ってスマホで連絡をとれるわけもないから、はぐれたら地道に探すしかない。しかも相手は幽霊だから人に聞くわけにもいかない。
「あっ」
 そこまで考えて、ふとチケットを買うために列に並んでいた時の会話を思い出した。ほとんど冗談交じりだったが、はぐれた時は浮いていると彼女は言っていた。
 反射的に上を見る。
 檻の上空、にはいない。
 その横、人口の岩山や木々の枝先にもいない。
 ならこの人混みの上か、もしくは後ろ……。
「こーら。私はスカートだから見ちゃダメって言ったのに」
 すぐ真横。耳元付近で、彼女の声が聞こえた。
「うわっ」
 驚いて、思わず声をあげてしまう。当然、アムールヒョウを見ていた周囲の人たちに怪訝な視線を向けられた。僕は方々に謝りながら、そそくさとアムールヒョウの檻を離れた。
「あははははっ、焦りすぎだよ、もう~」
「舞、お前な」
 お腹を抱えてけらけらと笑っている舞を横目で睨みつける。その様子から彼女の悪戯であることは明白だった。本当にどうしようもない幽霊だ。
「ごめんごめん。ちょ~っと意地悪したくなっちゃって」
「ったく、心臓に悪いからやめろ」
「わかったって。それより、アムールヒョウどうだった? ロゼット模様がおしゃれでかっこ可愛くなかった?」
 笑いを収めた舞の口から聞き慣れない言葉が飛び出し、僕は首をひねる。
「ロゼット模様?」
「え、知らない? ほら、体に黒っぽい斑点があったでしょ。あれ、よく見ると濃淡で二色に分かれてるんだけど、それをロゼット模様って言うんだよ」
 舞はまるで当たり前のことのように説明してくれた。まさかいつも能天気な彼女から教えられる日が来ようとは。
「へえ、初めて知ったな。というか、舞がそんな知識持っているなんてちょっと意外だ」
「なんだとー!」
 舞は大仰にむうっと頬を膨らませ、「パーンチっ」と叫びながら一発僕の肩に打ち込んできた。もちろん彼女は幽霊なので感触はない。一瞬にして「らしい姿」に戻った彼女に呆れ気味の視線を送ってから、僕は手元のマップを広げた。
「はいはい、次はどこに向かおうか。夜行性の動物が見られる夜の動物エリアもいいだろうし、水辺エリアとやらも近くにあるみたいだぞ。あとは入り口ではしゃいでたアニマルショーか、今度は草食動物のエリアに行ってみてもいいかもな。さあ、どうする?」
「ぜんぶ行くっ!」
「言うと思った」
「当然でしょ。せっかく来たんだから回れるところは全部回るの。後悔のないようにね!」
「……後悔のないように、か」
 舞の言葉に、ふと脳裏にいつかの声が響いた気がした。
 ――凌くんは、後悔のないようにね。
 ちさと姉の声だった。
 今日とは正反対の、降り頻る雨の景色が思い浮かぶ。
 あの日、ちさと姉に相談したことの答えは未だに出ていない。
 僕の進路はもちろん、そのことへの思考を阻んでいる舞に対する気持ちさえも。
「ほらほら! まずは隣にある水辺エリアからね!」
「はいはい」
 僕はやっぱり、この笑顔が好きだ。
 無邪気で、眩しくて、思わずこっちまで笑ってしまいそうな、そんな笑顔が好きだ。
「可愛い~! あれカピバラだよね」
「ああ。お風呂みたいに浸かってるな」
 彼女といる時間はなんだかんだ楽しくて、心が自然と軽くなっていた。
 気兼ねすることなく素でいられるこの時間が、なにより好きだ。
「よーしっ、次は夜の動物エリアね! 中は暗いらしいから私の得意領分だ!」
「いや趣旨が違ってくるだろ」
 けれど、彼女は幽霊だ。
 触れることはできないし、普通の人には認識すらされない。
 いつまでこうして一緒にいられるのかわからないし、なんなら未練がなくなれば彼女はいなくなってしまうのだろう。そもそも、僕が彼女と一緒にいられるのはその未練解消が口実となっているのだ。
 そう遠くない未来に、終わりが見えている関係だ。
「きゃああっ! こ、コウモリがたくさんいる……」
「調子に乗ってガラス張りの向こう側に入るからだ。あと得意領分はどこいった」
 僕はどうすればいいのか。
 自分の気持ちに気づいた日から、そんなことばかり考えている。
 結果として寝不足になり、わりと得意だった勉強にも影響が出始めている。まさか自分が、と何度思ったことか。
「あれ、そろそろアニマルショーの時間じゃない? いそげっ!」
「ああ、そういえば……っておい、壁をすり抜けるな」
 ずっと一緒にいられれば、と思う。
 けれど、舞のことを想うならそれは下の策だ。いつまでも未練を抱えたまま現世を彷徨うなんて、舞にはしてほしくない。
 舞には、舞には――。
「しょーがないなー。ほら、早く行こっ!」
「はいはい」
 舞には、笑っていてほしい。
 幸せになってほしい。
 後悔のないように、未練のないように。
 僕がしたいこと、僕の願いは、舞が未練の一切をなくして、満たされた気持ちで成仏してもらうこと。その手助けをすること。
 きっとそれは、僕にしかできないことだから。
「凌~っ! 何してるの~! ここ空いてるよー!」
 夜の動物園から出たすぐ先にある広場で、舞が手招きをしている。
 満面の笑顔が、夏の陽だまりで輝いていた。
「ああ、今行く!」
 だから僕も、笑顔で彼女に応えることにした。