「俺、美春と別れたわ」
 一週間以上、連日に渡って降り続いていた梅雨時期の雨が上がり、久しぶりの太陽が顔を出した晴れやかな日の朝に、僕はそんな報告を受けた。
 ホームルーム前の教室は賑やかな活気に包まれている。飛び交う話題は様々で、昨日出た数学の宿題が難しかったとか、雨上がりのグラウンド練習は嫌だとか、来月のテストが憂鬱だとか、湿気を吸い込んだようなマイナスのテーマが多いが、話をするクラスメイトの顔はそこまで深刻ではない。あくまでも、日常会話のひとつに過ぎないのだから。
 しかし、ひとつ前の席に後ろ向きで座り、こちらを見つめてくる透馬の表情はわりと深刻そうだった。スポーツマンらしく、爽やかで明るく笑っているいつもの面影はどこにもない。彼の恋人である美春の愚痴でも聞かされるのだろうくらいの心づもりでいた僕は、仕方なく手元の単語帳を閉じて彼に向き直った。
「本気か?」
「本気も本気、大マジよ。昨日喧嘩して話し合って価値観の不一致ってことで決着。これでまた俺と凌と美春はただの幼馴染に逆戻りってわけだ。あーすっきりしたー」
 どこか投げやり気味に透馬は言い切った。その顔は暗く、明らかに元気がない。まるでしがらみから解放されたかのように話しているが、納得がいっていないのは見え見えだった。
 僕と透馬と美春は、小学校からよく一緒に遊んでいた、いわゆる幼馴染というやつだ。
 美春は芯の通った男勝りな性格で、明るく実直な性格の透馬とは気が合っていた。小学生の時はやんちゃをしつつ暴れ回っていたが、中学に上がったあたりからお互いを意識し始め、中二までじれったいやり取りを繰り広げてから付き合い出した。傍らで見守っていた僕からすれば、ようやくかといった感じだった。
 それが今度は価値観の不一致で別れたという。十年以上そばで見てきた幼馴染としては、そんなはずないだろうと思った。
「ちなみに聞くけど、どういうところが合わないってなったんだ?」
「それよ。聞いてくれよ。実はさ――」
 待ってましたとばかりに、透馬は早口で経緯を話し始めた。
 なんでも、美春は将来やりたいことがあるから都会の最難関大学を目指し、透馬は特にやりたいことは見つかっていないが法律に興味があるとかで地元の大学を受ける予定らしい。それで遠距離恋愛になることが判明し、ルールを決めていたところで意見が合わず、喧嘩になったとのことだった。そして喧嘩の矛先は進路先にまで飛び火し、やれなんでそんな遠い県外の大学なんだとか、やれ妥協でなんとなく大事な進学先を決めるなだとか、散々口論を繰り広げたみたいだった。
「ったく、俺の進路なんてべつに俺の勝手じゃねーか。なんでそんなとこまで美春に指図されなきゃいけねーんだよ。なあ?」
 もう少しで予鈴が鳴る時間まで長々と愚痴ってから、透馬はそう同意を求めてきた。僕はやや迷ってから口を開く。
「まあ、進路は個人の自由だからな。透馬の気持ちはわかる。ただ美春としては、大事な彼氏の進路はやっぱり気になるんじゃないか。それこそ、その先とかも考えてたらさ」
「その先?」
「僕にそれを言わせるのかよ」
 皆目見当がつかないという顔をする透馬に、僕はため息で返した。この朴念仁が原因で中学の時もなかなか関係が進まなかったのだが、相変わらずのようだった。美春も大変だ。
 そんなことを考えていたら予鈴が鳴った。喧騒に満ちていた教室内が慌ただしくなり、それぞれが自分の席に着くべく移動を始める。本来の座席が隣の列の一番前にある透馬も、やや物足りなさそうにしつつ椅子から立ち上がった。
「まあいいや。話、聞いてくれてサンキューな」
「おう。一限目の数学で頭冷やせよー」
「冷えねーよ。むしろ熱出るわ。つーわけで放課後、気分転換の肝試しに付き合ってくれよな」
 ひらひらと手を振り、透馬はなんでもないふうに言葉を落としていった。
 僕は半分聞き流しながら「ああ」と返事をしかけ、その違和感に気づく。
「は? 肝試し?」
 僕の疑問の声は教室に入ってきた担任の田中先生の声に上書きされ、もやもやとしたホームルームが始まった。

     *

 銀杏並木の幽霊通り、と呼ばれる場所がある。
 高校から徒歩で三十分ほど歩いたところにある公園のそばで、片側一車線の道路の両脇に銀杏の木が連なっている。秋になると満開の銀杏が咲き乱れ、以前は知る人ぞ知るフォトスポットだった通りだ。
 フォトスポットでなくなったのは、ここ数年余りの話。
 理由は、ある写真好きの旅行者が撮影した写真に、とあるものが写り込んでしまったからだ。
「夕焼けに舞う銀杏の葉の中に、髪を振り乱してこちらをジッと見つめている血塗れ女の黒い影が!」
「……なんで影なのに血塗れってわかるんだよ」
 隣でおどろおどろしく語っていた透馬に、僕は冷静なツッコミを入れた。
 時は夕方、を少し過ぎた頃。夏ということもあってまだ空は明るいが、時間帯を指す言葉としては黄昏時、あるいは逢魔が時というのが正しい。つまるところ、幽霊なんかの非科学的な存在に会いやすいと言われている時間帯だ。透馬が肝試し前にゲーセンに寄りたいというので寄っていたらこんな時間になった。
 そして僕らが今歩いているのは、人通りの少ない住宅街裏手にある小道。ホラーやサスペンスドラマなんかで出てきそうな薄暗い通りで、ここを抜けてしばらく行ったところに目的の銀杏並木がある。べつにここを通らなくても行けるのだが、透馬が思いついたように脇道に逸れたので仕方なく付いてきた。
 どちらも、理由についてはなんとなく察しがついていた。
「あのな。俺たちはこれから肝試しに行くんだぞ。雰囲気を大事にしなくてどうする」
 案の定、透馬は僕の言葉が不満とばかりに鼻息荒く持論を述べた。
「雰囲気、ね。だからわざわざゲーセンで時間を潰し、普段は通らないこんな道を歩いてるわけか」
「そういうことだ。それに、例の心霊写真は薄暗い夕方過ぎに撮ったものだったらしいからな。時間に関しては二重の意味で今回の肝試しに適してるわけよ」
「肝試し、ねえ」
 朝のことを思い出す。ホームルームを告げるチャイムが鳴り、自分の席に向かう透馬から去り際に言われた。気分転換に肝試しに付き合ってくれ、と。
 一限後と二限後の休み時間に真意を問い、三限後の教室移動の時と昼休みに肝試しを選んだ理由を尋ねて僕は興味を失った。にもかかわらず、四限後と五限後と放課後で肝試しの行き先とそこにまつわるエピソードを透馬から延々と聞かされた。結果、僕の貴重な休み時間と放課後が丸々無くなる一日となった。
 その対価として得た情報をまとめると、以前友達から聞いて気になっていた心霊スポットが近くにあり、喧嘩で沸いた頭のクールダウンも兼ねて行ってみたいから一緒に行こう、ということだった。つまりは巻き添えだ。いい加減にしてほしい。
「昼も言ったけどさ、なにも肝試しで気分転換しなくていいだろうに。ストレスはカラオケとかで発散して、こういうイベントはそれこそ美春と行ってこいよ」
「美春と肝試し? ムリムリ。あいつ、ホラーとか絶対ダメだから。気強いくせして、遊園地のお化け屋敷とか目つむってしがみついてくるタイプ」
「ふーん。美春のことよくわかってるじゃん」
「うるせーな。頭冷えないだろうが。行くぞ」
 僕の意趣返しが効いたのか、腹を立てたように透馬はさっさと歩き始めた。
 小道を抜けると、一気に視界が開けた。
 左右に広がる片側一車線の道路に、両脇に立ち並ぶ銀杏の木々。夏らしい緑色の葉が生い茂っており、遥か先へと続いている。きっと秋には見事な黄金色のトンネルが伸びているんだろうな、と思った。
「よっしゃ、噂の場所はこの先だな」
 しかし、今は隣にいる悪友の思惑通り、どこか不気味な空気が漂っていた。
 密集した銀杏並木は空からの僅かな光を完全に遮り、道路はぽつぽつと点いた街灯のみで照らされている。真上には群青色に染め上げられた長細い空が並行に走っていて、何かに覗き込まれているような感じさえした。
「噂の場所ね。確か、横断歩道があるんだったか」
 道中に聞いた透馬の話を思い返す。
 数年前までこの通りには信号機がなく、よく調子に乗ったドライバーがスピードを出し過ぎてしまっていたらしい。そして並木道特有の薄暗さも相まって、横断歩道を渡っていた歩行者に気づかず撥ねてしまう交通事故が多かったのだそうだ。
 今では信号機が設置され、時々警察も見張っているので事故は減ったらしいが、それまでの事故で亡くなった人の幽霊が車を恨み、佇んでいるとのことだった。
「ちなみに言っとくが、心霊写真はさっきの写真家だけじゃないぜ。俺たちみたいに興味津々で肝試しにきた奴らが撮った写真にも写り込んでるって話だ」
「さっきのなぜか血塗れとわかる影が?」
「茶化すんじゃない。呪われるぞ」
 どうやらもうすっかり入り込んでいるようだった。冗談を言って呪われるなら興味津々で肝試しに来ている時点で呪われそうなもんだが、と思ったが言わなかった。
 緊張した面持ちで先に進む透馬を追って、僕も歩みを再開する。
 辺りに人はいない。そんなに遅い時間ではないのに、ここまで人がいない道は珍しい。べつに住宅街から離れている場所でもないし、まるで人払いをされているかのようだ。
「なあ、凌。この道って、こんなに寂しかったっけ?」
 どうやら透馬も同じことを感じたらしい。どうだったかな、と僕が曖昧に答えようとしたところで、唐突に背中を押された。
「うおっ」
 突風だった。一陣の風が後ろから前へ吹き抜けていった。夏にしては冷たい風が銀杏並木を揺らし、足元の葉を掬い上げる。ざわざわと揺れる葉擦れの音は笑い声のようで、風とともに僕らを誘っているような錯覚を覚える。
「ははっ、いいねー……。雰囲気出てきたな」
「そ、そうだな」
 同じようにして姿勢を崩していた透馬と笑い合い、僕らは先を見据える。
 あと五分程度歩けば、目的の場所だ。
 ホラー映画で言えば、進むか引くかの運命の分かれ道。そしてもれなく、主人公たちは強がりながら前へと進み、おぞましい怪物に遭遇するのだ。
「さて、透馬どうする? 進むか、それとも戻るか?」
「もちろん、進むに決まってるだろ」
 予想通りの答えに僕は苦笑する。透馬は昔からこれと決めたことは最後まで貫くやつだ。途中で止めたりなんかしない。それがいかに小さなくだらないことであっても。
「わかったよ。じゃあ、行くか」
 とりあえず彼が気の済むまで付き合ってやろうと思ったところで、それは視界に入ってきた。
「お、おい凌。あれ……」
 透馬も気づいたらしい。
 五十メートルほど先。街灯と街灯の間辺りに、誰かが立っている。
 シルエットで見る限り髪は短く、女性か男性かは見分けがつかない。けれど、その誰かは明らかに、こちらを見ていた。
「ああ、誰かいるな」
「マ、マジかよ……」
「いや、普通に人間だろ」
「幽霊かもしれねーじゃん。ど、どうするよ?」
「幽霊なんていないって。とりあえず近づいてみて……え?」
 その時だった。
 そのシルエットはあろうことか、こちらに向かって走ってきていた。間違いなく、僕らをめがけて――。
「う、うわあぁっ⁉ こっちに来る⁉ に、逃げるぞ!」
 グイっと腕が後ろへ引っ張られる。
 さすがにシルエットの動きは僕にとっても想定外だった。幽霊でなくとも、通り魔とか変質者とかまったくべつの意味で危険かもしれない。そんな考えが頭をかすめ、透馬に続いて僕も逃げようとしたところで、
「ちょっとちょっと! なんであたしを見て逃げ出すのよ! こら透馬、凌!」
 聞き慣れた声が響いた。
 名前を呼ばれて振り返ると、ちょうど街灯に照らし出されてその顔が露わになる。
「え、美春? なんで……」
 思いがけないシルエットの正体に、僕は言葉を繋げなかった。


 銀杏並木がざわめく傍らで、僕と透馬は呆然と目の前の女子を眺めていた。
 肩ほどまで伸びた黒い髪に、少し吊り上がりつつもぱっちりと開いた瞳。すっきりとした鼻筋や輪郭も相まって、その美人さが際立っている。まあ、綺麗なバラには棘があるということわざ通り、彼女のことをよく知りもしない人が不用意に近づけば冷ややかにきつい言葉を浴びせられるのだが。
 そんな自他ともに認める気の強さを全開に出したような仁王立ちポーズで、幼馴染の美春は僕らを鋭く睨みつけていた。
「さーて、教えてもらいましょうか。どうしてあたしを見て逃げ出したのかを」
「いや、べつに俺たちはお前を見て逃げたわけじゃ」
「逃げたじゃん! 間違いなく!」
 透馬の言い訳じみた返答に、美春は声を荒らげた。普段はここまで感情を表に出すことはないのだが、おそらく喧嘩のことも尾を引いているのだろう。ほんとタイミングが悪い。
「ちょっと、凌も黙ってないでなんとか言ったらどうなの」
 飛び火した。
 僕は頭を掻きつつ、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「んー、そうだな。その前にひとつ、教えてほしいんだけど、どうして美春はこんなところにいるんだ?」
 そもそもの疑問だった。
 透馬の言葉を借りるなら、美春はホラー系が苦手で、とても自分から進んで肝試しや、ましてや心霊スポットに行くようなやつではない。さらに言えば、美春は今や超がつくほどの真面目人間で、仮にホラー系が大丈夫でもこうしたところに興味本位で行くような性格でもない。
 付近は住宅街くらいしかないから買い物帰りというわけでもないだろうし、美春の家は全然べつの方向だから帰宅途中というのもない。つまりは、どうしてこんな場所にひとりで立っているのかがわからないのだ。
 そんな僕の考えをかいつまんで説明すると、みるみる美春の顔が引きつっていった。
「え、え……心霊スポットって、え、ど、どういうこと……?」
「いや言葉通りだけど。ここから少し先に行ったところにある横断歩道に幽霊が出るって噂があって、それを確かめるというか、まあ俗にいう肝試しで僕と透馬はここまで来たんだ。正直に言ってしまうと、まあ、美春がその幽霊というか得体の知れない何かに見えてしまって逃げたわけなんだけど……って、美春?」
「おいバカ! 凌、お前余計なことを!」
 固まった美春に声をかけようとしたところで、透馬が焦ったように僕を制した。直後、
「ええぇぇえっ⁉ うそ、うそでしょ! あたしはただ透馬たちが銀杏並木に行くって聞いたから先に行って待ってようとしただけで……ふええぇぇぇえ……」
 美春の顔から血の気が引き、その体がぐらりと傾いた。慌てて透馬が支え、倒れないように抱き寄せる。
「ったく、美春が気づいていないようだからあえてそこには触れなかったのに。おい美春、大丈夫だ、大丈夫だからな」
「あ、ああ。そうだったのか、悪い」
 また想定外の事態だった。昔から物怖じせず、何事にも真正面からぶつかっていった男勝りなあの美春に、こんな一面があったとは。しかもわりと本気で洒落にならないくらい苦手らしく、今も透馬に背中を撫でられ、小刻みに震えていた。
 しかしそこではたと気づく。
 物は考えようで、今の流れを利用すればそのまま二人は仲直りできるのでは、と。
「いやーほんとすまん。知らなくてさ。じゃあ僕はこれで……」
「おい待て。このまま俺たちを放置する気か」
 そそくさと立ち去ろうとして、すぐに透馬が空いた右手で僕の肩を掴んできた。それから僕にだけ聞こえるような小声で、「今はいいけど、落ち着いたらやばいんだ。一緒にいてくれよ」と頼んできた。なんて面倒な。
 ただ、美春がこうなったのは僕のせいでもある。仕方なく僕は頷き、美春が落ち着くまで適当に時間を潰そうとスマホを取り出して……背筋が凍った。
 画面を点ける前。真っ暗な液晶画面には、薄っすらと白い月が写り込んでいる。それだけならいいのだが、そのすぐ真横に、長い髪をたなびかせたシルエットが見えた。
「上っ⁉」
 咄嗟に空を見上げる。
 いつの間にか群青色はさらにその闇を濃くし、か細い光が瞬く星空が広がっていた。真っ暗な銀杏並木のトンネルの隙間から見えるそこには、無数の星と、ひとつの月と、ひとりの女の陰が浮かんでいた。
「え、なにあれ……」
「うそだろ……」
 僕と同じように見上げている美春と透馬にも見えているらしく、二人は絶句していた。どうやら、僕だけの見間違いではないようで――。
「き、きゃあぁぁぁぁああっ⁉」
「うわあぁぁぁぁああ!」
 抱き合っていたはずの二人は、一目散に住宅街の方へと駆け出した。
「っ、あいつら……!」
 独り取り残され、遠ざかる影を恨みがましく一瞥する。しかしそれどころではない。あの浮いているものがなんであれ、とりあえず僕も逃げないと。
 二人が逃げて行った方向へ僕も走り出そうとした時、ふいにそのシルエットが目の前に降り立った。
 目と鼻の先。手を伸ばせば届くような距離に。
 終わった、と思った。
 もしこいつが幽霊や妖怪ならば、間違いなく僕はその餌食に……。

「――こんにちは! いや、もうこんばんはの時間かな?」

 薄暗い、古びた街灯が立ち並ぶ銀杏並木の幽霊通り。
 長く伸びた空は小さな星の光ばかりで暗く、肌寒い風が木々を不気味にざわつかせる中で。
 まるで似つかわしくない明るい声が、すぐ近くで聞こえた。
 驚きと恐怖で声が出ず、呆然とその声の方を注視する。
 あるのは暗がりの中に佇む、先ほど空から降ってきた髪の長い女のシルエット。その人影がゆっくりと近づいてきて、街灯の淡い光の下にさらされる。
「え?」
 今度は意に反して声がもれた。そこには、血塗れでも傷だらけでも透けているわけでもない、普通の少女が立っていた。自分の目が信じられず、二度三度とこすってから見直してみるも変化はない。
 同い歳くらいの、白のニットと緑っぽいスカートに身を包んだ少女が、無邪気な笑みを浮かべていた。
「どうしたの? まるで信じられないものを見たような目で見て」
 少女は日常会話をするみたいに訊いてくる。僕は戸惑った。
「いや、まさにその言葉通りなんだが……。その、信じられないものを見ているわけで……」
 失礼とは思いながら、頭からつま先まで食い入るように見てしまう。
 長く透き通った黒い髪に、二重で垂れ下がった大きな瞳。美春とは正反対の、美人というよりは可愛い部類に入る顔立ち。無垢な笑顔や健康そうな色の肌を見る限り、とても幽霊のような得体の知れないものには思えない。ところがそれも、靴下を履いている足先が微妙に浮いているという事実で一気に真実味が増してしまう。
「あーまあ、そりゃそうだよね~。幽霊なんか見たら、誰でもそんな反応になるよ」
 共感するように少女は頷く。
「いや他人事のように話しているけど、君がその幽霊なんだが。というか、ほんとに幽霊?」
「お~いかにも不審そうな顔してるね。さては君、幽霊とか信じてないタイプ?」
「いや、まあ」
「よーし。じゃあ私が証明してしんぜよう!」
「え」
 言うが早いか、少女は突然正面から突っ込んできた。
 両手を広げ、思いっきり抱きつくようなポーズで。
「え、えぇぇ⁉」
 年頃の男子高校生としても。普通に一人の生きている人間としても。
 いろんな意味で困惑し、結局逃げることも避けることもできずに、僕は彼女に抱きすくめ……
「え……」
 ……られることはなかった。
 まったく感触がないまま、少女は僕の視界から消えた。かと思えば、
「おりゃー!」
 今度はいきなり僕のお腹から手が生える。驚愕して目を向ければ、ピースサインをされた。そしてにゅっと僕の胸辺りから頭が出てきて、そのまま身体を通り抜けていく。
「どうどう? 私、生身の人間じゃなくて幽霊でしょ?」
「あ、ああ……」
 もう何がなんだかわからなかった。思わず自分の胸やお腹辺りを触ったり力を入れてみたりするが、特段変わったところはない。運動部に所属している透馬とは違い、平均的な胸筋と腹筋があるばかりだ。
「じゃあ信じてもらえたところで、君にお願いがあるんだけど」
 少女の声に、腹部を確かめていた手が止まる。
 きた。
 幽霊からのお願いごと。
 考えずとも、いい内容なわけがない。身体を貸せと取り憑かれるのか。はたまた命を人質に何かを強要されるのか。
「な、なんだ?」
 ごくりと唾を飲み込む。喉がカラカラに渇いていた。緊張して手汗がにじむ。
 目の前の幽霊の少女は薄い笑みを浮かべて言った。
「ここってどこ? 実は私、迷子になってて」
 にへらと困ったようにはにかむ少女に、僕の口からは音にならない息がもれた。
 どうやら、今日はとことん想定外のことが起きる日らしかった。

     *

 翌朝。
 僕は特に何事もなく目覚め、いつも通り制服に着替えて朝食を食べ、普段と変わらない登校を経て教室に入った。
「あっ、きた!」
 途端、黒板の近くに立っていた生徒から驚きの声が上がる。見ると、これでもかと目を見開いた透馬と、申し訳なさそうに視線を逸らす美春がいた。
「よう、二人とも」
「お、おはよ……」
「おい凌! お前、なんともないのか?」
 気まずそうに朝の挨拶をする美春に対し、透馬は訝し気な視線を向けてくる。全く失礼なやつだ。
「大丈夫だって。昨日メッセージも飛ばしただろ」
「それはそうだが」
「その……凌、ごめんね。あたしたち、凌を置いて逃げちゃって」
「いやあの場面は誰だって逃げるだろ。僕だって一応遅れて逃げたんだし」
 昨日、家に着いた時はすっかり夜になっていた。
 心配そうに理由を訊いてくる両親をどうにか誤魔化し、遅めの夕食を食べて風呂に入った。その後でスマホを見ると、大量のメッセージに不在着信が入っていた。全て透馬と美春のものだった。どうやら先に逃げた二人なりに僕を心配し、家の近くまで探しに来てくれていたらしい。僕は見るのが遅くなったことを謝りつつ、気を遣われるのも面倒なので二人を軽く責めてから、最後に自分はなんともなかったことを説明した。
「でもお前、あの後幽霊に本当に何もされなかったのか?」
「そうよ。あれは絶対やばいやつだって。本当になんともない? お祓いとか、あれだったら今日の放課後に一緒に神社に行く?」
 周囲をぐるぐる回る二人に、僕はゆっくりと首を横に振った。
「まったくなんともないし大丈夫だ。確かに二人より遅れて逃げたけど追いかけられたわけじゃないし、身体に異変があるわけでも周りで変なことが起きているわけでもないから」
「そうか……」
「ならいいんだけど……」
 まだ納得のいかない様子の二人を尻目に、僕は窓際にある自分の席に鞄を置いた。
 本当に身体はなんともない。むしろ少し調子がいいくらいだ。
 そして身の回りで異常現象が起きているといったこともない。実に平和でいつも通り。
 ただ唯一、うそをついているとすれば、あの後に幽霊と何もなかったわけがない、ということだけだった。


「――迷子って、幽霊が?」
 夜の帳が降り始めた銀杏並木の幽霊通りで、僕は幽霊の少女に呆れながら訊き返した。
 僕の言葉が気に食わなかったのか、目の前でふよふよと空中を泳いでいる少女はムッとした表情を作る。
「ちょっと、誰だって迷子くらいなるでしょ」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ幽霊が迷子になったって不思議はないじゃない」
「いや、そもそも幽霊がいること自体不思議でしかないんだが」
「んふふふっ。どーだ、見たか」
「なんでそんな得意げなんだ」
 怒っていたかと思えば、途端に顔を綻ばせる。どうやら、幽霊の少女は喜怒哀楽の表現が豊からしい。そしてかなり馴れ馴れしい。
「それで、意地悪しないでそろそろ教えてよ。ここはどこなの?」
「べつに意地悪してるわけじゃないけど。ここは銀杏並木の幽霊通りと呼ばれている場所だ。正確に言えば、桃坂公園横の県道で、冬見町の外れにある通りだな」
 幽霊にへそを曲げられても困るので、僕はなるべく丁寧に説明した。
 冬見町は、人口一万人程度の中規模の町だ。山間にあるため自然が豊かで、駅前を除けばほとんどが住宅地か田畑で占められている。公園も大小含めるとそれなりに数はあるが、その中でも桃坂公園は一番目か二番目の大きさだ。
 念のためスマホの地図アプリも起動して今の位置を教えると、少女は納得とばかりに頷いた。
「なるほど! ありがとう、よくわかったよ!」
「おお、そうか。ならよか……」
「まったく身に覚えのない場所にいるってことが!」
「……え、つまり?」
「私はやっぱり迷子で、どこに行けばいいのかわかりません!」
 自信満々で振り出しに戻る幽霊の少女に、僕は軽く頭痛を覚えた。わりと一生懸命に説明した僕の時間を返してほしい。
「あ、そだ。ついでに聞くんだけど、私って誰?」
「は?」
「あと、なんでここにいるんだろ?」
 頭痛の種をさらに二個ぶっこんできた。今度はめまいがした。
「……あのな、自分の名前をついでに聞くな。そしてどっちも僕が知ってるわけないだろ」
「えーどうしても?」
「どうしてもってなんだ。隠しているとかじゃなくてほんとに知らん」
「あははっ。やっぱりそうか~そうだよね~~」
 少女は楽しそうにくるくると宙を舞う。どうやら自分の今いる場所もわからなければ、自分の名前もこの場所にいる理由も知らないらしい。
 なんだか、どこかで聞いたような話だ。
「あのさ、幽霊の心配をするのも変な話だけど、大丈夫なのか?」
「ん、何が?」
「いや、何がも何も自分の居場所も名前も理由もわからずに彷徨ってるんだろ?」
 つまるところ記憶喪失のようなものだ。幽霊という点を加味するなら、死に際になんらかの未練を抱えて幽霊になったが、年月が経つにつれて未練そのものを忘れてしまい、さらには自らの存在すらぼやけてしまったというところだろうか。……だいぶ重大事ではないだろうか。
「お~そっか、そうなるね」
 にもかかわらず、少女は深刻さを一ミリも感じさせないのんびりした様子でうんうんと頷く。
「随分と軽いんだな」
「まあ慌てたところでどうしようもないし、それにどうにかできるものでも……」
 そこまで言いかけて、幽霊の少女は閃いたとばかりに唐突に手をたたいた。
「あ。じゃあさ、とりあえず私に名前つけてくれない?」
「とりあえず、名前?」
 いよいよわけがわからない。僕が困惑していると、少女は楽しそうに笑う。
「そうそう。やっぱり自分を指す言葉がないって嫌じゃない。もう幽霊になってるわけだし、生きてた頃の名前はいったん脇に置いておいて、君が新しく名前つけてよ」
「なんで僕が」
 渋る僕に、彼女は地面に足を付けると、そのままずいっと距離を詰めてきた。
「だって、君が私を初めて見つけてくれたから」
 香るはずのない甘い香りが、鼻孔をくすぐった気がした。
 本当に距離の近い幽霊だな、と思った。
 まだ会って、というか遭遇して数十分程度の相手に、そんなお願いをするだろうか。
 あえて怪訝な視線を向けるも、少女は笑顔を崩さない。むしろ断られることなんて想像もしていない無邪気な笑顔で、期待の眼差しを返してくる。
 純真無垢で素直、なんて言葉が頭に浮かんだ。
 少女の幽霊に名前を付ける。
 ホラー映画なら、間違いなく危ない展開。
 切ない恋愛映画なら、別れ際の回想になるようなシーン。
 どちらにしてもいい結果には転ばない。名前なんて付けずに、さっさと話を切り上げて帰るのが賢明だ。
 でも、僕は迷っていた。
 僅かなやりとりしかしていないが、目の前の少女の幽霊が悪い怨霊みたいな存在だとは思えなかった。もし本当に僕が見つけるまで彷徨っていたんだとしたら、僕が断って逃げれば彼女はまた誰かに見つけてもらうまで彷徨うことになる。
 そしてどうやら、目の前の幽霊は迷子であるらしい。
 自分がいる場所も、名前も、理由もわからない。
 あったはずの未練が思い出せず、どこに行けばいいのかもわからない。
 ……本当に、なんだかどこかで聞いたような話だ。
 いやむしろ、身に覚えがあるというべきか――。
「はあ、わかったよ」
 気がつくと、僕は肩をすくめて頷いていた。少女の顔がパッと輝く。
「え! ほんと?」
「ああ、ちょっとだけ待ってくれ」
 ふわふわと楽しそうに夜の空中で舞う、迷子の幽霊の少女。
 暫し黙考の末、僕は改めて彼女を見据えた。
「マイ、でどうだ」
「マイ?」
「迷子の幽霊だし、さっきも空中で舞うようにはしゃいでたし。まあ漢字なら、踊りとかの『舞』だな」
 さすがに「迷」の字単体で「マイ」とは呼ばないだろうし、と理由を述べると少女はなんとも微妙な顔をしていた。
「それ、なんかバカにされてるように聞こえるんだけど!」
「の割にはあんまり怒ってなさそうな顔だな」
「本当に名前を付けてくれたこと自体は嬉しいの! でも理由が、なんかこう、ああもうっ!」
 少女はもどかしさを振り払うようにまた夜の闇の中へと飛んだ。
 街灯に照らされ、やっぱり踊り舞っているように見える。勢いで彼女に名前を付けてしまったが、まあ良かったかなと思えた。
「あ、そうだ。忘れるところだった!」
 一つ先の街灯まで飛んで行ったところで、少女は急旋回して僕の目の前まで戻ってきた。
「こっちが本題のお願いで、私が迷子の理由、というか未練を解消するの手伝って!」
「……はぁ?」
 背後霊ならぬ迷子霊の少女――舞の言葉に、僕の口は再び半開きになった。


 朝のホームルームを告げる予鈴で、僕は回想の沼から引き戻された。
 クラスメイトたちがせわしなく自分の席に戻り、授業の準備を始める。その様子を何の気はなしに眺めて、僕は未だに鞄から筆箱すら出していないことに気づいた。
「おーい、席に着けー静かにしろー」
 僕が準備を終えると、ちょうど間延びした田中先生の声が聞こえ、朝のホームルームが始まった。何も変わらない、昨日と同じ日常風景だ。
 田中先生はいつも通り事務的に連絡事項を告げていく。来月に控えた期末試験の話、それに伴う部活動停止期間、そして進路の話。
「前回の定期試験の反省はもちろん、受験に備えて基礎の復習もしっかりするようにな。それから――」
 高校三年生の教室らしい話題が続く。
 僕はなんとなく嫌になって、視線を窓の外へと向けた。
 薄水色の空には、小さくちぎれた雲が列をなしていた。存外にも風は強いようで、雲は不規則に形を変え、列を組み直し、軽快に流れていく。まるで空というステージでダンスをしているみたいだ。
 そこでまた、舞のことが頭に浮かんだ。
 昨夜。僕は結局舞に押し切られる形で、彼女の未練解消の手助けをすることとなった。
 これ以上変な幽霊に関わることは極力避けたかったが、長い間漂っていて唯一逃げずにまともに話してくれたのが僕だけだったとか、生前の家族のためにいつまでも未練を引きずっているわけにはいかないだとか、果ては協力してくれないと憑いてやるだとか脅しまでかけられ、渋々引き受けることになったのだ。良心に訴え、同情を誘い、立場を利用するとはなんて狡猾で意地悪な幽霊だろうか。
 もっとも、高校三年生の僕はそこまで暇なわけじゃない。受験のための勉強もあれば、日々の課題もそれなりにある。話し合いの結果、週二回程度、僕の気が向いた時に協力するということで落ち着いた。舞は基本的にあの場所にいるらしいので、協力する時は僕から行くということになった。
 その後軽く自己紹介をし、念のため持っている記憶や未練に繋がりそうなことを聞いたが、何も覚えがないらしかった。仕方ないので、とりあえず多少なり未練に繋がっているであろう、その時々に彼女がやりたいことを手伝うということになった。
 まったく、面倒なことに巻き込まれたもんだ。
 空の海を自由に泳いでいる夏雲を見つめて、僕は小さく息を吐いた。
「――以上が連絡事項だ。それじゃあ最後、今から進路希望調査票を配るので、各自現時点での進路希望を書くように。五分後に回収するぞー」
 ようやく話を終えたらしい田中先生が、手元にある小さな紙を各列の先頭に配り始めた。
 先頭の生徒は一枚とって後ろへ、受け取った生徒はまた一枚とって後ろへ。そうして流れてきた紙を、僕も同じように一枚とって後ろに渡す。
 進路希望調査票。
 高二の時から何度か配られているお馴染みの紙だ。
 とりあえず、天坂凌と自分の名前を書いた。
 そして選択肢。
 まずは進学か、就職か。
 もちろん進学に丸。自称進学校のこの高校に通う生徒で、就職に丸を付ける生徒はほとんどいない。
 次に書くのは、志望大学と学部。第一から第三まで書く欄がある。
 県外大学に行くのか、県内大学に行くのかがまずは大きな分かれ目だろう。そして後は、自分の学力に合ったところを選ぶ。あるいは自分のやりたいことができる大学を選ぶ。
 その時、昨日透馬の言っていたことが脳裏をちらついた。
 透馬と美春は、進学先の希望が県外大学と県内大学で分かれているらしい。そこから遠距離恋愛の話になって喧嘩したと言っていた。
 珍しくもなんともない話だ。むしろ高校生にもなれば、そんな恋愛事情なんかも絡んでくる人が多いんだろう。もしかしたら、憧れの人がいる大学とか、仲の良い友達と一緒の大学に行きたいなんて人もいるのかもしれない。もっとも、僕にはどれも関係のない話だが。
 つまり僕は、自分自身だけの希望に応じて決めることができる。やりたいこと、行きたいところに忠実になればいい。学力にはそれなりの自信があるし、幸運にも両親は僕の意思を尊重してくれている。環境的にも問題はない。
 けれど。
「書いたかー。そろそろ回収するぞー」
 まだ、書けないでいた。
 僕は県内大学に行きたいのだろうか。それとも県外大学にいきたいのだろうか。
 僕は何に興味があるんだろうか。理系だから、情報系? 工学系? 理学系、それとも……。
 後ろから紙が回ってくる気配がしたところで、僕は慌てて知っている大学名と学部を適当に三つ並べて書いた。そしてそのまま自分の紙を裏向きで上に重ねて前へと渡す。
「ふうー……」
 迷子の幽霊のことをバカにできないな、と思った。

     *

 いつもと代わり映えのしない授業を終えた放課後。
 僕はさっさと教科書を鞄にしまうと、透馬に「じゃあな」と軽く挨拶してから学校を出て、とある場所へ向かった。
 サッカー部の透馬や吹奏楽部の美春と違って、僕は特に部活動をしていない。授業が終われば、大抵は真っ直ぐ家に帰って勉強する。あるいは、教室か図書館に残って課題を終わらせる。
 しかし、今日はそのどちらでもなかった。
「やっほー!」
 昨日よりも随分と明るい並木道に朗らかな声が響いた。その方向は、前でも後ろでも右でも左でもなく、上から。
 僕はほとんど無意識に声のほうを見上げて、すぐに顔を背けた。
「……あのな。普通に声をかけろよ」
「え? やっほーって普通じゃないの?」
 ゆっくりと降りてきた迷子の幽霊、もとい舞は心底不思議そうに首を傾げた。どうやら気づいていないらしい。
「言葉じゃなくて呼ぶ場所。なんで空からなんだ」
「上のほうは風がよく吹いていて気持ちいいんだ~。よかったら凌も来ない?」
 見当違いな提案をされた。そもそもどうやって上空に行けというのか。彼女の仲間にでもなれというのか。
 そしてどうにも自覚している様子がない。仕方なく、僕は意を決して彼女のほうを見た。
「答えになってないし、幽霊になるのはごめんだから遠慮しとく。……あと、一応スカートなんだからそこは気をつけてくれ」
 幽霊だからか、彼女は昨日と同じ服装だった。白いニットに、やや暗めな緑のスカート。その辺をふよふよ漂っているくらいならなんともないが、さすがに遥か上空から降りてくるとなれば話はべつだった。
「へ、スカート……って、あーっ! まさか見たの!」
 僕の指摘でようやく気づいたのか、舞は真っ赤になってスカートをおさえた。僕は慌てて言い返す。
「不可抗力だ! というか幽霊だろ!」
「関係ないし信じられない! 呪ってやる!」
「舞が言うと洒落にならないからマジでやめろ!」
 のっけから騒がしい幽霊だった。
 普通に歩いていて名前を呼ばれれば、誰だってその声のほうを向く。その行動に付随して見てしまったものは仕方ないだろうに、と僕は間違っても呪われないようにしっかり弁明した。
 舞はまだ何か言いたそうにしていたが、僕の言い分に納得したのか渋々引き下がった。ただ、幽霊である以上浮くことは止められないので、僕も視線には気をつけるということになった。ちょっと理不尽だ。
「それで、一晩経ったけど何か思い出したりはしたか?」
 なんとなく気まずかったので、雰囲気を和らげる意味でも僕は話題を変えた。すると、どうやら舞はそこまで執着する性格ではないらしく、表情を戻して小さく首を横に振った。
「ううん、まったく変化なし。凌に会って何か変わればって思ってたけど、やっぱり何も思い出せないや」
「そうか」
 これまで、舞は誰とも話せなかったと言っていた。そして、僕が初めて話した相手だとも。この変化が何を表すのかはわからないが、もしかしたら舞を認識できる人と会ったことで何か彼女の記憶に変化があればと期待していた。けれど、どうやら不発に終わったらしい。
「まっ、焦ってもしょーがないし、気長に行けばいいよ。それより、次は数日後って言ってたのに早速来てくれたんだね~」
 すっかり機嫌は戻ったのか、舞は嬉しそうに僕の顔を覗き込んできた。
 顔が近い。
 触れることはないとわかっていても、思わず身を引いてしまう。
「あ、ああ、気が向いたからな」
「ふ~ん?」
「なんでニヤついてるんだよ」
「べつに~。そっかそっか~」
 大げさに口元をほころばせ、舞はからかうような視線を向けてくる。
 わかってはいた。
 僕としても、本当はもう少し日を置いてから来るつもりだった。でも、どうにも今日は勉強のやる気が乗らず、気分転換をしたい気持ちだったのだ。気が向いた時と言っておきながら、昨日の今日で姿を見せればこんな顔もされるだろうし、そこは我慢するしかない。ただそれでも、やはりちょっと鬱陶しかった。
「その顔をやめろ」
「んふふ~、どうしよっかな~」
「……帰るぞ?」
「あ、待って待って! 冗談だから!」
 意地悪な笑みを止めない舞に背を向けると、彼女は慌てて回り込んできた。こういう素直なところは好感が持てる。
「あのな、僕だっていろいろと忙しいんだからな」
「うん、ごめん。その、凌がすぐに来てくれて嬉しかったから、つい」
「え、うぇっ……⁉」
 ストレートに言われ、今度は僕が戸惑った。
 相手は幽霊。宙に浮いていて触れることのできない非科学的な存在とわかってはいても、見た目は僕となんら変わらない普通の人間だ。というか、むしろ同じくらいの年齢なだけあって心理的な距離は近く、しかも一応は異性だ。そんな女子に勘違いしそうな言葉を向けられれば、いち男子高校生としてどうしてもドキッとしてしまうのは致し方のないことで……
「ぷっ……くくっ……」
「え?」
 何やら噴き出しそうな声が聞こえたところで、僕はハッとした。
「あはっ、あはははっ! 凌ってば、あたふたしすぎだよ~! これでおあいこね~」
「舞、お前な……」
 顔が熱くなった。不覚だ。まさかここまで弄ばれるとは。
 本気で帰ろうかとも思ったが、ここで帰るのはなんだか癪だった。もしかしたら、そこまで見据えての行動なのかもしれない。つくづくずる賢い幽霊だ。
「ったく……それで、初日の今日はいったい何をしたいんだ?」
 舞の笑い声と自分の中に渦巻くむしゃくしゃがある程度落ち着くのを待ってから、僕は改めて訊いた。
「ん~そうだね~」
 舞はぴょんと小さく跳ぶと、そのまま座るように空中に浮かんで空を見上げた。一応は忠告を聞いてくれたようで、高さは僕の目線よりも下。なんとも器用だ。
 そして、人差し指を口元に当てること数十秒。
 目の前に漂う迷子の幽霊は、とんでもないことを言い出した。
「今は、カフェで凌とお話したい!」
 初日から人前に出るのか、と僕は暫しの思考停止ののち頭を抱えた。


 せっかく歩いてきた住宅街の道を戻り、僕たちは駅前へと向かった。
 宅地や田畑が多い郊外とは違って、駅前はそれなりに栄えている。たまに学校の友達と行くカラオケ店や雑貨屋、ファミレス、カフェなどが立ち並び、人通りも多い。とはいえ、青春を謳歌する高校生がここだけで満足するはずもなく、透馬や美春などは隣街のショッピングモールまで行くことも多々あるらしい。
 たださすがに幽霊を連れて隣街まで行くのははばかられたので、僕が知っている限り一番客足が少ない駅前通りの裏手にあるカフェを選び、中に入った。
「おお~これが凌の行きつけのカフェか~」
 お店に入るや否や、舞は興味津々といった様子であちこちをきょろきょろと見渡した。
 僕は背中を伝う嫌な汗を感じつつ、「お好きな席へどうぞ」という案内を受け、奥のほうへ歩いて行く。予想通りほかにお客さんはおらず、僕は内心でお店の人に謝りながら目立たない隅の席に座った。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「あ、えっと、アイスコーヒーください」
 比較的若い男性の店員は一人分のお冷とおしぼり、そして注文をとると、丁寧な足取りで戻っていった。
「……ね? 大丈夫だって言ったでしょ?」
「マジか」
 僕は手に浮かんだ汗を拭き取るべくおしぼりをとった。蒸し暑いこの時期には心地良い冷たさだった。そしてお冷を喉に滑らせる。よく冷えていて美味しい。
「凌ってば心配性すぎるよ。幽霊なんて見える人のほうが少ないんだし、心配することなんてないのに」
 机を挟んだ真向いに座る舞は、楽しそうに両手で頬杖を突き僕の顔を眺めている。その表情には、僕とは違って一点の不安も迷いもない。
「たとえそうでも僕にははっきり見えてるわけだし、昨日の夜は透馬も美春も見えてたんだから心配にもなるよ」
「あー確かに! 昨日一緒にいた二人も私のこと見て驚いてたね~。もしかして凌の周りには霊感強い人が多いのかな」
「いや知らないけど」
 そもそも僕は霊感なんて信じていない。これまで舞以外の幽霊が見えたこともなければ、幽体離脱も心霊現象も体験したことはない。ゆえに一ミリも幽霊なんて存在は信じていなかったのが、昨日までの僕だ。人生何が起こるかわからないというが、さすがにわからなさすぎではないだろうか。
「そういえば、その耳に付けてるものは何?」
 昨日に引き続き若干の頭痛を覚えていると、舞が唐突に話題を変えてきた。
 彼女が指差す先には、このカフェに入る前、住宅街を歩いている最中に思いついて付けた、幽霊との会話用アイテムがあった。
「これはワイヤレスイヤホンだ。さすがに誰もいないところに向かって話してたら、周囲から変な目で見られるからな。誰かと通話しているふうに見せればいいかと思って付けてる」
「へえ! それを付けてるだけで誰かと電話できるの?」
「ああ。このスマホと同期させておくと、電話をかけたり電話がかかってきたりしてもスマホを耳にあてることなく通話ができるんだ。もしかして見るのは初めてか?」
「うん、初めて見た。でも油断してると失くしちゃいそうだね」
「そうなんだよな。失くしやすいのと、充電がなくなると使えないのがネックなんだ」
 そんなどうでもいい会話をしているうちに、僕が注文したアイスコーヒーが運ばれてきた。
 店員はさっきと違って少し年配の女性だったが、やはり気づいた様子はなかった。違和感も気配もないらしく、「ごゆっくりどうぞー」と定型句を口にして去っていった。
「本当に見えていないのか」
「だからそう言ってるじゃん。ほんと心配性なんだね」
「うるさいな」
 アイスコーヒーをひと口飲む。程よい甘さと冷たさが絶妙で、すっきりと喉に通った。
 そこでふと、今自分がいる席の異様さに気づく。
 二人で向かい合って座っているのに、おしぼりも水もアイスコーヒーも僕の側にだけある。店員には見えていないので当たり前といえば当たり前だが、見えている僕としてはあまり居心地がいいものではない。
「てか、幽霊は何か飲んだり食べたりはしないのか」
 なんだかたまらなくなって僕は聞いた。けれど、舞は特に気にしたふうもなくあっけらかんと答えてきた。
「うん、飲まず食わずでもなんともないよ。そもそも何かに触れたりとかできないし。今もこうしてソファに座っているように見えるけど、実際は凌の目線の高さに合わせて浮いてるだけだし」
「それは疲れないのか?」
「浮いてるのがデフォだから。幽霊っぽいでしょ?」
「ぽいじゃなくて、幽霊なんだろうが。って、なんで僕がツッコんでるんだ」
「あはははっ」
 舞が笑う。それだけで、場の空気が軽くなった気がした。
 それからも僕らは他愛のない話を続けた。
 お互い今日あったこと。舞は銀杏並木の歩道に人が通るたび声をかけてみたが、相変わらず気づいてくれる人は誰もいなかったらしい。
 カフェに来たいと思った理由。なんとなくということだった。途中、メニューを広げていたら舞が「これ気になる!」とパンケーキを指差した。誰が食べるんだと抗議するも押し切られ、僕は少ないお小遣いをさらに少なくする羽目になった。舞は目をキラキラさせて嬉しそうに眺めているだけだった。
 舞はころころと話を転がし、どんどん広げていった。僕の周囲にここまでお喋り好きな人はいない。なんだか新鮮な気分だった。
 合間には未練に関することも話題に出たが、やはり手掛かりはほとんどなかった。なんでも、気がついたら桃坂公園付近に立っていたらしい。ただ、地縛霊というわけではなく、今みたいにあちこちを歩き回ることができる。あの場所に留まっているのは単に居心地がいいからということだった。
「まあ、あの公園付近に立っていたから、未練もその辺りに関係のあることだとは思うけど」
「なるほどね。公園かー……」
 一応、透馬から聞いた桃坂公園付近の事故のことも聞いてみたが、あまりピンときた様子はなかった。そもそもあそこは車通りも人通りも少なく、舞が覚えている限りでは事故らしい事故は起きていないらしい。
 やはり噂は噂に過ぎなかった。
「まっ、もしかしたら本当に私がその交通事故で死んだ人の幽霊かもしれないけどね~」
 反応に困る冗談を言う幽霊が、実際に目の前にいるという点を除いては。
 結局、小一時間ほど喋って僕らはカフェを出た。
 外はすっかり茜色に染まっており、もうすぐ黄昏時という時間帯になっていた。
「あー楽しかった! 久しぶりにたくさん喋った気がするよ。ありがとね!」
 銀杏並木までの道すがら、舞はくるくると空中で踊っていた。
 朗らかに笑うその表情の後ろには、やっぱり何かを企んでいるような気配はない。
 同時に、自分のことが一切わからないのに不安や恐怖を感じている様子もない。
 僕とは、対照的だった。
「ああ。こっちこそ、なんかありがとな」
「ええ、どうしたの急に」
「べつに。ただの社交辞令だ」
 朝に走り書いた進路希望調査票が思い出された。
 僕には、やりたいことがない。
 将来、何をしたいのかわからない。
 自分が何者で、どこに向かえばいいのかわからない。
 ある意味で、僕も迷子だった。そして不安だった。周りがどんどん進路を決めていくのに、何も決まっていない自分自身の在り方が。
 ……似た者同士だから、協力しようと思ったのかもしれないな。
 細長く伸びたふたつの影を見つめて、僕は彼女に気づかれないよう短く笑った。