【君は今、どうしている? あの時、どんな気持ちだった? 本当にごめん】
既読のつかないことは承知の上でメッセージを送信する。
情けないが、今はこれが精一杯の形だった。
これは懺悔であり、自分の気持ちを整理するには一番の方法だった。彼女の気持ちを無下にした覚の償いは、誰にも見られることもなく、ただひたすらに一方的な気持ちを書き込むという虚しい手段となっている。
好きだという気持ちを素直に伝えてくれた君に俺は何をした? 思い出すだけで、心が凍てつく。
久世流希亜と雨下美和は小学生の時からずっと仲のいい腐れ縁であり、中学生になる頃には、友達ともいえない遠い関係になっていた。
中学生になった流希亜は、気持ちを覚られたくなかった。好きだと思っても絶対にばれたくなかった。雨下美和のいいところはたくさん知っていた。嘘をつかない優しく真面目な性格。努力家。そんな褒めゼリフは一度だって口に出したことはない。両親のことが色々あって、この町に転校した時から、彼女は優しく接してくれた。小学生の頃、流希亜は人生のどん底を味わった。
その時に、優しく接してくれていた美和とも年々話さなくなっていた。
クラスが違ったり、性別の違いで遊ぶ機会も減った。
多分、美和を意識していたのは流希亜の方だ。
久しぶりに話した会話は「雨の日は嫌い」という話だったと思う。
傘を持っていなかったので、帰るに帰れなくなっていた。
昇降口で偶然一緒になったのは神様がくれた偶然のようにも思えた。
何気に帰りが一緒になって、急な土砂降りの時、傘を持っていなかった流希亜に傘を貸してくれた美和。
「一緒に入っていかない? どうせ同じ方向でしょ」
それを嬉しく思う気持ちと、恥ずかしい気持ちと、他人に知られたくない気持ちが一瞬にして襲う。小学生の頃は普通に接していたのに、いつのまにか話すだけでダメだという境界線を自分が引いていたようにも思えた。
「いいよ。俺は、このまま濡れてもかまわないし」
一応断る。
「風邪をひいたら大変だよ」
にこりとした笑顔で傘を差し出された。
美和の黒髪はいつもよりも憂いをおびているように思える。湿気のせいかもしれない。
以前より大人びているような気がする。
彼女の行為には人柄がよく現れているように流希亜は感じていた。
つまり、相合傘状態になったのだが、ただの純真な気持ちでの親切心だということに流希亜は気づいていた。
美和の心はいつも汚れていない。まっすぐで真っ白な状態だ。
青空の下で真っ白な洗濯物を干し、風になびく印象だ。
その日は天気予報を裏切ったかのように急に激しい雨が降ってきた。
「雨の日ってなんだかなぁ」
流希亜が灰色の空に向かってつぶやく。
「私も雨は嫌いだよ。制服は濡れるし、靴も泥だらけになるしね」
「部活もできないし、自転車も乗りづらいしな」
「傘さし運転は禁止なんだからね。雨の日はカッパを着て自転車に乗らないと」
「相変わらず真面目ちゃんだな」
「流希亜は相変わらず不真面目なんだから。また告白断ったって噂になってたよ」
「俺、恋愛とか興味ないから」
断ることもできずに、傘の中に入れてもらうが、内心どうしようもなく動揺していた。
しかしながら相合傘にドキドキしているなんて素振りは微塵も見せずに、流希亜は美和が濡れないように、極力自分自身の肩が濡れるように歩く。
一定の距離を保たないと心が落ち着かないというのも本音だった。
久しぶりに話す彼女は全く変わっていなかった。
美和の流希亜への接し方も全く変わっていないことに安堵する。
クラスでも大人しい女子のグループに所属する真面目な美和は流希亜と話すこともなくなっていた。
真逆の人間のグループだったからだ。
「でもさ、雨の日でいいこともあるよね」
「何?」
「こうやって久しぶりに会話できたこと」
少し見上げながらの純真無垢な笑顔で言われると流希亜はどぎまぎしてしまう。
「何言ってるんだよ。馬鹿」
「まぁ、流希亜にとってはいいことでもなんでもないよね」
少し照れた顔をしながらも、当たり前のように返される。このしとしとと降る雨の時間が一番貴重なことだなんて、言えるはずはなかった。もっと一緒にいたいと思う。
「じゃあ、私が今度、流希亜の傘を持ってくるよ。また二人で帰ろうよ」
屈託のない笑顔だった。
「俺も、雨の日は嫌いだったけどさ。また雨が降ったらいいなって思えたよ」
「どうして?」
その答えは素直に言い出せなかった。
「私は、流希亜のことが好きだから、話すきっかけをくれた雨に感謝してるんだよ」
素直でかわいいと思う。
「俺も……」
と言いかけたが、言葉は詰まってしまった。
好きだということを認めたら、この先はこのままの関係なのだろうか?
もっと踏み込んだ関係になるのだろうか?
関係が新しくなることが少し怖くもあった。
母親のことがあったからだ。
未来が怖かったのかもしれない。
でも、この美和の純真無垢な親切心があだとなった。
照れながらも一緒に帰った。流希亜にとっては甘酸っぱい思い出となったのだが――クラスメイトの目撃者がからかってきた。
二人が一緒にいるという事実を気に食わない女子もいたのかもしれない。
というのも、流希亜は誰の告白も受けない鬼対応で有名な男子だった。
恋愛したくても恋愛できない男子として認知されていた。
少しばかり顔が良い。
それだけで充分モテていた。
流希亜の中に美和がいるなんてことは、微塵も見せなかったが、本当はそれが理由で彼女をつくらなかった。
他の女子と付き合っても感情が追い付かないだろうということは流希亜本人が気づいていた。
きっと心の中に美和がいて、そんな半端な気持ちで誰かと付き合ったらそれこそ失礼だということと、自分自身が不器用で簡単に忘れられる人間ではないこともわかっていた。
流希亜に片思いしている女子が目撃したのが運のつきで、あっという間に誇張された噂が広がった。
狭い教室内で女に興味がないモテる流希亜が冴えない女子と帰宅していることに批判と好奇心の目が向けられた。
美和は更に教室内で肩身の狭い思いをした。
流希亜は、関係を聞かれ、思ってもいないことを口にしてしまう。
「マジでウザイんだよね。雨下美和。あいつのこと、嫌いだ」
本心とは真逆なことが口からすらすら出てくる。
そんな自分自身が嫌になる。まるで詐欺師のようだ。
でも、こうでも言わないとクラスメイトは納得しないだろう。
取り巻きの女子たちも美和のことを嫌っていた。
こうすれば美和はいじめられないだろう。
彼女を守るための嘘も方便だった。
しばらく彼女を遠ざけるために無視をした。悪気はなかった。
本当は流希亜が一番近くにいたい女子に一番辛辣な態度をとってしまった。
中学生の彼女の心はどんどん孤独にさいなまれていた。
流希亜は繊細な変化に気づいていた。でも、手を差し伸べてあげられなかった。
ある日の放課後――雨がしとしと降っていた。こんな時に、ベランダにいたら濡れてしまう。
そんな美和のことが気になってしまう。やはり、美和を一番良く見ていたのは流希亜だった。
美和が教室の外のベランダに行く姿を見ていた。
様子が変だとか、顔色が悪いことにも気づいていた。
そんなところにいたら、地面に落ちてしまう。校内でも修理が必要とされている壊れているベランダの危険な場所で雨の中、美和が今にも飛び込みそうな様子を見て、流希亜は体が凍り付いた。このままでは地面に向かって体が突き刺さる。正確に言うと、飛び込もうとしたわけではないのかもしれない。なぜならば校舎内の四階のベランダの柵が壊れていて、体重をかけたらそのまま地面に落下しそうな場所だった。立ち入り禁止区域だとわかっていて、そこに立ったのだろうか。流希亜は美和が落ちると確信した。手を差し伸べ、声を出す。距離が遠くて間に合わない。結果、その行為は無意味なものとなった。
最愛の人を目の前で失ってしまう。
何もできなかった。
四階から地べたに落ちた生徒がいるということで、校舎中は騒然となった。即死だった。
もちろん、ベランダの柵の修理をしていなかった学校の責任問題もあったが、いじめなどの心の問題の対応をしていなかったのではないかと学校は世間の批判にさらされた。
救急車のサイレンが鳴り響き、警察がやってきた。灰色の空は不安を更に増幅させる。しとしとと降る雨の中、流希亜は一人で帰宅した。何もできない自分を責めた。美和を殺したのは自分だと。
やはり雨は嫌いだと流希亜は確信した。あの日、雨が突然降らなければこんなことにはならなかったのかもしれない。
無理にでも傘に入らず帰宅していたら、傘をもってきていれば――様々なもしもの世界を考える。
ライン一覧を見ると、アイコンは残っていた。後に知ったのだが、美和はかなり陰湿ないじめを受けていたらしい。
それ以来、流希亜への反感や冷たい世間の目があからさまになった。小学生の時以来のいじめだ。女子生徒を自殺に追い込んだ冷たい男。多分、美和が告白したのを無下に断り、いじめたのだろうと勝手な憶測を生んだ。しかも、クラスラインなどでデマ情報も拡散され、それは校内、そして、他校にも拡散された。
デジタルタトゥーは消えない。それが本当でないとしても、ずっと残ってしまう。本名も書かれている。スキャンダルが絶えない有名女優の息子で元子役ということも噂としては美味しいネタだった。
どの高校に行ってもばれてしまうかもしれない。あいつは人殺しだ。いじめた末、自殺する瞬間に最も近くにいた人間だと書かれていた。実際、いじめていたわけでもないし、冷たい言葉を少しだけ放ち、無視した程度だ。でも、悪いのは自分だということは自覚していた。
あの日、近くにはいたが、殺そうとしたわけではない。彼女を助けるために近づいたと言ったほうが正解だ。でも、彼女を追い詰めたのは本当だ。
流希亜は中学に居場所がなくなった。皆が手のひらを反すかのように、あいつはやばい。
殺人犯だ、かかわらないほうがいいと言い始めた。
保護者も同様で、危険な人物とは関わらないようにと言って来る。
自分の子供がどの程度危険なのかもしらないくせに。
他人の子供の危険度には敏感なのが保護者らしい。
これ以上どうすることもできない覚は孤独になった。人殺しというレッテル。
みんなの本音は日々動く。気持ちも日々動く。それが辛くもあり、悲しくもあった。
流希亜は孤独な中で遠い知らない人ばかりの高校を受験することにした。それが現実逃避の一番の手段だった。また一から人間関係を円滑にやり直せるかは自信はない。人との距離が怖かった。
【もしまた出会えたら、俺は美和に精一杯寄り添いたい。俺にできることがあれば、言ってほしい】
本当の流希亜は弱い人間で、それを隠すためにクールキャラを装っていた。好きな人に好きだとも言えない臆病者だ。
【俺はおまえのことが大好きだった。笑顔を奪ってごめん】
一日に何回も既読のつかないことが分かった上でメッセージを送る。
世界一嫌われている人間だと感じる。人間は手のひらを返したかのようにあっという間に態度を変える。あの事件以来、それは身に染みてわかった。人間不信という言葉が一番しっくりくる現象だった。
あんなに親しげだった女子たちも一線を引いたらしく、一切関わろうとしてこなかった。
あの事件で久世流希亜は加害者。雨下美和は被害者になった。
あんなに美和を嫌っていた者たちが同情をする。
自殺事件と世間は認識した。
追いやった流希亜は加害者だ。
クラスメイトが無視をしてきた。
あからさまな嫌がらせも増えた。
今まで雨下美和に対してしていた嫌がらせをそのまま流希亜にしてきたかのような入れ替わりだった。鮮やかな人の変化に流希亜は何とも言えない気持ちとなる。
破かれたノートを見つめる。
学校って行く意味あるのかな?
受験なんてする意味あるのかな?
合格したら、また学校生活が始まって、高校という檻でカースト制度が成立する。そこには新たないじめの種が埋まっているかもしれない。加害者になることもあれば被害者になることもある。
女優である母親のことで元々からかわれやすい元子役なのに――犯罪者の息子なのに。さらに流希亜自身も犯罪者同様の存在となってしまった――。
仲が良かったはずの友人から蛙化現象が起きることもある。
蛙化現象とは一般的には異性同士に使うことばで、恋愛関係に使用されるが、ごくまれに同性の友達に対しても、使う者がいる。
蛙化現象の意味は、片思い中は相手に夢中だったけれど、両思いになった途端、相手のことが気持ち悪くなったり興味を持てなくなったりする現象。心理学用語の一つらしい。
グリム童話『かえるの王様』が名前の由来になっているらしい。『かえるの王様』のあらすじについて――
ある国の王女が池にまりを落とす。王女は、池にいた蛙にまりをとってもらい、その代わりに望みを叶える約束をした。その後、蛙の希望通り王女は自分の城で蛙と食事をし、一緒に寝ることに。しかし、王女はいざ蛙とベッドをともにするとなると、激しい嫌悪感に襲われ、蛙を壁に投げつけた。すると、蛙は王子様の姿に。王子は魔女に魔法にかけられて、蛙にされていた。そのことを知った王女は、美しい王子とすっかり恋に落ちて、二人は最終的に結ばれた。
いわゆる「蛙化現象」とは正反対の物語だが、「気持ちが正反対に変わる」ということから由来されているらしい。
流希亜はこの物語に納得がいかなかった。つまり、見た目だけで恋に落ちているってことだ。もしも、蛙ならば、どんなに性格が良くても生理的に受け付けないというおぞましい人間の本性を現した人間の汚い部分を描いた作品だと思えたからだ。でも、現実そういった人間は多数いる。
高校に行けば何か変わるだろうか?
自分自身、周囲の変化に期待しつつ、受験勉強をしたが、本当に楽しいことが待っているとも思えなかった。どこか現実に期待できないでいた。
本当はずっと好きだったことを伝えたかった。
世界が終わってほしい。それが切なるねがいだった。自分自身の人生が終わったほうがどんなに楽だろうか。あんな針の筵のような学校に行くことは、毎日が吐き気がするほど辛いことだった。
あの時、告白を正直に受け入れていたら――あんなことにはならなかなった。素直に好きだと伝えればよかった。もう、永遠に伝える手段がみつからない。
来年の四月、高校生という枠組みに入れば、楽しい生活が待っているのだろうか? 今よりは少しはましになるだろうか? でも、自分をさらけ出すことがとてもとても怖くなっていた。もういちど美和に会いたい。ずっと一緒に過ごした仲。ずっと途切れることはないと勘違いしていた。関係なんて簡単に途切れるものだ。それを痛感する。甘く見ていたことを悔やむ。大切な大切な関係。他の人で埋めることはできないと確信していた。どこかカッコつけたクールキャラ。それは弱みを見せない隠れ蓑だったように思う。彼女の少しさびし気で憂いをおびた笑顔。黒いストレートな髪の毛。全てが愛しいと思う。
その日は、雨が降りそうだった。
まるで今の自分の心そのもののような灰色のどんよりとした空。
あの事件以来、元々関心が薄い様子の母親は更に口出ししてこなくなった。
中学には行かなくてもいいから高校受験だけは何とかしてほしいとだけ言われていた。もう、あんな居心地の悪い場所にいたくはない。それよりも、勉強をしようと自宅でひたすら受験用ワークや過去問題に取り組んだ。未来が明るいかどうかも不明な状態で、流希亜はただ問題と向き合うことで現実逃避していたのかもしれない。
知り合いに会いませんように。なるべく遠くの高校へ入れますように――。
知らない誰かに勝手に祈る。
人の視線に神経質になり過ぎているのは承知の上だ。他人の視線は気になる。敏感な気持ちになる。さすがに具合が悪くなり、授業を受けることが限界になる。仕方なく保健室に向かった。たまにはサボってしまおうと思う。
保健室の先生は最近体調不良で休みがちだ。後任の代替教諭を探しているらしいという噂は聞くが、すぐに決まりそうもない。いわば、この保健室は穴場だった。保健室に入ると、知らない女子生徒がベッドに座っていた。なんとなく会釈をして隣のベッドに寝ることにする。カーテンを閉めて一眠りしようかと思う。
「あなた、サボり? もし本当に体調悪いのなら、保健室の先生は不在だよ。帰宅して病院に行ったほうがいいよ」
話しかけられるとは思っておらず、思わず何と答えようかと戸惑う。
「サボりじゃないよ。体調は悪いのは、寝不足のせいだから」
「なら、よかった」
見知らぬ誰かに心配されるのも予想外だった。
「君のほうこそ、サボり? 今保健室の先生、不在だからここはうってつけの場所だろ」
「私、持病があって時々休ませてもらっているんだ」
予想外の答えだった。
いつのまにか閉めたカーテンを開いてじっと顔をみつめてしまった。
よく見ると、彼女の顔はとても優し気で美しいというのが第一印象だった。すこしやせ形でセーラー服が少し大きく感じる。一年生だと大きめに作るのが普通だからかもしれないが、童顔なのに美しさを兼ね備えていた。美人女優が母親で、美人には慣れているはずなのに、惹きつける何かを感じる。そして、彼女からは悲壮感は感じられない。とても楽しそうに微笑んでいた。
「流希亜くんだよね」
「なんで俺の名前を知ってるんだよ?」
「同じクラスの水沢美羽だよ。美しい羽と書いて美羽。同じクラスならば、わかるに決まってるでしょ。それに、子役時代のあなたのファンだったから」
女子の名前も顔も興味がない流希亜は、そうだったなと一応相槌を打つ。
同時に、子役時代を知る人が現れたことに参ったなと一瞬戸惑う。
もう忘れ去られた存在だと思いたかった。
「みわ」というワードがひっかかる。
唯一好きになった女性の名前と同じだったからだ。
スキャンダル女優の元子役だなんて知られたくないのに、既に知られているなんて。厳しいまなざしで思わず睨みつける。
「その顔は私のことを知らなかったんでしょ」
図星だった。
「私、最近屋上か保健室にいる時間が多いから、同じクラスにいて忘れられていても違和感ないんだけどね」
友達なんていらない。人間なんて信じられない。親ですら信じられない。
そんな流希亜には既に仲のいい友達はいなかった。彼女だから覚えていなかったわけではなく、彼女以外の誰のことも興味はないというのが本音だった。
「俺、眠いから寝るから」
横になる。すると、隣から勝手に話しかけてくる。まるで友達との会話に飢えているかのようだった。少々耳障りにも感じたが一応相槌を打つ。
突如彼女の放った言葉に耳を疑った。
「あなたの時間を毎日一時間だけ私に売ってくれない?」
「はぁ?」
突如彼女の放った言葉に耳を疑った。
いつの間にか、何事に対しても、どうでもいいと思うようになっていた。世の中の嫌なことが全て自分に押し付けられたかのような、濃密で苦しい子供時代を過ごしたと思う。
めんどくさい。うるさい。ウザイ。そんな言葉に覆われた人生。
決して楽しいものではない。息苦しいのに死ぬことができない感じがとても表現としては合っていると思う。
灰色に覆われた人生をどう生きてどう終わらせたらいいのか。
少しでも早く無難に終わらせたいと願っていた。
流希亜というキラキラした名前を付けた母親のことを忌み嫌っていた。母親は美人と言われる有名女優で、たくさんの賞を受賞していたらしい。たくさんの映画やドラマに出て、好感度も高かったと聞く。しかし、母親が不倫騒動を引き起こし、元々キレやすかった父親が不倫相手を刺して刑務所に入った。幸い軽傷で、殺人未遂だったが、それ以来離婚して父親に会うことはなかった。当時、母親の勧めで子役として活躍していたが、役者という仕事が好きだったわけではなかった。どちらかというと母親が喜ぶから子役という仕事を引き受けた。子どもというものは親が喜ぶだけでうれしくなる単純な生き物なのかもしれない。当時は本名で活動しており、全国的な知名度のあるドラマに出演することも多々あった。
その事件後は芸能界からすっぱり足を洗った。本名で活動していたこともあり、辞めた当時は身バレしていて、毎日が不安で仕方がなかった。同級生はテレビを見ていて流希亜のことを知っている子ばかりだった。知り合いのいない町に転校したが、父親は殺人未遂、母親は不倫をしたということで、田舎町に行っても罵られた。最初こそ母親も身を潜めて生活をしていたが、お金はたくさんあったので、働かなくとも生活に困らなかった。芸能界というのは特殊な世界で、小さな仕事が舞い込み、だんだんと人々の負の記憶も薄れた頃に女優業に舞い戻った。父親とは離婚していたが、身を潜めていた時には、刺された不倫男に親身に尽くし、結婚した。子供の流希亜には止められるはずもなかった。その男と一生共にするのかと思っていたのだが、結婚して五年程経った頃、新しい彼氏ができた。自分の都合で、別れてほしいとお金を渡して別れたというのは知っている。
人が信じられない。産んだ母親ですらも。そんな久世流希亜はいつの間にか素直で優しい少年から、毒づいた人間不信の青年に成長していた。母親も子どもがいると面倒という理由から結婚当初も一人しか出産する気配はなかった。本当は子どもなんて一人もいらなかったのかもしれない。いつもお金だけは持っている人だったから、食費も家の掃除も全てお金で育児家事を賄っていた人だった。高校に入ったら一人暮らしをしろと言われている。ほぼ今でも一人暮らし状態ではある。忙しい母親はほとんど不在だ。
一人暮らしを勧めてきた理由はわかっている。母親には新しい彼氏ができて一緒に住みたいから邪魔になったというのが本当の所だろう。今でも、大ヒット作品に出演している魔女のような女だ。あんなに母親役が似合う演技をしているのに、現実は何もしないネグレクトな女優なんて誰も思わないだろう。それくらい演技が特化されていて美しい顔。微笑まれたら一般人はイチコロだ。芸能界は演技力と顔だ。
高校へ行ったら友達にはどう認識されるのだろうか。子役時代の話も遠い昔の話を覚えている人はあまりいなくなったと思っていたのに。外見が幼児期と変化したこともあるだろう。時間が子役だったという存在を世間から消してくれたと言っても過言ではない。でも、美和のことがあって過去の噂がまた再燃する。
突然話しかけてきた人は、童顔なのに美しさを兼ね備えていた。美人女優が母親で、美人には慣れているはずなのに、惹きつける何かを感じる。そして、彼女はとても楽しそうに微笑んでいた。
「もう一度言うね。あなたの時間を毎日一時間だけ私に売ってくれない?」
「はぁ?」
意味がわからず再び聞き返す。
「私、子役時代のファンクラブにも入っているくらいあなたが推しなの。もしよければ、毎日平日一時間バイトだと思って一時間だけ私と過ごしてよ。お金は払うから」
「別に、金に困っていないし。毎日おまえと過ごすのは苦痛だ」
「私、卒業式にはここからいなくなるんだ。だから、推しと色々な経験をしたいの」
「推しって……。でも、今は一般人だし」
「でも、私は今でも役者のあなたのファンなんだよ。出会えるなんて思ってもみなかった」
「大げさだな。俺は今は陰キャな一般人だよ。アイドルでも芸能人でもない」
「一時間私と電話してくれるだけでもいいから。お願い」
懇願しながらちらりと上目遣いで目元を見つめる。
「流希亜くんって目の下にクマがあるよね。寝不足なの?」
「まぁ、夜はスマホとかゲームとか、やり放題だからな。なんか寝付けないんだよ」
「じゃあ、私と話していたら眠れるかもしれないでしょ。早速、連絡先交換ね。スマホの番号教えて。登録しておくから。電話だけでもあなたの時間を買う対価は払うから」
本当に推しなんて思っていたのならば、連絡先の交換は心底嬉しいと思っているのだろうか。こんな普通の根暗な男の時間なんて買っても無意味なのにと心の奥底でつぶやく。
「ファンクラブも引退と同時に消滅して、応援する手段がなくなってしまったの。ネットでファンと交流するくらいしかなかった。でも、時がたつと別な推しができて、みんな去っていったの。私はそんなに長くここにいることはできないから、推しにファンクラブの会費としてお金を支払いたい」
「俺にファンがいたのか?」
子どもだったから、あまり認識していなかった。
誰かの心に自分の演技が響いていたのだろうか。
誰かの心に刺さるものがあったのだろうか。
はじめて推しだと名乗る人間を目の前にする。
誰かにはじめて認められたような気がする。
最近の不健康な生活に少しばかり潤いを感じたような気がした。
「いいよ。とりあえず電話番号を教えておく」
自然と許可する言葉が出ていた。
「じゃあ一時間一万円くらいでいいかな?」
「一時間で一万円って感覚狂ってるだろ」
「推し活って惜しまないものなんだよ。グッズ買ったり、ライブ行ったり、推しに愛をいくら注げるかというのも自己満足の範疇だよ。スイーツを推している人は食べ物代が高くても惜しまないしね」
「俺、推しっていないから、その感覚がわかんないんだよ」
「推しがいないと人生さびしいよ。応援するだけで元気が沸くんだよ」
「そうなのか?」
妙に冷めた返事をしたと自分で気づく。でも、その通り感覚がわからないから仕方がない。
「自分で言うほど陰キャな一般人だと周囲は思ってないよ。その美しい顔はいくら隠そうとしても隠しきれてないよ。あなたの顔立ち、きれいだよね。お母さんが美人女優だけあるよ」
面と向かって照れることなく言われると、言われたほうが照れてしまう。
照れたなんていつぶりだろう。いつの間にか女優の息子で元子役だということはマイナスな情報となっていたはずなのに。人の噂はなんとかっていうけれど、ネットがあるせいか過去の情報なんていくらでも検索できる。全くもって不便で生きづらい世の中になったもんだ。デジタルタトゥーというものに正直うんざりしていた。正直言って、母親は恥である存在としか認識していない。全国に不倫したとか新しい彼氏ができたとか報道されているにも関わらず何も感じていない厚顔無恥な女。息子の方が恥ずかしい。外見が美人なだけの母親に愛情はなかった。
「じゃあ一万円で」
こういえば、きっとそのうちおこづかいも底を尽きるだろう。
少し中学生にとっては高めの設定にしてみる。
実際、札を出すときにためらうのが普通だろう。
ふと母親の姿が浮かぶ。
それは、惜しげもなく札束を置いていく姿だった。
女優の母親はお金を出すことにためらわない。
いつも札束を置いて、どこかへ行ってしまう。
仕事なのかもしれないし、男のいる場所なのかもしれない。
次から次へと男を変えて渡り歩く姿は、子どもから見ても滑稽だった。
「実は流希亜くんのことをずっと探していたんだ。突然引退したけれど、消息をつかむことができなかった。個人的にSNSをしていないか、いろんなアプリもチェックしたし、ファン同士で情報交換もしていた。でも、ずっとどこにいるのかもわからなかった。まさか、同じ中学校にいて、ここで話せるなんて、お金で買えないことだよ」
「大げさだな。俺は普通の人間だし、崇拝されるような対象じゃない」
「ずっと会って話してみたいって思ってた。ある意味初恋の人なのかな。恋じゃなくて、推しっていうほうが正しいのかもしれないけれど」
その瞳は嘘をついているようには思えなくて、瞳を逸らすことができなくなっていた。流希亜は自分よりもずっとカリスマ性があるのは彼女だと確信していた。普通の生徒の中にいたら、絶対に浮いてしまう。芸能界にいてもおかしくない容姿端麗な姿。ただ、外見で人を好きになれないのが母親の行動が多大に影響していた。
どんなに美しい容姿をしていても心根が汚い可能性はある。それくらい目の前の相手に警戒していた。初対面の相手にやたらと笑顔で接して来る。これは詐欺の一種かもしれない。小学生の時、母親の不倫騒動でいじめられた。それ以来、心から安らげる居場所がなかった。そして、追い打ちをかけたのが今回の事件。呪われているかのような人生。そして、唯一好きになった女性が死んだ今。
【美和は俺が壊してしまったことは償いきれないけど、ごめんね】
「何? 誰かにラインでもしてるの?」
「まあね」
「彼女とか?」
「彼女はいない。というか友達もいないし」
「同じ中学の生徒だから理由は知ってるよ。今どん底にいるのならば、推しであるあなたの力になりたい」
【久しぶりに人としゃべった。本当は美和と話したい】
届かないメッセージを送る。既読はつかない。既読のつかないことを知りながらつぶやくことは気持ち悪い対象となるであろうことはわかっていた。
そうは言ったけれど、最近誰とも話していなかったから、知らない人と会話することでストレスが緩和されることに気づく。
美和とは違うけれど、こちらの美羽も話しやすい人だった。全く知らない人のほうが、話すのにちょうどいいのかもしれない。
今日の天気は雨が降りそうなどんよりした灰色の空。
「雨は嫌いだな」
「雨に恨みでもあるの?」
「別に」
雨が好きになったあの日のせいで、流希亜も美和も人生が変わってしまった。
【やっぱり雨が嫌いだ】
SNSで美和に勝手に一方的に話しかけるのが当たり前となっていた。
迷惑で気持ち悪いと思われるだろう。これは一種の自己満足だ。
「私が片思いの彼女の代わりになって返事してあげるよ」
「そんなこと頼んでもむなしいだけだよ」
「既読がつかないラインに送ること自体むなしいよね」
たしかに、手のひらにある無限に広がるSNSで謝っても、永遠に美和とはつながることはない。つまり無意味だ。
そんな馬鹿な自分に嫌気がさしていた頃だった。
それは気まぐれだったのかもしれない。
「交換しようか」
孤独に耐えられなくなっていたのも事実だった。
居場所のない中学校。
未来のわからない不安な受験期。
目の前に現れた知らない女子と連絡先を交換する。
アイコンの画像は雨。
その下にMiwaと書いてある。
どうやら、「みわ」という名前に縁があるらしい。
二人の「みわ」の間で流希亜の心は揺れる。
孤独に耐えられなくなった流希亜は、連絡できる人ができればいい。
SNS上で美和の代わりになってくれればいい。
わがままで失礼な依存心で交換してしまう。
【アイコンの画像が雨だよな。雨、好きなのか?】
【どっちかっていうと好きかな】
【珍しいな】
【そう?】
目の前にいるのに、あえてメッセージで会話する。
そのほうがMiwaと書いてあるアイコンが美和のような気がして、気持ちが上がってしまう。
【彼女のこと好きだったの?】
メッセージだからこそ素直に言える。
【大好きだった。ちゃんと気持ちを伝えたかった。後悔時既に遅しだけど】
これは、謝罪を含めて、好きだという気持ちも全部含めて伝えたいという意味だ。
「届かないメッセージだけど、勝手に期待して送信してる。アイコンがあるってことはまだ解約してないのかもしれない。辛いと受験生なら誰でも思うのだろうけど、どこの高校行けるかわかんないだろ。入学しても期待なんかできないし」
ほぼ知らない人間にならば本音を話そう。
「ちなみに、俺のどこがいいんだ?」
「全部」
笑顔満開だ。照れ隠しとかそういうことはゼロなのだろう。
「俺のこと何もわかんないだろ。外見が好きだということか?」
「演技」
予想外だった。母親のコネで子役の仕事は引き受けたが、正直付け焼刃の演技だった。そんなに練習したとか苦労した記憶もない。親の七光りと影で囁かれていることは知っていたし、実際、コネがなければ抜擢されることもなかっただろう。
「あの年齢にして、あの大人びた冷めた瞳を見た時にぞくっとしたの」
「あれは大人社会を色々と知っていた子供だったから。演技じゃなくて、素なんだよ」
「あんな低音ボイスで攻めあぐねていく子役ってあれ以来見たことないよ。普通はかわいいとか素直さで売るものでしょ」
ふと思い出す。当時、起用してくれたプロデューサーが言っていた言葉を。
「君は他の人が持っていない独特の雰囲気を持っていると思う。だから、俺は君を起用した。決して女優の娘だからではないんだよ。君はいい俳優になると思う。将来を楽しみにしているよ」
当時、ヒット作品をたくさん生み出していた名プロデューサー。
媚びを売るとかお世辞を言うタイプではなかった。
彼とは引退後全く会うこともなかったが、今でも活躍していることは知っている。彼の人を見る目があることは仕事ぶりを見ていてよくわかった。
「本当はあなたの演技がまた見たいんだけどな。俳優に復帰する気はないの?」
「ないよ」
「じゃあ、あなたの演技を買おうかな」
「演技なんてずっとやってないし、無理だよ」
ため息しか出ない。あの時の記憶は嫌なことばかりだった。
「たとえば、私の恋人役を一時間やってもらうとか。それも演技でしょ。好きでもない人を好きなふりをするの。キャラは子役時代の冷めたクールキャラで」
「それ、素だけど」
「素でいいから。あの瞳をもう一度見て見たかったの」
懇願されるなんて、いつぶりだろう。
今までなるべく人と距離を置いてきた。
好きな人とは連絡は取れない。
学校にも家庭にも居場所はない。
さびしい気持ちを一人では抱えられなくなってしまっていた。
お金なんてどうでもよくなっていた。
目の前にいる少女は、何でもない自分を推しだと言っている。
その事実に応えてあげたいと心から思った。
推しなんて言われたのも初めてで、少々舞い上がっていたのかもしれない。
犬にでも懐かれた時、どうしようもできない記憶を思い出す。ついてきてもらっては困るが、邪険にできないあのもどかしさだ。そして、実はちょっと嬉しいあの気持ちだ。
「私がいなくなるまで――これからやりたいことをこの手帳に書いていくの」
「漫画とかで見たことあるな。死ぬまでにやりたいことを書いて実践するとかそういうのか?」
「まぁ、そんなところかな」
少しばかり照れた笑顔で見上げる。
「世界はたくさんの音で溢れている。自然界の音を少しでも多く記憶に残したいんだ。突如世界から消えるより、わかっていて消えたほうがいいでしょ」
耳に手をあて世界の音を聴こうとする少女。
「海の音、風の音、夏の虫の声、秋の虫の声、自然界の音は四季を感じるよね」
すごくまっすぐな澄んだ瞳をする人間に推しだと言われていることに流希亜は戸惑う。
自分が一番澄んでいない瞳をしていることに気づいているからだった。
いつも曇った希望のない表情。鏡に映るのはそんな自分だった。
もっと純粋な気持ちで人を見ることができたら――どこかで憧れていた。
でも、できなかった。
人間の黒い世界を知っているから。
裏表を知っているから。
何も考えないで推し活できる人間の無防備さに呆れるが、羨ましくもあった。
流希亜は美和以外の人を愛することはできない。正直重症な重い愛だと自覚していた。
「今日はなにする?」
「早速かよ? 電車に乗ったりしたら、あっという間に一時間経ってしまうぞ」
「じゃあ、追加料金払うよ」
おもむろに札を出された。二万円だ。
「金は要らない。金でつながりたくないからさ」
「じゃあ、何が欲しいの?」
「じゃあ、しばらくの間、亡くなった美和としてライン上で振舞ってくれないか?」
「え?」
予想外な顔をする。
「美和の代わりになってほしい。俺は絶賛大失恋中だ。知っていると思うけど、中学でのポジションは殺人犯扱い。安心しろ。俺が君を好きになることはない」
自分からこんなことを頼むなんて流希亜自身予想外だった。
「ウソ恋だね。好きな人がいるのに推し活女を本命のかわりにするなんて」
「なんだかドラマの題名みたいな感じだな。でも、俺はずっと好きだった女性一人しか愛せないと思ってる。でも、今受験もあって孤独に押しつぶされそうになってる。母親も相変わらずだしな」
「その点、私はあくまで推し活で、恋愛感情がないから、プライベートを邪魔する気はない私はあくまでファンだから、本当に付き合う気はないよ。多分、本当に付き合うとなったら違うような気がするの。あくまで応援団ポジションだからね」
「推しと実際に付き合いたいというのとは、違うものなのか?」
「遠くから応援しているのがいいのに、身近な家族になるみたいな感覚なのは求めてないというか……」
「推し活は深くて尊いな」
よくわからなかったけれど、そのスタンスでいてくれるのは大変助かった。ここで、付き合ってほしいなんて言われたら、そんな申し出をすることはなかっただろう。なんとなく距離を置いてくれるような気がしたのがあった。その絶妙な迷惑をかけてこない距離で美和のふりをしてもらうことが流希亜にとってとても助かる行為だった。寂しさを蹴り散らす手段はこれしかないような気もしていた。
「具体的にどうすれば美和になれる?」
「幸い漢字こそ違うけど、同じ名前だ。俺のしつこいメッセージに返事してほしい」
「しつこいって自覚あるんだ。いいよ。その代わり、私が死ぬまでにしたいことを一緒にしてよ」
「死ぬって?」
「私、卒業式の日に死ぬことが決まってるの。なぜか今日この日に戻ることができて、以前は話すこともできなかった流希亜くんと話すことができたよ」
「死ぬって? まさかそんな馬鹿な話はあるはずないだろ。俺に興味を持たせるために創作したんだろ」
「違うよ。さっき死ぬ感覚を味わったんだけど、推し活してから死にたいって思ったの。あなたの境遇を見て見ぬふりをしていた弱い私がいたから。力になりたいの」
全然信じていない様子の流希亜だったけれど、美和の代わりになるという契約が成立した。そして、死ぬまでにやりたいことを共にしてもらうという契約も成立した。
そのまま勢いで二人で海へ行く。学校をさぼったこともあり、時間があった。制服だったけれど、午前授業だったので、昼過ぎに歩いていても違和感はなかった。
「海が近くてよかったよね。意外と近くても行かないからさ。波の音を刻んでおきたかったの」
耳に手をあてて目をつむる。
「たとえば、夏の香りって聴覚から感じるんだよね。花火の音やひぐらしや蝉の鳴き声、それは嗅覚に変わる夏の香りなんだよ」
空を見上げながら語る美羽の容姿や話し方からは、少し吹っ切れた何かを感じる。そして、その内容にとても納得する。季節の香りは視覚や聴覚から来るものが多い。特に聴覚は夏を感じさせるものが多い。
「ちゃんと今年の夏は記憶に刻みたいんだ。まぁ、まだ春なんだけどね」
「春の香りって何から感じる?」
美羽は何を見て何を感じているのだろうか? こんな短時間なのに興味が沸いた。
「桜が舞い散る瞬間。木々の芽が芽吹く瞬間。あとはたけのこごはんを食べるときとか」
「たけのこごはんは味覚だろ。圧倒的に人間は視覚から香りを感じてるってことだな」
「そっか。たしかに。秋も紅葉した木々を見て、冬は雪の降る街を見て季節の香りを感じるんだね」
ただほほ笑むだけの目の前の美羽に何も言えなかった。
流希亜自身がずっと人を恨み、距離を置き、荒んだ生き方をしてきた。
「まさか推しから好きな人である美和のフリをしてくれなんて、思ってもみなかったよ。恋人のフリをしてみるのも悪くないかな。今まで男子と付き合ったことないんだよね」
「まじか」
その容姿で付き合ったことないというのは少しばかり意外だった。目を引くきれいな容姿は、男子たちが放っておくはずはないだろうと容易に想像できたからだ。きっと嘘をついているのかもしれない。
「そんなにいろんな人と付き合ってたように思えた? 本当に一度も恋人はいなかったから、それっぽいことをやってみたいなって思ったんだよね」
無意識に見上げる顔は男ならばドキリとしそうな顔立ちだった。
しかし、流希亜の場合は、恋に落ちない自信があった。
それだけ重い愛を貫いていた。決して実ることはないのだけれど。
今までの経験が期待をしてはいけないといつもどこかで自制心があった。
どんなにいい人でも絶対に合わない部分があるだろう。
ある日突然裏切ることもあるだろう。
美和以外のことは信用していなかった。
この歳にして、こんな風にしか考えられないなんて悲しいけれど、仕方がない。
「小さな頃よりも、流希亜くんには影があるような気がする」
ぽつりと言われる。さすがファンは良く見てるなと思う。
「小さな頃は純粋な気持ちで子役をやっていたけど、色々あっただろ? 結構人生のダメージはでかかったんだよ。そして、今回の事件で大切な人と会うこともできなくなってしまった。俺たちはスマホで繋がってるのかもしれないな。スマホでブロックされたら関係は途切れる」
「私だって急にあなたが引退して、過去の映像を何度も見直したんだよ。そうしないと、もう会えないから」
「新たな推しは見つからなかったのか?」
「心にグッとくるものがなくてね。今に至る感じかな」
電車に揺られて十五分。海が見えてくる。潮風を感じるが、春先なのでまだ寒い。
電車の窓から広がる海は真っ青ではないけれど、薄い控えめな青色で、春の海といった雰囲気だった。空の色も夏ほどの濃さはない。潮の香りがするような気がする。空気全体が海の香りに満ち溢れた町だった。遠くでは釣り人が釣りをしており、夏の騒々しくにぎやかな海岸とは一味違う。夏になると海の家や海水浴の客で激込みするので、今の時期は狙い目かもしれない。電車を降りて、静かな浜辺へ足を踏み入れる。十代半ばの二人が春の海に来るなんて、傍から見たら本当の恋人のように見えるのかもしれない。しかし、あくまで立場は仮の美和だ。美羽は推しと本気の恋をするつもりはない。そんな二人が一緒にいてもときめくことも、何かがはじまることもないことは必至だ。
潮風を浴びながらゆっくり歩く。思いの外、美羽はうれしそうだった。顔に出る正直者といった印象だ。推しが片思いの美和の代わりになってほしいというギブアンドテイクの関係だ。
「そうだ。皆の前で名前を呼ぶとき、流希亜くんでいい?」
一瞬そのキラキラした名前を呼んでほしいとも思わなかった。
でも、母親と同じ苗字はあの女優を彷彿させそうで、それも嫌だった。
しかし、それ以外の呼び名があるわけでもない。
「本当はその名前は好きじゃないし、苗字も好きじゃないんだ」
「じゃあ、ルキって呼ぼうか?」
「ペットみたいな名前だな」
「るっきーとかは?」
「なんだか夢の国を彷彿させるな……」
「じゃあ、短縮してルアっていうのもいいね」
「外国人みたいな名前だな。まぁ、普通に流希亜でいいよ」
「じゃあ、私も普通に美羽って呼んで」
「付き合うってこういうことを言うのか?」
「わからないよ。私も付き合ったことないし。流希亜くんはモテるのに、なぜ付き合ったことないのか理解不能かも」
「そのうちわかるかもよ」
俺といれば、もしかしたら俺の生まれ育った境遇や心境を話すときがあるかもしれない。面倒だから、理解してもらおうなんて思わなかった。誰にも話したことはない心の葛藤、悩み。そこまで誰とも深く関わろうと思わなかった。彼女の口元を見る。程よいつやと薄いピンク色のリップクリームを塗ったであろう唇が光る。
美羽は裸足になって海岸を走り、水面をかける。
水面が光り、太陽の光を反射する。
純粋で優しい笑顔だった。
知り合ったばかりのもう一人の美羽と一緒にいて、案外違和感がなかったのが流希亜にとって一番の驚きだった。
既読のつかないことは承知の上でメッセージを送信する。
情けないが、今はこれが精一杯の形だった。
これは懺悔であり、自分の気持ちを整理するには一番の方法だった。彼女の気持ちを無下にした覚の償いは、誰にも見られることもなく、ただひたすらに一方的な気持ちを書き込むという虚しい手段となっている。
好きだという気持ちを素直に伝えてくれた君に俺は何をした? 思い出すだけで、心が凍てつく。
久世流希亜と雨下美和は小学生の時からずっと仲のいい腐れ縁であり、中学生になる頃には、友達ともいえない遠い関係になっていた。
中学生になった流希亜は、気持ちを覚られたくなかった。好きだと思っても絶対にばれたくなかった。雨下美和のいいところはたくさん知っていた。嘘をつかない優しく真面目な性格。努力家。そんな褒めゼリフは一度だって口に出したことはない。両親のことが色々あって、この町に転校した時から、彼女は優しく接してくれた。小学生の頃、流希亜は人生のどん底を味わった。
その時に、優しく接してくれていた美和とも年々話さなくなっていた。
クラスが違ったり、性別の違いで遊ぶ機会も減った。
多分、美和を意識していたのは流希亜の方だ。
久しぶりに話した会話は「雨の日は嫌い」という話だったと思う。
傘を持っていなかったので、帰るに帰れなくなっていた。
昇降口で偶然一緒になったのは神様がくれた偶然のようにも思えた。
何気に帰りが一緒になって、急な土砂降りの時、傘を持っていなかった流希亜に傘を貸してくれた美和。
「一緒に入っていかない? どうせ同じ方向でしょ」
それを嬉しく思う気持ちと、恥ずかしい気持ちと、他人に知られたくない気持ちが一瞬にして襲う。小学生の頃は普通に接していたのに、いつのまにか話すだけでダメだという境界線を自分が引いていたようにも思えた。
「いいよ。俺は、このまま濡れてもかまわないし」
一応断る。
「風邪をひいたら大変だよ」
にこりとした笑顔で傘を差し出された。
美和の黒髪はいつもよりも憂いをおびているように思える。湿気のせいかもしれない。
以前より大人びているような気がする。
彼女の行為には人柄がよく現れているように流希亜は感じていた。
つまり、相合傘状態になったのだが、ただの純真な気持ちでの親切心だということに流希亜は気づいていた。
美和の心はいつも汚れていない。まっすぐで真っ白な状態だ。
青空の下で真っ白な洗濯物を干し、風になびく印象だ。
その日は天気予報を裏切ったかのように急に激しい雨が降ってきた。
「雨の日ってなんだかなぁ」
流希亜が灰色の空に向かってつぶやく。
「私も雨は嫌いだよ。制服は濡れるし、靴も泥だらけになるしね」
「部活もできないし、自転車も乗りづらいしな」
「傘さし運転は禁止なんだからね。雨の日はカッパを着て自転車に乗らないと」
「相変わらず真面目ちゃんだな」
「流希亜は相変わらず不真面目なんだから。また告白断ったって噂になってたよ」
「俺、恋愛とか興味ないから」
断ることもできずに、傘の中に入れてもらうが、内心どうしようもなく動揺していた。
しかしながら相合傘にドキドキしているなんて素振りは微塵も見せずに、流希亜は美和が濡れないように、極力自分自身の肩が濡れるように歩く。
一定の距離を保たないと心が落ち着かないというのも本音だった。
久しぶりに話す彼女は全く変わっていなかった。
美和の流希亜への接し方も全く変わっていないことに安堵する。
クラスでも大人しい女子のグループに所属する真面目な美和は流希亜と話すこともなくなっていた。
真逆の人間のグループだったからだ。
「でもさ、雨の日でいいこともあるよね」
「何?」
「こうやって久しぶりに会話できたこと」
少し見上げながらの純真無垢な笑顔で言われると流希亜はどぎまぎしてしまう。
「何言ってるんだよ。馬鹿」
「まぁ、流希亜にとってはいいことでもなんでもないよね」
少し照れた顔をしながらも、当たり前のように返される。このしとしとと降る雨の時間が一番貴重なことだなんて、言えるはずはなかった。もっと一緒にいたいと思う。
「じゃあ、私が今度、流希亜の傘を持ってくるよ。また二人で帰ろうよ」
屈託のない笑顔だった。
「俺も、雨の日は嫌いだったけどさ。また雨が降ったらいいなって思えたよ」
「どうして?」
その答えは素直に言い出せなかった。
「私は、流希亜のことが好きだから、話すきっかけをくれた雨に感謝してるんだよ」
素直でかわいいと思う。
「俺も……」
と言いかけたが、言葉は詰まってしまった。
好きだということを認めたら、この先はこのままの関係なのだろうか?
もっと踏み込んだ関係になるのだろうか?
関係が新しくなることが少し怖くもあった。
母親のことがあったからだ。
未来が怖かったのかもしれない。
でも、この美和の純真無垢な親切心があだとなった。
照れながらも一緒に帰った。流希亜にとっては甘酸っぱい思い出となったのだが――クラスメイトの目撃者がからかってきた。
二人が一緒にいるという事実を気に食わない女子もいたのかもしれない。
というのも、流希亜は誰の告白も受けない鬼対応で有名な男子だった。
恋愛したくても恋愛できない男子として認知されていた。
少しばかり顔が良い。
それだけで充分モテていた。
流希亜の中に美和がいるなんてことは、微塵も見せなかったが、本当はそれが理由で彼女をつくらなかった。
他の女子と付き合っても感情が追い付かないだろうということは流希亜本人が気づいていた。
きっと心の中に美和がいて、そんな半端な気持ちで誰かと付き合ったらそれこそ失礼だということと、自分自身が不器用で簡単に忘れられる人間ではないこともわかっていた。
流希亜に片思いしている女子が目撃したのが運のつきで、あっという間に誇張された噂が広がった。
狭い教室内で女に興味がないモテる流希亜が冴えない女子と帰宅していることに批判と好奇心の目が向けられた。
美和は更に教室内で肩身の狭い思いをした。
流希亜は、関係を聞かれ、思ってもいないことを口にしてしまう。
「マジでウザイんだよね。雨下美和。あいつのこと、嫌いだ」
本心とは真逆なことが口からすらすら出てくる。
そんな自分自身が嫌になる。まるで詐欺師のようだ。
でも、こうでも言わないとクラスメイトは納得しないだろう。
取り巻きの女子たちも美和のことを嫌っていた。
こうすれば美和はいじめられないだろう。
彼女を守るための嘘も方便だった。
しばらく彼女を遠ざけるために無視をした。悪気はなかった。
本当は流希亜が一番近くにいたい女子に一番辛辣な態度をとってしまった。
中学生の彼女の心はどんどん孤独にさいなまれていた。
流希亜は繊細な変化に気づいていた。でも、手を差し伸べてあげられなかった。
ある日の放課後――雨がしとしと降っていた。こんな時に、ベランダにいたら濡れてしまう。
そんな美和のことが気になってしまう。やはり、美和を一番良く見ていたのは流希亜だった。
美和が教室の外のベランダに行く姿を見ていた。
様子が変だとか、顔色が悪いことにも気づいていた。
そんなところにいたら、地面に落ちてしまう。校内でも修理が必要とされている壊れているベランダの危険な場所で雨の中、美和が今にも飛び込みそうな様子を見て、流希亜は体が凍り付いた。このままでは地面に向かって体が突き刺さる。正確に言うと、飛び込もうとしたわけではないのかもしれない。なぜならば校舎内の四階のベランダの柵が壊れていて、体重をかけたらそのまま地面に落下しそうな場所だった。立ち入り禁止区域だとわかっていて、そこに立ったのだろうか。流希亜は美和が落ちると確信した。手を差し伸べ、声を出す。距離が遠くて間に合わない。結果、その行為は無意味なものとなった。
最愛の人を目の前で失ってしまう。
何もできなかった。
四階から地べたに落ちた生徒がいるということで、校舎中は騒然となった。即死だった。
もちろん、ベランダの柵の修理をしていなかった学校の責任問題もあったが、いじめなどの心の問題の対応をしていなかったのではないかと学校は世間の批判にさらされた。
救急車のサイレンが鳴り響き、警察がやってきた。灰色の空は不安を更に増幅させる。しとしとと降る雨の中、流希亜は一人で帰宅した。何もできない自分を責めた。美和を殺したのは自分だと。
やはり雨は嫌いだと流希亜は確信した。あの日、雨が突然降らなければこんなことにはならなかったのかもしれない。
無理にでも傘に入らず帰宅していたら、傘をもってきていれば――様々なもしもの世界を考える。
ライン一覧を見ると、アイコンは残っていた。後に知ったのだが、美和はかなり陰湿ないじめを受けていたらしい。
それ以来、流希亜への反感や冷たい世間の目があからさまになった。小学生の時以来のいじめだ。女子生徒を自殺に追い込んだ冷たい男。多分、美和が告白したのを無下に断り、いじめたのだろうと勝手な憶測を生んだ。しかも、クラスラインなどでデマ情報も拡散され、それは校内、そして、他校にも拡散された。
デジタルタトゥーは消えない。それが本当でないとしても、ずっと残ってしまう。本名も書かれている。スキャンダルが絶えない有名女優の息子で元子役ということも噂としては美味しいネタだった。
どの高校に行ってもばれてしまうかもしれない。あいつは人殺しだ。いじめた末、自殺する瞬間に最も近くにいた人間だと書かれていた。実際、いじめていたわけでもないし、冷たい言葉を少しだけ放ち、無視した程度だ。でも、悪いのは自分だということは自覚していた。
あの日、近くにはいたが、殺そうとしたわけではない。彼女を助けるために近づいたと言ったほうが正解だ。でも、彼女を追い詰めたのは本当だ。
流希亜は中学に居場所がなくなった。皆が手のひらを反すかのように、あいつはやばい。
殺人犯だ、かかわらないほうがいいと言い始めた。
保護者も同様で、危険な人物とは関わらないようにと言って来る。
自分の子供がどの程度危険なのかもしらないくせに。
他人の子供の危険度には敏感なのが保護者らしい。
これ以上どうすることもできない覚は孤独になった。人殺しというレッテル。
みんなの本音は日々動く。気持ちも日々動く。それが辛くもあり、悲しくもあった。
流希亜は孤独な中で遠い知らない人ばかりの高校を受験することにした。それが現実逃避の一番の手段だった。また一から人間関係を円滑にやり直せるかは自信はない。人との距離が怖かった。
【もしまた出会えたら、俺は美和に精一杯寄り添いたい。俺にできることがあれば、言ってほしい】
本当の流希亜は弱い人間で、それを隠すためにクールキャラを装っていた。好きな人に好きだとも言えない臆病者だ。
【俺はおまえのことが大好きだった。笑顔を奪ってごめん】
一日に何回も既読のつかないことが分かった上でメッセージを送る。
世界一嫌われている人間だと感じる。人間は手のひらを返したかのようにあっという間に態度を変える。あの事件以来、それは身に染みてわかった。人間不信という言葉が一番しっくりくる現象だった。
あんなに親しげだった女子たちも一線を引いたらしく、一切関わろうとしてこなかった。
あの事件で久世流希亜は加害者。雨下美和は被害者になった。
あんなに美和を嫌っていた者たちが同情をする。
自殺事件と世間は認識した。
追いやった流希亜は加害者だ。
クラスメイトが無視をしてきた。
あからさまな嫌がらせも増えた。
今まで雨下美和に対してしていた嫌がらせをそのまま流希亜にしてきたかのような入れ替わりだった。鮮やかな人の変化に流希亜は何とも言えない気持ちとなる。
破かれたノートを見つめる。
学校って行く意味あるのかな?
受験なんてする意味あるのかな?
合格したら、また学校生活が始まって、高校という檻でカースト制度が成立する。そこには新たないじめの種が埋まっているかもしれない。加害者になることもあれば被害者になることもある。
女優である母親のことで元々からかわれやすい元子役なのに――犯罪者の息子なのに。さらに流希亜自身も犯罪者同様の存在となってしまった――。
仲が良かったはずの友人から蛙化現象が起きることもある。
蛙化現象とは一般的には異性同士に使うことばで、恋愛関係に使用されるが、ごくまれに同性の友達に対しても、使う者がいる。
蛙化現象の意味は、片思い中は相手に夢中だったけれど、両思いになった途端、相手のことが気持ち悪くなったり興味を持てなくなったりする現象。心理学用語の一つらしい。
グリム童話『かえるの王様』が名前の由来になっているらしい。『かえるの王様』のあらすじについて――
ある国の王女が池にまりを落とす。王女は、池にいた蛙にまりをとってもらい、その代わりに望みを叶える約束をした。その後、蛙の希望通り王女は自分の城で蛙と食事をし、一緒に寝ることに。しかし、王女はいざ蛙とベッドをともにするとなると、激しい嫌悪感に襲われ、蛙を壁に投げつけた。すると、蛙は王子様の姿に。王子は魔女に魔法にかけられて、蛙にされていた。そのことを知った王女は、美しい王子とすっかり恋に落ちて、二人は最終的に結ばれた。
いわゆる「蛙化現象」とは正反対の物語だが、「気持ちが正反対に変わる」ということから由来されているらしい。
流希亜はこの物語に納得がいかなかった。つまり、見た目だけで恋に落ちているってことだ。もしも、蛙ならば、どんなに性格が良くても生理的に受け付けないというおぞましい人間の本性を現した人間の汚い部分を描いた作品だと思えたからだ。でも、現実そういった人間は多数いる。
高校に行けば何か変わるだろうか?
自分自身、周囲の変化に期待しつつ、受験勉強をしたが、本当に楽しいことが待っているとも思えなかった。どこか現実に期待できないでいた。
本当はずっと好きだったことを伝えたかった。
世界が終わってほしい。それが切なるねがいだった。自分自身の人生が終わったほうがどんなに楽だろうか。あんな針の筵のような学校に行くことは、毎日が吐き気がするほど辛いことだった。
あの時、告白を正直に受け入れていたら――あんなことにはならなかなった。素直に好きだと伝えればよかった。もう、永遠に伝える手段がみつからない。
来年の四月、高校生という枠組みに入れば、楽しい生活が待っているのだろうか? 今よりは少しはましになるだろうか? でも、自分をさらけ出すことがとてもとても怖くなっていた。もういちど美和に会いたい。ずっと一緒に過ごした仲。ずっと途切れることはないと勘違いしていた。関係なんて簡単に途切れるものだ。それを痛感する。甘く見ていたことを悔やむ。大切な大切な関係。他の人で埋めることはできないと確信していた。どこかカッコつけたクールキャラ。それは弱みを見せない隠れ蓑だったように思う。彼女の少しさびし気で憂いをおびた笑顔。黒いストレートな髪の毛。全てが愛しいと思う。
その日は、雨が降りそうだった。
まるで今の自分の心そのもののような灰色のどんよりとした空。
あの事件以来、元々関心が薄い様子の母親は更に口出ししてこなくなった。
中学には行かなくてもいいから高校受験だけは何とかしてほしいとだけ言われていた。もう、あんな居心地の悪い場所にいたくはない。それよりも、勉強をしようと自宅でひたすら受験用ワークや過去問題に取り組んだ。未来が明るいかどうかも不明な状態で、流希亜はただ問題と向き合うことで現実逃避していたのかもしれない。
知り合いに会いませんように。なるべく遠くの高校へ入れますように――。
知らない誰かに勝手に祈る。
人の視線に神経質になり過ぎているのは承知の上だ。他人の視線は気になる。敏感な気持ちになる。さすがに具合が悪くなり、授業を受けることが限界になる。仕方なく保健室に向かった。たまにはサボってしまおうと思う。
保健室の先生は最近体調不良で休みがちだ。後任の代替教諭を探しているらしいという噂は聞くが、すぐに決まりそうもない。いわば、この保健室は穴場だった。保健室に入ると、知らない女子生徒がベッドに座っていた。なんとなく会釈をして隣のベッドに寝ることにする。カーテンを閉めて一眠りしようかと思う。
「あなた、サボり? もし本当に体調悪いのなら、保健室の先生は不在だよ。帰宅して病院に行ったほうがいいよ」
話しかけられるとは思っておらず、思わず何と答えようかと戸惑う。
「サボりじゃないよ。体調は悪いのは、寝不足のせいだから」
「なら、よかった」
見知らぬ誰かに心配されるのも予想外だった。
「君のほうこそ、サボり? 今保健室の先生、不在だからここはうってつけの場所だろ」
「私、持病があって時々休ませてもらっているんだ」
予想外の答えだった。
いつのまにか閉めたカーテンを開いてじっと顔をみつめてしまった。
よく見ると、彼女の顔はとても優し気で美しいというのが第一印象だった。すこしやせ形でセーラー服が少し大きく感じる。一年生だと大きめに作るのが普通だからかもしれないが、童顔なのに美しさを兼ね備えていた。美人女優が母親で、美人には慣れているはずなのに、惹きつける何かを感じる。そして、彼女からは悲壮感は感じられない。とても楽しそうに微笑んでいた。
「流希亜くんだよね」
「なんで俺の名前を知ってるんだよ?」
「同じクラスの水沢美羽だよ。美しい羽と書いて美羽。同じクラスならば、わかるに決まってるでしょ。それに、子役時代のあなたのファンだったから」
女子の名前も顔も興味がない流希亜は、そうだったなと一応相槌を打つ。
同時に、子役時代を知る人が現れたことに参ったなと一瞬戸惑う。
もう忘れ去られた存在だと思いたかった。
「みわ」というワードがひっかかる。
唯一好きになった女性の名前と同じだったからだ。
スキャンダル女優の元子役だなんて知られたくないのに、既に知られているなんて。厳しいまなざしで思わず睨みつける。
「その顔は私のことを知らなかったんでしょ」
図星だった。
「私、最近屋上か保健室にいる時間が多いから、同じクラスにいて忘れられていても違和感ないんだけどね」
友達なんていらない。人間なんて信じられない。親ですら信じられない。
そんな流希亜には既に仲のいい友達はいなかった。彼女だから覚えていなかったわけではなく、彼女以外の誰のことも興味はないというのが本音だった。
「俺、眠いから寝るから」
横になる。すると、隣から勝手に話しかけてくる。まるで友達との会話に飢えているかのようだった。少々耳障りにも感じたが一応相槌を打つ。
突如彼女の放った言葉に耳を疑った。
「あなたの時間を毎日一時間だけ私に売ってくれない?」
「はぁ?」
突如彼女の放った言葉に耳を疑った。
いつの間にか、何事に対しても、どうでもいいと思うようになっていた。世の中の嫌なことが全て自分に押し付けられたかのような、濃密で苦しい子供時代を過ごしたと思う。
めんどくさい。うるさい。ウザイ。そんな言葉に覆われた人生。
決して楽しいものではない。息苦しいのに死ぬことができない感じがとても表現としては合っていると思う。
灰色に覆われた人生をどう生きてどう終わらせたらいいのか。
少しでも早く無難に終わらせたいと願っていた。
流希亜というキラキラした名前を付けた母親のことを忌み嫌っていた。母親は美人と言われる有名女優で、たくさんの賞を受賞していたらしい。たくさんの映画やドラマに出て、好感度も高かったと聞く。しかし、母親が不倫騒動を引き起こし、元々キレやすかった父親が不倫相手を刺して刑務所に入った。幸い軽傷で、殺人未遂だったが、それ以来離婚して父親に会うことはなかった。当時、母親の勧めで子役として活躍していたが、役者という仕事が好きだったわけではなかった。どちらかというと母親が喜ぶから子役という仕事を引き受けた。子どもというものは親が喜ぶだけでうれしくなる単純な生き物なのかもしれない。当時は本名で活動しており、全国的な知名度のあるドラマに出演することも多々あった。
その事件後は芸能界からすっぱり足を洗った。本名で活動していたこともあり、辞めた当時は身バレしていて、毎日が不安で仕方がなかった。同級生はテレビを見ていて流希亜のことを知っている子ばかりだった。知り合いのいない町に転校したが、父親は殺人未遂、母親は不倫をしたということで、田舎町に行っても罵られた。最初こそ母親も身を潜めて生活をしていたが、お金はたくさんあったので、働かなくとも生活に困らなかった。芸能界というのは特殊な世界で、小さな仕事が舞い込み、だんだんと人々の負の記憶も薄れた頃に女優業に舞い戻った。父親とは離婚していたが、身を潜めていた時には、刺された不倫男に親身に尽くし、結婚した。子供の流希亜には止められるはずもなかった。その男と一生共にするのかと思っていたのだが、結婚して五年程経った頃、新しい彼氏ができた。自分の都合で、別れてほしいとお金を渡して別れたというのは知っている。
人が信じられない。産んだ母親ですらも。そんな久世流希亜はいつの間にか素直で優しい少年から、毒づいた人間不信の青年に成長していた。母親も子どもがいると面倒という理由から結婚当初も一人しか出産する気配はなかった。本当は子どもなんて一人もいらなかったのかもしれない。いつもお金だけは持っている人だったから、食費も家の掃除も全てお金で育児家事を賄っていた人だった。高校に入ったら一人暮らしをしろと言われている。ほぼ今でも一人暮らし状態ではある。忙しい母親はほとんど不在だ。
一人暮らしを勧めてきた理由はわかっている。母親には新しい彼氏ができて一緒に住みたいから邪魔になったというのが本当の所だろう。今でも、大ヒット作品に出演している魔女のような女だ。あんなに母親役が似合う演技をしているのに、現実は何もしないネグレクトな女優なんて誰も思わないだろう。それくらい演技が特化されていて美しい顔。微笑まれたら一般人はイチコロだ。芸能界は演技力と顔だ。
高校へ行ったら友達にはどう認識されるのだろうか。子役時代の話も遠い昔の話を覚えている人はあまりいなくなったと思っていたのに。外見が幼児期と変化したこともあるだろう。時間が子役だったという存在を世間から消してくれたと言っても過言ではない。でも、美和のことがあって過去の噂がまた再燃する。
突然話しかけてきた人は、童顔なのに美しさを兼ね備えていた。美人女優が母親で、美人には慣れているはずなのに、惹きつける何かを感じる。そして、彼女はとても楽しそうに微笑んでいた。
「もう一度言うね。あなたの時間を毎日一時間だけ私に売ってくれない?」
「はぁ?」
意味がわからず再び聞き返す。
「私、子役時代のファンクラブにも入っているくらいあなたが推しなの。もしよければ、毎日平日一時間バイトだと思って一時間だけ私と過ごしてよ。お金は払うから」
「別に、金に困っていないし。毎日おまえと過ごすのは苦痛だ」
「私、卒業式にはここからいなくなるんだ。だから、推しと色々な経験をしたいの」
「推しって……。でも、今は一般人だし」
「でも、私は今でも役者のあなたのファンなんだよ。出会えるなんて思ってもみなかった」
「大げさだな。俺は今は陰キャな一般人だよ。アイドルでも芸能人でもない」
「一時間私と電話してくれるだけでもいいから。お願い」
懇願しながらちらりと上目遣いで目元を見つめる。
「流希亜くんって目の下にクマがあるよね。寝不足なの?」
「まぁ、夜はスマホとかゲームとか、やり放題だからな。なんか寝付けないんだよ」
「じゃあ、私と話していたら眠れるかもしれないでしょ。早速、連絡先交換ね。スマホの番号教えて。登録しておくから。電話だけでもあなたの時間を買う対価は払うから」
本当に推しなんて思っていたのならば、連絡先の交換は心底嬉しいと思っているのだろうか。こんな普通の根暗な男の時間なんて買っても無意味なのにと心の奥底でつぶやく。
「ファンクラブも引退と同時に消滅して、応援する手段がなくなってしまったの。ネットでファンと交流するくらいしかなかった。でも、時がたつと別な推しができて、みんな去っていったの。私はそんなに長くここにいることはできないから、推しにファンクラブの会費としてお金を支払いたい」
「俺にファンがいたのか?」
子どもだったから、あまり認識していなかった。
誰かの心に自分の演技が響いていたのだろうか。
誰かの心に刺さるものがあったのだろうか。
はじめて推しだと名乗る人間を目の前にする。
誰かにはじめて認められたような気がする。
最近の不健康な生活に少しばかり潤いを感じたような気がした。
「いいよ。とりあえず電話番号を教えておく」
自然と許可する言葉が出ていた。
「じゃあ一時間一万円くらいでいいかな?」
「一時間で一万円って感覚狂ってるだろ」
「推し活って惜しまないものなんだよ。グッズ買ったり、ライブ行ったり、推しに愛をいくら注げるかというのも自己満足の範疇だよ。スイーツを推している人は食べ物代が高くても惜しまないしね」
「俺、推しっていないから、その感覚がわかんないんだよ」
「推しがいないと人生さびしいよ。応援するだけで元気が沸くんだよ」
「そうなのか?」
妙に冷めた返事をしたと自分で気づく。でも、その通り感覚がわからないから仕方がない。
「自分で言うほど陰キャな一般人だと周囲は思ってないよ。その美しい顔はいくら隠そうとしても隠しきれてないよ。あなたの顔立ち、きれいだよね。お母さんが美人女優だけあるよ」
面と向かって照れることなく言われると、言われたほうが照れてしまう。
照れたなんていつぶりだろう。いつの間にか女優の息子で元子役だということはマイナスな情報となっていたはずなのに。人の噂はなんとかっていうけれど、ネットがあるせいか過去の情報なんていくらでも検索できる。全くもって不便で生きづらい世の中になったもんだ。デジタルタトゥーというものに正直うんざりしていた。正直言って、母親は恥である存在としか認識していない。全国に不倫したとか新しい彼氏ができたとか報道されているにも関わらず何も感じていない厚顔無恥な女。息子の方が恥ずかしい。外見が美人なだけの母親に愛情はなかった。
「じゃあ一万円で」
こういえば、きっとそのうちおこづかいも底を尽きるだろう。
少し中学生にとっては高めの設定にしてみる。
実際、札を出すときにためらうのが普通だろう。
ふと母親の姿が浮かぶ。
それは、惜しげもなく札束を置いていく姿だった。
女優の母親はお金を出すことにためらわない。
いつも札束を置いて、どこかへ行ってしまう。
仕事なのかもしれないし、男のいる場所なのかもしれない。
次から次へと男を変えて渡り歩く姿は、子どもから見ても滑稽だった。
「実は流希亜くんのことをずっと探していたんだ。突然引退したけれど、消息をつかむことができなかった。個人的にSNSをしていないか、いろんなアプリもチェックしたし、ファン同士で情報交換もしていた。でも、ずっとどこにいるのかもわからなかった。まさか、同じ中学校にいて、ここで話せるなんて、お金で買えないことだよ」
「大げさだな。俺は普通の人間だし、崇拝されるような対象じゃない」
「ずっと会って話してみたいって思ってた。ある意味初恋の人なのかな。恋じゃなくて、推しっていうほうが正しいのかもしれないけれど」
その瞳は嘘をついているようには思えなくて、瞳を逸らすことができなくなっていた。流希亜は自分よりもずっとカリスマ性があるのは彼女だと確信していた。普通の生徒の中にいたら、絶対に浮いてしまう。芸能界にいてもおかしくない容姿端麗な姿。ただ、外見で人を好きになれないのが母親の行動が多大に影響していた。
どんなに美しい容姿をしていても心根が汚い可能性はある。それくらい目の前の相手に警戒していた。初対面の相手にやたらと笑顔で接して来る。これは詐欺の一種かもしれない。小学生の時、母親の不倫騒動でいじめられた。それ以来、心から安らげる居場所がなかった。そして、追い打ちをかけたのが今回の事件。呪われているかのような人生。そして、唯一好きになった女性が死んだ今。
【美和は俺が壊してしまったことは償いきれないけど、ごめんね】
「何? 誰かにラインでもしてるの?」
「まあね」
「彼女とか?」
「彼女はいない。というか友達もいないし」
「同じ中学の生徒だから理由は知ってるよ。今どん底にいるのならば、推しであるあなたの力になりたい」
【久しぶりに人としゃべった。本当は美和と話したい】
届かないメッセージを送る。既読はつかない。既読のつかないことを知りながらつぶやくことは気持ち悪い対象となるであろうことはわかっていた。
そうは言ったけれど、最近誰とも話していなかったから、知らない人と会話することでストレスが緩和されることに気づく。
美和とは違うけれど、こちらの美羽も話しやすい人だった。全く知らない人のほうが、話すのにちょうどいいのかもしれない。
今日の天気は雨が降りそうなどんよりした灰色の空。
「雨は嫌いだな」
「雨に恨みでもあるの?」
「別に」
雨が好きになったあの日のせいで、流希亜も美和も人生が変わってしまった。
【やっぱり雨が嫌いだ】
SNSで美和に勝手に一方的に話しかけるのが当たり前となっていた。
迷惑で気持ち悪いと思われるだろう。これは一種の自己満足だ。
「私が片思いの彼女の代わりになって返事してあげるよ」
「そんなこと頼んでもむなしいだけだよ」
「既読がつかないラインに送ること自体むなしいよね」
たしかに、手のひらにある無限に広がるSNSで謝っても、永遠に美和とはつながることはない。つまり無意味だ。
そんな馬鹿な自分に嫌気がさしていた頃だった。
それは気まぐれだったのかもしれない。
「交換しようか」
孤独に耐えられなくなっていたのも事実だった。
居場所のない中学校。
未来のわからない不安な受験期。
目の前に現れた知らない女子と連絡先を交換する。
アイコンの画像は雨。
その下にMiwaと書いてある。
どうやら、「みわ」という名前に縁があるらしい。
二人の「みわ」の間で流希亜の心は揺れる。
孤独に耐えられなくなった流希亜は、連絡できる人ができればいい。
SNS上で美和の代わりになってくれればいい。
わがままで失礼な依存心で交換してしまう。
【アイコンの画像が雨だよな。雨、好きなのか?】
【どっちかっていうと好きかな】
【珍しいな】
【そう?】
目の前にいるのに、あえてメッセージで会話する。
そのほうがMiwaと書いてあるアイコンが美和のような気がして、気持ちが上がってしまう。
【彼女のこと好きだったの?】
メッセージだからこそ素直に言える。
【大好きだった。ちゃんと気持ちを伝えたかった。後悔時既に遅しだけど】
これは、謝罪を含めて、好きだという気持ちも全部含めて伝えたいという意味だ。
「届かないメッセージだけど、勝手に期待して送信してる。アイコンがあるってことはまだ解約してないのかもしれない。辛いと受験生なら誰でも思うのだろうけど、どこの高校行けるかわかんないだろ。入学しても期待なんかできないし」
ほぼ知らない人間にならば本音を話そう。
「ちなみに、俺のどこがいいんだ?」
「全部」
笑顔満開だ。照れ隠しとかそういうことはゼロなのだろう。
「俺のこと何もわかんないだろ。外見が好きだということか?」
「演技」
予想外だった。母親のコネで子役の仕事は引き受けたが、正直付け焼刃の演技だった。そんなに練習したとか苦労した記憶もない。親の七光りと影で囁かれていることは知っていたし、実際、コネがなければ抜擢されることもなかっただろう。
「あの年齢にして、あの大人びた冷めた瞳を見た時にぞくっとしたの」
「あれは大人社会を色々と知っていた子供だったから。演技じゃなくて、素なんだよ」
「あんな低音ボイスで攻めあぐねていく子役ってあれ以来見たことないよ。普通はかわいいとか素直さで売るものでしょ」
ふと思い出す。当時、起用してくれたプロデューサーが言っていた言葉を。
「君は他の人が持っていない独特の雰囲気を持っていると思う。だから、俺は君を起用した。決して女優の娘だからではないんだよ。君はいい俳優になると思う。将来を楽しみにしているよ」
当時、ヒット作品をたくさん生み出していた名プロデューサー。
媚びを売るとかお世辞を言うタイプではなかった。
彼とは引退後全く会うこともなかったが、今でも活躍していることは知っている。彼の人を見る目があることは仕事ぶりを見ていてよくわかった。
「本当はあなたの演技がまた見たいんだけどな。俳優に復帰する気はないの?」
「ないよ」
「じゃあ、あなたの演技を買おうかな」
「演技なんてずっとやってないし、無理だよ」
ため息しか出ない。あの時の記憶は嫌なことばかりだった。
「たとえば、私の恋人役を一時間やってもらうとか。それも演技でしょ。好きでもない人を好きなふりをするの。キャラは子役時代の冷めたクールキャラで」
「それ、素だけど」
「素でいいから。あの瞳をもう一度見て見たかったの」
懇願されるなんて、いつぶりだろう。
今までなるべく人と距離を置いてきた。
好きな人とは連絡は取れない。
学校にも家庭にも居場所はない。
さびしい気持ちを一人では抱えられなくなってしまっていた。
お金なんてどうでもよくなっていた。
目の前にいる少女は、何でもない自分を推しだと言っている。
その事実に応えてあげたいと心から思った。
推しなんて言われたのも初めてで、少々舞い上がっていたのかもしれない。
犬にでも懐かれた時、どうしようもできない記憶を思い出す。ついてきてもらっては困るが、邪険にできないあのもどかしさだ。そして、実はちょっと嬉しいあの気持ちだ。
「私がいなくなるまで――これからやりたいことをこの手帳に書いていくの」
「漫画とかで見たことあるな。死ぬまでにやりたいことを書いて実践するとかそういうのか?」
「まぁ、そんなところかな」
少しばかり照れた笑顔で見上げる。
「世界はたくさんの音で溢れている。自然界の音を少しでも多く記憶に残したいんだ。突如世界から消えるより、わかっていて消えたほうがいいでしょ」
耳に手をあて世界の音を聴こうとする少女。
「海の音、風の音、夏の虫の声、秋の虫の声、自然界の音は四季を感じるよね」
すごくまっすぐな澄んだ瞳をする人間に推しだと言われていることに流希亜は戸惑う。
自分が一番澄んでいない瞳をしていることに気づいているからだった。
いつも曇った希望のない表情。鏡に映るのはそんな自分だった。
もっと純粋な気持ちで人を見ることができたら――どこかで憧れていた。
でも、できなかった。
人間の黒い世界を知っているから。
裏表を知っているから。
何も考えないで推し活できる人間の無防備さに呆れるが、羨ましくもあった。
流希亜は美和以外の人を愛することはできない。正直重症な重い愛だと自覚していた。
「今日はなにする?」
「早速かよ? 電車に乗ったりしたら、あっという間に一時間経ってしまうぞ」
「じゃあ、追加料金払うよ」
おもむろに札を出された。二万円だ。
「金は要らない。金でつながりたくないからさ」
「じゃあ、何が欲しいの?」
「じゃあ、しばらくの間、亡くなった美和としてライン上で振舞ってくれないか?」
「え?」
予想外な顔をする。
「美和の代わりになってほしい。俺は絶賛大失恋中だ。知っていると思うけど、中学でのポジションは殺人犯扱い。安心しろ。俺が君を好きになることはない」
自分からこんなことを頼むなんて流希亜自身予想外だった。
「ウソ恋だね。好きな人がいるのに推し活女を本命のかわりにするなんて」
「なんだかドラマの題名みたいな感じだな。でも、俺はずっと好きだった女性一人しか愛せないと思ってる。でも、今受験もあって孤独に押しつぶされそうになってる。母親も相変わらずだしな」
「その点、私はあくまで推し活で、恋愛感情がないから、プライベートを邪魔する気はない私はあくまでファンだから、本当に付き合う気はないよ。多分、本当に付き合うとなったら違うような気がするの。あくまで応援団ポジションだからね」
「推しと実際に付き合いたいというのとは、違うものなのか?」
「遠くから応援しているのがいいのに、身近な家族になるみたいな感覚なのは求めてないというか……」
「推し活は深くて尊いな」
よくわからなかったけれど、そのスタンスでいてくれるのは大変助かった。ここで、付き合ってほしいなんて言われたら、そんな申し出をすることはなかっただろう。なんとなく距離を置いてくれるような気がしたのがあった。その絶妙な迷惑をかけてこない距離で美和のふりをしてもらうことが流希亜にとってとても助かる行為だった。寂しさを蹴り散らす手段はこれしかないような気もしていた。
「具体的にどうすれば美和になれる?」
「幸い漢字こそ違うけど、同じ名前だ。俺のしつこいメッセージに返事してほしい」
「しつこいって自覚あるんだ。いいよ。その代わり、私が死ぬまでにしたいことを一緒にしてよ」
「死ぬって?」
「私、卒業式の日に死ぬことが決まってるの。なぜか今日この日に戻ることができて、以前は話すこともできなかった流希亜くんと話すことができたよ」
「死ぬって? まさかそんな馬鹿な話はあるはずないだろ。俺に興味を持たせるために創作したんだろ」
「違うよ。さっき死ぬ感覚を味わったんだけど、推し活してから死にたいって思ったの。あなたの境遇を見て見ぬふりをしていた弱い私がいたから。力になりたいの」
全然信じていない様子の流希亜だったけれど、美和の代わりになるという契約が成立した。そして、死ぬまでにやりたいことを共にしてもらうという契約も成立した。
そのまま勢いで二人で海へ行く。学校をさぼったこともあり、時間があった。制服だったけれど、午前授業だったので、昼過ぎに歩いていても違和感はなかった。
「海が近くてよかったよね。意外と近くても行かないからさ。波の音を刻んでおきたかったの」
耳に手をあてて目をつむる。
「たとえば、夏の香りって聴覚から感じるんだよね。花火の音やひぐらしや蝉の鳴き声、それは嗅覚に変わる夏の香りなんだよ」
空を見上げながら語る美羽の容姿や話し方からは、少し吹っ切れた何かを感じる。そして、その内容にとても納得する。季節の香りは視覚や聴覚から来るものが多い。特に聴覚は夏を感じさせるものが多い。
「ちゃんと今年の夏は記憶に刻みたいんだ。まぁ、まだ春なんだけどね」
「春の香りって何から感じる?」
美羽は何を見て何を感じているのだろうか? こんな短時間なのに興味が沸いた。
「桜が舞い散る瞬間。木々の芽が芽吹く瞬間。あとはたけのこごはんを食べるときとか」
「たけのこごはんは味覚だろ。圧倒的に人間は視覚から香りを感じてるってことだな」
「そっか。たしかに。秋も紅葉した木々を見て、冬は雪の降る街を見て季節の香りを感じるんだね」
ただほほ笑むだけの目の前の美羽に何も言えなかった。
流希亜自身がずっと人を恨み、距離を置き、荒んだ生き方をしてきた。
「まさか推しから好きな人である美和のフリをしてくれなんて、思ってもみなかったよ。恋人のフリをしてみるのも悪くないかな。今まで男子と付き合ったことないんだよね」
「まじか」
その容姿で付き合ったことないというのは少しばかり意外だった。目を引くきれいな容姿は、男子たちが放っておくはずはないだろうと容易に想像できたからだ。きっと嘘をついているのかもしれない。
「そんなにいろんな人と付き合ってたように思えた? 本当に一度も恋人はいなかったから、それっぽいことをやってみたいなって思ったんだよね」
無意識に見上げる顔は男ならばドキリとしそうな顔立ちだった。
しかし、流希亜の場合は、恋に落ちない自信があった。
それだけ重い愛を貫いていた。決して実ることはないのだけれど。
今までの経験が期待をしてはいけないといつもどこかで自制心があった。
どんなにいい人でも絶対に合わない部分があるだろう。
ある日突然裏切ることもあるだろう。
美和以外のことは信用していなかった。
この歳にして、こんな風にしか考えられないなんて悲しいけれど、仕方がない。
「小さな頃よりも、流希亜くんには影があるような気がする」
ぽつりと言われる。さすがファンは良く見てるなと思う。
「小さな頃は純粋な気持ちで子役をやっていたけど、色々あっただろ? 結構人生のダメージはでかかったんだよ。そして、今回の事件で大切な人と会うこともできなくなってしまった。俺たちはスマホで繋がってるのかもしれないな。スマホでブロックされたら関係は途切れる」
「私だって急にあなたが引退して、過去の映像を何度も見直したんだよ。そうしないと、もう会えないから」
「新たな推しは見つからなかったのか?」
「心にグッとくるものがなくてね。今に至る感じかな」
電車に揺られて十五分。海が見えてくる。潮風を感じるが、春先なのでまだ寒い。
電車の窓から広がる海は真っ青ではないけれど、薄い控えめな青色で、春の海といった雰囲気だった。空の色も夏ほどの濃さはない。潮の香りがするような気がする。空気全体が海の香りに満ち溢れた町だった。遠くでは釣り人が釣りをしており、夏の騒々しくにぎやかな海岸とは一味違う。夏になると海の家や海水浴の客で激込みするので、今の時期は狙い目かもしれない。電車を降りて、静かな浜辺へ足を踏み入れる。十代半ばの二人が春の海に来るなんて、傍から見たら本当の恋人のように見えるのかもしれない。しかし、あくまで立場は仮の美和だ。美羽は推しと本気の恋をするつもりはない。そんな二人が一緒にいてもときめくことも、何かがはじまることもないことは必至だ。
潮風を浴びながらゆっくり歩く。思いの外、美羽はうれしそうだった。顔に出る正直者といった印象だ。推しが片思いの美和の代わりになってほしいというギブアンドテイクの関係だ。
「そうだ。皆の前で名前を呼ぶとき、流希亜くんでいい?」
一瞬そのキラキラした名前を呼んでほしいとも思わなかった。
でも、母親と同じ苗字はあの女優を彷彿させそうで、それも嫌だった。
しかし、それ以外の呼び名があるわけでもない。
「本当はその名前は好きじゃないし、苗字も好きじゃないんだ」
「じゃあ、ルキって呼ぼうか?」
「ペットみたいな名前だな」
「るっきーとかは?」
「なんだか夢の国を彷彿させるな……」
「じゃあ、短縮してルアっていうのもいいね」
「外国人みたいな名前だな。まぁ、普通に流希亜でいいよ」
「じゃあ、私も普通に美羽って呼んで」
「付き合うってこういうことを言うのか?」
「わからないよ。私も付き合ったことないし。流希亜くんはモテるのに、なぜ付き合ったことないのか理解不能かも」
「そのうちわかるかもよ」
俺といれば、もしかしたら俺の生まれ育った境遇や心境を話すときがあるかもしれない。面倒だから、理解してもらおうなんて思わなかった。誰にも話したことはない心の葛藤、悩み。そこまで誰とも深く関わろうと思わなかった。彼女の口元を見る。程よいつやと薄いピンク色のリップクリームを塗ったであろう唇が光る。
美羽は裸足になって海岸を走り、水面をかける。
水面が光り、太陽の光を反射する。
純粋で優しい笑顔だった。
知り合ったばかりのもう一人の美羽と一緒にいて、案外違和感がなかったのが流希亜にとって一番の驚きだった。