桜舞う季節まで 推しと死ぬまでにしたいこと

「神様、死ぬ前にどうか私のねがいを聞いてください。どうか、どうか――推しを助けてからあの世に逝かせてください」
 強い強い想いが流れる。
 一粒の涙と強い想いが時空をゆがめた。やり残した世界に戻る水沢美羽。
 虹色の光が体を包む。温かな空気を身に纏う。多分、人生最初で最後の経験となるだろう。まぶしくて目をつむる。痛みも全てが無になる不思議な感じ。もう一度冬の終わりまで生を受ける。それは、言葉ではない感覚だった。聞こえないメッセージを全身に浴びて、美羽は残された時間でできることをしようと決意する。まるで水の中から美しい羽を広げてはばたくかのように元の時間へ戻る。それは、説明できない不思議な感覚だった。ひとかけらも恐怖はなかった。
 桜吹雪の中、花びらにつつまれる。春が来たんだね。そう思いながらやり残したことを後悔する。

 推しが苦しんでいることを見て見ぬふりをしていた。小さいと思っていた後悔はとてもとても大きな後悔だということに気づく。
 何もしなかったのは、時間が無限にあるかのような気がしていたからなのかもしれない。これで最期だと気づいた時に、本当にやりたかったことがわかるものなのかもしれない。推しに好きな人がいて、大きな事件があって中学校で孤立していることは知っていた。同じ中学校に子ども時代に憧れていた推しが偶然いた。でも、何もできなかった。もし、このまま孤立してしまったら、推しである彼は破損して割れてしまうかもしれない。そんな心配をしていた。心配をするだけで、手を差し伸べてあげることはできなかった。それは知り合いではないという理由と一方的なファンであるということもあった。
 でも、どうか知り合いになるチャンスをください!!
 私は傍観者であり、ただその人が幸せになる手助けをしたいだけ。
 それ以上のことは望みません。
 ちゃんとその日が来たら、この死を受け入れます。
 
 気づくと水沢美羽(みずさわみわ)は卒業式の日から中学三年生の春先に戻っていた。
 その時、以前の世界では流希亜が訪れていない保健室にいた。
 それが久世流希亜(くぜるきあ)と水沢美羽の出会いだった。

 【君は今、どうしている? あの時、どんな気持ちだった? 本当にごめん】
 既読のつかないことは承知の上でメッセージを送信する。
 情けないが、今はこれが精一杯の形だった。
 これは懺悔であり、自分の気持ちを整理するには一番の方法だった。彼女の気持ちを無下にした覚の償いは、誰にも見られることもなく、ただひたすらに一方的な気持ちを書き込むという虚しい手段となっている。
 好きだという気持ちを素直に伝えてくれた君に俺は何をした? 思い出すだけで、心が凍てつく。
 久世流希亜(くぜるきあ)雨下美和(あましたみわ)は小学生の時からずっと仲のいい腐れ縁であり、中学生になる頃には、友達ともいえない遠い関係になっていた。
 中学生になった流希亜は、気持ちを覚られたくなかった。好きだと思っても絶対にばれたくなかった。雨下美和のいいところはたくさん知っていた。嘘をつかない優しく真面目な性格。努力家。そんな褒めゼリフは一度だって口に出したことはない。両親のことが色々あって、この町に転校した時から、彼女は優しく接してくれた。小学生の頃、流希亜は人生のどん底を味わった。
 その時に、優しく接してくれていた美和とも年々話さなくなっていた。
 クラスが違ったり、性別の違いで遊ぶ機会も減った。
 多分、美和を意識していたのは流希亜の方だ。

 久しぶりに話した会話は「雨の日は嫌い」という話だったと思う。
傘を持っていなかったので、帰るに帰れなくなっていた。
 昇降口で偶然一緒になったのは神様がくれた偶然のようにも思えた。
 何気に帰りが一緒になって、急な土砂降りの時、傘を持っていなかった流希亜に傘を貸してくれた美和。
「一緒に入っていかない? どうせ同じ方向でしょ」
 それを嬉しく思う気持ちと、恥ずかしい気持ちと、他人に知られたくない気持ちが一瞬にして襲う。小学生の頃は普通に接していたのに、いつのまにか話すだけでダメだという境界線を自分が引いていたようにも思えた。
「いいよ。俺は、このまま濡れてもかまわないし」
 一応断る。
「風邪をひいたら大変だよ」
 にこりとした笑顔で傘を差し出された。
 美和の黒髪はいつもよりも憂いをおびているように思える。湿気のせいかもしれない。
 以前より大人びているような気がする。
 彼女の行為には人柄がよく現れているように流希亜は感じていた。
 つまり、相合傘状態になったのだが、ただの純真な気持ちでの親切心だということに流希亜は気づいていた。
 美和の心はいつも汚れていない。まっすぐで真っ白な状態だ。
 青空の下で真っ白な洗濯物を干し、風になびく印象だ。

 その日は天気予報を裏切ったかのように急に激しい雨が降ってきた。
「雨の日ってなんだかなぁ」
 流希亜が灰色の空に向かってつぶやく。
「私も雨は嫌いだよ。制服は濡れるし、靴も泥だらけになるしね」
「部活もできないし、自転車も乗りづらいしな」
「傘さし運転は禁止なんだからね。雨の日はカッパを着て自転車に乗らないと」
「相変わらず真面目ちゃんだな」
「流希亜は相変わらず不真面目なんだから。また告白断ったって噂になってたよ」
「俺、恋愛とか興味ないから」 
 断ることもできずに、傘の中に入れてもらうが、内心どうしようもなく動揺していた。
 しかしながら相合傘にドキドキしているなんて素振りは微塵も見せずに、流希亜は美和が濡れないように、極力自分自身の肩が濡れるように歩く。
 一定の距離を保たないと心が落ち着かないというのも本音だった。
 久しぶりに話す彼女は全く変わっていなかった。
 美和の流希亜への接し方も全く変わっていないことに安堵する。
 クラスでも大人しい女子のグループに所属する真面目な美和は流希亜と話すこともなくなっていた。
 真逆の人間のグループだったからだ。
「でもさ、雨の日でいいこともあるよね」
「何?」
「こうやって久しぶりに会話できたこと」
 少し見上げながらの純真無垢な笑顔で言われると流希亜はどぎまぎしてしまう。
「何言ってるんだよ。馬鹿」
「まぁ、流希亜にとってはいいことでもなんでもないよね」
 少し照れた顔をしながらも、当たり前のように返される。このしとしとと降る雨の時間が一番貴重なことだなんて、言えるはずはなかった。もっと一緒にいたいと思う。
「じゃあ、私が今度、流希亜の傘を持ってくるよ。また二人で帰ろうよ」
 屈託のない笑顔だった。
「俺も、雨の日は嫌いだったけどさ。また雨が降ったらいいなって思えたよ」
「どうして?」
 その答えは素直に言い出せなかった。
「私は、流希亜のことが好きだから、話すきっかけをくれた雨に感謝してるんだよ」
 素直でかわいいと思う。
「俺も……」
 と言いかけたが、言葉は詰まってしまった。
 好きだということを認めたら、この先はこのままの関係なのだろうか?
 もっと踏み込んだ関係になるのだろうか?
 関係が新しくなることが少し怖くもあった。
 母親のことがあったからだ。
 未来が怖かったのかもしれない。
 でも、この美和の純真無垢な親切心があだとなった。

 照れながらも一緒に帰った。流希亜にとっては甘酸っぱい思い出となったのだが――クラスメイトの目撃者がからかってきた。
 二人が一緒にいるという事実を気に食わない女子もいたのかもしれない。
 というのも、流希亜は誰の告白も受けない鬼対応で有名な男子だった。
 恋愛したくても恋愛できない男子として認知されていた。
 少しばかり顔が良い。
 それだけで充分モテていた。
 流希亜の中に美和がいるなんてことは、微塵も見せなかったが、本当はそれが理由で彼女をつくらなかった。
 他の女子と付き合っても感情が追い付かないだろうということは流希亜本人が気づいていた。
 きっと心の中に美和がいて、そんな半端な気持ちで誰かと付き合ったらそれこそ失礼だということと、自分自身が不器用で簡単に忘れられる人間ではないこともわかっていた。
 流希亜に片思いしている女子が目撃したのが運のつきで、あっという間に誇張された噂が広がった。
 狭い教室内で女に興味がないモテる流希亜が冴えない女子と帰宅していることに批判と好奇心の目が向けられた。
 美和は更に教室内で肩身の狭い思いをした。
 流希亜は、関係を聞かれ、思ってもいないことを口にしてしまう。
「マジでウザイんだよね。雨下美和。あいつのこと、嫌いだ」
 本心とは真逆なことが口からすらすら出てくる。
 そんな自分自身が嫌になる。まるで詐欺師のようだ。
 でも、こうでも言わないとクラスメイトは納得しないだろう。
 取り巻きの女子たちも美和のことを嫌っていた。
 こうすれば美和はいじめられないだろう。
 彼女を守るための嘘も方便だった。
 しばらく彼女を遠ざけるために無視をした。悪気はなかった。
 本当は流希亜が一番近くにいたい女子に一番辛辣な態度をとってしまった。

 中学生の彼女の心はどんどん孤独にさいなまれていた。
 流希亜は繊細な変化に気づいていた。でも、手を差し伸べてあげられなかった。

 ある日の放課後――雨がしとしと降っていた。こんな時に、ベランダにいたら濡れてしまう。
 そんな美和のことが気になってしまう。やはり、美和を一番良く見ていたのは流希亜だった。
 美和が教室の外のベランダに行く姿を見ていた。
 様子が変だとか、顔色が悪いことにも気づいていた。
 そんなところにいたら、地面に落ちてしまう。校内でも修理が必要とされている壊れているベランダの危険な場所で雨の中、美和が今にも飛び込みそうな様子を見て、流希亜は体が凍り付いた。このままでは地面に向かって体が突き刺さる。正確に言うと、飛び込もうとしたわけではないのかもしれない。なぜならば校舎内の四階のベランダの柵が壊れていて、体重をかけたらそのまま地面に落下しそうな場所だった。立ち入り禁止区域だとわかっていて、そこに立ったのだろうか。流希亜は美和が落ちると確信した。手を差し伸べ、声を出す。距離が遠くて間に合わない。結果、その行為は無意味なものとなった。

 最愛の人を目の前で失ってしまう。
 何もできなかった。
 四階から地べたに落ちた生徒がいるということで、校舎中は騒然となった。即死だった。
 もちろん、ベランダの柵の修理をしていなかった学校の責任問題もあったが、いじめなどの心の問題の対応をしていなかったのではないかと学校は世間の批判にさらされた。
 救急車のサイレンが鳴り響き、警察がやってきた。灰色の空は不安を更に増幅させる。しとしとと降る雨の中、流希亜は一人で帰宅した。何もできない自分を責めた。美和を殺したのは自分だと。
 やはり雨は嫌いだと流希亜は確信した。あの日、雨が突然降らなければこんなことにはならなかったのかもしれない。
 無理にでも傘に入らず帰宅していたら、傘をもってきていれば――様々なもしもの世界を考える。

 ライン一覧を見ると、アイコンは残っていた。後に知ったのだが、美和はかなり陰湿ないじめを受けていたらしい。

 それ以来、流希亜への反感や冷たい世間の目があからさまになった。小学生の時以来のいじめだ。女子生徒を自殺に追い込んだ冷たい男。多分、美和が告白したのを無下に断り、いじめたのだろうと勝手な憶測を生んだ。しかも、クラスラインなどでデマ情報も拡散され、それは校内、そして、他校にも拡散された。
 デジタルタトゥーは消えない。それが本当でないとしても、ずっと残ってしまう。本名も書かれている。スキャンダルが絶えない有名女優の息子で元子役ということも噂としては美味しいネタだった。
 どの高校に行ってもばれてしまうかもしれない。あいつは人殺しだ。いじめた末、自殺する瞬間に最も近くにいた人間だと書かれていた。実際、いじめていたわけでもないし、冷たい言葉を少しだけ放ち、無視した程度だ。でも、悪いのは自分だということは自覚していた。
 あの日、近くにはいたが、殺そうとしたわけではない。彼女を助けるために近づいたと言ったほうが正解だ。でも、彼女を追い詰めたのは本当だ。

 流希亜は中学に居場所がなくなった。皆が手のひらを反すかのように、あいつはやばい。
 殺人犯だ、かかわらないほうがいいと言い始めた。
 保護者も同様で、危険な人物とは関わらないようにと言って来る。
 自分の子供がどの程度危険なのかもしらないくせに。
 他人の子供の危険度には敏感なのが保護者らしい。
 これ以上どうすることもできない覚は孤独になった。人殺しというレッテル。
 みんなの本音は日々動く。気持ちも日々動く。それが辛くもあり、悲しくもあった。
 流希亜は孤独な中で遠い知らない人ばかりの高校を受験することにした。それが現実逃避の一番の手段だった。また一から人間関係を円滑にやり直せるかは自信はない。人との距離が怖かった。
【もしまた出会えたら、俺は美和に精一杯寄り添いたい。俺にできることがあれば、言ってほしい】
 本当の流希亜は弱い人間で、それを隠すためにクールキャラを装っていた。好きな人に好きだとも言えない臆病者だ。
【俺はおまえのことが大好きだった。笑顔を奪ってごめん】
 一日に何回も既読のつかないことが分かった上でメッセージを送る。
 世界一嫌われている人間だと感じる。人間は手のひらを返したかのようにあっという間に態度を変える。あの事件以来、それは身に染みてわかった。人間不信という言葉が一番しっくりくる現象だった。
 あんなに親しげだった女子たちも一線を引いたらしく、一切関わろうとしてこなかった。
 あの事件で久世流希亜は加害者。雨下美和は被害者になった。
 あんなに美和を嫌っていた者たちが同情をする。
 自殺事件と世間は認識した。
 追いやった流希亜は加害者だ。
 クラスメイトが無視をしてきた。
 あからさまな嫌がらせも増えた。
 今まで雨下美和に対してしていた嫌がらせをそのまま流希亜にしてきたかのような入れ替わりだった。鮮やかな人の変化に流希亜は何とも言えない気持ちとなる。
 破かれたノートを見つめる。
 学校って行く意味あるのかな?
 受験なんてする意味あるのかな?
 合格したら、また学校生活が始まって、高校という檻でカースト制度が成立する。そこには新たないじめの種が埋まっているかもしれない。加害者になることもあれば被害者になることもある。
 女優である母親のことで元々からかわれやすい元子役なのに――犯罪者の息子なのに。さらに流希亜自身も犯罪者同様の存在となってしまった――。

 仲が良かったはずの友人から蛙化現象が起きることもある。
 蛙化現象とは一般的には異性同士に使うことばで、恋愛関係に使用されるが、ごくまれに同性の友達に対しても、使う者がいる。
 蛙化現象の意味は、片思い中は相手に夢中だったけれど、両思いになった途端、相手のことが気持ち悪くなったり興味を持てなくなったりする現象。心理学用語の一つらしい。
 グリム童話『かえるの王様』が名前の由来になっているらしい。『かえるの王様』のあらすじについて――
 ある国の王女が池にまりを落とす。王女は、池にいた蛙にまりをとってもらい、その代わりに望みを叶える約束をした。その後、蛙の希望通り王女は自分の城で蛙と食事をし、一緒に寝ることに。しかし、王女はいざ蛙とベッドをともにするとなると、激しい嫌悪感に襲われ、蛙を壁に投げつけた。すると、蛙は王子様の姿に。王子は魔女に魔法にかけられて、蛙にされていた。そのことを知った王女は、美しい王子とすっかり恋に落ちて、二人は最終的に結ばれた。
 いわゆる「蛙化現象」とは正反対の物語だが、「気持ちが正反対に変わる」ということから由来されているらしい。
 流希亜はこの物語に納得がいかなかった。つまり、見た目だけで恋に落ちているってことだ。もしも、蛙ならば、どんなに性格が良くても生理的に受け付けないというおぞましい人間の本性を現した人間の汚い部分を描いた作品だと思えたからだ。でも、現実そういった人間は多数いる。
 高校に行けば何か変わるだろうか?
 自分自身、周囲の変化に期待しつつ、受験勉強をしたが、本当に楽しいことが待っているとも思えなかった。どこか現実に期待できないでいた。
 本当はずっと好きだったことを伝えたかった。
 世界が終わってほしい。それが切なるねがいだった。自分自身の人生が終わったほうがどんなに楽だろうか。あんな針の筵のような学校に行くことは、毎日が吐き気がするほど辛いことだった。
 あの時、告白を正直に受け入れていたら――あんなことにはならなかなった。素直に好きだと伝えればよかった。もう、永遠に伝える手段がみつからない。
 来年の四月、高校生という枠組みに入れば、楽しい生活が待っているのだろうか? 今よりは少しはましになるだろうか? でも、自分をさらけ出すことがとてもとても怖くなっていた。もういちど美和に会いたい。ずっと一緒に過ごした仲。ずっと途切れることはないと勘違いしていた。関係なんて簡単に途切れるものだ。それを痛感する。甘く見ていたことを悔やむ。大切な大切な関係。他の人で埋めることはできないと確信していた。どこかカッコつけたクールキャラ。それは弱みを見せない隠れ蓑だったように思う。彼女の少しさびし気で憂いをおびた笑顔。黒いストレートな髪の毛。全てが愛しいと思う。
 その日は、雨が降りそうだった。
 まるで今の自分の心そのもののような灰色のどんよりとした空。
 あの事件以来、元々関心が薄い様子の母親は更に口出ししてこなくなった。
 中学には行かなくてもいいから高校受験だけは何とかしてほしいとだけ言われていた。もう、あんな居心地の悪い場所にいたくはない。それよりも、勉強をしようと自宅でひたすら受験用ワークや過去問題に取り組んだ。未来が明るいかどうかも不明な状態で、流希亜はただ問題と向き合うことで現実逃避していたのかもしれない。
 知り合いに会いませんように。なるべく遠くの高校へ入れますように――。
 知らない誰かに勝手に祈る。
 
 人の視線に神経質になり過ぎているのは承知の上だ。他人の視線は気になる。敏感な気持ちになる。さすがに具合が悪くなり、授業を受けることが限界になる。仕方なく保健室に向かった。たまにはサボってしまおうと思う。

 保健室の先生は最近体調不良で休みがちだ。後任の代替教諭を探しているらしいという噂は聞くが、すぐに決まりそうもない。いわば、この保健室は穴場だった。保健室に入ると、知らない女子生徒がベッドに座っていた。なんとなく会釈をして隣のベッドに寝ることにする。カーテンを閉めて一眠りしようかと思う。
「あなた、サボり? もし本当に体調悪いのなら、保健室の先生は不在だよ。帰宅して病院に行ったほうがいいよ」
 話しかけられるとは思っておらず、思わず何と答えようかと戸惑う。
「サボりじゃないよ。体調は悪いのは、寝不足のせいだから」
「なら、よかった」
 見知らぬ誰かに心配されるのも予想外だった。
「君のほうこそ、サボり? 今保健室の先生、不在だからここはうってつけの場所だろ」
「私、持病があって時々休ませてもらっているんだ」
 予想外の答えだった。
 いつのまにか閉めたカーテンを開いてじっと顔をみつめてしまった。
 よく見ると、彼女の顔はとても優し気で美しいというのが第一印象だった。すこしやせ形でセーラー服が少し大きく感じる。一年生だと大きめに作るのが普通だからかもしれないが、童顔なのに美しさを兼ね備えていた。美人女優が母親で、美人には慣れているはずなのに、惹きつける何かを感じる。そして、彼女からは悲壮感は感じられない。とても楽しそうに微笑んでいた。
「流希亜くんだよね」
「なんで俺の名前を知ってるんだよ?」
「同じクラスの水沢美羽だよ。美しい羽と書いて美羽。同じクラスならば、わかるに決まってるでしょ。それに、子役時代のあなたのファンだったから」
 女子の名前も顔も興味がない流希亜は、そうだったなと一応相槌を打つ。
 同時に、子役時代を知る人が現れたことに参ったなと一瞬戸惑う。
 もう忘れ去られた存在だと思いたかった。
「みわ」というワードがひっかかる。
 唯一好きになった女性の名前と同じだったからだ。

 スキャンダル女優の元子役だなんて知られたくないのに、既に知られているなんて。厳しいまなざしで思わず睨みつける。
「その顔は私のことを知らなかったんでしょ」
 図星だった。
「私、最近屋上か保健室にいる時間が多いから、同じクラスにいて忘れられていても違和感ないんだけどね」
 友達なんていらない。人間なんて信じられない。親ですら信じられない。
 そんな流希亜には既に仲のいい友達はいなかった。彼女だから覚えていなかったわけではなく、彼女以外の誰のことも興味はないというのが本音だった。
「俺、眠いから寝るから」
 横になる。すると、隣から勝手に話しかけてくる。まるで友達との会話に飢えているかのようだった。少々耳障りにも感じたが一応相槌を打つ。
 突如彼女の放った言葉に耳を疑った。
「あなたの時間を毎日一時間だけ私に売ってくれない?」
「はぁ?」
 突如彼女の放った言葉に耳を疑った。

 いつの間にか、何事に対しても、どうでもいいと思うようになっていた。世の中の嫌なことが全て自分に押し付けられたかのような、濃密で苦しい子供時代を過ごしたと思う。
 めんどくさい。うるさい。ウザイ。そんな言葉に覆われた人生。
 決して楽しいものではない。息苦しいのに死ぬことができない感じがとても表現としては合っていると思う。
 灰色に覆われた人生をどう生きてどう終わらせたらいいのか。
 少しでも早く無難に終わらせたいと願っていた。
 流希亜というキラキラした名前を付けた母親のことを忌み嫌っていた。母親は美人と言われる有名女優で、たくさんの賞を受賞していたらしい。たくさんの映画やドラマに出て、好感度も高かったと聞く。しかし、母親が不倫騒動を引き起こし、元々キレやすかった父親が不倫相手を刺して刑務所に入った。幸い軽傷で、殺人未遂だったが、それ以来離婚して父親に会うことはなかった。当時、母親の勧めで子役として活躍していたが、役者という仕事が好きだったわけではなかった。どちらかというと母親が喜ぶから子役という仕事を引き受けた。子どもというものは親が喜ぶだけでうれしくなる単純な生き物なのかもしれない。当時は本名で活動しており、全国的な知名度のあるドラマに出演することも多々あった。
 その事件後は芸能界からすっぱり足を洗った。本名で活動していたこともあり、辞めた当時は身バレしていて、毎日が不安で仕方がなかった。同級生はテレビを見ていて流希亜のことを知っている子ばかりだった。知り合いのいない町に転校したが、父親は殺人未遂、母親は不倫をしたということで、田舎町に行っても罵られた。最初こそ母親も身を潜めて生活をしていたが、お金はたくさんあったので、働かなくとも生活に困らなかった。芸能界というのは特殊な世界で、小さな仕事が舞い込み、だんだんと人々の負の記憶も薄れた頃に女優業に舞い戻った。父親とは離婚していたが、身を潜めていた時には、刺された不倫男に親身に尽くし、結婚した。子供の流希亜には止められるはずもなかった。その男と一生共にするのかと思っていたのだが、結婚して五年程経った頃、新しい彼氏ができた。自分の都合で、別れてほしいとお金を渡して別れたというのは知っている。
 人が信じられない。産んだ母親ですらも。そんな久世流希亜はいつの間にか素直で優しい少年から、毒づいた人間不信の青年に成長していた。母親も子どもがいると面倒という理由から結婚当初も一人しか出産する気配はなかった。本当は子どもなんて一人もいらなかったのかもしれない。いつもお金だけは持っている人だったから、食費も家の掃除も全てお金で育児家事を賄っていた人だった。高校に入ったら一人暮らしをしろと言われている。ほぼ今でも一人暮らし状態ではある。忙しい母親はほとんど不在だ。
 一人暮らしを勧めてきた理由はわかっている。母親には新しい彼氏ができて一緒に住みたいから邪魔になったというのが本当の所だろう。今でも、大ヒット作品に出演している魔女のような女だ。あんなに母親役が似合う演技をしているのに、現実は何もしないネグレクトな女優なんて誰も思わないだろう。それくらい演技が特化されていて美しい顔。微笑まれたら一般人はイチコロだ。芸能界は演技力と顔だ。
 高校へ行ったら友達にはどう認識されるのだろうか。子役時代の話も遠い昔の話を覚えている人はあまりいなくなったと思っていたのに。外見が幼児期と変化したこともあるだろう。時間が子役だったという存在を世間から消してくれたと言っても過言ではない。でも、美和のことがあって過去の噂がまた再燃する。
 突然話しかけてきた人は、童顔なのに美しさを兼ね備えていた。美人女優が母親で、美人には慣れているはずなのに、惹きつける何かを感じる。そして、彼女はとても楽しそうに微笑んでいた。

 
「もう一度言うね。あなたの時間を毎日一時間だけ私に売ってくれない?」
「はぁ?」
 意味がわからず再び聞き返す。
「私、子役時代のファンクラブにも入っているくらいあなたが推しなの。もしよければ、毎日平日一時間バイトだと思って一時間だけ私と過ごしてよ。お金は払うから」
「別に、金に困っていないし。毎日おまえと過ごすのは苦痛だ」
「私、卒業式にはここからいなくなるんだ。だから、推しと色々な経験をしたいの」
「推しって……。でも、今は一般人だし」
「でも、私は今でも役者のあなたのファンなんだよ。出会えるなんて思ってもみなかった」
「大げさだな。俺は今は陰キャな一般人だよ。アイドルでも芸能人でもない」
「一時間私と電話してくれるだけでもいいから。お願い」
 懇願しながらちらりと上目遣いで目元を見つめる。
「流希亜くんって目の下にクマがあるよね。寝不足なの?」
「まぁ、夜はスマホとかゲームとか、やり放題だからな。なんか寝付けないんだよ」
「じゃあ、私と話していたら眠れるかもしれないでしょ。早速、連絡先交換ね。スマホの番号教えて。登録しておくから。電話だけでもあなたの時間を買う対価は払うから」
 本当に推しなんて思っていたのならば、連絡先の交換は心底嬉しいと思っているのだろうか。こんな普通の根暗な男の時間なんて買っても無意味なのにと心の奥底でつぶやく。
「ファンクラブも引退と同時に消滅して、応援する手段がなくなってしまったの。ネットでファンと交流するくらいしかなかった。でも、時がたつと別な推しができて、みんな去っていったの。私はそんなに長くここにいることはできないから、推しにファンクラブの会費としてお金を支払いたい」
「俺にファンがいたのか?」
 子どもだったから、あまり認識していなかった。
 誰かの心に自分の演技が響いていたのだろうか。
 誰かの心に刺さるものがあったのだろうか。
 はじめて推しだと名乗る人間を目の前にする。
 誰かにはじめて認められたような気がする。
 最近の不健康な生活に少しばかり潤いを感じたような気がした。
「いいよ。とりあえず電話番号を教えておく」
 自然と許可する言葉が出ていた。
「じゃあ一時間一万円くらいでいいかな?」
「一時間で一万円って感覚狂ってるだろ」
「推し活って惜しまないものなんだよ。グッズ買ったり、ライブ行ったり、推しに愛をいくら注げるかというのも自己満足の範疇だよ。スイーツを推している人は食べ物代が高くても惜しまないしね」
「俺、推しっていないから、その感覚がわかんないんだよ」
「推しがいないと人生さびしいよ。応援するだけで元気が沸くんだよ」
「そうなのか?」
 妙に冷めた返事をしたと自分で気づく。でも、その通り感覚がわからないから仕方がない。
「自分で言うほど陰キャな一般人だと周囲は思ってないよ。その美しい顔はいくら隠そうとしても隠しきれてないよ。あなたの顔立ち、きれいだよね。お母さんが美人女優だけあるよ」
 面と向かって照れることなく言われると、言われたほうが照れてしまう。
 照れたなんていつぶりだろう。いつの間にか女優の息子で元子役だということはマイナスな情報となっていたはずなのに。人の噂はなんとかっていうけれど、ネットがあるせいか過去の情報なんていくらでも検索できる。全くもって不便で生きづらい世の中になったもんだ。デジタルタトゥーというものに正直うんざりしていた。正直言って、母親は恥である存在としか認識していない。全国に不倫したとか新しい彼氏ができたとか報道されているにも関わらず何も感じていない厚顔無恥な女。息子の方が恥ずかしい。外見が美人なだけの母親に愛情はなかった。

「じゃあ一万円で」
 こういえば、きっとそのうちおこづかいも底を尽きるだろう。
 少し中学生にとっては高めの設定にしてみる。
 実際、札を出すときにためらうのが普通だろう。
 ふと母親の姿が浮かぶ。
 それは、惜しげもなく札束を置いていく姿だった。
 女優の母親はお金を出すことにためらわない。
 いつも札束を置いて、どこかへ行ってしまう。
 仕事なのかもしれないし、男のいる場所なのかもしれない。
 次から次へと男を変えて渡り歩く姿は、子どもから見ても滑稽だった。
「実は流希亜くんのことをずっと探していたんだ。突然引退したけれど、消息をつかむことができなかった。個人的にSNSをしていないか、いろんなアプリもチェックしたし、ファン同士で情報交換もしていた。でも、ずっとどこにいるのかもわからなかった。まさか、同じ中学校にいて、ここで話せるなんて、お金で買えないことだよ」
「大げさだな。俺は普通の人間だし、崇拝されるような対象じゃない」
「ずっと会って話してみたいって思ってた。ある意味初恋の人なのかな。恋じゃなくて、推しっていうほうが正しいのかもしれないけれど」
 その瞳は嘘をついているようには思えなくて、瞳を逸らすことができなくなっていた。流希亜は自分よりもずっとカリスマ性があるのは彼女だと確信していた。普通の生徒の中にいたら、絶対に浮いてしまう。芸能界にいてもおかしくない容姿端麗な姿。ただ、外見で人を好きになれないのが母親の行動が多大に影響していた。
 どんなに美しい容姿をしていても心根が汚い可能性はある。それくらい目の前の相手に警戒していた。初対面の相手にやたらと笑顔で接して来る。これは詐欺の一種かもしれない。小学生の時、母親の不倫騒動でいじめられた。それ以来、心から安らげる居場所がなかった。そして、追い打ちをかけたのが今回の事件。呪われているかのような人生。そして、唯一好きになった女性が死んだ今。
【美和は俺が壊してしまったことは償いきれないけど、ごめんね】
「何? 誰かにラインでもしてるの?」
「まあね」
「彼女とか?」
「彼女はいない。というか友達もいないし」
「同じ中学の生徒だから理由は知ってるよ。今どん底にいるのならば、推しであるあなたの力になりたい」
【久しぶりに人としゃべった。本当は美和と話したい】
 届かないメッセージを送る。既読はつかない。既読のつかないことを知りながらつぶやくことは気持ち悪い対象となるであろうことはわかっていた。
 そうは言ったけれど、最近誰とも話していなかったから、知らない人と会話することでストレスが緩和されることに気づく。
 美和とは違うけれど、こちらの美羽も話しやすい人だった。全く知らない人のほうが、話すのにちょうどいいのかもしれない。
 今日の天気は雨が降りそうなどんよりした灰色の空。
「雨は嫌いだな」
「雨に恨みでもあるの?」
「別に」
 雨が好きになったあの日のせいで、流希亜も美和も人生が変わってしまった。
【やっぱり雨が嫌いだ】
 SNSで美和に勝手に一方的に話しかけるのが当たり前となっていた。
 迷惑で気持ち悪いと思われるだろう。これは一種の自己満足だ。

「私が片思いの彼女の代わりになって返事してあげるよ」
「そんなこと頼んでもむなしいだけだよ」
「既読がつかないラインに送ること自体むなしいよね」
 たしかに、手のひらにある無限に広がるSNSで謝っても、永遠に美和とはつながることはない。つまり無意味だ。
 そんな馬鹿な自分に嫌気がさしていた頃だった。
 それは気まぐれだったのかもしれない。
「交換しようか」
 孤独に耐えられなくなっていたのも事実だった。
 居場所のない中学校。
 未来のわからない不安な受験期。
 目の前に現れた知らない女子と連絡先を交換する。
 アイコンの画像は雨。
 その下にMiwaと書いてある。
 どうやら、「みわ」という名前に縁があるらしい。
 二人の「みわ」の間で流希亜の心は揺れる。
 孤独に耐えられなくなった流希亜は、連絡できる人ができればいい。
 SNS上で美和の代わりになってくれればいい。
 わがままで失礼な依存心で交換してしまう。
【アイコンの画像が雨だよな。雨、好きなのか?】
【どっちかっていうと好きかな】
【珍しいな】
【そう?】
 目の前にいるのに、あえてメッセージで会話する。
 そのほうがMiwaと書いてあるアイコンが美和のような気がして、気持ちが上がってしまう。
【彼女のこと好きだったの?】
 メッセージだからこそ素直に言える。
【大好きだった。ちゃんと気持ちを伝えたかった。後悔時既に遅しだけど】
 これは、謝罪を含めて、好きだという気持ちも全部含めて伝えたいという意味だ。
「届かないメッセージだけど、勝手に期待して送信してる。アイコンがあるってことはまだ解約してないのかもしれない。辛いと受験生なら誰でも思うのだろうけど、どこの高校行けるかわかんないだろ。入学しても期待なんかできないし」
 ほぼ知らない人間にならば本音を話そう。
「ちなみに、俺のどこがいいんだ?」
「全部」
 笑顔満開だ。照れ隠しとかそういうことはゼロなのだろう。
「俺のこと何もわかんないだろ。外見が好きだということか?」
「演技」
 予想外だった。母親のコネで子役の仕事は引き受けたが、正直付け焼刃の演技だった。そんなに練習したとか苦労した記憶もない。親の七光りと影で囁かれていることは知っていたし、実際、コネがなければ抜擢されることもなかっただろう。
「あの年齢にして、あの大人びた冷めた瞳を見た時にぞくっとしたの」
「あれは大人社会を色々と知っていた子供だったから。演技じゃなくて、素なんだよ」
「あんな低音ボイスで攻めあぐねていく子役ってあれ以来見たことないよ。普通はかわいいとか素直さで売るものでしょ」
 ふと思い出す。当時、起用してくれたプロデューサーが言っていた言葉を。
「君は他の人が持っていない独特の雰囲気を持っていると思う。だから、俺は君を起用した。決して女優の娘だからではないんだよ。君はいい俳優になると思う。将来を楽しみにしているよ」
 当時、ヒット作品をたくさん生み出していた名プロデューサー。
 媚びを売るとかお世辞を言うタイプではなかった。
 彼とは引退後全く会うこともなかったが、今でも活躍していることは知っている。彼の人を見る目があることは仕事ぶりを見ていてよくわかった。
「本当はあなたの演技がまた見たいんだけどな。俳優に復帰する気はないの?」
「ないよ」
「じゃあ、あなたの演技を買おうかな」
「演技なんてずっとやってないし、無理だよ」
 ため息しか出ない。あの時の記憶は嫌なことばかりだった。
「たとえば、私の恋人役を一時間やってもらうとか。それも演技でしょ。好きでもない人を好きなふりをするの。キャラは子役時代の冷めたクールキャラで」
「それ、素だけど」
「素でいいから。あの瞳をもう一度見て見たかったの」
 懇願されるなんて、いつぶりだろう。
 今までなるべく人と距離を置いてきた。
 好きな人とは連絡は取れない。
 学校にも家庭にも居場所はない。
 さびしい気持ちを一人では抱えられなくなってしまっていた。
 お金なんてどうでもよくなっていた。
 目の前にいる少女は、何でもない自分を推しだと言っている。
 その事実に応えてあげたいと心から思った。
 推しなんて言われたのも初めてで、少々舞い上がっていたのかもしれない。
 犬にでも懐かれた時、どうしようもできない記憶を思い出す。ついてきてもらっては困るが、邪険にできないあのもどかしさだ。そして、実はちょっと嬉しいあの気持ちだ。
「私がいなくなるまで――これからやりたいことをこの手帳に書いていくの」
「漫画とかで見たことあるな。死ぬまでにやりたいことを書いて実践するとかそういうのか?」
「まぁ、そんなところかな」
 少しばかり照れた笑顔で見上げる。
「世界はたくさんの音で溢れている。自然界の音を少しでも多く記憶に残したいんだ。突如世界から消えるより、わかっていて消えたほうがいいでしょ」
 耳に手をあて世界の音を聴こうとする少女。
「海の音、風の音、夏の虫の声、秋の虫の声、自然界の音は四季を感じるよね」
 すごくまっすぐな澄んだ瞳をする人間に推しだと言われていることに流希亜は戸惑う。
 自分が一番澄んでいない瞳をしていることに気づいているからだった。
 いつも曇った希望のない表情。鏡に映るのはそんな自分だった。
 もっと純粋な気持ちで人を見ることができたら――どこかで憧れていた。
 でも、できなかった。
 人間の黒い世界を知っているから。
 裏表を知っているから。
 何も考えないで推し活できる人間の無防備さに呆れるが、羨ましくもあった。
 流希亜は美和以外の人を愛することはできない。正直重症な重い愛だと自覚していた。
「今日はなにする?」
「早速かよ? 電車に乗ったりしたら、あっという間に一時間経ってしまうぞ」
「じゃあ、追加料金払うよ」
 おもむろに札を出された。二万円だ。
「金は要らない。金でつながりたくないからさ」
「じゃあ、何が欲しいの?」
「じゃあ、しばらくの間、亡くなった美和としてライン上で振舞ってくれないか?」
「え?」 
 予想外な顔をする。
「美和の代わりになってほしい。俺は絶賛大失恋中だ。知っていると思うけど、中学でのポジションは殺人犯扱い。安心しろ。俺が君を好きになることはない」
 自分からこんなことを頼むなんて流希亜自身予想外だった。
「ウソ恋だね。好きな人がいるのに推し活女を本命のかわりにするなんて」
「なんだかドラマの題名みたいな感じだな。でも、俺はずっと好きだった女性一人しか愛せないと思ってる。でも、今受験もあって孤独に押しつぶされそうになってる。母親も相変わらずだしな」
「その点、私はあくまで推し活で、恋愛感情がないから、プライベートを邪魔する気はない私はあくまでファンだから、本当に付き合う気はないよ。多分、本当に付き合うとなったら違うような気がするの。あくまで応援団ポジションだからね」
「推しと実際に付き合いたいというのとは、違うものなのか?」
「遠くから応援しているのがいいのに、身近な家族になるみたいな感覚なのは求めてないというか……」
「推し活は深くて尊いな」
 よくわからなかったけれど、そのスタンスでいてくれるのは大変助かった。ここで、付き合ってほしいなんて言われたら、そんな申し出をすることはなかっただろう。なんとなく距離を置いてくれるような気がしたのがあった。その絶妙な迷惑をかけてこない距離で美和のふりをしてもらうことが流希亜にとってとても助かる行為だった。寂しさを蹴り散らす手段はこれしかないような気もしていた。
「具体的にどうすれば美和になれる?」
「幸い漢字こそ違うけど、同じ名前だ。俺のしつこいメッセージに返事してほしい」
「しつこいって自覚あるんだ。いいよ。その代わり、私が死ぬまでにしたいことを一緒にしてよ」
「死ぬって?」
「私、卒業式の日に死ぬことが決まってるの。なぜか今日この日に戻ることができて、以前は話すこともできなかった流希亜くんと話すことができたよ」
「死ぬって? まさかそんな馬鹿な話はあるはずないだろ。俺に興味を持たせるために創作したんだろ」
「違うよ。さっき死ぬ感覚を味わったんだけど、推し活してから死にたいって思ったの。あなたの境遇を見て見ぬふりをしていた弱い私がいたから。力になりたいの」
 全然信じていない様子の流希亜だったけれど、美和の代わりになるという契約が成立した。そして、死ぬまでにやりたいことを共にしてもらうという契約も成立した。

 そのまま勢いで二人で海へ行く。学校をさぼったこともあり、時間があった。制服だったけれど、午前授業だったので、昼過ぎに歩いていても違和感はなかった。
「海が近くてよかったよね。意外と近くても行かないからさ。波の音を刻んでおきたかったの」
 耳に手をあてて目をつむる。
「たとえば、夏の香りって聴覚から感じるんだよね。花火の音やひぐらしや蝉の鳴き声、それは嗅覚に変わる夏の香りなんだよ」
 空を見上げながら語る美羽の容姿や話し方からは、少し吹っ切れた何かを感じる。そして、その内容にとても納得する。季節の香りは視覚や聴覚から来るものが多い。特に聴覚は夏を感じさせるものが多い。
「ちゃんと今年の夏は記憶に刻みたいんだ。まぁ、まだ春なんだけどね」
「春の香りって何から感じる?」
 美羽は何を見て何を感じているのだろうか? こんな短時間なのに興味が沸いた。
「桜が舞い散る瞬間。木々の芽が芽吹く瞬間。あとはたけのこごはんを食べるときとか」
「たけのこごはんは味覚だろ。圧倒的に人間は視覚から香りを感じてるってことだな」
「そっか。たしかに。秋も紅葉した木々を見て、冬は雪の降る街を見て季節の香りを感じるんだね」
 ただほほ笑むだけの目の前の美羽に何も言えなかった。
 流希亜自身がずっと人を恨み、距離を置き、荒んだ生き方をしてきた。
「まさか推しから好きな人である美和のフリをしてくれなんて、思ってもみなかったよ。恋人のフリをしてみるのも悪くないかな。今まで男子と付き合ったことないんだよね」
「まじか」
 その容姿で付き合ったことないというのは少しばかり意外だった。目を引くきれいな容姿は、男子たちが放っておくはずはないだろうと容易に想像できたからだ。きっと嘘をついているのかもしれない。
「そんなにいろんな人と付き合ってたように思えた? 本当に一度も恋人はいなかったから、それっぽいことをやってみたいなって思ったんだよね」
 無意識に見上げる顔は男ならばドキリとしそうな顔立ちだった。
 しかし、流希亜の場合は、恋に落ちない自信があった。
 それだけ重い愛を貫いていた。決して実ることはないのだけれど。
 今までの経験が期待をしてはいけないといつもどこかで自制心があった。
 どんなにいい人でも絶対に合わない部分があるだろう。
 ある日突然裏切ることもあるだろう。
 美和以外のことは信用していなかった。
 この歳にして、こんな風にしか考えられないなんて悲しいけれど、仕方がない。
「小さな頃よりも、流希亜くんには影があるような気がする」
 ぽつりと言われる。さすがファンは良く見てるなと思う。
「小さな頃は純粋な気持ちで子役をやっていたけど、色々あっただろ? 結構人生のダメージはでかかったんだよ。そして、今回の事件で大切な人と会うこともできなくなってしまった。俺たちはスマホで繋がってるのかもしれないな。スマホでブロックされたら関係は途切れる」
「私だって急にあなたが引退して、過去の映像を何度も見直したんだよ。そうしないと、もう会えないから」
「新たな推しは見つからなかったのか?」
「心にグッとくるものがなくてね。今に至る感じかな」
 電車に揺られて十五分。海が見えてくる。潮風を感じるが、春先なのでまだ寒い。

 電車の窓から広がる海は真っ青ではないけれど、薄い控えめな青色で、春の海といった雰囲気だった。空の色も夏ほどの濃さはない。潮の香りがするような気がする。空気全体が海の香りに満ち溢れた町だった。遠くでは釣り人が釣りをしており、夏の騒々しくにぎやかな海岸とは一味違う。夏になると海の家や海水浴の客で激込みするので、今の時期は狙い目かもしれない。電車を降りて、静かな浜辺へ足を踏み入れる。十代半ばの二人が春の海に来るなんて、傍から見たら本当の恋人のように見えるのかもしれない。しかし、あくまで立場は仮の美和だ。美羽は推しと本気の恋をするつもりはない。そんな二人が一緒にいてもときめくことも、何かがはじまることもないことは必至だ。
 潮風を浴びながらゆっくり歩く。思いの外、美羽はうれしそうだった。顔に出る正直者といった印象だ。推しが片思いの美和の代わりになってほしいというギブアンドテイクの関係だ。
「そうだ。皆の前で名前を呼ぶとき、流希亜くんでいい?」
 一瞬そのキラキラした名前を呼んでほしいとも思わなかった。
 でも、母親と同じ苗字はあの女優を彷彿させそうで、それも嫌だった。
 しかし、それ以外の呼び名があるわけでもない。
「本当はその名前は好きじゃないし、苗字も好きじゃないんだ」
「じゃあ、ルキって呼ぼうか?」
「ペットみたいな名前だな」
「るっきーとかは?」
「なんだか夢の国を彷彿させるな……」
「じゃあ、短縮してルアっていうのもいいね」
「外国人みたいな名前だな。まぁ、普通に流希亜でいいよ」
「じゃあ、私も普通に美羽って呼んで」
「付き合うってこういうことを言うのか?」
「わからないよ。私も付き合ったことないし。流希亜くんはモテるのに、なぜ付き合ったことないのか理解不能かも」
「そのうちわかるかもよ」
 俺といれば、もしかしたら俺の生まれ育った境遇や心境を話すときがあるかもしれない。面倒だから、理解してもらおうなんて思わなかった。誰にも話したことはない心の葛藤、悩み。そこまで誰とも深く関わろうと思わなかった。彼女の口元を見る。程よいつやと薄いピンク色のリップクリームを塗ったであろう唇が光る。
 美羽は裸足になって海岸を走り、水面をかける。
 水面が光り、太陽の光を反射する。
 純粋で優しい笑顔だった。
 知り合ったばかりのもう一人の美羽と一緒にいて、案外違和感がなかったのが流希亜にとって一番の驚きだった。
 昼休みになると、美羽は当たり前のように弁当を持ってきて、向かい合って食べる。一人のほうが気楽なのにと思う。でも、これが防御壁になるのならば、文句は言えないと思う。いわば壁なんだと言い聞かせる。目の前には艶のあるストレートヘアの女子高生。今まで、ぼっちなランチタイムを過ごしていたので、違和感はある。誰かと一緒ではない昼休みはどこか息苦しかった。
 手作りの弁当箱を持ってくる。丁寧に作られたおかずがたくさん詰め込まれていた。親の愛情ってこういうものなのだろうか。
 早起きしてまで、弁当を作る気にはなれない流希亜は売店の総菜パンや弁当の類を買って食べることが多い。もちろん、母親が作るはずはない。
 大き目な弁当箱にびっしり詰め込まれた彩あざやかな弁当は、きれいだ。
 じっと見てると、食べたい? と艶やかなたまごやきを口元に持ってくる。つい口を開けてしまった。反射的に食べてしまう。うまい、甘口だ。
「私が作った卵焼き、おいしいでしょ?」
「甘口の卵焼きは嫌いじゃないな」
「推しが目の前で喜んでるって信じられないなぁ」
 憧れのまなざしを向けられる。
 ただ、卵焼きを食べているだけの自分を見られても困るだけだ。
「死ぬまでにやりたいこと、考えてたんだけどさ」
「唐突に死ぬとか言うなよ」
「人は全員いずれ死ぬんだから」
「身も蓋もない言い方だな」
「私はいなくなる人間だから、ちゃんと考えたいの」
 ノートを出す。女子が持っていそうな感じの四つ葉のクローバーが表紙に描かれたかわいらしいノートだ。
「よくある話だけど、ここにやりたいことを書いて、かなえていこうかと思うんだ。かなえられたら、簡単な日記もここに書こうかと思うの」
 焼きそばパンを食べながらノートを見る。
 ノートの一番最初のページには羅列してやりたいことが書かれていた。
『推しとやりたいこと。海に行く。花火をする。映画に行く。水族館に行く。カフェでお茶をする。二人だけの秘密を持つ。推しの演技を観る』
「これは、まだ途中だよ。もっともっとやりたいことはあるんだ」
「それまでは死ねないな」
「そうだね。私、推しの演技を観たいと思ってる。また機会があったら趣味でもいいから、演劇とかやってほしいな」
「それはどうかな。もう、縁も切れてるから仕事で演技は難しいよ。演劇をやる予定もないしな。水沢さんこそ演技をやったら映えると思うけど」
 少し焦った様子で否定する。
「私には無理だよ」
「なんか、アイドルにいそうな顔してるし」
「実は、小学生時代、母親に勧められて少しアイドルまがいなことをやったこともあるんだ」
「まじか」
「でも、無理だったの」
「売れなかったってことか?」
「プライベートに支障が出るから、私は続けるのを辞めちゃったんだ」
「学校との両立とか?」
「子役のチョイ役をもらったことがあってね。エキストラみたいな仕事だったけど。流希亜くんと共演したんだよ」
「覚えてないな」
「そりゃそうだよね。主役と脇役中の脇役だもん」
「でも、今ちゃんと認識しておく。なんていうドラマだった?」
「学校のこどもたち」
「あぁ、あれね。もしかして、おまえ誰っていうセリフの相手だったり?」
 おぼろげな記憶が蘇る。黒髪のストレートの長い髪の毛。その女の子に話しかけるセリフがあった。
「転校してきたばかりですっていうセリフだけだけどね」
「俺たちは会話してたってことか」
 タイムリープしたかのような感じがする。
「推しのことは好きになれないんだろ。だったら、本当に恋をできる相手を探してみるとリアルが充実するんじゃないのか?」
「そうだね。出会えたらいいけど、恋ってしたことないし」
 ノートをおもむろに取り上げる。
『本当に恋する相手をみつける』
 ノートに持っていたペンで書きこんだ。
「ちょっと、勝手に何するのよ」
「これ、超重要じゃね?」
「私は推しがいれば心強いから特に恋愛なんて必要ないよ」
「俺は、人を好きにならない。おまえは推しは恋愛対象にはならないっていってただろ」
「つまり、私たちはウソ恋ってことでしょ。推しが恋してる姿を見てるだけで幸せなんだよ」
「今の俺にそれは無理だな」
 声は小さく他人には聞こえない程度の会話をする。
 ふと、彼女の腕にあざを見つける。
「そのアザ、どうしたんだ?」
 青いアザはぶつけたあとにできる、打ち身だと思われた。
「ぶつけちゃったの。私、ドジだから」
 彼女の顔が少しばかり曇ったのは気になった。でも、彼女は時折そのような顔をすることが度々あったので、そこまで気になるということはなかった。
 正直言えば、暗い部分を併せ持つのが水沢美羽という人間だと思えた。
 自分自身が暗いと自覚しているので、暗い部分に関しては違和感がなかった。
 明るいと言っても作った明るさの彼女と接することはそこまでの苦痛はなかった。
 たしかに、彼女は鈍臭そうな印象を受けることも多々あった。
 多分不器用なのだろう。器用ならば、既に引退して復帰する見込みのない久世流希亜の推し活を継続しているはずはない。彼女は青いのだと思う。大人びた外見とはうらはらに青春を夢見て、過去の子役に夢を馳せる。クラスメイトの女子よりもずっと青い。そんな印象を受けた。

「今日は一緒にアイスクリームを食べて帰ろう。やりたいことをノートに昨日色々書いてみたんだ」
「やりたいことは尽きないな」
 少しばかり無意識にため息が出た。今の孤立した流希亜には彼女のような人間と一緒にいることはメリットだ。しかし、これじゃあ、水沢美羽と付き合っているのと同じだ。時間が水沢美羽に吸い取られてしまうように思えた。でも、今何かやりたいことがあるわけでもない流希亜はそのまま促されるままに動く。 
「俺も死にたいよ」
 その言葉に美羽は怒る。
「あなたには演技を再開してほしいの。だから、死ぬなんて言わないで」
 目の前の人間が理由こそわからないが、死ぬかもしれないというタイムトラベラーだというのならば、いささか不謹慎な発言をしてしまった。申し訳ないような気持ちになる。流希亜にとって調子が狂う日々だった。それでも、誰かと一緒にいると時々襲う母親への嫌悪感や小学生時代のいじめの記憶や現在の状況を消すことができた。それは意外にもありがたい出来事だった。
「将来の夢も何もないんだ。役者をやりたいなんてこれっぽっちも思ってないよ」
「あなたには才能がある。だから、絶対に役者をやるべきだと思うの。世の中にはなりたくても才能がなくてできない人がたくさんいるんだよ」
「才能なんてないって」
「才能ってわかる人にはわかるんだよね」
 過大評価に戸惑いながら、昼食を食べ終える。いい感じに午後の授業の時間となる。
 ふと、子役時代に名刺をもらった事を思い出す。今でも芸能事務所の連絡先は生きているのだろうか。きっと変わっているに違いない。十年も前のことだ。でも、会社は移転していないだろう。
 放課後は約束通りアイスを食べに行く。それは当たり前の高校生カップルの日常。しかし、俺たちに関して言えば、全部ウソ。友達かどうかも怪しい。でも、とりあえず街中を歩く。多分、一人だったら街中を歩くことなくすぐに帰宅しただろう。
 縁というのはどういうわけかどこかでつながるものらしい偶然の中の必然。
「もしかして、久世流希亜くん?」
 みたことのある中年男性が声を掛けてきた。
「もしかして・・・・・・霧生(きりゅう)さん」
 霧生さんは子役時代にお世話になった芸能事務所社長で、若い頃は俳優志望だったらしい。たしかに、アラフォーだがイケメンだ。あの当時、結構若手だったが、今は四十歳くらいだろうか。
「ずっと君のことを心配してたんだよ。時々、君のお母さんから話しは聞いていたんだけどね。もしよければ、バイトしてみないか?」
「バイト?」
「一人暮らししてるって聞いたんだ。制作のバイトの人手が足りなくってな」
 一瞬役者のバイトかもしれないと期待した自分に苦笑いだ。
「また、芸能の世界に触れたくなったらここに連絡してくれ」
 名刺を渡される。
「もう、芸能の世界には未練はないです」
「そう言うと思った。でもさ、人の心を動かせる仕事って貴重だと思うんだ。俺は役者になりたかったけれど、なれなかった。才能がなかったんだ」
 少し残念そうな顔をする霧生さん。
「君は才能のある人間だ。羨ましいよ」
「ですよね!!」
 そこで急に会話に入ってきた水沢美羽。
「私、彼を推してる大ファンなんです」
「もしかして、昔、アイドルグループにいた……」
「水沢美羽です」
「じゃあ、水沢さんにも名刺渡しておくよ。もし、何か仕事があったらアルバイトしない?」
「私は才能ないんです」
「それは、俺が見て決めるよ。このビジュアル、もったいないと思うけどな」
 何人もの女性を口説いたであろう慣れた話し方をする。
 霧生さんは髪をなびかせ、手を振って去る。
 それから、ただアイスを食べて、どのアイスが美味しいとか好きだとか他愛のない話をして帰宅した。ウソ恋のような美羽との関係は迷惑なこともなく、日常の一部となりそうな感じがした。
 きっとアイスを食べるという項目には線が引かれて、達成した事項となったのだろう。

 正直美羽を知りたいという興味もなかった。でも、つながっていられる誰かがいることは、想像以上に心強かったように思う。
 それくらい孤立していたということだろう。
 毎日たわいのないメッセージを送りあっていた。

 時々彼女の体に青いアザを見つける。親の暴力だろうか。とても気になった。聞いても、彼女はいつもはぐらかす。どこかで転んだとかぶつけたという返事が返ってきた。

 季節は過ぎていつの間にか受験生の天王山と言われる夏休み直前となっていた。美羽はこの頃、休みがちだったので、家を担任に教えてもらい、宿題を届けることにした。多分、本人に家にいくというと嫌がるだろうと思ったからだ。いつも美味しそうなお弁当は美羽の手作りだということもわかった。なぜか家族の話を避けているように思えた。流希亜も同じように家族の話は避けていたから、それはそれで居心地はよかった。でも、アザの頻度が増えていることに不安を感じていた。美羽は芸能活動は母親の勧めだったと言っていたが、それ以外に塾に行っているとかプライベートな話をしなかった。家族構成も不明だ。

 ピンポーンとインターホンを鳴らす。古びたアパートの一室だった。そこには、想像以上に着古した私服姿の美羽がいた。髪の毛もずっと切っていないせいか、ぼさぼさした感じでとりあえず一つにまとめているという感じだった。

 玄関に出てきた美羽は、流希亜が来るとは思わなかったらしく、相当焦った様子だった。部屋の奥からはうなり声が聞こえる。母親だろうか。
「お母さん病気なの。今は、母子家庭だから、生活保護受けながら生活してるんだ」
 気まずいのか目を逸らす。
「精神的に不安定で、私が面倒見ないといけないから、学校行けなくて。こんな格好でごめん」
 自分の私服姿を恥ずかしそうにする。
「これ、届けに来たんだ」
「学校に取りに行ったのに」
「あの様子じゃ、学校来れないんじゃない?」

 美羽の母親がうずくまり、布団の上で寝込んでいる。
 うーとかあーという動物のような声を響かせる。
「こんなこと誰にも話せなくて……」
「この前会った霧生さんなら色々相談に乗ってくれると思うよ。彼は芸能人を育成するために寮を経営しているし、相談先も大人として助言してくれると思う」
 名刺の連絡先をスマホに入れていたおかげですんなり連絡がついた。
「ヤングケアラーっていうやつかな。児童虐待になるから、児童相談所にも連絡だ。すぐに学校の担任に相談しろ。あと、彼女は俺が拾ってやってもかまわない」

 昔からよく知っている大人のアドバイスは心強かった。
 実の親の事件の時も、霧生さんがだいぶ精神面で助けてくれた。
 信頼していたはずなのに、自分で距離を作っていた。
 それは、芸能界と距離を置くためだったのかもしれない。

「最初は普通のお母さんだったと思う。でも、私の芸能活動がうまくいかなくなって、私に自己投影していたお母さんは壊れていったの。その頃離婚が成立して、頼るのはお母さんしかいなかった。そのうち、幻覚が見えるとか幻聴が聴こえると時々言うようになったの」
「アザの原因もお母さんなのか?」
「お母さんを悪者にしたくなかったから言えなかった。暴力的になることもあって、最近では通っていた精神科にも行かなくなったの。行こうと言っても拒否された。お母さんは無職になって生活保護を受けることになったの。でも、心の病気って見えないから、障害認定することも難しかったみたい。どんどん悪化した。生活は心も体も苦しかった。罵声を浴びせられ、理不尽な要求を呑まなければいけない。私にはどうすることもできなかった。私は中学を卒業する頃にこの生活から抜け出したくて身を投げ出した。でも、なぜか今、人生をもう一度やり直しているみたい」
「タイムリープの話か……」
「私のほうが頭がおかしい人みたいだよね」
「信じるよ。君は悪くない。まずはお母さんを入院させよう」

 それから、中学校や児童相談所などが動いて、行政の介入と医療措置により、彼女のケアラー生活は一時的に無くなった。いつ退院できるかはわからないけれど、精神科のある病院へ強制的に入院措置をとることができた。そのアドバイスは霧生さんのおかげだった。彼は、自分自身、美羽と似たような経験をしたからこそ、芸能の世界で若い時からお金を稼ぐことのできる人材育成の手伝いをしているらしい。世の中には、お金に困って仕事を探している子どもが意外といるらしい。でも、中学生以下は働くことはできない。でも、芸能の世界は子どもでも仕事ができる。それは子どもの未来を広げるチャンスを与える仕事だと言っていた。

 その夏、美羽と一緒に花火大会に行った。
 その頃には美羽は霧生さんからエキストラなどの仕事や小さな会社の広告の仕事をもらえるようになっていた。中学生の間はとりあえず、近いということもあり、あのアパートから中学に通うらしい。
「高校に入ったら、霧生さんの事務所の寮に入ることになったの」
 わたがしをちぎりながら薄暗くなった空を見上げる。花火が打ちあがる。
 毎年同じ光景をみていても飽きないのが花火大会だ。
 赤、黄、青、緑、オレンジ……無数の色に囲まれる感覚。
 音に圧倒され、光に魅了される。
 人間は馬鹿なのかもしれない。毎年同じような光景に魅了されるなんて。
 美羽の私服姿は少しおしゃれを気にしているのか、最初に自宅で会ったときのような洗い腐れたえりの延びたシャツではなかった。
「この洋服、仕事のお金が入ったから買ってみたの。せっかく流希亜くんと花火大会に行くんだもん」
 少し恥ずかしそうにしながら、かわいいでしょ、というポーズをとる。
 メモを取り出し、『推しと花火大会に行く』という項目に線を引く。達成されたということらしい。その夏は死ぬまでにやりたいことをかなりこなしたように思う。かき氷を食べるとか、ひまわり畑でひまわりに囲まれるとか、とても健全なやりたいことを達成すると、ノートに線を引いた。
 その夏は二人で灯篭流しにも行った。亡くなった美和の魂を供養した。
 自分ばかりが楽しんでいて申し訳ないような気がしたから、美羽には内緒にして、一人で美和の墓参りにも行った。

「なんだか、俺たちばかり楽しんでいて申し訳ないよな」
 ふと言葉が出た。
「生きることの方が大変だと思うけどな。流希亜くんの人生は決して楽ではなかったでしょ」
 その通りだ。大変なことばかりが人生には待っている。

 秋になり、進路も希望調査というよりも決定になるころ――。

【どこの高校を受験する?】
【桜高校。勉強、はかどらないな】
【今更あがいても変わんないよ。模試でA判定なら余裕】
【念には念を。遠い高校に行きたいんだよな】
【なんかその気持ちはわかるよ】
 どうでもいい言葉を吐き出し受け止めてくれる人がいるという存在がどんなに心強いか、流希亜自身が思い知っていた。
 ただでさえ不安がいっぱいの受験期。緊張と不安と若干の春への期待で胸がいっぱいだった。
 正直中学校はどうでもよかった。
 あそこに居場所を求めようとも思わなかった。
 気持ちを吐き出す受け皿となってくれるMiwaの雨のアイコンは当たり前の存在となっていた。
 一日に何度も目にしていたから、生活の一部となっていた。
 中学には毎日は行かなかったけれど、冬の行事は一緒に楽しんだ。
 クリスマス、元朝参り、正月、バレンタイン……。 
 くもった窓に好きとかいてもらうとか、雪を楽しむという項目もあった。
 女子特有の楽しみ方にクスリと笑えることも多々あった。
 ノートに達成すると線が引いていく。

 流希亜はあえて自宅から遠い知り合いのいない高校を受験した。あえて女子が八割という高校を選んだ。というのも男友達とのつながりを絶ちたかったのと、女子が多ければ友達ができなくても浮いた存在にならないのではないかという期待もあった。友達を作りたくない前提で受験していた。でも、少しは二割の男子と仲良くなりたいと願う自分もいた。つまらない高校生活を進んで望んでいるわけではない。自宅からは自転車で駅に行き、電車とバスを乗り継いで通学する。名前は桜高校。元は女子高だったけれど、少子化のあおりで共学化されたらしい。伝統校であり、県内でも五本指に入る創立年数だ。最初こそ男子がたくさん入るのではという期待もあったのだが、実際は男子の希望者はそんなにおらず、結果的に二割程度は毎年なんとか男子が入学しているらしい。同じ中学からも女子で希望している人も毎年ほとんど聞いたことはなかった。通学の不便なことが一因らしい。
 合格発表の日、スマホで番号を確認する。

【桜高校に合格した】
 一番最初に報告したのは美羽だった。他に友達もいないし、親よりもずっと近い存在となっていた。
【おめでとう。私も桜高校に合格したよ】
 学業が優秀だったので、美羽は余裕で合格した。
 桜高校は、芸能活動やアルバイトに寛容な高校でもあった。
 雨のアイコンは見慣れていて、むしろ見ていると、落ち着くくらいになっていた。
 あえてひらがなでメッセージを入れるのが常だった。美和とつながっている自分と美羽とつながっている自分のどちらも取りこぼしたくないということが一番の理由だった。だから、メッセージを入れるときはいつもひらがなで「みわ」と呼んでいた。
 桜高校の校章は女子高らしい桜が満開なデザインで、校歌も女子高の名残をとても感じる。同窓会の名前も桜華会と書いてあり、華やかできれいな印象を受けた。これは、男子が入りづらいのもわかる。この高校には女子サッカー部があるにもかかわらず、男子サッカー部はないらしい。多分人数の関係で集まらないのだと思うのだが、フットサル同好会と書いてあった。圧倒的に部活も女子優先で男子が入っていいのかも一瞬躊躇する。
 美羽に感謝しているのは事実だった。
 存在が大きくなっているのも事実だった。
 もうすでに、日常の中に美羽がいる。
 急に朝起きて顔を洗わないのと同じくらい連絡をしないことに違和感があった。
 雨のアイコンも何百回と見たと思う。
 時々、辛い時は電話もした。
 世界の終わりを感じた崖っぷちに立っていた流希亜にとって、最後の砦となってくれた存在だった。
 もし、彼女がいなかったら世界の終わりを迎えていたかもしれない。
 今、流希亜はここにいなかったかもしれない。
【明日、卒業式の後に話したいことがある】
 メッセージを送る。
 ずっとつながっていたい。
 たとえそれがネット上だとしても。
 既読がついたにもかかわらず、返信に時間がかかっていた。いつも即効返信主義の美羽にしては珍しい。
 少ししてから、待ちわびた音が鳴る。
【わかった】
 思っていた以上に彼女とのやりとりは流希亜にとって生命線だった。
 思っていた以上に大切な人だったことに気づく。
 お礼がしたい。気持ちを伝えたい。
 美和の代わりになってくれた人。
 いつも優しい言葉を返してくれた人。
 いつのまにかかけがえのない存在になっていた。
 Miwaのアイコンに送信した愛の言葉は美和に送っているつもりだった。
 でも、いつの間にか美羽に送っていたのかもしれない。
 そんなことに今更気づく。
 いつも近くで支えてくれた人。
 世界の終わりだと思えた時に、傍にいてくれた人。
 もし、最初に言っていた死ぬという話が本当ならば――会えないなんて嫌だ。失いたくない。想像以上に強い感情が芽生えていた。
【俺、美羽のことが大切だ。だから、関係を失いたくない。美羽が好きだから】
 初めてメッセージ上で美羽に告白してしまった。半ば勢いだった。
 もし、卒業後に彼女が死んでしまったら、一生想いを届ける手段は無くなる。
 今、つながっているうちに気持ちを伝えよう。
 あんなに美和のことを好きだと言っていたのに、調子のいい男だと思われただろうと流希亜は自覚していた。

 翌日、春のはじまりを感じる空気を吸いながら、卒業式を迎えた。桜が舞い散る季節。
 式は滞りなく終了した。美羽はいない。多分屋上だ。流希亜は一目散に走る。
 息切れしながら、流希亜はいつも屋上と保健室が落ち着くと言っていた美羽のことを思う。彼女がもし、本当にタイムリープしたのならば、卒業式の後、自分で命を絶とうとした瞬間に後悔したことを思い出したのだろうと思った。たしかに、美羽は卒業式の日から来たと言っていたから。
 
「やっぱりここか。きっと今日、ここで君は死ぬと思ったんだ」
 息切れした流希亜の先には屋上の柵の外に立っている美羽がいた。
 ふりむく美羽。
「なんでわかったの?」
「保健室の先生が不在だから、健康診断書を勝手に見せてもらったんだ。君に持病はなかった。健康だと書かれているのを確認した。最初から君は自殺するつもりだったんだって気づいたんだ。君は親からひどい仕打ちを受けていた。タイムリープする前には俺とは友達ではなかった。つまり、親しい友達はいなかったんだろ」
「ありがとう。私は推しと幸せな時間が過ごせたことが満足だから」
 ちらりとこちらを向くが、屋上の下に視線を戻す美羽。
「でも、まだ君がやりとげていないことがあるんじゃないか? 本当に恋する相手をみつけるってノートに書いただろ」
「それは、あなたが勝手に書いたものじゃない」
「でも、俺は勝手に書いたけどそれをやり遂げて幸せになってほしいんだ」
「でも、私なんて好きになる人はいないと思うんだ」
「ここにいる」
 真剣な瞳で見つめる。恥ずかしいはずの言葉を目を逸らさずに言える自分がいることに驚く。春先、保健室でくすぶっていた自分ならば絶対に言えなかっただろう。なんて無謀な勇気をもってしまったのだろう。
「俺にとって君は必要な存在だ。だから、生きて」
「推しと恋愛は別物だから」
「もう、推し以上の友達だよ。君は大切な存在だから、ずっとそばにいて」
 戸惑う彼女と生きてほしいと願う。
 美羽の瞳からは涙が自然とあふれていた。
 頬を伝う涙をそっと柵越しに拭う。
 そして、柵の向こうに流希亜も飛び降りる。
 少しでも彼女のそばで支えたい。この一年、彼女が自分を支えてくれたように。
 ねがいを込める。
「生きて」
 彼女の体は華奢だ。折れてしまいそうで、少し心配だった。壊れないように、大切にそっと抱きしめる。
 風が頬を撫でる。涙が風に吹かれてどこかに流れていく。
 ノートを取り出し、『本当に恋する相手をみつける』という部分に線を引く。
「死ぬまでにしたいことじゃなくて、このノートはこれからやりたいことを書こう。これからは生きてやりたいことを二人で考えよう」
「でも、私、どうしたらいいの?」
「十八歳になったら結婚しよう。俺は、高校に入ったら芸能活動を再開する。役者として収入があれば、同年代の男よりも経済力はあると思うんだ。霧生さんにも連絡しているし、桜高校の許可ももらっている」
「私でいいの? というか芸能活動再開するの?」
「君じゃなければだめだ。芸能活動は再開するよ。君が怯えた日々を取り戻そう。もう青いアザなんて一生無縁になるようにさ」
「私は青いのかもしれないね。青春に憧れて、ただ、やりたいことをやった。推しだと言ってわがままを貫いた。アザができた時の対処の仕方も未熟だった」
「アザって治る過程があって、青から紫になって肌色になっていく。気持ちもすぐに治らなくても少しずつ治癒すると思うんだ。高校を卒業したら、結婚しよう」
「え……」
「もう決定事項だから、拒否権はない」
 こんなにも自分の意見が貫ける人間だっただろうか。
「俺たちはまだ子供かもしれない。でも、本当に子供じゃなくて、大人になりかけた人間だ。できないこともあるかもしれないけど、できることもたくさんある。今、できることを精一杯やろう。俺はもう大切な人を失いたくない」

 卒業証書を桜舞う空に掲げて二人は生きる道を選ぶ。それがどんなに前途多難だとしても、きっと二人ならやっていけると思うから。

「これからは今日が世界の始まりだと思うようにするよ」
「どういう意味?」
「中学校を卒業して、高校に入学して新しい世界が始まる。今日から俺たちは変われるかもしれない」
「変われないかもしれないよ」
 否定的な美羽。
「そんなのわかんないよ。でも、どこかでみんなどうせ裏表があって本当に信じられないっていうのは身をもって感じてる。でも、高校生活への期待がゼロではないんだよな。俺は、自殺に追い込んだ殺人犯だって全生徒に嫌われてしまった。あんなに慕ってくれていた奴らも手のひらをかえしたかのように散っていった。若干十五歳で、人間の本質を身をもって感じたのは辛かった。受験期。俺が世界が終わると思えた時に、いつもそばで見守ってくれていたのが美羽だった。いつも身近で安心できた。世界とつながる手段が美羽だけだったんだ。世界が終わってもいいって思っていたのに、時間が経つとそんなこと思えなくなっていたりするもんだな」
「今、見えている世界は永遠じゃないと思うの。大学や専門学校に進学するかもしれないし、就職するかもしれない。私たちを取り巻く世界も人もきっとずっと変化するんだと思う」
「今、もし、暗い世界にいたとしても、それが永遠じゃないってことなんだな」
 お互いに自然と手をつなぐ。
「気持ちの持ちようで世界は変わるのかもしれないな。女子が多い高校で男友達できないかもしれないけれど、少ない男子で団結できるかもしれない」

 世界を終わらせることは簡単なことなのかもしれない。
 終わらせないことのほうが難しいのかもしれない。
 少し待てば世界が変わって見えるかもしれない。

 今までの自分から卒業しよう。
 流希亜が芸能活動を再開するきっかけになったのは美羽の言葉だった。
 でも、また再開したいと願っていた自分がいたことに気づかされたというほうが正しいのかもしれない。卒業は人生の中でつきまとうものかもしれない。
 でも、自分の意志をきっちり持っていれば、二人ならば――これから起こる辛い現実にも立ち向かえると思うんだ。

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