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「じゃーん!」

 昼休み、お弁当を食べ終わった後、机の上にドスンと置かれたのはポーチ。まるまるとしたそのフォルムから、中身がぎっしり詰まっているのが見て取れるものの、その意図が読めない私は、目の前の千尋と由香を交互に見つめる。

 すると千尋が目を輝かせて、ポーチからスティック状のものをいくつか取り出してみせた。

「真樹ちゃんにメイクしようと思って、メイク道具持ってきたの!」

(え……、嘘でしょ)

 私の顔から血の気が引いていく。正直他の生徒の目がある中でメイクされて、そのまま午後の授業を過ごすとか、私にとって拷問以外の何ものでもない。

「えっ、と……」

 どうにか回避したい私が、何かいい言い訳はないかと頭をフル回転させている間に、由香と千尋はポーチの中を物色し始める。

「まずは、前髪留めてー」

 言いながら由香がヘアクリップで私の髪をささっと留める。拓けた視界には、嬉しそうな顔の由香と千尋が見えて私は苦しくなった。
 二人が好意でしてくれることだから、出来れば無下にはしたくない気持ちも当然ある。だけど、それ以上に煩わしい気持ちが上回っていた。

「下地にコレ薄く伸ばす?」
「そうだね、真樹ちゃん色白いからいいと思うー」

(でも……、苦手なものは苦手だから、出来ることなら逃げたい……!)

「――佐藤さーん、友だちが呼んでるー」

 まさしく救いの手が差し伸べられ、私はクリップを外して「ごめん」と席を立つ。
 しかし、助かった……と安心したのもつかの間、廊下で私を待っていたのは、啓子だった。
 それもそのはず、この学校でクラスメイト以外に友だちは啓子しかいないのだから。

「お待たせ、どうしたの」
「あ、ごめん、邪魔しちゃった?」
「ううん、全然大丈夫」

 むしろ助かった、という言葉はかろうじて飲み込む。

「あのさ、化学の教科書貸してくれない?」
「いいよ、ちょっと待ってて」

 再度机に戻った私は、出しっぱなしだったお弁当箱を鞄に閉まってから、化学の教科書を取り出して、まだかまだかと私を待っている由香と千尋に断りを入れた。

「二人ともごめん、友だちが話があるって言うから、ちょっと話してくるね」
「おっけー!」
「メイクはまた今度ね」

 顔の前でごめんねのポーズをとって、私はその場から逃れることに成功した。
 二人に申し訳ないと思いながらも、心底安堵する私。それと同時に、なんの関係のない啓子まで使って逃れようとする自分に少なからず嫌悪感が湧いた。

「ちょっと、あっち行こ」
「え? ちょっと、真樹?」

 困惑する啓子の背中を押して、私は教室から見えないところまで移動する。

「いいの? 今なんかやってなかった?」
「いいのいいの。はい、教科書」
「ありがとう、助かる」
「今日はもう化学ないから、返すのは明日でいいよ。私の下足箱に入れといてくれてもいいし」
「あ……うん、わかった……」

 もう教科書は渡したんだから教室に戻ればいいのに、啓子はその場から動こうとしない。沈黙が流れて、気まずい空気になる。

「「あ、」」

 同時に声を発してしまったので、「何?」と促した。

「えっと……、やっぱいいや。真樹は、なんだった?」
「あ、あぁ……」

(どうしよう……)

 私の脳裡には、一組でのいじめの話が浮かんでいた。

『いじめがあるって、ホント?』
『いじめられてるの、啓子じゃないよね?』
『友だちとは上手くいってる?』

 思いついた言葉は、どれも不正解な気がする。何をどう聞けばいいのか、ここにきて分からなくなった私は、少し悩んだ挙句「やだ、何言おうとしたんだっけな、ど忘れちゃった」と笑ってごまかした。
 じゃぁまたね、と別れを告げて、私はその足でそのまま保健室へと向かった。

「失礼しまーす」

 保健室のドアを開けると、振り向いた紗百合先生と目が合う。「また来たのかこいつ」と先生の目が訴えていたけどもう慣れっこだ。

「そんな顔しないでよ、紗百合せんせー。ちょっとだけ避難させて」
「え、どんな顔してた、私」
「また来たのかよ、って顔」
「あら失礼」

 悪びれた様子もなく肩をすくめる紗百合先生に構わず、開いている椅子に腰掛ける。背もたれに体を預けると、どっと疲れが押し寄せてきた。

(はぁ、しんど……)

 啓子はともかく、由香と千尋とは学校では必ず顔を合わせる関係だから、なんとか上手くあしらえないものだろうかと頭を悩ませる。
 輪を乱すようなことは極力避けたいけれど、かと言ってへらへら笑って全てを許容できるかというとそうではない。そんな自分が酷く中途半端に感じられた。

『真樹は器用でいいよね』

 中学の頃、周りから言われることが多かった言葉がふと思い出される。確かに勉強もだし、人付き合いもなんでも割と卒なくこなしてきた私は、周りからは「器用」だと言われ、時には羨望の目を向けられてきた。

 しかし、それが私にとって誉め言葉になったことは一度もない。
 裏を返せば、全てがそこそこ(・・・・)なだけ。

 昔からそうだ。

 習い事をやっても長続きしないし、何をやっても人並で中途半端なまま。
 この先の、自分の姿が見えなかった。

「疲れたー」
「お疲れさま。あ、そうだ、ほら、ネットゲームの事故の話!」

 今度は私が「またか」と思う番だった。クラスメイトの間でもその話題は上がったし、朝のHRで担任からも注意喚起されていた。

「あぁ、それね」

 正直なところ、他人事にしか思っていなかった。気を付けろと言われたって対策があるわけでもないし、危ないからといってやめる気は毛頭ない。そんな不確定要素に妨害されるのなんかごめんだ。

「朝の職員会議で聞いた話だと、他の高校の生徒でも意識不明になった子が居るみたい」
「ふーん」
「ふーんじゃなくて、原因が分かるまで控えたほうがいいわよ」
「でも、意識不明がゲームと関係あるって決まったわけじゃないんでしょ?」
「そうだけど、何かあってからじゃ遅いじゃない」

(あー、ここでも説教)

 心休まるところはないのか、と私は紗百合先生の追及から逃れるように窓の外に目を向けた。外は嫌味なくらい青々とした夏空をしていて、私の心とは対照的だ。

「あなたたちくらいの年頃は、何言ってもダメな時はダメってわかってるんだけど、それでも大人は言わなくちゃいけないのよ」

 私の心の内を読んだかのように、紗百合先生は言う。顔を見なくても苦笑いしているのが声音でわかった。

「紗百合先生、年寄り臭いよ」
「少なくともあなたたちよりは年寄りだからね」
「ねぇ、明日からここでお昼食べてもいい?」

 断られるんだろうな、と恐る恐る紗百合先生へと視線を移すと、彼女は優しい笑顔を浮かべていた。

「んー、いいけど、毎日は無理よ」
「ホント? じゃぁ明日来ちゃうよ私」

 ――ガラッ

 ノックも声かけもなくドアが開かれる。弾かれたように二人が振り向いた先には、男子生徒が一人。上履きの色から同じ学年だとわかるが、私の知らない生徒だった。
 視線を感じて、見上げると男子生徒と目が合ったが、軽く会釈だけして私は視線を外した。

「あら、山居くん」
「先生、ちょっと寝かして」
「あのねぇー、ここはサボり魔たちの憩いの場じゃないのよ?」
 
 紗百合先生のいう「サボり魔たち」に私も含まれているのは百も承知だが、そこは気づかない振りを決め込んだ。山居と呼ばれた彼に紗百合先生は「そういえば」と続ける。

「山居くんもユートピアってゲームやってたわよね?」
「あー、先生、もうその話聞き飽きたー」

 山居はそう言って、私と紗百合先生との間を素知らぬ顔で通り過ぎ、ベッドのカーテンの向こうに消えた。

「まったく……」

 肩をすくめてこちらを見る彼女に、同じく肩をすくめてみせた私だった。