*

(温かくて、心が落ち着く……)

 手に柔らかなぬくもりを感じて、私の意識がすーっと浮上していく。それは、心地よい目覚めだった。

 白い無機質な天井が目に入り、見慣れないそれに私は戸惑った。
 体を起こそうと思ったら、左腕にずきりと痛みが走り顔をしかめる。見れば、腕から管が伸び、その先には液体の入ったビニールの袋――点滴だ。

(病院……?)

 何がどうなっているのか、頭が混乱する。直前の記憶が蘇り、私は上半身を起こそうと試みるも、右腕が思うように動かずに起き上がれなかった。

「啓子……」

 見れば、ベッド脇で啓子が私の右手を握って眠っていた。

(目を覚ましたんだね、よかった……)

 それにしても、どういうことかと私は頭をひねる。
 病院で眠っていたのは、啓子のはずなのに。

「――ん……っ、ま、真樹⁉」
「うわっ」

 状況把握に考え込んでいるうちに目を覚ました啓子が私を見て時を止めた。見開かれた目は腫れあがり充血していて頬には涙が乾いた跡までついていた。
 そして、ややして彼女の目から涙が零れ落ちる。

「よかったぁ……」
「な、何が」
「二週間も眠ってたんだよ」
「に、二週間⁉」

 啓子は「話はあと」とナースコールで担当医を呼んでから、手際よく私の母親に連絡をした。そして、血相を変えて駆けつけた母親と父親の顔に、事の重大さを知ることになる。

 啓子の言う通り、私は二週間もの間意識不明に陥っていたらしい。
 VRゴーグルを装着したまま自室の机に突っ伏して眠っていた所を母親が発見したという。そう、啓子と全く同じ状況だった。
 だけど、私が意識を失ったその二日後に、啓子とそれまで眠り続けていた意識不明者が次々に意識を取り戻した。
 にもかかわらず、私だけが眠り続けて目を覚まさなかったものだから、啓子も両親も周りもひどく困惑したと聞かされた。

「一緒に光の中に入ったのに、真樹だけ目を覚まさないんだもん……本当に生きた心地がしなかったんだから」

 一通りの検査と、両親からの説教を受け終えてひと段落した私は、啓子と二人で静かな病室で話していた。
 啓子は、責任を感じて毎日私のそばにいてくれたと母から聞いた。啓子の言うように、啓子を説得して一緒に光に飛び込んだことまでは覚えているけど、その後どうなったのか記憶がなかった。

 私が意識不明になった二日後に、啓子や他の人が目を覚ましたということは、少なくとも裏ミッションに入ってユートピアを破壊するまでにこちらでは丸二日が経っていたことになるのだから驚きだ。
 あの日のことは怒涛の展開過ぎて、私の中では本当に一瞬の出来事のように感じていたから。

「まー、これでおあいこじゃない? 私だって、啓子が意識失ったって聞いてどれだけショックを受けたか知らないでしょ」

 頬を膨らませる啓子にべーっと舌をだしてやった。啓子は「それはごめん」としゅんと萎れた。

「あ、ねぇ、どうやってユートピアで私のアカウント見つけたの?」

 大福が啓子だと知って、気になっていたことを私は訊ねた。そうすれば啓子は「覚えてないの?」と今度は怪訝な顔を見せる。

「ネットのアカウントは、実家で飼ってた猫の名前って教えてくれたじゃない」
「あっ、そうか、漱石マドモアゼルか!」

 漱石マドモアゼルというおかしな名前は、母方の家で飼っていた猫のフルネーム。名付け親はおばあちゃん。ユートピアでのアカウント名もそのままだったけど、長いからみんなには「漱石」と呼んでもらっていたためすっかり忘れていた。

「そんな名前のユーザーなかなかいないから、すぐ見つかった。もー、そんなんじゃすぐ身バレしちゃうよ?」
「家族以外で漱石のフルネームを知ってるのは啓子だけだから大丈夫。――言ったでしょ、啓子のいない世界なんて考えられないって」

 啓子は、私の言葉に目を丸くした後「真樹には敵わないやー」と大きく伸びをした。

「真樹は、やっぱり私のヒーローだよ」
「ふふ、ヒーロー? 私そんなかっこよくないって」

(一人だけ二週間も眠りこけてた私は、どちらかと言えばダサいと思う)

 なのに、啓子は首を横に振る。

「だって、真樹は私を二度も救ってくれた。ううん、もっとたくさん、数えきれないくらい私は真樹に支えられてきたよ。本当にありがとう。――これからも、よろしくね」

 啓子に見放されたと思った時、私はずっと誰かに必要とされたかったんだと自分の心の奥底でくすぶる願いに気が付いた。そして、啓子に必要とされなかったことに深く傷ついた。

(こんな私でも、必要としてくれる人がいる……)

 それだけで、胸の奥が温かくなる。「そのままでいいんだよ」と背中を押されているような、そんな安心感に、私の顔は自然とほころんだ。

「私だって……、啓子がいたから今の私があるんだよ。ありがとう」と何度も頷きながら言った。

 同時に、これから先も啓子のそばで支えたいと強く思った。ユートピアのことは終わったけれど、啓子のクラスのいじめについてはなに一つ解決していないから。

「二学期からは一緒に登下校してお昼も食べようよ、そのいじめられてる子もよければ一緒に」

 クラスも違う私に、できることなんてたかが知れててちっぽけで取るに足らないことだけど、やれることはやりたい。

「うん、ありがとう。聞いてみるよ」

 そろそろ帰るね、と啓子が席を立った時、
 
 ――コンコン

 とノックの音が響いた。

「真樹、クラスの子が来てくれたわよ」
「はーい」

 母の声に返事をするや否や、開いたドアから息を切らした由香と千尋が顔を覗かせた。

「真樹ちゃんっ!」
「よ、良かったあ……!」
「二人とも……」
「じゃぁ、私はお先に」と手を振る啓子に私は「また連絡するから」と告げる。頷く彼女の笑顔に、私は少しだけ安心することができた。

「由香ちゃんも千尋ちゃんも、本当にありがとう」
「ホント、心配だったんだから!」
「でも、目が覚めてよかった……」

 母親から、二人も毎日のようにお見舞いに来ては眠る私に声をかけてくれていたと聞いていた私は、どことなくそれを聞いてもしっくり来なかった。だけど、こうして切羽詰まった二人を目の前にして、心底心配してくれていたのが伝わってきて、私は不覚にも涙がにじむ。
 表面でしか付き合ってこなかった私のことを、こんなにも心配してくれていたなんて。
 切ろうと思えば切れた私との関係を、この二人はつないでくれた。そのことに、嬉しさがこみあげてくる。

「心配かけて、ごめんね」
「心配するのは当たり前でしょ、私たち友達なんだから」

 そう言った由香の目も心なしか潤んでいた。

「そうだよ……、友達でしょ、私たち……違った?」
「違わない!」

 不安そうな顔で私を見つめる千尋に、私は首を振って否定する。

「よかったね千尋。真樹ちゃん、千尋ってば、真樹ちゃんともっと仲良くなるにはどうすればいいかなーってずっと悩んでたんだよ?」
「えっ」

(なにそれすごい嬉しい……)

「ちょっと由香、そんなこと言わないでよっ」

 そう言って、千尋は頬を赤めながら由香の肩を叩く。由香は「だってホントのことじゃん」と千尋の肩を押し返した。

「ほら、前に真樹ちゃんにメイクしようとしたのも千尋が言い出したんだよ。共通の話題見つけたくて」
「そうだったの……?」
「真樹ちゃん聞き役ばかりで自分のことあまり話さないから、何か一つでも話題にならないかなって思って……」
「ごめん、私メイクとかファッションには疎くて……」
「なんとなくそうかなとは思ったんだけど……、メイクしてみれば興味もってくれるかもって淡い期待を抱いて強行突破しちゃいましたー」

(そんな思いがあったなんて……)

 あの時は、メイクをしない私を馬鹿にしてるのかもしれないとすら思っていた。
 その私の思い込みと千尋の意図とのあまりのギャップに驚きを通り越して呆れてしまった。自分の浅はかさに。

 私は、ずっと自分は人の「悪意」に傷つくユグドラシルと同じだと思っていた。
 周りが私を勝手に決めつけることを、人の「悪意」だと受け取ってイラついて、ままならない毎日に、嫌気がさして諦めて、悲観して、退屈してネットの世界に逃げ込んだ。
 ユートピアでの時間が、私を浄化してくれる唯一の存在だと思い込んでいた。
 だけど、ユートピアで知り合った気の置けない仲だと思っていたつかさとナオミは、あっという間に私から離れていった。ネットの世界なんてそんなものだと頭ではわかっていながらも、つながりの薄さにショックを受けたばかりだ。

 それに比べて、千尋と由香はいつだって私を気にかけてくれていたのに、と今さらになって気づいた。いつも眠たそうな私を気遣って、先生への言付けだって嫌な顔一つせずに引き受けてくれていた。
 「決めつけられた」と勝手に傷ついて、自分の気持ちも伝えようとせず、表面だけで相手を決めつけて一線を引いていたのは、私の方だった。
 どうしてそんなことにも気づけなかったんだろう。

(私、なんにも見えてなかった)

 距離を取って上辺だけの付き合いしかしてこなかった私でも、切り捨てることなくつながっていてくれた由香と千尋に、申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいになった。

「あの時はごめんね」と謝る千尋に、私は目一杯首を横に振る。一度緩んだ涙腺からは、涙がつぎつぎに溢れ出た。
「私の方こそ、ごめん。千尋ちゃんも由香ちゃんも、こんな私と友達でいてくれてありがとう……っ」

 病室内に聞こえるのは、鼻をすする音が三人分。そのシュールな雰囲気に、私たちは互いに見合って噴き出してしまった。

「ふっ」
「はは、何これ。私らアオハルじゃない?」

 由香が笑い、私と千尋が「本当だね」と同意する。涙を拭いて、真っ赤な目で私たちは笑い合った。

 不思議なくらい、心が軽かった。
 あんなに、暗くて重たかった心が、嘘みたいに清々しかった。
 蓋を開けてしまえば、こんなにも簡単であっけない。
 けれど、辿ってきた道のりを振り返れば、ずいぶんと遠回りをしてしまったなと思わずにはいられない。
 だとしても、これがあの時の私にとっては最短ルートで最善だったんだよと、軽くなった心が私を許してくれているようだった。