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 ふと、ユートピアを見ると、半分以上が消え去っていた。私たちに残された時間は多くない。
 だけど、啓子の話を聞かない限り、連れ戻すのは難しいだろうと、私は固唾を飲んでじっと待つ。手を伸ばせば触れられる距離にいないと、どこか遠くに行ってしまいそうで落ち着かなくて、私は啓子に一歩近寄った。

『最初はみんな仲よくて楽しかったんだけど……、そのうちグループのリーダー格の子が一人の女子を無視するようになったの。いじめを止めることはおろか、グループからも抜け出せない意気地なしな自分が嫌で嫌で……その子もどんどん塞いでいってるのが見て取れて……、まるで……、まるで中学の時の自分を見ているようでもう耐えられなかった』

 私はぽつりぽつりと思いを言葉にする啓子の話に、「うん、うん」と相槌を打つ。瞬きをした拍子に、啓子のまつ毛の先から涙が弾けた。私は、その様子を静かに見つめていることしかできない。

『私……、真樹になりたかった――』
「え?」
『中学の時、真樹がいじめられてる私をずっと支えてくれたように、私もその子を支えてあげたかった……。――なのに、私には出来なかった。でもだからって真樹に頼るのは違う気がしてずっと距離を取ってたの。会ったらまた甘えてしまいそうだったから』

(啓子がそんな風に思っていたなんて……)

 思いもよらない言葉が啓子の口から零れ、私は言葉が出なかった。

『だから、まさか真樹のことをそんな風に傷つけてたなんて、気づけなかった……。むしろいつも迷惑かけて助けてもらってばっかで、要らないのは私の方だってずっと思ってたから……』
「迷惑って何よ……」
『高校だって私のために偏差値落してまで一緒に来てくれたじゃない』
「そんなの……私が自分で選んだんだことだよ」
『いい加減独り立ちしなきゃって思ってたのに、私一人じゃなんにもできなかった。真樹に会いに行ったのは……、私に何ができるか相談しようとしただけだから、こうなったのは真樹のせいじゃない』

(そんなの、嘘に決まってる)

『全部、私が……弱いせいだ……』
「違うよ、悪いのはいじめをする人達だよ」

 心底辟易する。どうして他人を貶めるのか……。自分が優位に立って快感を味わいたいがために対象をいじめるだけでなく、その周りの人まで傷つけるなんて最低だ。他人を傷つけていい理由なんて、どこにもないのに。

『ここに居る時だけが私の唯一の救いだった。だから、ある日突然届いた裏ミッションへの招待状に飛んで喜んだ』

 マリスが送ったんだ、と直観的に思った。

「……そこには、何て?」
『現実世界にさよならすれば、ずっとユートピアで生きれるって書いてあった。裏ミッションクリアで、永住権が手に入るって』

 啓子は『そんな話を鵜呑みにするなんて、馬鹿みたいでしょ』と自嘲する。私はちっとも笑えない。だって、それに縋りたくなるくらい、追い詰められていたってことだから。

『でもね、ここは私にとって本当にユートピアだったの。大好きな真樹と仲間と一緒に過ごせて、自由で、誰からも悪意を向けられることもなかったから。……だから、そう思って逃げてきたのに……』
「啓子」
『真樹……、私、やっぱり、死にたくないよ』

 ぽろぽろと涙が零れていく。まるで赤子のようにくしゃくしゃになった顔を、啓子は両手で覆った。それまで透けて見えていた啓子の姿が、大福のアバターの向こうにはっきりと見えた。

『真樹が、必死に私を探してくれてる姿を見て、本当に嬉しかったんだよ……私まだ生きてていいのかなって思えて……そしたらだんだん死にたくないって気持ちが強くなって、真樹たちと一緒に帰ろうと思ったの……。でも、現実世界(あっち)に帰ったら……、現実が……、あの苦しくて辛い現実が待ってると思うと怖くて……、ここから動けなくなっちゃった……』

 私は、体を丸めてむせび泣く啓子を見ていられなくて、彼女を抱きしめた。背中に手を回して擦れば、しっかりと体温を感じられる。

 裏ミッションの途中から、私はもうコントローラーを握り椅子に座る現実世界の自分を感じられなくなっていた。ユグドラシルの欠片を吸い取られた後も、その感覚はなくなることなく私はこのアバターと同化したままだ。
 そのことに少なからず不安を抱いてはいたものの、啓子の呼吸とぬくもりを体に感じられる今はほっとできた。

(よかった……。啓子が生きたいと願ってくれて……)

 私の無謀な行動も、啓子に少しでも生きる希望を与えてくれたならお安い御用だと思えた。

「うん……、辛いね、怖いね……。私も、啓子がそんな風に考えてたなんて知らなくて、突き放されたって勝手に勘違いして……。助けるどころか、更に追い詰めるようなことしてごめん。許して欲しいなんて、都合のいいことは言わない。だけどお願い、一緒に現実世界(あっち)に帰ろ?」

 体を離して啓子の顔を覗き込む。その瞳に戸惑いの色を浮かべ『でも……』と躊躇う啓子の両手を私は包み込んだ。

「啓子。もう一度、私にチャンスを頂戴……。そばで啓子を支えたいの。私……、啓子と一緒に現実世界(あっち)で生きたいよ! 啓子がいない世界なんて考えられない!」

 もう、二度と同じ過ちは犯したくない。啓子に私の気持ちが伝わるように、握りしめた手に更に力を込めて私は言う。

「一緒に帰ろう、啓子……。――私たちのユートピアは、ここじゃないよ」

 私の手を、啓子はしっかりと握り返した。その力強さに、ずっと張り詰めていた緊張が私の体から解けていくのがわかった。