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 右手をゆっくりと丸いクリスタルめがけて伸ばせば、両隣から大福と猫太の手がそれぞれ伸びてきて私の手に添えられる。私の心も二人の手のぬくもりにじんわりと包まれていくようで、ひどく安心できた。
 二人の手を重ねたまま、私はクリスタルをそっと包み込む。

 ひんやりとしたそれは、次第に熱を帯び光を放ち始め、あっという間に視界が光で覆われた。
 私の体の中の痛みが次第に薄れていくのがわかった。
 まるで、クリスタルに吸収されていくような、体のエネルギーが吸い込まれていくような感じだった。

 シュウウウウン……。

 私の中の痛みが消え、そのことに寂しさを覚え始めた頃、音を立ててクリスタルが光を失う。

「これで、終わり?」
『なのかな……』

 あまりのあっけなさに、私は猫太と大福と顔を見合わせた。二人とも私と同じできょとんと首をかしげる。

『破壊のコマンドは無事に実行された。――見てみよ、ユートピア(ここ)が消え始めたであろう。これでもうマリスは手も足も出せん。私と一緒に消えていくだけだ』

 ユグドラシルの言う通り、眼下に広がるユートピアの端から少しずつ電子の粒子となって消え始めていた。

『あの光は?』

 猫太の声とほぼ同時に、ユグドラシルの生い茂る葉から蛍のような光の玉が空に飛びだしているのが視界に入った。それらは、しばらくの間ほわほわと空高く浮遊しては消えていっているようだ。

『あの無数の光は今この世界にいたプレイヤーたちだ。このまま空に消えて現実世界(あちら)に帰っていくだろう』

(よかった)

 どうにか最悪の事態は免れたようで、ほっと胸をなでおろす一方で、この世界の消滅を目の当たりにして胸が痛い。
 これは、ユグドラシルの痛みではなく、私の痛みだ。

 ユグドラシルと、ユートピアとの別れが近づいている。
 さっきまで実感が伴わなかったことが今目の前で起こり、現実を突きつけられてしまった。

『さぁ、この世界が消える前におぬしたちも帰るがよい。前に見える光の中へ行け』
「ユグドラシルは……」

 聞いてどうすると言うのか。馬鹿げた質問に、私は口をつぐむ。

『私はマリスの最後を見届けてから、一人消え去るのを待つだけだ』
「そう……」
『おぬしの探し人もじきにあちらに帰るだろうよ』
「ほ、本当⁉」
『……まずは、おぬしたちが無事に帰ることじゃな。娘よ、手伝ってくれた礼だ、これでよく見える(・・・・・)だろう。――では、さらばだ』
「待って、ユグドラシルっ!」

 訪れた無音が、ユグドラシルが去ったことを知らせる。

「……ありがとう」

 私のつぶやきも、光の中に溶けていった。きっとユグドラシルに届いてると信じて。

『礼って……よく見えるってなんだ?』
「ホント、なんだろうね」

 そう言って首を傾げる猫太を見返した私は、「え?」と一瞬動きが止まる。

『どした?』

 と顔を覗き込む猫太をスルーして、今度は視線を反対側の大福に向けて、また私は固まる。自分の目がおかしくなったのか、と私は手で目をこすり、もう一度二人を見るが、さっきと何も変わらなかった。
 そんなおかしな挙動の私を見て、大福も『どうかした?』と首を傾げる。

「……う、ううん……なんでもない。なんだったんだろうね?」

 私は、胸を手で押さえながらそうごまかした。バックンバックンと拍動する心臓を少しでも鎮めながら、心の中だけでユグドラシルにお礼を言った。

(ユグドラシルのおかげでよく見えた(・・・・・)よ、ありがとう)

『これで一件落着ってやつかー。なんか怒涛の展開だったな」
「ホント……もう何がなんだか……」

(よくわからないままだったけど、無事に解決したんだよね……)

 と思いかけて、私は首を振る。

 ――まずは、おぬしたちが無事に帰ることじゃな。

(そうだ、帰ってこの目で確かめるまで、気を抜いちゃだめだ)

『さぁ、俺らも帰ろう』
「そうだね、このまま私たちが消えちゃったらシャレにならないしね」

 私たちは一歩を踏み出し、前方に見えていたユグドラシルが言った「光」の方へ向かう。空の中、一か所だけ太陽のように光り輝くところがあった。穴のような、ひずみのようなそれを目指して私たちは歩く。

「なんか、落っこちそうで怖い」
『足が竦むよな』

 空の上だというのにちゃんと地面があって足には感触があるのが不思議だった。

「意外に近かったね」

 遠近感がよくわからない中、あっという間に光の所に辿りついた私は、ふと隣に大福が居ないことに気づいて振り向いた。

「大福?」

 数歩後ろで、大福は立ち尽くしていた。俯いていて、表情は読み取れないけれど、何かよくない雰囲気を醸し出していることだけはわかった。

『どーしたんだよ、行くぞ』
『二人は先に行ってて』
『は? 何言ってんだお前。馬鹿なこと言ってないで、早く来いよ。消えちまうぞ』
「そうだよ、もうここだっていつ消えちゃうかわからないんだよ!」

 私は、駆け足で戻って大福の手首を掴む。

『放っといて!』

 掴んだ手は、パシンと振り払われてしまった。

『僕は、ここに残る』
「大福……それがどういう意味か、わかって言ってる……?」

 私の問いに、大福は頷いた。

『嘘だろおい……、冗談は寝て言え!』

 ほら行くぞ、と今度は猫太が大福に向かっていき無理やり引っ張ろうとするも、大福は数歩下がってその手を交わした。

『お、おい、お前っ、ふざけんなよ!』
「本気なの……?」

 私の問いかけに、大福はもう一度こくりと頷いてみせた。俯いて、顔を逸らして、視線は合わない。その横顔は、酷く苦痛に歪んで見えた。

「――わかった。じゃぁ、私と猫太は先に行くね」
『おい、漱石! お前本気かよ! 大福のこと置いてくのか⁉』
「だって、それを大福が望んでるんだし。それに、早くしないと私たちだって危ないよ」
『そりゃそうだけどよ……』
「ほら、行くよ」と私は猫太の背中を両手で押して、大福に背を向ける。そして光の目の前まで来た私は、

『お、おい、漱石、やっぱり置いていけねぇよ!』

 と振り返る猫太の背中を両手で思いっきり突き飛ばした。

『うわっ! あっ、お、おいっ、漱石っ――』
「ごめん猫太。ありがとう!」

 あっという間に、猫太は光の中に消えた。