「疲れちゃうよね」
啓子に初めて声をかけられたのは、中学二年生の春が終わる頃だった。トイレで手を洗っていたところに、隣から突然投げかけられた私は「え」と振り向く。心の声を聞かれたのかと思ってびっくりした。
トイレに来る前、教室で女子たちと騒いでいた輪の中に私と啓子も居たのだ。好きなアイドルやTikTokの人気アカウントがどーしたこーしたと、興味のない話を延々と聞かされていてくたびれた私はトイレに逃げ込んできたというわけだ。
「岩田さん……も?」
この時は、一学期が始まったばかりで、グループというグループがまだ出来上がっていない時期で、啓子と一対一で話したのはこれが初めてだった。啓子は、眉尻を下げて苦笑を浮かべ、こくんと頷いた。
「ってか、顔に出てた?」
「なんとなく、そんな感じかなぁ程度だけどね」
「あちゃー、修行が足りないね」
「佐藤さんは、」
「真樹でいいよ」
「じゃぁ、私のことも啓子で」
啓子も、考え方が私と似ているところがあって、いわゆる普通の女子の会話に面白さを見出せないのだと言う。流行りに疎くて、とにかく飾り気のないその姿に好感を覚えた私は、それから啓子と一緒にいる時間が増えていった。
特に共通の趣味があるわけでもなかった私たちだったけど、啓子と一緒にいる時は無理して顔に笑顔の仮面を貼り付ける必要もなくて、自然体でいられたんだ。
とても、心地よかった。
だから、三年生になってクラスが別れてしまって、啓子がいじめに合ってると知った時は、はらわたが煮えくり返るほどに加害者が許せなかったし、少しでも支えになりたくて、私にできることはなんでもした。
私たちは本当に仲がよかったと思う。
でも、そう思っていたのは、私だけだったのだろうか……。
高校に入って早々に見切りを付けられてしまったかのような啓子の態度に、私は……。
――ガラガラガラ……
物音で、意識を取り戻した私は、夢の中で啓子との出会いを反芻していたことに気づいた。
(何がどうなったんだっけ……?)
思考の追いつかない頭でぼんやりと見覚えのある天井を見つめる。ここは保健室だ。そう理解した時、小さな声がカーテン越しに耳に届いた。
「あ、佐藤さんの荷物? ありがとう助かったわ」
「あの、真樹ちゃんは……」
「まだ眠ってるわ。念のため保護者の方に迎えに来てもらうよう連絡したから、後は大丈夫。ありがとう」
「そうですか、それなら安心ですね。真樹ちゃん、最近すごく眠そうで……昨日も二時間しか寝てないって言ってたから……」
「そう……、あの事を思えば佐藤さんの不安も仕方ないでしょうから……。また何かあったら教えてちょうだい」
「わかりました。失礼しました」
声と会話で、紗百合先生の相手が千尋だとすぐにわかった。まだ重たい頭のせいで起き上がるのが億劫だった私は、仰向けのままドアが閉まるのを待つしかなかった。
その間にも、意識を失う前のことを思い出していた。やってしまった、と恥ずかしさや申し訳なさが後悔の念と一緒に押し寄せてくる。
啓子のことをあんな風に言われてカッとなって、名前もクラスも知らないあの子たちに掴みかかって暴言を吐いて取り乱してしまった。思い返しても自分で自分が信じられない。本当に私がやったことなのか、と疑いたくなるけど、紛れもない事実だった。
「はぁ……情けな……」
彼女たちに謝らなくてはいけない、という思いと、あんなことを言うやつらなんかどうでもいい、という思いがせめぎ合っていた。
「目、覚めたの?」
そっとカーテンがめくられて、紗百合先生が顔を覗かせる。起き上がろうとした私を先生が手で制す。
「まだ寝てていいわよ。お母さんが迎えに来るまで寝てなさい」
「あの、私どうやってここに……」
そのあたりの記憶が皆無だった。
「あぁ、山居くんが運んでくれたのよ。たまたま居合わせたって言ってたわね」
「山居くん……」
「今度会った時にでもお礼言っておくといいわ。……にしても、派手にやったらしいじゃない」
ニヤリ、と口の端を持ち上げて、紗百合先生は意地悪い顔をした。派手にって、一体どんな風に伝わっているのか。湾曲していても嫌だけど、確かめるのも恥ずかしくて私は口を一文字に結ぶ。
(後で先生に怒られるんだろうな)
そう思うと本当に気が重い。
「相手の子たちも自分たちが悪かったって反省してるって、柚木先生が言ってたわよ」
柚木先生とは、確か三組の担任だ。ということは、あの子たちは三組だったのだろう。
「ちらっと聞いたけど……、あまりにも心無い言葉で私も胸が痛んだ。言っていいことと悪いことがあるわよね……」
(そうだ、あんなこと、冗談でも言ってはいけない)
というか、口にした時点で冗談にもならない悪意そのものだ。思い出しただけでも、気分が悪い。胸の奥から、黒いどろどろとした感情が沸き起こってきて、むかむかする。
気絶して寝たから幾分頭はスッキリしているけど、それでもまだどことなくずっしりと重たかった。
「まぁ、相手に怪我させなくてよかったわね」
「……はい」
カーテンが閉じて、紗百合先生が消える。ドアが開いて閉まる音がして、辺りは静まり返った。
私をここに運んできてくれたのが山居くんだと聞いて驚いた。きっとその場に居合わせてしまって押し付けられたのかもしれない。
(とにかく後でお礼を言わないと。それに、掴みかかったあの女子たちにも謝らなきゃ……)
改めて、自分がやらかしたことの重大さを思い知る。
連日の寝不足と心労で平常心を保てなかったとは言え、まさか自分がこんな衝動的に行動してしまうとは思ってもいなかった。
どのタイミングでそれぞれを訪問しようか、算段をつけていると再びドアが開く音がした。紗百合先生が戻ってきたのだろう、私はまだぼうっとする頭が重たくて横になったまま過ごしていた。
なんとなく、足音が気になってカーテンの方を向いていると、そーっと引かれたカーテンの隙間から思いがけない人物が顔を覗かせた。
「っ⁉」
「うわ、わりぃ!」
バチリと目が合って、私は声にならない悲鳴をあげた。
消えてしまった姿に「山居くん」と呼びかければ、恐る恐る再度カーテンが引かれて、ばつの悪そうな顔を見せる。
「大丈夫かよ」
「うん、多分ただの寝不足だから。山居くん、保健室まで運んでくれてありがとう」
「……あんまし根詰めすぎるなよ」
まさか山居くんにまでお説教されるとは思わなくて、私は「あはは」と笑っておく。
「そこ笑うとこじゃねぇからな」
「そういう山居くんだって、目の下すごい隈だよ。もしかしてユートピアやってるんじゃないよね?」
前にもまして眠そうな顔してるくせに、自分のことは棚に上げてよく言うな、と呆れた眼差しを向けると、山居くんはなんとも言えない渋い顔で私を見返した。
(え、それはどういう表情だろう?)
「あー、さてはやってるんでしょ?」
「お前な……」
「へ?」
「いや、……帰る。じゃぁ、またな」
「えっ、無視ー⁉」
シャッとカーテンを閉めて、山居くんは本当にそのまま帰ってしまった。
「なんなの」
再度静まり返った保健室に、私のつぶやきだけがぽつりと零れ落ちた。