啓子のお見舞いに行った次の日、私は登校した。母親は心配して、無理していくことない、と引き留めたけれど私はそれを振り切った。

 昨日、眠る啓子を見て、やつれたおばさんの姿を見て、あの言葉を見て、私は私のやるべきことが見えた。

 ――啓子を助ける。

 どうやって?
 そんなの、わからない。
 だけど、何もしないでぼーっとしていることなんかできなかった。

「佐藤さん、心配してたのよ……、もう学校出てきて大丈夫なの?」

 教室には行かずに保健室へと直行した私を、紗百合先生は温かく迎えてくれた。そう聞いてきたところを見ると、きっと職員の中で私のことが「意識不明になった岩田啓子の同中の友人」とでも共有されたのかもしれない。
 私は「大丈夫」とだけ返して、先生の後ろに置いてあるベンチに座る。

「岩田さんと、同じ中学だったんですって? ショックだったわよね、とても驚いたでしょう……」

 推測通りのそれに苦笑がもれて、あ、まだ笑う元気あったんだ、とどこか俯瞰しているもう一人の自分が思った。

「先生……、啓子のクラスでいじめとか何かトラブルがあったとか、聞いてたりしてない
?」

 私の質問が意外だったのか、先生は眉を持ち上げてから「うーん」と唸った。

「そういう話は聞いてないかなぁ」
「あ! テストの一週間前くらいに啓子保健室来てたよね⁉ ちょうど私と入れ違いで! あの時何か言ってなかった?」

 生理痛が酷くて休みに来たと言っていた啓子の、青白い顔がありありと瞼に浮かんで心臓の拍動が急加速をはじめる。座っているのに、体がぐらつくような感覚になって、私はとっさにベンチの縁を手で掴んで支えにした。
 来て早々、帰る羽目にはなりたくない。私にはまだやることがある。

 本当に生理痛だったのだろうか……。啓子の体調不良の理由がそれでほっとした自分が、あの時確かにいたのを思い出す。本当に、あの時の自分を殴ってやりたい気分だった。

「そうね、来たわね。あの時は確かお腹が痛いから休ませてほしいって言って、放課後までベッドで寝てそのまま帰っていったのよ。特に何も言ってなかったけど……どうして、そんなこと聞くの?」
「う、うん、ちょっと気になっただけ……」

 自殺願望の話は、きっと言わない方がいいだろう、と私は判断して話を濁した。

「ちょっと横になっていい? あんまり寝れてなくて……」

 それ以上の詮索を避けるためにベッドに横になろうとベンチから立ち上がると、目がちかちかして視界が回った。ここ数日食事もあまり喉を通らず、夜も眠れず、という状態だったのが影響していることはわかっていたから、先生に悟られないようにどうにか足に力を入れてやり過ごす。

「いいわよ、あまり無理しないようにね。――あ、佐藤さん……」

 先生は戸惑った表情で私を見つめていた。何か言いたげなその顔から、何を聞きたいのか、ピンときた私は「さすがにやってないから」と顔に笑顔を浮かべて言う。

「そう……、ならよかった」と心底ほっとした表情を浮かべるものだから、胸の奥がずきりと痛んだ。
 啓子の一件からユートピアをやっていないのは本当だから、嘘ではない。だけど、今日学校から帰ったらユートピアにログインしようと、私はそう決めていた。

 後ろめたさを感じながらもベッドにもぐりこみ、硬いクッションに体を預けて私は目を閉じる。そうすれば、体がずっしりと重たさを増してベッドにくっつくようだった。たったの三日、食事と睡眠がまともにとれなかっただけなのに、私の体は予想を遥かに超えて疲弊していたようで、あっという間に意識を手放した。

 *

「――木下さん!」
 二限目の授業が終わる少し前に目を覚ました私は、紗百合先生にお礼を言って一組へと足を運び、目当ての人を見つけて声をかけた。彼女、木下麻衣(きのしたまい)は肩口で切りそろえた黒髪を揺らして振り向いて私の顔を視認すると、首を傾げた。
 それもそのはず、彼女とは挨拶も交わしたことがないのだから当然だ。

「えっと……」
「佐藤です、啓子と同中の」
「……あぁ……」

 ちょっといいかな、と私は木下さんを人通りの少ない廊下へと誘導する。彼女は、啓子と一番仲のいいクラスメイトのはずだ。私たちが疎遠になる前に何度か啓子の口から彼女の名前が出ていた。
 お弁当を一緒に食べようと啓子を誘ったのも、彼女だと啓子から聞いている。

「急にごめんね。ちょっと教えてほしいんだけど、一組で、その……、いじめとかって……あったりする……?」

 自分でも失礼な、突拍子もない質問だということは重々承知だったが、目の前の木下さんは私の予想に反して気まずそうな、苛立ったような顔を見せた。
 その顔はもう肯定でしかなかった。

「もっ、もしかして、いじめられてたのって啓子⁉」
「……なんでそんなこと聞くの?」
「なんでって……」

 啓子の自殺願望の理由が知りたいだけだとは言えず、口ごもってしまう。
 そう、私は知りたいだけ。啓子が何に悩んでこんなことになってしまったのか、それを知りたい。今さらだと遅すぎると自分でも思う。それに、知ったからってどうすることもできないけど、知らないでいるのは、自分で自分を許せなかった。

(もう、見て見ぬふりはしたくないから)

「つか、それ聞いてどうすんの? 先生にでもチクる気?」
「そ、そんなこと」
「わるいけど、次移動教室だから、もう行かなきゃ」

 引き留める隙もなく、木下さんは私の横をすり抜けていった。
 私はがっくりと肩を落とす。
 もし、いじめの話が本当だったとした場合、誰に話を聞くかで得られる情報に差がでるのは歴然で、一組に啓子以外の知り合いがいない私にとっては、それこそ一か八かだった。

「はぁ……だめだったか……」

 どうやら私はハズレをひいてしまったようだ。
 当てにしていた唯一の手がかりが途絶えてしまった今、その理由を啓子本人に確かめたいと思った。そんなことはできっこないし、その機会を自分からみすみす手放したのは、この私だ。そんな私に、都合のいいことを思う資格すらないのはよくわかっている。
 自分の身勝手さに拳を握りしめ踵を返した時、「なぁ」と私を呼び止める声がした。

「あ……」

 見覚えのある男子が、私を見下ろしていた。手入れをしている様子のない黒髪は、ところどころ寝ぐせで不自然に跳ねていて、相変わらず寝不足なのか、眠そうな瞼は今にも閉じてしまいそうだ。
 名前は確か……、

「一組の山居だけど」

 私が記憶を手繰り寄せるよりも早く彼が教えてくれた。保健室のサボり魔仲間。と言っても、紗百合先生にそう一括りにされているだけで、直接喋ったのは今日が初めてだった。

「あ、そうそう、山居くん。一組だったんだ……」

 啓子と同じクラスだったとまでは知らなかった。

「岩田さんのこと、何が知りたいの」
「え? あ……、このクラスでいじめがあって、もしかしていじめられてるのが啓子だったんじゃないかって……」
「それは違う」

 あまりの即答に、私の口からは「え」と驚きの声だけが零れ出る。

「いじめって言っていいのかわかんねぇけど、まぁ、嫌がらせされてる女子がいるのはいる。でも、それは岩田さんじゃない」
「それ、ホント……?」

 疑いの言葉に山居くんは呆れ顔で私を見て、それからため息を一つ吐いた。

「別に、信じないならそれでいいけど……――ていうか、岩田さんは……」

 言いかけて彼は私から視線を逸らし、口を閉じてしまう。

「啓子が何?」
「いや、やっぱなんでもない」
「え、ちょっと、気になるんだけど……」
「つーか、さすがにもうユートピアやらないよな?」

(そうか、この人、私が紗百合先生とユートピアの話してる時に保健室に居たんだった)

「……やらないよ、さすがに」

 さすがに、っていう言葉には、啓子のことが含まれている。身近な人がこんな目に合ったのに、やる馬鹿がどこにいるんだって話だ。
 その口ぶりからして、きっと山居くんもやってないんだろう。それ以上ユートピアの話をされたくなかった私は、嘘をついた。

「それより、クラスで啓子と一番仲がよかった人が誰だか、山居くん知らない?」

 ダメ元でそんなことを聞いたけど、山居くんからは思いもよらない言葉が返ってきた。

「……仲のいい友だちなんてこのクラスにはいなかったんじゃねぇの?」
「それ、どういうこと? え、だって、登下校もお昼もクラスの子と一緒だって……」

 そう言われて、私は断られたのに。

「登下校はしらねーけど、昼は一緒に食べてるやつはいたな……。まぁ、仲がよかったのかもだけど、少なくとも、俺にはあいつらの仲がよさそうには全然見えなかったってだけの話だから」
「えっ……その、」

 ――キーンコーン……

 もっと詳しく聞きたかったのに、予鈴がなってしまい、山居くんは「じゃーな」と駆け足で階段をかけ降りていってしまった。その背中に「ありがとう」と声をかけると、角を曲がる直前に片手を挙げる姿が見えた。
 移動教室というのは本当らしく、気づけば一組の教室はもぬけの殻。
 予想外の人に話しかけられて驚いたけど、ぎりぎりまで話に付き合ってくれた彼には感謝しかなかった。

 それに、十分過ぎる収穫だった。
 ちょっと予想とは違っていたけれど、確認できたのは大きい。

(――でも……、いじめられていないなら、どうして……? 仲がいい子がいないって……どういうこと? 教えてよ、啓子……)

 目の前にもいない、いたとしても眠っていて答えなど返ってこないと分かっているのに、私は心の中でそう啓子に訴えかけていた。