都の中ほどの小路を網代車(あじろぐるま)がゆったりと通る。
 牛飼童の他には質素な狩衣に身を包んだ公達が一人ついているだけの、都人には見慣れた風情の牛車だ。
 だが、見るものが見ればその網代車は日常的に使われているものではないと分かる。
 それに、供の公達もその物腰から下位の貴族でないことは知れたはずだ。

 とはいえこの辺りの路を歩くのは平民ばかり。
 貴族の屋敷も中級以下の下位のものばかりなため、気付くものはいなかった。

「……着きましたよ」

 とある中級貴族の屋敷脇に並ぶ長屋。その中でも一回り大きな小家の前で止まった網代車に、供の青い髪の公達が声をかける。
 すると屋形の中から衣擦れの音がして男が一人現れる。
 明らかにお忍びといった風情の繁菱柄(しげびしがら)の狩衣に身を包んだ公達。
 立烏帽子の中に隠れる髪は白金色で、その洗練された佇まいからも只者ではないと知れた。

 通常ならばその公達だけが降りるものだろう。
 だが、屋形の中からはもう一人おくるみを抱いた娘が降りてきた。
 美しい顔立ちをしているが、貴族の姫が人前に出ることはない。
 身なりも平民と同じように小袖のみであった。
 だが、その小袖は明らかに上質な絹で、艶やかな黒髪も良く梳かれ手入れが行き届いている。
 しかも先に降りた公達が娘をとても大事そうに気遣っていた。
 何とも不思議な光景である。


「大丈夫か美鶴、俺が抱こうか?」

 牛車から下りるのを手伝ってくれた弧月が美鶴の抱くおくるみを受け取ろうと手を伸ばす。
 だが、美鶴は柔らかく微笑みそれを断った。

「いえ、ちゃんと私から見せたいので」
「そうか」

 美鶴の思いを汲み取り、弧月は歩きやすいように支えるに留めた。
 そのまま二人で目の前の小家――大家と言った方が良さそうな平民の家へと入る。

(まさか、またここに来ることになるとは思わなかったわ)

 土間に入りながら、一年と少し前までいた実家を見回す。
 そうして思い出すのはやはりお世辞にも幸せとは言えない出来事ばかりで、少し物悲しい気分になった。

「美鶴……?」

 だが、今の自分を幸せにしてくれる愛しい夫の呼びかけに悲しい思いがすくい上げられる。
 笑みを向けると、同じく愛情に溢れた笑みが返って来て、嬉しくも少々気恥ずかしくなった。

「主上、美鶴様。お待ちしておりました」

 表室にて見知らぬ女性が膝を付き頭を下げていた。
 平民の、人間の女性。
 美鶴は初めて会うが、この者は自分が弧月に頼み手配してもらった女性のはずだ。

 この間父と春音が内裏へ侵入してきたとき、彼らは母が病んでいると言っていた。
 もうこの家とは関わらないと決めていたが、美鶴が死んだと思い病んでしまったと聞いては知らぬと突き放すことも出来ない。
 それでも戻るわけにはいかないため、弧月に母の世話をしてくれる者を手配してもらったのだ。
 ……家族の情が薄い春音ではまともな世話をするとは思えなかったから。

 その父と春音は今この家にはいない。
 あの後、美鶴の親族ということで特に罰を受けることはなかった二人だが、代わりに二度と美鶴の前に姿を現さないことを約束させられたらしい。
 なので二人のいないときを選んで美鶴はここに来た。

 最後に、もう一度だけ母に会うために。

「顔を上げてください。母を見て下さって、ありがとうございます」
「いいえ、仕事ですので。お気になさらないでください」

 顔を上げた女性は思ったよりも若く、真面目そうな顔をしていた。
 少し厳しそうな人に見えたが、逆に仕事ならばそつなくこなしてくれそうだ。

「それで母は……」
「寝室におります。今日は少し調子がいいのか、朝から起きて待っていましたよ」

 そう話す世話人の女性は僅かに笑みを見せた。
 その顔を見て彼女は母の世話を嫌々しているわけではないことが分かり、美鶴は安心する。

 彼女の話では、母は初め完全に寝たきり状態で、生きようという気力がまるでなかったのだそうだ。
 だが美鶴が生きていると知り、少しずつ回復に向かっているのだという。

 案内されるまま弧月と床に上がり、寝室へと入る。
 敷かれた褥の上で、記憶よりやせ細った母が額を床に擦り付けそうな状態で頭を下げていた。

 何と声をかけようか。
 考えてきたはずなのに言葉が出てこない。
 近付き、膝を付いて薄くなった母の頭髪を見下ろした。

「……母さん」
「っ!」
「顔を見せて? 本当なら私はもうここに来てはいけないの。それを一度だけという約束で母さんに会いに来たのよ?」

 元は平民であっても、今は妖帝の妻で貴族と同じ扱いを受けている。
 子も産み、弧月の妻としての地位も確かなものとなってきている美鶴は平民のように人前に出ることはもうあってはならないのだ。
 それを無茶を言って会いに来た。
 時間もあまり取れない。

 だから顔を見せて欲しいと乞う。

「あ、ああ……」

 すると母は震えながら顔を上げる。
 回復してきたと聞いてはいたが、美鶴の記憶と比べると頬はこけ目も少々落ち窪んでいる。
 美鶴と同じ黒い目には、すでに涙が滲んでいた。

「み、つる……本当に、生きてっ」

 震える唇は「良かった」と言葉を紡ぎ、滲んでいた涙が零れ落ちる。
 涙と共に止めどなく零れた言葉はやがて懺悔となった。

「ごめんなさい、ごめんなさい美鶴。いなくなるまで、あなたが大事だと忘れてしまっていた……ごめんなさい」
「私も、ごめんなさい。愛されていないと決めつけて、生きていたのに便りも出さずに……ごめんなさい」

 繰り返し謝る母に、美鶴もつられるように謝罪した。
 だが、今日は互いに謝るために来たわけではない。
 もう二度と会えなくとも、自分はちゃんと幸せを得たのだと知らせるために来たのだ。
 自分は幸せだからもう大丈夫だと。だから気に病まず、母も生きることを諦めないで欲しいと伝えるために。

「……母さん、私も子を持つ母になったのよ?」

 だから、その幸せの証を見せる。
 大事に抱いていたおくるみ。
 包まれた衣の隙間から、まだ小さい赤子の顔が見える。
 額に小さな角が見える、妖の赤子。
 弧月が受け継いでいる鬼の血が強く出た鬼の子だ。

「可愛いでしょう? 私の、大事な子よ。この子と夫の弧月様のおかげで、私は今とても幸せなの」

 だから、自分は大丈夫だと……穏やかに微笑んだ。

「母さん、私を産んでくれてありがとう。……おかげで私は幸せを知ることが出来たわ」
「あ、ああ……美鶴……幸せにしてやれなくて、ごめんねぇ」

 泣く母は、尚も謝る。
 だが、赤子の顔を覗き込みその可愛らしさにフッと表情が緩んだ。

「可愛いねぇ……美鶴、幸せになってくれてありがとう……」
「うん……」

 そうしてしばらく黙り込み、二人はただただ赤子を見続ける。
 だが、元々長居は出来ない。
 控えめに「美鶴……」と弧月の呼ぶ声がして、もう時間だと知らせてくれた。

「……じゃあ母さん、どうかお元気で。もう会うことは出来ないけれど、私はちゃんとこの黎安京(れいあんきょう)で生きているから」

 だから心配するなと告げ、美鶴は立ち上がり弧月のもとへ戻った。
 寝室を後にする前にもう一度母を見ると、眩しそうに自分たちを見て「ありがとう」と礼を伝えられる。
 名残惜しくはあるが、美鶴は最後に笑みを返し「さようなら」と家を出た。