「どんな姫が来ようと俺は美鶴以外を愛するつもりはない。美鶴以外を求めるとは到底思えない」

 左大臣たちにもそう伝えて諦めさせようとしたが、納得しなかったらしい。

「俺が女を大して知らぬからだなどと言って逆にもっと多くの姫を入内させろと言うのだ……」

 うんざりした様子に、その時の弧月の心労を案じる。
 そっと頬に触れ、少しでも癒されてくれないかと手のひらで温めた。
 すると弧月は穏やかな眼差しになり、自分の頬に触れている美鶴の手を包む。
 手の体温を感じるようにしばらく目を閉じ、ゆっくりと開いた。

「もちろん多くの姫などいらぬと突っぱねた。そうすると、今度は藤峰が妥協案を出して来たのだ」
「妥協案、ですか?」
「ああ……まず美鶴を弘徽殿へ移動させることに文句は言わぬから、莢子の入内を受け入れるようにと。そして一年経っても子ができぬならば内裏から下がらせるとな」

 そうすれば美鶴が身籠ったのは奇跡に近いことで、他の姫ではやはり無理なのだという証明にもなる。
 例えお手付きにならなかった場合でも、弧月が本当に美鶴しか見ておらず他の姫が入り込む余地はないのだと知ることが出来る、と。
 他の臣下達も左大臣である藤峰の意見に賛同し、無理だと分かったならばもう弧月の後宮のことには口出ししないと約束したのだそうだ。

「元より俺を良く思わない臣下もいたからな。今後も事あるごとに余計な手出しをされても困る。美鶴や子に関わろうとする輩も出てくるかもしれぬしな」

 だから今のうちに黙らせる方法を取ったのだという。

「そう、だったのですか……」

 結局のところ、弧月が臣下に言われるまま莢子の入内を決めたのは自分と腹の子の為だったのだ。
 どこまでも自分たちのことを案じてくれる弧月をただただ愛しいと思った。

「……分かりました。そういうことであれば、私もその方のいる一年を気を強く持って過ごします」

 多少なりとも嫉妬はしてしまうかもしれないが、弧月のことは信じている。
 たった一年耐えればいいだけだ。

「すまぬな……」

 すでに納得し切り替えた美鶴だったが、弧月はまだ少し申し訳なさそうにしている。

「お気になさらないでください。弧月様が私と子を案じて決めたことだと理解いたしましたから」
「ああ、だが……」

 大丈夫だと伝えても気に病む様子の弧月。
 罪悪感を覚えている様な弧月にどうすればいいのかと悩んだ美鶴は、一つ弧月に望んでいたことを思い出した。

「それほど気に病むのであれば、一つ私の望みを叶えてくださいまし」
「望み? 美鶴がそのようなことを言うのは珍しいな」

 弧月は驚くが、その望みとは以前にも伝えていたものだ。

「前にも頼んだではございませんか。弧月様の耳としっぽを触らせて下さいと」
「ああ、あれか……」

 思い出した弧月は、しかし少々困り顔になる。

「見せてもいいが、本来の姿は妖力が漏れやすい。抑える方に気力を使うから、あまり強く触らないでくれ」
「そうなのですか? あ、お嫌でしたら無理には……」
「よい。以前にも二人だけのときならば問題ないと言ったであろう?」

 今は丁度二人きりだからな、と微笑んだ弧月は美鶴から少し離れ軽く目を伏せた。
 暗い中でも見える白磁の肌には紅玉の美しい赤が映える。
 その赤い色彩が見えなくなったと思ったら、次の瞬間ほのかに光りを放つ白金の毛並みが現れた。

 頭には髪と同じ色の狐耳がぴんっと立つようにあり、尾は三本あるのか双子に比べて分量が多い。
 絹糸の様な毛並みは触り心地が良いだろうと見ただけで分かった。

「……どうだ?」

 少し控えめに聞いて来る弧月は、美鶴が妖狐の姿を見て畏れるとでも思ったのであろうか。
 だが美鶴は弧月の心配をよそに頬を朱に染め目を輝かせていた。

「素晴らしいです! とても綺麗で……あの、本当に触ってもよろしいのですか?」
「ああ、構わぬ」

 ふっと笑い許した弧月のしっぽに、美鶴は恐る恐る触れる。
 上質な絹織物に初めて触れたときの様な緊張があった。

「あ……」

 触れると、思ったより軽くふわりとした感触があった。
 そのまま沈めると、白金の毛並みは美鶴の手を包み込む。
 思った以上の柔らかさに美鶴は感動を覚え心が震えた。

「柔らかいです……」
「そうか……期待に応えられたのなら良かった。……だが、あまりにもゆっくり触られると少々くすぐったいな」
「あ、すみません」

 実際くすぐったそうに笑う弧月に、つい手を引っ込めてしまう。
 だが、見上げた顔には愛し気な笑みしか浮かべられておらず、美鶴はもう少しと欲を出した。

「あの、お耳も触れてよろしいですか?」
「よいが、くすぐるなよ?」

 からかうように注意されたが、よいと言われたので手を伸ばし三角の耳に指先で触れる。
 柔らかい毛並みがあるせいか、人の耳よりも固くは感じない。
 温かく触り心地の良い耳をしばらく触っていると、不意打ちのように唇に柔らかいものが触れた。

「っ⁉」
「耳はそれくらいにしてくれ。欲情してしまう」
「よっ⁉ も、申し訳ありません」

 口づけと直接的な言葉に驚き腕を下げる。
 自分を見る弧月の眼差しに色気を感じ、どきどきと鼓動が早まった。

「すまぬ、少々からかい過ぎたか?」
「か、からかったのですか⁉」

 羞恥と驚きでつい大きな声を出してしまいさらに恥ずかしい。
 だが、交わった視線からは変わらぬ甘さを感じた。

「直接的な言葉を使ってしまったのはそうだな……」

 だが、と続けた弧月は美鶴の肩を抱き引き寄せる。
 広く引き締まった胸に抱き込まれ、美鶴はまたしても鼓動が駆け足になるのを止められなかった。
 弧月の唇が耳元に寄せられ、直接声を届けられる。

「耳は触られるとむずがゆいだろう?……そうは思わぬか?」

 甘さと色気が込められた声が耳に届き、同時に熱い吐息も耳にかかる。
 ぞわりと甘い痺れを感じ、美鶴は恥じらいとは別の意味で体が熱くなっていくのを感じた。

「お、思いますっ……なのでそのっ」

 答えながら美鶴は混乱する。
 弧月は優しく甘い雰囲気で接してくることはあっても、これほどまでに色気を出してくることはなかった。
 ……いや、はじめての夜にはかなりの色気があったが。

 それでも懐妊してからは愛し慈しむといった様子の弧月だったのに……。

(こっ、これはもしかして、まだからかわれているのかしら?)

 このように迫って自分の反応を楽しんでいるのだろうかと疑いたくなる。

「ま、まだ私をからかっていらっしゃるのですか?」
「……まあ、半分は」

 苦笑気味に告げた声は、そのままいつもの優しい声音に戻る。

「だが半分は本気だ。……とはいえ、もう休むとしよう」

 そう言うと、弧月は抱いた美鶴の体を横たえ褥に寝かせた。
 触り足りないだろうと言ってふさふさのしっぽも抱かせ、優しく髪を撫でてくれる。
 からかわれたことには少し文句を言いたいのに、その優しさとしっぽの柔らかさ。そして何より安心させてくれる手に睡気が訪れる。

「おやすみ、美鶴」
「おやすみ、なさいませ……弧月様……」

 言うが早いか、すぐに美鶴の瞼は下りていく。

 莢子の入内に関しては心配が残る。
 だが今は、安寧に身を任せ安らかに眠りに落ちた。

***

 それからは日々が目まぐるしく過ぎて行った。

 弘徽殿への引っ越しも済み、住み慣れてきたころには腹もかなり膨らんできた。
 腹の中から蹴られて夜中目覚めるようなこともあり、悪阻が酷かった妊娠初期とはまた違った大変さがある。

 よく蹴ってくるのだと弧月に話すと。

「快活な子なのだな。男かもしれぬな」

 と楽し気に腹を撫でてくれた。

 そんな穏やかな時を過ごしながらも莢子の入内の準備も着々と進んで行く。


 縮こまる様な寒い冬も越え、春の兆しが温かな陽光と共に芽吹いてきた。
 美鶴も臨月に入り、いつ子が生まれてもおかしくはない。
 予定としては桜が芽吹く辺りと言われていたが、よく腹を蹴る快活さから早く生まれてくるかもしれないとも言われた。

 そんな中、莢子の入内も準備が整う。
 入内に良き日も占われ、その日も指折り数えられるほどに差し迫っていた。

 あと三日もすればこの七殿五舎に住む者が増えるのだな、と複雑な心境でいた美鶴は、その夜夢を見る。
 忙しくなり弧月も共寝出来なくなって一人寝していた夜。
 悪夢にうなされ目覚めた美鶴は、夢の内容にとっさに腹を守るよう抱えた。

(大丈夫、痛みはない。あれは、夢だわ……)

 今、現実に起こっている事ではないことに安堵する。

(でも……)

 だが、これは夢見――予知の夢だ。
 そして、夢見の内容からしてこれは三日後に起こること。

「なんてことっ……!」

 莢子の入内の日に起こるであろう事件。
 そして腹の痛み。流れる血。そして、お腹の子が――。

「っ!……駄目よ、させない」

 燃えるように強い意思が美鶴の中に宿る。

(この子は……私の子は死なせない)

 静まり返った清夜(せいや)の中、美鶴は闇を睨みながら決意した。

「私の大事な子。必ず守って見せる」

 と。