妖帝と結ぶは最愛の契り【長編】

***

 目の前を茶色いふさふさが何度も横切る。

(ああ……やはり可愛らしい)

 触ってもふもふしたいとつい思ってしまう。
 駄目だと思うのに、触らせてなど貰えるわけがないのについ目が行ってしまう。

(いえ、でも駄目よ。最近私我が儘がすぎるわ)

 目を閉じ軽く(かぶり)を振って欲求を自制する。
 そうして意識を切り替えようとしていると、その少女たちから指摘が飛んできた。

「美鶴様? 手が止まっておられますよ?」
「小夜姉さまが戻るまで、その歌を書き写すようにと言われていたのではないのですか?」

 はっとして目の前の文机を見る。
 置かれた紙屋紙(かやがみ)には文字が一行書かれているだけで止まっていた。

 小夜は引っ越し先である弘徽殿を整えるために宣耀殿を離れている。
 その間に手習いとして用意された歌を書き写すように言われていたのだ。

「ごめんなさい、少しぼうっとしてしまったわ」

 素直に謝ると呆れのため息を吐かれた。

「まったく、しっかりして下さいませ」
「一瞬予知の白昼夢でも視られているのかと思ったではありませんか」

 (うちぎ)の五つ衣の色合いが違うだけの、まったく同じ姿で叱られると申し訳ないと思う反面可愛らしいと思ってしまう。
 そんな自分を内心叱りりつけながらもう一度ごめんなさいねと微笑む。
 筆の墨を付け直し、手習いを再開しようと向き直ったとき。

(あっ……これは)

 先に書かれていた文字が揺らいで見え、慣れた感覚にまた筆を置く。
 予知だ。

 白昼夢の中視えたのは、おそらくこの七殿五舎のどこか。
 どこからか入り込んだのか、野犬の凶暴な吠え声が聞こえてくる。
 その野犬が吠えている先には妖狐の双子。灯と香だ。
 野犬に追い詰められたのか、大きな木を背後に手を取り合い震えている。
 それでもどうにか現状を打開しようとしたのだろう。
 二人は青く揺らめく炎を手のひらの上に出し、涙目で野犬を睨む。
 だが、逆に野犬の方も何かの危機を感じ取ったのだろう。

 がうっ!

 ひと際大きく吠え、その大きさに驚いた双子はびくりと震え炎も消えてしまう。
 すると野犬は双子に飛び掛かり、どちらかに咬みついた。

「っ! 灯! 香!」
「っ……美鶴様?」

 思わず声を上げながら覚醒した美鶴。
 声をかけてきたのはいつの間にか戻って来ていた小夜だ。

「大丈夫ですか? 見たところ予知をされていた様でしたのでお声掛けしませんでしたが……」
「小夜……灯と香はどこ?」

 今視たばかりの光景が頭から離れない。
 咬みつかれたところで終わったのだから死んでしまうことはないだろう。
 だが怪我はしただろうし、その怪我が原因で患ってしまうかもしれない。

 予知は七日以内に起こる。
 だから今すぐ起こることではないかもしれないが、二人の姿が見えないことで不安が増した。

「灯と香ですか? 私が戻って来たからと洗い物を雑仕女に言いつけてくると殿を出ましたが?」
「……小夜、二人を見ていてくれないかしら? あと、出来れば弧月様にお知らせしていただきたいの」

 予知は弧月を通さなければ変えることは出来ない。
 とはいえ弧月本人でなくても良い。弧月の命を受けた者が助けになってくれれば予知は変えられると今では分かっている。
 忙しい弧月の手を僅かでも煩わせるのは気が引けるが、だからと言って二人が怪我をすると分かっているのに見過ごすことは出来ない。

 小夜に今視た予知を告げ、とりあえず伝えてもらうように頼んだ。
 美鶴を一人にするわけにはいかないと渋る小夜だったが、小夜の力を使えば伝達だけはすぐに出来る。双子も遠くにまでは行っていないだろうからすぐ見つかるだろうと説得し探しに行ってもらう。

「では主上にお知らせし、灯と香を探してきますので美鶴様は大人しく部屋にいてくださいまし」
「ええ」

 不安気な小夜に大丈夫だと頷いた。
 自分一人で行動しても良い結果になるわけではない。大人しく待っているのが一番だ。

 だが、小夜を見送り手習いを再開した少し後。
 一行だけだった文字が三行になる程度しか経っていない頃に、犬の鳴き声が耳に届いた。
 その鳴き声が先程聞いたばかりのものと重なり、胸に靄のような不安が現れる。

(まさか……そんなはずないわよね? これほど早く予知の出来事が起こるなんて今までなかったもの)

 きっと予知とは関係のないものだ。
 それに、万が一予知した出来事であっても自分が出来ることはない。
 予知を変えられるのは弧月だけなのだ。

 そう言い聞かせながら響く犬の声を聞いていたが、どうしても気になる。

(少し、様子を見に行くだけなら……)

 小夜には大人しく部屋で待つと言ったが、野犬の鳴き声は宣耀殿に程近い場所から聞こえてくる。
 部屋からは出てしまうが、宣耀殿からさほど離れた場所でないなら様子見くらいしてもいいのではないかと思った。

「す、少しだけ」

 誰にするでもない言い訳を口にし、美鶴は筆を置いて立ち上がる。
 供もつけずに出歩くなどみっともない行為だと小夜に叱られるだろうか?

 だが、妖帝である弧月の妻が美鶴一人だけという現在の後宮は単純に人が少ない。
 ましてやこの宣耀殿の周囲は弧月の命によって人払いがされている。
 信用できない者の出入りを避けるため、“用事のないものは近付くな”と言ったのだと以前弧月が話していた。
 それでも念のため、と扇を開き顔を隠すようにして縁側に出る。

 先ほどから止まぬ吠え声は美鶴の胸に靄として今も宿る。
 その靄は焦燥に代わり、進む足を急かした。
 今は大事な時期だからあまり動くなとも言われていたが、灯と香が心配だ。
 とはいえ腹の子も大事なので本当に様子見をするだけの予定だった。

 だが、吠え声を頼りに玄輝門が見える方へと足を運ぶと。

 がうっがうっ!

 正に先程視たばかりの光景が広がっていた。
 怯えて震える妖狐の双子。
 その二人を追い詰め威嚇する野犬。
 現状を変えようと手のひらに青い炎を出現させる灯と香。

 がうっ!

 吠えられ、炎を消してしまうところまで見た美鶴は考えるより先に動いてしまう。

「っ……このっ」

 持っていた扇をぱちんと閉じ、野犬めがけて投げつける。
 ばしっと軽い音を立てて当たった扇は地面に落ち、野犬の意識がこちらに向く。

「美鶴様⁉」
「何故ここに⁉」

 双子も美鶴の存在に気付き驚きの声を上げるが、美鶴はそれに応える余裕は無かった。
 こちらに意識を向けた野犬が唸りながら近付いて来る。
 縁側は地面より高さもあるし高欄もあるので飛び掛かられても届かないとは思うが、威嚇する野犬は相当気が立っているのか形相だけでも恐ろしい。

 がうっ!

「っ!」

 ひと吠えした野犬は美鶴の方へと走ってくる。飛び掛かってくる気でいるようだ。
 助走をつけられれば高欄も飛び越えてしまうかもしれない。
 美鶴は思わず腹を守る様に腕を回し、身構えた。

「美鶴様⁉」
「このっ、させるものか!」

 野犬の意識が逸れたからか、声に覇気が戻った双子がまた手のひらに青い炎を出す。
 二人揃って投げた炎は、今にも美鶴に飛び掛かりそうだった野犬に当たった。

 ぎゃんっ!

 悲鳴のような鳴き声を上げた野犬はそのまま止まってしまう。
 恐ろし気な形相だった顔も穏やかになり、可愛らしさすら出てきた。
 炎に包まれているのに熱くはないのだろうか? と不思議に思っているうちに灯と香が美鶴のいる縁側へと上って来る。

「なんて無茶をなさるのですか⁉」
「何故お一人なのですか⁉ 小夜姉さまは⁉」
「あ、それは……」

 小夜との約束を破った状態なので口ごもるが、ちゃんと説明しなければ二人は納得しないだろう。
 今の出来事を予知したこと、予知した未来を変えるため弧月に伝えて欲しいと小夜に頼んだため一人であることを伝えた。

「供もつけず、小夜との約束も破って来てしまったことは申し訳なく思うわ。でも、あなた達が怪我をしたらと思うといてもたってもいられなくて」
「美鶴様……」
「私たち、美鶴様に助けられたのですね……」

 毒気を抜かれた様に二人が呟くと、焦った声が美鶴を呼んだ。

「美鶴様⁉ 何故部屋を出ていかれたのですか⁉ お約束したではありませんか!」

 見ると、焦りを隠しもしない小夜が近付いて来るところだった。
 いつも落ち着いた様子の小夜が焦り憤っている様子に、本気で心配させてしまったのだと申し訳なくなる。
 どんなお叱りでも受けようと、唇を引き結んだ。

 だが、更に叱る言葉を口にしようとする小夜の前に二対の狐耳が立ち塞がった。
「小夜姉さま、あまり叱らないでくださいまし」
「美鶴様が来てくれたおかげで私たちは助かったのです」

 ちゃんと仕えてくれてはいても、あまり良くは思われていなかった二人に庇われ素直に嬉しい。
 だが、自分は彼女たちに野犬が咬みつくのを防いだだけで、最後は結局二人の力で野犬を止めた。
 自分のやったことはそれほど大層なものではない。

「あの、でも最後は二人が私を助けてくれたのだし……」

 逆に申し訳なくなって告げると、二人は揃って「いいえ!」と声を上げてこちらに向き直った。

「美鶴様の予知が外れることがないのは仕えてからも幾度か見ました」
「こうして私たちが無事でいられるのは美鶴様が来てくれたからに違いありません!」

 断言する双子に気圧されつつ、そういえば何故弧月がいないのに助けられたのだろうと疑問が浮かんだ。
 弧月の命を受けた者が動いた場合でも予知は変えられるが、今回は彼に伝えることしか出来なかったというのに。

(どうしてかしら?)

 不思議だが、それをちゃんと考える前に双子が真面目な顔で膝を折る。

「今まで申し訳ありませんでした、美鶴様」
「これからはご恩に報いるためにも心からお仕えしたいと思います」
「え? えっと」

 たしかに今まであまり良く思われていない様子だったため少し悲しいとは思っていた。
 だが、二人とも仕事はしっかりこなしてくれているし、良く思っていないからと嫌がらせや暴言を吐くようなことはしていない。
 今までとて、謝られるほどのことはしていないのだ。

 なのに謝罪の言葉を口にされ、正直戸惑う。

「小夜姉さまを思うと少々心苦しいですが……」
「でも、主上と美鶴様は仲睦ましいですし……小夜姉さまの入り込む余地もありませんしね」
「……」

 本人がすぐそばにいるのに、結構酷いことを言っているのではないだろうか。
 聞かなかったことにすればいいのか、笑って誤魔化せばいいのか。それすらも分からず美鶴は黙る。

「は? 何故そこに私が出てくるのですか?」

 代わりに声を出したのは小夜だ。
 本気で双子がなにを言っているのか分からないという顔をしていた。

「だって、小夜姉さまは今上帝がお好きなのでしょう?」
「幼い頃からかの御方を優しい眼差しで見ていること、私たちは知っております!」

 そのまま以前美鶴に話したときの再現のように語り出す灯と香。
 それを聞いている小夜はどんどん顔から表情が抜け落ちて行った。

「小夜姉さまがおかわいそうで……」
「不憫です」

 涙を滲ませ悲し気に震える二人と共鳴するように小夜の指先も震えていく。
 だが、思いまでは共鳴していなかったようだ。
 小夜はすぅ、と息を吸い、はっきりと否定の声を上げた。

「……あり得ません!!」
「え?」
「で、でも」

 本人から否定の言葉を聞いてもすぐには信じられないのか、二人は顔を見合わせながら戸惑う。

「主上は確かに私にとっても大切な御方です。ですがそれは殿方としてというよりは弟を見守るような心持ちに近いのです」
「で、では、あの優しい眼差しは……」
「恋情ではなく、親愛の様なもの……?」

 戸惑いながらも理解した様子の二人に、小夜は深くため息を吐き告げる。

「大体、私の好みはもう少しお年を召した渋みのある殿方なのです」
「え? お年を召した?」
「し、渋み?」
「ええ、若々しい方よりも、もう少し貫禄が出てきた方に魅力を感じるのです。そんな殿方がたまに見せる不器用なところを見ると、こう胸がときめいて……」

 そのまま何故か渋い殿方について滔々(とうとう)と語る小夜に、灯と香だけでなく美鶴もぽかんとしていた。

 いつも凛とした雰囲気の、これぞ理想の女官といった風情の小夜。
 そんな彼女しか知らなかった美鶴は、まるで少女のように頬を染め自分の好みを語る小夜を可愛いと思った。

「……ふふっ」

 つい笑い声を上げ、ほっと安堵する。

(良かった、小夜の想い人が弧月様ではなくて)

 双子から小夜が弧月を好きだと聞いたとき、真実かどうかも分からないと思っていながら胸が騒めいた。
 小夜は自分の目から見ても素敵な女性で、それに幼い頃から弧月を知っている人だ。

 弧月が自分に向けてくれる愛情は紛れもない真実で、同じものを他の女性に向けている様子は欠片もない。
 それでも弧月にとっては幼い頃から仲の良い相手で……しかも完璧な女性。
 そんな女性が弧月を好いているとなれば、どんなに弧月の言葉を信じていようと不安にはなる。

(私、小夜に嫉妬してしまっていたのね)

 小夜が弧月を思っていると聞いてからずっと胸の奥にあった騒めき。
 その正体が嫉妬から来る焦りだったのだと、美鶴はやっと気付いた。

「小夜はそのような殿方が好きなのね」
「え? あ、申し訳ありません。つい語ってしまい……」

 美鶴が声をかけると、語り過ぎたと謝罪し頭を下げる小夜。
 恥じらっているのか少し耳が赤くて、美鶴はまた小夜を可愛らしいと思った。

「いいのです。おかげで分かったこともありますし」
「分かったこと、でございますか?」
「ええ……ごめんなさい、小夜。私、あなたに嫉妬していたみたい」

 素直に思っていたことを告げる。
 嫉妬なんて醜い感情を向けてしまっていたなど、申し訳ないと謝罪した。
 だが、小夜は軽く驚いただけでふっと目元を緩める。

「そのような嫉妬なら可愛いものです。美鶴様はもう少し我が儘になってもよろしいのですよ?」
「で、でも。私最近少し我が儘になり過ぎている気がするわ」

 反省していたところだというのに、もっと我が儘になっていいとはどういうことだろうか。

「美鶴様は謙虚すぎます。貴女様は主上の唯一の妻です。主上も美鶴様を殊更大事に思われていますし……美鶴様ももっと主上を求めてくださいまし」

 その方が主上もお喜びになります、と優しい姉の様な眼差しで見つめられた。
 直接干渉はしなくとも、見守ってくれている様な温かみのある目。
 おそらく、弧月のこともこのような眼差しで見ているのだろう。

 小夜の眼差しに嫉妬の騒めきが完全になくなっていく。
 代わりに温かい火が灯った。

 その灯りに笑みを浮かべていると、くぅん……と大人しそうな犬の鳴き声が耳に届く。

 見ると、先ほどまで青い炎に包まれていた野犬は恐ろしかった形相を穏やかなものに変え、まるで飼い犬のように大人しくなっている。

「燃えたわけではないのですね」

 純粋な疑問として言葉にすると、灯と香が教えてくれる。

「もちろんです。妖帝のおわす内裏を(けが)すわけにはいきませんもの」
「妖狐の炎は幻火(げんか)なので、幻を見せていただけですわ。普通の火のように燃えるということはございません」
「そう……」

 それにしては、弧月の炎は物理的に作用していた気がする。
 自分を助けてくれたとき、青い炎を使って柱を飛ばしてくれたように。

(弧月様は鬼の血も色濃く入っているらしいから、他の妖狐とは違うのかしら?)

 不思議に思うが、後で聞けるならば聞いてみようと思いその疑問の答えは保留にした。

(それよりも……)

 大人しくなった野犬を見下ろす。
 この野犬がまた双子を襲うということは無さそうだ。

「どうして予知を変えられたのかしら? 弧月様を介していないのに……」

 独り言のように疑問を口にすると、小夜や双子も共に首をひねる。

「ああ、そうでしたね。主上に関わってもらわなければ運命を変えることは出来ないのでしたっけ?」
「うーん……仲睦ましくしていらしたから、主上の御力が美鶴様にも移ったということでしょうか?」

 うんうん唸りながら双子が仮設を立てると、小夜がはっとして美鶴を――そのまだ目立ってはいない腹を見た。

「もしかすると、お腹の御子様の御力ではありませんか?」
「え?」
「御子様は半分主上の血を受け継いでおります。運命をねじ伏せるほどと言われた主上の御力を御子様も持っているのかもしれません」
「腹の子が……」

 思ってもいなかった疑問の答え。
 仮説でしかないが、どうしてかその答えが合っている気がした。

「あなたが助けてくれたの?」

 そっと、腹に手を添える。
 ここに命が宿っているなど、まだ本当の意味では理解出来ない。
 腹も目立たない上に胎動も感じないのだから仕方ないと美鶴は思う。

 だが、今は何故かここに我が子がいると実感した。
 理屈ではない。なにか温かいものの存在を感じたのだ。
 その存在が、問いかけに“そうだよ”と応えるように温かみを増した気がする。

(弧月様と私の、大切な御子)

 懐妊が分かってからというもの、目まぐるしい周囲に付いて行くのがやっとで子の存在をちゃんと意識したことはあまりない。
 寧ろ母となることへの不安ばかりが浮かんでいた。

 自分は生まれた子を愛せるのだろうか。
 妹の春音ばかり気にかけ、自分をないがしろにしていた母のようになってしまわないだろうか。

 そんな不安は、正直今もある。
 だが、はじめて子の存在を感じた今。とても大事な存在なのだと実感する。

「助けてくれてありがとう。……私もあなたを守るからね」

 愛せるかなどまだ分からない。
 でも、大事で、大切な存在。
 守らなければ、と思った。
***

 その夜、子細を知った弧月に美鶴は叱られてしまった。

「本当に分かっているのか? そなたに何かあれば、灯と香は野犬に噛みつかれずとも罰を与えられるのだぞ?」
「申し訳ございません」

 双子を助けたことは後悔していないが、周囲を心配させてしまう行動を取ったのは事実だ。
 そこは反省しなければと思い素直に謝罪した。
 声を荒げず、諭すような苦言からは危ない真似をしないで欲しいという心配が滲み出ている。

「まったく……本当に、怪我がなくて良かった」

 最後に深く息を吐いた弧月は、美鶴の肩を引きよせぎゅうっと抱き締める。
 その抱擁の温かさと強さに、心から愛し案じてくれているのだと知った。

「本当に、申し訳ありませんでした……」

 弧月から伝わってくる愛情は泣きたくなるほどに嬉しく。
 だからこそ心配をかけてしまったことが心苦しい。

 だが、おそらく似たようなことがあれば自分はまた心配をかける行動を取ってしまうだろう。
 もちろん、腹の子が最優先ではあるが。

「弧月様、約束します。今後似たようなことがあっても一人では行動しないと。お腹の子のことを最優先に考えると」

 だから、これ以上の心配はなさらないでと伝えた。
 だが、そんな美鶴の言葉を聞いた弧月は少しの沈黙の後「やはり分かっていない」と不機嫌に呟く。

「たしかに子は最優先だが、そなた自身が傷つくのも悲しいのだぞ?」
「あ……はい。申し訳ありません」

 言われて気づき、また謝罪する。

「はあ、もうよい。一人で行動はしないということだけは本当に守ってくれ」
「はい」

 素直に返事をした美鶴の頭を弧月は愛しむように撫でた。
 その優しい手に安らぎを覚えていると、ふいに弧月が「そういえば」と口を開く。

「小夜からも聞いたが、俺を介さなくとも予知の未来を変えられたそうだな? 腹の子の力ではないかと聞いたが……」
「はい、私はそうだと思っております」

 腹に手を当て、美鶴は大切な存在を思う。
 感覚という意味ではやはりまだ感じないが、そこに確かに存在しているともう知っている。

「そうか……どんな子が生まれるのだろうな。男か、女か。妖狐なのか、鬼なのか……もしくは、美鶴のように異能を持った人間ということもあり得るのか?」

 腹に添えた美鶴の手を包むように自分の手を乗せた弧月は、どんな子が生まれるのだろうかと予測を立てる。
 心配そうな色も見えるが、やはりどこか楽し気だ。

「妖力は感じるから、普通の人間ということだけは無さそうだが」
「そうなのですか? どのような子が生まれるのか、楽しみですね」

 見上げて微笑むと、穏やかな色合いの赤と視線が合う。
 額に口付けした弧月は、「そうだな」と笑みを返してくれた。

 穏やかな、幸せの時間。
 幸福の時を感じ、美鶴はもう一つ伝えたいと思っていたことを思い出した。

「あ、あの……」
「ん? 何だ?」

 伝えたい。伝えておきたいと思っているが、恥ずかしくてすぐには言葉に出来ない。

「そ、その……まだ、伝えていなかったと思いまして……」

 今回、小夜が弧月を想っていると聞いて嫉妬した。
 本当は違うとわかり、安堵した。
 その心の揺れは、美鶴が弧月を夫として想っているが故だ。

 黙って自分の言葉を待っていてくれている弧月に美鶴は意を決して告げる。

「弧月様……私、貴方様が好きです」
「っ⁉」
「はじめは私を助け、救いあげてくれた方で……だから心からお仕えしようとばかり考えておりました」

 だが、おそらく初めから別の意味で惹かれてもいたのだろう。
 強い意思が込められた紅玉の目に自分が映ったあの瞬間から。

「懐妊が分かり、弧月様に大切にしてもらっているうちに欲が出てきてしまいました。こうして弧月様に大切に扱われるのは自分だけがいい、他の女性を見ないで欲しいと思ってしまっていたようなのです」

 だから、双子から小夜のことを聞いたとき胸が騒めいたのだ。

「こんな我が儘を口にすると弧月様を困らせてしまうと思っていたのですが……小夜にもう少し我が儘になった方が弧月様も喜ぶと言われて……弧月様?」

 話している間、弧月は黙って聞いてくれていた。
 だが、手のひらで口元を覆い何故か美鶴から目を逸らしている。
 変なことを言ってしまったのだろうかと少々慌てた。

「あ、あの。私変なことを口にしてしまいましたか? すみません、やはりこのような我が儘はご迷惑に――」

 申し訳ないと謝ろうとしたが、途中で止められてしまう。
 自分の口を覆っていた弧月の手が人差し指だけとなって美鶴の唇に触れたのだ。

「変ではない……迷惑とも思わぬ」

 困ったような微笑みは、いつもより赤いように見えた。耳に至っては真っ赤である。

「いや、何と言うべきか……とにかく、嬉しく思う」

 迷惑ではなく、嬉しいと言ってもらえてほっとする。
 そうして安心すると、今度は唇に触れている指が気になった。
 口づけとは違う、殿方の少し硬めな指の感触。
 恥ずかしいのに、軽く抑えられている唇では離れて欲しいとも言えずただ熱が上がるばかり。

「美鶴……愛している」

 弧月の朱に染まっていた耳の色が落ち着くと、指が唇から離れ頬に流れる。
 そのまま耳裏に手が差し込まれ、頭を固定された。

「弧月様……私も――っ」

 同じだと応えようとした唇は、言の葉を紡ぐ前に塞がれてしまう。
 だから、美鶴は心で続きを思う。

(私も、愛しております)

 そのまま幾度も唇を触れ合わせ、愛を確かめ合った。

***

 互いの思いを確かめ合い、大切な子を守り無事に産みたいと思う。
 そう決意した美鶴は弘徽殿への引っ越しにも意欲的になれた。

 畏れ多いとは今でも思うが、少しでも弧月の近くにいたいと思う。
 それに、大切な我が子を守るのならば守ってくれる弧月の側にいた方がいいのだろう。

 そうして引っ越しを進めつつも穏やかな日々を過ごしていたある日、状況が一変した。


 胎動だろうか。
 悪阻も少し落ち着き、下腹部に何か動きのようなものを感じるようになった。
 その感覚を不思議に思いながらも慈しみの感情を育んでいた美鶴の元へ、珍しくばたばたと慌ただしい足音が近付いて来る。

「み、美鶴様!」
「重大な知らせがっ!」

 肌寒くなってきたため、母屋の方でいつもの手習いをしていた美鶴は慌てて庇から入って来た二人の妖狐を見る。

「灯、香! そのように走るなどはしたないですよ!」
「で、でも」
「本当に重大なのです!」

 小夜に窘められても必死な様子で話す二人に、美鶴は落ち着くよう声をかける。

「落ち着いて。何があったの?」

 落ちつくよう殊更穏やかに話しかけると、ふさふさの狐耳をピンと伸ばした双子は居住まいを正し声を揃えて告げた。

『主上が、もう一人妻を迎えるらしいのです!』
 灯と香が耳を疑いたくなるような報告をしてきたその夜、美鶴は帷子(とばり)を下ろした御帳台(みちょうだい)で一人弧月を待っていた。

 自分以外に妻はいらぬと言っていた弧月が進んで新たな妻を迎えるとは思えない。
 だが、灯と香は公卿が話しているのを聞いたという。
 深紫の衣を纏う上位官が嘘や噂に惑わされ不適切な言動をしたとも思えず、小夜に頼んで弧月に問い合わせた。

 すると、夜に訪れるのでそのとき詳しく話すと返事が来たのだ。

 ふぅ、と何度目かもわからないため息を吐き、リーンリーンと鳴く鈴虫の声を聞く。
 虫聞きにと小夜が用意してくれた籠から聞こえる声は、秋の夜長に美しく響いた。
 流石に寝るときには母屋から出しているが、それでも良く耳に届く。

 そんな雅な声に耳を傾けながらも考えてしまう。
 弧月に自分以外の妻が出来るということを。

 弧月は妖帝なのだから、何人もの姫を妻として迎えるのが普通だ。子が出来ぬからいらぬ、と弧月が言うから今までいなかっただけで。
 だから自分以外の妻がいてもおかしくはないのだ。
 理性では、そう納得している。

 だが感情の面では納得など出来るわけがなかった。
 互いに愛を確かめ合い、腹の子も順調に育っている。
 このまま幸せな時が続くのかと思っていた矢先の出来事で、美鶴は荒れる感情を押さえつけるだけで精一杯だった。

(早く弧月様に会いたい)

 本日幾度も思った心の声。
 何度目かの心の声の後、「美鶴様……」と小夜の声がした。

「主上が参られました」
「ええ、通してちょうだい」

 答えると、しばらくして衣擦れの音と共に殿方のしっかりとした足音が聞こえてくる。
 その音は迷いなく母屋に入って来て、美鶴のいる御帳の前で止まった。
 するとすぐに練平絹(ねりひらぎぬ)帷子(かたびら)が上げられる。

 暗い中、外からの僅かな月明りを受けて弧月の白金の髪がほんのりと光る。
 その赤く美しい紅玉の目を確認し、美鶴は頭を下げた。

「お待ちしておりました、弧月様」
「俺こそ待たせてすまなかったな」

 優しい声がかけられ、躊躇いもなく中に入って来た弧月はすぐに美鶴の顔を上げさせ抱き締める。

「こ、弧月様?」
「本当にすまない。姫の入内の件は俺の口から話さなければならなかったというのに……説明が遅くなってしまった」
「っ!」

 謝罪と共に告げられた入内という言葉。
 それはつまり、灯と香の言っていたことは事実だということだ。

 間違いであってほしいと願ってしまっていた美鶴は、思わず身を固くさせる。
 以前小夜に感じたとき以上の嫉妬が沸き上がりそうになった。

「ただ忘れるな。俺が妻と認めるのも、唯一愛するのもお前だけだ、美鶴」
「弧月様……」

 まるで沸き上がる嫉妬心を吹き飛ばすかのように、弧月の言葉が温かな風となって美鶴の心を吹く。
 その風は強い抱擁と共に、嫉妬の代わりに胸に(とも)った穏やかな火を優しく撫でた。

(そうね……弧月様は確かに私を愛してくれている。それを疑うような感情を抱くのは弧月様に失礼だわ)

 美鶴は応えるように両手を弧月の背に回す。
 見ず知らずの姫に抱きそうになった妬みを吹き飛ばし、燃え盛りそうだった炎を慈愛の火へと変えた。

(私は弧月様を愛している。弧月様も私を愛してくれている。そして何よりその結晶とも言える二人の子がいる。……私はあり得ない程幸せ者なのだわ)

 自身の幸福を改めて実感し、騒めいていた心は穏やかに凪いでいく。
 今なら落ち着いて話を聞けそうだ。

「……聞かせてくださいまし。そのご様子では姫の入内は弧月様の御意思ではないのでしょう?」
「当たり前だ」

 不機嫌そうに即答した弧月からは不本意だという意思がありありと伝わってくる。
 拗ねている様にも見える弧月に、美鶴は少し笑ってしまいそうになった。

(お可愛らしいと思ってしまうのは、失礼かしら)

 おそらく失礼だろう。
 そう結論付けた美鶴は口には出さず心に留めた。
 代わりに話を促す。

「入内するのはどのような姫なのですか? どういった経緯で決まったのです?」

 弧月のおかげで落ち着けたため、自然と問いを口に出来た。

「……入内するのは左大臣・藤峰(ふじみね)の娘だ。莢子(さやこ)という」

 不機嫌そうな様子をそのままに、弧月は説明してくれる。
 本当に不本意なのだなと、つい苦笑を浮かべてしまった。

「元より後宮に姫を入内させろという声はいくつかあったのだ」

 だがそれは弧月自身がいらぬと拒否し続けてきた。
 歴代の妖帝の中でも特に妖力が強く、子が出来ないと言われていたからだ。

 しかし、異能があるとはいえ平民の美鶴を妻に据えた。しかもその平民が懐妊したとなれば大人しくはしていられなかったのだろう。

「もしかしたら、妖力が強いと子が出来ないというのは迷信かもしれない。などとのたまう者が出始めた……全く、馬鹿げている」

 悪態をつく弧月からは本気の怒りを感じた。
 その怒りの所以(ゆえん)も、弧月は語ってくれる。

「妖は本質的に気性が荒い。それは妖力そのものにも当てはまる」
「妖力そのものにも?」

 良く分からず首を傾げると、少し優しくなった声で弧月が説明してくれる。

「つまり、妖力自体が暴力的なのだ。だから普段は力を抑え込み人と同じ姿を取っている」
「そう、だったのですか……」

 まさか成人した貴族がそういった理由で本来の姿を隠しているとは……。
 知らなかった美鶴はひそかにかなり驚いていた。

「そのような暴力的な妖力を受けて子を成すためには、それを受け止められる受け皿が必要になる。貴族の娘は自身の妖力を受け皿にして子を成すのだ。つまり受け皿である妖力が弱ければ受けきれず流れてしまうということになる」

 弧月の説明に(さかずき)が頭に浮かぶ。
 貴族の娘の妖力が杯で、殿方の妖力が酒の様なものだろうか。

 殿方の妖力が杯に溜まれば子ができ、杯が小さく溢れて零れてしまえばできずに流れ落ちてしまう。
 少々違うかもしれないが、大まかな雰囲気としては間違ってはいないだろう。

「つまり、弧月様の妖力を受けることが出来る姫はいないということですか?」
「ああ、そういうことだ」
「ですが、それではなぜ私は身籠ったのでしょうか?」

 異能持ちとはいえ受け皿になる妖力など持ってはいないというのに……。
 その疑問に、弧月ははっきり「分からぬ」と答えた。

「平民は妖力がないからな。元より受け皿となり得ぬ。……だが、美鶴は異能を持っている。もしかするとそれが何らかの形で関係しているのかも知れぬな」
「そうですか……」

 結局美鶴が何故身籠ったのか分からないということだ。

 だが、分からないからこそ貴族の娘でも弧月の子を成すことが出来るのではないだろうかと考えるものが増えたらしい。
 その結果、とりあえず一人だけでも後宮に迎えろとうるさくなったのだとか。

「しまいには美鶴を弘徽殿に移すのを許可する代わりに、自分の娘を入内させろと言われたのだ」
「それは……」

 何と言えば良いのだろうか、と複雑な気分になる。

 自分を弘徽殿に住まわせなければ良いのでは? とも思うが、今では美鶴自身もそれを望んでいる。
 弘徽殿に移り、少しでも弧月の近くにいたいと。

 だから安易に引っ越しを止めようとも口に出来なかった。
「どんな姫が来ようと俺は美鶴以外を愛するつもりはない。美鶴以外を求めるとは到底思えない」

 左大臣たちにもそう伝えて諦めさせようとしたが、納得しなかったらしい。

「俺が女を大して知らぬからだなどと言って逆にもっと多くの姫を入内させろと言うのだ……」

 うんざりした様子に、その時の弧月の心労を案じる。
 そっと頬に触れ、少しでも癒されてくれないかと手のひらで温めた。
 すると弧月は穏やかな眼差しになり、自分の頬に触れている美鶴の手を包む。
 手の体温を感じるようにしばらく目を閉じ、ゆっくりと開いた。

「もちろん多くの姫などいらぬと突っぱねた。そうすると、今度は藤峰が妥協案を出して来たのだ」
「妥協案、ですか?」
「ああ……まず美鶴を弘徽殿へ移動させることに文句は言わぬから、莢子の入内を受け入れるようにと。そして一年経っても子ができぬならば内裏から下がらせるとな」

 そうすれば美鶴が身籠ったのは奇跡に近いことで、他の姫ではやはり無理なのだという証明にもなる。
 例えお手付きにならなかった場合でも、弧月が本当に美鶴しか見ておらず他の姫が入り込む余地はないのだと知ることが出来る、と。
 他の臣下達も左大臣である藤峰の意見に賛同し、無理だと分かったならばもう弧月の後宮のことには口出ししないと約束したのだそうだ。

「元より俺を良く思わない臣下もいたからな。今後も事あるごとに余計な手出しをされても困る。美鶴や子に関わろうとする輩も出てくるかもしれぬしな」

 だから今のうちに黙らせる方法を取ったのだという。

「そう、だったのですか……」

 結局のところ、弧月が臣下に言われるまま莢子の入内を決めたのは自分と腹の子の為だったのだ。
 どこまでも自分たちのことを案じてくれる弧月をただただ愛しいと思った。

「……分かりました。そういうことであれば、私もその方のいる一年を気を強く持って過ごします」

 多少なりとも嫉妬はしてしまうかもしれないが、弧月のことは信じている。
 たった一年耐えればいいだけだ。

「すまぬな……」

 すでに納得し切り替えた美鶴だったが、弧月はまだ少し申し訳なさそうにしている。

「お気になさらないでください。弧月様が私と子を案じて決めたことだと理解いたしましたから」
「ああ、だが……」

 大丈夫だと伝えても気に病む様子の弧月。
 罪悪感を覚えている様な弧月にどうすればいいのかと悩んだ美鶴は、一つ弧月に望んでいたことを思い出した。

「それほど気に病むのであれば、一つ私の望みを叶えてくださいまし」
「望み? 美鶴がそのようなことを言うのは珍しいな」

 弧月は驚くが、その望みとは以前にも伝えていたものだ。

「前にも頼んだではございませんか。弧月様の耳としっぽを触らせて下さいと」
「ああ、あれか……」

 思い出した弧月は、しかし少々困り顔になる。

「見せてもいいが、本来の姿は妖力が漏れやすい。抑える方に気力を使うから、あまり強く触らないでくれ」
「そうなのですか? あ、お嫌でしたら無理には……」
「よい。以前にも二人だけのときならば問題ないと言ったであろう?」

 今は丁度二人きりだからな、と微笑んだ弧月は美鶴から少し離れ軽く目を伏せた。
 暗い中でも見える白磁の肌には紅玉の美しい赤が映える。
 その赤い色彩が見えなくなったと思ったら、次の瞬間ほのかに光りを放つ白金の毛並みが現れた。

 頭には髪と同じ色の狐耳がぴんっと立つようにあり、尾は三本あるのか双子に比べて分量が多い。
 絹糸の様な毛並みは触り心地が良いだろうと見ただけで分かった。

「……どうだ?」

 少し控えめに聞いて来る弧月は、美鶴が妖狐の姿を見て畏れるとでも思ったのであろうか。
 だが美鶴は弧月の心配をよそに頬を朱に染め目を輝かせていた。

「素晴らしいです! とても綺麗で……あの、本当に触ってもよろしいのですか?」
「ああ、構わぬ」

 ふっと笑い許した弧月のしっぽに、美鶴は恐る恐る触れる。
 上質な絹織物に初めて触れたときの様な緊張があった。

「あ……」

 触れると、思ったより軽くふわりとした感触があった。
 そのまま沈めると、白金の毛並みは美鶴の手を包み込む。
 思った以上の柔らかさに美鶴は感動を覚え心が震えた。

「柔らかいです……」
「そうか……期待に応えられたのなら良かった。……だが、あまりにもゆっくり触られると少々くすぐったいな」
「あ、すみません」

 実際くすぐったそうに笑う弧月に、つい手を引っ込めてしまう。
 だが、見上げた顔には愛し気な笑みしか浮かべられておらず、美鶴はもう少しと欲を出した。

「あの、お耳も触れてよろしいですか?」
「よいが、くすぐるなよ?」

 からかうように注意されたが、よいと言われたので手を伸ばし三角の耳に指先で触れる。
 柔らかい毛並みがあるせいか、人の耳よりも固くは感じない。
 温かく触り心地の良い耳をしばらく触っていると、不意打ちのように唇に柔らかいものが触れた。

「っ⁉」
「耳はそれくらいにしてくれ。欲情してしまう」
「よっ⁉ も、申し訳ありません」

 口づけと直接的な言葉に驚き腕を下げる。
 自分を見る弧月の眼差しに色気を感じ、どきどきと鼓動が早まった。

「すまぬ、少々からかい過ぎたか?」
「か、からかったのですか⁉」

 羞恥と驚きでつい大きな声を出してしまいさらに恥ずかしい。
 だが、交わった視線からは変わらぬ甘さを感じた。

「直接的な言葉を使ってしまったのはそうだな……」

 だが、と続けた弧月は美鶴の肩を抱き引き寄せる。
 広く引き締まった胸に抱き込まれ、美鶴はまたしても鼓動が駆け足になるのを止められなかった。
 弧月の唇が耳元に寄せられ、直接声を届けられる。

「耳は触られるとむずがゆいだろう?……そうは思わぬか?」

 甘さと色気が込められた声が耳に届き、同時に熱い吐息も耳にかかる。
 ぞわりと甘い痺れを感じ、美鶴は恥じらいとは別の意味で体が熱くなっていくのを感じた。

「お、思いますっ……なのでそのっ」

 答えながら美鶴は混乱する。
 弧月は優しく甘い雰囲気で接してくることはあっても、これほどまでに色気を出してくることはなかった。
 ……いや、はじめての夜にはかなりの色気があったが。

 それでも懐妊してからは愛し慈しむといった様子の弧月だったのに……。

(こっ、これはもしかして、まだからかわれているのかしら?)

 このように迫って自分の反応を楽しんでいるのだろうかと疑いたくなる。

「ま、まだ私をからかっていらっしゃるのですか?」
「……まあ、半分は」

 苦笑気味に告げた声は、そのままいつもの優しい声音に戻る。

「だが半分は本気だ。……とはいえ、もう休むとしよう」

 そう言うと、弧月は抱いた美鶴の体を横たえ褥に寝かせた。
 触り足りないだろうと言ってふさふさのしっぽも抱かせ、優しく髪を撫でてくれる。
 からかわれたことには少し文句を言いたいのに、その優しさとしっぽの柔らかさ。そして何より安心させてくれる手に睡気が訪れる。

「おやすみ、美鶴」
「おやすみ、なさいませ……弧月様……」

 言うが早いか、すぐに美鶴の瞼は下りていく。

 莢子の入内に関しては心配が残る。
 だが今は、安寧に身を任せ安らかに眠りに落ちた。

***

 それからは日々が目まぐるしく過ぎて行った。

 弘徽殿への引っ越しも済み、住み慣れてきたころには腹もかなり膨らんできた。
 腹の中から蹴られて夜中目覚めるようなこともあり、悪阻が酷かった妊娠初期とはまた違った大変さがある。

 よく蹴ってくるのだと弧月に話すと。

「快活な子なのだな。男かもしれぬな」

 と楽し気に腹を撫でてくれた。

 そんな穏やかな時を過ごしながらも莢子の入内の準備も着々と進んで行く。


 縮こまる様な寒い冬も越え、春の兆しが温かな陽光と共に芽吹いてきた。
 美鶴も臨月に入り、いつ子が生まれてもおかしくはない。
 予定としては桜が芽吹く辺りと言われていたが、よく腹を蹴る快活さから早く生まれてくるかもしれないとも言われた。

 そんな中、莢子の入内も準備が整う。
 入内に良き日も占われ、その日も指折り数えられるほどに差し迫っていた。

 あと三日もすればこの七殿五舎に住む者が増えるのだな、と複雑な心境でいた美鶴は、その夜夢を見る。
 忙しくなり弧月も共寝出来なくなって一人寝していた夜。
 悪夢にうなされ目覚めた美鶴は、夢の内容にとっさに腹を守るよう抱えた。

(大丈夫、痛みはない。あれは、夢だわ……)

 今、現実に起こっている事ではないことに安堵する。

(でも……)

 だが、これは夢見――予知の夢だ。
 そして、夢見の内容からしてこれは三日後に起こること。

「なんてことっ……!」

 莢子の入内の日に起こるであろう事件。
 そして腹の痛み。流れる血。そして、お腹の子が――。

「っ!……駄目よ、させない」

 燃えるように強い意思が美鶴の中に宿る。

(この子は……私の子は死なせない)

 静まり返った清夜(せいや)の中、美鶴は闇を睨みながら決意した。

「私の大事な子。必ず守って見せる」

 と。
 夢見をした夜から三日。
 弧月は今、紫宸殿(ししんでん)にて本日入内する莢子を迎え入れる儀式をしている。

 その間美鶴は自身の殿から出ず、儀式が終わるまで大人しくしている様にと言われていた。
 少し離れた場所にある紫宸殿から雅楽(ががく)の音がわずかに聞こえてくる。
 普段ならば雅な音色に聞き耳を立てたくなるが、今はそのような余裕は無い。

 何故なら。

「お初にお目にかかる、弘徽殿の中宮殿。……いや、まだ更衣だったか?」

 衣擦れの音すら密やかに、見知らぬ藍色の髪の男が酷薄な笑みを浮かべ美鶴のいる弘徽殿に侵入してきたからだ。

 検非違使(けびいし)達は何をしてるのか。儀式の警護に集中しているとはいえ、外部の者に侵入を許すとは。
 ……いや、この男は内裏にも味方がいるらしいので逆に招き入れた可能性が高い。
 おそらく、莢子の入内自体この男が侵入する隙を作るために仕組まれたことなのだろう。

 男は他にも頭巾を被った供を二人連れ、許可もなく縁から庇へと入って来た。

 一つ一つの仕草は洗練され、ゆったりとした物腰は貴族のそれだ。
 一見質素だが、よく見ると上質な絹の狩衣に身を包んでいる。
 無遠慮に母屋にまで入り込む男の迷いのなさは、勝手知ったるという様子。
 男にとって弘徽殿は慣れた場所なのだと知れた。

「何故ここに? 都を出たのではないのですか? 碧雲(へきうん)様」

 扇で顔を隠しながら、小夜が凛とした声で問いかける。
 男――碧雲は取り繕ったような笑みを消し、嘲笑するように鼻を鳴らした。

「都を出たのはあの忌々しい狐が治めている土地だからだ。妖帝には私の方が相応しいというのに」

 故妖碧雲。
 先帝の実子で、弧月が生まれその妖力の強さが知られるまではこの男が今代の妖帝となるはずの東宮であったと聞いた。
 妖狐の弧月が妖帝であることを良く思っていない筆頭で、その座を奪おうと虎視眈々と狙っているのだと。

 碧雲は鬼の証である金の目を細め、淡々と語り出した。

「少しづつ追い詰め確実にあいつの息の根を止めてやろうと思っていたというのに……まさか子を成すとは思わなかった。(つがい)の存在を知らないあいつに子が出来るとは思わなかったからな」

(番? どういうこと?)

「まったく忌々しい。あいつの子であれば次代の妖帝となり得てしまう。このままその腹の子が生まれてしまうのは私としては困るのだ」
「っ!」

 語りながら、目に宿るのは憎しみの感情。
 その視線が膨らんだ腹に向けられ、思わず美鶴は身を縮こませた。

「なに、腹の子さえ死ねばお前まで殺しはしない。今日のうちに弧月にも死んでもらうからな」
「ひっ⁉」
「させませぬ!」

 恐れる美鶴を守る様に小夜が間に入る。
 だが、男の力に敵うはずもなく簡単に押しのけられてしまった。

「きゃあっ」
「小夜っ⁉」

 倒れる小夜を心配する美鶴だったが、すぐに碧雲に捕まってしまう。
 首に腕を回され、顎の部分を乱暴に掴まれる。

「うぐっ」
「さあこれを飲め、堕胎薬としても使われているほおずきの根を煎じたものだ」

 頭を固定された状態の美鶴の口元に竹筒が近付けられた。

「確実に子が死ぬようにまじないも加えた。なに、通常であっても死産など珍しくはないのだ。気にすることでもなかろう?」

(なにを……勝手なことを!)

 あまりの言いように怒り以外の感情など吹き飛んだ。
 確かに流産も死産も珍しくはない。
 だが、だからこそ大事に産み育てるのだ。

(命を何だと思っているの!)

 美鶴は生まれて初めて、燃え上がるような怒りを感じた。
 でも、今はその怒りを声に出すわけにはいかない。

「そら、口を開け」
「ぐっ」

 口を開けたとたんにその堕胎薬を流し込まれてしまうだろう。
 グッと歯を食いしばり、唇が開かぬように力を込めた。

「まったく、手間をかけさせる」

 重くため息を吐いた碧雲は、美鶴の顎を掴む手にさらに力を込める。

「ぐぅっ」

 顎骨を締められ、閉じていられなくなった美鶴の口にはすぐに薬が流し込まれてしまった。
 飲みこまぬようにと吐き出そうとするが、今度は鼻も含めて大きな手のひらで口を塞がれてしまう。
 息も出来ぬ状態。
 飲みこまずにいることは無理だった。

 ごくり

 苦し気に呻く美鶴の喉が動く。
 嚥下したのを確認した碧雲は笑みを浮かべた。

「飲んだか。ふむ、念のためもう少し飲ませておくか?」
「止めなさい!」

 一先ず美鶴が堕胎薬を飲みこんだことで気が緩んだのだろう。
 小夜の叫びと共に放たれた風の刃に碧雲は反応するのが遅れた。

 ひゅっと風の切る音がしたと思うと、碧雲が持っていた竹筒が真ん中から真っ二つに割れる。
 中に残っていた薬が落ち、(しとね)に染み込んでいった。

「ちっ、まあいい。少しでも飲んだのなら効果はあるだろう」

 少々不服そうにしながらも目的は果たしたと碧雲は美鶴の拘束を解く。
 その隙を突くように、美鶴の手から(・・・・・・)青い炎が出現し碧雲を襲った。

「なにっ⁉」

 驚き、警戒した碧雲は青の炎に包まれながらも美鶴をつき飛ばす。

「かかりましたね! 残念でした。私は美鶴様ではありません!」

 してやったりと笑みを浮かべた美鶴は、直後狐の耳としっぽを持つ灯の姿になった。

 狐と狸の妖は化けるのが得意なのだそうだ。
 予知のことを話し、対策を練っていると灯が身代わりになると申し出た。
 そのとき初めて灯と香が変化するところを見たが、見た目だけは本当にそっくりで鏡でも見ているのだろうかと思ったほどだ。

 しかし身代わりは危険ではないかと美鶴は案じた。
 だが薬を飲まされることは分かっていたので、その薬さえ無くしてしまえば予知の未来は覆るはずだという双子の意見に小夜も同意したため、このような作戦になったのだ。

 一部始終を隠れて見ていた美鶴は、薬が使い物にならなくなったのを確認して安堵の息を吐く。

 予知は覆った。
 とにかく、これで腹の子が死んでしまうということは無さそうだ。

 だが、碧雲という脅威が去ったわけではない。
 もう一度気を引きしめようと息を吸い込んだ美鶴は、そのまま呼吸を止めてしまう。
 凍えそうなほどに冷たい感情が乗せられた金の瞳と、目が合ってしまった。

「まったく……薬で穏便に済まそうとしてやったというのに」

 淡々と呟く碧雲は軽く腕を振り灯の幻火を払う。
 幻火は幻を見せるらしいが、碧雲には効果がなかったらしい。

「小賢しい。子狐の幻火など私に効くものか」

 淡々と告げる声からは怒りの感情などは伝わってこない。
 ただ、冷たい視線だけが美鶴に突き刺さる。
 その氷柱(つらら)の様な視線に凍らせられたように身動きが出来なくなった。

 碧雲はゆったりとした足取りで本物の美鶴がいる塗籠(ぬりごめ)へと近付いて来る。

「なりません!」

 小夜が身を起こして塗籠と母屋を隔てる御簾の前に立ちふさがるが、碧雲は「退()け」と軽く告げた。
 それだけで小夜の袿の裾に赤い火が点く。
 火はすぐに燃え広がり、小夜の衣を焼いて行った。

「ひっ」
「小夜!」

 流石の小夜も青ざめ、美鶴は思わず声を上げる。

 予知は、自分が碧雲によって薬を飲まされ死産となってしまうというもの。
 それ以外は視なかったため、少なくも酷い目に遭うことはないのではないかと思ってしまっていた。
 だが、碧雲が腹の子の死を願っている以上それだけで終わるはずがなかったのだ。

「小夜姉さま!」

 慌てて袿を脱ぎ捨てようとする小夜を手伝う灯。
 そんな二人の横を通り、碧雲は御簾にも火を点け焼いていく。
 上手い具合に御簾だけが焼き消えると、妻戸の裏に隠れていた美鶴の衣が見えてしまった。

「美鶴様!」

 反対側の妻戸に共に隠れていた香が美鶴を守ろうと出てくる。
 だが、ただでさえ大人と子供の差。簡単に押し飛ばされてしまった。

「香!」

 思わず駆け寄ろうと妻戸の陰から出るが、香の元に行く前に腕を掴まれてしまう。

「手間をかけさせるな」
「っ!」

 碧雲の強い手に、美鶴はそのまま母屋の方へ引きずり出されてしまった。

 どくどくと血流が早まる。
 これから一体どうなってしまうのか。
 恐怖に震えそうになるが、子を守るためにも冷静に見極めなくてはと叱咤した。

(大丈夫、少なくとも薬はもうないはずよ。今ここで御子が殺されてしまうようなことにはならないわ)

 腹の子以外の誰かが死んでしまうのであれば、予知はその人の死を視せるはず。
 だから、誰かが死んでしまうほどの酷いことにはならないはずだ。

 自分に言い聞かせるように考え心を落ち着かせる。
 だが、なんとか冷静な思考を取り戻した美鶴に碧雲はまたかき乱すような言葉を放った。

「薬が使い物にならなくなったのでは仕方あるまい……生まれたらすぐ殺してやろう」
「っ⁉」

 今は殺せなくとも、結局殺すつもりなのは変わりないということだ。
 我が子の命が奪われる危険が去ったわけではないことに動悸が激しくなる。

(だめ、落ち着いて。少なくとも今は大丈夫よ)

 呼吸を整え、気力を奮い立たせる。

 弧月は儀式のためこちらには来られない。
 だが、いざというときにはどれほど大事な儀式であろうとも放り出して助けに来ると言ってくれた。

(弧月様は絶対に来て下さる。だからそれまで冷静に対処しなければ)

 強く優しく愛しい夫を思い浮かべ、心を強く持つ。
 未だにあれほど素晴らしい帝の唯一の妻が自分で本当にいいのかと思うことはあるが、その素晴らしい妖帝が言うのだ。

『美鶴、俺の妻はそなただけだ』

 と。

 なればその妻に相応しくあろう。
 完璧にとはいかずとも、自身のすべてを持って弧月の隣に在れるよう尽力しよう。
 だから、恐ろしくとも負けるわけにはいかない。
 なにも出来ないか弱い赤子を殺そうなどとのたまう、卑怯な男などに!

 きっ、と冷たく恐ろしい金の目を睨み返す。
 そして怯まず声を上げた。

「この子は殺させなど致しません。この子は現妖帝・弧月様の御子。弧月様の妻として、御子の母として、何を置いても守り通します!」

 声は僅かに震えてしまったが、強い意志だけは貫き通す。
 足に力を込め、負けるものかと背筋をのばした。

「――っ」

 美鶴の凛とした様子に碧雲はわずかに息を吞む。
 だが、すぐに鼻を鳴らして吐き捨てた。

「ふん、平民がよく吠える。お前ごと殺してしまえれば話は早かったのだがな」

(それは、どういうこと?)

 まるで自分のことは殺せないというような言葉に軽く眉を寄せる。
 碧雲という男のことはよく知らないが、今見ただけでも平民の女一人を殺せない男だとは思えない。
 子を殺そうなどと言う男だ。妊婦だからという理由でもないだろう。

 美鶴の疑問に、碧雲は問いかけるまでもなく話し出した。

「内裏に入り込むために藤峰の娘・莢子の入内を推し進めた。入内の儀式の方に警備が集中している今の内に、その腹の子を殺すためにな」

 こうして身代わりを用意するくらいだ、勘付いていたのだろう? と碧雲は少々自虐気味に笑う。

「その莢子の入内に必要な品を用意すると協力を申し出た平民がいるのだ。協力する代わりに、お前を生きたまま渡してくれとな」
「協力した、平民?」

 誰のことだろう? と疑問に思う。
 自分のことを知る人物は今も昔もあまり多くはない。
 平民と聞いて真っ先に思い浮かぶのは家族だが、自分を必要だと思ってもらえるとは思えない。
 何より、大門の火事の後消息を絶ったのだ。死んだと思われてるに決まっている。

 なのに碧雲は楽し気な笑みを口元に戻し、連れてきていた頭巾を被った二人を見た。

 そういえばこの二人は来てからずっと庇に留まり動いていない。
 まさかこの二人がその平民なのだろうか?

 視線を向けると、背の高い方から男の声がした。

「……まったく、何故お前が妖帝の妻などに……帝とはいえ、妖にくれてやるつもりで育ててきたわけではないというのに」
「っ!」

 もう聞くことはないと思っていた声。
 だが、生まれてからずっと聞いてきた声だ。聞き間違えるとは思えない。

「本当に。大体生きていたなら帰って来なさいよ、姉さん」
「……はる、ね?」

 もう一人からは同じくもう聞くことはないと思っていた妹の春音の声がする。
 信じられない思いで見つめると、二人は頭巾を取り顔を晒す。

 そこには、二度と会うことはないと思っていた父と春音の姿があった。
***

 清められた神聖なる紫宸殿にて雅楽が響き渡る。
 琵琶や楽箏(がくそう)(そう)する拍子に合わせ、(しょう)の高く澄んだ音が天から降り注ぐ光のように広がる。
 主旋律を奏でる篳篥(ひちりき)が耳に心地よい。

 束帯に身を包み儀式を進めていた弧月は、しかし内心不満たらたらであった。

(このような茶番は早く終わらせたいものだな)

 美鶴の予知のおかげでこれから起こることもある程度予測がついた。
 なればこそ、このような茶番に付き合いたいとは思わぬし、それならば美鶴の側にいて守りたいと思うのは当然のこと。

 何より美鶴以外の女を入内させるための儀式など茶番であろうともしたいとは思えなかった。
 むしろ美鶴にこそ正式に中宮となるための儀式を受けて欲しいと思う。
 身籠っている今は儀式などしていられないのだから仕方ないが、どうせなら美鶴のための儀式をしたかったという思いは無くならない。

 だが、そんな不満ばかりの儀式も半ばで終わりを迎える。

 藤峰が莢子を連れてくるはずの南庭へ出ると、明らかに物騒な様子の者達が紫宸殿を取り囲んでいた。
 その中には碧雲が都を出る際付いて行った者達の顔も見え、予測は確信へと変わる。

 南庭の中央には藤峰の姿があり、莢子が乗っているであろう牛車もある。
 嫁入り道具なども揃えているようだが、周囲の物々しい様子に戸惑いを見せていないことからも現状は藤峰にとってあり得ぬ事態というわけではなさそうだ。
 むしろ、藤峰こそが仕組んだことなのだろう。
 それが分かっていて、弧月はあえて問いかけた。

「さて、これは一体どういうことだ? 左大臣・藤峰、本日は其の方の娘が入内するのではなかったか?」

 問いに、藤峰はにこやかに答える。

「もちろん致しますよ。だが、莢子が入内するのは弧月様の後宮ではございません」
「ほう? では誰のだ?」

 さらに問いかけると、藤峰はすっと冷たく目を細め敵意を露わに声を上げた。

「碧雲様の後宮にです。莢子は碧雲様の中宮になるのだ!」
「はて? 碧雲は都を出たと思ったが?」

 美鶴の予知で碧雲がこの儀式の最中に内裏に忍び込んでくることは分かってはいたが、あえてすっとぼけて話しを続ける。

「お戻りになるに決まっているでしょう。妖帝となるのは碧雲様でなければならない。お前の様な狐に務まるわけがないのだ!」
「……口には気をつけた方がよいぞ?」

 妖帝である自分を“お前”などと呼ぶ藤峰に忠告する。……もう遅いかも知れぬが。

「構うものか。お前は本日をもって妖帝の座から降ろされるのだ、碧雲様の手によって!」

 話しているうちに興奮してきたのか、藤峰は面白いくらいに自らの悪事を話し始めた。
 左大臣として不本意ながら弧月に仕えていたこと。
 本心を隠し、碧雲が妖帝として都に戻れるように暗躍していたこと。

 美鶴と出会った大門の火事も、藤峰と碧雲で仕組んだことだと白状した。

「大門の火事はもっと燃え広がる予定だったというのに。大火事になりその対処にお前が追われている間に内裏を乗っ取る計画だった。だというのに火事は早々に鎮火されてしまうし……」

 徐々に愚痴になってきている辺り、相当鬱憤を溜め込んでいたらしい。

(全く、そこまで溜め込むくらいならば我慢せず碧雲に付いて行けば良かっただろうが。その方がこちらとしても助かったというのに)

 悪態をつきそうになるのをため息で流す。
 同時に、やはりあの火事も碧雲の仕業だったのかと納得した。

「しかも火事の後、お前はいつの間にか今まで持たなかった妻を娶り、あろうことか子が出来てしまった。これ以上放置は出来ないという碧雲様のお言葉で今回やっとお前を妖帝の座から引きずり下ろす計画に至ったのだ」
「……放置できぬから。そんな理由で美鶴と我が子に手を出すのか?」

 それまで淡々と受け答えしていたが、妻と子のこととなると感情を抑えてはおけなくなる。
 怒りを揺らめかせた低い声が自然と口から出てしまった。

「なんだ、気付いていたのか。そうだ、碧雲様のお言葉ではあの異能持ちの平民は目障りなのだそうだ。そして、腹の子は処分しなければならぬとな」
「……ほう?」

 藤峰の言葉に、自分でも制御出来ぬ怒りが湧き上がる。
 碧雲が美鶴と子を害そうとしていると知っただけでも怒りが湧いてきたが、第三者の口から実際に言葉として聞くと腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えた。

 おそらく、今まさに碧雲は美鶴のいる弘徽殿へ向かっているのだろう。
 自分の(めい)を受けた小夜たちがいる以上子が殺されてしまう事態は避けられるはずだ。
 生まれてもいないが我が子にも運命をねじ伏せる力があるようだし、美鶴が予知した未来は変えられる。
 だが、それでも碧雲が美鶴と子を害そうとしているという話を聞くだけで嵐のように感情が乱れた。

 大丈夫だと自分に言い聞かせるが、早くこの場を制して向かわねばならぬと気が焦る。

「それを聞いて俺が助けに向かわぬとでも思っているのか?」

 怒りが凍てつく視線となり藤峰を射抜く。
 藤峰はたじろぐが、自分の方が優位だと思っているのだろう。鼻を鳴らし嫌な笑みを浮かべる。

「ふ、ふん! だからこその我らだ。あちらのことが終わるまでお前を足止めしておくのが私の仕事だ」
「ほう? お前たちがこの俺を足止め出来るとでも?……舐められたものだな」

 軽く見回しただけでも数十人。族は紫宸殿を囲っている様なので百はいるかもしれない。
 こちらには時雨を含め数人の味方がいるが、普通ならばこの人数差で勝てるわけがない。
 だが、数ではないのだ。

「舐めてはおらぬ。仮にも妖帝となる妖だ、我らだけで倒せるとは思っておらぬよ。だが、碧雲様が勝ちやすいように力を削ることは出来るはずだ」

 藤峰は自分は慎重だと笑うが、何も分かっていない。

(そろそろ待つのも限界だ)

 怒りも頂点に達し逆に冷静になる。
 この愚か者たちにはしっかりと力の差を見せつける必要があるようだ。

「それを舐めているというのだ。……だがよかろう、そこまで思い上がっているのならば見せてやる。歴代最強と言われる現妖帝の力を」

 もはや抑える理由など無いだろう。

 そう判断した弧月は抑えていた妖力を解放する。
 以前美鶴に見せたときのように慎重に調整したりなどしない。

「え? なっ⁉ 主上⁉」

 今まで黙って成り行きを見守っていた時雨が慌てて止めようとする。
 だが、抑える気のない弧月はそのまま妖としての本来の姿を晒した。

 狐の耳と九本の尾を持つ妖狐――鬼をも凌ぐ、九尾の姿を。

「なっ⁉ ぐぁっ!」

 その姿を目にした瞬間、その場にいた者達は皆地に伏せた。
 九尾の妖力に文字通り押しつぶされたのだ。

 弧月の体から陽炎のように揺らめくのは本来見えないはずの妖力。
 可視化出来るほどの妖力は、その強さも表していた。

「なっ⁉ こんな……これほど、とは」

 流石は高位の妖とでも言うべきか。藤峰にはこの状態でまだ話せるだけの余力があったらしい。
 だが、それもすぐに尽きる。
 ぐっと呻き、顔も地面につく。

 地に伏した全ての者どもを睥睨(へいげい)した弧月は、側でかろうじて立ち膝で耐えている時雨にこの場を託した。

「時雨、俺は美鶴の元へ行く。お前はこの者どもを捕らえろ」
「くっ……全く、人使いの荒い……」
「頼んだぞ」

 短く頼み早々に去る。
 今の状態で長居すると、時雨も使い物にならなくなってしまうだろうから。

(美鶴、今行く)

 同じ内裏の敷地内であっても、少々離れた場所にいる誰よりも愛しい存在の許へ急いだ。
***

 不機嫌そうな父と妹の表情。
 それは平民として生きてきた間ずっと見ていたもので……。
 一瞬、今までのことが全部夢だったのではないかと錯覚してしまう。

 心穏やかな日々。
 身籠り、愛されるということを知り、守りたいと強く思った。

 それらの大切なことが父と春音の顔を見ただけで夢幻のように儚く消えそうな感覚に陥る。

「とう、さん?」
「ふん、ちゃんと覚えているじゃないか。こんなところにいて、親の顔を忘れたのかと思ったぞ?」

 不機嫌に皮肉を口にする様はやはり父だ。
 美鶴を我が子とも思っていなかったことを棚に上げる傲慢さも、父そのものだった。

「何でもいいから、帰るわよ姉さん。姉さんがいなくなってから母さんが大変なことになったんだから」
「え……?」

 母のことを面倒そうに語る春音に、一体何があったのかと戸惑う。
 仲の良い母子であった二人。このようにうんざりした様子で語られるようになるとは。

「大門の火事の後、お前はいなくなった。死人はいないと聞いたが、状況的に死んだと判断した」

 淡々と語る父の様子を見るに、父本人はやはり自分が死んだとなっても特に何も思わなかったのだなと知った。
 それを寂しいと思うくらいには、かつての家族を美化していたのかもしれない。
 愛されていたときもあったのだ、と。

「父さんと私はまあ仕方ないなとしか思わなかったけれど、母さんは違ったわ。ずっと泣きながら『ごめんなさい』って謝り続けて、病んでしまった」
「っ!」

(母さんが?)

「その母さんの世話を私がしているのよ? どうして私がそんなことをしなきゃならないのかしら。姉さんが原因なんだから、姉さんが世話をすればいいのよ」

 父に続いて母のことを語る春音の様子もうんざりといった様子で、あれほど可愛がられていたというのに母を労わる様子が感じられない。
 父と春音は似ている。
 昔から度々思っていたが、ここまで家族の情に薄いとは……。

「だそうだ。そういうわけだからお前はこの者達に引き渡す」

 軽く呆れた様子で告げた碧雲は、美鶴の腕を強く引き二人の方へ差し出した。
 それを受け取る様に、今度は父が反対側の腕を掴む。
 碧雲以上に容赦のない力で引かれた。

「いっつ」

 その強さに、思わず顔を歪める。
 だが容赦がないのは手の力だけではなかった。

「その腹の子を無くしてから連れて行きたかったが、仕方ないな。碧雲様の言う通り生まれてから殺すしかない」
「なっ⁉」

 あまりな言葉に絶句する。
 たとえ望んでいなかったとしても、腹の子は父にとって孫にあたる。
 それを平然と『殺す』などと……。

「なんだその顔は? 利用することも出来ぬ妖の孫などいらんぞ。大体、お前の異能とて妖に勝手に植え付けられたものらしいではないか」
「え?」

(異能を植え付けられた?)

 父は何を言っているのか。
 理解出来ない美鶴に、今度は碧雲が語りかける。

「弧月に印を与えられただけの憐れな娘。その異能のせいで蔑ろにされ続けてきたのだろう? 自分を不幸にした男の子など産まずともいいのだぞ?」
「何を⁉」

 振り返り見た顔には先ほどまでとは打って変わって憐れみの色が見える。
 その変わりように言葉を続けられずにいると、碧雲は続けて話し出した。

「弧月のように強い妖力を持ってしまった妖には子が出来ぬ。その妖力を受けきれる姫がおらぬからな」

 弧月が以前話してくれた受け皿の話だろう。
 強大な妖力を受け止め子を成すために必要な妖力の器。

「だからそのような強い妖は、妖力を持たぬ人間に自身の力を分け与え(つがい)の印を刻むのだ」
「番の印……?」
「そう、それが異能として現れる」
「っ⁉」

 はじめて聞く話に、美鶴だけではなく小夜たちも驚きの表情で固まっている。
 妖の貴族の間でも知らぬ者が多いということだろう。

「で、でも、私と弧月様は大門の火事のときに初めてお会いしました。いつ印を刻んだというのですか⁉」

 有り得ないと反論しようとするが、碧雲は何でもないことのように答える。

「さて、いつであろうな? 大方お前が母の腹にいるときにでも牛車ですれ違ったのだろう」
「なっ⁉」

 あまりにも大雑把な答えに絶句する。
 だが、碧雲は別にふざけているわけではないようだ。

「この答えは不服か? だが実際そういうものだ。番の印は無意識に刻んでしまうものらしいからな」
「無意識に……」

 繰り返し呟きながら思う。
 無意識にというのであれば碧雲の言った通りすれ違っただけということもあるのだろう。

「帝や東宮にだけ語り継がれる話だ。奴が東宮になった頃は先代妖帝の父は病床であったし、私も話してはいないから弧月は知らぬはずなのだがな。よくまあ自力で見つけ出したものだ」

 少し呆れを含ませた碧雲の言葉を聞きながら、美鶴は呼吸を乱した。
 どくどくと、早まった脈の音が耳奥に響く。

(今の話が本当なら、私の異能は弧月様に与えられたということ?)

 異能があったせいで両親から愛されなくなり、周囲の人達からも異様なものを見る目を向けられていた。
 異能がなければと何度呪ったことか。

 その異能を与えたのが弧月だというならば、恨みを抱いてもおかしくはないだろう。

 だが弧月と出会い、必要とされ、愛されることで逆に異能を持っていて良かったと思うことが増えた。
 大切な子も出来て、幸福を知った。

 その幸せを与えてくれたのも弧月だ。

 恨みたい気持ちと愛しい気持ちが水と油のように混ざり合うことなく共に渦巻いている。
 どうしたらいいのか分からない。

 だが、続けられた碧雲の言葉にはっとする。

「お前を不幸にした男は始末してやる。腹の子も産まれたら処分してやろう。事情を知ったお前の父は前とは違いお前を必要としている。迷わずあるべき場所に戻るといい」
「っ⁉」

 憐みの言葉。
 だが、その言葉に美鶴は強い拒絶を覚えた。

(弧月様を始末する? 子も産まれたら処分する? 父さんが、私を必要としている?)

 弧月が死ぬのも、子が死ぬのも駄目だ。絶対にあってはいけない未来だ。
 それに、父が必要としているのは愛する娘ではなく病んだ母の世話をする道具としての娘だろう。
 腕を掴む容赦のない力強さからも、優しさなど欠片も感じられないのがその証拠だ。

(この子を守らなくては)

 迷いようもない子を守りたいという気持ち。
 その純粋な強い思いを自覚して、全ての迷いが吹き飛んだ。

 不幸の原因である異能を与えたのが弧月だとしても、死ぬ運命だった自分を救いあげ愛してくれたのも弧月だ。
 自分を不幸にしようという意図を持って番の印を刻んだわけではないのだから、そのことを責めても仕方のないこと。

 変えられぬ過去を思い悩んでなどいられない。
 大切なのは今と未来だ。
 今の自分は幸せであり、その幸せが未来まで続くための選択をする。
 そして今の幸せを形作っているのは弧月だ。
 彼の方無くして自分の幸福はあり得ない。

 水と油だった、恨みたい気持ちと愛しいという感情。
 恨みはやはり消えないが、小さくなり愛情が包み込む。

 そうして、美鶴は決意した。
 今の幸福を形作る全てのものを愛し守ろうと。

「いいえ……いいえ、戻りません。私の居場所はここです。帰る場所は弧月様のお側以外にありません」

 決意を言葉に込めて、足に力を入れる。
 天に引かれるように背を伸ばし、真っ直ぐ金の目を睨み返した。

 もう一時たりとも迷わない。

「私は妖帝・弧月様の妻にしてその御子の母。今の私を形作るものは、それが全てです」
「……愚かなっ!」

 途端、憐憫(れんびん)の情を張り付けていた碧雲の顔に憎しみの色が戻る。
 今この瞬間、碧雲にとって美鶴は憐れむべき弱き者ではなく敵となった。

「力を与えられただけの平民風情が……今すぐ腹の子ごと殺してもいいのだぞ?」

 地を這うような低い声に気圧(けお)されそうになる。だが、迷わないと決めた。
 美鶴は負けぬように顎を引き、揺るがぬ意思を視線に込める。

「そんな! それでは話が違います」

 叫んだのは父だ。
 碧雲の殺気を感じ取ったのかもしれない。

「ならばさっさと連れて行くのだな。目障りだ」
「は、はは! そら、早く行くぞ美鶴」
「いやっ!」

 慌てて引く父に抵抗すると、黙って見ていた春音も近付いて来た。

「我が儘言わないで姉さん! 本当に殺されるわよ? 私たちは家族として助けてあげようとしてるんじゃない」

 つい先ほど病んだ母の世話をしろと言った口で恩着せがましいことを言う春音に呆れる。
 生まれたときから見ているのだ。どちらが本音なのかは問い質さずとも分かる。

「これ以上失望させるな! 前までと違って今はお前を必要としてやっているんだぞ⁉」
「い、やっ!」

 抵抗するが、怒り出した父の力は強く春音も加わった。
 重い衣を纏っていても引きずられてしまう。

「美鶴様!」
「美鶴様を離しなさい!」
「おやめなさい! 連れてなど行かせません!」

 灯と香、そして小夜が叫ぶ。
 だが、三人の前には碧雲が立ち塞がった。

「お前たちこそ邪魔をするな。あまりに煩いと貴族の娘であろうと始末するぞ」
「くっ!」

 碧雲の圧に三人は動けない。
 このまま連れ去られてしまうのかと思いかけたそのとき、父と春音の袖に青い炎が突如現れた。

「ひっ⁉ 何だ⁉」
「やだっ、熱いっ!」

 炎に驚き美鶴を離した二人は床に伏し火を消そうとのたうつ。
 その様子を驚き見ていた美鶴の耳に、愛しい声が届いた。

「俺の妻をどこに連れて行くつもりだ?」

 静かで冷ややかな声音。
 怒りを内包した声はそれほど大きな声でなくともその場に響いた。
 直後に美鶴の身を包んだ腕は温かく、怜悧な声とは裏腹に優しい。

「弧月様……」

 必ず来てくれると信じていた存在の登場に、美鶴は安堵の息を吐いた。
(もふもふが沢山……)

 弧月の登場に余裕が生まれたからだろうか。
 美鶴は場違いにもそんなことを思ってしまった。

 だが仕方ないだろう。
 以前触れた絹糸の様な美しい毛並みのしっぽが三本から九本に増えているのだから。

(弧月様のしっぽは本当は九本だったのね……そういえば以前見せて頂いたときは力を抑えていると言っていたような)

 思い返しながらつい無意識にしっぽに手を伸ばそうとして、弧月の声に引き戻される。

「さて……この者達はなんだ?」

 軽く見回し、見知らぬ平民のことをまず問う弧月に慌てて答えた。

「あ、私の父と妹です。弧月様が来て下さったなら私はもう大丈夫ですから、炎を消していただけますか?」
「そうか。ならばやり過ぎるわけにもいかぬな」

 連れ戻されるのは困るし、変わらず自分のことを道具のようにしか思っていなさそうな父と妹にかける情は少ない。
 だが、酷い目に遭って欲しいとまでは思わないのだ。
 そんな美鶴の意図を汲んで、弧月は二人の袖についている青い炎を消してくれた。

 二人は炎が消えると、そのまま気を失ってしまう。
 その腕は少々火傷しており、やはり弧月の炎は普通の妖狐のものとは違うのだなと思った。

(幻火ではないということかしら? それに、この御姿も……)

「弧月様は、九尾だったのですね」

 軽い驚きと共に呟く。
 九尾の妖の存在は小夜から聞いていた。
 数百年に一度現れるかどうかという希少な妖狐だと。

 そんな珍しい存在のことを詳しく話す小夜を不思議に思っていたが、弧月がそうであったからなのだなと納得した。

「ああ、そうなのだが……美鶴は大丈夫なのか? 俺の妖力に当てられてはいないか?」
「え?」
「妖力の圧によって、普通の妖でも立っていられなくなる。人間なら気を失ってもおかしくはないのだが……」

 何故だ? と不思議そうに問われた。

 弧月の言っていることがよく分からない。
 確かによく見ると、弧月の体からは陽炎のように何かが溢れ出しているのが見えた。だが、気を失うような圧など感じない。

 大袈裟ではないかと周囲を見回すと、小夜が床に突っ伏すように倒れているのが見える。
 灯と香も「むきゅう……」と目を回していた。

「うっ、このっ……」

 苦し気に呻く碧雲は、床に突っ伏すことはなくともまともに立ってはいられない様子で……。
 何故? と疑問に思うが、一つ思い当たることがあった。

(私の異能は、弧月様の妖力で番の印として与えられたもの……)

 ならばこの身の内に弧月の妖力と同じものがあるということだろう。
 今九尾となった弧月の妖力に当てられずに済んでいるのはそのせいかもしれないと思った。

「まあ、なんにせよ美鶴が大丈夫なら問題ない。早々にこの場を収めてしまおう」

 良かった、と安堵した弧月は優しく美鶴を見ていた紅玉の目をすっと細め、怜悧な眼差しを碧雲に向ける。

「さて碧雲。その様子ではまともに戦うことも出来ぬと思うが?」
「こ、げつ……お前、その姿は……」

 弧月の問いかけに、しかし碧雲はただ驚愕の色を見せる。

「ああ、東宮と定められ内裏に入ってからは本来の力を出すことはなかったからな……だが、見ての通りだ」
「くっ……九尾か。だが、所詮は狐だ……鬼こそが、最強なのだ!」

 弧月を映す金の目に燃え盛る炎を宿し、碧雲は足に力を入れ真っ直ぐに立つ。
 風もないのにざわりと藍色の髪が揺れ、額から二本の角が生える。
 そこには、怒りに燃えた鬼がいた。

「……俺の妖力に対抗出来るのは流石ではある。だが、忘れてはいないか? 俺が鬼の血も引いているということを」
「それがなんだ! 鬼の血を引いていようと狐であることに変わりはない。幻火しか扱えぬ狐に鬼の炎が劣るわけがなかろう!」

 叫び、碧雲はその手の平に赤い炎を出現させる。
 その揺らめきは大門の火事を思い起こさせ、美鶴は知らず身震いした。
 だが、その恐怖も弧月の手が払ってくれる。
 片手で優しく髪を撫で、安らぎを与えてくれた。

 敵である碧雲と対峙している最中(さなか)でも自分を気遣ってくれる弧月に、胸の奥が温かくなる。
 このぬくもりこそが自分の幸せ。
 やはり、弧月無くして自分の幸せはあり得ないのだと美鶴は再び思った。

「そう思うならば見せてやろう。鬼の血も受け継ぐ九尾の炎を」

 髪を撫でた手で優しく美鶴を抱いたまま、弧月はもう片方の手に青い炎を出現させる。

「良いだろう、その娘共々燃やし尽くしてくれる!」

 叫びと同時に碧雲の赤い炎が放たれ、対する弧月も青き炎を放つ。
 双方の手を離れた炎は真っ直ぐにぶつかり、拮抗し合うかに見えた。
 だが、押し合うことなく青い炎が赤を包み吞み込む。

「なっ⁉ なにが⁉」

 赤の炎を吞み込んだ青い炎はそのまま碧雲に向かって行き彼を包み込んだ。
 青い炎に包まれた姿は先ほど灯の幻火に包まれたときと同じ。
 だが、包まれた碧雲の様子はまるで違った。

「ぐあぁっ! 熱いっ! 何故だ? 何故たかが幻だというのに熱を感じる⁉」
「だから鬼の血も受け継いでいると言ったであろう?」

 叫びの中に戸惑いの言葉を混ぜながら膝を付く碧雲に、弧月は平坦(へいたん)な声で話した。

「確かに妖狐の炎の本質は幻を見せる幻火だ。それは九尾であっても同じ」
「ならば何故熱いぃ⁉」
「それは何度も言っているだろう? 鬼の血を受け継いでいるからだと。俺は自分の意志で炎の性質を変えることが出来るのだ」

 妖狐としての幻火と鬼の血を受け継ぐ者としての熱き炎。そのどちらも使えるのだと語る。
 そして腕を軽く振り、一度炎を消した。

「ぐっ……うぅ……」
「理解したならばもう良いだろう。後は取り調べまで大人しくしているがいい」

 淡々と告げると、弧月はまた青い炎を出し碧雲を包む。
 ただ、今度は熱いと騒がず朦朧とした様子でゆっくりと床に伏した。
 どうやら今回の炎は幻火だったらしい。

「余罪もありそうだ。藤峰共々しっかり調べ上げて罰しなければな」

 静かになった弘徽殿に弧月の呟きが響き、その姿が人のものとなる。
 ふさふさの耳としっぽがなくなり少々寂しく思った美鶴だったが、あのままでは小夜達が床にくっついてしまいそうだ。
 仕方がないと諦めた。

「美鶴、本当に大丈夫か?」
「え? はい、大丈夫ですよ」

 九尾の妖気に当てられなくとも襲われ連れ去られそうになったのだ。
 臨月の身では尚辛いだろうと心配されてしまう。

(確かに少し前から重苦しい辛さはあるけれど、臨月に入ってから度々感じたものと変わりはないし……)

 大丈夫だと思う。
 だが、少々休ませてもらった方がいいかもしれない、そう思ったときだった。

「うっ……」
「美鶴?」

 先ほどまでより強くなってきた辛さについ呻く。

「だ、大丈夫です」

 弧月に心配させないように笑顔を浮かべてみるが、また苦しい痛みにそれも歪んだ。

(まさか御子に何か?……いえ、この感覚は――)

「うっ……美鶴様? もしや、陣痛が始まっておられるのではございませぬか?」

 弧月の妖力の圧が無くなったことでなんとか体を起こした小夜に聞かれる。
 陣痛は月のものの痛みを強くしたようなものだと聞いた。そして、波のように一定の感覚を置いて起こるのだと。

「……そう、かもしれません」

 重い痛みは徐々に強くなっているし、一定の感覚を開けて痛む気がする。
 元々いつ生まれてもおかしくない状態だったのだ。今陣痛が来たとしてもおかしくはない。

「は? なっ⁉ う、生まれるのか? 一先ず横に――いや、まずは医師(くすし)か?」

 先ほどまで強き妖帝として引き締まっていた弧月の顔が少々うろたえた表情になる。
 その落差がどこか可愛らしく思えて、美鶴は「ふふっ」と笑ってしまった。

「そうですね、女医(にょい)を呼んで下さいまし。私は小夜と共に移動致します」

 出産では多くの血が出る。
 血は穢れのため、宮中で出産するわけにはいかないのだ。

 昔は貴族の娘も都を離れ山の中にある小屋で出産したようだが、数代前の妖帝があまり離れていては危険もあると言い出し都の端に専用の小屋を建てた。
 今は出産のために、白綾屏風などですべてを白にしつらえている。
 そこに移動しなければならない。

「そうか。……だがやはり心配だ、何故俺は立ち会ってはならぬのか!」



 ぐっと眉間にしわを寄せ嘆く弧月を愛おしく思う。

 出産時に多く出る血を苦手に思う殿方の方が多く、立ち会いたいなどと言ってくれる方は稀だ。

 こうして思い嘆いてくれるだけでもとても嬉しかった。

 だが、気力を取り戻し、しっかりと立ち上がった小夜がピシャリと告げる。



「そうやってうろたえているだけならばいても意味がないからです!」



 まなじりを吊り上げて、慌てる弧月の言葉をばっさりと切った。

 普段の丁寧な物言いが崩れているのは、小夜も多少は慌てているからだろうか。



「主上は女医を呼んだら族の捕縛を取り仕切って下さいまし。このままでは美鶴様が無事にご出産なされても安心して戻っては来られませぬ」

「わ、分かった」



 弧月から美鶴を奪うように引き離し、小夜ははっきりと弧月がするべきことを告げた。

 臣下であるはずの小夜にたじたじになっている弧月を見て、もしかしたら本当に最強なのは小夜なのかもしれないと美鶴は思う。



「灯! 香! しっかりおし! 美鶴様のご出産ですよ、準備を手伝いなさい!」

「ふぁ、ふぁいっ!」

「りょ、了解ですぅー!」



 小夜の叱責に双子も少々ふらつきながら立ち上がる。

 そんな三人に手伝われて白装束を身に纏った美鶴は、部屋に移動し出産に臨んだ。



 そして数刻後。

 陽も落ち人々が寝静まる頃に、宮中の端で元気な産声が上がる。



 美鶴は無事、男の御子を出産した。