灯と香が耳を疑いたくなるような報告をしてきたその夜、美鶴は帷子(とばり)を下ろした御帳台(みちょうだい)で一人弧月を待っていた。

 自分以外に妻はいらぬと言っていた弧月が進んで新たな妻を迎えるとは思えない。
 だが、灯と香は公卿が話しているのを聞いたという。
 深紫の衣を纏う上位官が嘘や噂に惑わされ不適切な言動をしたとも思えず、小夜に頼んで弧月に問い合わせた。

 すると、夜に訪れるのでそのとき詳しく話すと返事が来たのだ。

 ふぅ、と何度目かもわからないため息を吐き、リーンリーンと鳴く鈴虫の声を聞く。
 虫聞きにと小夜が用意してくれた籠から聞こえる声は、秋の夜長に美しく響いた。
 流石に寝るときには母屋から出しているが、それでも良く耳に届く。

 そんな雅な声に耳を傾けながらも考えてしまう。
 弧月に自分以外の妻が出来るということを。

 弧月は妖帝なのだから、何人もの姫を妻として迎えるのが普通だ。子が出来ぬからいらぬ、と弧月が言うから今までいなかっただけで。
 だから自分以外の妻がいてもおかしくはないのだ。
 理性では、そう納得している。

 だが感情の面では納得など出来るわけがなかった。
 互いに愛を確かめ合い、腹の子も順調に育っている。
 このまま幸せな時が続くのかと思っていた矢先の出来事で、美鶴は荒れる感情を押さえつけるだけで精一杯だった。

(早く弧月様に会いたい)

 本日幾度も思った心の声。
 何度目かの心の声の後、「美鶴様……」と小夜の声がした。

「主上が参られました」
「ええ、通してちょうだい」

 答えると、しばらくして衣擦れの音と共に殿方のしっかりとした足音が聞こえてくる。
 その音は迷いなく母屋に入って来て、美鶴のいる御帳の前で止まった。
 するとすぐに練平絹(ねりひらぎぬ)帷子(かたびら)が上げられる。

 暗い中、外からの僅かな月明りを受けて弧月の白金の髪がほんのりと光る。
 その赤く美しい紅玉の目を確認し、美鶴は頭を下げた。

「お待ちしておりました、弧月様」
「俺こそ待たせてすまなかったな」

 優しい声がかけられ、躊躇いもなく中に入って来た弧月はすぐに美鶴の顔を上げさせ抱き締める。

「こ、弧月様?」
「本当にすまない。姫の入内の件は俺の口から話さなければならなかったというのに……説明が遅くなってしまった」
「っ!」

 謝罪と共に告げられた入内という言葉。
 それはつまり、灯と香の言っていたことは事実だということだ。

 間違いであってほしいと願ってしまっていた美鶴は、思わず身を固くさせる。
 以前小夜に感じたとき以上の嫉妬が沸き上がりそうになった。

「ただ忘れるな。俺が妻と認めるのも、唯一愛するのもお前だけだ、美鶴」
「弧月様……」

 まるで沸き上がる嫉妬心を吹き飛ばすかのように、弧月の言葉が温かな風となって美鶴の心を吹く。
 その風は強い抱擁と共に、嫉妬の代わりに胸に(とも)った穏やかな火を優しく撫でた。

(そうね……弧月様は確かに私を愛してくれている。それを疑うような感情を抱くのは弧月様に失礼だわ)

 美鶴は応えるように両手を弧月の背に回す。
 見ず知らずの姫に抱きそうになった妬みを吹き飛ばし、燃え盛りそうだった炎を慈愛の火へと変えた。

(私は弧月様を愛している。弧月様も私を愛してくれている。そして何よりその結晶とも言える二人の子がいる。……私はあり得ない程幸せ者なのだわ)

 自身の幸福を改めて実感し、騒めいていた心は穏やかに凪いでいく。
 今なら落ち着いて話を聞けそうだ。

「……聞かせてくださいまし。そのご様子では姫の入内は弧月様の御意思ではないのでしょう?」
「当たり前だ」

 不機嫌そうに即答した弧月からは不本意だという意思がありありと伝わってくる。
 拗ねている様にも見える弧月に、美鶴は少し笑ってしまいそうになった。

(お可愛らしいと思ってしまうのは、失礼かしら)

 おそらく失礼だろう。
 そう結論付けた美鶴は口には出さず心に留めた。
 代わりに話を促す。

「入内するのはどのような姫なのですか? どういった経緯で決まったのです?」

 弧月のおかげで落ち着けたため、自然と問いを口に出来た。

「……入内するのは左大臣・藤峰(ふじみね)の娘だ。莢子(さやこ)という」

 不機嫌そうな様子をそのままに、弧月は説明してくれる。
 本当に不本意なのだなと、つい苦笑を浮かべてしまった。

「元より後宮に姫を入内させろという声はいくつかあったのだ」

 だがそれは弧月自身がいらぬと拒否し続けてきた。
 歴代の妖帝の中でも特に妖力が強く、子が出来ないと言われていたからだ。

 しかし、異能があるとはいえ平民の美鶴を妻に据えた。しかもその平民が懐妊したとなれば大人しくはしていられなかったのだろう。

「もしかしたら、妖力が強いと子が出来ないというのは迷信かもしれない。などとのたまう者が出始めた……全く、馬鹿げている」

 悪態をつく弧月からは本気の怒りを感じた。
 その怒りの所以(ゆえん)も、弧月は語ってくれる。

「妖は本質的に気性が荒い。それは妖力そのものにも当てはまる」
「妖力そのものにも?」

 良く分からず首を傾げると、少し優しくなった声で弧月が説明してくれる。

「つまり、妖力自体が暴力的なのだ。だから普段は力を抑え込み人と同じ姿を取っている」
「そう、だったのですか……」

 まさか成人した貴族がそういった理由で本来の姿を隠しているとは……。
 知らなかった美鶴はひそかにかなり驚いていた。

「そのような暴力的な妖力を受けて子を成すためには、それを受け止められる受け皿が必要になる。貴族の娘は自身の妖力を受け皿にして子を成すのだ。つまり受け皿である妖力が弱ければ受けきれず流れてしまうということになる」

 弧月の説明に(さかずき)が頭に浮かぶ。
 貴族の娘の妖力が杯で、殿方の妖力が酒の様なものだろうか。

 殿方の妖力が杯に溜まれば子ができ、杯が小さく溢れて零れてしまえばできずに流れ落ちてしまう。
 少々違うかもしれないが、大まかな雰囲気としては間違ってはいないだろう。

「つまり、弧月様の妖力を受けることが出来る姫はいないということですか?」
「ああ、そういうことだ」
「ですが、それではなぜ私は身籠ったのでしょうか?」

 異能持ちとはいえ受け皿になる妖力など持ってはいないというのに……。
 その疑問に、弧月ははっきり「分からぬ」と答えた。

「平民は妖力がないからな。元より受け皿となり得ぬ。……だが、美鶴は異能を持っている。もしかするとそれが何らかの形で関係しているのかも知れぬな」
「そうですか……」

 結局美鶴が何故身籠ったのか分からないということだ。

 だが、分からないからこそ貴族の娘でも弧月の子を成すことが出来るのではないだろうかと考えるものが増えたらしい。
 その結果、とりあえず一人だけでも後宮に迎えろとうるさくなったのだとか。

「しまいには美鶴を弘徽殿に移すのを許可する代わりに、自分の娘を入内させろと言われたのだ」
「それは……」

 何と言えば良いのだろうか、と複雑な気分になる。

 自分を弘徽殿に住まわせなければ良いのでは? とも思うが、今では美鶴自身もそれを望んでいる。
 弘徽殿に移り、少しでも弧月の近くにいたいと。

 だから安易に引っ越しを止めようとも口に出来なかった。