美鶴の懐妊が分かってからというもの、弧月は毎晩のように宣耀殿へと通ってくるようになった。
 今まで通り朝には時雨を使いにして花を届けてくれているというのに、一日に一度は顔を見なければならぬとでも言うように足しげく通う。
 美鶴の悪阻が酷くないときは夕餉を共にすることもあったが、何故か対面ではなく隣に膳を置き寄り添うように食べた。

「美鶴はそれで足りるのか? 少ないし、ほとんど山菜ではないか」
「悪阻の為か、山菜に酢をつけたものが一番食が進むのです」

 無理に食べても吐いてしまうため、少しでも栄養を取るために確実に食べられるものを選んでいた。

「柑子も食べやすいのか?」
「はい、酸味のあるものの方が食べやすいようなので」

 膳の上に共に乗っていた柑子を見て聞いた弧月は、美鶴が手に取るよりも先に柑子を取る。

「え? あの、弧月様?」
「どれ、俺がむいてやろう」
「え? あ、あのっ。自分で出来ますからっ」

 食べるのは自分なのに弧月の手を汚させるわけにはいかない。
 慌てて取り戻そうとするが、早くもむき終わってしまった弧月はひと房つまんでそれを美鶴の口元へ運んだ。

「ほら、口を開けろ美鶴」
「こ、弧月様? 私、自分で食べられますよ?」

 弧月に手ずから食べさせてもらうなど、畏れ多いし単純に恥ずかしい。

「よい、俺がそなたにこうしてやりたいのだ」

 何とか断ろうとするが、ふわりと柔らかく甘い微笑みに押し負けてしまう。

「う……はい……」

 諦めて口を開けると柑子が口の中に入れられる。その際唇に弧月の指が触れ、なんとも気恥ずかしさがこみ上げた。

「美味いか?」
「は、い……」

 正直味など分からなかった。何とか感じることが出来たのは爽やかな酸味だけで、柑子そのものの味は感じる余裕がない。
 口づけも何度もしているというのに、弧月の指先が触れたというだけで口づけよりも恥ずかしい気分になる。
 そんな美鶴に、弧月はもう何度口にしたか分からない「可愛いな」という言葉を掛けるのだ。
 そして温かな手で頭を撫でてくれる。

 弧月との甘やかなひと時は嬉しいが恥ずかしい。
 まして夕餉の今は小夜も給仕のため側に控えているのだ。
 小夜の存在を気にして几帳の方を見ていたからだろうか。
 頭を撫でていた手を止め、弧月はふと思い出したように聞いて来る。

「そういえば、新たに美鶴付きにした腰元はどうだ? 安全性を考えて俺の親族から選んだが……」
(あかり)(かおり)ですか?」

 話題に上がった二人の姿を思い浮かべる。

 懐妊したということもあり小夜一人では行き届かないこともあるだろうと新たに弧月によって付けられた双子の少女たち。
 十を過ぎたばかりの裳着もすんでいない女童(めのわらわ)
 茶色の髪と目を持つ汗衫(かざみ)姿の二人にはなんと狐の耳としっぽがついており、美鶴は改めて貴族は妖なのだと実感した。

 なんでも成人前の妖は本来の姿を隠せないらしく、妖狐である二人は狐の耳としっぽが出たままなのだそうだ。

 童ということもあり、とても可愛い。
 ふさふさの耳としっぽが触り心地が良さそうで美鶴はいつも触りたくてうずうずしてしまう。
 だが、あの二人が触らせてくれるとは思えない。

(少し、嫌われているみたいだから……)

 小夜の目がないときの会話が蘇る。


『私たち、あなた様を妖帝の妻とは認めておりませんから!』
『お仕事はちゃんといたしますが、私たちの本意ではないことは覚えておいて下さいまし!』

 内裏に来て初めて面と向かって悪意――というか、不満をぶつけられた。
 不満に思う者は多いだろうと思ってはいたが、久方ぶりに向けられる不平に目を瞬かせてしまう。
 驚きつつも『平民が妖帝の妻などやはり分不相応ですものね』と返すと違うと即答された。

『確かに平民が? と驚きはしましたが、それはどうでも良いのです』
『私たちが一番不満なのは小夜姉さまのことです!』
『小夜?』

 ぷりぷり怒る二人の話では、小夜は本来腰元などするような女性ではないというのだ。
 本来は私室を持てる高位の女官なのに、教育係とはいえ妖帝の妻の側に控えていなければならないなんて……と嘆いていた。

『想い人の妻の近くにいなければならないなんて、小夜姉さまがおかわいそう』
『え?』
『小夜姉さまは隠しておられますけれど、妖帝のことを愛情のこもった優しい眼差しで見ているところをよく見ますわ』
『小夜が……?』

 小夜が弧月を優しい眼差しで見ている。
 そのような場面を見たことはなかったが、それは単純に弧月が自分を訪ねてくると小夜を下がらせ自分と二人きりになるからだ。
 小夜と弧月が美鶴の目の前で長く顔を合わせていることはない。

『今上帝は子が望めないからと以前までは妻を持ちませんでした。異能持ちの美鶴様は事情が違うということは分かっておりますが……』
『ご自身が想い人の妻になれないのに、人間でありながら妻となった者に側で仕えなくてはならないなんて……小夜姉さまが不憫でなりません』

 そうして泣き出した二人に美鶴は何も言葉を返せなかった。


(小夜が、弧月様を……?)

 そんなそぶりを見たことがないので分からないが、小夜は優秀な女官だ。
 双子の言う通り上手く思いを隠しているのかもしれない。

 それを思うと、小夜が近くにいるのに弧月と親しくするのは気が引けてしまう。
 双子の言葉が真実かどうか小夜に直接聞けばいいのだろうが、もしその通りだとしても立場上違うと答えるだろう。
 逆に本当だと言われても困ってしまう。
 知り合いも信頼できる者も少ない内裏では、自分は小夜がいなければ何一つまともに出来ないのだから。


「美鶴?」
「あ、すみません」

 考え事をして黙り込んでしまった。

(弧月様とのお話の途中だというのに)

 失敗したと反省しながら、何を話していたのかを思い出し答える。

「双子のことですよね。働き者で、十分に仕えてくれていますよ」
「そうか、それなら良かった」

 事実、美鶴のことを良くは思っていなくとも仕事はしっかりこなしている二人。
 狐の耳としっぽをふさふさと揺らしながらくるくる動く姿は本当に可愛らしくて見ているだけで和むのだ。
 親しければ触ってみても良いかと聞いてみることくらいは出来るのだが……。

 あの柔らかそうなしっぽを触ってみたいと思っていると、ふとあることを思い出した。

「あ、そういえば」

 口にして、そのまま止めてしまう。

(いえ、流石にこれは失礼では? いえ、でも聞いてみるだけなら……)

「ん? どうしたのだ?」
「いえ、その……」

 思い付きで声を上げてしまったが、流石に不敬ではないかと思い直し言葉を濁らせた。
 だが、弧月は気になるのか優しい微笑みを近付ける。

「何でも話せ。美鶴のことは少しでも多くのことを知りたい」
「うっ……は、い」

 覗き込む紅玉の目には少々意地悪な色も見える。
 近さもあって、呼吸がままならなくなるほど鼓動が早まった。

「……その、弧月様は双子と同じ狐の妖なのですよね? 本来の姿では、白金色の美しい毛並みをした耳としっぽがあると」
「……ああ、そうだな」

 二度ほど瞬きした弧月は“なんだ、そんなことか”とでもいうように頷く。
 だが、その辺りのことは少々複雑なのだと小夜に教えられた。

 妖の中でも最強の妖力を持つのは五種の鬼の一族で、みな金の目を持ちそれぞれ五行の力を操るそうだ。
 火鬼(ひおに)水鬼(みずおに)木鬼(きおに)金鬼(かなおに)土鬼(つちおに)
 時雨も水鬼の一族で、水を操るのだとか。

 中でも火鬼は特に妖力が強く、歴代の妖帝は火鬼が多いのだそう。
 先々代の妖帝も火鬼で、弧月の祖父に当たるらしい。
 先々代の妖帝の娘が妖狐の一族に降嫁し、生まれたのが弧月だそうだ。

 鬼ほどではなくとも妖狐の一族もかなりの妖力を持つ家系。
 鬼の血も受け継ぎ妖狐として生まれた弧月は、歴代の妖帝をもしのぐ妖力を持っていた。

 一番強い妖力を持つ者が妖帝となるため、弧月が帝になるのは当然のこと。
 だが、一部では狐が妖帝になるなど……と不満を抱く者もいるそうだ。

 弧月本人は気にしていないらしいが、そのせいで信用できる者が少ないのだと小夜は嘆いていた。

 そんな弧月に妖狐であることを確認し、あまつさえ――。

(本来のお姿になって、耳としっぽを触らせて欲しいなんて……やはり頼めないわ!)

 毎日双子の柔らかそうな耳としっぽを見て、弧月にもあるのだと思ったらいつか触れてみたいと思ってしまった。
 弧月は気にしていないらしいが、だからと言ってむやみに妖狐の姿になるのは良くないだろう。
 それに、普通に考えても不敬だ。

「で? それがどうしたのだ?」
「い、いえ! やはりなんでもないのです」

 話しの続きを促されたが、言えるわけがない。
 だが弧月にとっては言わぬ方が不満だったらしい。

「何でもないわけがなかろう? 俺はそなたのことを知りたいと言ったはずだ」
「あ、あの……近いのですが?」

 不満げな弧月は軽く凄むように顔を近付けてくる。
 だが、何故だろう?
 凄まれて怖いはずなのに、色気の方を強く感じた。

「言わぬなら、口が滑りやすいよう潤してやろうか?」
「こ、弧月様?」

 笑む顔だけは優しいのに、赤い目の奥には美鶴を困らせ楽しんでいるような色が見える。……意地悪だ。

 それでも言えずにいると、近付く白磁の肌は止まらず、言の葉を紡ぐはずの二枚の膨らみが美鶴のそれに触れた。
 軽く触れ、ぺろりとなめられ「ひゃっ」と驚くと、離れた弧月は楽し気に告げる。

「どうだ? 口が滑りやすくなったのではないか?」

 滑りやすいどころか恥ずかしさで熱がこもり、言葉など忘れたかのようにはくはくと動かすことしか出来ない。

「ふむ、滑りが甘いようだな?」
「っ! は、話します!」

 また舐められては敵わないと、美鶴は観念して声を上げた。

「その……さ、触ってみたいなと思いまして……」
「……」

 仕方なく告げたのだが、黙り込む弧月に不安になる。
 言いづらいことなので最後は消え入りそうなほど小さな声になってしまったのが良くなかっただろうか?
 だがこの近さだ。聞こえないということはないだろう。

「あの……」
「触りたいとは……狐の耳と尾のことか?」
「は、はい」

 普段と同じ口調で聞き返され、安堵した美鶴は弧月を見上げた。
 ただ、見えた表情は困り笑顔で。

「すまぬが、成人した妖は人前で本来の姿を晒すことはないのだ」
「あ、無理にとは――」
「そうだな……そのうち、二人だけのときにでも触らせてやろう」

 困らせるつもりはないのだと断りの言葉を口にしようとした美鶴だったが、弧月は遮り了承してくれた。

「あ、ありがとうございます」

 望みを叶えてくれるという弧月に嬉しくも申し訳ない心地になる。
 少々、自分は我が儘になってきているのではないだろうか。
 今夜はやることがあるからと清涼殿へ帰っていった弧月を見送りながら、美鶴は反省していた。