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 感情と色がわからない相手に色を教えるという行為に、意味はあるのだろうか。
 そんな不安を抱きながら迎えたオレだったけど、その不安は少し間違っていたらしい。
「……ゆきや、それでいいのかよ」
「あぁ、俺はハルトが絵を描いている姿を見せてもらえれば問題ない」
 昨日と同じように屋上へやってきたゆきやは、オレを見つけるなり少しだけ離れた場所に座りこちらを見ているだけだった。絵を描いている姿を見られるのはなんだか恥ずかしかったけど、これもオレが引き受けた事だ。文句は言っていられないと、普段通り置かれていた筆を手に取った。これでは、不安は不安でもオレが上手く描けるかの方が大きくなってしまっている。
「オレを見ても、面白い事はないからな」
「なにを、俺にはじゅうぶんすぎるくらいだ」
 パレットに置かれた色を混ぜて、ゆっくりとキャンバスへ乗せていく。掬った色はどれも鮮やかで、それに気づいたのかゆきやは興味津々に顔を覗かせていた。
「なんだか、昨日と色が違うように見えるけど」
「今日のは水彩だからな、昨日のは油絵」
 水面に色を落としていくように、筆先でキャンバスを撫でていく。あらかじめ下描きと水張りがされていたそれに乗せる色はどれも実物とは程遠いもので、けれども確かにオレの目で見たものだった。
 これが、オレの見ている世界だから。
 オレの知っている世界を、ただ乗せていく。それだけの行為をしばらくしていたところで、ふとゆきやがなにかを思ったのか顔を上げていた。
「ハルトは、いつもここで絵を描いているのか?」
「まぁな」
「美術部の個展とかが近いのか?」
「いや、オレ帰宅部だよ」
「帰宅部……なら、なぜこんなにも絵を」
「これが……オレの感情を吐き出す事ができる唯一の行為だからだ」
 これだけが、オレの逃げ道だから。
 最後の言葉は飲み込んで、また色を落としていく。
 目の前に広がるのは、間違いなくオレの見ている風景だ。けれどもそれはあくまでもオレの話であって、きっと他人の見えている色とは違う。オレだけが知っている、孤独な色。
「オレの色は、誰にも理解されないから」
 つい、自虐的に笑ってしまった。
 他の人がわからない色を、こいつがわかるはずない。
 こいつは真っ白な存在で、オレの色とは無縁だから。
 そのはずなのに、ゆきやは少しむっとした表情を貼り付けると、立ち上がりながらオレの方へゆっくりと近づいてきた。部活動の声すら届かない屋上で、オレの息遣いとゆきやの足音だけがやけに大きく聞こえた。
「けど俺は、そうは思わない」
 はっきり、言い切るように。オレの絵を見ながら、ゆきやはなぜだか嬉しそうに目を細めていた。
「俺は綺麗だと思うけどな、ハルトの色」
 そんな、思ってもいないだろう事を。
 ゆきやの方へ目を向けると案の定その言葉に色はなくて、油絵具を乗せる前のキャンバスにも似ていた。まっさらで、綺麗で眩しくて。なにものにも染まっていないその空間が、オレにはなぜだか羨ましいと思えてしまう。羨ましいなんてそんな、こいつに会うまで考えた事もなかったのに。
「お前、思ってもないだろ」
「いや……多分、ちゃんと思っている」
「なんでそんなに曖昧なんだよ」
 面白くて、つい頬が緩んだ。なんだよそれ、変な奴。
「自分でもわからなかったんだ……けど、恐らく思っている。こんなにも心が穏やかになる事は、今までなかったから」
「心が穏やかなのかオレにはわからないけど……まぁ、それならよかった」
 オレもそんな事を言われたのは初めてだから。
 どこか恥ずかしいとすら思えて、けど言葉にはせず目線を落とした。使い古したパレットにはたくさんの色が混じりあっていて、一人で重ねていた色達が散らばっている。
「……なぁゆきや。オレが、嘘つきって言われてた話は昨日したよな」
「……あぁ」
「だかっ、辛気臭い顔するなって……まぁその時にさ、本当にきっかけなんだけど絵で表現したんだ。オレが見てるのはこんな世界って……まぁ結局小学生になるまで信じてはもらえなかったけど、それからだな。自分の見ている世界を唯一共有できる方法は絵なんだって、そう思ったのは」
 だからオレは、部活とかではなく一人で絵を描いている。
 誰のためでもない、ただオレという存在を証明するためにする行為。繰り返してきたはずの形は、これから先も続いていくはずだ。
「これはオレにとって、ただの手段にすぎなかった。この悲しさと孤独を吐き出す、理解されない世界を形にする行為……ただそれだけだったけど、お前に綺麗って言われるとまぁやってて悪くなったって思えるんだ」
 証明の手段だった絵に、誰かに見られるという行為が増えた。言葉にすれば、ただそれだけの話なのかもしれない。けれどもオレにとってそれは大きなきっかけで、少しだけ浮き足立っている自覚もある。
 オレの世界は、綺麗なのか。
 オレの見ているものは、間違っていないのか。
 誰かの言葉で、それが肯定されている気分だった。他でもない、ゆきやの言葉で。
「……ゆきやは、なんで屋上にきたんだ?」
 もし昨日、ゆきやがここにこなければ。
 きっとオレは、ずっと無意味に絵を描き続けていただけかもしれない。そう思うとゆきやがここにきた理由を知りたくて、ついそんな言葉を投げつける。
「んー……もしかしたら、ハルトと同じだったのかもしれない」
「オレと?」
 なんだよ、それ。
「逃げたかったんだ、この真っ白な世界から」
「っ……」
 真っ白な、世界。
 それは一体、どんな物なのだろうか。
 言葉の色も、感情もない。ゆきやにオレの世界が想像できないように、オレだってゆきやの世界を知る方法はない。ただきっと、キャンバスのような白い世界なんだろうなって、そんな簡単な事しかオレには想像できなかった。
「あぁけど、この屋上で俺はちゃんと逃げる事ができた」
 深刻に考えはじめてしまったオレとは真逆で、ゆきやの声はどこか弾んでいる。
「立ち入り禁止札の向こうには、色があったから……俺の知らない色が乗せられたキャンバスと、ハルトがそこにいた……だからハルト、俺に色を教えてくれてありがとう」
「……役に立ったなら、まぁいいけど」
 お礼を言いたいのは、オレの方なのに。
 この行為に意味をつくってくれて、オレを見つけてくれてありがとうと。
 誰にも気づかれず逃げ込んでいた屋上でオレを見つけてくれて、ありがとうと。
 気恥ずかしくて言葉にできないそれらは飲み込んで、目の前の堅物真面目に笑ってやる。
「……じゃあ、オレちょっと気分がいいからリクエスト聞くぞ。何色がみたい?」
「いいのか? じゃあ、そうだな……春が見たい」
「春……?」
「あぁ、春だ。ハルトの見る春が、俺は見たい」
「お前、一応言っとくけど秋だぞ今」
「わかっている……だから、春が近づいてからでいい。春は暖かい色だと、昔聞いた事がある。そんな春の色を、俺は見たい」
 また難しく抽象的な事を言うと、そう思った。
 けど、聞いてやったのはオレだ。それに、こいつにいろんな景色を見せてやりたいとは思っているから。
「……わかった、ちょっと時間くれ。必ず描く、約束だ」
「あぁ、ありがとうハルト」

 白い文字に、ゆきやのキャンバスに少しだけ桃色が落とされたような気がした。
 本当に、ちょっとだけそんな気がした。
 雪に春が落ちたように、そう思えた。