旧校舎には、もう重機が入っていた。
 玄関の方には大人が集まっていて、校長先生や、歌高の卒業生らしき集団の姿もある。
 夜の解体工事は決まりで出来ないらしいが、日没と同時に機械が入るようにしたいという意向があって、解体のしるしとして、日が沈む瞬間に合わせて、時計台に一降りだけクレーンが入れられたらしい。そんな会話が聞こえてきた。
 祭りの喧騒から抜け出して、そのようすを見守っていた集まりのようだ。それぞれが思い出話に盛り上がっている。
 僕たちは旧校舎からそっと離れて、現校舎の敷地に入った。
 現校舎の体育館裏は、ひっそりと静まり返っていた。
 誰もいない。
和歌子の姿は、どこにもなかった。
――もしかして。
 背中を汗がつたう。先ほどの和歌子の言葉を思い出す。
『――わたしの本来の使命は、人々に、ささやかな幸運を与えることですので』
 僕と松野を見て、言っていた。その様子から、ふと思っていた。
 未来写真による予知能力は、はたして無限のものなのだろうかと、僕は時おり疑問に思っていた。そんな都合のいい能力を、無制限に何度も使えるのだろうか、と。
 未来写真を頻繁に撮影できなかったのも、ある程度大きな不幸が見つからなかったからではなく、彼女のチカラが限界まで弱まっている証だったとしたら?
 本当なら、彼女の触媒となる僕側のチカラの発現がもっと早ければ、ちょっとしたアクシデントが起きるだけの人を被写体にして、未来写真の撮影ができたのではないかとさえ思っていた。
 和歌子は、そのことを最初から隠していた?
 例えば、クローバー集めを終えるまでに能力を使いすぎた時に、学校は救われるけど和歌子は消えるといったペナルティがあったら?
 デパートの白河先輩の時は結局未遂だったけど、問題は、最後の、僕が松野を悲しませてしまう未来写真。
 もし、僕と松野のために撮った5枚目が、彼女にとって命取りになるとしたら。
 あの、去り際の、寂しそうな、悟ったような表情。
 嫌な想像を必死に振り払い、体育館の角のあたりまで来たとき、
「――皆さん」
 後ろから、いつもの声がした。
「……あっ!」
 和歌子が松野に飛び付いた。そのまま松野が、和歌子を受け止めた。
「……良かった……良かったよ……」安堵したような松野の声。「分霊じゃないんだ。ほんとうに、いるんだ……良かった……ほんとうに」
「――ありがとうございます、瑞夏さん。お二人も、手にタッチしてみてください」
 松野にしっかりと受け止められながら、和歌子は空いた手で孝慈と僕にハイタッチを求める。
 小気味がよい音が二回、体育館裏に響いた。
 孝慈がたった今感触を受けた手のひらを見て、嬉しそうに言う。
「外で手のひらに触《さわ》れたってことは……!」
「――はい。わたしは座敷わらしから、学校の神様になりました。でも、校舎に縛られることはありません。この体でどこにでも行けます。わたしが消えることはなく、学校の関係者に大きな不幸が振りかかることも無くなりました」
 孝慈がほっとしたように言う。
「なかなか出てこないから、心配したんだぞ」
 僕は他の二人に内容が聞こえないよう、和歌子にそっと言った。
「君はついさっきまで、僕らの前に姿を現せないような状態だった。違う?」
「――なんのことでしょうか」
「能力が弱まった君にとっては、未来写真が一葉《いちよう》増えることは、大きなツケだったんじゃないのかな」
 和歌子はため息をつく。
「結人さんに嘘はつけませんでしたか――。さすがのわたしも、もうダメかと思いましたよ。おっしゃる通り、実は未来写真を五枚以上出力するのは、ね。守り神になるのが間に合って良かったです」
「大きな不幸は帳消しになったけど、きみ自身は能力の使いすぎで、守り神になる寸前に危うく消えるところだった、と」
「そうなんです。何でもお見通しなんですね」
「改めて、僕と松野のこと、ありがとう。僕はきみの元気な声を聞くたびに、背筋が伸びると言うか、励まされているような気持ちになっていた」
 僕はふと感じたことを告げる。
「その騒がしいとこ、まるでサイレンだね」
「――幸運警報、幸運警報!発令中!なんてね。もう、一言余計ですよ、えへへ」
 和歌子はごまかすように笑ってから言った。
「――仮にもし、あのまま消えていても、わたしに心残りはなかったと思います」
「それは座敷わらしの、いいや、幸運をつかさどる守り神としての、君の使命だから?」
「――はい」和歌子は目を閉じて、胸の前に両手を当てて頷いた。神秘的なたたずまいだった。
「――さて、本格的に喜ぶのは、後にしましょう。わたしには今すぐにでも、皆さんに会わせたい方がいるのですから」
「会わせたい、人?」
和歌子は後ろを向いて、「その人物」に手招きをする。
「このタイミングで、今、僕たちに、だって?」
「松野さんと、孝慈さんも、良いですか? さっきまで、お話をしていた方がいて――」
「お話だって?」
「どうしたの?」
 和歌子はわざとらしく、緊張したような声で早口になって他の二人に言った。
 そして、僕だけに聞こえるようにつぶやく。
「――これは、わたしから皆さんに捧げる、ちいさな幸運です」
 そして、和歌子はいつもの調子で呼びかけた。
「大至急、皆さんに会わせたい人がいます!本格的に喜ぶのは後にしましょう!」
 和歌子が後ろを向いて、その人物に手招きをする。
「どうしたんだ、会わせたい、人?」
「誰なの?」
 和歌子は答えずに、僕たちの横に来る。
「――どうか、彼女とお話してください」
 彼女。僕は、一人だけ、浮かんだ。
 まさか。だけど。
 そんなの、優しすぎるよ。
 ほんとうに、優しすぎるよ……。
 手招きした場所。先ほど和歌子が出てきた体育館の角。
――そのかげから、彼女は現れた。
 輝きを失ってなお、太陽のような、その姿。
「――久しぶりだね、みんな」
 声を聞いた瞬間、胸の奥から、何かが溢れそうになった。
 そこにいたのは……。
「……すず、か――?」
 星野鈴夏。
 あの日と何も変わらない、念ノ丘中の夏服の、二年生の姿。