桜散る季節、僕は透明な音に出逢った。
生まれて初めて触れるその音を奏でる彼の瞳は優しく、暖かい。
新入生の雑踏を切り裂くように空間を震わせるそれに僕は心を奪われた。

「初めまして新入生さん?体育館は反対方向だよ」

 音の方向へ辿り着いた僕に視線を合わせる彼の瞳が僕を掴み、離してくれなかった。優しく手を取り楽器を片手に僕を入学式会場へ連れていく。

「あの……」

「……?」

「先輩の音を聴いていたいです、ここで」

 腰あたりに向いていた視線を彼の瞳に向ける。
疑問を残した彼の眼には、確かな優しさと無邪気で幼い柔らかさが宿っていた。

「そう言ってくれるのは嬉しいね、じゃあ気の済むまで隣で聴いていってよ」

 屋上、陽のあたる階段に腰掛け全感覚を左耳に傾ける。
目を瞑り、奏でられる音だけを取り込む。楽器から放たれる耳を劈くような音と、定期的に刻まれる呼吸音。きっとその音を奏でている彼の横顔は綺麗で、儚い。

「先輩」

「どうしたの?」

「……すみません、言葉になりませんでした」

 この音を僕の稚拙な言葉で語ってしまうことが美しさへの冒涜のように感じ、咄嗟に口を噤んだ。

「そっか、そんなに緊張しなくて大丈夫だからね」

 再び楽器に唇を当てる、音が脳へ響く。
不純さなど欠片も感じないほどに澄んでいて神秘的な何かを持ち合わせたその音に、僕は感じたことのない、言葉に表すことすら難しい感覚を抱いた。

 それが彼との初まりだった。

ー*ー*ー*ー*ー

 入学して数週間、俯いたままの日々が連なっていく。
『友達』と呼べる笑い合う仲間もなく独りで淡々と息をする。眩しいはずの高校生の放課後に、僕は補講に必要な荷物を抱え、廊下の端を歩いている。

「……!」

 肩に何かがあたる、声すら発せられないまま衝撃の先に目線を向ける。

「……すみません」

「こちらこそ申し訳ない……って君、入学式の時の」

 心地よく低いその声と、瞳からあの瞬間を思い出す。

「あの時の……」

「この広い校舎でもう一度会えるなんて、随分と縁があるみたいだね」

 解れた口調と、触れてしまいそうな程の距離感に鼓動がはやくなる。

「これからどこに行くの?」

「会議室に補講を受けに行きます」

「ちょうど僕もその近くに用事があったんだ、よかったら一緒に行かない?」

 半ば強引に手を引いた彼は、目的とは反対方向に足を進めた。

「先輩、教室逆方向ですよ……?」

「たぶん補講まで時間あるでしょ?ちょっと遠回りして話そうよ」

 無邪気な口調と相反した誘惑するような視線に、断るという選択肢が消え去った。

「先輩はどうして僕に優しく接してくれるんですか……?」

「それはどういう意味?」

「みんな僕を奇妙がって避けるんです、でも先輩は……」

「それは、僕が君のことをまだよく知らないからかな」

 予想もしていなかった回答に言葉が詰まる。

「知らない……?」

「君のこと、僕はまだ『後輩』っていう認識しかできてないんだよ」

 言葉に表されて気づいた。僕が一方的に彼の音に惹かれているだけで、彼からみた僕はひとりの新入生に過ぎない。何も知らない他人。
そんな当たり前すら忘れてしまうほど、僕は彼の音に心を奪われていた。

「何も知らない僕のこと……優しくしてくださってありがとうございました」

 勝手に舞い上がっていた数秒前の自分を恥ずかしく思う、ただ羞恥心を誤魔化すように足早に彼の元から去る。

「待って」

 余った袖を掴まれる。鋭く、それでも柔らかく引き留める声がした。

「まだ名前すら教えてもらってないよ」

 振り向いた先に待っていた彼の表情は微笑みと、若干の名残惜しさを含んでいた。

「詩季……神代 詩季です」

「詩季君か……素敵な名前だね、綺麗だよ」

「先輩は……」

「ん……?」

「先輩の名前、教えてほしいです」

「葉加瀬 音斗、呼びやすいように呼んでくれたら嬉しいな」

 『呼びやすいように呼んでくれたら』その言葉がこれから先も彼に近づいていいという合図なのだと思った。
自己都合な解釈だったとしても、彼なら許してくれるのではないかと期待してしまった。

「あの、音斗先輩」

「どうしたの?」

「先輩の音……また聴きたいです」

 叶うはずもない我儘を衝動に負けてぶつけてしまう。
一瞬で後悔とそれにも勝る叶うことを強く願ってしまう気持ちに駆られた。

「詩季」

「え……」

「詩季は音楽が好き?」

「音楽は……」

 僕にとって音楽は、怖いもの。
怪物のように襲い、何かを呑み込んでしまうもの。

 僕は生まれつき、音に色がついてみえる。

ー*ー*ー*ー*ー
 
『青色の悪魔が僕を襲うんだ』

 幼稚園の学芸会前日、僕が母に呟いた言葉。
音を耳にすると見えないはずの色が見えた、ピアノの伴奏も歌声も会場に響く音の全てに異なる色が見える。

「色?詩季君、音はただの音なのよ」

 幼稚園の先生から告げられた言葉で、当たり前だと思っていた感覚の違和感に気づいた。
大好きだった音楽が僕を呑み込む呪いのように感じられ、音を耳にすると足がすくむ。誰にも打ち明けることができず学芸会本番直前、僕は会場を飛び出した。
 あの日から僕はずっと音楽を避けて生きている。

ー*ー*ー*ー*ー

「音楽は……怖いです」

「怖い……?」

「音に色がついてみえるんです、小さい頃からずっと」

 躊躇いながら打ち明ける、僕の本当のこと。
過去に何度かこのことを話したことがある『この人ならわかってくれる、受け止めてくれる』という淡い期待が先行して口から放たれた真実はいつも、奇妙さを拒絶する言葉として返ってきた。
ただ彼にだけは、本当を伝えたいと思った。たとえ拒絶されたとしても、僕の本当を隠したまま終わりを迎えたくなかった。

「色か……」

「……そんなの可笑しいですよね、変なこと言ってすみません」

「どうして?」

「え……?」

「どうして『変』だなんて言葉で片付けちゃうの?」

「だって……」

 拒絶され続けた僕の本当を晒すことが怖くて仕方なかった。
僕が僕自身を拒絶して認めなければ、僕自身の感じ方を『変』だと片付けてしまえば、僕は傷つかずに済む。いつからか染みついた傷つかないための言葉の癖。

「音が色にみえるなんて素敵なことだと思わない?」

「素敵……?」

「僕にはわからない感覚だから、辛いこともあるだろうけど……詩季にしかみえない世界を見てるってことでしょ?それは素敵なことだよ」

 この世界で初めて、僕は僕を生きれられるのかもしれない。

「新入生歓迎公演に来てなかったのはそれが理由?」

「……はい」

 大好きだった音楽の感じ方が他者と違うことが、年を重ねるごとに怖くなっていった。
心地いいはずの音に目を瞑る僕を見て距離を置くあの子も、僕の感じ方を気味悪がり煙たがるあの子も、全ての視線は僕に原因があって、僕が悪なのだと思っていた。
気づいた頃には常に俯き、周囲の反応に頷くだけの人形と化していた僕に、素直さを宿してくれたのは彼だった。

「強制はしない、ただ今度は」

 躊躇いながら口を開く彼の瞳を見つめる。
放たれる言葉に期待しながら、形すらわからない何かを待っている僕がいた。

「僕の音を聴くだけじゃなくて、一緒に奏でない?」

「一緒に……?」

「そう、僕の隣で」

 優しく差し伸べられた手をとる、その一瞬が僕にとっての光となった。
案内された部室には十数人の部員と、輝く無数の楽器があった。

「ようこそ、星街高等学校吹奏楽部へ」

 初めて目にする暖かい音の色、隣で背をさする彼の柔らかさを感じながらその音の全てを取り込む。

「詩季」

「はい」

「ここの音は怖くない?」

「僕は、この音の一部になりたいです」

 もう一度、僕が本当の僕と向き合うのならこの人の隣がいい。

「部長!新入生一人入部決定しました」

 響く手を叩く音と、歓迎の声。初めて聴く祝福の音。

「僕の隣なら楽器はもう決まりだね」

「これ……」

「トランペット、吹奏楽の花形。僕と一緒に奏でてくれるよね?」

 手渡された金色を言葉すら発せられぬまま抱きしめる。
僕は、透明な音の隣で何色の音を放つのだろう。