夜になると、必ず思い起こされる記憶がある。
『さよなら』
『ママ、行かないで! ママ……っ』
何度も、何度も母を呼ぶ自分の声。たしかあの日の夜も、今日みたいに月明かりだけが道を照らすような夜だった。
母への愛着はとっくに消えて、もう今となっては顔も声も思い出すことはできないけれど。それでも当時の自分を捨てて他の男と出ていった──いわゆる不倫をした──母のことを、僕は一生許すことはないだろう。
ネオンが煌めく夜の街。ふらふらと足取りがおぼつかない酔っ払い。いかにもナンパ待ちのギャル系の女。あやしい店へと客を呼び込むメイド服の男。
視線だけを少しずつ動かしながら歩く。
「ちょっとそこの美人さん! 今ならDVDが……」
「そこの君、おーい綺麗な子! キャバとか興味ない?」
「きれーな顔してんね。どう、うちで働かない?」
「おい。そこのあんた」
ほらほら、また寄ってきた。ただ歩くだけでこの集まりようだ。
無論、無視して前へと突き進んでいけば、だいたいは諦めたように去っていく……のだが。
「ちょっときいてる? 君に話してんだよ」
「……」
ぐいっと腕を掴まれて強く引かれるものだから、いやでも身体は振り返ってしまう。真正面に立った男が、僕の身体の上から下まで舐めるような視線を寄越す。それからもう一度顔に視線を戻して目を見開き、「本物だわ」と呟いた。
まゆげ、無。全剃りかよ。
僕はその時、そんなふうなことしか思っていなかったが、興奮した様子の男は僕の手を掴んで離さない。もうかわせないかと悟った僕は、ふ、と嘆息したあと言った。
「僕、男なんで」
とびきりの、低い声で。
昔から女々しい顔立ちをしている自覚はあった。男性特有のゴツゴツした輪郭とか顔のパーツではなく、どちらかというと華奢なタイプではあったと思う。周囲からの言葉が、僕にその事実を幾度も認識させてきた。だから認めざるを得なかった、ということなのだ。
「お、とこ……?」
最初こそ困惑した表情を浮かべていた彼だが、少し視線を外して考えるような素振りをしたのち、またまっすぐ合わせてくる。
「俺別にスカウトとかじゃないし」
「っ、は……?」
「遊ぼーよ、って言ってんの」
思い返せばこいつは確かに僕を呼び止めただけだ。用件なんて聞いてない。
ぎゅ、と掴まれた手に力がこもる。意味なんて、いちいち聞き返さなくても分かった。
「だとしても、男だっつってんだろ」
「だから今考えたんじゃん。んで、答えは出た。全然イケるって」
「は……っ?」
「抱かせてほしい、って言ってんの」
なんだそれ。そんなのごめんだ。
「金はちゃんと出すから。俺、割と自信あるよ。気持ちいいコト、したいだろ?」
「ふっ、ざけんな……っ!」
強引に振り払おうとするけれど、やわな力じゃどうにもならない。周囲の人は我関せずといったように夜に溶け込んでいて、見向きもしない。
「っ、離せよ……!」
みぞおちに目一杯の蹴りをお見舞いすると、顔を歪ませた男の力が弱まる。その隙に地面を蹴って駆け出した。
「っ、おい……!」
肩で切り揃えられた月色の銀髪が、時折頬にかかって鬱陶しい。月の夜に出て行った母が、また見つけられるようにと。月を求めた彼女が、また自分を求めてくれるようにと。
そんなくだらない理由で執着しているのは、僕だけだ。
「くそ……っ」
こんな容姿じゃなかったら、もっと楽に生きられていただろうか。人を寄せつけないで、世界に隠れて生きられただろうか。
この顔が欲しいという人がいるならくれてやる。
こんな人生、嫌だ。
「おにいちゃ……どうしたの?」
最初は、自分だと思わなかった。ただ、ここに響いてはいけない音色だったことは覚えている。
がやがやと人混みに紛れる雑踏の中で、穢れのないその声は。その、姿は。
花みたいだ、と。
「こんなとこにくるべきじゃないでしょ。僕も君も」
どうして、こんなところにいるの。誰に連れてこられたの。
聞きたいことはやまほどあるのに、よごれのない瞳がまっすぐに射抜いてくるから、もう何も聞けずに口を閉じるしかない。彼女は未だ世界の何も知らない、純粋無垢な目をしていた。
「……なんさい」
「5歳」
まだ、そんだけしか生きてないの。それはちょうど僕が母親に捨てられたときくらいの年齢だ。
もっと愛情を受けて、のびやかに育つ時期だろう。なのになぜ、こんな場所で一人彷徨っているんだ。
「……おいで」
境遇が似ていた、とか。哀れに思えた、とか。
きっと、そんな理由じゃなかった。
「おにーちゃん……?」
そうか、君だけは。
「なに、5歳」
「どこ、いくの?」
君だけは、はじめから僕のことを。
「綺麗なもの、見せてあげる」
────男の子だと、言ってくれるんだな。
路地裏、差し込む月明かり。
それだけを受け、反射する瞳はやはり穢れのない透明。
「おにいちゃんの目……青だ」
「そーだね」
呟く少女に、ふっと目を細めて見せた。
ああ、いつぶりだろう。こうして何かを見つめ、笑みをこぼすのは。
「お月さまみたい……だね」
そんなふうに、僕の髪を見て花は笑った。風に揺れるみたいに、控えめで、可憐で。花のような彼女は、笑う。
「月に……なれてると思う?」
「うん。きれいだよ」
きれい、か。今まで幾度となく言われてきた言葉の重みとは全然違う。
僕が髪を染めた本当の理由は、もしかするとこの子に出逢うためだったのかもしれない、なんて。
僕らしくない、なんとも詩的なことを考えてしまう。
しゃがんで、手を広げる。首をかしげたまま動こうとしない少女は、たぶんこの行為を知らないのだろう。
恋人、家族、友人。愛を伝えるための行為。
これを日本では────
「おいで」
────ハグ、と呼ぶ。
一歩、一歩と近づいてきた少女。僕から抱きしめることはせず、ただ彼女がくるのを待った。
ぎゅっ、と。与えられたそのぬくもりは、今までの何よりもあたたかくて。
たぶん、きっと僕は。誰かに、こうして欲しかったのだ。
彼女と同じように。
「この先……つらいことがたくさんあるだろう。死にたくなる夜もたくさんあるだろう」
「……」
「だけど、君が僕と同じくらいの歳になれば、その時はきっと救いが見つかるから。その時まで、頑張って生きて」
これは、自分への暗示のようにも思えた。この世界で僕が呼吸をし続ける意味を、胸に刻みつけたかったのだ。
「また、会える?」
「きっと会えるよ」
少女の声が震えていることに気づいて、抱きしめる手の力を強める。
ぽろぽろ、ぽろぽろ。透明な雫を落として、彼女は泣いていた。
「あったかいね、おにいちゃん……」
「……っ」
そうだ、泣け。もっと泣いていいんだよ。
まだ五歳だ。もっと愛されたいに決まってる。甘やかされたいに決まっている。あたたかい布団の中で、母親の子守唄を聴きながら眠りにつきたいに決まってる。
抱きしめられて、大好きだと言われたいに決まっている。
「またいつか大きくなって、この路地裏に来た時。青い夜の日に、きっと会えるよ」
「うん……っ」
「僕も、君を守れるように強くなるから」
再会したとき、彼女が僕に気づけるように。月明かりみたいに目印になるように。
彼女が綺麗だと言ってくれた銀髪を、伸ばそう。母親のためではなく、この少女のために。
「誰ときたの?」
「……おかーさん」
「じゃあそろそろ戻らないとね」
どこにいるのか知らないけれど。こんな小さい子を連れてくるなんて、気が狂ってるんじゃないのか。
ふるふると首を振る少女は、「おかーさん、いない」と呟く。
「え?」
「どこかに行っちゃった……あたしは、おにーちゃんと、ここにいたい」
「……そっか」
じゃあ、と抱え込むようにして地面に座る。こうしていれば、あったかい。いや、夜だから少し寒いけど。
「夜が明けるまで、一緒にいよう」
母親は、焦ってこの子を探すだろうか。いや、そんなのどうだっていい。彼女の望みは、今僕と一緒にいることだ。それくらいしか叶えてやれないだろう僕は。
「朝の色はね、むらさきなんだよ!」
腕の中にすっぽりおさまった少女が、僕を見上げながらそう言った。
「夜の青色がちょっと混ざったむらさきいろ。すごく、きれいだよ」
「夜の青色か……君には、夜が青色に見えるの」
「うん。だって今も、そうでしょ?」
人気のない路地裏、差し込む月明かり。静まり返る世界を染めるのは、深い青。
「……うん。僕もそう思うよ」
名前なんて、聞かない。聞く必要なんて、ない。
ただ今日という孤独な夜を、ともに過ごした仲間……も、ちょっと違うな。
「僕はここにいるから。安心して、寝な」
こく、と返ってきたあと、すぐに聞こえてくる寝息。よほど疲れていたのだろう。がんばったね、と頭を撫でる。
青い夜は、花の香りがした。凛として咲く、紫色の花だ。
「竜胆……」
ふと、野原に咲いていた花を思い出した。
青を交えたような濃い紫色の花。少しの刺激で閉じてしまう繊細な花だと、以前誰かが言っていた。
群生することなく、それぞれが独立して咲く強さを持っているのに、本当は繊細で儚い。
「君はそんな色、かな」
夜の気配が鼻をつく。これから僕はまた何度、孤独な夜を重ねるのだろう。
今日話しかけてきた奴らの誘いにのって、仮初の愛を求める日がくるのだろう。
「考えただけで、気が滅入るよ」
この先、ともに夜を過ごす人は増えていくんだろう。だけど。
きっと今夜がいちばん美しい。そう、確信できる何かがあった。
流れる時間に身を委ね、腕の中で眠るぬくもりを抱きしめる。藍色だった空がだんだん薄くなって、キャンバスの色が伸ばされていって、紫色に染まった。竜胆色に、彼女の花の色に染まる。
「むらさき……でしょ」
「ほんとだ」
いつの間にか起きていた少女は、夜明けの淡光の中で誇らしげに笑った。
「……時間だ」
「……ん」
「戻ろう、お母さんのところに」
「……ん」
うなずくだけの少女と路地裏を出て、なお溢れる人混みをすり抜ける。
「あ、おかーさん」
前方のベンチに、着飾った女性がぽつんと座っていた。
「もう、大丈夫。ありがとう、おにいちゃん」
「本当に、大丈夫なの」
「うん。だいじょーぶ」
するりと離れていった手。途中でくるりと振り返った少女は、繊細な竜胆が花広げるように、そっと笑った。
「また、逢えるよね」
それは僕が見たなによりも、綺麗で。泣きたくなるほど、きれいで。
「またいつか逢えるといいね……青い夜に」
同じようにそう言って、笑った。
紺碧と竜胆が混ざる空の下、交わされた約束は。
きれいで、淡くて、優しい色をしていた。
今夜の記憶は、きっと彼女には残らないだろう。
けれど、それでいい。
僕が、憶えているから。
必要な運命ならば、またいつか巡り逢うだろうから。
僕はそのときまで、必死に足掻いてみせよう。己の容姿を悲観するのではなく、武器にできるようにしよう。そして、強くなろう。彼女を守れるような男になるのだ。
「ありがとう……竜胆」
そっと呟く。
今夜の出会いに救われたのは、きっと僕のほうだ。生きる希望を与えてもらったのは、紛れもなく僕なのだ。
しばらく少女と母親を見つめたまま、動くことができなかった。
母親と並んで歩くその小さな背中は、光を受けてどこまでも輝いて見えた。
「君さ。僕がそいつらのボスだって言ったら、どーする?」
12年後、竜胆の花と紺碧の夜が再び巡り逢うことになるのは────また別のお話。
-END-
『さよなら』
『ママ、行かないで! ママ……っ』
何度も、何度も母を呼ぶ自分の声。たしかあの日の夜も、今日みたいに月明かりだけが道を照らすような夜だった。
母への愛着はとっくに消えて、もう今となっては顔も声も思い出すことはできないけれど。それでも当時の自分を捨てて他の男と出ていった──いわゆる不倫をした──母のことを、僕は一生許すことはないだろう。
ネオンが煌めく夜の街。ふらふらと足取りがおぼつかない酔っ払い。いかにもナンパ待ちのギャル系の女。あやしい店へと客を呼び込むメイド服の男。
視線だけを少しずつ動かしながら歩く。
「ちょっとそこの美人さん! 今ならDVDが……」
「そこの君、おーい綺麗な子! キャバとか興味ない?」
「きれーな顔してんね。どう、うちで働かない?」
「おい。そこのあんた」
ほらほら、また寄ってきた。ただ歩くだけでこの集まりようだ。
無論、無視して前へと突き進んでいけば、だいたいは諦めたように去っていく……のだが。
「ちょっときいてる? 君に話してんだよ」
「……」
ぐいっと腕を掴まれて強く引かれるものだから、いやでも身体は振り返ってしまう。真正面に立った男が、僕の身体の上から下まで舐めるような視線を寄越す。それからもう一度顔に視線を戻して目を見開き、「本物だわ」と呟いた。
まゆげ、無。全剃りかよ。
僕はその時、そんなふうなことしか思っていなかったが、興奮した様子の男は僕の手を掴んで離さない。もうかわせないかと悟った僕は、ふ、と嘆息したあと言った。
「僕、男なんで」
とびきりの、低い声で。
昔から女々しい顔立ちをしている自覚はあった。男性特有のゴツゴツした輪郭とか顔のパーツではなく、どちらかというと華奢なタイプではあったと思う。周囲からの言葉が、僕にその事実を幾度も認識させてきた。だから認めざるを得なかった、ということなのだ。
「お、とこ……?」
最初こそ困惑した表情を浮かべていた彼だが、少し視線を外して考えるような素振りをしたのち、またまっすぐ合わせてくる。
「俺別にスカウトとかじゃないし」
「っ、は……?」
「遊ぼーよ、って言ってんの」
思い返せばこいつは確かに僕を呼び止めただけだ。用件なんて聞いてない。
ぎゅ、と掴まれた手に力がこもる。意味なんて、いちいち聞き返さなくても分かった。
「だとしても、男だっつってんだろ」
「だから今考えたんじゃん。んで、答えは出た。全然イケるって」
「は……っ?」
「抱かせてほしい、って言ってんの」
なんだそれ。そんなのごめんだ。
「金はちゃんと出すから。俺、割と自信あるよ。気持ちいいコト、したいだろ?」
「ふっ、ざけんな……っ!」
強引に振り払おうとするけれど、やわな力じゃどうにもならない。周囲の人は我関せずといったように夜に溶け込んでいて、見向きもしない。
「っ、離せよ……!」
みぞおちに目一杯の蹴りをお見舞いすると、顔を歪ませた男の力が弱まる。その隙に地面を蹴って駆け出した。
「っ、おい……!」
肩で切り揃えられた月色の銀髪が、時折頬にかかって鬱陶しい。月の夜に出て行った母が、また見つけられるようにと。月を求めた彼女が、また自分を求めてくれるようにと。
そんなくだらない理由で執着しているのは、僕だけだ。
「くそ……っ」
こんな容姿じゃなかったら、もっと楽に生きられていただろうか。人を寄せつけないで、世界に隠れて生きられただろうか。
この顔が欲しいという人がいるならくれてやる。
こんな人生、嫌だ。
「おにいちゃ……どうしたの?」
最初は、自分だと思わなかった。ただ、ここに響いてはいけない音色だったことは覚えている。
がやがやと人混みに紛れる雑踏の中で、穢れのないその声は。その、姿は。
花みたいだ、と。
「こんなとこにくるべきじゃないでしょ。僕も君も」
どうして、こんなところにいるの。誰に連れてこられたの。
聞きたいことはやまほどあるのに、よごれのない瞳がまっすぐに射抜いてくるから、もう何も聞けずに口を閉じるしかない。彼女は未だ世界の何も知らない、純粋無垢な目をしていた。
「……なんさい」
「5歳」
まだ、そんだけしか生きてないの。それはちょうど僕が母親に捨てられたときくらいの年齢だ。
もっと愛情を受けて、のびやかに育つ時期だろう。なのになぜ、こんな場所で一人彷徨っているんだ。
「……おいで」
境遇が似ていた、とか。哀れに思えた、とか。
きっと、そんな理由じゃなかった。
「おにーちゃん……?」
そうか、君だけは。
「なに、5歳」
「どこ、いくの?」
君だけは、はじめから僕のことを。
「綺麗なもの、見せてあげる」
────男の子だと、言ってくれるんだな。
路地裏、差し込む月明かり。
それだけを受け、反射する瞳はやはり穢れのない透明。
「おにいちゃんの目……青だ」
「そーだね」
呟く少女に、ふっと目を細めて見せた。
ああ、いつぶりだろう。こうして何かを見つめ、笑みをこぼすのは。
「お月さまみたい……だね」
そんなふうに、僕の髪を見て花は笑った。風に揺れるみたいに、控えめで、可憐で。花のような彼女は、笑う。
「月に……なれてると思う?」
「うん。きれいだよ」
きれい、か。今まで幾度となく言われてきた言葉の重みとは全然違う。
僕が髪を染めた本当の理由は、もしかするとこの子に出逢うためだったのかもしれない、なんて。
僕らしくない、なんとも詩的なことを考えてしまう。
しゃがんで、手を広げる。首をかしげたまま動こうとしない少女は、たぶんこの行為を知らないのだろう。
恋人、家族、友人。愛を伝えるための行為。
これを日本では────
「おいで」
────ハグ、と呼ぶ。
一歩、一歩と近づいてきた少女。僕から抱きしめることはせず、ただ彼女がくるのを待った。
ぎゅっ、と。与えられたそのぬくもりは、今までの何よりもあたたかくて。
たぶん、きっと僕は。誰かに、こうして欲しかったのだ。
彼女と同じように。
「この先……つらいことがたくさんあるだろう。死にたくなる夜もたくさんあるだろう」
「……」
「だけど、君が僕と同じくらいの歳になれば、その時はきっと救いが見つかるから。その時まで、頑張って生きて」
これは、自分への暗示のようにも思えた。この世界で僕が呼吸をし続ける意味を、胸に刻みつけたかったのだ。
「また、会える?」
「きっと会えるよ」
少女の声が震えていることに気づいて、抱きしめる手の力を強める。
ぽろぽろ、ぽろぽろ。透明な雫を落として、彼女は泣いていた。
「あったかいね、おにいちゃん……」
「……っ」
そうだ、泣け。もっと泣いていいんだよ。
まだ五歳だ。もっと愛されたいに決まってる。甘やかされたいに決まっている。あたたかい布団の中で、母親の子守唄を聴きながら眠りにつきたいに決まってる。
抱きしめられて、大好きだと言われたいに決まっている。
「またいつか大きくなって、この路地裏に来た時。青い夜の日に、きっと会えるよ」
「うん……っ」
「僕も、君を守れるように強くなるから」
再会したとき、彼女が僕に気づけるように。月明かりみたいに目印になるように。
彼女が綺麗だと言ってくれた銀髪を、伸ばそう。母親のためではなく、この少女のために。
「誰ときたの?」
「……おかーさん」
「じゃあそろそろ戻らないとね」
どこにいるのか知らないけれど。こんな小さい子を連れてくるなんて、気が狂ってるんじゃないのか。
ふるふると首を振る少女は、「おかーさん、いない」と呟く。
「え?」
「どこかに行っちゃった……あたしは、おにーちゃんと、ここにいたい」
「……そっか」
じゃあ、と抱え込むようにして地面に座る。こうしていれば、あったかい。いや、夜だから少し寒いけど。
「夜が明けるまで、一緒にいよう」
母親は、焦ってこの子を探すだろうか。いや、そんなのどうだっていい。彼女の望みは、今僕と一緒にいることだ。それくらいしか叶えてやれないだろう僕は。
「朝の色はね、むらさきなんだよ!」
腕の中にすっぽりおさまった少女が、僕を見上げながらそう言った。
「夜の青色がちょっと混ざったむらさきいろ。すごく、きれいだよ」
「夜の青色か……君には、夜が青色に見えるの」
「うん。だって今も、そうでしょ?」
人気のない路地裏、差し込む月明かり。静まり返る世界を染めるのは、深い青。
「……うん。僕もそう思うよ」
名前なんて、聞かない。聞く必要なんて、ない。
ただ今日という孤独な夜を、ともに過ごした仲間……も、ちょっと違うな。
「僕はここにいるから。安心して、寝な」
こく、と返ってきたあと、すぐに聞こえてくる寝息。よほど疲れていたのだろう。がんばったね、と頭を撫でる。
青い夜は、花の香りがした。凛として咲く、紫色の花だ。
「竜胆……」
ふと、野原に咲いていた花を思い出した。
青を交えたような濃い紫色の花。少しの刺激で閉じてしまう繊細な花だと、以前誰かが言っていた。
群生することなく、それぞれが独立して咲く強さを持っているのに、本当は繊細で儚い。
「君はそんな色、かな」
夜の気配が鼻をつく。これから僕はまた何度、孤独な夜を重ねるのだろう。
今日話しかけてきた奴らの誘いにのって、仮初の愛を求める日がくるのだろう。
「考えただけで、気が滅入るよ」
この先、ともに夜を過ごす人は増えていくんだろう。だけど。
きっと今夜がいちばん美しい。そう、確信できる何かがあった。
流れる時間に身を委ね、腕の中で眠るぬくもりを抱きしめる。藍色だった空がだんだん薄くなって、キャンバスの色が伸ばされていって、紫色に染まった。竜胆色に、彼女の花の色に染まる。
「むらさき……でしょ」
「ほんとだ」
いつの間にか起きていた少女は、夜明けの淡光の中で誇らしげに笑った。
「……時間だ」
「……ん」
「戻ろう、お母さんのところに」
「……ん」
うなずくだけの少女と路地裏を出て、なお溢れる人混みをすり抜ける。
「あ、おかーさん」
前方のベンチに、着飾った女性がぽつんと座っていた。
「もう、大丈夫。ありがとう、おにいちゃん」
「本当に、大丈夫なの」
「うん。だいじょーぶ」
するりと離れていった手。途中でくるりと振り返った少女は、繊細な竜胆が花広げるように、そっと笑った。
「また、逢えるよね」
それは僕が見たなによりも、綺麗で。泣きたくなるほど、きれいで。
「またいつか逢えるといいね……青い夜に」
同じようにそう言って、笑った。
紺碧と竜胆が混ざる空の下、交わされた約束は。
きれいで、淡くて、優しい色をしていた。
今夜の記憶は、きっと彼女には残らないだろう。
けれど、それでいい。
僕が、憶えているから。
必要な運命ならば、またいつか巡り逢うだろうから。
僕はそのときまで、必死に足掻いてみせよう。己の容姿を悲観するのではなく、武器にできるようにしよう。そして、強くなろう。彼女を守れるような男になるのだ。
「ありがとう……竜胆」
そっと呟く。
今夜の出会いに救われたのは、きっと僕のほうだ。生きる希望を与えてもらったのは、紛れもなく僕なのだ。
しばらく少女と母親を見つめたまま、動くことができなかった。
母親と並んで歩くその小さな背中は、光を受けてどこまでも輝いて見えた。
「君さ。僕がそいつらのボスだって言ったら、どーする?」
12年後、竜胆の花と紺碧の夜が再び巡り逢うことになるのは────また別のお話。
-END-