手のひらで、スマホが震えた。
『らんからこの先俺ともう付き合うことはないって言われる夢を見てさ』
『嫌って思うってことは無意識に取られたくない、付き合いたいって思ってるのかもしれない』
たった数行なのに、指先の感覚が鈍くなる。
やっと前に進めると思っていたのに。
胸の奥が、またぐらぐら揺れ始める。
『直接話さない?』
わたしからカフェで話すことを提案した。
文章じゃ真の気持ちは理解しにくい。
直接話すことで顔から読み取れることもあるだろうから。
カフェのドアを開けた瞬間、甘い匂いと暖かい空気が頬に触れた。
それでも、心の奥だけが、冷えたままだった。
向かいに座る彼は、いつもと同じ顔で笑っていた。
「正直言って付き合うことはもうないと思ってた」
カップに指をかけたまま、持ち上げられない。
ココアの表面がわずかに揺れていた。
まるで、わたしより先に答えを知っているみたいに。
「らんがこの先だれかと付き合うって思ったら嫌だ。
でも、まだ好きの感情がよくわからない」
「好きじゃないのに付き合わせるのは申し訳ないよ」
隣の席の笑い声が、近く感じる。
店内には音楽が流れているはずなのに、そこだけ切り取られたみたいに浮いている。
「付き合いたいかって訊かれたら迷う」
言葉にした瞬間、自分の中の曖昧さがはっきりと形になる。
逃げ場がなくなる。
「……そうやんな。もう仲良い男子もいるみたいやし。
話聞く限り俺より幸せになれそうやし、迷うことなんかないよな」
「……」
「でも、俺の中の優先順位はまだゆらんがいちばんだから」
「……っ」
一瞬、意味がわからなかった。
彼の言葉は、わたしの心にまっすぐ届いた。
まっすぐな瞳からそらせなかった。
そんな、心をかき乱すようなこと言わないでよ。
本名で言わないでよ。
心臓が、がうるさい。
「な、んなの、……こっちから行けば引く。
他の人にいきそうになると追いかける! 矛盾しすぎ!」
言葉をぶつけながらも、視線だけは逸さなかった。
「いや、そうやんな。ごめん。
でも、俺、自分の気持ちちゃんと確かめてみるから、だから……らんも」
「わかった、よく考えてみるよ」
息をひとつ飲み込む。
「最後に、優先順位がいちばんなのって、わたしのこと特別に想ってるって勘違いするよ?」
少し意地悪な質問をしてみた。
どうか、それは違うって言って。
そうすれば、わたしの気持ちは決まってもう悩まないから。
なのに、
「いいよ!」
と満面の笑顔で期待外れのことを言う。
逆になにも言えなくなった。
外に出ると、空気が少し冷たくなっていた。
その日の帰り道。
信号待ちをしている萌奈を見かけた。
下を向いたまま、赤信号なのに歩き出そうとしていた。
思わずわたしは、
「萌奈!?」
走ってその手を引っ張った。
腕を掴んで引き寄せると、そのままバランスを崩して、ふたりでしゃがみこんだ。
「ゆ、らん……?」
顔を上げた萌奈の目には涙が溜まっていて、いまにも溢れそうだった。
「なにやって! じゃなくて……なにかあったの?」
叫びそうになるのを、飲み込む。
しばらくなにも言わなかった。
遠くで、ブレーキの音がかすかに揺れた。
その間、喧騒が、やけに大きく聞こえた。
「今日ね……好きだった人の命日なんだ」
「……え」
驚愕しながらも萌奈の言葉に耳を傾ける。
彼女は、ぽつりぽつりと話し始めた。
萌奈には彼氏がいたらしい。
その人は去年の今日自ら命を絶った。
彼のほうから萌奈に惹かれて付き合ったみたいだ。
「なにが原因なのかはずっとわからないまま」
明確な理由はわからないが、最期に
『ありがとう。幸せだった。
無理して付き合わせて迷惑かけて悪かった』とメッセージを遺したそうだ。
「迷惑なんて思わない。相談してくれないほうが迷惑だよ」
「……萌奈」
吐き捨てるようにいった彼女はすべてを諦めたような顔をする。
わたしじゃ彼女を救えないのかな。
そんな経験もないわたしが偉そうなこといえる立場じゃない。
言葉に詰まる。
すると、今度はぼろぼろに泣き出す。
「あいつがこの世界からいなくなるなんて思ってもなかった!」
打ちひしがれてる彼女の肩を優しく撫でる。
「最初はそんなつもりなかった。ただの友だちで。
告白されたから付き合った」
息が、少し震える。
「一回も……好きって言えなかった」
声が、かすれる。
「いなくなってからやっと気づいた。
だいすきだったって」
涙が、落ちる。
「もう、なにも返ってこれないのに」
あぁ、萌奈はこんな想いをずっとひとりで抱えていたのか。
こんな深い悲しみになんで気づけなかったんだろう。
「わたしはただ、あいつに生きていてほしかった。
ただそれだけでよかった」
うんうん、と萌奈の呟きをただひたすら肯定する。
「生きている限り、あいつの気持ちは理解できない。
だから、もういいの。わたしもそっち側にいきたいの」
たしかに絶対理解できないだろう。
他人の気持ちですら、理解できないのだから。
「まって!」
再び死のほうへ向かおうと左足を出そうとする彼女の手を掴む。
「ごめん。萌奈が死にたいくらいこんな想いしてるときに引き止めてごめん。
でも、言わせてほしい」
彼女とは視線が交わらない。
わたしが言えることはきれいごとしかないのかもしれない。
でも、それでも、伝えたい。
「萌奈、救えなかったとか思わなくていいんだよ。
萌奈が責任を感じる必要なんかないよ」
「……」
「でも、自死を選ぶことを否定はしない。
それもひとつの答えだもの」
わからない。正しいとか、間違っているとか。
わたしには決められない。
だから、わたしにできることは――
「……矛盾してるじゃん」
萌奈が呆れたようにボソッと呟く。
それでも、その声は少しだけ力が抜けていた。
「でもさ、わたしは萌奈に生きていてほしい! それはうそじゃない、事実だよ。
きっと彼氏さんもおんなじことを思ってるよ」
わたしが萌奈に生きることを望んでると意見を言うだけ。
どうか死にたいなんて言わないで。
「……ない。彼氏じゃない。もういないんだもん」
首を横にふる彼女にわたしははっきりと言い切る。
「彼氏でしょ。
萌奈たちは一度も別れ話をしていないんだから」
「それ新しく彼氏つくったら二股にならない?」
「なる……いや、ならない!」
「……もう! 結蘭は適当なことばっかいって」
テンポよく言い合ったあと、萌奈は、涙をふいて呆れたように少しだけ笑みを浮かべた。
それから「まあ、そんな結蘭が好きだし、いいところだと思うけど」と言い添えた。
萌奈がゆっくり立ち上がって朧げな瞳で空を見上げる。
「ずっと幸せになっちゃいけないと思ってた。
でも、もういいのかな」
「え」
「もしほかのだれかのことを好きになっても許してくれるのかな?」
これが萌奈なりの弱音なのかもしれない。
はじめて頼ってくれたのかもしれない。
今度は、虚ろな瞳をしながら、わたしに問いかける。
「あたりまえじゃん!
萌奈の幸せがきっと彼氏さんの幸せになるよ。
萌奈がこの先ずっと引きずってだれのことも好きにならないでいたら彼氏さんは悲しむよ。
そうやって萌奈に不幸せになることを願ったの?
ちがうでしょ? 幸せになっても、いいと思う」
信号が青に変わる。
さっきまで止まっていた車が、一斉に動き出した。
萌奈はまだ生きているんだから。
この世界できっと萌奈はまただれかのことを深く愛せると思う。
彼女は、溢れ出る嗚咽を飲み込むようにしばらく苦しそうに泣いていた。
泣き声が小さくなっても、手だけは離さなかった。



