結局、なにかはわからないままだが、たとえなんであっても構わなかった。そこに絃の存在価値が生まれるのならば、それでよかった。

 危険を承知に──最期の、罪滅ぼしを。恩返しを、しようと思った。

「……わたしは、この結婚に後悔はしていません。まだ正式な婚姻は結んでおりませんが、そのときが来たら士琉さまの妻になりたく存じます」

「絃……」

「でも、お鈴は……あの子には、暇を出そうと思っているんです」

 桂樹はふむと目を瞬かせただけであったが、士琉はさすがにぎょっとしたのか絃を凝視した。正気か、とその眼差しに問いかけられた気がして、絃は微笑で返す。

「もうそばにはいられない、と言われました」

「お鈴にか?」

 絃は頷く。

「あんなふうに、お鈴がわたしをはっきりと拒絶したのは初めてで……少し、受け入れられなくて。でも今、こうして話していてふと思い至ったんです。この拒絶はもしかしたら、本当は十年前に言いたかったことなんじゃないかなと」

 お鈴が千桔梗の悪夢に責任を感じていることには、絃とて気づいていた。
 絃の専属侍女になると言ってくれたのも、あれからずっと絃を護ろうと心身を捧げてくれているのも──すべてはあの日、自分が絃を外に連れ出してしまったからだと思っている。
 そして『今度こそ護る』と事あるごとに口にするのを鑑みると、おそらく絃を護り切れないまま気絶してしまったことも気にしているのだろう。
 その責任感ゆえに、お鈴は絃に己のすべてを捧げようとする。
 ずっと一緒にいるのだ。気づかないわけがない。
 けれど、お鈴はお鈴で、身の内に抱えているその罪悪感を生きる理由としていることも知っていたから、なにもできなかった。どうしようもなかった。

「お鈴は優しい子です。いつまでもわたしが縛っていていいような子じゃない。拒絶されたのは哀しいけれど……きっと、いい機会なのだと思います」

 絃を傷つけてしまったと、彼女は泣いていた。
 その気持ちを、絃が理解できないわけもない。
 だって今のお鈴は、かつての自分とそっくりなのだ。
 もう誰も傷つけたくなくて、大切な人を自分のせいで喪いたくなくて、この呪われた身を封じようと決めたあの日の自分と。
 だからこそ、彼女のそばにはいられないという訴えは痛かった。
 絃が今もなお抱き続けている思いと、ぴったり重なってしまったから。

「……本当に、それでいいのか? 絃」

「はい、士琉さま。わたしはお鈴に、幸せになってほしいんです」

 もう縛りつけたくはない。お鈴はお鈴の人生を歩んでいってほしい。
 そう願っているからこそ、哀しさと淋しさを呑み込んででも別離を選択する。
 心がぼろぼろと砂のように崩れる痛みはあるけれど、絃は彼女の主だから。
 突き放す役目を背負うのは、お鈴ではない。絃の方だ。

(変わるのも、変わらないのも、恐ろしいけれど……。変わり始めてしまった歯車を止めることなんてできないのだから)

 せめて、と思う。
 せめて、願うことだけは、祈ることだけは許してほしいと。
 大切なお鈴の幸せを、これからの道行を想うことだけはどうか、と。

「──絃さん、君は賢い。だが、賢いからこそ誰よりも臆病だね」

「え……?」

「傷つける痛みも、傷つく痛みも知っているというのは、まことに難儀なものだな」

 桂樹は憂いたため息を吐いて、絃を見た。

「人が人を想うというのは、とても難しいことだよ。ままならないことばかりだ。心は常に移ろいゆく。不変ではない。だからこそ、愛しいのだがね」