士琉はどうしたものかと逡巡し、しかし当主の命には逆らえないのか嘆息した。
 小声で「すまん」と律儀にも謝ってから、絃を軽々と横抱きにする。

「っ、士琉さま」

「楽にしていてくれ」

 士琉は絃を抱えたまま器用に部屋の戸を閉め、桂樹のもとへ向かう。
 桂樹の褥の横に座した士琉は、絃を手放すことなく、己の(もも)に座らせた。一方でこの状況に不満があるのか、どこか不服そうな面差しは隠しもしない。

「見るからにそう怖い顔をするな、士琉。説教をするわけでもあるまいし」

「父上は手厳しいゆえ。絃を傷つけるようなことを言わないか、心配なんですよ」

 相も変わらず、白檀の香が焚かれている室内。
 とりわけ、以前と変わった様子は見られない。
 だが、部屋の中心に敷かれた褥に横たわる桂樹は、また少し痩せただろうか。目を縁取るような黒い(くま)が、さらに濃さを増していた。

「なにがあったのかはわからないが、そういう絃さんの姿を見ると安心するな。初めてここに顔を見せてくれたときは、泣く余裕すらもなかったようだったから」

「え……?」

「覚悟を決めたような顔をしていた。どんなに傷ついても……傷つけられても甘んじて受け入れる、という。まるで生贄(いけにえ)にされた娘のようだったよ、君は」

 思いもよらない指摘をされ、絃はぼろぼろと涙を零しながら(ほう)けてしまった。そんな絃の反応がまたおかしかったのか、桂樹はくつくつと喉を鳴らして笑う。

「実際、そのようなものではあったがな。当主の命による政略結婚など、世間一般ろくなものではない。絃さんもよく受け入れてくれた」

「そん、な……」

「まあ、君には断るという選択肢もなかったのかもしれないけれど」

 ──桂樹がこうして話を振ってくれるのは、きっと彼なりの気遣いだろう。哀しみに囚われた絃の心が、一時でも異なる方角を向くようにしてくれているのだ。
 その優しさの在り方が、士琉とよく似ていた。
 たとえ血は繋がらずとも、確かに親子なのだと感じられる。
 それが、今の絃にはすごく温かかった。

「……嬉し、かったんです。縁談のお話を、聞いたとき」

 涙腺が壊れてしまったのか、一向に止まる気配のない涙を流し続けながら、絃は曖昧に笑う。笑えているのかは定かではなかったが、これは笑顔で伝えたかった。

「わたしにも、やっとお役目ができる……って。とても、嬉しかったんです」

 頬を濡らすものを拭い、絃はもう一度噛みしめるように告げる。

「なので桂樹さまの仰る通り、どんなことも受け入れる心持ちではありました」

 まだそう昔の話ではないのに、どうしてかひどく懐かしく感じられた。
 瞼を下ろして過去の記憶を覗き込めば、あのときの決意がほのかに蘇ってくる。

(そう……わたしはあの日、自分の役割ができて嬉しくて。兄さまが、月代が望むのならなんでもしようと思った。こんなわたしが役に立つのなら、たとえどんなことも厭わないって思っていた。桂樹さまには、それを全部見抜かれていたのね)

 弓彦から縁談の話をされたとき、正直最初はからかわれているのかと疑った。
 自分のようなものに縁談が来るはずはないと思っていたし、たとえ来たとしても月代の足枷になりかねない縁談など弾かれるだろうと期待もしていなかったから。
 なればこそ、冷泉家の方から縁談を持ち掛けてくれたことも、弓彦がそれを受けるつもりでいることも信じられなくて。
 けれども、弓彦は絃が嫁ぐことで月代に〝利〟があるのだと断言してくれた。