漆幕 幽暗の別離


 翌日の夜、絃は意を決して自らお鈴に会いに行くことにした。
 結局今日もお鈴が姿を現すことはなかったが、絃の食事を運んできてくれた女中に尋ねたところ、お鈴はちゃんと侍女の職務を全うしているらしい。ただ、絃に関する全般は『合わせる顔がないから』と本家の女中に代わってもらっているという。

(お鈴がそんなふうに思う必要はないのに)

 このまま会えない時間が長引けば、きっとそのぶん溝が深くなって、こじれていってしまう。お鈴がどんな選択をしようと絃は尊重するつもりだが、まずは一度きちんと話してからだ。でないと胸に渦巻くこの靄つきは消えてはくれないだろう。

「……お鈴」

 枕元に控えてあった護符を身体に貼り、絃は結界を出る。
 ちなみにこの護符は、結界から出なければならないとき用にと、茜がわざわざ自作して持ってきてくれたものだ。
 さすが結界術に通暁(つうぎょう)する家系の出だけあり、その護符の質は絃が身体で察知できるほど有能だった。身体に貼っただけで周囲の空気すらも浄化されるのだ。
 祓札ではないため、正確には空気中に蔓延る邪気を効能範囲外に弾き出していると捉えるべきなのだろうが、それにしても高精度すぎる。
 これが氣仙の次期当主の実力かと思うと、末恐ろしい感覚にも陥るけれど。
 なんにせよ、この護符のおかげで絃は安心して結界の外へ出ることができるようになった。少なくとも屋敷のなかならば、そこまで不安もついてはこない。

(誰も、いない……)

 戸襖を開けてそっと外の様子を窺うと、廊下の燭台はすでに火が消されていた。
 闇を薄く伸べて敷いたかのような暗い板の間が続いているが、外から(しと)やかに差し込む月桂(げっけい)のおかげで、目が慣れれば歩けないほどではない。

「お鈴は、もう寝てしまっているかしら……」

 冷泉本家はとにかく敷地が広い。廊下は細かく枝分かれしているし、どこを曲がればどこに辿り着くのかを把握するのにも苦労する。
 ひとまず厠へ向かう道順のみ覚えたものの、下手に横道に逸れれば絃の借りている客間に戻れなくなってしまいそうだ。さすがにそれは困るため、まずは覚えている道を辿りながら探すことにして、絃はひとり、暗い廊下を進む。
 やがて知らない大廊下の前まで辿り着いたとき、絃はその奥からなにかが落ちる音を聞いて肩を跳ね上げた。

(っ、なに……? 誰か、いる?)

 暗闇のなか目を凝らして見れば、それは畳まれた手拭のようだった。まず床に散らばったそれらを認識し、戸惑いながら視線を上げた絃は、思わず息を呑む。

「お、嬢さま……」

 そこにいたのは、絃と同じように目を見開き、立ち尽くしているお鈴だった。
 まさか本当に遭遇できるとは思っておらず、しばし思考が停止する。
 お鈴もお鈴で、まさか絃が夜中に結界を出て屋敷を徘徊しているとは思わなかったのだろう。一瞬、幽霊でも見たような顔をしていたが、すぐに表情が歪む。
 絃が一歩足を進めると、反射的に一歩後ろへ下がるお鈴。
 お鈴、と呼びかけようとすれば、ぶんぶんと(かぶり)を振りながら彼女は声を荒らげた。

「近づかないでくださいっ……!!」

「っ……!?」

 あまりに耳を疑う言葉が飛び出して、絃は絶句した。

(な、に……? お鈴は、なんて言ったの?)

 閑寂とした廊下にこだましたそれは、嫌に反響して。
 どれだけ信じたくなくとも、その拒絶ははっきりと絃の鼓膜にこびりついた。

「……ごめんなさい。でも、もうだめなんです。お鈴は大事なお嬢さまを傷つけてしまったから。こんなの、いちばんあってはならないことなのに」

「ち、違うわ、お鈴。あれは憑魔が……」

「憑魔だろうがなんだろうが、お鈴がお嬢さまを攻撃したことは事実です!」

 その絶叫に、絃はびくりと肩を跳ね上げる。

「護らないといけないのに、護りたかったのに、よりによってお鈴がお嬢さまを……っ」

 かたかたと震えるお鈴は、自分の身をぎゅっと抱え込んで俯いた。

「怖い……怖いんです。また傷つけてしまうんじゃないかって。そう思ったら、恐ろしくて恐ろしくて、お嬢さまに会いに行けなかったんです」

 絃が茫然としているあいだに、お鈴は散らばった手拭いをすべてかき集めた。
 畳み直す余裕もないのか、乱雑に丸めたそれらを腕いっぱいに抱えて、お鈴は一歩、二歩と後ずさる。涙で濡れた双眸が、絶望をはらんでこちらを向いた。

(ああ……)

 その瞬間、絃は杞憂が現実となったことを悟った。
 だって絃を見つめるお鈴は、かつての自分と同じ目をしていたから。

「……申し訳ありません、お嬢さま。お鈴はもうお嬢さまのそばにはいられません」