「絃が関わるものすべて、どんなに些細なことでも蔑ろにしたくない。たとえ重いと言われても、だめだ。それほどに俺は君を想っているし、今後もきっと一生、命ある限り想い続ける。だから、すまない」
諦めてほしい、と。
どうしたって愛してしまうから、もうここに来た時点で愛されない道などないのだと受け入れてほしいと。
士琉は、恋い余るように、そう言った。
「っ……どうして、そこまでわたしを」
「言葉を尽くして伝えきれるものなら、とっくにしているさ」
恋慕という名の激情を向けられる絃もまた、喜怒哀楽の感情の境目を失っていた。
ぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、自分が今なにを考えて、なにを思っているのかもわからない。こんなにも静謐な空間が、たちまち鼓動の音で満たされる。
ただ、ひとつだけ。
そうして愛されることを、むしろ望んでいる自分に気がついてしまった。
(ああ……もう、逃げられない)
目霧る不快さを感じながら、絃は唇を震わせた。
つう、と。堪えきれなかった涙がひと粒、頬を流れる。
「……それは、なんの涙だ? 絃」
静かに問いかけてくる士琉は、しかしその答えをわかっているのだろう。
絃が嫌がって流した涙なら、敏感な彼はすぐに察して離れるに違いないから。
(士琉さまはずるい方ね)
今、彼がこうして絃と向き合っている事実こそ、すべてを表しているのだ。
そんな士琉だから、心に隙間ができてしまった。
これまで必死に目を向けないよう否定し続けていた気持ちを、受け入れざるを得なくなってしまった。とてもではないけれど、もう、逃げられない。
「士琉さまは、ずるいです……っ」
──そう、絃は愛されたかった。
本当はずっと、愛してもらいたかった。
でも、愛されてはいけない存在だから、愛される資格なんてないから、受け入れてはならないと己を押さえつけていた。愛さないでほしいと願っていた。
けれど、それでも、愛してくれる者たちがたくさんいることは知っていたのだ。
心ではちゃんと感じ取っていた。
感じ取るたびに、つらかった。ただ、苦しかった。
だって、そんなふうに逃れようのない愛を注がれてしまったら、もう否定できなくなってしまうから。
与えられる愛を、受け入れたくなってしまうから。
(それでも、ずっと、逃げてきたのに)
最期の希望が残る道を前に、無情な通せんぼを食らった気分だ。
交錯した気持ちが悲鳴をあげて、痛い。ただただ、痛い。
「君を愛せるのなら、ずるくてもいい」
士琉は絃と絡めていた手をそっと解くと、乱れた絃の前髪を優しく払った。
夜中だからだろうか。やけにひんやりとした手の感触が肌を滑る。そうして顕になった絃の額に、士琉はわずかに触れるだけの口づけを落とした。
「絃の憂いをすべて拭えるような存在でありたいんだ、俺は」
「憂い、なんて」
「だから、お鈴のことも話してくれて嬉しかった。少しは心を開いてくれたのかと」
士琉はどこか寂寥を含んだ眼差しを落としながら、微笑を浮かべる。
「──絃。俺はやや口下手な自覚があるし、千隼のように巧みな言葉で返すのは難しいかもしれない。それでも、努力はしよう」
「努力……ですか……?」
「ああ。例えば、なにか心に重しをかけられるようなことがあったとき、それを共に持ってやれるような。そんな夫に」
起き上がった士琉は、絃のことも支え起こしながら穏やかに言を紡ぐ。
向けられる瞳にはまだ熱の余韻があるが、心地よく感じられるほどの温かさだった。