「これでもう、月代の外は危険だって姉上もわかったでしょ? だから反対だったんだよ、僕は。最初からやめといた方がいいって言ってたじゃないか」

 いきなりなにを言い出すのかと、絃は辟易しながら燈矢を受け止める。

「なにを言ってるの、燈矢ったら」

 確かに燈矢は最後までこの結婚に反対していたが、今さら帰るだなんて。そんな無責任なことはできない、と絃が口を開く前に、弓彦が「絃」と名を呼んだ。

「いいんだよ、帰ってきても」

「え……」

 まさか弓彦にまで帰郷を認められるとは思わず、絃は絶句してしまう。

「絃が帰りたいのなら、いつだって千桔梗に帰ってきたらいい。絃はあの場所にいい思い出はないかもしれないけど、それでも故郷なんだから」

 弓彦は物柔らかに告げると、絃の頭にそっと手を置いた。昔から変わらない、幼子を諭すような兄の触れ方だ。士琉の包み込むような撫で方とは違う。

「月代を羽ばたいた絃に、私はもうなにも命じられない。だからね、これからの人生の歩み方は自分で決めなさい」

「自分、で……」

「幾多もの選択肢を吟味するんだよ。幸せの基準で選ぶのではなく、どの道がいちばん自分の望む道なのかを考えるんだ。そうすれば、どんな道でも後悔しないから」

 弓彦は、当惑を隠せない絃に優しく笑う。
 それから、どこか過去を思い馳せるように絃を見つめた。

「──ねえ、絃。ごめんね」

「え?」

「ずっと昔……私は絃にひどいことを言ってしまったでしょ」

 意図的なのか否かはわからないけれど、あのときと同じ呼びかけ。おかげで、その脈絡のない謝罪がなにに対して向けられているのか、すぐにわかった。

『ねえ、絃。……どうして言いつけを破ったりしたんだい』

 若くして当主の座を継ぐことになった弓彦が、絃にぶつけた悲愴な本音。
 怒鳴りつけるわけではなく、耐えかねて思わず零してしまったというような──。
 だからこそ絃の心に杭を打った、嘘偽りのない言葉。
 絃が言いつけを破ったせいでこうなったんだ、と。
 絃が両親を殺したのだと、そう言われているような気がした。

(わたしはあのとき、自分の罪を思い知って……。思えば、その言葉が結界にこもるきっかけだった)

 けれど、まさか弓彦がその些細なひとことを憶えているだなんて。

「あのころの私は、情けなくも余裕がなくてね。絃のせいではないのに、絃にすべてを背負わせ、つい追い込むようなことを言ってしまった。ずっと気にしてはいたんだけど、なかなか話すきっかけがなかったんだ」

「そ、そんな……。兄さまが謝ることではありません」

「ううん。……少なくとも私自身、そのひとことに攻撃性があることを理解していたから、今も心に残っているんだよ。絃を傷つけるとわかっていたのに、八つ当たりしたんだ。当主としていちばんしてはならないことなのにね」

 そばで聞いている燈矢は、絃と弓彦を順に見て当惑を浮かべている。その場にいなかった彼からしてみれば、初めて聞く事実だったのだろう。

「──自分が当主になって痛感したよ。父上も母上も絃のせいで命を落としたのではなく、いち祓魔師として任を果たせなかったから、結果的にそうなってしまったんだってね。残酷なようだけれど、ひとことで言えば実力不足だ」

「それは違っ……!」

「我々は命を賭けて祓魔師の仕事をしてるから。己の命の責任は、いかなる状況でも己にある。父上や母上もそれは重々承知していたはずだ」

 だから、絃のせいではないと言うのだろうか。

(……いいえ。たとえそうだとしても、わたしの罪は消えない)