わからない。わからないけれど、なんとなく、そうではない気がした。

(だって、憑魔から感じる陰の気は、妖魔とは比べものにもならないもの)

 絃は昔から、陰の気に敏感だった。
 空気に含まれるもの、人が纏うもの、闇が生むもの──陰の気の発生源は多岐に及ぶけれど、それらをすべて肌で感じることができるのだ。昔は月代の者なら誰でもそうなのだろうと思っていたけれど、どうやらそんなことはないらしい。
 なにはともあれ、あれほど濃く凝縮された陰の塊である憑魔は、きっと並の霊力では祓えないと直感が告げている。せいぜい身体から弾き出せるだけだ。

(と、とにかく、どうにかしなくちゃ……っ)

 たとえ弾き出せても、祓えていない以上はふたたび憑かれる可能性が高い。
 そもそも、継叉の力を容赦なく振りかざしてくるお鈴に触れるとなると、最悪、己の命を引き換えにすることになるだろう。
 お鈴を救えるのなら命を賭すのも(いと)わないけれど──もしうまくいかなかった場合、自分が死んだ後、この月華の人々が危険に晒されてしまうかもしれない。

 そうなったら元も子もない。絃とて、さすがにそれは避けたかった。
 しかし幸か不幸か、お鈴は脇目も振らずに絃を追いかけてきてくれている。
 継叉のお鈴を相手に逃げ切れるはずもないが、もう屋敷のすぐそばだ。
 幸いにも、周囲に人はいない。
 たとえ追いつかれたとしても、被害に遭うのが自分だけならば──。
 肩で荒く息をしながら立ち止まり、絃は筋肉が悲鳴を上げている足をどうにか鼓舞して振り返った。だがその瞬間、お鈴が地面を蹴り、大きく跳躍する。

「っ──!」

 視線が絡んだ。
 光を灯さぬお鈴の瞳。しかし、そこには涙の粒が浮かんでいた。それが頬を流れていくのと同時、振り下ろされる鋭利な爪が陽の光に反射して(きら)めく。
 目を瞑ることさえできなかった。
 視界のすべてが、やけにゆっくりと流れゆく。
 それをどこか遠い意識のなかで眺めながら、お鈴の手でこの命を狩られるなら悪くはないのかもしれない──なんて、あまりにどうしようもないことを考える。
 だが、そうはならなかった。

「絃っ!」

 目にも追えぬ勢いで狭間に駆け込んできた者がいたのだ。
 あわや絃を突き刺すかと思われたお鈴の爪は、太刀の(むね)にて阻まれる。そのまま弾き返されたお鈴は、ごろごろと地面を転がったものの、すぐに立ち上がった。
 彼女が警戒するように姿勢を低くし睨めつけた先は、絃を片腕に抱いて全身に水を纏う士琉だ。右手には抜身(ぬきみ)の太刀を構えている。精緻な昇龍彫(しょうりゅうぼり)金鍔(きんつば)が華やかに目を惹き、絃はしばし茫然とそれに見入ったあと、己を抱き竦める士琉を見上げた。

「しりゅう、さま」

 ぽつり。呟くように零れた声に、士琉は絃へ視線を落として小さく顎を引く。

「すまない。遅れたな」

 珍しく額が汗ばんでいることからも、相当急いで駆けつけてくれたのだろう。わずかに乱れた呼吸を整えながら、士琉は絃をさらに自分の方へ引き寄せた。

「無事か? 怪我は?」

「だ……大丈夫、です。すみません、助かりました」

「なにが起こっているのかわかるか」

 お鈴を複雑そうな面持ちで睥睨しながら、士琉は端的に尋ねた。
 絃を抱きしめる力は強いが、軍士の顔だ。そこに甘やかさはいっさいあらず、絃はこくりと息を呑む。

「わたしも、なにがなんだか……。ですが、おそらくお鈴は憑魔に乗っ取られているのだと思います。お鈴の陰に憑魔が飛び込んだところを見ました」