士琉は、なにを言われたのかわからないとばかりに、ぽかんとした。困惑を隠しきれない様子の彼に、絃はさらに言い募る。
「あの、さきほどの火事の現場です。わたしたちはお買い物をしながらお戻りをお待ちしておりますので……。本当に、気になさらず大丈夫ですから」
「な、なにを言う。せっかく君と出かけられたのに置いていけるか。それに、このようなときに仕事を優先する旦那など、絃だって嫌だろう?」
「嫌ではございません。とても、格好いいと思います」
自分でも驚くほど、絃はいっさいの迷いもなく即答していた。
絃は、士琉の仕事に対する誠実さを心から尊敬しているし、夫になる相手として誇りに感じてもいる。その程度のことで嫌だなんて思うはずもない。
「士琉さまは、多くの人々から必要とされている存在で……。同時に、護るべきものをたくさん抱えている身でもあるでしょう? ですから、そのすべてを差し置いてわたしを優先する、というようなことは、どうかしないでほしいのです」
「絃……」
「火の手が相手なら、士琉さまの水龍のお力だって必要とされるはずですし」
もしかするとこれは、天秤にかけるようなことではないのかもしれない。
優しい士琉にとっては酷な選択でもあるだろう。
されども今、士琉の心を覆う憂いを取り除ける選択ならば、きっと間違ってはいないと思うのだ。これでもし怪我人が出たりしてしまったら、それこそ彼は己を責めるだろうから。そうして士琉が思い悩んでしまう方が、ずっと苦しい。
(士琉さまには、士琉さまの大切にしているものがあるもの)
少なくとも絃は、自分と共にいることで彼の心を追い詰めてしまう関係性は、本意ではない。たとえ夫婦となっても、これまで士琉が地道に築いてきた在り方を変えてしまうことだけは避けたかった。
なによりも、絃のため、と大切なものを取捨選択させたくない。
「お願いします、士琉さま。行ってください」
「……本当に、いいのか? お鈴とふたりで大丈夫か」
「お鈴はとても強い子ですので、大丈夫です。もし日が暮れてしまいそうなら、先にお屋敷へ帰りますね。南小通りの角っこ、ちゃんと覚えましたから」
士琉は眉間を指先で揉み解しながら天を仰いだ。
屋敷を出る際に『護る』と言った手前、そばを離れることに抵抗があるのだろう。
それでも絃の懇願を受けて苦渋の決断に至ったのか、やがて首肯した。
「では、行かせてもらう。様子を確認したらすぐに戻るから待っていてくれ」
「はい。いってらっしゃいませ」
「……絃」
ふいに右肩を掴まれ、導くように引き寄せられる。
とん、と。気づけば絃の額が前髪越しに士琉の胸元に当たっていた。
自分が抱きしめられているのだと気づいたときには、すでに恥じらいは頂点。くらりと眩暈を引き起こしながら頬を紅潮させた絃は、士琉を見上げる。
「絃の優しさに甘えてしまう自分が情けない。どうか嫌わないでくれ」
「き、嫌うだなんて」
「……君に愛想を尽かされたらたまらないんだ、俺は」
感情を押し殺したような哀愁漂う声で答え、士琉は絃の耳元に口を寄せた。普段よりもなお低く、それでいてぞくりとするほど艶を含んだ声が耳朶を撫でる。
「行ってくる」
そう言い残して向かい側の屋根に飛び乗り、士琉は南方へ颯爽と駆けていった。
羽織がひらめく残像を捉えた瞬間には、もう絃の見える範囲に姿はない。あの人並外れた速度なら、事件現場へもあっという間に到着するだろう。
「継特の方たちって、屋根の上を移動するっていう決まりでもあるんですかねえ」
「っ……お、お鈴」