いつも持ち歩こうかと考えるときもあるけれど、月華に千桔梗がない以上、万が一失くしてしまったら取り返しがつかない。
 だからこうして、元気をもらいたいときだけ取り出すようにしているのだ。

「文は、いろいろと考えすぎてしまったときなどに、たまに読み返していて」

「それは……なにか、効果が(もたら)されるのか?」

「ふふ、すごく落ち着くんですよ。もう何度も読んでいるから、内容もすべて覚えているのですけど。でも、綴られた文字を追っていると胸が温かくなります」

 桐箱を箪笥の奥に仕舞い直し、絃は改めて士琉に向き直った。

(そういえば士琉さま、軍服じゃない……。それに、髪が少し濡れてる?)

 湯浴みを済ませてきたのか、士琉は藍染の着流しを身につけた軽装だ。
 この様子だと、ずいぶんと前に帰宅していたのかもしれない。戸を開ける音はしなかった気がするが、きっと起こさないようにと気を遣ってくれたのだろう。
 ますます出迎えられなかったことを後悔し、絃はしゅんと肩を落とす。

「すみません、士琉さま。わたし、お帰りになったのにも気づかず……」

「いや。寝ているやも、と音を立てぬようにしていたからな」

 士琉は絃の頭を軽く撫でると、縁側のそばに置いた座布団へ腰を下ろした。手招きされた絃はおずおずと隣に座ろうとするが、思いがけず士琉に止められる。

「絃」

 おいで、と言わんばかりに両手を広げられ、絃は中腰のまま硬直する。
 どう動くべきか迷って「あの、でも」と狼狽えていれば、痺れを切らしたらしい士琉に手首を掴まれた。そのまま軽く引き寄せられ、絃は顔から士琉の胸に飛び込む。

(!? えっ、どういう……っ?)

 盛大に混乱しているうちにひょいっと抱えられ、体勢を整えられた。気づいたときには士琉の膝の上で横抱きにされており、絃はわけもわからず士琉を見つめる。

「嫌か」

「へ、あ……い、いいえ。嫌では、ございませんが……」

 問いかけられ我に返れば、じわじわと恥じらいが生まれ出す。
 すぐそばに士琉の美麗な顔があるだけでも怖じ気づきそうなのに、あろうことか全身を包まれているこの状況。鼻腔をくすぐる湯浴み後の清涼な香りが妙に毒で、絃はきゅっと身体を縮めて小さくなった。
 すると、頭上で士琉がおかしそうに小さく笑う。

「なんだ。そうわかりやすく緊張されると、悪戯したくなるな」

 するりと絃の長い髪を指先で()いた士琉は、そのまま毛先に口づけた。思わず顔を上げてそれを凝視してしまった絃は、もはや隠しようもなく頬を赤らめる。
 夜だから、だろうか。
 いつも凛とした佇まいを崩さない士琉が気怠げな雰囲気を纏っていて、それがなおのこと、彼の色香を艶やかに妖しく引き立たせていた。
 絃を愛おしそうに見下ろす瑠璃の瞳は、くらりとするほど甘い。

「こうしていれば温かいだろう。眠たくなったらそのまま寝てくれ」

「さ、さすがにそれは」

「そうか? 残念だ」

 くつくつと笑う士琉に、絃は唇を引き結ぶ。
 士琉も温もりが欲しくなったのか、あるいは気まぐれか。なんにせよ慣れない触れ合いにそわそわしてしまう。さすがに兄とも、ここまで密着したことはない。

(これも、士琉さまが仰っていた〝足掻き〟……?)

 けれど、確かに温かかった。士琉と密着している部分から伝わってくる人の温もりは久しく感じていなかったもので、次第に波立っていた心が落ち着いてくる。
 少し迷いながらも頭を士琉の方へ預けると、士琉はそっと優しく撫でてくれた。

「トメの件、気を揉ませたな。すまない」