「まあ、なんだ。俺にとっては今この状況こそがすでに理想だからな。絃が目の前にいて、触れることができて、君が生きていることを直接感じられる〝今〟ほど、望むことはない。むしろこうなるために、俺は今日まで生きてきたんだ」

「そ、れは、どういう」

 ──冷泉家に、桂樹に拾われてから、ひたすら冷泉のために尽くしてきた。養子だからと侮(あなど)られないよう、どんなことでも己にできうる限りの努力を重ねてきた。

 血の繋がらない跡取りである自分が、冷泉の名を貶(おとし)めてしまわぬように。
 だが、その裏には常に暗澹(あんたん)とした思いと葛藤(かっとう)があった。懊悩(おうのう)は尽きず、重圧に圧し潰されそうになったのも一度や二度の話ではない。
 それでも(くじ)けずに来られたのは、かつて交わした約束があったからだ。
 風口(かざくち)蝋燭(ろうそく)のごとく曖昧なものではあったけれど、約束を思えばどんな苦境でも乗り越えられた。強くなりたいと、ならなければと、必死だった。

 継叉特務隊に入隊したのも、その一環。
 結果的にその選択が士琉の不安定な立場を強固にしてくれたというだけで、最初から国のために、民のためにと模範軍士のような高い志を持っていたわけではない。
 不純な動機、なのだろう。
 たったひとりの心恋(うらこ)う相手のために、軍士になるなんて。
 無論、民を護りたいという思いが強くあるのも嘘ではないし、今や立場的にそういった私情を挟めぬほどの責任も背負っている。
 けれども、やはりその核たる部分は変わっていないのだ。
 たったひとりを護れぬ者が、多勢を護れるわけもない。入隊したあの日から胸に据えているその信条こそ、まさに士琉が戦う理由であり、目的だった。

(……絃と出逢わなければ、きっと今の俺はいなかったからな)

 彼女の存在は、士琉にとって運命そのもの。
 たとえ一方的な想いから成り立つものだとしても、今さらなかったことにはできやしないのだ。この十年で取り返しのつかないほど人生を綾なしたそれは、きっと一生絡みついたまま解けることはない。
 だからこそ。

「すまない、絃。君が俺を好きになってくれるまで、少々足掻(あが)かせてもらう」

 ──どうか覚悟していてくれ。

 真っ直ぐに瞳を見据えそう告げた士琉に、絃はようやく反応を示した。人形のようにぴくりとも動かなくなっていた彼女は、俯いて小さく肩を震わす。

「わ、わた、わたし、あの……っ」

「いや、大丈夫だ。なにも言わなくていい」

「でも」

「いいんだ。これはただ、俺の心を伝えておきたかっただけだから」

 瞬く間に頬を赤らめたその様子が愛しくて、ああやはり幸せだと思う。
 思わず抱き寄せようと伸ばした手を寸前で自制し、ぽすんと軽く頭を撫でるだけに留め、士琉は改めて心に誓った。

(──絶対に君を護ってみせる。もう二度と、あんな顔をさせやしない)

 脳裏に蘇るのは、遠い遠い、過去の記憶。
 まるで鋭利な硝子屑のように、士琉の深い部分に突き刺さっている記憶の欠片。

 すべての、始まり。

『……し、にたい……いと、も、しな……せて……』

『そんなことを言うな……っ。せっかく君は生きているのに』

『や、だ……もう、いらない……いと、なんて、もう、いらない……』

『……わかった。なら、君の命は俺がもらう』

『…………え……?』

『いらないのなら、俺がもらう。〝いと〟の人生を、俺にくれ』

 真っ赤に染まった血の海のなかで、誰もいなくなってしまったと彼女は壊れた人形のように静かに泣いていた。