「ん? ああ、問題ない。それよりも改めて屋敷を案内せねばな」
もしや聞こえていたのかと、一瞬ひやりとする。
継叉特務隊──ひいては灯翆月華軍が保有する情報はどれも極秘事情。報告書の内容などはとくに、一般の民へ聞かせられるようなものではない。
思い種になってしまわないか懸念はあるが、余分な情報を知ることで危険に巻きこまれる可能性もあるのだ。いくら絃相手でも教えることはできなかった。
「絃、君はまずここでの生活に慣れることに専念してほしい。この屋敷内ならばひとまず安全だから、しばらくは好きに過ごしてくれ」
「好きに、でございますか?」
「ああ。気の向くままに。俺は明日から仕事に出なければならないから、どうしても日中は共にいられないのだが……。家のなかに慣れてきたら、護符を貼って近場を散歩してみるのもいいと思う。月華は目新しいものがたくさんあるからな」
「……近場」
無意識なのか、絃の声が憂いを帯びてわずかに低くなる。
試しに言ってはみたものの、やはり護符を貼っていても結界から出るのはまだ恐ろしいのかもしれない。
(いや、当然だな。あまり焦らず、ゆっくり慣らしていかねば)
絃の事情は、おおかた把握している。ゆえに彼女が極端に外の世界を恐れていることも知っているし、嫁入りしたからといって無理をさせるつもりはなかった。
むしろ、いかにその恐怖と不安を和らげてやれるかが問題だろう。
日頃安心して過ごせる場として万全な妖魔対策を施した屋敷を用意したのも、絃が過ごすであろう主要箇所にトメのような信頼のおける者を配置したのも、すべては絃を想ってのこと。迎える前にできることは、手を尽くしておきたかった。
「あ、あの、士琉さま。ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「ん?」
平静を装って返答しながらも、内心どきりとする。なにか不快なことをしてしまったかと焦るが、続いた問いかけは大きな衝撃を士琉に与えた。
「士琉さまは、どのような〝妻〟を求めておられますか」
「……は?」
「士琉さまが描く理想の妻像を教えていただきたいのです。その……なるべく、そうあれるように心がけるためにも」
こちらを懸命に見上げる瞳はあまりにも健気で、見るからにか弱い。瞬刻でも目を逸らせば、水沫のように一瞬で消えてしまいそうで。
そんな絃を前にするとつい触れて存在を確かめたくなってしまうのだが、今それをしてしまったら、今後警戒されてしまうかもしれない。
さすがにそれは困るので、ぐっと堪えて思考を急速に巡らせる。
(理想の妻、か)
正直なところ、どれだけ考えたところでこの問いかけに対する答えの正解など絶対に導き出せないとわかっていた。しかし、せめて言葉を選ぶ必要はある。
誤解をさせぬように。そして、政略結婚ゆえの嘘だと思われてしまわぬように。
「そう、だな……。ただ、」
「ただ?」
「……ただ、そばにいてくれるだけでいい。いや、せめて手の届く範囲に……俺が君を護ることのできる場所にいてほしい。それで俺は十分、幸せだ」
このようなことを言ったら、また戸惑わせてしまうことはわかっていた。
だが、士琉の心がまことに望んでいるのは、昔も今もそれだけ。
理想の妻、など人生で一度も考えたことがないくらいに、士琉のなかには常に絃の存在がある。それを愛と呼ぶのか恋と呼ぶのかは、わからないけれど。